橋本の多津美旅館で、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【2】

2013年12月24日(火)


橋本の多津美旅館で過ごす聖夜、続きです。

橋本遊廓ノ起源ヲ歴史に徴スルニ今ヨリ千二百餘年前即チ神龜元年中人皇第四十五代 聖武天皇
山崎ニ寺院ヲ建立シ給ヒ寶寺ト稱シテ勅願所トナシ毎年奈良ヨリ勅使ヲ差遣サレタリ 當時附近ノ川
ニ橋ナク不便ナルヨリ神龜三年行基菩薩ガ山崎ノ橋ヲ造ル其レヨリ此橋ノ東ノ袂ヲ橋本ノ津ト称シタ
リ / 程ナク此處ニ一軒ノ茶店建テラレテ通行人ノ休息所トナシ茶汲女ヲ置キテ之レガ接待ヲ爲サシ
メタル
(橋本貸座敷組合 『橋本遊廓沿革誌』 1937 以下、引用文中の改行は 「/」 で表記)

八幡町遊廓は京都府綴喜郡八幡町字橋本に在つて、京阪電鐵橋本醳以西が全部遊廓の許可地
に成つて居る。明治十年の創立で、歌舞伎で有名な 「引窓」 の 「橋本の里」 が今遊廓の在る所だ。
(中略) 女は主に中國、四國、九州方面が多い。店は陰店式で、娼妓は居稼ぎもやれば、又送り込
みもやつて居る。遊興は勿論時間花制又は通し花制で廻しは絶對に取らない。費用は一時間遊び
が一圓で、引過ぎからの一泊は五六圓だ。
日本遊覧社 『全国遊廓案内』 1930)

家を出ても、行くあてはなかったが、財布の底をはたいて 「橋本」 までの切符を買った。旧京阪電車
の橋本というところに、離れ島のような遊廓があると聞いていた。遊廓以外のところでは働く方法を知
らなかった。 (中略) もと住んでいた京都の廓とはくらべものにならないような片田舎であったが、此
処なら誰にも見つからず済むかも知れないと思った。
川野彰子 『廓育ち』 所収 『狂い咲き』 1964)

「来年の春には、ああいう町も無くなるんやろ。そしたら質屋さんも打撃を受けるね」 / 咲山は廓の
ことを、ああいう町とかあんな店といった。その言葉に心情を表しながら、一方では我が家の心配をし
ていた。
「あんな町、無くなったらいいんです」 / 三十三年四月一日からの売春防止法の施行
は、半年後に迫っていた。
(里人十枝子 『くるわの質屋』 所収 『廓の質屋』 1986)

という橋本の町。名湯・橋本湯へ行き、その帰りにちょっとブラブラしてみました。

【本記事の内容は、全て筆者個人の主観に基づくものです】


アホなことをしてるうちに、時間は21時。ぼちぼち、風呂へ行くことにします。
売防法施行後の転業策として掘削された 「淀川温泉」 もまた現在に伝える多津美旅館ですが、
好きな時に入っていいと言われたので後回しとし、先に名銭湯の誉れ高き橋本湯へ入るべく、外出。
『八幡市誌』 によると 「淀川温泉」 、23度の炭酸温泉は神経痛やリウマチに効能があったとか。


橋本湯があるのは、多津美旅館の前の道 = 京街道 = 旧々京阪国道を、西へ歩いたところ。
改めて言っときますが、近くに店類はかなりありません。橋本湯の看板が遠くから視認できるほど。
「淀川温泉」 による再開発は、結局、失敗。転業旅館への送水管なども敷設されたそうですが、失敗。
ゆえに、往時の町並がそのままの形で残ったとも言えますが。で、橋本湯の湯も当然、普通の湯。


で、橋本湯であります。私のヘボ写真ではこの風格が伝わらんのが、無念であります。
昼間に撮ると、闇の中で輝く風情が捉えられない。夜に撮ると、破風のニュアンスが捉えられない。
おまけに真正面から撮るには、背後が狭過ぎる。己の肉眼と五感で感じるしかない、美しき銭湯です。
定休が月曜日の、橋本湯。この日の前日は祭日+月曜でしたが、この日は営業してました。


料金は、410円。艶っぽくもあるタイルの玄関を越えて中へ入ると、ごく普通の銭湯です。
改装されてきれいな浴室では、背中で色彩のブルースを歌ってる方が悠々と闊歩されてましたが。
脱衣場では、近所のおじさんたちが麻雀について熱く語り込み中。番台でもおばちゃんが話し込み中。
というわけで、そそくさと入浴して、退散。湯冷ましを兼ねて、しばらく夜の町をうろつきましょうか。


そういえば橋本湯、最近CMに出てました。瀬川瑛子が出てる、トドクロちゃんって奴
橋本、こんな感じなので、ロケは無論多し。一番有名なのは、 『鬼龍院花子の生涯』 でしょうか。
「花子って結局、誰?」 問題を解決すべく追加されたように見えなくもない、冒頭&末尾の橋本場面。
でも 「お父さん、おねがい、たすけて」 と書かれた手紙を川に流すラストは印象的な、あそこです。


