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東福寺塔頭・毘沙門堂勝林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年11月27日(金)


東福寺塔頭・毘沙門堂勝林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

東福寺は、夜になるとやたらに寺&その周辺が暗くなるなと思ったりします。
臨済宗東福寺派大本山に相応しいその巨大なる伽藍は、ライトアップされることなど全くなく、
むしろ逆にブラックライトでライトダウンするかのように、禅宗ならではの厳格な闇を周囲へ放射。
名勝・通天橋が瀕死の混雑に見舞われる紅葉シーズンにあってもなお、その闇の厳しさは変わらず、
陽が落ちる夕方以降は昼間の喧噪が嘘の様に消え、代わって辺りに充満するのは漆黒の闇。
群集の荷重に耐えた当の通天橋も、夜は地元中高生の自転車が通るばかりの暗黒渡り廊下となり、
その圧倒的な暗さは、まるで 「これこそが正しい寺の姿なのだ」 と宣言してるようにも見えます。
無論、寺とその周囲が夜に暗くなるというのは、本来は当然というか、普通な姿ではあるんでしょう。
しかし、紅葉シーズンくらい夜間拝観をやってもいいんじゃないかと思ってしまうのもまた、人情。
境内の広さ&紅葉の大規模さを考えると、電気代がえらいことになるだろうけど、やってほしいな、と。
通天橋から落ちて天国へ通り抜ける奴が何人か出るかも知れないけど、やってほしいな、と。
そんな最低共通文化に基づく需要にも一応対応しようと考えたのか、夜間拝観をやってくれてるのが、
東福寺の境内にあってその鬼門を守る、 「東福寺の毘沙門天」 こと塔頭・毘沙門堂勝林寺です。
勝林寺。少林寺に非ずして、勝林寺。東福寺第205世により1550年に創建された、塔頭であります。
東福寺仏殿の天井裏で発見されたという、本尊にして伝・定朝作の毘沙門天立像を始めとして、
珍しい毘沙門天曼荼羅や、大檀那である近衛家の大玄関が移築された本堂など、その見所は多し。
通常非公開であることが惜しまれるほどですが、名物の吉祥紅葉が色づく秋には特別公開を行い、
良縁と美縁の御利益から舞妓はんも訪れたというこの紅葉を、夜ともなればライトアップで更に演出。
その様は、忍び寄る餓鬼より本丸の闇を守るのもまた鬼門守護の一環と考えてるかのようであり、
東福寺の拝観に間に合わなかった迷える衆生にとっては、ある種の緊急避難先になってます。
そんな勝林寺の紅葉、もちろん東福寺が真っ暗になる夜に観に行きました。

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松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月21日(水)


松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2013年に上げた栗餅の記事、思ってた以上に多くの人が見てくれるんですよ。
「両親の郷里・丹波へ名物の栗を食いに行く」 という、かなり私的な気分で作った記事であり、
川床カフェめぐりのように狙って作ったものではなかったんですが、やはり食いもんネタは強いなと。
しかも、 「京都 丹波栗」 という感じでブランド名を打ち込み飛んでくるタイプの方は案外と少なく、
ずばり 「栗」 あるいは 「栗餅」 と、栗食本位なワードで来られる方が多いのにも、感銘を受けました。
どうやら人は秋になると、丹波など産地やブランドに関係なく、栗を食いたくなる生き物のようです。
私は、栗を過小評価していた自身の不明に、気付かされたのでした。すまん、栗。すまん、栗餅。
そして謝ると共に、栗のビッグウェイブに再び乗ろうとも決めました。というわけで栗記事、第2弾です。
今回も、プチ旅情と共に丹波で栗菓子を買い食いするかと思いましたが、正直、行くのが面倒くさい。
あと、栗記事花火記事でもちょこちょこ書いてることですが、自分的には何か色々と、気まずい。
といって近場で済ますとなると、ただ単に買い食いだけで終わる話となり、ネタになるかどうか微妙。
近場で、ネタになり、いい感じの栗の店、ないかな。そう考えていて、松原通の力餅を思い出しました。
力餅。相生餅&千成餅と共に、京阪神にて謎のフランチャイズを形成してる餅系食堂のひとつです。
「餅」 という名前が示すように、この餅系食堂、元来はおはぎなどを扱う甘味処がルーツだそうで、
現在でも多くの店が、うどんや定食など一般的な食堂メニューに加えて甘味を扱ってはいるんですが、
松原通×東大路通の交差点近くに建つこちらの力餅は、10月に扱うその甘味がかなり、栗推し。
定番の栗餅に加えて、栗赤飯、そしてマロンケーキの如き栗蒸し羊羹が、普通の食堂に登場します。
何故この店がこんなに栗を推す理由はよくわかりませんし、正直言って特に興味もないんですが、
しかしこの栗ラッシュ、京都の市井に於ける季節感の味わい方をよりリアルな形で現わすものであり、
同時に 「人は秋になると、栗を食いたくなる」 ことを、如実な形で示すものとは言えるでしょう。
そんな力餅の栗餅・栗赤飯・栗蒸し羊羹、うどんと一緒にがっついて来ました。

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福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月18日(日)


福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治維新に至るまでの約1000年、日本では神と仏が入り混じってました
大陸より伝来したばかりの頃の仏教は、日本人の魂へ忍び込むにあたって、へと接近。
素朴なスタイルの信仰から脱却することについて苦悩を深めていた神も、仏にその救済を希求。
結果、 「神の本来の姿は仏 = 本地」 ということになり、神社の傍には本地を祀る神宮寺が建てられ、
寺の近くでは神が鎮守となって仏を守護するという、混淆の信仰形態が誕生・定着したのでした。
ある意味で野合に見えるこの混淆は、アーシーな小寺社だけで起こったものでは、無論ありません。
ロイヤルな寺社、それこそやんごとなき方々より崇敬を受けるような寺社であっても、事情は同じ。
私の地元にある石清水八幡宮は、二所宗廟の一つでありながらも最初から 「宮寺」 として創建され、
神が住まう男山には、 「男山四十八坊」 と称される大量の仏教施設がバカスカ建ちまくってたほど。
「どちらが手を叩いて、どちらが叩かないのか」 といった些末な作法にこだわる必要が全く無い、
神前読経など当たり前の大らかで豊かな信仰世界が、この国では長く長く息づき続けていたのです。
神道一直線宣言 aka 明治の廃仏毀釈は、そんな神仏習合の世界を、ほぼ根絶やしにしました。
が、明治以降は基本全否定&古いものを何でも有り難がる京都では、混淆の風習がいくつか残存。
福王寺神社の神輿巡行も、そんなかつての時代の息吹を感じさせてくれるものと言えるでしょう。
宇多天皇御母・班子女王が祭神のこの社は、宇多天皇が創建した世界遺産・仁和寺の守護でもあり、
その秋季大祭では、仁和寺より譲渡されたという神輿が、巨大な二王門の前で差し上げを敢行。
のみならず、石段を登って門をくぐり、さらには御室御所にまで入り、神仏が入り混じる式典も執行。
由緒も格もロイヤル極まりない寺院に於いて、古の神仏習合の様が全開になってしまうのです。
そんな福王寺の神輿、巡幸を全部追うのはしんど過ぎる為、仁和寺周辺だけ見てきました。
神輿と交通環境との微妙な関係も、ある種の風味としてお楽しみください。

