» 秋も、ひとり ひとりでうろつく京都 (β版)

雲龍院の夜間ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月22日(火)


雲龍院の夜間ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ようやく例年並みに冷え込みつつある、2011年晩秋の京都。
晩秋、そう、晩秋なんですよね、もう。ですが、紅葉の方はあまり進んでません。
洛北あたりは相当いい感じに色づき始めたようですが、それより以南は、まだまだ。
にも関わらず「京都駅から一番近い東山の奥座敷」、南も南の雲龍院へ行ったのは何故かといえば、
あの辺、寒いんですよ、山だから。あと、秋のライトアップが25日までだし。
雲龍院。皇室の菩提寺である御寺・泉涌寺塔頭にあらずして、別院、別格本山。
泉涌寺と同じく皇族とのゆかりが深いことから、見た目は塔頭ながらも、別格扱いとされてます。
南北朝時代に後光厳天皇の勅願で建立され、北朝歴代の御尊牌を霊明殿に奉安、
後円融天皇の発願で写経道場も作られますが、応仁の乱などの戦乱で何度となく焼亡しまくり。
江戸時代の始めになって、中興の祖・如周宗師により写経道場が現在地に再建され、
その再建のスポンサー・後水尾天皇からは、現在も使われる写経会の仏具が寄進されました。
雅であります。やんごとなきであります。そして、別格であります(意味不明)。
雅なる写経、最近では体験型観光の人気コンテンツになってますが、夜間営業はなし。
かわりに、徳川期の武家茶席・通称「おぶけ茶席」を、有料オプション1000円なりでいただけます。
が、武家でもなく茶の心得もない私は、別格である夜の紅葉のみを拝ませていただきました。

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相生餅・新町店へあん餅うどんを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月20日(日)


相生餅・新町店であん餅うどんを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

「あん餅うどん」。
そう聞いて、かなくま餅福田「あん餅雑煮うどん」を思い浮かべたあなたは、うどん者ですね。
アンコの入った餅を白味噌で煮込む、香川独特の郷土料理・あん餅雑煮
それを強引にうどん化した西讃の猛者、香川県観音寺・かなくま餅福田の「あん餅雑煮うどん」。
私、数年前までは最低でも月一、下手すると毎週渡讃してたほどのうどん好きでして、
かなくま餅福田のある観音寺へも、何度となく足を運んでます。
「かじまや」 「大喜多」 「柳川」に始まり、 「まり」改め「ゆり」味噌汁うどんまで食いましたが、
結局今に至るまで「あん餅雑煮うどん」には手を出してません。
理由は、怖かったから。香川が嫌いになりそうで、怖かったから。
餅を入れるのはともかくとして、よりによって、餡餅って。甘いもん、放り込むって。
でも、よくよく考えてみたら、京都の餅系食堂ではワシ、うどんとおはぎを普通に食っとるな。
それも、順番に食うんと違うて、ごっちゃに食っとるな。で、うどんと甘味って結構、合うわな。
そう思い至ったのは、経済的にも時間的にも容易に渡讃ができなくなってた頃でした。
日ごと高まる「あん餅雑煮うどん、結構イケるんちゃうやろか」の思い。
しかし今の私には、観音寺はあまりにも遠い。
18切符を使うと、姫路岡山間がつらいフェリーは、爆音で2度鳴る「風が恋を運ぶ~」がつらい。
なので、かなくま餅福田の代わりに、北大路新町の相生餅へ行くことにしました。
そして、京都の「あん餅うどん」なるものを食すことにしたのです。

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実相院の秋のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月20日(日)