で、手紙を流してたあの川 = 大谷川が、淀川へ流れ込む場所こそ、こちらの橋本樋門。
イントロで引用した 『廓の質屋』 によると、当時の大谷川、手紙の他にも色々と流れております。
川の曲った所に水草が生えている。草の間に花柄の布のような物が見えた。布団のように思ったが、
膝まである水を蹴って近づくと、うつ伏せになった女の水死体だった。 ( 『廓の質屋』 )


里人十枝子は、橋本の郷土作家。写真は、樋門を過ぎて淀川へ注ぐ川。上は、旧国道。
男衆が長い竿を持って出てきた。 / 死体にしばらく手を合わせ、それから口の中で念仏を唱えなが
ら竿で押しやった。 (中略) 橋脚にひっかかると突き、深い所で藻にからまると力強く押しやった。国
道の下までくると、男衆は一礼して引き返した。暗渠を越すと大阪府だった。 ( 『廓の質屋』 )


橋本樋門の傍には、小金川樋門あり。この小金川が、京都と大阪の府境となります。
ちなみに 『廓の質屋』 は、橋本で質屋を開いた家の娘・彩が、独特の距離感で廓を見つめる話。
「このことは誰にも言うなよ」 / 私たちは互いに友達と顔を見合わせて頷いていた。この間、川沿い
の家からは誰も出てこなかった。廓は結束の強い町だった。 ( 『廓の質屋』 )


聖と性が交錯する境界領域で、死と生が交錯するのもまた、道理といえば道理。
土左衛門のみならず大砲で戦死者が出るドンパチが、幕末維新の頃にはこの辺で行われました。
京阪間の警護を固めるべく、幕府は橋本に陣屋を設置。で、それが鳥羽伏見の戦いで、ズタボロ化。
樋門から踏切を渡った先には、空き地 aka 橋本砲台跡もあります。で、その空き地を望むの図。


あ、忘れてましたが、さっきの写真の辺、既に大阪府です。大阪府枚方市です。
普通なら標識類がある府境ですが、この辺はそういうのがなく、知らない間に越境するわけです。
さっきの空き地の辺から山側へ歩いた場合、こちらのぴっかり食堂の辺からがまた、京都府八幡市。
八幡が誇る塩ラーメンの名店、ぴっかり食堂。復活を激しく希望しつつ謎の看板を眺めるの図。


で、ぴっかり食堂から駅へ向かうと現われるのが、歌舞練場兼芸娼妓慰安余興場。
第一次大戦の好景気で日本中の遊廓が発展した大正11年、その勢いに乗って建てられました。
とはいえ、そのすぐ後にやってきた恐慌+農村崩壊により、橋本遊廓は芸妓が激減+娼妓が激増。
検黴の場所にも困り、昭和4年にはここが兼検査場の貸座敷組合事務所 aka 検番となります。


で、遊廓廃止後は、電気工事店が入ったりした後、現在は天寿荘という名でアパート化。
昔は、屋根に凄い数のTVアンテナが立ってましたが、近年減少。天寿を全うしつつあるようです。
それにしても、こんな結構デカい歌舞練場を転用しないと検黴もできないとは、尋常ではありません。
橋本遊廓の最盛期は、昭和12年頃。当時の娼妓数は、675人。対して芸妓数は、3人でした。


その昭和12年発行の 『橋本遊廓沿革誌』 には、歌舞練場の内部らしき写真が載ってます。
らしい造りに見えるハコです。が、芸妓が片手で数えられる程度では、 「をどり」 など到底、無理。
原作には登場しない橋本遊廓が、映画 『鬼龍院花子』 に於いて花子の死に場所と設定されたのは、
「片田舎」 の荒んだ廓へ落とすことで、花子の零落を強調する意図があったのかも知れません。


あ、ひょっとすると歌舞練場が建つ辺りもまた、幕末の橋本陣屋跡地に相当するかも。
で、そのすぐ隣にある御覧の津田電線工場跡地 = 現在駐輪場は、多分間違いなく、陣屋跡地。
中川家礼二の鉄道本で確か、橋本駅は津田電線のために出来たと書かれてた気がするんですが、
工場開業は京阪開通後+従業員も100人以下で、駅は当然、遊廓のために造られたわけです。


明治43年の京阪電車開通+橋本駅開業は、この町に大きな繁栄をもたらしました。
戊辰戦争で丸焼けとなり、鉄道が対岸に開通し、宿場町として死に体化した、明治初頭の橋本。
そんな窮状を脱すべく、橋本は明治20年に遊廓を再興。京阪開通はその強烈な追い風になったと。
御覧のメインストリート・京街道には大楼が建ち並び、 「不夜城」 の様相を呈したわけであります。


京街道を北東へ歩き辿り着いたのは、かつて山崎への渡し船乗り場に通じていた橋。
いや、『鬼龍院花子』 で夏目雅子が渡った橋ではありません。あれは多分、今は亡き小金川橋。
全ての呪縛を振り払うかの如く、橋を渡って廓を抜け、空の下を一人歩く夏目雅子 = 松恵の、背中。
美しいラストカットでしたね。ただ八幡人的には 「駅、そっちちゃいますよ」 と言いたくなりますが。


