2025年2月26日(水)

橋本関雪の命日に、白沙村荘 橋本関雪記念館へ行きました。もちろん、ひとりで。
『風の谷のナウシカ』 のルーツを、橋本関雪の名画 『木蘭』 に見出してみる。
青き衣の者を、ランランララランランランを、 『木蘭』 の美少女に求めてみる。
老父に代わり男装で出征し、戦功を挙げた娘・木蘭。そんな中国の民話に題を得た 『木蘭』 。
そこで描かれているのは、帰郷中に馬を休ませる木蘭の美しい顔立と、強く鮮やかな青き衣。
木蘭を伝える 『木蘭詩』 そのものは、 『ムーラン』 をはじめとして、色々と映像化されてはいます。
が、木蘭の表情が持つ美しさ、そして何より青の強さは、 『木蘭』 の他で目にした記憶がありません。
似たものを挙げるなら、ナウシカ。美しく勇敢で、青き衣で、白いスパッツを穿く、ナウシカ。
老父に代わりトルメキア戦役に参戦し、戦功は挙げないものの、世界を変える、ナウシカ。
違うところはあり過ぎるというか、全てが相違点とさえ言えますが、繋がりはある気がしてなりません。
『敗走』 なるイラストなどは、全く似ておらず、肝心の青の色味も違うのに、何故か似て見えます。
戦闘美少女感に加え、ある種の戦前大陸趣味のような点で通底する何かを感じるのです。
となれば、青き衣の者が降り立つ金色の野も 『木蘭』 にはあるはず。きっとある。そうに決まった。
キャンバスの色を金色ということにしようか。キャンバスなのかどうか知らんけど、見た目が黄色いし。
そういえば 『ナウシカ』 原作本の紙も、わら半紙でこんな感じの色だったな。おおおお、繋がった。
・・・という狂気の無理くり話はともかく、話は関雪です。橋本関雪記念館です。
松花堂昭乗が先駆者とされる南画を、大正期に新南画として新たに確立した日本画家、橋本関雪。
その一方で大陸に何度も渡航し、南画のルーツたる中国には別邸まで構えたという、橋本関雪。
そんな豪快で自在な関雪の自邸・白沙村荘を美術館として公開しているのが、橋本関雪記念館です。
場所は、銀閣寺前。文字通りの一大観光ゾーンであり、前を通り過ぎたことがある方も多いはずです。
でも、行ったことはない。そんな感じではないでしょうか。私もこれまで、ずっと未訪でした。
なので、そんな未訪スポットへ命日に行く命日シリーズで行ってみたのです。
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2024年8月18日(日)

豊臣秀吉の命日に、高台寺の百鬼夜行展・夏の夜間特別拝観へ行きました。もちろん、ひとりで。
豊臣秀吉の体臭。それは果たして、いかなるものだったのでしょうか。
一般的かつ世俗的なイメージから類推するなら、臭そうです。 「はげねずみ」 的、みたいな。
ゾンビのくさやにチーズを乗せて、しばらく腐らせた上に、悪趣味極まる香水をかけたような。
ひどいですか。なら、歯槽膿漏の野犬が魚食った口から飛ばした歯糞をパンに塗った感じとか。
とにかく、過剰に人間臭い何かと過剰に人間離れした何かが混ざった異臭を連想せざるを得ません。
秀吉が京都に建てた城郭の異常なまでの徹底破壊も、この異臭の存在を想定すれば然もありなん。
屍臭まで嗅がされた家康が 「何か臭い」 とか言って再建した伏見城まで潰したりとか。わはは。
あっ、下らない話だと思われたでしょうか。確かにこれは下らない話です。間違いなく下らない話です。
ただ秀吉を考える際、とりわけ京都との関係に於いて秀吉を考える際、不可欠な視座だと考えます。
疑いなく京都を改造した、秀吉。その痕跡が現代も濃密に残存するほど徹底的に改造した、秀吉。
にも関わらず、京都をめぐる言説に於いて秀吉の存在は、過度なまでに意識されることがありません。
「京都という町を形成した者」 を考える際、皇族以外でまず名が挙がるのは近世の町衆でしょうが、
長方形の地割や御土居などを新設することで、その基盤を秀吉が構築したことも、間違いありません。
なのに、常に削除されがちな秀吉。 「はげねずみ」 だからなのか何なのか、削除されがちな秀吉。
これは、いけません。京都という都市を考えるなら、 「はげねずみ」 にこそ対峙する必要があります。
そして 「はげねずみ」 的なるものを検証するには、体臭からのアプローチこそ有効だと思えるのです。
秀吉に関するこの思い、高台寺の夏の夜間特別拝観へ今回出かけたことで新たにしました。
高台寺は秀吉の妻・ねね縁の寺で、夏の夜間特別拝観は秀吉の命日 = 8月18日にちなむ企画です。
和風テーマパーク第1号なライトアップに加え、お盆で妖怪だらけな百鬼夜行展も楽しめる催しです。
あくまで普通の催しで、秀吉の体臭匂い玉とか屍臭の再現とかがあるのかといえば、もちろん否。
なのですが、にも関わらず、この特別拝観で私は、体臭の確かさこそを再確認したのでした。
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2023年11月15日(水)

