祭 - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 2

祇園祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月16日(土)


祇園祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宵山。
祇園祭で最も人が集まる夜であり、言うまでもなく独男にとっては超弩級の鬼門であります。
もともとは御旅所~河原町あたりで、オーソドックスな前夜祭として行われてたという「宵宮」。
これとは別に、江戸期の山鉾町において発展した、山鉾や会所を飾る「宵夜飾り」。
やがて名を「宵山」と変えた後者は、御旅所の「宵宮」を「宵山」として吸収。
現代に至ると道路拡張+歩行者天国化+山鉾巡行一本化による観光客集中などが重なり、
「関西中のヤンキーが集まったかのような様相 (酒井順子 『都と京』)」を呈してしまうほど、
宵山は、極めて広範囲に祝祭空間を現出させるようになりました。
衆目を集めるのはもちろん、山鉾。集め過ぎて、まともな鑑賞が不可能だったりしますが。
でも、鴨川を越えた八坂神社近辺も、魅力ある神事や奉納行事がたくさん行われてます。
ちなみにこの奉納行事の名は「宵宮神賑奉納」。そう、宵山ではなく、宵宮。宵山じゃないぞ、と。
平安期に官祭となって以来の、神事としての祇園御霊会の伝統を、守り続けようとする神社側。
公家が貧乏化で手放した官祭を引き取り、自分達の祭としてここまで育て上げた山鉾側。
両者がけんかしてたら、赤の他人としては面白いんですが、もちろんそんなことはありません。
でも、やっぱり、山鉾町と神社の間には「独特な距離」が感じられるのもまた、確かです。
特に山鉾巡行の日と、この宵山の夜は、それがより強く感じられるんじゃないかと。
そのあたりにアカデミックな関心を持って、宵山をうろついてみました。
理由もなくうろつくと、心が折れそうだからではありません。本当です。嘘ですが、本当です。

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祇園祭の宵々々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月14日(木)


祇園祭の宵々々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宵々々山。本来は「14日の宵山」と呼ぶのが正しいらしい、宵々々山。
では「10日の宵山」や「1日の宵山」なる呼称が有り得るのかといえばよくわかりませんが、
とにかくこの宵々々山から、山鉾町周辺の歩行者天国は始まるのであります。
そして、昨日までの「町の祭」は、「市の祭」を飛び越え、「府の祭」へと変貌するのであります。
府の祭。そう、市民じゃなくて府民がいっぱい来るわけですね。例えば、俺とか。昨日も来たけど。
歩行者天国と露店、そして「祇園祭」という名前に蛾の如く吸い寄せられる、辺境の民草。
そんな愛しき我が同胞たちが、この日を境に市街地のコアブロックへ一気に流入。
雅もひったくれもないDQN臭をあたり一面へ撒き散らしながら、金もろくすっぽ使うことなく、
ただただ広いだけの四条通や烏丸通を歩いて喜ぶという事態が出来します。
「府民」には大阪府民も含まれますし、また滋賀県民も京都人のような顔をして大量混入。
関西以外の観光客がまだ少ない分、ある意味、DQN濃度が最も濃い夜かも知れません。
もちろん山鉾周辺も凄まじい混雑となり、見物しにくいどころか、生還こそが重要テーゼ化。
そんな宵々々山、昨夜との空気の違いを感じながら、うろついてみました。
前夜に引き続き、駄文抜き+画像メインで淡々とお楽しみください。

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祇園祭の宵々々々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月13日(水)


祇園祭の宵々々々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宵々々々山。もちろん、そんな言葉はありません。でたらめです。
でも「宵々々山」という言葉は定着してるようなので、ちょっと言ってみただけです。すんません。
ちなみにこの表記の仕方だと、本当の意味で祇園祭が始まる7月1日のことは
「宵々々々々々々々々々々々々々々々山」ということになります。いや、なりません。すんません。
そもそもは「宵々々山」はおろか「宵々山」という呼び方さえアウトというか、正しくはなく、
元来は山鉾巡行より前の夜を全て「宵山」と呼ぶんだそうです。でも、まあ、流れでと。
歩行者天国が14日からなので、宵々々山までは大目に見ようかと。そんなところであります。
鉾立てに続き、山立てや曳き初めも始まり、稚児社参や久世駒形稚児社参も行なわれた、この日。
コンチキチンの祇園囃子も鳴り始め、山鉾町は一気に祭のムードが強くなってます。
そんな宵々々々山(しつこい)の町を、ひとりでフラフラとうろついてみました。
それぞれの山鉾については、いろんなところで説明され、語り尽くされてるので、駄文は省略。
淡々と画像のみでお楽しみください。

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祇園祭の神輿洗式+お迎提灯へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年7月10日(日)


