★★★★ - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 3

亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月21日(金)


中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

稲作が伝来する以前の縄文時代、日本人は、を主食として食ってたそうです。
収穫が比較的容易な場所に生え、イガを除けば採集も比較的容易な形で落ちてくれる、栗。
生で食え、火を通せば抜群に美味く、粉にすれば調理の幅も拡がり、更には保存も出来る、栗。
最大の魅力たる甘味が弱味になる可能性こそありますが、主食たる条件は充分にクリアしており、
ゆえに縄文期の遺跡からは人工的な栽培の痕跡さえ見つかってしまう、 「樹穀」 なわけであります。
この栗食の記憶、実は、現代人にも継承されてるんだとか。無意識の底で、息づいてるんだとか。
栗食の潜在記憶が、トロイの木馬の如く発動する為、我々は秋になると、栗を食いたくなるんだとか。
与太な話、と思われるでしょうか。しかし私は、何かしら納得出来るものを、感じなくもありません。
確かに栗は、妙です。特に現在の主食・米との関係性に於いて、他の果物と比べ圧倒的に、妙です。
この世に数多ある果物の中で、栗だけがほぼ唯一、米飯に対するがっつりとした侵入に成功し、
「栗ごはん」 or 「栗赤飯」 として、晩飯のメニューにも登板が可能な認知度を誇ってるという、謎。
同じ秋の果物仲間でありながら、梨ごはんも、柿ごはんも、葡萄ごはんも、そして蜜柑ごはんも、
決して到達することが出来ないマジョリティの地平に、栗ごはんだけが立っているという、謎。
豆を無理にでも果物扱いしない限り、栗が誇るこのぶっちぎりの独走状態は、説明がつきません。
栗には、何かがあるのではないか。今は 「果物」 のふりをしてるが、何かがあるのではないか。
何なら、 「御厨」 の読み仮名が示す様に日本の食の根幹にさえ繋がった、何かがあるのではないか。
日本人と食の問題を真摯に考え続けてきた当サイトとしては、この問題を看過出来ないと判断し、
米を依代とする手法を用いて栗の神秘にアプローチしようと考え、今回、桂の中村軒へ出かけました。
中村軒世界の名勝・桂離宮の畔にあって、かつら饅頭&麦代餅が名代として知られる名店です。
餅そのものの美味さで知られる中村軒ですが、秋になれば栗ぜんざいなど栗アイテムも多数、登場。
で、これら栗と餅の合体メニューを食いまくることで、 「主食の国譲り」 の謎へ迫ったのであります。
そう、これはあくまでも、新たなる挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
断じて、秋になると栗記事2本のアクセス数が不穏なまでに良いので、3本目の泥鰌を狙い、
また同時に、秋口の餅の美味さも堪能しようと思って出かけたのは、ありません。

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夏越祓の茅の輪を求めて乙訓をうろつきました。もちろん、ひとりで。

2016年6月30日(木)


夏越祓の茅の輪を求めて乙訓をうろつきました。もちろん、ひとりで。

茅の輪、よくよく考えてみると、いや考えてみるまでもなく、用意って大変なんですよね。
第一に、お金がかかるし。自分達で作っても、手間はかかるし、それにやっぱりお金もかかるし。
用意されてる神社は、費用と労力の調達に際して、しんどい思いをされてるかも知れないわけです。
そして、用意されない神社もまた、それはそれでしんどい思いをされてるかも知れないわけです。
なので、その辺の事情を考慮も配慮もしない奴が、夏越の恒例企画とか言ってあちこちの社を徘徊し、
茅の輪があったとかなかったとか書き散らすのは、あまり感心できる行いとは言えないでしょう。
のみならず、何なら 「あまり紹介できない小社をめぐる、良い機会」 などと思い上がった考えを抱き、
ある種の使命感さえ持ちながら徘徊を継続するに至っては、欺瞞極まる行為と断じるを得ません。
それでは、人の苦労を掠め取って娯楽化することに励む、消費者ボケの愚民と同じではないか。
娯楽化した挙句、 「楽しませてくれてありがとう」 などと捨て台詞を吐く、享楽乞食と同じではないか。
もっと、身を削らねばならない。この愚行を続けるのなら、せめてもっと、身を削らねばならない。
「参加型」 といった捏造された当事者性ではなく、身を削って 「他者」 としての真の当事者性を獲得し、
真の 「めぐりびと」 たる身体を以て、別の 「他者」 の祭祀に於ける祓いに望まねばならない。
その当事者性は、例えばそう、修行の如きプチ登山も交えたハードな方法で獲得すべきではないか。
それが、不埒なる 「めぐりびと」 が祓いに際して払うべき、最低限の礼儀というものではないか。
私は、そう考えました。そして、2016年の茅の輪くぐりまくりを、乙訓エリアにて行うことに、決めました。
乙訓。京都府の南西部にあって、 「おとくに」 という、中々な難読度を誇る名前の地であります。
その高難読度な地名が示す通り、このエリアは京都・山背のすぐ隣に立地する 「弟国」 として栄え、
プレ平安京たる長岡京を始めとして、やはりプレ平安まで遡るルーツを持つ寺社や旧跡も多数存在。
中世以後も、山崎の合戦に於ける 「天下分け目の天王山」 など、多くの名所を生んでる地です。
で、今回の茅の輪めぐりは、その乙訓にてまずは天王山の山越えを決行し、その先へ進む形で敢行。
めぐりの原罪を殺ぐべく、己の足・背筋・山師根性を削りながら、全行程を徒歩でやり抜きました。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、行先のネタが尽き、地元・八幡の川向・山崎から適当に歩き始めたのでは、ありません。
断じて、適当に山も登ったら地獄を食らい、その地獄を正当化してるのでも、ありません。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年5月18日(水)