実相院のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

秋に全然なってくれない、2011年の秋。
11月も下旬だというのに、昼間は未だにシャツ1枚でも汗ばむ陽気が続いてます。
もちろんこの気温では紅葉も進まず、例年なら真っ赤に染まるはずの葉も、青きこと、春の如し。
先週は周山街道を北上して神護寺まで行きましたが、そこでさえまだ三分から五分の色づき。
じゃあ今度はもっと北へ行ったろかいとも思いましたが、足代がかさむので早々に止め、
そこそこ北にある実相院へ行ってみました。地図上では神護寺より実相院の方が北ですが。
実相院。岩倉にある、天台宗の門跡寺院です。またの名を、実相院門跡 or 岩倉門跡。
皇族とのゆかりは江戸初期に現在地へ移転してから特に深まり、「忍」の後水尾天皇もしばしば御幸。
皇孫の入寺も続き、1720年には東山天皇中宮の承秋門院大宮御所旧殿を賜りました。
四脚門・御車寄・客殿といった重要な建築遺構は、善阿弥の孫の又四郎の作と伝わる庭園、
そして各室にはりめぐらされた狩野永敬をはじめとする狩野派の襖絵などとともに、
優雅な女院御所の佇まいを老朽化に耐えながら保っています。
岩倉というのは、北山から宝ヶ池や国際会館をさらに北上したエリア。
現在はかなり宅地化されてますが、それ以前は寺以外は農地ばかりだったところであり、
ゆえにテロられるのを恐れた幕末期の岩倉具視がしばし「忍」してたことでも知られる土地ですが、
とにかくここなら紅葉が拝めるはずだろうと、出かけました。

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神護寺の金堂夜間拝観とライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月13日(日)


神護寺の金堂夜間拝観とライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

暑いです、2011年の秋。
暦の上ではすっかり紅葉シーズンですが、京都市街地のもみじは今だ色づく気配さえなし。
なので、市街地よりも早く紅葉が拝める洛北・高雄の神護寺へ行ってみることにしました。
宇佐八幡宮神託事件の巨根坊・道鏡と闘った和気清麻呂の私寺・神願寺が、
平安以前より山岳信仰が根づいていた高雄山寺と、ドッキングして生まれた、神護寺。
住持した空海によるライバル最澄への潅頂でも知られる、新仏教興隆の基礎を築いた寺です。
が、神護寺といえば、そんなプレ平安期 or 平安初期のパイオニアたちのみならず、
平安末期~鎌倉初期に大暴れした中興の祖・文覚上人でも有名かも知れません。
武士時代に同僚の嫁・袈裟御前へ手を出し、手を出すのみならず「俺と一緒になれ」と迫り、
困った袈裟御前に「旦那を殺して」と言われ意気揚々と太刀を振るえば当の袈裟御前を殺してしまい、
逃げるように仏の道へ入り、でも煩悩は全然消えず武者修行ならぬ無茶修行をさんざんやらかし、
その勢いで神護寺再興を後白河法皇に強訴し、強訴し過ぎて伊豆へ流罪になり、
流罪先で流罪仲間の源頼朝に「やってまえ」と決起をけしかけ、鎌倉幕府成立の道を開いた、文覚。
実にとんでもない奴ですが、そのとんでもない奴が再興した神護寺もまた、
なかなかにとんでもないシチュエーションを誇ってます。一言で言うと、参道、過酷。
で、過酷だけど、煩悩も色濃く漂ってるという。文覚っぽいといえば、文覚っぽいかも知れないという。
そんな神護寺の夜の紅葉、秋感の全くない汗だく状態で見てきました。

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北野白梅町のだいりき亭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月13日(日)


北野白梅町のだいりき亭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

北野白梅町といえば、イズミヤです。
嵐電・北野白梅町駅に隣接する、というより圧倒するようにそびえ立つ、イズミヤ白梅町店。
私、ここのトイレをよく借ります。といっても、別段このへんに用事が多いわけではありません。
が、散歩でウロウロしてる時などに立ち寄る回数は、妙に多かったりします。
何か、足が向くんですよ。そこら中にある公衆便所や観光トイレではなく、イズミヤに。
何にそんなに惹かれるかといえば、あの郊外感ではないかなと。
郊外型スーパーが希少な京都市内中心部にあって、堂々と凡庸さを誇る、その雄姿。
郊外に住む私には、その凡庸さこそ馴染むというか、ライフラインが繋がった感慨さえ抱くんですよ。
あと、京都の公衆便所にはちょっとした個人的トラウマもあるし。
梅小路公園のトイレで大いなる用を足してる時、壁の上からこちらを覗く同性の方と目があって以来、
私、京都の公衆便所が苦手です。全くどうでもいいことですが。
そんな(どんなだ)イズミヤ、そしてそんなイズミヤのある北野白梅町。
商店街との闘争を呼んだこの大型スーパーも、今となっては昭和の動態保存に見える現代にあって、
「街」の象徴ともいえる餅系食堂はしっかり、健在。その名も、だいりき亭。
力餅→大力餅→大力という流れを確信させる店名ですが、全然関係なかったら、ごめんなさい。
神護寺ライトアップへ向かうバスを待つついでに、寄らせてもらいました。