祇園祭の神輿洗式とお迎提灯へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭、始まりました。いや、既にもう、始まってます。
7月1日の吉符入りに始まって、月末の疫神社夏越祭に至るまでの1ヶ月間、
宵山&山鉾巡行をピークとして延々と神事・行事・イベントなどが続きまくる祇園祭。
一般人としては、この日の神輿洗式あたりからが鑑賞できる行事になる感じでしょうか。
神輿洗式。読んで字のごとく、神輿を洗う神事です。
山鉾巡行が終わった後に行われる神幸祭、そこで渡御される神輿を鴨川の水で清める神事です。
が、この神事、単に神輿をきれいにするという意味だけで行われるわけではありません。
鴨川の神様を慰撫・歓待するため、神輿に乗せ、八坂神社へお迎えするという意味も持ってます。
かつては大雨が降るたびにグデングデンに流路を変え、白河院をも悩ませた荒くれ川・鴨川。
特に夏は、怖い。水害的にも怖いし、伝染病的にも、怖い。今だって本当は、結構、怖い。
神様に何とか機嫌良くなってもらえるよう「おもてなし」をしなくてはいけないわけです。
というわけで、神輿洗と共にこの日行われるのが、鴨川の神様に歓迎の意を示す「お迎提灯」。
祇園萬灯会有志が「おむかえ」と書いた提灯を立て、各種コスで行列を組み、
八坂神社から寺町通りを練り歩いて、神輿に乗った神様をお出迎えします。
神輿、大松明、馬、稚児、鷺舞、小町をどり、祇園祭音頭の浴衣少女、そしてお囃子のコンチキチン。
言ってみれば祭りの準備、プレイベントならぬプレプレイベントみたいなものであるにも関わらず、
物凄いボリュームの神事なのであります。

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下御霊神社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年5月22日(日)

烏丸通を渡る御鳳簾
下御霊神社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

下御霊神社。
京都御所の南東にあり、名前の通り御霊 = 怨霊を祀る神社です。
祭神は早良天皇を始め、この世に未練を残して非業の死を遂げた貴人の霊ばかり、八柱。
パッと見は、地元の人が梨木神社と同じ水源という名水を汲みに来る渋い神社ですが、
本当は極めてやんごとなき、そして恐るべきルーツを持つ社なのであります。
平安前期・貞観年間、都の人々は、都市化により熾烈を極めるようになった疫病に直面。
貴賎問わず襲い掛かるこの災厄を、人々は御霊によるものと考え、貴人の霊を慰める御霊会を開催。
怨念の直接的なターゲットであるため、ある意味民衆以上に怨霊にビビリまくっていた朝廷は、
この動きに呼応する形で神泉苑にてオフィシャルな御霊会を開催&年中行事化。
有名な祇園祭のルーツの話ですが、下御霊神社も同経緯で創始されたと考えられています。
例祭には、今宮のやすらい祭と同じく、いにしえの御霊会のテイストが色濃く残存。
神幸列のプレ祇園祭な剣鉾や山車が、平安期の祇園祭をイメージさせることも、多大です。
また興味深いのが、この神社の氏子区域。もともと上御霊神社と共に皇居の御産土神であり、
多くの御殿や公爵の邸宅が並んでたというこのエリアは、現在はバリバリの都心。
高層ビルと、昔のままの町家が入り混じる、京都ならではのオフィス街になってます。
そこを、平安装束の神職たちが鳳簾を押して歩く、シュールともいえる光景が展開されるのです。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (2)

2011年5月15日(日)

賀茂川堤の斎王代列
葵祭・路頭の儀のフル追尾、続きです。

京都の人にとって、葵祭は「それほどでもない」んだそうです。
『京都大不満』 という本に、そう書いてありました。曰く、三大祭の中では「それほどでもない」。
祇園祭は愛着度が高い、と。誰が見てもわかります。で、時代祭は全然だ、と。これもわかります。
が、葵祭の「それほどでもない」という感じは、ちょっと微妙なニュアンスの世界かも知れません。
しかし、私にはわかる気がします。一応、勅祭が行われる八幡の民としては、わかる気がします。
勅祭って基本、じっと見るしかしょうがないんですよね。
ほとんど無形無実とはいえ皇族が関わる祭ですから、平民はおいそれと参加できないわけです。
その割には学生バイトが動員されまくってるし、ボランティアの方も多く関わってるんでしょうが、
自分達で作る自分達の自主的な祭というのとは、何かが決定的に違う。
今でも「お上の祭」なわけです。当の「お上」が御所にいなくなっても、「お上の祭」なわけです。
神が街を巡幸することはなく、あるのはコスプレ行列のみ。それらをただ、見る。じっと、見る。
牛車を、風流傘を、知らん間に知らん所で決定される斎王代などを、つくづくと見る。
「見る」側の優位性がとかく強調され、無能ゆえの万能感を膨張しやすい現代において、
葵祭は、見ることしか出来ない平民の無力さを改めて教える儀礼なのかもしれません(大層な)。
5月のよく晴れた都大路を、コスプレ追いかけて走りまわる、そのみっともなさ。
もちろん現代の我々は、そのみっともなさをマゾヒスティックに享受する自由も持ってるわけですが。
社頭の儀を終えた下鴨神社からゴールの上賀茂神社までのパレード後半戦、
同志のあなたもマゾヒスティックに、無能に、追走してみますか。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (1)