御霊祭の5年連続追尾シャッフル記事、前篇の続きでございます。

御霊祭を見てて毎年感じていたのは、アーシーな祭だな、ということです。
怨霊化こそしてるものの皇族を祭神とし、京都御所からは氏神として崇敬された、御霊神社
その御霊神社の大祭であり、祇園祭など御霊会形式の祭祀のプロトタイプとも目される、御霊祭。
神幸エリアも正に都の中心たる上京がその大半であり、果ては御所でも神輿を差し上げまくり。
そんなロイヤルかつ都会的な祭に、アーシーさを感じるというのは、何だかお門違いとも思えます。
が、アーシーなんですよ。氏神祭的に、アーシーなんですよ。で、その感じが、独特なんですよ。
確かに御霊神社は、殺した弟の怨霊に苦しむ桓武帝により創建されたというロイヤルな伝承も持ち、
怨霊を防衛する都市 = 怨霊を恐怖する都市である平安京に、極めてマッチした社ではあります。
が、同時にこの社は、平安遷都以前より存在した出雲寺の鎮守という見方もあるらしいんですよね。
出雲寺は、出雲郷という所にあった寺。出雲郷は、現在の出雲路の辺 = 御霊神社の氏子圏内。
出雲郷では、その名が示す通り出雲国より移住してきた出雲氏が 「出雲臣」 としてエリアを形成し、
氏寺として出雲寺を、氏神としてその鎮守たる御霊神社の前身の社を、それぞれ祀ってたんだとか。
御霊神社の境内では、平安期の時点でもう荒廃した出雲寺の瓦が、出土したりするようですよ。
いや無論、だからといって 「この祭のOSは千年の時を越えた出雲郷だ」 と言うのは無理過ぎますし、
また御霊神社は現在でも実際に氏神である為、氏神祭の雰囲気が出るのは全く当然の話です。
が、あちこちの祭を追尾した私の目には、御霊祭のアーシーさは、確実に独特なものに見えます。
街の祭の感じとしてアーシーな、あの感じ。やっぱり、出雲郷と何か、関係があるんでしょうか。
本多健一 『中近世京都の祭礼と空間構造』 では、御霊会を起源に持つ主要祭礼の中で御霊祭が、
「唯一官祭的性格を持たなかった祭礼」 としていますが、その辺も何か、関係あるんでしょうか。
というわけで、そんな独特のアーシーさの伝達を主軸にシャッフル構成とした今回の御霊祭記事、
後篇は、ロイヤルにしてアーシーな差し上げ@御所から宮入までを、御覧いただきましょう。
「だからちゃんとルート教えろ」 という方は、やっぱり自力で調べて下さい。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年5月18日(水)


上御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、取材した全てのネタを、記事化してるわけではありません。
写真もメモもあるけど、記事にしてない。そんなケースが、全取材数の2割はあるでしょうか。
写真が今イチだとか、作る時間がないだとか、様々な理由でまあ、ペンディングしてるわけですね。
中には、 「毎年のように追尾していながら、今もって未記事化」 なんて祭も、なくはありません。
そのひとつが、御霊祭だったりします。それも、未記事化のまま、実に5年連続で追尾してたりします。
御霊祭。その名の通り、御霊神社の祭です。上と下がある御霊神社の内、上御霊神社の祭です。
最初にこの祭を追いかけたのは、2012年でした。で、上京を進む神幸列に、強い感銘を受けました。
また今出川口・小山郷・末廣会の神輿3基にも、強い感銘を受けました。が、写真が今イチでした。
なので、翌2013年も追尾しました。すると、神幸列も神輿も、前年とは全く違うルートを巡幸しました。
街中を進むあの感じを再び見たいと思い、2014年も追尾すると、巡幸ルートはまた全く別でした。
「なるほど、神輿が3基あるから氏子域も3つ存在し、ゆえに巡幸ルートもまた3通りあるのだ」 と考え、
ゆえに2015年は2012年と同ルートと踏み、四度追尾に挑むと、ルートはまたまた全く違いました。
で、2016年にはもう逆に、新ルートを楽しみに追尾へ出かけたら、今度は2012年と同じルートでした。
で、ああ4年周期かと納得し、ある程度の概観を得たとも考えて、今回の記事化に至ったわけです。
これだけ御霊祭の追尾を続けたのは、祭が持つ独特の雰囲気が一番の理由ではありますが、
5月18日に固定された開催日程と、巡幸範囲の手頃なサイジングもまた、理由の一部ではあります。
日程が固定だと、平日開催の年が当然多く、時間の都合がつかずに見落としが出るんですよね。
あと巡幸範囲は、かなり広いものの基本は街中であり、無理をすれば完全追尾も可能なんですよね。
そんなこんなで、追尾を5年もやってしまいました。で、記録も山のように溜まってしまいました。
というわけで当記事は、山のように溜まったその記録をフル活用すべく、時空を超えてシャッフルし、
ルートに拘らず、祭の大体の流れ+独特の空気感を伝えることを主軸に、まとめてみました。
「空気感とかいいから、ルート教えろ」 という方は、自力で調べて下さい。

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円福寺の春季萬人講へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年4月20日(水)


円福寺の春季萬人講へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「ホーさん」 の記憶というのが、辺境の地・八幡に生まれ育った私にもあります。
ディティール以上にその温度感で京都の恐怖を精緻に描いた入江敦彦 『怖いこわい京都』 で、
女学生の心へ謎の追跡恐怖を植え付ける 「怖いこわい人間」 として登場した、 「ホーさん」 。
その正体はといえば、単に禅宗の雲水さんが 「ほー」 と言いながら托鉢に出てるだけなんですが、
ただ、人間の声とも動物の声とも違う、そしてあらゆる自然の音とも違うあの声は、確かに、不気味。
「ほー」 と言いながら追いかけてくる恐怖をトラウマレベルで抱くことも、ない話ではないでしょう。
いや、僧侶や家元といったいわゆる 「白足袋族」 が社会ヒエラルキーの最上位を占める洛中では、
坊さん達のあの声は別の意味でホラーだったりするのかも知れませんが、その辺はまあともかく。
そんな洛中とは全然関係無い八幡の私が、何故この 「ホーさん」 の記憶を持つのかといえば、
八幡に禅宗の専門道場が存在し、そこの 「ホーさん」 が 「ほー」 と言いながら歩いてたからです。
その道場の名は、円福寺。正式名称、圓福寺。別名、達磨堂 or 江湖道場。山号は、なし。
筒井順慶の日和見で有名な洞ヶ峠の近くに立つ、臨済宗妙心寺派の最初の専門道場であります。
1783年、白隠の高弟&妙心寺塔頭・海福院第6世の斯経慧梁は、この地に道場建立を発願し、
聖徳太子自作と伝わる達磨尊像&寺号なども、地元の石清水八幡宮別当家・田中家からゲット。
かくして江湖道場が完成し、以後現在に至るまで雲水さんが托鉢などの修行に励んでるわけです。
大村しげの著作を読む方なら、文中に時折この寺名が登場するのを御記憶かも知れませんし、
山城地域の方には、毎冬 「ダイコンの木」 ニュースで登場する寺、として御馴染みかも知れません。
そんな円福寺、 「ホーさん」 の方は河岸を変えたのか、私はあまりその声を聞かなくなりましたが、
斯経禅師の遺命で始められた春&秋の萬人講 = 祈祷&お斎付き一般公開は、現在も盛況。
特に春季萬人講は、八幡名物・筍を主役にした精進料理を味わえる、いい機会にもなってます。
というわけで、精進ではなく精進料理を求め、近所の道場へ出かけてみました。