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東九条マダンへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月3日(木)


東九条マダンへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都駅八条口から徒歩数分の場所にある、京都最大のコリアンタウン・東九条
東九条マダンは、そこで開催される地域の祭りです。東九条마당。今回で19回目。
全くどうでもいい個人的事柄ですが、私、このあたりをよく歩きます。
といっても、特に東九条に用事があって歩くわけではありません。
京阪八幡から京都駅へ行く場合、「丹波橋で近鉄」か「東福寺でJR」乗り換えが常道なんですが、
乗り継ぎ分の電車賃を惜しみたい場合、あるいはちょっと歩きたい気分の時などに、
東福寺か七条から歩くわけです。東福寺からなら東九条を、七条からなら崇仁を、テクテクと。
八幡に住み、金を惜しみ、時間を惜しまない私は、かなり高い頻度でここを歩きます。
ネット界では、言及されることが多い割に実地へ赴いた話が少なかったりするエリアですが、
南部の辺境に住む私にとっては、ここがいわば「みやこ」の入り口。
ここを基準にして京都という街を眺める習性みたいなのも、ちょっと、あったりします。
私だけの話ではありません。新幹線で京都入りする人にとっても、ここは「みやこ」の入り口です。
人の住む街を「そうだ」呼ばわりしながら入洛する際、ここを通ってるのです。気づいてないだけで。
そんな話はともかく、東九条マダン。
韓流の趨勢を先取りするように、19年前から多文化共生を打ち出してきたマダンですが、
今年も歌や踊りの民俗芸能はもちろん、アーティストの公演など盛りだくさん。
私は昼過ぎから、もっぱら食い気メインで寄せてもらいました。

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京都市美術館で行なわれた岡崎ときあかりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月29日(土)


京都市美術館で行なわれた岡崎ときあかりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治28年、京都復興を賭けた平安遷都1100年祭開催にあたり、
本来の平安京大極殿の場所だった千本丸太町付近に、レプリカ建造が提案されました。
が、市街地化してたため、断念。代わりに選ばれたのが、当時は田んぼだらけだった、岡崎でした。
田んぼだらけといってもこのエリア、近くで琵琶湖疎水が開通し、水と電気は極めて、豊富。
京都の近代化をアピールするイベント開催にはうってつけの場所となり、
また、イベント終了後も大箱の近代建築をぶっ建てるのには最適のロケーションということで、
図書館・勧業館・公会堂などの文化施設が次々と建てられました。
昭和8年に建てられた大礼記念京都美術館、現在の京都市美術館も、そのひとつ。
京都で行われた昭和天皇即位の大礼を記念して開設され、
戦後は表札から「大礼記念」を外して近・現代美術の舞台としての役割を果たし続けてます。
今回の「岡崎ときあかり」は、そんな美術館の壁へプロジェクション・マッピングなるものを投影、
昼間とは違う夜の美しさを見せることで、岡崎全体を活性化させようというものです。
プロジェクション・マッピングとは、建物の形状に合わせてデザインした映像を照射するもの。
要はライトアップの客寄せイベントですが、見るだけならタダなので、のこのこ出かけてみました。

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八坂倶楽部での京都国文・食文化の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月29日(土)


八坂倶楽部での京都国文・食文化の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

国民文化祭とは、日本中でいろいろな文化活動に親しんでいる個人や団体が集まって、日ごろの成果や実力を披露するため、全国各地から多くの「文化」や「人」が集まる「日本最大の文化祭典」です。昭和61年からの毎年、各都道府県持ち回りで開催されてきたこの国民文化祭が、平成23年京都府で開催します。音楽、舞踊、演劇、美術、文芸などの芸術文化から伝統文化や生活文化、さらに特色のある開催地独自の文化まで、盛りだくさんの催しが開催期間中に次々と繰り広げられ、国内外から参加者・観客が集まります。府内一円で約70もの文化イベントを開催します。この機会に、皆さんの「文化」を再発見してみませんか?
国民文化祭とは | 第26回国民文化祭・京都2011 – こころを整える~文化発心