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本格タイ料理店バーン・リムナームで、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2015年9月29日(火)


本格タイ料理店バーン・リムナームで、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

京料理・梅むらの記事の中で、 「にらみ川床」 なる冗談を書きました。
鴨川沿いにて夏場は川床を出す同店に、川床シーズン終了間際の9月末に入店したら、
案の定というか何というか川床がしっかり終わってて、止むなく室内にて弁当を食った顛末を、
「これは、にらみ川床という文化的遊びだ、意図的な遊びだ、断じてそうだ」 的に書いたわけです。
あれから丁度、4年。私も、かつては睨んでただけの川床へ、幾度か忍び込むようになりました
金が無いので昼床ばかりの侵入ではありますが、それでも幾度か忍び込むようになりました。
良く言えば、ちょっと、大人になりました。が、悪く言えば、ちょっと、慣れも出て来てしまいました。
これは、いかんのではないか。これでは、アウェー感をヒリヒリ感じることができんのではないか。
もう一度、初心に返るべきではないか。 「にらみ川床」 の際の気持ちを、思い出すべきではないか。
そう考えた私は、 「にらみ川床」 の元ネタたる 「にらみ鯛」 の川床での敢行を、決意したのです。
「にらみ川床」 の元ネタを川床にて睨むことで、己の魂へのリベンジを果たさんと、決意したのです。
生憎、リアル鯛をリアル川床で睨もうとしたら、床どころか看板だけを睨むことになってしまう為、
鯛は鯛でもカタカナの 「タイ」 、即ちタイ料理を睨むことにはなりましたが、しかしそれでもタイはタイ。
また、睨んだタイ料理が実に美味そうだったので、睨みそっちのけで食い切ったりもしてますが、
とにかく真なるリベンジを果たし、改めてこのサイトのコンセプト&スピリットを再確認したのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
2015年は川床ネタがひとつもやれてないことを、川床シーズン終了間際の9月末になって気付き、
団栗橋の近くにて川床も実装してるナイスなタイ料理店バーン・リムナームにて慌ててランチを食い、
その動機を捏造しようとして 「にらみ」 がどうこうと無理にゴネてるわけでは、断じてありません。
同店は普段使いもできる価格設定であり、飯が食える川床としては下手すると最安ゆえ、
財布的にも助かってうひゃひゃひゃというわけでも、断じてありません。

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京都みなみ会館の真夏のムカデ祭り in 京都へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年8月24日(月)


京都みなみ会館の真夏のムカデ祭り in 京都へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ムカデ祭り。夏の終わりの京都・東寺近辺に於いて繰り広げられる、謎の奇祭です。
世界遺産たる東寺の五重塔が、ムカデの構造に似てなくもないという事実が由来というこの祭、
元々は虫封を御利益とする 「ムカデ供養」 や 「ムカデ封じ」 がこじんまり行われるものでした。
しかし近年、 「人間の上の口と下の口を繋ぎ、ムカデ化する」 という映画 『ムカデ人間』 の影響で、
所謂 「ムカデプレイ」 が余興として闖入し、 「繋がり」 至上主義の世相にもマッチして、振興&浸透。
更には御近所・梅小路公園のその筋の方の中のくそみそな方も巻き込んで、もっと振興&浸透し、
現在は京都アングラシーンに於ける最大&最狂の奇祭として、その地位をすっかり確立しています。
で、その奇祭へ私も参加し、全てを受け入れる悦びで心臓をバクバクさせつつ他人の大便を食い、
前立腺が吊り切って肉離れを起こすような快楽と共に他人の口内へ大便をねじ込んできました。
というのは無論、嘘です。梅小路公園には確かにその筋の方がいますが、それ以外は全て、嘘です。
実際は、東寺近くの映画館・みなみ会館でそんなイベントがあったので、出かけただけの話です。
すんません、東寺の五重塔。すんません、梅小路公園。そして誰よりすんません、みなみ会館。
で、そのみなみ会館ですが、 「京都で映画といえば、みなみ会館」 と思う方は、きっと多いでしょう。
素敵な贈り物が届けられたりするDX東寺があるような、サウスエリアのディープゾーンにあって、
ディープな単館系作品ばかり上映し、ダークホース的な存在感と共にサヴァイヴしてる館であります。
編成を長きに亘り担ったRCSが離脱して以降、しばらくラインナップがガチのシネフィル寄りとなり、
「映画好きを気取りたいけど、本当はよくわからん」 というニワカな私は正直遠ざかってたんですが、
ムカデ祭りなるゲテモノイベントも最近は打ってくれるようになったので、今回出かけたわけです。
あ、 「真夏のムカデ祭り」 の実態は、映画 『ムカデ人間』 の新作公開に併せた、シリーズ集中上映。
伝説の 『1』『2』 、そして新作 『3』 を、3回に分けて、館周辺もうろつきながら観に行きましたよ。
えと、この記事、 「大便」 という単語が頻出し、後半は何故か大便の如き関西弁も爆裂する為、
「ちょっとディープな京都を知りたい」 という感じの方は、読まないことを強くお勧めしておきます。
あと一応言っときますが、こんな楽しい祭が毎夏あるわけでもないので。悪しからず。

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五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2015年8月16日(日)


