秋も、ひとり - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 4

圓光寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


圓光寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

圓光寺
円光寺のようでいて、園光寺のようでもいて、実は圓光寺という、圓光寺です。
活字を探すのが何となく面倒くさそうな、そして変換するのは実際に面倒くさい、「圓」 という文字。
そんなややこしい字を堂々と名に掲げる圓光寺の、強気とも言えるスタンスを支えているのは、
この寺が日本最古と言われる楷書の木製活字を所蔵してるという事実に他なりません。
徳川家康によって伏見へ招かれ、この圓光寺を学問所として建立した、開山・三要元佶禅師。
金地院崇伝と共に家康のブレーンとして寺社奉行の任に当たっていた三要ですが、
朱印船関連の仕事もこなし、朝鮮役の際に輸入された十万に及ぶ木版活字の管理も任されました。
この活字こそが、 『貞観政要』 『武経七書』 『孔子家語』 などの書が上梓される際に用いられ、
印刷された書物が 「伏見版」 or 「圓光寺版」 と称される、日本最古の木製活字。
家康の駿府隠居後、寺は伏見から相国寺、そして現在地の洛北一乗寺へと移転を繰り返しますが、
無論、木活字は時代の変遷を超えて大切に保管され続け、現在に至っています。
活字を大事にしてる寺なのです。なので、面倒でも 「円」 とか 「園」 を使ってはいけないのです。
まして 「援交寺」 などという脳が腐ったような不埒な当て字は、決して許されないのです。
そんな圓光寺、明治維新の波乱で一旦は荒廃しますが、のちに尼衆専門道場として、再興。
「援交」 どころか男子禁制の時代が続いたそうですが、近年は観光客の拝観も活性化。
近所の詩仙堂曼殊院などと共に渋寺ゾーンを形成し、人気を呼んでます。
紅葉シーズンは特に人気で、池泉庭園 「十牛の庭」 や水琴窟へ落ちる落葉を目当てに、
老若男女がえんやこらと一乗寺の坂を登る姿が散見できたりするわけです。
そんな圓光寺の紅葉、潜りこんで拝んできました。

続きはこちら »

金福寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


金福寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

洛北・一乗寺に立つ禅坊、金福寺
「金が貯まって福来たる」 という、現世利益大爆発の寺というわけでは、ありません。
むしろ、その逆です。侘びと寂びの風味を全面に押し出した渋き草庵・芭蕉庵で知られる寺です。
もともとは貞観年間、やたらあちこちに寺を作った慈覚大師円仁の遺志を安恵僧都が継ぎ、
大師自作の聖観音菩薩像を本尊とする天台宗の寺として創建されるも、のちに荒廃。
江戸中期に至って、近所の圓光寺・鉄舟和尚が臨済宗南禅寺派の寺として再興しますが、
この鉄舟がかの俳聖・松尾芭蕉と友達であったため、金福寺は一気に寂への道を歩み始めます。
京都を訪れた芭蕉は、たびたびこの禅坊を訪れ、風雅の道について鉄舟と語り合ったとか。
そして、裏山に建つボロ小屋を見て、こんな句を詠みました。 「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」。
その句に感動した鉄舟は芭蕉の高風を偲ぶべく、このボロ小屋を 「芭蕉庵」 と命名。
「芭蕉庵」 の名は、近所の村人にまで浸透するようになりましたが、鉄舟が死ぬと寺はまた、荒廃。
熱烈な芭蕉ファンであった与謝蕪村は、荒廃しきった芭蕉庵を憂い、一門と共にまた、再興。
再興の経緯を 『洛東芭蕉庵再興記』 へしたためたると共に、庵の落成時には、
「耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵」 と、耳や目や肺や腸から零れ落ちる喜びを表す句も残しました。
と、俳句に興味ない人間にとっては 「だから何だ」 なエピソードがテンコ盛りの金福寺ですが、
そんな教養のない私にも、そして貴方にも、この寺の紅葉の美しさは理解できるはず。
寂全開でモノクロームな存在感を放つ芭蕉庵に、色を添える紅葉。いいです。凄く、いいです。
なので人もいっぱい来ます。「穴場」 を欲しがるような人が、いっぱい来ます。
そんな人達で大混雑の金福寺、行ってみました。

続きはこちら »

亀岡祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月25日(木)


