八瀬の赦免地踊りを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年10月13日(日)


八瀬の赦免地踊りを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

赦免地踊りは、断じて斜面地踊りではありません。
この踊りを受け継ぐ洛北・八瀬の地が、山の斜面に囲まれた狭隘な谷間にあり、
斜面ゆえに生まれた高野川の急瀬の多さが地名の由来でも、斜面地踊りではありません。
また、その多くが斜面地であろう林業地を巡る争論が、この踊りの生まれたきっかけであっても、
赦免地踊りは赦免地の踊りゆえに赦免地踊りなのであり、断じて斜面地踊りではありません。
よろしいでしょうか。言ってる私が一番よろしくない感じがしますが、よろしいでしょうか。
赦免地とは、お上から何かを赦免された地。八瀬で何が赦免されてたかといえば、租税です。
後醍醐天皇叡山潜幸の際、 「山のプロフェッショナル」 として山中における帝の輿丁役を担い、
その功績により地租課役の赦免を保証する 「綸旨」 を賜った、八瀬の住人・八瀬童子
皇室との関係は近世以降も継続され、明治以降は東京での宮中勤務まで担いながら、赦免を継続。
猪瀬直樹 『天皇の影法師』 で描かれた 「天皇の輿丁」 としての姿は、多くの方が御存知でしょう。
その一方で八瀬は、比叡山麓という立地ゆえ、延暦寺との縁も平安の頃から続いていました。
「叡山門跡が閻魔王宮から帰る際、その輿を担いだ鬼の子孫」 という伝説的な存在として、
高僧の輿を担ぐ力者 = 童子の役を担い、 「綸旨」 以前から雑役が免除されていたともいいます。
そんな八瀬童子と延暦寺がトラブり、赦免地踊り誕生の契機となる事件が起こったのは、江戸中期。
叡山の一方的寺領改めにより、その多くが斜面地であろう林業地の入会権を失った八瀬童子は、
生活の糧が他に無いゆえ死活問題として、幕府、特に時の老中・秋元但馬守喬知へ愁訴。
「綸旨」 の威光もあり、八瀬は宝永7年、赦免地としての特権を明確に認める裁決を獲得しました。
赦免地踊りは、この時の喜びと秋元但馬守への感謝を後世へ伝えるべく始められた踊りです。
登場する切子灯籠は、室町期にルーツを持つと思われる汎洛北的な風流灯籠ですが、
そんな風流灯籠の伝統と、八瀬独自の由緒と文化が交錯する、魅力的な祭なのであります。
というわけで、赦免地踊りは赦免地踊りなのであり、断じて斜面地踊りではありません。
「そんなこと誰も言ってない」 という話ですが、断じて斜面地踊りではありません。
とにかくそんな赦免地踊り、八瀬まで観に行ってみました。


ゆるやかな斜面を登る叡山電車に揺られ、18:10、八瀬比叡山口駅へ到着したの図。
赦免地踊りの開始は、20時。過剰に早く来たのは、駅から八瀬集落まで歩きたかったからです。
電車は最初それなりに混んでましたが、修学院までで大半が降り、八瀬まで乗ってたのは2人だけ。
駅を出ると、寒い。気温のせいだけでなく、真っ暗で人気もないため、寒い。祭、やってるのかな。


「猿出没」 の看板を眺めつつ、やや斜面でやや漆黒の道を、2キロにわたり歩くの図。
あ、駅から集落まではバスも走ってますよ。私はバスが苦手なので、極力乗りたくないだけです。
もしバスに乗るなら、叡電には最初から乗らずに、出町柳 or それ以遠から乗った方が得でしょうね。
ただ、途中で追い抜かれたその集落行きのバスに、人の姿はさほどなし。祭、やってるのかな。


30分ほど歩き、やや強めの斜面を越え、八瀬大橋東側・集落の南側に着いたの図。
確かに、 「駐車禁止」 の張り紙はあります。パトカーが、 「通行止めて」 と交通規制もしてます。
しかし路上に、地元の人や祭関係者らしき人の姿は、全然なし。同好の士らしき輩の姿も、全然なし。
聞こえるのは、真っ暗で何も見えない高野川のせせらぎ音と、車の音だけ。祭、やってるのかな。


