新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年5月12日(日)


新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

新日吉神宮はかつて、官社的性格が強かったそうです。
武将ファンには、秀吉の墓・豊国廟の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
そして変態さんには、京女の娘を狙う 「女坂」 の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
しかし本当は、秀吉よりも京女よりも変態よりも長い歴史と、ロイヤルな由緒を持つ神社であります。
新日吉神宮。 「新日吉」 の読み仮名は、「しんひよし」 に非ずして、 「いまひえ」 。
平安末期、後白河法皇法住寺殿造営に際し、新熊野神社と共に鎮守として創建した社です。
熊野フリークとして知られ、新熊野神社には本社から砂まで勧請したとも言われる後白河院ですが、
平治の乱に於ける祈願をきっかけに、比叡山・日吉大社もまた崇敬しまくってたんだとか。
日吉大神を勧請した新日吉社は、壮麗なる伽藍を誇り、後白河院は当然、他の皇族も多数臨幸。
途絶していた宮中行事を復活させる形で始められた祭礼・小五月会 (こさきのまつり) は、
競馬・流鏑馬・芸能奉納などが華々しく行われ、官社としての格式を誇るものだったと言われてます。
やがて朝廷の衰微に伴い社運も衰微、室町後期には小五月会も中断の止むなきに至りますが、
江戸期に入ると、氏子区域の七条×鴨川エリアが高瀬川開削で開発され、住民が増加。
小五月会は、妙法院のパワーに氏子奉仕が加わり、より民間色が濃いものとして復興しますが、
その際にも禁裏からは女房奉書や鉾などを賜り、その習わしは明治まで続いたのでした。
現在の小五月会 = 新日吉祭は、東京遷都を受けて民間色がさらに濃くなり、
祭りを支える修道・貞教・菊浜・崇仁の各氏子町を、鳳輦が細かく回るものになってますが、
官社のテイストが残る鳳輦&行装列メインの神幸列と、町中のネイティブさ加減が、
いい感じのコラボ効果を生んでいて、独特の味がある祭になってます。
そんな新日吉祭、暇に任せて追いかけてみました。


正午過ぎの七条通を、新日吉神宮を目指して東向きに歩いてるの図。
新日吉神宮は、遙か奥に写る智積院の、左側。さらに左側に立つ妙法院との間に、あります。
後白河法皇による創建が行われたのは、写真で言うともうちょっと右側、即ち南側の日吉坂の辺り。
が、江戸時代初期、秀吉を祀る豊国社が家康に潰され、その跡地へ智積院共々移転しました。


豊国廟の石碑の方が目立ち、女坂の認知度の方が高い、新日吉神宮参道入口。
明治に入ると豊国廟が整備され、今度は新日吉神宮が南へ若干、移転。諸行無常であります。
隣の妙法院は、後白河院が新日吉社創建に際して比叡山よりこの地へ下ろし、さらに門跡寺院化。
以降、門跡が新日吉別当を務め、祭礼には鳳輦の前で御法楽を厳修する習わしとなりました。


神幸出立前の鳳輦に御法楽を厳修する 「馬場御供の儀」 は、現在も継続中。
神仏習合の様を現在へ伝える貴重な慣習であり、故に現場の鳥居前馬場には、カメ密集中。
あ、馬場って、鳥居前の三叉路みたいなとこです。出立前の行列衆も混ざり、結構な混雑が発生中。
鳳輦は未だ現れず、馬場御供の儀も始まりそうにないので、先にお参りを済ませましょうか。


立派な楼門をくぐり、境内へ。中では、雅楽奉納などの出立祭が執り行われます。
が、既に終わってました。奉仕のおばちゃんが片付けをやってる横を通り、とりあえずお参り。
豊国廟のせいで若干移動した新日吉神宮ですが、秀吉憎し豊臣憎しというわけでもないみたいで、
境内には、徳川の世になっても密かに秀吉を祀り続けたという樹下社なる境内社も、あり。


樹下社のみならず、秀吉をシンボル化した猿も、あり。というのはもちろん、嘘です。
日吉 = 山王信仰の神使である猿が、檻の中から社殿を守護。写真は、本殿前の阿吽の吽猿。
後白河院は山門と寺門を牽制するため、各々が縁深い熊野と日吉を共に信じたとも言われますが、
現在もなお猿を厳重に囲む檻を見ると、信仰して当然と思わせる強いパワーを感じさせます。