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2016年への年越しを、京都帝釈天で迎えました。もちろん、ひとりで。

2016年1月1日(金)


2016年への年越しを、京都帝釈天で迎えました。もちろん、ひとりで。

除夜の鐘を、108つ全部、撞きたい。そんな欲求に駆られるようになりました。
駆られるようになったのは、このサイトで阿呆な年越しネタをやらかすようになってからです。
あちこちの寺社へ忍び込み、鐘難民化したり撞けず終いに終わったりしてきた、当サイトの年越し。
そして、当然ながら地元の人に対して遠慮し、鐘の行列は最後の方へ並んできた、他所者の私。
毎年毎年、一歩も二歩も引いた状態で、こっそりと、ひっそりと、除夜の鐘を撞き続けてきたのでした。
2015年は遠慮不要であるはずの地元・八幡で年を越しましたが、しかし私はやはり、移民の子。
心の何処かで遠慮は、消えません。というか多分、行列がある限り遠慮する気持ちは、消えません。
こういう場に於いて独男というのは、本質的に気まずいものなのです。その気まずさは、忘れたくない。
しかし、それでも除夜の鐘は、撞きたい。いや、むしろ、何ならだからこそ、除夜の鐘は、撞きたい。
気兼ねなく鐘を撞いて、厄を祓いたい。108つの鐘を全て自分で撞いて、煩悩を全て吹き飛ばしたい。
阿呆な遠慮を延々と重ね続けた末に、私は、こんな阿呆な欲求に駆られるようになったのでした。
遠慮を大事にするあまりに正気を見失ったこの欲求、京都で実現する方法はいくつか考えられます。
ひとつは、寺の住職となり、鐘を独占すること。もうひとつは、自分の家に鐘を設置して、撞くこと。
そして、最も実現性が高くて尚且つ正気も保てる方法は、南丹市の京都帝釈天へ行くことです。
京都帝釈天。名が示す通り、京都の帝釈天でございます。立地的には 「府」 の帝釈天となりますが。
帝釈天というのは、言うまでもなく 「生まれも育ちも葛飾柴又」 というあれで有名な、あの帝釈天
京都にもあるんですよ、帝釈天。もちろん、庚申信仰もあるんですよ。更には、猿崇拝もあるんですよ。
780年に和気清麻呂によって丹波・紫雲山の中腹へ創建され、天長年間には空海が伽藍を整備、
中世は神護寺末の小倉寺として存続、近世以降は庚申信仰で庶民から慕われてるお堂であります。
そんな京都帝釈天、90年代に入ると、700mの坂道参道へ108つのミニ鐘 「願いの鐘」 を設置。
で、年越しの際は、夜通しでオープン。鐘を撞きながら参道を進み、お参りすることが出来るのです。
そう、除夜の鐘を全部、撞くことが出来るのです。108つを全部、自分で撞くことが出来るのです。
おまけに、迎える2016年は、サル年。猿崇拝もある庚申スポットとしては、正に当たり年となります。
ついでに、このお堂がある南丹市船枝は、私の本籍地の隣。いわば、真の地元であります。
これはもう、遠慮なく鐘を撞きまくれる。そう思い、南丹市まで行ってきました。

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随心院の秋期夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年11月29日(日)


随心院の秋期夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

門跡寺院が好きです。より細かく言うと、小ぢんまりとした門跡寺院が好きです。
具体的な寺名を挙げるなら、曼殊院霊鑑寺、そして今回訪れた随心院というところでしょうか。
江戸前期テイストを感じさせる伽藍が、狭めの境内にギュッと詰まって構成されてる、あの感じ。
直線&直角のインパクトがバキバキな配置ながらも、野郎丸出しな無骨さは全く感じない、あの感じ。
そして何より、エレガントな佇まいでありながら女子供が喜ぶユルさは断じて排除してる、あの感じ。
男好みの伽藍だと感じます。より細かく言うと、ある種の傾向を持つ男好みの伽藍だと感じます。
「美」 しか取柄が無くなった者たちが、制度上でも明白に 「美」 しか取柄が無くなった丁度その頃に、
凡俗には想像も出来ないような想いから作り上げたのであろう、小ぢんまりとした 「美」 の箱庭。
と、こんな風に、やんごとなき方々のやんごとなき心模様をとことん勝手に妄想したりしながら、
これら門跡に漂う独特の 「圧」 みたいなもの、ある種の傾向の 「男」 な感じを、堪能してるわけです。
よくよく考えてみると、というか考えるまでもなく、随心院は小野小町ゆかりの寺として有名であり、
春先になれば 「女子供」 以外の何物でもない可愛い女子たちが踊る 『はねず踊り』 も行われ、
受付では 「恋みくじ」 や 「小町香」なんてのも取り扱ってる、極めて女子力高めな寺ではあります。
また、有名な梅苑があるくらい境内もなかなかに広く、メイン建築たる本堂も桃山期のものだったりと、
「狭い」 「江戸前期」 さえ当てはまらなかったりしますが、でも、男好みの印象は変わりません。
本堂と同じかそれ以上に、本堂をとり囲む伽藍が良いんですよね。公家より寄進された、伽藍が。
多くの門跡が入山した九条二条両宮家の寄進により、江戸初期に再興された書院・玄関・能の間。
ギュッと詰まってて、直線&直角バキバキで、エレガント。そして、明らかに 「圧」 もたっぷりある。
たまりません。何か、書けば書くほど変態じみて来るような気がして色々不安ですが、たまりません。
そんなたまらん随心院、実は紅葉も名物で、秋ともなればライトアップの夜間特別拝観も実施。
紅葉の美しさはもちろんですが、男好みな伽藍の夜の姿を観れるのもまた、至福だったりします。
というわけで醍醐へ出かけ、紅葉と共に闇と 「圧」 も、一緒に堪能して来ました。