五山送り火の大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

五山送り火。ござんのおくりび。間違いなく、京都の夏に於ける最大級の風物詩です。
お盆に際し現世へ帰って来た精霊 aka おしょらいさんを、再び冥界へ送る万灯籠の習俗が、
花の都で様々な影響を受け大規模化した末、闇夜にページェントを現出させるに至った、送り火。
炎で描かれた 「大文字」 「妙法」 「舟形」 「左大文字」 「鳥居形」 が街を囲むそのビジュアルは、
本来の目的たる信仰を集めると共に、 「夏の風物詩」 の枠を越え京都観光そのもののアイコン化。
ホテル屋上で酒の肴に眺める仏罰必定の輩から、五山コンプへ挑む自転車の珍走団に至るまで、
様々な阿呆に阿呆な意欲をも湧かせる巨大イベントとなっていることは、誰もが知る所でしょう。
そんな五山送り火、京都の超メジャースポットへの単独正面突破をモットーとする当サイトとしては、
本来なら絶対に見逃すわけにはいかない、何を差し置いても押さえておくべき行事ではあります。
しかし、これまで当サイトに送り火記事は、存在しませんでした。あらゆる形で、存在しませんでした。
決して、避けてたわけではありません。被災木材拒否でウンザリし、避けてたわけではありません。
逆です。ネタの採取は毎年、敢行し続けてきたのです。そして、全てに失敗し続けてきたのです
採取を始めた2011年は、自転車による五山コンプに挑むも、嵐山へ珍走する途中で、タイムアウト。
2012年は、懲りずに自転車でコンプに挑むも、北山通の混雑で躓き、舟形の手前で貧血ダウン。
2013年は、混雑回避を考え、敢えて徒歩&公共交通機関で挑むも、妙法を過ぎた辺で早速、アウト。
2014年は、発狂して全徒歩コンプに挑むも、大文字以外全アウト。と、失敗し続けてきたのです。
そして、各山の点火時間が繰り上がった2015年、私は流石に考えました。コンプはもう、止めようと。
むしろ、1年に1山ずつ回る方がまだ、いいかも。その方が、うちには、合うかも。そうだ、そうしよう。
というわけで当サイトは、五山送り火を5年かけてコンプする5ヵ年計画の発動を、ここに宣言します。
計画発動期間中、彼女が出来てサイト更新を辞めたり、または私が死んだりするかも知れませんし、
外出の面倒さから年数が6ヵ年とか8ヵ年とかに化ける可能性もありますが、とにかく宣言します。
で、記念すべき5ヵ年計画初年度のターゲットは無論、大文字。東山・如意ヶ嶽に浮かぶ、大文字。
「大文字焼き」 なる呼称さえ生んだ、五山送り火にとってキービジュアル的な存在の山です。
この大文字を、出町から北大路までの大混雑する加茂川西岸から、拝んでみました。

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中書島・長建寺の辨天祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年7月26日(日)


長建寺の辨天祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

この廓が世に知られたのは前にもふれたように淀川筋の船客を誘うたからであり、都名所図会拾遺
にも紹介されているとおり、 『旅客の船をとゞめ楊柳の蔭に盃をめぐらし』 という水郷的な趣きのせい
だった。 (中略) で、いつの頃からか廓の顔役達は弁天寺と結託して、毎年七月二十二日の夜に行
われるこの寺の夏祭を、船を主とした華麗な水上の祭として伏見名物の一つに仕上げていたのだ。
けだし中書島という廓の客引と宣伝をかねた最上の催しには違いなかった。
西口克己 『廓』

辨天祭 or 弁天祭、中書島長建寺にて7月下旬に行われている祭です。
中書島は、巨椋池宇治川に面した京都の港・伏見にあって、かつて遊廓が存在した街。
淀川水運と高瀬川の発着点に集まる旅人目当ての遊里として、江戸時代の創設以来大いに栄え、
近代に入り交通が陸路へシフトすると、今度は客を運ぶ市電京阪が開通してこれまた大いに栄え、
1958年に売春防止法が施行されるまで、 「楊柳の蔭に盃をめぐらし」 続けた街なのであります。
長建寺 aka 弁天寺は、そんな中書島に於ける 「島の弁天さん」 として、妓からも信仰を集めた寺。
夏祭にあたる弁天祭は、遊廓が健在だった頃には信仰&算盤勘定の両面から街全体が盛り上がり、
多くの船が河川交通技術をダイナミックに活かして、大阪・天神祭の如き饗宴を夜の水上で展開。
その様は 「洛南の三大奇祭」 のひとつとして広く知られ、大量の見物客≒遊客を街へと誘ったとか。
しかし売防法施行後の中書島は、風俗街へ転換するでもなく、他の産業へ転換するわけでもなく、
普通の飲み屋街&住宅街として現在に至り、廓と共生関係にあった弁天祭は規模を圧倒的に縮小。
「弁天さん柴おくれ、柴がいやなら銭おくれ」 と地元の子供が唱う弁天囃子の奉納も近年は絶え、
現在の祭は、山伏たちによる伏見の巡行、そして大柴灯護摩法要が夜空を焦がすのみとなってます。
では、弁天祭が単に衰退した祭かといえば、そうでもないんですよね。妙に、面白いんですよね。
衰退してるが故に、活性化の試みは色々と行われてるようで、この年も妙な女性団体の来客があり。
それが何か、面白かったんですよね。あと、山伏が伏見を歩くビジュアルも、それだけで面白いし。
というわけで今回は、その妙味を味わうと共に、街も散策。祭の現在の姿を見て来ました。
「洛南の奇祭」 は、果たして現在、どんな具合に 「奇祭」 なんでしょうか。

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京都文化博物館へ映画 『祇園祭』 を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年7月24日(金)