2011年5月15日(日)

御所の斎王代
葵祭・路頭の儀をフルで追尾してみました。もちろん、ひとりで。

葵祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつです。
夏の祇園祭、秋の時代祭と並んで、春の京都の重要な観光資源でございます。
本名、賀茂祭。上賀茂神社と下鴨神社、両賀茂社の例祭であり、
私の地元の石清水祭・奈良の春日祭と共に、勅使が派遣される三大勅祭のひとつでもあります。
そもそも京に於いて「祭」といえばこの賀茂祭のみを指したくらい、その重要性は高く、歴史も長し。
平安遷都以前から「猪殺して乱闘しまくり」の喧嘩祭として、何度も禁制食らうほどの大盛り上がり。
遷都以降は賀茂社の王城鎮護指定を受け、勅祭化。また都の祭として、洗練化。
特に、御所から社までを天皇の使い・勅使とその行列が華麗な姿で行進する路頭の儀は、
雅な姿がさながらファッションショーの如き人気を呼び、見物人の場所取りで諍いが起こるほどに。
以後、応仁の乱でしばらく途絶したり、明治維新や第二次大戦などによる中断を挟みつつも、
そのたびに何とか復興、戦後は斎王代も導入し、一貫して京の「祭」であり続けてます。
流鏑馬神事・歩射神事・競馬会神事・御阿礼神事・そして御影祭などなど、
単体でも集客力のある神事が並ぶ葵祭ですが、一番の客寄せパンダはもちろん、この路頭の儀。
新緑眩しい都大路に華麗なる王朝絵巻を再現する、全長1キロもの日雇いバイトのコスプレ行列。
しかし着ている衣装は全部本物、下手すると着てる人間より高価だったりするので、あなどれません。
そんな路頭の儀、スタートの御所からゴールの上賀茂神社までは実に8kmに及びますが、
最初から最後まで、徒歩のみで追いかけてみました。何故って、暇だし・・・。

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藤森神社の駆馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年5月5日(木)

疾走する駆馬とそれを止める男達
藤森神社の藤森祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

藤森神社。その筋の方には、競馬の神様として有名です。
京阪乗って淀の京都競馬場で勝負する前に、途中下車して必勝祈願、みたいな。
ファンのみならず、騎手や馬主など関係者の参拝も多いというから、筋金入りの馬神社であります。
ではこの社の祭神は馬かといえば、そうではありません。祭神は、神功皇后を始めとする十二柱。
新羅を攻略して凱旋した皇后が、戦旗と武器を納めたのが、この神社の始まりだそうです。
こんな勇ましい由来を持つわけですから、藤森神社は当然のように、武神。勝軍の神。
今も昔も「勝ち」を欲する人々から篤い崇敬を受け続けています。
勝負で直接メシを食う戦国大名たちはこの社の鳥居前を通る際には敬意を払って槍を下げ、
明治に入れば武運にあやかろうとしたのか陸軍第十六師団が隣の敷地へ駐屯し、
一応平和ということになってる現代では競馬の受験に勝利をもたらす神となってるのであります。
そんな藤森神社の大祭は、藤森祭。菖蒲の節句、すなわち端午の節句の開催です。
武神ゆえ菖蒲 = 勝負ということでこの日を選んでるのかどうかは知りませんが、
5月5日を男の子のお祭りの日として武者人形を飾るのは、この祭が発祥なんだとか。
早良親王が陸奥国の反乱鎮圧で出陣した様をなぞらえたという武者行列、
京都で最も優雅な神輿が何故か伏見稲荷あたりまで行ってしまう神輿巡幸、
そしてもちろん有名な駆馬神事と、実に男の子な行事が目白押しな祭なのであります。
そんな男の子の祭、男ひとりで行ってきました。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 (3) 七条通巡幸

2011年4月24日(日)