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松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月21日(水)


松原通の力餅食堂・加藤商店で、 栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2013年に上げた栗餅の記事、思ってた以上に多くの人が見てくれるんですよ。
「両親の郷里・丹波へ名物の栗を食いに行く」 という、かなり私的な気分で作った記事であり、
川床カフェめぐりのように狙って作ったものではなかったんですが、やはり食いもんネタは強いなと。
しかも、 「京都 丹波栗」 という感じでブランド名を打ち込み飛んでくるタイプの方は案外と少なく、
ずばり 「栗」 あるいは 「栗餅」 と、栗食本位なワードで来られる方が多いのにも、感銘を受けました。
どうやら人は秋になると、丹波など産地やブランドに関係なく、栗を食いたくなる生き物のようです。
私は、栗を過小評価していた自身の不明に、気付かされたのでした。すまん、栗。すまん、栗餅。
そして謝ると共に、栗のビッグウェイブに再び乗ろうとも決めました。というわけで栗記事、第2弾です。
今回も、プチ旅情と共に丹波で栗菓子を買い食いするかと思いましたが、正直、行くのが面倒くさい。
あと、栗記事花火記事でもちょこちょこ書いてることですが、自分的には何か色々と、気まずい。
といって近場で済ますとなると、ただ単に買い食いだけで終わる話となり、ネタになるかどうか微妙。
近場で、ネタになり、いい感じの栗の店、ないかな。そう考えていて、松原通の力餅を思い出しました。
力餅。相生餅&千成餅と共に、京阪神にて謎のフランチャイズを形成してる餅系食堂のひとつです。
「餅」 という名前が示すように、この餅系食堂、元来はおはぎなどを扱う甘味処がルーツだそうで、
現在でも多くの店が、うどんや定食など一般的な食堂メニューに加えて甘味を扱ってはいるんですが、
松原通×東大路通の交差点近くに建つこちらの力餅は、10月に扱うその甘味がかなり、栗推し。
定番の栗餅に加えて、栗赤飯、そしてマロンケーキの如き栗蒸し羊羹が、普通の食堂に登場します。
何故この店がこんなに栗を推す理由はよくわかりませんし、正直言って特に興味もないんですが、
しかしこの栗ラッシュ、京都の市井に於ける季節感の味わい方をよりリアルな形で現わすものであり、
同時に 「人は秋になると、栗を食いたくなる」 ことを、如実な形で示すものとは言えるでしょう。
そんな力餅の栗餅・栗赤飯・栗蒸し羊羹、うどんと一緒にがっついて来ました。

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福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年10月18日(日)


福王子神社の秋季大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治維新に至るまでの約1000年、日本では神と仏が入り混じってました
大陸より伝来したばかりの頃の仏教は、日本人の魂へ忍び込むにあたって、へと接近。
素朴なスタイルの信仰から脱却することについて苦悩を深めていた神も、仏にその救済を希求。
結果、 「神の本来の姿は仏 = 本地」 ということになり、神社の傍には本地を祀る神宮寺が建てられ、
寺の近くでは神が鎮守となって仏を守護するという、混淆の信仰形態が誕生・定着したのでした。
ある意味で野合に見えるこの混淆は、アーシーな小寺社だけで起こったものでは、無論ありません。
ロイヤルな寺社、それこそやんごとなき方々より崇敬を受けるような寺社であっても、事情は同じ。
私の地元にある石清水八幡宮は、二所宗廟の一つでありながらも最初から 「宮寺」 として創建され、
神が住まう男山には、 「男山四十八坊」 と称される大量の仏教施設がバカスカ建ちまくってたほど。
「どちらが手を叩いて、どちらが叩かないのか」 といった些末な作法にこだわる必要が全く無い、
神前読経など当たり前の大らかで豊かな信仰世界が、この国では長く長く息づき続けていたのです。
神道一直線宣言 aka 明治の廃仏毀釈は、そんな神仏習合の世界を、ほぼ根絶やしにしました。
が、明治以降は基本全否定&古いものを何でも有り難がる京都では、混淆の風習がいくつか残存。
福王寺神社の神輿巡行も、そんなかつての時代の息吹を感じさせてくれるものと言えるでしょう。
宇多天皇御母・班子女王が祭神のこの社は、宇多天皇が創建した世界遺産・仁和寺の守護でもあり、
その秋季大祭では、仁和寺より譲渡されたという神輿が、巨大な二王門の前で差し上げを敢行。
のみならず、石段を登って門をくぐり、さらには御室御所にまで入り、神仏が入り混じる式典も執行。
由緒も格もロイヤル極まりない寺院に於いて、古の神仏習合の様が全開になってしまうのです。
そんな福王寺の神輿、巡幸を全部追うのはしんど過ぎる為、仁和寺周辺だけ見てきました。
神輿と交通環境との微妙な関係も、ある種の風味としてお楽しみください。

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京田辺市・大住へ大住隼人舞を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2015年10月14日(水)


