恭仁京跡にコスモスを観に行きました。もちろん、ひとりで。
恭仁京跡にコスモスを観に行きました。もちろん、ひとりで。
府域にまで視野を広げると、京都にも平安京以外の都城跡はいくつか存在します。
プレ平安京たる長岡京や、継体天皇ゆかりの乙訓・弟国宮&京田辺・筒城宮などです。
もっとも、それらはいずれも今は宅地化 or 都市化され、跡の欠片さえ残っていません。
府域が持つ、ベッドタウンの側面。その辺が強く表れているとも言えるんでしょうね。
そんな中にあって、古の都城へ想いを馳せる自由を比較的残している都城跡が、恭仁京跡です。
恭仁京。それは、聖武天皇が彷徨五年の最中に現在の木津川市・加茂エリアに造営した都。
平城京の北東で740年に造営され、わずか数年後には放棄された短命極まる都として有名です。
疫病と政争に疲れ果てた聖武天皇は、 「どっか行く」 みたいなことを言って、平城京を脱出。
右腕の橘諸兄を伴い彷徨をしばし続けた後、諸兄の本拠地に近い加茂エリアへの遷都を決めました。
そもそも此地は木材運搬で名高い木津川が流れ、隣の木津は平城京の内港を担った地でもあり、
その地の利も活かし、平城京の資材で壮麗な大極殿を建てたりと、都城の整備は順調に進みました。
が、聖武天皇はその途中で紫香楽宮へと移転。そして744年には、大阪の難波京へと遷都。
結果として恭仁京は、遷都からわずか4年で、しかも建設の途中で、この地上から消えたのです。
理由を訊かれたら、「難波の方が色々便利そうだし」 としか言えませんが、とにかく消えたのです。
都としての使命を終えた恭仁京の跡は山城国分寺となり、大極殿は伽藍に転用されました。
門前町も形成されたといいますが、長くは続かず、中世には荒廃。その後は、平坦な地面が農地化。
そのまま現代に至ると、加茂も南側でベッドタウン化が進みますが、此辺はあまり開発が進まず、
むしろ後の発掘調査によって都城の跡であることが立証された後は、史跡としての評価の方が上昇。
単なる平野状態が維持されたことで古都へ想いを馳せる自由が比較的残る地となりました。
基本的に何もない分、妄想には向いてる恭仁京跡ですが、最近は秋のコスモスも人気。
なので、そのコスモスと共に長き都の歴史を味わおうかと思い、加茂へ赴きました。




恭仁京の最寄駅は、関西本線・加茂駅。電車/気動車の境界駅で、ホームの段差が名物 (嘘) 。
もっとも、恭仁京がある地域の本来の名は、瓶原。中納言兼輔が 「みかの原」 と詠んだ、あそこです。
駅を出ると石材店をよく見かけるのは、当尾が近いからなのか、藤堂高虎の領地だったからかなのか。
瓶原への道中で旧市街の方へ寄ると、本当に古風な石材店があったり、立派な蔵があったりします。




瓶原へ繋がる恭仁大橋へ歩いて行くと、石材店の他にも立派な家を見かけるようになります。
船屋なるエリアであり、かつては水運・伊賀街道・信楽街道の交差点となる宿場町だったようですよ。
旧市街を抜け堤防を上ると、発見&解読の難易度が高過ぎる中納言兼輔の 「みかの原」 歌碑、あり。
「みかの原 わきて流るる いづみ川」 と。すぐ先に、その 「いづみ川」 を渡る恭仁大橋が現れました。


木津川は、木材運搬に重用されたため 「泉川」 から 「木津川」 と呼ばれるようになった川です。
「瓶原を二つに分けて流れる」 と詠まれた豊かな水量が、遠く大阪にまで繋がる水運も実現しました。
近世以前から木津やこの辺はもちろんのこと、上流の笠置まで帆掛け船でも遡上できたといいます。
水運の最大のハイライトは平城京の建設でしょうが、その次は恭仁京の建設で間違いないでしょう。