京都文化博物館へ映画 『祇園祭』 を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

映画 『祇園祭』 。1968年に公開された、その名の通り祇園祭の映画です。
といっても、ドキュメンタリーや記録映画などの類ではありません。完全な劇映画であります。
時代劇の大スターである中村 aka 萬屋錦之助が代表を務める日本映画復興協会の制作により、
当時の京都府知事・蜷川虎三の全面支援も受け、独立系作品として撮られた映画であります。
主演は無論、錦之助。ヒロインは、岩下志麻。脇には、田村高廣三船敏郎志村喬渥美清など。
更には高倉健や美空ひばりまで特別出演と、五社協定の枠を超えるそのキャスティングは、超豪華。
しかし、監督・伊藤大輔の降板や黒幕・竹中労の離脱など、製作中から泥沼の如く問題が多発し、
またキャストが豪華過ぎて権利関係まで泥沼化したのか、現在に至るもあらゆる形でソフトは、未発。
基本、リアル祇園祭の時期に京都文化博物館 aka 文博にて行われる上映しか拝む機会がない為、
言葉通り 「幻の映画」 or 「幻の超大作」 となってしまっている、極めてレアな作品なのです。
では 『祇園祭』 、レアさ加減に見合う面白さを誇る映画かといえば、ぶっちゃけ、そうでもありません。
さほど面白くなく、ネタになるほど酷くもなく、やたら散漫で混乱してて、そしてひたすら長いという。
「そんな映画、祭の最中に観る意義、あるのか」 という話ですが、しかし私は意義、あると思います。
最大の意義は何といっても、当時の祇園祭を巡る時代の空気のようなものが、匂える点でしょう。
1968年という年は、山鉾巡行の17日一本化 = 前祭・後祭合同巡行が開始された1966年の、2年後。
そして、いわゆる造反有理な 「60年代」 の真っ只中でもあり、京都的には革新府政も真っ只中。
この映画にも、「町衆が権力に屈さず立ち上がり、差別を含む旧弊・信仰の呪縛から自立を果たす」
「全ての人が17日の新たな祭へ自主的に集う」 的な、合同巡行肯定&時代の左臭が漂ってます。
半世紀を経て、 「新たな祭」 たる合同巡行が生んだ観光の馬鹿騒ぎは何よりも古臭い風物詩となり、
2014年の後祭復活により、合同巡行そのものまでが過去の遺物となったのは、御存知の通り。
しかしそれ故、混乱&暑苦しさと共に当時の空気を伝えるこの映画の存在は、貴重に思えるのです。
祇園祭を巡る思念・執念・妄想・思い込みなどの中で、何が残り、何が古くなり、何が消えるのか。
そして祇園祭では、どんな想いが仮託することを許され、どんな想いが弾き飛ばされるのか。
その辺を知るべく、後祭当日、本物の祭を尻目に文博へ行ってきました。

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祇園祭・後祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年7月23日(木)


祇園祭・後祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭・宵山への単独特攻、2011年の敢行以来、4年振りの復活でございます。
といっても今回特攻をかけたのは、7月16日の宵山ではなく、7月23日の宵山の方ですけど。
そう、山鉾巡行・後祭巡行の復活に伴い、こちらも復活成った 「あとのまつり」 の宵山であります。
山鉾巡行の本義は元来、祇園祭の神輿巡幸路に散在する疫神を掃除機の如く吸引し、浄めること。
神輿は、17日に八坂神社→御旅所の神幸24日に御旅所→八坂神社の還幸が行われるので、
山鉾巡行も当然ながら両日に行う必要がある、というか実際、ずっとそういう形で行われて来ました。
が、時代が昭和の高度成長期に至り、交通麻痺緩和&観光客の集中的集客を考えた京都市は、
山鉾巡行の前祭巡行&後祭巡行の統合、即ち、昭和モードとして認識されている合同巡行を提起。
1966年に山鉾巡行の17日一本化は開始され、前夜の宵山もまた16日へ一本化されたのであります。
以降、山鉾巡行の観光化は果てしなく進み、それと同時 or それ以上の勢いで宵山もまた、観光化。
浴衣コスプレの観光客&近隣エリアのDQNが10万単位で大量に集結する馬鹿騒ぎと成り果て、
あらゆる独な者にとって鬼門たる行事となっていたのは、2011年の特攻記事でも触れてる通りです。
しかし、祭を本来の形へ戻したいという山鉾町の願いは強く、21世紀以降は旧儀復活が本格化、
2014年には大船鉾と共に24日の後祭巡行が復活し、それに併せて23日の宵山も復活したのでした。
実に目出度い目出度いという話ですが、しかし約半世紀という長きブランクを挟んでの復活に際し、
後祭巡行は 「復活というより新設に等しい」 とも言われ、その辺の事情は後祭宵山もまた同じ。
その辺、どうなるかという話であります。外野の人間としては、実に無責任な興味が涌く点であります。
「宵山」 と聞けば蛾の如く集まる観光客&DQNにより、馬鹿騒ぎの日が増えるだけになるのか。
あるいは逆に、知名度が全然浸透せず、混雑が発生するほどの人出もない地味なものになるのか。
その辺を確認し、そして 「新設」 の雰囲気がどんなものなのかを、ざっくり拝ませてもらいました。
加えて、宵山の重要行事である日和神楽&南観音山の 「謎」 な風習・あばれ観音も、目撃。
「最新型」 の宵山は、独な者でも楽しみ方が見い出せるものになってるでしょうか。

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夏越祓の茅の輪をまたまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2015年6月30日(火)


夏越祓の茅の輪をまたまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

「夏越祓」 とは、読んで字の如く、本来は夏を越す際に行う御祓いのこと。
新暦が導入された現在なら、7月末~8月中旬あたりが元々のタイミングということになります。
8月初頭に下鴨神社で行われる矢取神社は、裸男たちによる矢の奪い合いに目が行きがちですが、
楼門にしっかり茅の輪が用意される通り、正しいタイミングで行われる夏越神事なわけですね。
とはいえ、現代の暦で生きる現代人の為の現代の社が、新暦にて神事を行うのもまた、尤もな話。
夏越祓も例外ではなく、大抵の神社に於いて夏越神事の類は、新暦6月末日に行われてます。
なので、 「夏越祓の茅の輪を、くぐってくぐってくぐりまくりたい」 などと阿呆なことをやらかすのなら、
多くの神社で大祓の神事が行われ、茅の輪が用意される6月末日に出かけるしかありません。
で、6月末日に出かけた場合、言うまでもなくこの時期は梅雨シーズンの真っ只中である為、
「水が無い月」 という旧月名が信じられないような勢いで雨に降られるのは、ほぼ間違いありません。
というわけで、当サイトの6月恒例行事である茅の輪くぐりまくり、2015年度は雨に降られました。
冒頭は持つかと思いましたが、途中から、降られました。それはもう見事に、降られました。
あらぬ快楽で悶え狂う独男的肉体&無力感と万能感の間で腐り続ける独男的精神を祓うべく、
スピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえとして続けてきた、夏越祓の茅の輪くぐりまくり。
2011年以降、毎年徘徊し続けてるわけですが、しかし、雨の直撃を受けたことはほぼ、なし。
「これこそ善行に励む私に対して神が授けた僥倖」 と、天に感謝することしきりだったんですが、
善行に励み過ぎる欲深さが嫌われたか、またはやはり独男であること自体があくまでも問題なのか、
あるいは今回徘徊したのが 「猛霊」 にして水神たる松尾神の影響下にあるエリアだった為か、
とにかく2015年の茅の輪くぐりまくりは、雨でずぶ濡れになりながら歩き続けることとなったのです。
そう、今回茅の輪を探し求めたのは、松尾大社・松尾祭と縁深き京都市南西エリアが、メイン。
JR桂川駅から出発して東北東へ進み、最終的には京阪清水五条駅へ到達する流れとなってます。
雨の中、どこまで歩けるか。計画を担保する正気と行動を担保する狂気を、どこまで保てるか。
例年に増して過酷かつ無意味な徘徊、私の疲労と徒労を共有して下さい。