京田辺市・大住へ大住隼人舞を観に行きました。もちろん、ひとりで。

高校へ進学して驚いたのは、 「郊外の人」 なる人達が実在した、ということです。
大住中学校なる学校から進学して来たその連中は、近年に開発された京田辺市・大住に住み、
「世界にいるのは中流だけで、それ以外の奴は嘘ついてゴネてる」 とでも思ってるような人達でした。
私が住む隣の八幡もまた宅地開発は活発であり、人口の大半は郊外の移住者だったりしますが、
同時に巨大な同和地区が存在し、駅周辺には私が育った流入貧民が多く住むエリアも存在する為、
何というか、 「世界には中流しかいない」 といった考え方を持つのは、難しかったりするのです。
で、流入貧民の子である私には、そんな郊外的な大住中生が何とも不思議な連中に見えたのでした。
で、そんな大住中生が、毎年10月に隼人舞を踊るというのもまた、私には不思議に思えたりします。
隼人舞。大住隼人舞。古代の南九州に居住した隼人の舞を、京田辺市・大住で復興した舞です。
神代より帝との縁を持ち、勇猛さと呪力を買われ霊的警護や歌舞奉納などで王朝に近習した、隼人。
大和王権が中央集権化を進めた奈良時代には 「隼人の反乱」 を起こすも、やがて順化&同化。
反乱以前より都周辺への移配も行われ、定住した隼人は 「畿内隼人」 として朝廷との関係を深め、
海幸彦&山幸彦神話に基づくという 「隼人舞」 などを、服属儀礼として奉納し続けたのでした。
で、大住は、大隅から来た畿内隼人が住んだ地らしいのであります。で、隼人舞なわけであります。
で、その隼人舞を踊らされる、ではなく、踊ることになってるのが、地元の大住中生なわけであります。
ひょっとしたら、千年以上の歴史を持つ畿内隼人の子孫も多少は混じってるかも知れませんが、
大半は郊外の、新たに開発された宅地で育った、私を驚かせた連中の後輩が踊るわけであります。
故に、舞の感じは、そんな感じです。 「そんな感じ」 とはどんな感じかといえば、そんな感じです。
衣装や舞台のビジュアルは極めて映えますが、でも全体的には、そんな感じです。まあ、当然です。
しかし、全然何の縁もゆかりも無い人間が 「隼人」 に扮して、 「踊らされる」 舞を踊るというのは、
同じ民族を異族と看做してオリエンタリズムを楽しんでいたかも知れない 「隼人舞」 の復活としては、
ある意味近いものがあるかも、と本気で思ったのは無論嘘ですが、でも、あるかも知れません。
そんな大住隼人舞、観に行きました。彼等はまた、私を驚かせてくれるでしょうか。

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本格タイ料理店バーン・リムナームで、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2015年9月29日(火)


本格タイ料理店バーン・リムナームで、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

京料理・梅むらの記事の中で、 「にらみ川床」 なる冗談を書きました。
鴨川沿いにて夏場は川床を出す同店に、川床シーズン終了間際の9月末に入店したら、
案の定というか何というか川床がしっかり終わってて、止むなく室内にて弁当を食った顛末を、
「これは、にらみ川床という文化的遊びだ、意図的な遊びだ、断じてそうだ」 的に書いたわけです。
あれから丁度、4年。私も、かつては睨んでただけの川床へ、幾度か忍び込むようになりました
金が無いので昼床ばかりの侵入ではありますが、それでも幾度か忍び込むようになりました。
良く言えば、ちょっと、大人になりました。が、悪く言えば、ちょっと、慣れも出て来てしまいました。
これは、いかんのではないか。これでは、アウェー感をヒリヒリ感じることができんのではないか。
もう一度、初心に返るべきではないか。 「にらみ川床」 の際の気持ちを、思い出すべきではないか。
そう考えた私は、 「にらみ川床」 の元ネタたる 「にらみ鯛」 の川床での敢行を、決意したのです。
「にらみ川床」 の元ネタを川床にて睨むことで、己の魂へのリベンジを果たさんと、決意したのです。
生憎、リアル鯛をリアル川床で睨もうとしたら、床どころか看板だけを睨むことになってしまう為、
鯛は鯛でもカタカナの 「タイ」 、即ちタイ料理を睨むことにはなりましたが、しかしそれでもタイはタイ。
また、睨んだタイ料理が実に美味そうだったので、睨みそっちのけで食い切ったりもしてますが、
とにかく真なるリベンジを果たし、改めてこのサイトのコンセプト&スピリットを再確認したのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
2015年は川床ネタがひとつもやれてないことを、川床シーズン終了間際の9月末になって気付き、
団栗橋の近くにて川床も実装してるナイスなタイ料理店バーン・リムナームにて慌ててランチを食い、
その動機を捏造しようとして 「にらみ」 がどうこうと無理にゴネてるわけでは、断じてありません。
同店は普段使いもできる価格設定であり、飯が食える川床としては下手すると最安ゆえ、
財布的にも助かってうひゃひゃひゃというわけでも、断じてありません。

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京都みなみ会館の真夏のムカデ祭り in 京都へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年8月24日(月)


京都みなみ会館の真夏のムカデ祭り in 京都へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ムカデ祭り。夏の終わりの京都・東寺近辺に於いて繰り広げられる、謎の奇祭です。
世界遺産たる東寺の五重塔が、ムカデの構造に似てなくもないという事実が由来というこの祭、
元々は虫封を御利益とする 「ムカデ供養」 や 「ムカデ封じ」 がこじんまり行われるものでした。
しかし近年、 「人間の上の口と下の口を繋ぎ、ムカデ化する」 という映画 『ムカデ人間』 の影響で、
所謂 「ムカデプレイ」 が余興として闖入し、 「繋がり」 至上主義の世相にもマッチして、振興&浸透。
更には御近所・梅小路公園のその筋の方の中のくそみそな方も巻き込んで、もっと振興&浸透し、
現在は京都アングラシーンに於ける最大&最狂の奇祭として、その地位をすっかり確立しています。
で、その奇祭へ私も参加し、全てを受け入れる悦びで心臓をバクバクさせつつ他人の大便を食い、
前立腺が吊り切って肉離れを起こすような快楽と共に他人の口内へ大便をねじ込んできました。
というのは無論、嘘です。梅小路公園には確かにその筋の方がいますが、それ以外は全て、嘘です。
実際は、東寺近くの映画館・みなみ会館でそんなイベントがあったので、出かけただけの話です。
すんません、東寺の五重塔。すんません、梅小路公園。そして誰よりすんません、みなみ会館。
で、そのみなみ会館ですが、 「京都で映画といえば、みなみ会館」 と思う方は、きっと多いでしょう。
素敵な贈り物が届けられたりするDX東寺があるような、サウスエリアのディープゾーンにあって、
ディープな単館系作品ばかり上映し、ダークホース的な存在感と共にサヴァイヴしてる館であります。
編成を長きに亘り担ったRCSが離脱して以降、しばらくラインナップがガチのシネフィル寄りとなり、
「映画好きを気取りたいけど、本当はよくわからん」 というニワカな私は正直遠ざかってたんですが、
ムカデ祭りなるゲテモノイベントも最近は打ってくれるようになったので、今回出かけたわけです。
あ、 「真夏のムカデ祭り」 の実態は、映画 『ムカデ人間』 の新作公開に併せた、シリーズ集中上映。
伝説の 『1』『2』 、そして新作 『3』 を、3回に分けて、館周辺もうろつきながら観に行きましたよ。
えと、この記事、 「大便」 という単語が頻出し、後半は何故か大便の如き関西弁も爆裂する為、
「ちょっとディープな京都を知りたい」 という感じの方は、読まないことを強くお勧めしておきます。
あと一応言っときますが、こんな楽しい祭が毎夏あるわけでもないので。悪しからず。