亀岡祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行は、祇園祭だけの専売特許というわけではありません。
「山車」 でも、「屋台」 でも、あるいは 「だんじり」 でも、名前は何でもいいですが、
「曳山を曳いて盛り上がる」 祭礼というのは、日本全国に数え切れないくらい存在するわけです。
もちろん当の京都でも、近郊には多くの祭があり、その内のいくつかは曳山祭だったりします。
そして、近郊であるがゆえに、祇園祭から強い影響を受けた曳山祭も、存在したりします。
中でも、極めて似てて、極めて規模が大きく、そして極めて魅力的なビジュアルを持つ祭といえば、
京都府亀岡市の城下町を舞台に繰り広げられる、鍬山神社例祭・亀岡祭でしょう。
京都から出雲へ続く山陰道の要衝として、古くより軍事的に重要視されてきた亀岡 = 亀山は、
信長にブチ切れる前の明智光秀亀山城を建てたことで、城下町として一気に発展。
この地を開拓したという伝説を持つ地元の氏神・鍬山神社も、手厚い保護を受けるようになり、
長く途絶していた例祭もまた江戸前期に復興、城主の援助もあり、規模が拡大します。
江戸中期になると町衆達も多彩な練り物を出すようになり、その流れで、山鉾もまた、出現。
近郊というか、実際の交流も盛んであるがゆえに、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾が、
西陣織や海外から取り入れた豪華な織物で懸装し、城下を練り歩くようにまでなりました。
「口丹波の祇園祭」 としてその名を轟かせた亀岡祭でしたが、城が消滅した明治以降は、衰退。
昭和期は大半の山鉾が巡行を休んでたそうですが、平成に入ると、祭復興の気運が上昇。
山鉾が次々復活し、最近は全ての鉾が勢ぞろいしての城下町巡行も開始されてます。
現在もかなり天然で残る亀岡の城下町ビジュアルの中、本家によく似た山鉾が進む様は、
ある意味、本家以上のマジなタイムスリップ感が堪能できること、請け合い。
で、知名度はもうひとつゆえに、そんな醍醐味が至近距離で楽しめるわけです。
そんな亀岡祭、早朝から夕方まで、潜りこんでみました。

続きはこちら »

鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭・後篇、いよいよ祭本番です。

鞍馬の火祭は、ただいたずらに松明を大量に燃やして、
アホの外人が 「ファ━━イアァ━━━━ッ」 などと絶叫するだけのものではありません。
ちゃんと神輿も出ます。神幸祭なのですから、本殿から御旅所へ向けて、ちゃんと神輿も出ます。
天皇の病や天変地異に際し、五条天神と共に社前へ閉門・流罪の印である靫を掲げられ、
スピリチュアルなスケープゴート的役割を担ってきたという、靫明神 = 由岐神社
そして、現在はその由岐神社の相殿に 「客神」 として合祀されているものの、
かつては鞍馬寺の鎮守社であり、鞍馬山上に独立した社殿も構えていたという、八所大明神。
この二神を乗せた神輿が、鞍馬の町を巡幸することこそ、鞍馬の火祭の本義なのです。
本当かどうかは知りませんが、元来の鞍馬の火祭は、ここまで松明燃えまくりだったわけではなく、
神輿と剣鉾こそが祭のメインという、極めてオーソドックスな神幸祭の形を持ってたとか。
もちろんそれは、祭の本義というものを考えれば、当然といえる話であります。
やはり重点的に見るべきは、燃えさかる松明ではなく、神輿ということになるのであります。
百数十本の松明が鞍馬寺門前に集まる松明集合も、本義を考えれば、見なくていいのであります。
凄まじい炎の中で行われるという注連縄切りも、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
「これを見なければ、鞍馬の火祭を見たことにならない。絶対、見たい。見せろ」 と、
怒り出す奴がいたとしても、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
と、先の流れがほとんど読めること書いてますが、鞍馬の火祭レポート、いよいよ本番です。
セコいコネ使って民家へ上がり込んだり、隅っこで屏風見てクールな観察者を気取ったりせず、
超絶的な混雑へ真正面から特攻したらどうなるか、それを全身で確認してきました。
火の粉の中で燃え上がる、怒り、苛立ち、徒労、疲労、絶望、尿意、空腹、
そして興奮や歓喜などを、とことん体感的に御堪能下さい。

続きはこちら »

鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鞍馬の火祭。京都で最もメジャーな火祭です。
今宮神社のやすらい祭広隆寺の牛祭と共に、京都三大奇祭のひとつでもあり、
京都のみならず、全国的にもかなりな知名度と集客力を誇っている火祭と言えるでしょう。
正しくは鞍馬寺ではなく、同寺境内にある由岐神社の秋季大祭である、鞍馬の火祭。
御所内に祀られていたという靫明神が、940年、朱雀天皇の勅命で鞍馬の地へ遷されることになり、
その際、鞍馬の村人たちが篝火を焚いて神を出迎えたことから、始まったとされてます。
祭の舞台は、鞍馬寺の門前集落として、また若狭街道筋の交通集落として栄えた、鞍馬町、全体。
今なお木造家屋が多く軒を連ねる町中を、数mもある松明が火の粉を散らしながら練り歩き、
最後は町内全焼+山火事大爆発の恐怖もいとわず、その松明百数十本を集め、燃やしまくり。
実に、恐るべき祭りです。が、鞍馬の火祭の真の恐怖は、火にはありません。
この祭りの開催日は、10月22日。雅なるコスプレパレード・時代祭の開催日と、同じであります。
時間的にちょうど良い感じのハシゴができるため、流れて来る観光客は極めて、多し。
しかし、鞍馬に一度でも行ったことがある人は御存知でしょうが、あそこはとても、狭い町です。
道もほぼ一本で、これまた、狭い。そこへ1万人以上の人間と、百本以上の松明が、集まるのです。
圧死の恐怖。踏死の恐怖。トイレがなくて、失禁の恐怖。食事ができず、行き倒れの恐怖。
足を滑らせ鞍馬川へ落ちて溺死 or 凍死の恐怖。などなど、恐い、考えただけで、怖い。
鞍馬の狭さを知る人なら、誰もがこの恐怖を想像し、近づきたいとは思わないんじゃないでしょうか。
私も正直、できたら、いやなるべく、いや本当はかなり絶対に、行きたくなかったりします。
が、このサイトの趣旨は、ベタスポットの単独正面突破。逃げるわけにはいきません。
というわけで、炎の狂乱と混雑の狂気の中へ、正面から飛び込んでみました。
人圧と炎熱がスパークする奇祭の様、とくと御堪能下さい。