橋が小金川橋で正解なら、松恵が歩いたのは写真右の旧国道 or そこへの石段のはず。
建物に遮蔽されない空が拡がる場所は、廓町にはなし。橋の近くならば、旧国道しかありません。
即ち、京阪橋本駅とは逆方向。というか、京阪と延々平行して歩くことになります。誰か止めたげて。
あ、でも映画冒頭で松恵は石段を降りてたので、山崎から渡し船に乗ったのかも知れませんが。


松恵は、高知の人。省線で真っ直ぐ山崎まで来て、そこから渡し船の方が、自然かも。
と、無駄な推測をしながら眺める、淀川。かつて渡し船が走った辺りは、御覧のように漆黒の闇。
「橋本」 の名の由来となった橋の消滅以後、山崎と橋本は長らく渡し船によって繋がれていました。
『蘆刈』 で谷崎潤一郎が乗ったのも、その船。闇の中にある剣先で、 「男」 に出会うわけです。


そんな風情も、あるいは地獄も、昭和33年に施行された売防法により全てが終了。
以後半世紀以上の時間をかけ、橋本はゆっくりと、でも確実に、終わり続けてるわけであります。
地元の人間だと、消滅した建物の何が記憶に残ってるかで、年代がわかったりするかも知れません。
私は、御覧の駐車場に建ってた洋館が一番好きでした。消えたのは、90年代前半頃でしょうか。


半世紀以上の時間は、廓の建物を消すのみならず、新たな遺産をも生み出してます。
遊廓廃止で税収の3分の1を喪失した当時の八幡町は、観光開発+橋本の住宅地開発に注力。
名だたる恐怖スポットであるビルマ僧院 aka 血の病院 aka 軍人病院も、その時代の痕跡ですが、
最大のとばっちり遺産は、こちらの石清水八幡宮境外摂社・狩尾神社 aka プリン山でしょうね。


売防法施行直後、八幡町は橋本宅地化計画地の保安林指定解除を、府に要望。
結果、荒っぽい開発が行われ、氏神・狩尾神社は周囲が削られまくって、プリン山と化しました。
反省した行政は、より計画的な開発を開始。八幡を 「八幡市」 にした男山団地の建設へ向かいます。
写真は、神社から宅地を見るの図。良い眺めですが、山崎側からここを見ると完全にプリンです


この神社がプリン山と化してなければ、男山団地建設はなかったかも知れない。
それ以前に遊廓が廃止になってなければ、宅地開発そのものが行われなかったかも知れない。
宅地開発が行われてなかったら、40歳以下の八幡人の多くは生まれてない可能性もあるはずです。
遅かれ早かれ何らかの開発はやってたとも思いますが、それでもやっぱり何か、ごめんなさい。


と、聖夜らしく贖罪モードになった後で恐縮ですが、廃ラブホ・リベロも見ときましょう。
色っぽい商売が完全に死滅した橋本で、多少なりとも色っぽい香りを感じさせてたスポットです。
改装中に放り出され、長きに渡り閉館中。周囲は宅地化が進んでるので、再開は多分、ありません。
こんな僻地のラブホでもあっても営業してたら、イブの今夜は満杯だったりしてたんでしょうか。


そうだ、今夜はイブなんだ。私はこんな時に、一体どこで、何をしてるんだ。
と、急に正気に戻ったので、ぼちぼち多津美旅館へ戻ります。門限は23時ぐらいとも聞いたし。
あ、宅地化の進行に伴い、橋本のイメージアップを図るべく町名変更を考える動きがあるそうですよ。
明治初年の区画整備で 「橋本」 の名が消滅し、陳情の末に復活したことを思うと、皮肉ですが。


「橋本」 の名が、大字名として正式に復活したのは、実に昭和3年のこと。
昭和5年発行の 『全国遊廓案内』 に 「八幡町遊廓」 と書かれてるのは、その辺絡みなのかな。
でも、あの本の記述、何か微妙に怪しいぞ。特に遊廓以外、町周辺の記述が、何か微妙に怪しいぞ。
とか思いつつ、渋過ぎる辻井酒店の特に渋くない自販機で、全く渋くない氷結を買うこと、しばし。


で、旅館へ戻り、氷結を飲みながらモンブランを食い、イブの気分を楽しむこと、しばし。
橋本の感じ、伝わったでしょうか。といっても無論、私個人が抱いている 「感じ」 に過ぎませんが。
「残照」 だの 「レトロ」 だの 「ディープ」 だのに浸りたい向きには無駄なことが多く、恐縮であります。
クリスマス@多津美旅館、次はいよいよラスト。私は、聖夜を無事に越えることができるでしょうか。

橋本の多津美旅館で、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【3】へ続く

橋本の多津美旅館で、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【1】
橋本の多津美旅館で、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【2】
橋本の多津美旅館で、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【3】

橋本記事の参考文献 – 私はいったい何をしているのだろう


橋本湯
京都府八幡市橋本小金川36
16:00~23:00 月曜定休

京阪電車 橋本駅下車 徒歩約3分