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夏越祓の茅の輪をまたまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2015年6月30日(火)


夏越祓の茅の輪をまたまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

「夏越祓」 とは、読んで字の如く、本来は夏を越す際に行う御祓いのこと。
新暦が導入された現在なら、7月末~8月中旬あたりが元々のタイミングということになります。
8月初頭に下鴨神社で行われる矢取神社は、裸男たちによる矢の奪い合いに目が行きがちですが、
楼門にしっかり茅の輪が用意される通り、正しいタイミングで行われる夏越神事なわけですね。
とはいえ、現代の暦で生きる現代人の為の現代の社が、新暦にて神事を行うのもまた、尤もな話。
夏越祓も例外ではなく、大抵の神社に於いて夏越神事の類は、新暦6月末日に行われてます。
なので、 「夏越祓の茅の輪を、くぐってくぐってくぐりまくりたい」 などと阿呆なことをやらかすのなら、
多くの神社で大祓の神事が行われ、茅の輪が用意される6月末日に出かけるしかありません。
で、6月末日に出かけた場合、言うまでもなくこの時期は梅雨シーズンの真っ只中である為、
「水が無い月」 という旧月名が信じられないような勢いで雨に降られるのは、ほぼ間違いありません。
というわけで、当サイトの6月恒例行事である茅の輪くぐりまくり、2015年度は雨に降られました。
冒頭は持つかと思いましたが、途中から、降られました。それはもう見事に、降られました。
あらぬ快楽で悶え狂う独男的肉体&無力感と万能感の間で腐り続ける独男的精神を祓うべく、
スピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえとして続けてきた、夏越祓の茅の輪くぐりまくり。
2011年以降、毎年徘徊し続けてるわけですが、しかし、雨の直撃を受けたことはほぼ、なし。
「これこそ善行に励む私に対して神が授けた僥倖」 と、天に感謝することしきりだったんですが、
善行に励み過ぎる欲深さが嫌われたか、またはやはり独男であること自体があくまでも問題なのか、
あるいは今回徘徊したのが 「猛霊」 にして水神たる松尾神の影響下にあるエリアだった為か、
とにかく2015年の茅の輪くぐりまくりは、雨でずぶ濡れになりながら歩き続けることとなったのです。
そう、今回茅の輪を探し求めたのは、松尾大社・松尾祭と縁深き京都市南西エリアが、メイン。
JR桂川駅から出発して東北東へ進み、最終的には京阪清水五条駅へ到達する流れとなってます。
雨の中、どこまで歩けるか。計画を担保する正気と行動を担保する狂気を、どこまで保てるか。
例年に増して過酷かつ無意味な徘徊、私の疲労と徒労を共有して下さい。

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建仁寺塔頭・両足院へ半夏生の特別庭園公開を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年6月24日(水)


両足院へ半夏生の特別庭園公開を観に行きました。もちろん、ひとりで。

現代美術家の榎忠は、かつて、頭を半刈りにしてハンガリーへ赴きました
全身の片側の体毛を全て刈るという、文字通り 「半刈り」 の状態で彼の地へ赴いたわけです。
冗談では、ありません。いや、冗談を具現化することで現実を照射する試み、というべきでしょうか。
日本語のコンテクストの中でしか成立しない駄洒落を、自分自身の体を張ってオブジェクト化し、
コンテクストが全く通用しない場所へ単身赴き、その通用しなさ加減に身を晒すということ。
寝小便の沁みた蒲団の如きコンテクストを纏ったまま、 「やってみました」 と外部へ出るのではなく、
入国拒否などによりコンテクストの無力さを直接感得&体現し、不潔な蒲団を焼くということ。
その姿勢は、経済的無力化の進行と並行して 「貧者の核」 のようなコンテクストの暴力が横行し、
駄洒落レベルの言説がヴゥードゥーの如く呪力を持つ現代日本に於いてこそ、必要なのではないか。
こんな思索を半刈りについて巡らせた私は、建仁寺塔頭・両足院での半夏生の特別庭園公開を、
顔の半分だけを化粧した 「半化粧」 状態で観に行くことにした、というのは無論、嘘です。
両足院。祇園の真南に建つ臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺の、数多き塔頭のひとつであります。
南北朝時代、饅頭の祖・林浄因を連れて帰朝した建仁寺35世・龍山徳見を開山とする形で創建され、
天文年間の火災&再建を期に 「両足院」 へ改名し、再建を重ねながら現在に至る寺であります。
建仁寺といえば、何といっても俵屋宗達 『風神雷神図』 のオーナーとして名高い大寺なわけですが、
こちらの両足院も、近年人気がエスカレートしまくってる伊藤若冲作の 『雪梅雄鶏図』 をオウンド。
黒田官兵衛の長男・黒田長政ゆかりにして鞍馬寺の仏像胎内より出たという毘沙門像も祀り、
「饅頭発祥の寺」 という呼称もある名刹ですが、名刹ゆえか、毘沙門堂以外は基本的に非公開。
ただ、特別公開は時折行われ、葉が白く変化する半夏生が色づく梅雨時にも庭園特別公開を実施。
で、その特別公開へ今回、半刈りでも半化粧でもなく極々普通に出かけてみたというわけです。
私が纏う独男コンテクストを、半夏生の白い輝きは焼いてくれるでしょうか。