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建仁寺塔頭・両足院へ半夏生の特別庭園公開を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年6月24日(水)


両足院へ半夏生の特別庭園公開を観に行きました。もちろん、ひとりで。

現代美術家の榎忠は、かつて、頭を半刈りにしてハンガリーへ赴きました
全身の片側の体毛を全て刈るという、文字通り 「半刈り」 の状態で彼の地へ赴いたわけです。
冗談では、ありません。いや、冗談を具現化することで現実を照射する試み、というべきでしょうか。
日本語のコンテクストの中でしか成立しない駄洒落を、自分自身の体を張ってオブジェクト化し、
コンテクストが全く通用しない場所へ単身赴き、その通用しなさ加減に身を晒すということ。
寝小便の沁みた蒲団の如きコンテクストを纏ったまま、 「やってみました」 と外部へ出るのではなく、
入国拒否などによりコンテクストの無力さを直接感得&体現し、不潔な蒲団を焼くということ。
その姿勢は、経済的無力化の進行と並行して 「貧者の核」 のようなコンテクストの暴力が横行し、
駄洒落レベルの言説がヴゥードゥーの如く呪力を持つ現代日本に於いてこそ、必要なのではないか。
こんな思索を半刈りについて巡らせた私は、建仁寺塔頭・両足院での半夏生の特別庭園公開を、
顔の半分だけを化粧した 「半化粧」 状態で観に行くことにした、というのは無論、嘘です。
両足院。祇園の真南に建つ臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺の、数多き塔頭のひとつであります。
南北朝時代、饅頭の祖・林浄因を連れて帰朝した建仁寺35世・龍山徳見を開山とする形で創建され、
天文年間の火災&再建を期に 「両足院」 へ改名し、再建を重ねながら現在に至る寺であります。
建仁寺といえば、何といっても俵屋宗達 『風神雷神図』 のオーナーとして名高い大寺なわけですが、
こちらの両足院も、近年人気がエスカレートしまくってる伊藤若冲作の 『雪梅雄鶏図』 をオウンド。
黒田官兵衛の長男・黒田長政ゆかりにして鞍馬寺の仏像胎内より出たという毘沙門像も祀り、
「饅頭発祥の寺」 という呼称もある名刹ですが、名刹ゆえか、毘沙門堂以外は基本的に非公開。
ただ、特別公開は時折行われ、葉が白く変化する半夏生が色づく梅雨時にも庭園特別公開を実施。
で、その特別公開へ今回、半刈りでも半化粧でもなく極々普通に出かけてみたというわけです。
私が纏う独男コンテクストを、半夏生の白い輝きは焼いてくれるでしょうか。

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新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年5月5日(火)


新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「新」 と書いて、 「しん」 と読まずして、 「いま」 と読む。
「本当」 と書いて 「マジ」 と読む類の話ではありません。新熊野神社の話です。マジです。
平安末期、陰謀&戦乱で忙しい後白河法皇が、その忙しさへ追い打ちをかけて熊野信仰へハマり、
何十回と紀州熊野詣を行うも気が済まず、京都・若王子へ熊野神を勧請するもまだ気が済まず、
より 「なう」 感覚を導入するかの如く、院政の舞台・法住寺殿の鎮守として創建された、新熊野神社
清盛らが担った造営に於いては、リアル熊野がある那智の砂が運び込まれたという説もあるなど、
後白河院個人のオブセッションを強く反映される形で創建された印象のある社ではあります。
が、後白河院亡き後もこの社は、現在では想像できない広大な社領&荘園を持つ社として、継続。
また、熊野は修験道の聖地でもある為、新熊野社に於いても多くの山伏が旺盛な活動を展開。
さらに室町時代に至ると、観阿弥世阿弥親子による猿楽能を、足利義満がこの社で初めて見物し、
能が幕府の庇護を受けるきっかけとなった 「能楽発祥の地」 としてのエピソードも、有名でしょう。
応仁の乱の兵火で一時 「わず」 状態へ陥りますが、江戸期に入ると聖護院などの力を借りて、再興。
「いま」 は、すっかり宅地化した今熊野の氏神的存在として、ネイティブで強い信仰を集めてます。
そんな新熊野神社が毎年5月5日のこどもの日、年に一度の例大祭として執行する神幸祭は、
千年単位のロイヤルな由緒と、 「なう」 な現在進行形の信仰の両方を、垣間見させてくれる祭です。
子供の神輿&マーチングバンドが登場するあたりは、実に宅地のネイティブ祭という感じですが、
氏子域の巡行にあたって神が乗るのは、一般的な神輿ではなくクラシックな鳳輦と、極めてロイヤル。
また聖護院との深き縁に因むのか、山伏による神仏習合全開な行列同行+鳳輦への読経もあり、
さらには獅子舞の演舞も大々的にフィーチャーするなど、賑やかで面白い祭となってます。
そんな 「いま」 の神幸祭、のんびり拝ませて頂きました。

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将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月4日(土)