とか思いながら川沿いを歩いて行くと、提灯持った浴衣姿の兄ちゃんたちと遭遇。
あ、やってる。安心してさらに歩くと、行列集合場所兼案内所兼売店っぽい 「門口」 へ着きました。
門口、すなわち 「もぐち」 。踊りの主役・切子灯籠の絵柄を刷ったグッズや、書籍類を販売してます。
切子灯籠とそれをかぶる灯籠着の準備所 「花宿」 のマップ&パンフは、タダでもらえましたよ。


開始まで時間があるので、何か食おうかなと思いましたが、開いてるのは屋台のみ。
八瀬名物である 「かまぶろ温泉」 も、閉まってます。じゃあ、マップに従い花宿へ行ってみるか。
と、祇園祭の会所っぽいのをイメージしながら花宿へ出向くと、完全に民家だったので面食らうの図。
花宿は、神社の近くに3軒、離れたところに1軒。4軒から2基ずつ、計8基の灯籠が出るわけです。


思いっきり恐縮しつつ中を覗くと、室内は切子灯篭及び灯籠着の撮影大会状態。
灯籠着とは、灯籠を頭からかぶる少年たちのこと。何故か、御所の女官の衣装で女装してます。
ピンボケ気味で恐縮ですが、灯籠の各面に張られた極めて細微な透かし彫り、視認できるでしょうか。
接近して撮りたいですが、民家だし、報道やらカメ爺やらの壁が厚く、これ以上は近付けません。


まだ時間があるので、踊りが奉納される秋山神社にも行ってみることにしました。
秋山神社は、八瀬の鎮守・八瀬天満宮の境内社。御覧の通りです。真っ暗で何も見えませんが。
祭神はもちろん、秋元但馬守。秋元但馬守が神化した、秋元大明神。断じて秋元康ではありません。
赦免地踊りは、この秋元神社の例祭・秋元祭における奉納行事として行われるわけであります。


赦免地踊り一番の見所である馬場を、横の畑へ落ちかけながら上ることしばし。
赦免地公認の裁決、実は秋元但馬守よりも、近衛基煕の政治力に寄るところが大きいそうです。
あと、綱吉がやらかした無茶苦茶の数々を代替わりで修正する当時の状況が、追い風になったとか。
ただ、実際に視察をしたのが秋元但馬守だったため、神化したと。いわば 「会いに来た老中」 と。


やはり現場って大事ね、と間違った感慨を抱きつつ、ヒーコラいって石段を登り、
何かの用意がされてるけど暗くてよくわからん境内へ入ると、カメをすり抜けて、まずはお参り。
どこかにあるはずの皇族歌記念碑や弁慶石も心眼で拝んでから、踊りが奉納される御覧の舞台へ。
盆踊り的な舞台が設営されてるのは、本殿右下。多分。緞帳の奥では、琴の練習中。上手い。


神社を出て門口方面へ戻ってみると、19:40、灯籠の出発が始まってました。
「めでため~で~たや~~ああや、こ~りゃせ~っ」 と伊勢音頭に合わせ、花宿を出る灯籠2基。
神社方面へ向かうので 「早いな」 と思ったら、集落を遠回りして集合場所の門口へ向かうそうです。
周囲は、さっきとは大違いの混雑ぶり。人の数はそこそこですが、道が狭いために、混むと。


補助役の警護に付き添われ、伊勢音頭に囃されながら真っ暗な道を進む、灯籠。
「と~ろ~のよ~いもできあがり、あそりゃ。おどりこしゅ~もいしょ~もつけおわり、あそりゃ」 と。
遠回りは、新精霊の出た家を回る意味があるとか。この灯籠もやはり、盆習俗のものなんでしょうか。
どうでもいいですが、灯籠の光源はマジ灯籠みたいで、ヘボカメラでは写真が全然撮れません。


そうこうするうち、20時前に門口でアナウンスがあり、赦免地踊りが始まりました。
まずは十人頭が、 「例年の通り~」 という声と共に、奉書を巻いた青竹の杖を持って登場します。
十人頭は、今年30歳になる男性10人によって構成される役職。祭を取り仕切る、世話役という感じ。
狭い道は、人でいっぱいです。 「マイクを使わないので、静かに見てくれ」 のアナウンスもあり。