まとめるのが面倒くさいから、公式サイトから丸写ししたった・・・。
国民文化祭、略して国文。興味ある人は、あまりいないでしょう。私も全然、ありません。
が、2011年の開催地は、京都。文化が売り物というか、ほとんど文化しか売るもんのない街・京都。
京都市のみならず京都府全域で、それなりに力の入ったイベントが用意されてて、
祇園甲部歌舞練場の隣、八坂倶楽部で行われた『食文化の祭典・京料理』も、そのひとつです。
内容こそ「有名店による料理の実物展示+式包丁や京菓子作りなどの実演」という、
毎年12月にやってる「京料理展示大会」みたいなもんですが、場所が違いますよ、場所が。
京料理にも名店にもさほどの関心はございませんし、ご縁はもっとございませんが、
八坂倶楽部の中はちょっと見てみたくて、場違いモード全開で出かけてみました。

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時代祭の神幸列を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭の神幸列を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

コスプレパレードと揶揄されがちな時代祭ではありますが、
行列の最後列には、平安神宮の祭神・桓武天皇&孝明天皇の御輿がしっかりとついてます。
たとえ明治時代に行われた第一回目が純然たる集客イベントの純然たる余興であったとしても、
現在の時代祭は天皇の御霊をいただく、れっきとした神社のれっきとした祭りというわけです。
その時代行列、ご存知のとおりスタート地点は平安神宮ではなく、京都御所。
で、これも言うまでもないことですが、時代祭は京都御所の祭ではありません。
つまり、あの行列は「神霊が御所へおいでになり、神宮へ帰る」という、還幸にあたります。
還幸があるなら、本来は神幸も、あるはず。いわゆる「おいで」が、あるはず。
「ええ加減にせえ」と交通渋滞にブチ切れる市民を考慮して省略したのかと思いたくなりますが、
実際には時代祭においても、神幸はしっかり行われてます。祭の当日、午前中に。
それも、稲荷祭みたいにトラックへ神輿を載せてピャーっと運んでしまうようなものではなく、
ちゃんと人力で御鳳輦を押し、えっちらおっちらと御所まで運ぶスタイルで。
三大祭のひとつでありながら、葵祭&祇園祭に比べると、もうひとつ盛り上がりに欠ける、時代祭。
でも、やることは、やってるのです。で、やることやっても、やっぱり、盛り上がらないのです。
その辺の温度感が、ある意味本編よりも如実に感じられる、神幸列。
行った動機は本編スタートまでの暇つぶしでyはありましたが、とにかく見てきました。

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時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。
言うまでもなく、葵祭および祇園祭と並ぶ、京都三大祭のひとつであります。
が、御存知の方も多いでしょうがこの祭、始まったのは明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、地域振興として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカが、当時田んぼだらけの岡崎に建設されました。
江戸時代でもかろうじて都の誇りだけは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は京都への遷都を成した桓武天皇、氏子は京都市民全員、
例大祭は平安遷都の日である10月22日と決められました。平安神宮と時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ単たる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化&ラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」足利将軍が開催100年目にして参加を許されたりながら、現在に至ってます。
そんな時代祭、御所や平安神宮応天門前で見るのが堅気の楽しみ方ですが、
私は行列と一緒に歩いてみました。全行程4.5キロを、行列から少しずつ遅れて歩いてみました。
「動く歴史絵巻」を、普通の街中を進む絵面ばかりで、全時代、網羅してみようかなと。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して捏造された「雅」さではなく、
「雅」さが普通の街中に転がる京都のストレンジさこそを、感じてもらおうかなと。
曜日問わず22日固定で開催される時代祭ですが、今年は天候不良により、23日に順延。
2011年は、奇しくも三大祭の全てが日曜に開催される年となりました。

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粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