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大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年3月31日(火)


大石神社へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

大石神社。京都・山科にあって、その名が示す通り、大石を祀る神社です。
といっても、巨大な石を御神体的に祀るといった、プリミティブな信仰が息づく社ではありません。
何ちゃらの何ちゃらとして余りにも有名な、大石良雄 aka 大石内蔵助を祀る神社であります。
大石内蔵助。江戸期の何ちゃら藩にあって何ちゃらに何ちゃらするものの、その何ちゃらが何ちゃら。
直ちに何ちゃらの為に何ちゃらを決意した大石は、入念なる何ちゃらを行った後、見事、何ちゃら。
その何ちゃら振りは 『何ちゃら』 として物語化され、日本人の心性に合ったのか神話レベルで浸透。
近年は日本のみならず、ハリウッドでRNN47的に何ちゃら化されたのも、記憶に新しいところです。
そんな大石が、何ちゃらの為に何ちゃらをする準備段階の際、隠棲してた地こそが、京都・山科。
何ちゃらの気配を敵に気取られぬ為の偽装か、あるいは単に都会に来て何ちゃらしたくなったのか、
伏見の色街・橦木町へ出かけては 「隠棲」 ならぬ 「淫性」 に励んだという説もあったりしますが、
とにかくそんな隠棲に於ける大石との縁に基づき創建されたのが、こちら大石神社なのであります。
創建されたのは昭和初期と、かなり最近。創建を提唱したのは、上方の浪曲師・吉田大和之丞
境内には、 『何ちゃら』 を演じたスターから奉納されたお宝アイテムを多数所蔵する宝物館が建ち、
また、戦前の関西圏に於ける芸能パワーの残り香が感じられる点でも興味深いスポットなんですが、
それと同時に、いや近年はある意味でそれ以上に人気を呼んでるのが、 「大石桜」 なる名の桜
神社創建の際、建設地に生えてた枝垂れ桜を境内に定植して、御神木にされたというこちらの桜は、
元々は名無しの御神木だったそうですが、親しまれる内に自然と 「大石桜」 なる呼称が定着。
現在は桜の名木として、正直さほどアクセスが良くない立地ながら、多くの参拝者を集めてます。
そんな大石桜、何ちゃらの何ちゃらを何ちゃらすべく、観に行ってきました。

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城南宮へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


城南宮へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

城南宮。その名の通り、平安京の王城南方を守護する、ロイヤルな社です。
平安遷都以前からこの地に存在したという、神功皇后八千矛神を祀る真幡寸神社に、
遷都に際して国土の安泰を願い、国常立尊を併祀したことで生まれたともされている、城南宮。
その創建の由緒からしてロイヤルですが、平安末期には周囲で白河上皇鳥羽離宮造営を開始し、
院政の舞台にして我が国最大の離宮の中心へ立つこととなった城南宮は、鎮守の地位を確立。
また、この地は羅城門から伸びる鳥羽作道と淀川河港が接続するジャンクション地帯でもある為、
方角の災いから身を守り旅の無事を祈る方違え = 方除のロイヤルな宿所としても、地位を確立。
多くのやんごとなき方々が熊野石清水春日詣に際し、この社を精進所として身を清めたのでした。
そんな城南宮、離宮と共に栄華を極めた後、南北朝時代にはやはり離宮と共に一旦、荒廃。
しかし江戸期に入り、皇室への崇敬が回復したことで再興が成され、方除の神威への信仰も復活。
幕末には、この社の参道に置かれた大砲から鳥羽・伏見の戦いが始まり大変な目に遭うものの、
皇女和宮の江戸下向に際して方除祈祷を奉仕し、 「方除の大社」 の名声が更に広く流布。
現代に至り高度成長期に入れば、直近で名神高速道路が開通し、京都南インターチェンジも誕生、
城南宮は改めて 「京都の南の出入り口」 としての顔を確立し、新たな顧客である自動車も獲得。
「車の方除 = 交通安全」 として、自動車特化型の祈祷殿が出来るほどその信仰は盛んとなり、
現代のサウス民にとって城南宮は、恐らく 「南インターとこの車の神社」 に違いないのであります。
その盛んさは、 「車祈祷で儲かるから、庭園も出来たんやろ」 と勘ぐる輩が出そうなほどですが、
そんな下衆の勘ぐりを払拭する為か、城南宮、正月の七草粥はロイヤルなる旧暦にて開催。
で、今回はそのロイヤルなる七草粥を、車ではなく電車と徒歩で、ロイヤルに食べに行ったわけです。
ただ、粥だけではネタが足りず、しかも庭園は曲水の宴の際に見たので、社周辺の徘徊も決行。
IC近くのラブホ街をうろついたり、鳥羽離宮跡をうろついたり、やたら餅を食ったりしてます。
サウスな社の、ロイヤルさとロイヤルでなさ、共に楽しんでもらえると幸いです。

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妙満寺の釈尊成道会・大根だきへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年12月7日(日)