続いて、舞台で踊りを奉納する踊り子、地元女子児童による踊り子たちが、登場。
カメ爺、無論大喜びであります。フラッシュ焚き過ぎで、こっちも楽に写真が撮れるのであります。
行列の先頭では、十人頭が十人頭出立儀式を執行中。ここからは全然見えませんが、多分執行中。
灯籠・踊り子・音頭取り衆・新発意といった面子が揃ってるかを、世話役が確認するわけです。


いつの間にか最後尾で勢揃いした灯籠を眺めつつ、点呼の声を聞くことしばし。
「よちょうのとおろおは、そろたかよっ」 「おうっ」 「むらのなかおどりは、そろたかよっ」 「おうっ」 と。
「よちょう」 とは、八瀬の八瀬童子についてよく言われる 「天皇の輿丁」 の 「よちょう」 なんでしょうか。
それとも単に 「4つの宿 = 4町」 なんでしょうか。でも、思いっきり 「むら」 とも言ってるしな。謎。


面子が揃うと、行列はゆっくりと出発。神社へ入ると、『道歌』 が始まります。
「ほそ~~み~~に~~い~~~、さ~~んしょ~~おおおうぇ~~て~~こ~~さ~~んしょ~~
~すて~~て~~よ~~くと~~き~~~と~~つも~~ど~~るとき~~と~~つ~~うううすぃ
~~、の~~ぶ~~よ~~み~~ち~~の~~め~~~ざ~~~あま~~しよ~~~~」 。


「い~~~~や~~~~は~~~~、い~いっ、は~~~~は~~ああ」 という、
ファルセットのブレイク (?) を要所要所に挟みながら、 『道歌』 は歌われ、行列は進みます。
牛歩なおかげで、灯籠が割とクリアに撮れました。手作りとは思えない透かし彫り、改めて驚異です。
他の部分も、天井の 「イワ」 、その下の 「ランマ」 、房の星飾り、前垂れの顔隠しと、実に風流。


声明小唄御詠歌が混ざったような響きの 『道歌』 は、独特の符割も持ってます。
特に 「い~~~~や~~~~は~~~~、い~いっ、は~~~~は~~ああ」 の前後が、謎。
「忍ぶ夜道の目覚ましよ」 「二穂で米が二千石」 などの、リピートされる決めフレーズ (?) を分割し、
頭の 「し」 や 「ふ」 を前のフレーズに付け、休符を挟んで 「の」 や 「た」 から歌い出してて、謎。


この 『道歌』 を始め、全てが口承で伝えられるという、赦免地踊りの歌の数々。
長い時間を経るうち、原詩の意味から飛躍した符割が定着したのかと勝手に妄想したんですが、
しかし一方、分割ポイントに明確な規則性も感じられるので、その辺もまた、ミステリアスであります。
と、馬場横の畑へ落ちかけながら文化的感慨に浸ってると、前方に御百燈が見えてきました。


灯籠行列を出迎えるべく、八瀬の宮座組織・高殿によって開かれた、御百燈。
行列は御百燈の前を通って境内へ練り込み、狂言回し役 (?) の新発意は歓迎の言葉を宣言。
「よ~おだった、おひめ~たち~、このよいにわれ、はなの~おどりを~みさめてた~~せ~~」 と。
あ、灯籠の周囲一面に何かモコモコした物体が写ってますが、ちなみにこれ全部、人間です。


「あ~ああらよ~いに~いいわ~じゃ~~み~ご~と~なに~いいわ~や~~」 と、
歌に導かれるように行列は特設舞台へ入り、踊り子は控え室へ、灯籠はさらに櫓の周囲を回転。
「い~~~~や~~~~は~~~~、い~いっ、は~~~~は~~ああお~ぅん、ん~~ど~~る
~~わ~~か~~い~~しゅ~~に~~~を~~ど~~お~ら~~~そ~~~よ~~~」 。