えと、トップ画像で光り輝いてらっしゃるのは、かの法然上人でございます。
法然。もちろん、浄土宗の開祖です。粟田神社のすぐ南にある知恩院の、ラスボスです。
神社の祭のトップ画像がバリバリの仏僧とは、これいかに。
いや、それ以前に何故この法然はこんなにキンキラキンなのかという話ではありますが、
しかし、これが粟田神社の粟田祭なのであります。宵宮の奇祭・夜渡り神事なのであります。
粟田神社は、明治維新の神仏分離までは「感神院新宮」と呼ばれていました。
「感神院」といえば八坂神社の旧名「祇園感神院」が有名ですが、粟田神社はその新宮。
平安時代に朝廷が祇園社へ勅使を派遣、「東北に清浄の地あり」と神託を受け、創建されたわけです。
祇園感神院は、一時は比叡山の門下に寺として入るほど神仏習合が激しい社でしたが、
粟田神社もまたその傾向は強かったようで、社名から祭神から「ご一新」した経緯を持ってます。
が、往時の残り香のようなものは濃厚に残っていて、この夜渡り神事はその典型。
粟田神社名物の剣鉾が知恩院の七不思議のひとつ・胡瓜石の前まで出向き、
出迎えた知恩院の僧たちと一緒に剣鉾&石に祈るという、神仏コラボ祭事を展開してしまうのです。
その名も「れいけん祭」。凄い、何かよくわからないけど、凄いのであります。
2008年からは京都造形芸術大学の学生さんによる、超巨大燈籠「粟田大燈呂」も登場し、
2010年には御覧の法然も団体の枠を越え参戦、何かよくわからん凄さはさらに加速しました。
もとから奇祭だった祭がさらに奇祭化してる様、とくとお楽しみ下さい。

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安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「課長と奥さんが早く別れて私と一緒になってくれますように」。実際は、その課長の姓名はもちろん年齢から会社名まで書いてあったのだが、それだけなら珍しくもない不倫成就の嘆願である。祇園に近く水商売関係の参詣者も多いだろう土地柄か、ここに掛けられる絵馬の二割近くが不倫絡みなのだ。問題は奉納者名の後の空スペースに、あきらかに異なる筆跡で記されていた文字である。
「そうはなるものか」
鉛筆書きの尖った文字が突き刺さっているようであった。 (入江敦彦 『京都人だけが知っている』

この文章がきっかけになったのかどうかは知りませんが、
とにかく、愛情が呪いの域に達した恐怖絵馬で一気に名を上げた、安井金毘羅宮。
一応、縁結びの神様でもあるわけですが、奉納される絵馬は相変わらず縁切り祈願が大多数。
「あの人と別れたい」「あの人とあの人が別れて欲しい」といったベーシックなものならず、
「あの人がこの世と縁が切れますように」と、現世との縁切りを祈願するものも多数、奉納。
中には、部署名・配偶者名・子供の名前まで記入して「逝ってくれ」と願うものなどもあって、
愛欲に無縁な私にとっては、もはや恐怖を越え、不可解・不条理極まる世界であります。
何でそんなに人が好きになるんだ? 何でそんなに人が嫌いになるんだ?
10月初旬に行なわれる例大祭は、そんな疑問に答えてくれるもの、ではありません。
安井といえば、9月第4月曜に美容業界が定休日返上でバックアップする「櫛祭り」が有名ですが、
この日の祭りは全然オーソドックスな、神輿巡幸。もちろん、縁切り神輿とかも、ありません。

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御香宮神社の花傘パレードへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月8日(土)


御香宮神社の御香宮神幸祭・花傘パレードへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御香宮神社。ひらがなだと、ごこうのみやじんじゃ。
晩年の秀吉が半狂乱で誇大妄想を育んだ伏見城へのメインルート・大手筋沿いに立ち、
伏見城がぶっ潰れた後はその大手門を移築して表門とする、名実ともに伏見を代表する神社です。
といっても伏見城の築城とともに社ができたではなく、創建はその遥か昔の平安時代。
地元の氏子さん達による崇敬も太古の昔より篤く、伏見九郷の総氏神として、
また神功皇后が主祭神の安産の神様として、現在も「ごこんさん」の愛称で親しまれてます。
毎年10月初頭に行なわれる神幸祭は、そんな御香宮神社の例大祭。
「伏見祭」あるいは「洛南の大祭」の別名を持つほど、その規模は大きく、認知度も高し。
開催期間も実に9日間にも及び、最終日に行なわれる1000人単位の神輿巡幸は特に有名です。
で、神輿巡幸と並んで名高いのが、祭りの初日と宵宮に行なわれる、花傘行列。
各氏子地区から出た華やかな風流花傘20数基が、夜の大手筋を練り歩いて参宮する行事です。
御香宮神社の門前はもちろん、道中あちこちで厄除け祈願の傘の差し上げが行なわれ、
大手筋商店街では、各花傘が競演する審査会も開催されます。
写真で見るとギンギラギンのケンカ祭り状態であり、秀吉好みの流れを引くのかと思いたくなりますが、
この花傘行列もやはり歴史は古く、室町時代にはすでに祭りの名物になってたとか。
とにかく「京都であって京都でない」を自認する伏見の独特なテイストが炸裂する祭りであります。
そんな花傘行列、もちろん混雑も熱狂が最もスパークする宵宮に行ってきました。