妙満寺の釈尊成道会・大根だきへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、10月を過ぎた頃から、一気にアクセス数が下がります。
理由は、明白です。稼ぎ頭である川床記事鱧記事への訪問客が、激減するからです。
その下がりっぷりは、 「見てて凹む」 などという段階を遙かに越え、もはや面白い程のレベルであり、
「人は所詮、食い物にしか興味を持たない」 という真実を思い知らされること、しきりであります。
が、そんな人の業を嘆き悲しんでいても、あるいはボヤき揶揄していても、仕方ありません。
それに、この業を逆に捉えるならば、アクセスを稼ぐ方法が眼前に示されてるとも言えるわけです。
そう、要は何か、食い物を扱えばいい。秋以降の京都に於ける食い物ネタを、何か扱えばいい。
湯気がぼわ~っと出てる美味げなもので、なおかつなるべく値が張らないものなら、尚のこと、いい。
そこで、大根だきですよ。冬の食い物ネタとして、大根だきですよ。何か仏罰必定な気もしますが。
鳴滝・了徳寺の大根焚きを筆頭に、あちこちで冬の風物詩として行われる、京都の大根だき。
当サイトでも、表の動機としては仏の御心に触れるべく、裏の動機としては冬の食い物ネタ採取として、
了徳寺千本釈迦堂などいくつか大根だきを食ってきましたが、今回出向いたのは、妙満寺です。
妙満寺。妙なことが満ち溢れてるというわけではない、顕本法華宗総本山、妙塔山妙満寺であります。
現在は岩倉にあるこちらの寺が、日什大正師により創建されたのは、1389年の六条坊門室町。
秀吉の時代には寺町二条へ移転し、以後400年に渡り 「寺町二条の妙満寺」 として知られますが、
現代に入ると都心部の喧噪が如何ともし難くなり、昭和43年に比叡山麓たる現在地へ移転。
移転はしたものの、 「成就院 雪月花の三名園」 と称された松永貞徳造営 「雪の庭」 は健在であり、
むしろ比叡の峰を借景に得たことで、冠雪の眺望がかつてよりも高い評判を呼んだりしてます。
そんな冬に絡んだ名声も高い妙満寺、駄目押しなのか、初冬には釈尊成道会として大根だきも開催。
で、その大根だきへ、妙なる動機に満ち溢れた精神をもって寄せて頂いたというわけです。
冬&アクセスを呼ぶであろう大根、 「雪の庭」 と共に堪能してきました。

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壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月28日(金)


壇林寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

琴平町の 『川蝉』 へ結局行かず終いになったことを、悔やんでます。
琴平町は、京都ではなく香川 aka うどん県の町。 『川蝉』 は、そこにあったうどん屋です。
讃岐うどんに魅せられた 「巡礼者」 から、その無茶な値段設定や店主のキャラが秘かに愛され、
いつかは必ずその門をくぐらなければならぬラスボス的な感じで、伝説化さえしていた店であります。
『川蝉』 、私も一度は行きかけました。 「巡礼」 してた頃、行きかけました。が、店前で逃げました。
「日本一うまい」 と書かれた巨大幟&店前に散乱する●●にひるみつつ特攻しようとした瞬間、
店主らしきおっさんが出てきて、手に持つ丼から●●を目の前の川へ●●●したのを見て、逃げました。
見たくない何かを見せられる恐怖を感じて。または、香川に抱く幻想を破壊される恐怖を感じて。
あるいは、自分が吐き散らかした幻想の廃棄物を、濃縮ウランにして返されるような恐怖を感じて。
以来、勝負せねばと思いつつ逃げ続けてたんですが、 『川蝉』 、ストビューで現在地を見ると、更地
結局、私は逃げたままになったのでした。悔やんでます。もうこんなことは、繰り返したくない。
というわけで今回、檀林寺へ特攻したのです。香川から京都へ話を戻し、檀林寺へ特攻したのです。
九相図で知られる檀林皇后が、中国から禅僧を呼んで嵯峨野に建立するも廃絶した元・檀林寺を、
京都観光の大衆化が進んだ昭和の高度成長期になってどっかの誰かが再興した、現・檀林寺。
しかし、その実態は●●●とも言われ、ネット上では●●いだの●●だの●●●●●●だのと泣き喚く者が続出。
京都幻想や京都妄想を機嫌良く吐き散らかした末、 「本物」 ノイローゼに罹った輩に対して、
吐き散らかしたその廃棄物をウラン弾にしてお見舞いしまくってるようなスポットなのであります。
正直、私も避けてました。冷やかし目線さえ、バルタン星人の如くブーメランで返されるかもと感じて。
でも、 『川蝉』 クローズを受け、考えを改めたのです。全ては、諸行無常だと。一期一会だと。
それにここの紅葉は、 『川蝉』 のうどんが案外美味かったと言われるのにも似て、案外、好評。
この機会に、もう二度と悔やまないよう、嵯峨野へ出かけたのでした。

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泉涌寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年11月21日(金)


泉涌寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、「京都メジャースポットの単独正面突破」 を趣旨としながら、
未訪だったり、あるいは未記事化してたりする超ジャー級スポットが、いくつかあります。
未訪 or 未記事化の理由は、色々です。単に嫌いだったり、あるいは更新最終回用に取ってたり。
また中には、完全に行った気になっていながら実は全然行けてない、などというケースもあり、
今回出かけた泉涌寺も正に、今まできちんとした記事が作れてないことを完全に忘れてたのでした。
けしからん話なのであります。 「御寺」 の呼称を持つ寺に対して、けしからん話なのであります。
泉涌寺。その名の通り、真言宗泉涌寺派の総本山である、堂々たる超メジャースポットです。
東山の南麓に於いて弘法大師が結んだ庵を、月輪大師が大伽藍の設営により再興しようとした際、
寺地の一角より清泉が湧き出てたことから現在の寺号が付けられたともされる、泉涌寺。
四宗兼学の寺として隆盛したことでも知られる寺ですが、最も有名なのは 「御寺」 の名でしょう。
四条天皇以後の多くの帝がここで陵墓を営んだため、 「皇室の菩提所」 としての地位を獲得、
維新以降も新憲法施行までその営繕・修理費は宮内省持ちだったという、ロイヤルな寺であります。
そんなロイヤルな寺に対して 「行くの完全に忘れてた」 のは、あまりにけしからん話なのですが、
しかし泉涌寺、当サイトの今までの記事の中に於いても、行くだけなら行ってるんですよね、何度か。
雲龍院の夜間拝観とか。あるいは、瀧尾神社の祭とか。もしくは、今熊野観音寺の紅葉とか。
また、サイトと無関係ながら何度か出向く機会もあり、すっかり記事を作成済みと思ってたわけです。
けしからん話なのであります。 「御寺」 の呼称を持つ寺に対して、けしからん話なのであります。
というわけで、紅葉シーズンを良い機会に今回、正面から普通に泉涌寺へ出向いてみました。
泉涌寺、流石 「御寺」 だけあって、メイン紅葉がある御座所へ入るには拝観料とは別料金が必要で、
ぶっちゃけ、そのオプション課金のオプション感が金額の多寡に関わらず微妙な感慨を生み、
足が遠のく理由でもあったんですが、今回はそのオプション料金も支払って、堂々入場。
さらに茶屋の蕎麦まで食い、全盛りでロイヤルな紅葉を拝んできました。

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