「みや~こ~ぐ~る~ま~の~~わ~の~ご~と~く~~」 で、『道歌』 は終了。
灯籠着の少年たちは会場の右側で灯籠を一旦頭から外し、舞台では踊りの奉納が始まります。
あ、来賓紹介が行われましたが、前原誠司、また登場。特等席みたいな所から、頭を下げてました。
櫛祭の時も来てましたが、暇 or マメなんでしょうか。あるいは、こういうのが好きなんでしょうか。


舞台が開くと、「の~~お~~、新発意衆」 という声と共に、二人の新発意が登場。
「村の持ち合わせの御酒がござる。酒は千石も万石もあるほどに、ごゆっくりとのまっしゃれ」 と、
マイクで語られる言葉に甘えて二人が盃を交わす、まっことめでたき 『三番叟』 から奉納はスタート。
新発意は、各町から出される役職とか。 「よっ」 「ええ男っ」 などのかけ声が客席から飛びます。


続いて、音頭取り衆が唱和するお囃子イントロを経て、踊り子の登場です。
踊り子によるこの踊り奉納は、赦免地踊りの中では比較的歴史が浅く、始まったのは昭和5年。
明治神宮鎮座10周年大祭への出演を機に、灯籠踊りの歌に京舞・井上流が振り付けを行ったとか。
桶を持って登場した踊り子が踊るのは、 『汐汲踊り』 。もちろんカメ爺&カメ兄は、狂乱状態。


お次は、地元の日舞教室による奉納でしょうか、子供の日本舞踊がスタート。
1曲目は、男の子2人。2曲目は、御覧の少年少女数人。いずれも、上手い。堂に入ってます。
結構あれこれ色んな芸能が奉納されるんだなと思ったんですが、昔は芝居とかもやってたそうです。
俄芝居が一晩中にわたって演じられたりもしたそうで、その辺も盆踊り的といえば実に盆踊り的。


日本舞踊の奉納が終わった21時少し前、休んでた灯籠が動き始めました。
灯籠着の少年たちが灯籠を改めてかぶって、櫓と客席を回る 『灯籠回し』 に取りかかるのです。
中の蝋燭が点いたまま、よっこいしょと持ち上げられ、モゴモゴと装着のあれこれが行われる、灯籠。
その動きが生み出すビジュアルが、何となく可愛くもありユーモラスでもある瞬間であります。


で、 『御所の踊り』 に乗って会場を回る灯籠。 ただただ、回るだけであります。
しかし、昔は回りながら静かに踊ってたらしく、これこそが 『赦免地踊り』 なんだとか。なるほど。
やはり盆踊り的というか室町的な風流感に溢れ、宝永年間以前の香りを感じさせてくれる光景です。
旧称 「綸旨祭」 が示すように、この祭はそれこそ後醍醐帝の世から続いてるのかも知れません。


会場をグルッと回った灯籠は、再び会場右側に落ち着いて、一休み。
続いての奉納は、岡田吟行社中による琴+何らかの和楽器がフィーチャアされた地唄の演奏。
21時半を回って、バスがぼちぼちと無くなる時間となったためか、ようやく見物人が減り始めました。
座席が空いたので座りましたが、すると急に、寒い。じっとしていられません。さすが、洛北。


沁み入る寒さにガタガタ震えてると、22時、踊り子たちが舞台へ再び登場。
今度は花籠を持っており、 「花摘踊りを一踊り」 という歌に乗って、 『花摘踊り』 を奉納します。
もちろん、カメ兄&カメ爺は再び、狂乱状態。バスが無くなろうとも帰る気のない連中が、狂乱状態。
私の真横では、報道には見えないバンダナ男性が、集音マイクを立てて音録ってました。濃い。


「萬の花は~~摘みてある~~~~」 と、 『花摘踊り』 が続いてる最中から、
客席の周囲では最後の 『灯籠回し』 の準備が始まり、「道、空けて下さい」 と通路確保も開始。
で、踊りが終わると、今度は灯籠着の少年ではなく、その付き添いである警護が、灯籠を頭に装着。
赦免地踊りのラストナンバー 『狩場踊り』 の歌声と共に、櫓と客席をゆっくりと回り始めました。