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北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月1日(土)


北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき祭。
美しい少女を見て随喜の涙を浮かべる祭ではありません。あしからず。
ずいきとは、里芋の茎のこと。漢字で書くと、瑞饋祭。京都の代表的な秋祭です。
のちに北野天満宮の祭神となる菅原道真が、配流先の大宰府にて怨み骨髄で彫り上げた木像を、
随行した西ノ京の神人が持ち帰り、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えしたことに始まる、ずいき祭。
ずいき・赤茄子・栗・柿・稲穂などの野菜で作られた『ずいき神輿』が祭りの何よりの名物であり、
元農村ならではの収穫を感謝するさまと、祭ごとに作ってはぶっ壊す神輿本来の聖性が、
ちょっと不思議な形で現在まで継承されてる祭りであります。
毎年10月4日の還幸祭では、ずいき神輿はもちろん、「天神さん」のシンボルである牛も町内を巡行。
現在は完全に住宅地の氏子区域を野菜神輿や牛が闊歩する姿は、独特の風味を醸し出してますが、
この日の神幸祭もそんな不思議さに満ち溢れているかといえば、これがそうでもありません。
ずいき祭の神幸祭は、応仁の乱で途絶して以降ずっと中断したままだったそうで、
再開されたのは実に明治8年のこと。何事も千年単位の京都にあっては、最近の話です。
配流された主祭神・道真の「おかえり」すなわち都への帰還をイメージさせるためか、
還幸祭が極めて盛大に行なわれるのに対し、神幸祭はやや、地味。ずいき神輿の巡幸も、なし。
私も還幸祭の方へ行きたかったんですが、ずいき祭は日程固定で平日開催が多く、今年はアウト。
神幸祭だけじっくりと見物させてもらうことにしました。
とはいえ神幸祭も、行列の巡行、そして何より八乙女舞の奉納など、見所はいっぱいです。

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詩仙堂へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月28日(日)


詩仙堂へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

仙人。独男なら、誰もが憧れるものでしょう。
それも、ただ現世から逃げるのではなく、やることやってから隠居した仙人なら、尚更。
おまけに、隠居してからも「実は隠密で・・・」と噂されるような危険な存在感を放ってるとなれば、
独男のみならず独女からも憧れの目で見られようというものです。
詩仙堂を建てた石川丈山は、別に自分が仙人だといってたわけではありません。
元々は徳川家康から厚い信頼を受け、大坂夏の陣では一番槍の功を競うほどの、武士。
それが30前後ですっぱり辞職、母を養うため仕官したのち、一乗寺に凹凸窠なる草庵を建て隠棲。
庵には中国の詩家36人の肖像を掲げた「詩仙の間」を設け、「詩仙堂」の名はそこから生まれました。
仙人は、詩家の方だと。しかし、多くの人はそんな丈山にこそ「仙」なるものを見出します。
リア充な武士キャリアを断ち、30年も清貧を旨とする隠遁生活を続けただけでも、かなり独にして、仙。
しかも学問に長け、漢詩・隷書・作庭などもこなし、同時代の教養人とも幅広い交流を持ち、
おかげで幕府のスパイ疑惑も招いてしまう。もう、完璧です。何が完璧かわかりませんが、完璧です。
独男好みの、丈山。そんな丈山が作った、独男好みの、詩仙堂。
しかし今、季節は、晩秋。京都に「独」も「仙」もない観光客が最も押し寄せるシーズン。
本来は渋好みのはずの詩仙堂にも、「穴場」という言葉に踊らされた人民が大量にやってきて、
この静寂に満ちた狭い草庵を満員電車のごとき肉まみれ空間に変えてしまうのでした。

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永観堂のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月28日(日)