将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

夜景を観たいという気持ちが、私は湧かないというか、そもそもよくわかりません。
函館長崎といった夜景で知られる街へ出かけた際も、特に観たいとは思いませんでした。
長崎では、道に迷った流れで偶然に夜景を観ることにはなりましたが、これといった感慨も湧かず、
むしろ迷路めいた街自体や、日常に紛れ込む被爆者向けの各種案内が印象に残ったものです。
人間には、空から地を見る人と、地から空を見る人の、2種類が存在するのかも知れません。
私はきっと、後者なんでしょう。空から地を見下しても、何かを読み取ることが出来ないんでしょう。
ある意味、 「夜景不感症」 なわけですが、この症状、京都の夜景がしょぼいことも一因と思われます。
巨大建造物も無く、海など自然の演出も無く、人々の細々とした生活が見えるだけの、京都の夜景。
不感症を誘発するネガティブ・イメージを植え付けられた人は、案外多いのではないでしょうか。
あんなん観て、どうすんのん、と。あんなん観て、何が面白いのん、と。阿呆ちゃうのん、と。
とはいえ、 「夜景は観るものではなく性的に活用するもの」 という元気な輩はどこにでもいるのであり、
また、己で己を 「空から地を見る人」 と言い聞かせたい煙のような習性を持つ輩もいるのであり、
こうした連中がしょぼ過ぎる夜景をわざわざ観るというスポットもまた、京都にはいくつか存在します。
その代表が、将軍塚。東山に連なる華頂山にあり、現在は青蓮院門跡・別院になってる塚です。
そもそもは、遷都先を探していた桓武天皇が、ここから盆地を見下ろし平安遷都を決めた場所であり、
遷都後は王城を霊的に守護すべく、完全武装した巨大な将軍像が埋められたという伝説もあり。
国家危機の際は、この将軍像が山を揺らし、鳴動を起こすというスピリチュアルな伝承も誇りますが、
高度成長期に東山ドライブウェイが開通すると、一転して夜景スポットしての世俗的な名声を獲得。
華頂山山中でサルベージされたという大日如来を祀る大日堂も、春・秋にはライトアップを展開し、
美しく照らし出された桜や紅葉がしょぼい夜景を盛り立てて、不感症の進行を防いでくれたりもします。
当サイトでは2011年、開花直前という意味不明なタイミングにて一度将軍塚を訪問してますが、
2014年に大規模な改装が行われたので、その確認も込みで今回、桜の季節に再訪してみました。
しょぼ過ぎる夜景は、桜の魔力により鮮やかな美景へと生まれ変わるのでしょうか。

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伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月2日(木)


伏見桃山城へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

再生産への強い欲求を示す数多くのエピソードを残しながらも、
その欲求の報われなさ加減に、ある種の 「呪い」 の存在さえ考えたくなる、豊臣秀吉
実子かどうかも怪しい実子・秀頼など、遺された豊臣宗家が辿った末路の悲惨さは言うに及ばず、
バカスカ建てまくり桃山文化を築いた豪華絢爛たる建築物もまた、その多くが現存しません。
無論それら建築物の破壊は、極めて現実的な政治的都合に左右された結果の場合が大半ですが、
中には、聚楽第のように存命中の秀吉自身が半狂乱で地上から完全抹殺したものもあったり、
昭和期まで生き残ったにも関わらず火災で焼失してしまった方広寺の大仏みたいなのもあったりと、
その 「跡」 の残らなさ加減は、何かの魔力、それこそ 「呪い」 の存在を勘ぐりたくなるほどです。
聚楽第&方広寺大仏の消滅が示す通り、京都はその 「呪い」 の傾向が異様なまでに顕著であり、
町を改造されて怒り心頭の町衆や、洛外へ強制移転させられて恨み骨髄の寺の坊主たちが、
1000年単位の呪いを集団でかけたんじゃないかとか思ったりするんですが、あなたどう思いますか。
で、今回訪れた伏見桃山城もまた、そんな 「呪い」 が作用してると思えてしまうスポットです。
秀吉が死した城・伏見城を、名城のエッセンスを寄せ集める形で昭和期に再建された、伏見桃山城。
築城された当時は近鉄電車が管理を行い、城の隣には 「キャッスルランド」 なる遊園地も開園、
城と一体化したレジャー施設としてそれなりの存在感を示してましたが、90年代以降は競合で苦戦。
結局、2003年に 「キャッスルランド」 が閉園し、ついでに城の管理も近鉄は放棄&京都市へ譲渡。
城の解体は何とか免れましたが、耐震性に問題があり、対策費用を捻出できないことも発覚し、
現在は内部への出入は完全禁止となり、昭和元禄の遺産としての存在感を日々増してます。
これはもう、 「呪い」 です。再建であっても、秀吉ゆかりの建造物は、京都では生き残れないのです。
と、適当過ぎる冗談はともかくとして、この昭和遺産に於いて近年良い感じで咲いてるのが、桜。
「呪い」 に対抗して秀吉の遺恨が作用したのか何なのか、大量の桜が見事に咲くようになりました。
あるいはその美しさもまた、城が孕む破滅の予兆に感応してのものかも知れませんが、
「夢の跡」 を模した 「夢」 の抜け殻に咲く夢、とにかく観てきました。

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大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月31日(火)


大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大石神社。京都・山科にあって、その名が示す通り、大石を祀る神社です。
といっても、巨大な石を御神体的に祀るといった、プリミティブな信仰が息づく社ではありません。
何ちゃらの何ちゃらとして余りにも有名な、大石良雄 aka 大石内蔵助を祀る神社であります。
大石内蔵助。江戸期の何ちゃら藩にあって何ちゃらに何ちゃらするものの、その何ちゃらが何ちゃら。
直ちに何ちゃらの為に何ちゃらを決意した大石は、入念なる何ちゃらを行った後、見事、何ちゃら。
その何ちゃら振りは 『何ちゃら』 として物語化され、日本人の心性に合ったのか神話レベルで浸透。
近年は日本のみならず、ハリウッドでRNN47的に何ちゃら化されたのも、記憶に新しいところです。
そんな大石が、何ちゃらの為に何ちゃらをする準備段階の際、隠棲してた地こそが、京都・山科。
何ちゃらの気配を敵に気取られぬ為の偽装か、あるいは単に都会に来て何ちゃらしたくなったのか、
伏見の色街・橦木町へ出かけては 「隠棲」 ならぬ 「淫性」 に励んだという説もあったりしますが、
とにかくそんな隠棲に於ける大石との縁に基づき創建されたのが、こちら大石神社なのであります。
創建されたのは昭和初期と、かなり最近。創建を提唱したのは、上方の浪曲師・吉田大和之丞
境内には、 『何ちゃら』 を演じたスターから奉納されたお宝アイテムを多数所蔵する宝物館が建ち、
また、戦前の関西圏に於ける芸能パワーの残り香が感じられる点でも興味深いスポットなんですが、
それと同時に、いや近年はある意味でそれ以上に人気を呼んでるのが、 「大石桜」 なる名の桜
神社創建の際、建設地に生えてた枝垂れ桜を境内に定植して、御神木にされたというこちらの桜は、
元々は名無しの御神木だったそうですが、親しまれる内に自然と 「大石桜」 なる呼称が定着。
現在は桜の名木として、正直さほどアクセスが良くない立地ながら、多くの参拝者を集めてます。
そんな大石桜、何ちゃらの何ちゃらを何ちゃらすべく、観に行ってきました。

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京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月13日(金)