行頭に 「い~やあ」 という独特のフレーズが付く 『狩場踊り』 の進行に連れ、
最初はゆっくり回ってた灯籠、どんどんスピードを上げ、音頭取り衆の歌もまたどんどん高速化。
で、「い~や~、い~い~ざ~や~か~ええら~む、わあがあや~ど~へ~」 のフレーズが出ると、
確保された通路を突っ切り、灯籠は境内の外へ踊り出て、そのまま走り去ってしまいました。


「か~り~ば~お~ど~り~、こ~れ~ま~で~よ~~」 という歌声も振り切るように、
「とんとんとととん、とんとととん、とととんとととん、とんとととん」 という太鼓の音も振り切るように、
慌てふためく観客を後に残して、猛ダッシュを続けて馬場まで一気に到達してしまった、警護の灯篭。
いや、本当はそんなに早いわけがないんですが、周りが真っ暗だとそんな風に見えるんですよ。


馬場まで走りこんだ灯籠一行は、あとはゆっくりと花宿へ帰って行きました。
そういえば鞍馬の火祭でも、神輿の宮入り後に若衆が踊り、その途中で突然遁走してましたが、
この 「途中で突然いなくなる」 「物凄いスピードで走る」 というのが、洛北の祭の慣習なんでしょうか。
さて、赦免地踊りはこれでおしまい。私も、帰ります。といっても、バスはしっかりありませんが。


といっても、私はどっちみち叡電に乗るので、来た道2キロをまた歩くのみですが。
八瀬、一応は22時台でもバスはあります。が、あいにく高野車庫行き。出町柳には届きません。
ほぼ暗黒な斜面道を下ってると、恐らくそのバスに抜かれました。客は、あまり乗ってませんでした。
徒歩の同志の姿は、皆無。車も、激少。あの濃い人たちは、一体どうやって帰ったんでしょうか。

客層は基本、地元民がメイン。
中高年と子供に関しては、ほとんど地元の人だけに思えます。
若者は全属性において基本的に少なく、観光や見物系になるとさらに少なめ。
目に見えて観光系な客は、着物着た女グループや、若い腐女子の二人組とかがいる程度で、
観光ハイや恋愛ハイを垂れ流すようなボンクラな輩は、無論絶無です。
「赦免地踊りの写メ」 とか言い出しそうな冷やかし全開の馬鹿者も、見かけません。
普通ならネイティブ過剰な客層と言えますが、地元の人たちに排他的な感じは特になく、
またウジャウジャいるカメ男や、荒んだ単独腐女子の荒んだオーラが濃厚に立ちこめるため、
ネイティブゆえのアウェー感はかなり中和されてる感じでしょうか。
単独は、上記の通り、女は濃過ぎる腐ばかり、男は老いも若いも怪しいカメばかり。
「奇祭」 やら 「秘祭」 やら 「謎」 やらが好きな輩が、いっぱい集まってます。
ある意味では、天国とも言えるでしょう。またある意味では、地獄とも言えるでしょう。
似た者同士が気にならないという方は何の問題もない環境ですが、
近親憎悪の気がある単独者は、若干の心づもりが必要かも知れません。

そんな八瀬の、赦免地踊り。
好きな人と観たら、より赦免地なんでしょう。
でも、ひとりで観ても、赦免地です。

【客層】 (客層表記について)
カップル:若干
女性グループ:1 (観光系)
男性グループ:微
混成グループ:若干
子供:1
中高年夫婦:1
中高年女性グループ:1
中高年団体 or グループ:4
単身女性:微
単身男性:2 (全部カメ)

【ひとりに向いてる度】
★★★★
超ネイティブと、濃い口な好き者ばかりがいる、
奇妙といえばすごく奇妙な世界。
雰囲気は最高に近いが、ゆえに好き者は多い。
近親憎悪の気がある人は、心の準備を。

【条件】
日曜 19:00~22:20

秋元祭 赦免地踊り
毎年 体育の日の前日の日曜 開催

秋元神社 (八瀬天満宮社摂社)
京都市左京区八瀬秋元町639
拝観自由

京都バス ふるさと前下車 徒歩約5分
叡山電車 八瀬比叡山口駅下車 徒歩約30分
 

八瀬 赦免地踊り – 公式

八瀬天満宮社・秋元神社 – 京都風光

八瀬童子 – Wikipedia