永観堂のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「禅林寺」と、正しい名前では全然呼んでもらえない、永観堂
しかし、寺自ら「もみじの永観堂」と銘打った赤い看板を三条京阪に堂々とディスプレイしてるので、
それも自業自得と思わざるを得ない、浄土宗西山禅林寺派総本山でございます。
空海の高弟・真紹僧都が853年に寺を開く以前から、この地は既に紅葉の名所だったようで、
真紹の前のオーナーにあたる有名歌人・藤原関雄も、古今和歌集に収められた歌において、
おく山の岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光見る時なく」などと、詠むことしきり。
秋以外のシーズンは、看板坊主の永観見返り阿弥陀像がもっぱりの売りである永観堂ですが、
やはりもみじの季節こそが、最も大きな魅力を発揮してくれるようです。
もちろん、最も大きな魅力を発揮すれば、最も多い観光客が押し寄せてしまうわけであり、
その人気と混雑度は、超メジャー級の紅葉スポットがひしめく京都にあっても、トップクラス。
加えて、今年は「京都の秋は永観堂」なんてポスターが駅などに貼られまくったため、地元客も、多め。
さらには、今年2010年の紅葉、いつにないハイテンション&ハイクオリティぶりを誇示。
とんでもない人出が予測されるのです。雅の世界を切り裂く人間地獄の出来が、予測されるのです。
紅葉を見るか。あるいは、紅葉を見る人間を見るか。もしくは、もう、単なる人間だけを見るか。
東山の夜に咲いた「赤の恐怖」がいかなるものだったか、心してご覧下さい。

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神應寺の紅葉まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月27日(土)


神應寺の紅葉まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水八幡宮が立つ男山には、元々、寺が林立していました。
その数、48。時に、それ以上。男山四十八坊と称され、宿坊を営んだりしてたそうです。
石清水八幡宮は、もちろん、神社。今の目で見れば、完全に、神社。
しかし明治維新以前までは、「八幡大菩薩」と仏教丸出しな名前の神を祀り、
神社の運営の実権も寺側が握るほど、神仏習合の加減が濃い、正に文字通りの宮寺でした。
山を埋め尽くすほど建ち並んだ諸坊には、大名などからたんまりと金が入りまくり、
おかげで寛永の三筆の一人である文化人・松花堂昭乗なんかも生み出したりしましたが、
おごる坊主久しからずというか何というか、明治初頭に神仏分離令が出て、坊、全滅。
山内の仏教施設は、松花堂などの移築組を除いて、大半が徹底的に破壊され尽くされました。
男山ケーブルのトンネル近くに立つ神應寺は、その数少ない生き残りです。
創建は、石清水八幡宮と同時期。開祖も同じ、行教律師。同宮の別当所とも言われてます。
現在は小さい禅寺ですが、神仏分離のゴタゴタで酷い目にあった平安期作の行教座像や、
かつて庇護も受けていたという豊臣秀吉の坐像など、寺宝はなかなかにエクセレント。
また、京阪八幡市駅から徒歩5分ほどの参道は、駅前とはとても思えない渓谷が広がり、
「駅前渓谷」の名で静かにその認知度を高めつつあったりもします。
普段は本当に普通の寺であり、寺宝も非公開の神應寺ですが、秋の紅葉まつりではご開帳。
なので、駅前渓谷と紅葉とお宝を、まとめて見に行ってきました。

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東福寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月26日(金)


東福寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

JRは最近、東福寺駅での京阪電車乗換えを推奨してるそうです。
いわく、京都駅からバスに乗り換えて観光地へ向かうと、混むし、非常に時間がかかると。
しかし、一駅だけ奈良線に乗り京阪へ乗り換えると、東山方面へのアクセスが格段に良くなると。
銀閣寺から平安神宮祇園清水寺、そして泉涌寺や文字通り東福寺まで、
駅はちょっと遠いものの、京阪は案外メジャーな観光地を揃い踏みしてる電車なのですよと。
生まれてこの方ずっと「おけいはん」の民である私からすれば、常識以前の話であり、
むしろ何故この便利なルートが今まで認知されなかったのかが不思議という話であります。
誰か、隠してたのか。混雑がいやで、隠してたのか。JRか、京阪か、双方のユーザーかが。
南部の京阪民としては、現在の数倍の観光客が東福寺から乗ってきても、別に問題ありません。
どっちみち、特急で通過してるし。そう、京阪東福寺駅って、特急が停まらないんですよ。
ああ、やっぱりそこか。特急通過駅。確かに、不便。でも、じゃあ停めればいいことなんじゃないか。
何故、停めない。JRは、新快速を停めてる。何故、京阪は各停しか停めない。
JRと、関わりたくないのか。戦前の梅田乗入失敗以来、JRと関わることを避けてるのか。
などと、思うことしきりなんですが、もちろん全てしょうもない冗談です。
観光利用が不安になった人のために付記しとくと、東福寺特急通過は、ホーム長の問題ゆえ。
また、東福寺より上の観光地ゾーンは、特急もほとんど各駅停車。何に乗っても問題ありません。
もし問題があるとすれば、それでなくても紅葉の海が人間の海に化ける秋の東福寺が、
より凄まじい混雑に見舞われる可能性があるくらいでしょうか。
紅葉ピークであったこの日の東福寺は、その危惧が現実化したような混み加減でありました。