宗像社の巡幸
松尾祭・神幸祭、いよいよラスト、七条通巡幸です。

松尾祭、一日くっついて見物してると、氏子さんの数の物凄さに圧倒されます。
見物人もそれなりに多いんですが、何よりも白法被の人たちが、多い。そして全員が、濃い。
数だけなら祇園祭の方が多いかも知れないし、手伝いの人も多少は混じってるでしょうが、
でも、ひとりひとりが放つオーラと、祭全体の熱狂度は、圧倒的に京都一ではないかと。
特に、インドアな感じな少年たちでさえ積極的に祭へ没入してる姿は、感動的でさえありました。
と、同時に感じたのが、この祭りが西七条 / 西市跡 / 西寺跡の祭りだということ。
出かける時は何となく「松尾、梅津、桂あたりの人たちがやってる祭」とか思ってたんですが、
考えてみれば神輿が駐輦する御旅所は、ほとんどが西七条を中心に点在。
もちろん、奉仕する氏子さんもその区域の人たちです。
これは、洛外の神様に自分の街へおいで頂く祭なんだな、と。だから「おいで」なんだなと。
祇園祭や稲荷祭と似た形式であり、特に東寺と縁深い稲荷祭とは近いものがあるんじゃないかと。
西寺跡が氏子区域の大宮社神輿に松尾神を乗せ、西市跡近くの西七条御旅所へ向かう七条通巡幸。
いよいよ神をホームタウンへ迎えることで、祭の盛り上がりはピークへ。
同時に疲労もピークに達するためか、ストリートは怒号と絶叫と微笑みが渦巻く興奮の巷と化します。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(2) 船渡御

2011年4月24日(日)

宗像社・神輿
松尾大社の神幸祭、続きです。

松尾の祭には、必ず雨が降るそうです。
それは、松尾の神様が水の神であることに由来するんだとか。
松尾大社の祭神は、松尾山を支配する神・大山昨神と、海上守護の神・中津島姫命の二柱。
海の無い京都に海の神さまが祀られてるのを不思議に思われるかも知れませんが、
松尾の目の前には、淀川を経て瀬戸内航路に直結する桂川が流れてます。
また、桂川上流である保津川を経由して、丹波から木材などの交易を行っていたことは有名です。
この地で水運、あるいは漁などで「水」に関わってた人たちは、多かったんでしょう。
松尾の氏子にとって、水と船は、今よりもはるかに大きな意味を持ってたんじゃないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれるのが、松尾祭・神幸祭の最大の見せ場である、船渡御。
文字通り、神輿を舟に乗せ桂川を渡ってしまうという、京都で唯一無二の勇壮な荒技です。
もっとも、さらに昔は舟さえ使わず肩で担いで川を渡りきったそうですが、
いずれにせよ人と水とのダイナミックな係わり合いが見れる神事です。
今日は朝から、日本晴れ。午前中は、暑いくらいの陽気でした。雨なんか降るんでしょうか。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(1) 発御祭

2011年4月24日(日)

大宮社の神輿を見送る子供
松尾大社の松尾祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾大社。
一般的な認知のされ方としては、お酒の神様という感じなんでしょうか。
あるいは、近所の料亭に生前の某マイコーが来損ねて、サインだけ残ってるとか。
しかし、京都的には違うのであります。松尾大社は、何といっても洛西総氏神なのであります。
平安遷都以前よりこの地を開発していた渡来系・秦氏が、土着の松尾山磐座信仰と結びつき、創建。
秦氏が平安京造営を支援したことで皇室の御崇敬も篤く、賀茂社と共に皇城守護の社に指定。
大祭の松尾祭も、「松尾の葵祭」という通称が今も残る通り、かつては賀茂祭と同じく勅祭でした。
しかし、朝廷の力はやがて衰微。で、代わって松尾大社と祭を支えるようになったのが、氏子。
中世以降、祇園御霊会を下京の町衆が支えるようになったのは有名な話ですが、
それと似たような感じでしょうか。鎌倉時代には既に祭祀組織が存在してた記録もあるとか。
ただし、祇園会は町衆が主導権を握ったのに対し、松尾を支えたのは、村人。
京都の都市域が東へスライドしていくのに従い、右京・西京は近隣の農村地帯と次第に同化。
住宅街化したのも最近の話であり、そのため、松尾大社とその祭をとりまく共同体のあり方は
祇園会 = 祇園祭のように観光化により変形されることなく、中世の香りをよく伝えてるといわれ、
また松尾祭は京都では珍しいくらいに勇壮で大らかな盛り上がり見せることで知られます。
現代の松尾祭は、神幸祭が4月20日以降の日曜、還幸祭がその三週間後の日曜に開催。
神幸祭では桂川を神輿が渡る船渡御、還幸祭ではワイルド極まる宮入りが有名ですが、
今回は神幸祭、通称「おいで」を丸一日、追っかけてみました。

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