坂本龍馬の命日に、京都霊山護国神社と霊山霊山歴史館へ行きました。もちろん、ひとりで。
随分前から自分の中で、龍馬成分ゼロ問題のようなものが存在し続けていました。
龍馬に興味が湧かないのです。どうしてこんなに人気があるのか、全然わからないのです。
早く死んだからかな。でもそれなら他にも早く死んだ志士はいるよな。いくらでもいるよな。
業績があるからかな。でも推してる連中の雰囲気や温度感からは、そういうの、あまり感じないな。
あの人達は、明らかに私には見えない何かを龍馬に見出し、好きになっている。そう感じるのです。
こういう謎を解消する場合、人気の源泉とされるコンテンツへアプローチするのが定石であり、
龍馬の場合は検証にうってつけのネタも 『竜馬がゆく』 『龍馬伝』 を筆頭に枚挙に暇がありません。
が、そういうものを見る気力も湧かないのです。見るべきと思った2秒後には忘れてるのです。
いわゆる逆張りの心が作動してるのではないと思います。ベタを避けたいのではないと思います。
当サイトはそもそも、京都のベタを写経するようなサイトです。ゆえに龍馬は本来、避けられません。
また、最近多いという 「龍馬、実は大したことしてない」 的な反感も、特にないと思います。
そもそも反感を持つほどよく知らないし。たとえ知ろうと思っても、意欲が秒レベルでしか保たないし。
アンチ/シンパ問わず発生する龍馬成分みたいなものが、どうやら私には欠けてるようなのです。
そんな塩梅なので私にとって龍馬という人は、空気のような人、ということになってしまいます。
業績はともかく、現在は後世の人の願望や夢想の風船と化した人、ということになってしまいます。
これは、いかん。流石に、いかん。京都観光に縁深き人物にこの扱いは、いくら何でもいかん。
そう思ったので今回、坂本龍馬の命日に京都霊山護国神社と霊山歴史館を訪れることにしました。
霊山護国神社は、言わずと知れた龍馬&中岡慎太郎を始めとする志士が眠る墓を守る社であり、
その向かいに昭和中期に出来た霊山歴史館は、昭和の龍馬ブームを体現する施設です。
龍馬の命日はもちろん神事や各種催しも行われているので、そのど真ん中を訪れることで、
龍馬のことと、龍馬に興味が湧かない自分のことを、わかろうとしてみたのでした。
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2022年10月20日(木)

夢窓疎石の命日に相国寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
夢窓疎石は、1351年9月30日に、新暦で言うなら10月20日に、死にました。
その生涯を通じ、苔寺を始めとして数多の名庭を作庭し、枯山水の完成者とも言われる禅僧、疎石。
後醍醐帝と足利兄弟の両方から崇敬され、天龍寺創建のため天龍寺船も献案したという、疎石。
さらに、歌人にして五山文学の有力漢詩人でもあり、語録や 『夢中問答』 などの文物も残した、疎石。
マルチというか横該堅抹というか、とにかく幅広く活躍した中世禅僧界の超カリスマであります。
この手の人物は晩年に下手を打ちがちですが、疎石は存命中に得た人望・名声を保ったまま、入滅。
その死に際しては多くの門弟や僧が集まり、崇光天皇は悲嘆のあまり政務を執れなくなったとか。
「夢想国師」 などの国師号は死後も帝達から送られまくり、 「七朝帝師」 なる別名まで生まれました。
元来ひとりの修行を好んだという疎石、死後も続くこのモテ期は、きっと苦笑ものでしょう。
ただその一方で疎石の最も有名なこの歌は、死後の推しを推してるようにも見えます。
盛りをば 見る人多し 散る花の 後を訪ふこそ 情けなりけれ
この歌に倣うかの如く、帝の他にも疎石の後を訪う者は多し。法要を行う寺もあります。
京都では、天龍寺が開山忌をもちろん実施。あと忘れてはならないのが、相国寺でしょう。
相国寺。万年山相国寺。金閣寺&銀閣寺を山外塔頭として擁する、臨済宗相国寺派の大本山です。
足利義満によって花の御所の真隣で創建され、現在も京都御所の真北にて広大な境内を誇示。
五山文学の中心地でもあり、雪舟・等伯・応挙・若冲などの文化財も持つ、禅刹中の禅刹であります。
この相国寺がどうして夢窓疎石の命日に法要を行うのかと言えば、疎石が正式な開山だから。
相国寺の創建は1382年で、礎石の没年は先述通り1351年なので、数字は全然合ってないんですが、
実質の開山・春屋妙葩が疎石の門弟であり、師匠ラブのあまり疎石を追請開山にしたわけです。
正しく、後を訪う者ならぬ後を訪う寺。ゆえに10月20日には、最重要行事として法要が行われてます。
そんな10月20日の相国寺を、特別拝観も併せて拝むべく、訪うてみました。
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