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知恩院のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月24日(水)


知恩院のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

デカい、とにかくデカい、知恩院
玄関にそびえ立つ国宝・三門からしてもう、デカい。同じく国宝・御影堂もまた、デカい。
大晦日に大勢の坊さんがバックドロップで打つ重文・大鐘楼も、やはり、デカい。
敷地自体も無茶苦茶に、デカい。ついでに、連日信徒さんを乗せてやってくる大型バスも、デカい。
とにかく巨大、とにかくスケールが違う、圧倒的存在感を誇る浄土宗総本山でございます。
ここまであからさまにデカいと、嫌われても不思議はありません。
ステイスモールを美徳とする京都では、嫌われても不思議はありません。
が、知恩院を悪くいう声はあまりないんじゃないでしょうか。むしろ「さん」づけで、親しまれてるような。
偽京都人の私もまた、知恩院が嫌いではありません。というか、結構、好きです。
三門の前を通れば不思議と心が温まり、時間があれば御影堂へ立ち寄ったりもします。
徳川が朝廷を牽制する気満々で再建した、キナくさいといえばかなりキナくさい、巨大伽藍。
似たような目的で築城された二条城には滅多なことがなければ立ち寄らないのに、
知恩院には不思議と親しみを感じるのです。これは一体、何故なのでしょう。
法然上人の深き慈愛が、徳川の思惑など軽々と超え、我々を導いて下さってるのでしょうか。
それとも単に、片方は入城券が必要で、もう片方は参拝無料だからでしょうか。
そのあたりを確かめるために、というのは大嘘ですが、
とにかく割と高価な拝観料をふっかける紅葉たけなわな秋の夜間拝観へ行ってきました。
普段は無料の境内を全域有料化して行われるライトアップ、そのお値段、実に800円なり。
無料でなくとも、知恩院は、法然上人は、慈愛の光を見せてくれるのでしょうか。
 (2012年付記:知恩院は現在大修理中。記事内の友禅苑以外は、当分拝観できません)

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常寂光寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2010年11月21日(日)


常寂光寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

常寂光寺
嵐山から歩くこと2~30分。嵯峨野の奥へ行ったところにある、日蓮宗の寺院です。
藤原定家小倉百人一首を編んだという説もある小倉山の中腹にあって、
嵯峨野、そして京都市街を一望できるロケーションは、それだけで見事。
秋になれば紅葉が全山を包み、紅葉スポット目白押しの京都においても屈指の美しさを誇ります。
加えて、重文である多宝塔、伏見城の遺構を移築した本堂本圀寺から移築した仁王門
運慶作と伝えられる仁王像、独身婦人連盟が建てた共同納骨堂・志縁廟と、見るべきものも多し。
というわけで、まあ、混むわけです。秋はもう、無茶苦茶に、混むわけです。
そもそもは本圀寺十六世日禎が隠棲の地として開いたのが始まりであり、
仏教の理想郷・常寂光土を思わせるところからその名がついたと言われる常寂光寺ですが、
その小さな常寂光土が人間の臭気で雲散霧消するくらい、猛烈に、混むわけです。
孤独を愛する独男にとっては、浄土というよりもはや、修羅の庭。正直、行きたくない。
でも、メジャーどころの単独正面突破をモットーとする以上、逃げるわけにもいけない。
というわけで「日曜+連休中日+紅葉最盛期」と、わざわざピーク中のピークを選び、
血の色に染まる嵯峨嵐山へ特攻をかけてみました。

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