神猿の下の 「待受に入れると効く」 という張紙や、居祭の神輿にもパワーを感じてると、
鳥居の方から読経の声が聞こえたので慌てて戻ったら、馬場御供の儀がもう終わってたの図。
派手な袈裟を着て妙法院へ帰って行く中央右の坊さん達が、左の鳳輦へお経をあげてたわけです。
神仏習合を拝めず、無念。といっても、神輿への読経は結構あちこちで行われてますけど。


馬場御供の儀が終わると、13時、鳳輦と行列の氏子町神幸がスタートします。
あとは、写真と手抜き文だけでお楽しみください。まずは、京女高を借景に進む、御神宝・剣列。


禁裏より寄進された七つの振鉾 = 剣鉾のうち、唯一神幸する、十禅師御鉾@渋谷通。


馬町交差点で東大路通を横断する、御鳳輦と錦蓋と菅蓋。


沿道でちまきを配り、大人子供問わず人気が高い、児武者。


「振鉾」 は、新日吉独特の剣鉾の呼称だったりする振鉾、その差し@下新シ町。


さらに狭い道を、カッツンカッツンの状態で進む、幸御鉾。


そういえば、「しぶや」 ではなく 「しぶたに」 である渋谷通を進む、唐櫃。


で、獅子。


だだっ広い参道に露店が並び、縁日状態の豊国神社参道で、獅子。


ぼ~っと眺める子がいる豊国神社鳥居から、ぼ~っと行列を眺めるの図。


圧倒的な地元の子供&親子連れ動員率の縁日で、差しを決める、振鉾。


一旦七条通へ出た後、正面通で鴨川を渡る、荷太鼓と稚児車と御神宝・剣列。


菊浜へ入り、さらに細かく町を巡行する、大太鼓と大榊と幸御鉾。


近所の人たちが見守る中、献饌+拝礼+祈祷の供奉町神事@下三ノ宮町。


十禅師町近くの高瀬川沿いで、差しまくられる十禅師振鉾。


緑の中を進む稚児車と、緑の中を駆け回る、カメラおじさん達。


そのカメラおじさん達が突如いなくなる河原町七条の先、JR下を潜る、先振。


崇仁の市営住宅の中を神幸して回る、御神宝・剣列と稚児車。


鳳輦は塩小路通のコミセンへ直接入り、他所よりかなり長めの、供奉町神事。


神事が終わり、神幸を再開する行列の、猿田彦神輿と獅子。


七条通を東進して新日吉神宮へ戻る行列を、塩小路橋から眺めるの図。


戻る途中も、博物館前で振鉾を差す様を、望遠で眺めるの図。


で、16:40、豊国廟参道 aka 女坂 aka 新日吉神宮参道に、行列は帰着。
境内では遷御の儀が行われ、行列奉仕の皆さんはぶっ倒れ、祭は終わるのであります。

見物客は基本、地元の人しかいません。
家の近所に行列が来たら、表へ出て迎える。そんなネイティブな光景が続きます。
混むのはせいぜい、豊国神社参道で展開される超ネイティブな縁日と、
七条通の博物館&三十三間堂前で、ベタな観光客とバッティングする辺くらいでしょう。
カップルは、限りなく、ゼロ。というか、それ以外の層も限りなく、ゼロ。
地元民以外はほぼ全部、単独のカメです。異常に多いです。フォトコンでもやってるんでしょうか。
この連中、菊浜まではとんでもなくしつこくへばりついて撮影を続けてるのに、
崇仁へ入った途端、ほぼ完全にいなくなるのが、笑えます。

そんな新日吉神宮の、新日吉祭。
好きな人と行けば、より新日吉なんでしょう。
でも、ひとりで行っても、新日吉です。

【客層】 (客層表記について)
カップル:0
女性グループ:0
男性グループ:0
混成グループ:0
修学旅行生:0
中高年夫婦:0
中高年女性グループ:0
中高年団体 or グループ:8
単身女性:微
単身男性:2

【ひとりに向いてる度】
★★★
色気や人圧のプレッシャーは、全然ない。
極めてネイティブな祭だが、
アウェー感を感じることは、さほどないと思う。
カメラ爺が毎年多いのかは、知らん。

【条件】
日曜 12:30~16:50

新日吉祭 小五月会
毎年5月第2日曜 開催

新日吉神宮
京都市東山区妙法院前側町451-1
拝観自由

京都市バス 東山七条下車 徒歩約5分
京阪電車 七条駅下車 徒歩約13分
JR奈良線 東福寺駅下車 徒歩約18分

新日吉神宮ホームページ – 公式

新日吉神宮 – Wikipedia