京都・東山花灯路2015へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅葉終了直後の12月&桜開花直前の3月という観光閑散期に、
電飾を導入した無料の客寄せイベントとして嵐山&東山にて始まった、京都花灯路
その客層は、蛾の如く光へ群がる輩+蟻の如く無料を喜ぶ輩のWパンチという美しきものであり、
「京都観光の超メジャースポットへの単独正面突破」 という崇高なる趣旨を明確に示せる機会として、
当サイトでは2011年度の東山花灯路を皮切りとして、このイベントの定例特攻を続けてきました
が、その2011年は無論、東日本大震災が発生した年。それも、発生数日後に花灯路が始まった年。
関東圏を中心に各地で電気が止まる中、混乱状態で開催されたこの年の印象が強過ぎた為か、
私は花灯路について現在でも、阿呆な観光客を眺めて面白がるという阿呆な冷やかし根性と、
震災により叩きつけられたある種の根源的懐疑が、同時に惹起させられるという状態が続いてます。
グリーン発電であろうが何であろうが、ライトアップそのものが孕む何かに対する、根源的懐疑。
そして、実は京阪神エリアもまた地方へ原発を押しつけ続けてるという事実に対する、根源的懐疑。
震災から4年経ち、その懐疑に何らかの答えが出たかと言えば、そんなことは一切ありません。
また、問題の主因たる消費社会への反省が深まっているかと言えば、そんなことも一切ありません。
というか、事態の根源的などうにもならなさは、むしろより明確な姿となって我々の眼前に現前し、
そのどうにもならなさ故、一時はあちこちで乱用されていた 「絆」 や 「祈」 の文字も、段々と後景化。
東山花灯路2015の行灯文字でも、以前の 「祈」 に変わって、 「京」 の字が登場してたのでした。
ある種の積極性の回避という気配を除けば、無意味な記号性しか感じられない、 「京」 の字。
「あ~」 という感じなのであります。納得でもなく、落胆でもない、 「あ~」 という感じなのであります。
それこそ、無意味な記号のような響きで 「あ~」 という声が漏れる、そんな感じなのであります。
で、2015年はこんな感じだと言われたら、確かにそんな感じもするんですが、あなたどう思いますか。
そんな 「あ~」 な感じの東山花灯路2015、 「どんな感じだ」 という話になってて大変恐縮ですが、
今回も冷やかし根性と根源的懐疑が交錯してクラクラする頭で、特攻、やってきました。
適当な写真の羅列から 「あ~」 な感慨、感じてもらえると幸いです。

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城南宮へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


城南宮へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

城南宮。その名の通り、平安京の王城南方を守護する、ロイヤルな社です。
平安遷都以前からこの地に存在したという、神功皇后八千矛神を祀る真幡寸神社に、
遷都に際して国土の安泰を願い、国常立尊を併祀したことで生まれたともされている、城南宮。
その創建の由緒からしてロイヤルですが、平安末期には周囲で白河上皇鳥羽離宮造営を開始し、
院政の舞台にして我が国最大の離宮の中心へ立つこととなった城南宮は、鎮守の地位を確立。
また、この地は羅城門から伸びる鳥羽作道と淀川河港が接続するジャンクション地帯でもある為、
方角の災いから身を守り旅の無事を祈る方違え = 方除のロイヤルな宿所としても、地位を確立。
多くのやんごとなき方々が熊野石清水春日詣に際し、この社を精進所として身を清めたのでした。
そんな城南宮、離宮と共に栄華を極めた後、南北朝時代にはやはり離宮と共に一旦、荒廃。
しかし江戸期に入り、皇室への崇敬が回復したことで再興が成され、方除の神威への信仰も復活。
幕末には、この社の参道に置かれた大砲から鳥羽・伏見の戦いが始まり大変な目に遭うものの、
皇女和宮の江戸下向に際して方除祈祷を奉仕し、 「方除の大社」 の名声が更に広く流布。
現代に至り高度成長期に入れば、直近で名神高速道路が開通し、京都南インターチェンジも誕生、
城南宮は改めて 「京都の南の出入り口」 としての顔を確立し、新たな顧客である自動車も獲得。
「車の方除 = 交通安全」 として、自動車特化型の祈祷殿が出来るほどその信仰は盛んとなり、
現代のサウス民にとって城南宮は、恐らく 「南インターとこの車の神社」 に違いないのであります。
その盛んさは、 「車祈祷で儲かるから、庭園も出来たんやろ」 と勘ぐる輩が出そうなほどですが、
そんな下衆の勘ぐりを払拭する為か、城南宮、正月の七草粥はロイヤルなる旧暦にて開催。
で、今回はそのロイヤルなる七草粥を、車ではなく電車と徒歩で、ロイヤルに食べに行ったわけです。
ただ、粥だけではネタが足りず、しかも庭園は曲水の宴の際に見たので、社周辺の徘徊も決行。
IC近くのラブホ街をうろついたり、鳥羽離宮跡をうろついたり、やたら餅を食ったりしてます。
サウスな社の、ロイヤルさとロイヤルでなさ、共に楽しんでもらえると幸いです。

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2015年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月3日(火)


2015年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

節分めぐり、もうめぐるべき所は大体めぐってしまったんですよね。
2011年よりやってるこのネタ、1年毎に数ヵ所を回る為か、正直、かなりネタ切れ気味です。
無論、細かい所を穿っていけば、まだまだ色んな地域で色んな行事が行われてはいるんでしょう。
深層意識の内で今なお旧暦のタイムテーブルが拘束力を保持し続けてる為なのか何なのか、
「これこそが本来の年越し」 とでも言わんばかりに、正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
比較的小規模な行事もフォローし始めた場合、底無し沼状態へ突入することも予測されます。
しかし、当サイトの趣旨はあくまで、超メジャースポットおよび超メジャーイベントの単独正面突破。
「見ぃつけた!」 と幼児性を意図的に偽装してるつもりで無自覚に無知・無神経を垂れ流す輩や、
自己愛+承認欲求+山師根性から観光資源の乱獲に励む輩などとは、一線を画さざるを得ません。
というわけで、メジャー級スポットで行ってない節分って何処かあったかなと、しばらく悩んでました。
が、ありましたよ。松尾大社ですよ。 「洛西の総氏神」 として信仰を集める、松尾大社ですよ。
平安遷都より以前の創建という猛烈に古い歴史を持ちながら、現役仕様のネイティブ信仰を集め、
京都市西側の大半が含まれる巨大な氏子域と、凄まじく盛り上がる大祭・松尾祭を誇る、松尾大社。
そんな松尾大社の節分では、祇園祭に於ける奉納で京都でも御馴染みの石見神楽を招聘。
八岐大蛇がとぐろを巻く神楽の奉納と共に、無茶苦茶恐ろしい造形の顔した鬼が 「鬼の舞」 も披露。
豆撒きも無論行われ、松尾っぽいワイルドな豆争奪戦が、豆撒き自体より楽しかったりします。
なので2015年の節分は、まずそちらへ御邪魔して、正しく乾の方角から現れた鬼&豆撒きを堪能し、
続いて京都ウェッサイ節分シーンに於けるコアたる壬生寺を改めて訪問し、節分狂言を再堪能。
壬生寺では、2012年訪問時に金をケチって宿題にしたほおらく奉納を、今度はしっかり行い、
ついでといっては何ですが、近くの神泉苑でも念仏狂言援助の意味でほおらくを奉納してきました。
例年に増してコンセプトも大義もなく、ただただ流れてるだけの適当過ぎる節分彷徨ですが、
故に溢れるユルくて妙に多幸的な気分、感じてもらえると幸いです。