橋を北へ渡ると左に広がる、川を挟んだ一帯こそ、瓶原。恭仁京跡は、左手の対岸になります。
瓶原 aka 三香原は、和銅年間から離宮があり、大伴家持も 「山川のさやけき」 を讃えた場所です。
でも今は正直、 「山川のさやけき」 の万葉歌碑の他は基本的に普通のやや寂れた田園地帯な感じ。
案内に従い進むと、何か色々と色々な雰囲気で大丈夫かと思った矢先、開けた空間が見えました。




恭仁京跡。到着しました。特別史跡としての正式名称は、 「史跡 恭仁宮跡 (山城国分寺跡) 」。
「恭仁京」 ではなくて 「恭仁宮」 であるのは、此処がいわゆる宮都の区画と比定されているためです。
「京都」 としての恭仁京は、此処を 「左京」 、木津を 「右京」 とする広大な都市域が想定されています。
調査の開始は昭和中期と割と最近で、目立つ跡は礎石ぐらい。でも、石碑の彼方には、コスモスが。






コスモス、コスモス。コスモス、コスモス、コスモス。コスモス、コスモス。
何で望遠圧縮気味で寄りが多いかと言えば、割と散ってるからだけど、コスモス、コスモス。



恭仁京跡、コスモスが咲くのは主に内裏跡の辺で、他には文字通りの野原もかなりあります。
「山並の よろしき国と 川並の たち合ふ里と やましろの 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす
布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山も動響に さ牡鹿は 妻呼び響め」
田辺福麻呂の讃久邇新京歌が似合う野原加減かも知れません。そして彼方にはまた、コスモスが。






コスモス、コスモス。コスモス、コスモス、コスモス。コスモス、コスモス。
何で望遠圧縮気味で寄りが多いかと言えば、割と散ってるからだけど、コスモス、コスモス。


恭仁京の内裏エリアは登大路の辺が北限のようで、しばらく歩くと割と楽に着いてしまいます。
此処の北には、恭仁京建設の直前に建立された海住山寺があり、登大路はその参拝道のようです。
コスモスが咲くのも、此辺でおしまい。歴史妄想と秋の花々、道中も含めてたっぷりと堪能できました。
そして、周囲の山々の完全包囲ぶりも。跡の入口で振り返って見ると、本当にしみじみと完全包囲。


東西北の三方を山に囲まれ、そして南は御覧の木津川が流れている。この感じ、京都っぽい。
特に南を河が流れる配置は、長岡京を経て平安京で制式実装された地形と言えるかも知れません。
交通の要衝 or 交差点の加茂/瓶原は、都城建設史みたいなものの交差点 or 境界でもあるのかも。
そんなことを考えながら、古の人々が木津川を下ったのと同じようなルートで、八幡へと帰りました。
恭仁京跡、コスモスで割と最近有名ですが、見物客は多くはありません。
見たのは、老人夫婦や妙齢女性2人組、母子の1~2世帯グループなどで、いずれも近隣系。
単独は、男女とも中高年の花カメ系で、やはり近隣系。そんなところでしょうか。
人数自体は割といたように思いますが、場所があまりに広いため、混雑感は皆無です。
コスモスは、無料で観れるものとしてはなかなかなものと言えるでしょう。
ただ、よほどコスモスが好きで近所でない限り、積極的に行くほどでもないかも知れません。
遺跡としては、さほど見るべきものはないかも知れませんが、そこが割と味です。
これからも、静かに楽しむ場所であってほしいとは思います。
そんな恭仁京跡のコスモス。
好きな人と観れば、よりプレ平安京なんでしょう。
でも、ひとりで観ても、プレ平安京です。

恭仁京跡 (史跡 恭仁宮跡)
京都府木津川市加茂町例幣
JR関西本線 加茂駅下車 徒歩約30分
奈良交通バス65系統 岡崎下車 徒歩約7分
史跡 恭仁宮跡 – 公式サイト