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ホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年12月24日(水)


大枝のラブホ街にあるホテル洛西にて過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。

「大枝」 と聞いたら、京都府民の多くは脊髄反射で 「柿」 と連想するでしょう。
実際、大枝の富有柿は名物ではあります。が、その歴史は、さほど古いものではありません。
御存知の方も多いでしょうが、富有柿の原産地は岐阜。大枝での栽培が始まったのは、昭和以降。
というか、徹底的に農村化したのも実は明治以降と、中々に面白い歴史をこの地は持ってます。
桓武天皇生母・高野新笠の母方のルーツたる大江氏から 「大江郷」 の名称が付いたという、大枝。
平安遷都以前から秦氏などの豪族が住んだとされ、現在も残る古墳が山のように作られましたが、
遷都以降は、平安京と山陰を結ぶ山陰道に於ける関所 = 「境界」 としての存在感が前景化。
都から見ると北西 = 鬼の進入口・乾に位置する為、中世までは酒呑童子伝説の恰好の舞台となり、
中世以後も、足利尊氏明智光秀といった反逆者が、ここから鬼の如く都へ侵攻したのでした。
近世に入り、鬼の住処も丹後の大江山へ移動すると、大枝は山陰街道の峠町としての存在感を強化。
旅人相手の商いを専業にする家が増え、茶屋や旅籠屋、休憩所が並ぶ宿場町となったのです。
そう、ここは明治以前の時点で既に、農業中心ではなくて商品経済に馴染んだ町だったわけですね。
維新後は、新峠建設で老ノ坂の峠町が衰退、明治32年の鉄道開通では大枝全体の状況も一変。
今は嵯峨野トロッコ鉄道として走るあの汽車へ、丹波の貨物はごっそり移り、山陰街道は急に閑散化。
街道で食ってた大枝は打撃を受け、商業中心から農業中心へと転進せざるを得なくなりました。
そこで、 「柿」 なわけですね。 作物を色々試した後、この地に合ったのが 「柿」 だったわけですね。
「柿」 と全く不似合いなインパクトを誇る大枝のラブホ街ですが、街道筋としての歴史を考えると、
ある意味、かつての時代の生々しい息吹 or 残り香を、現代に伝えるものと言えるのかも知れません。
大枝の変化は 「柿」 以降も止まることが無く、戦後は宅地に困った京都市の開発の歯牙にかかり、
「柿」 を潰す勢いでニュータウン開発が進行、文化的&景観的にラブホ街もなぎ倒す勢いです。
が、とりあえず今回は、ホテル洛西であります。元ラブホにて、ひとりで過ごす聖夜、続きであります。
京都魔界シーンのラスボス・首塚大明神の参拝から、飯、そしてラブホ窓から朝日を見るまで、
「境界」 が孕む妖しき魔力を見据えんとする孤独な精神戦、お付き合い下さい。

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ホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年12月24日(水)


大枝・沓掛のホテル洛西で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリークリスマス!!当サイト恒例の聖夜お泊まりネタ、2014年度版です。
異教の宗主生誕を姦淫&浪費で祝福する日本のクリスマスに、背を向け続けるこの阿呆企画、
プレハブ宿 or 寺の宿坊 or 町家宿一棟借りと、2010年より阿呆なお泊まりを延々続けてきましたが、
しかし2013年に至り、こんなアホ企画も何かしらテーマ的なものを孕むことになってしまいました。
2013年の聖夜を過ごしたのは、私の地元・八幡にある遊廓跡・橋本。そこの転業旅館・多津見旅館
京都と大阪の国境にして石清水八幡宮門前という、実に 「境界」 的な地で聖夜を過ごした結果、
私は、仇敵・クリスマスの本質の如きものとして、 「境界」 を意識することになってしまったのです。
本来の起源がローマの 「太陽神誕生祭」 = 冬至の日であるように、根元から様々な 「境界」 を孕み、
その 「境界」 性が、遊興や性的放埓へ人を駆り立てる魔力を発揮してると思われる、クリスマス。
そんな本質の如きものが、見えてしまった。単なる思いつきではあるものの、一応、見えてしまった。
見えてしまったのなら、追求すべきです。発端が思いつきであっても、テーマは追求すべきです。
というわけで、この適当テーマの深化を図り、2014年聖夜も 「境界」 にて過ごすことにしたのでした。
今回泊まったのは、ホテル洛西。西京区・大枝に建つ、ラブホが転業したホテルであります。
山陰道で京都から丹波へ抜ける老ノ坂の入口に位置し、古より国境として認識され続けてきた、大枝。
それ故に、都の北西 = 乾の方角より侵入するエイリアン = 鬼の住む地なる伝説も長く持つ、大枝。
現代にあっても、 「境界」 に多発しがちな心霊スポットを京都最強 or 最凶レベルで複数保持し、
これまた聖と聖が交錯する 「境界」 に多発しがちなエロゾーンも、現役ラブホ街としてしっかり保持。
郊外の開発で見え難くなった 「都の境」 を、ある意味、最も生々しく現在へ伝える場所なのです。
今回泊まったホテル洛西は、そんなラブホ街の一軒であり、一般ひとり客の宿泊も大丈夫なホテル。
「境界」 的な場所に建つゆえ、アクセスは若干不便ながら料金お手頃+部屋確保も楽とあって、
繁忙期に宿泊場所で困った観光客を中心として、色んな意味で色んな注目を集めてる宿であります。
そんな元ラブホでの聖夜お泊まり、件の心霊スポット訪問などと併せて、やらかしてみました。
クリスマスの本質は、 「境界」 が孕む魔力の本質は、見えるのでしょうか。

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