続きはこちら »

即成院の二十五菩薩お練り供養大法会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月21日(日)


即成院の二十五菩薩お練り供養へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

仏像を見て 「ウルトラマンに似てる」 と思う人は、多いでしょう。
光の国 or M78星雲、何でもいいですが、とにかく極楽浄土みたいな所から現れ、
怪獣や宇宙人が引き起こした苦境にのたうちまわる我々人類を救ってくれる、ウルトラマン。
人を浄土へは連れて行きませんが、暴れる怪獣は速やかにあの世へ送ってくれる、ウルトラマン。
そして、これはシリーズ初期だけかも知れませんが、南方仏教感が妙に漂う、ウルトラマン。
何か、仏と似てるな、と。もちろんそれは、ある種の本末転倒ではありますが。
本当かどうかは知りませんが、ウルトラマンの造形は、弥勒菩薩を参考にしたんだそうです。
しかし、デザイン上の類似や、顔面のツルンとした質感といったものものの類似以上に、
より本質的に両者は似てるというか、私達の心の中の何かが両者は同じと言ってる気がします。
この感情は一体、何なんでしょうか。単に元ネタと二次創作を識別しない阿呆脳の産物でしょうか。
それとも、私達の深層心理に引き継がれているかも知れない仏教の外来性に関する記憶と、
宇宙人の救済者・ウルトラマンの異人感が、シンクロしてたりするのでしょうか。
そんなわけのわからんことを、即成院二十五菩薩お練り供養を見てる間に、考えてました。
本堂を浄土、地蔵堂を現世と見立て、その間を人間が扮した二十五菩薩が練り歩くことで、
極楽往生の様を具現化した、泉涌寺塔頭・即成院の二十五菩薩お練り供養大法会。
そこに現れた菩薩たちは、ギンギラギンかつド派手なコス&生々しいまでの異国テイストが、
ウルトラマンというより 『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』 の凶暴な怪神・ハヌマーンに似てましたが、
しかし、仮面に神々しさと妖しさが宿るその姿は、やはり実にウルトラ的だったのです。
そんなお練り、肝心の二十五菩薩像を拝まぬままの見物してきました。
異人の救済を感じるか、仏像コスプレに見えるかは、あなた次第。

続きはこちら »

粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月8日(月)


粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

粟田祭は、面白い。
「面白い」 は 「funny」 と 「interesting」 、両方の意味で使われますが、
粟田祭は、その両方が習合したような、興味深さと爆笑誘引力を兼ね備えてる気がします。
何せトップ画像のような巨大物体・粟田大燈呂が闊歩するわけです。それはもう、笑えるわけです。
と同時に、こんな物体にも神仏習合が色濃く残るあたりが、興味深かったりもするわけです。
そもそもは祇園感神院 aka 八坂神社の新宮として、粟田口に創建された社、粟田神社。
言うまでもなく由緒正しき神社であり、その大祭・粟田祭もまた長い歴史を持つ、由緒正しき祭。
それもただ単に千年以上やってるというだけでなく、名物の剣鉾は祇園祭の山鉾の原型とも言われ、
戦乱などで祇園祭が催行不能に陥った際は代理も務めたほど、大御所な祭なのであります。
しかしそれでも、粟田祭は、面白い。現在進行形でかつ、怪しいまでに、面白い。
その怪しさを集中的に担うのはもちろん、京都造形芸大により近年復活した粟田大燈呂ですが、
こちらも本来は青森ねぶたのルーツである可能性も考えられるほど、歴史を持つ風流灯籠。
何も怪しくなく、何もおかしくないのです。しかし路上へ出た途端、爆笑が止まらない。
さらには、京都のネイティブな町並とのギャップ感 or サイズバランスが、どうにも面白過ぎる。
京都には他にも、怪しい案件が登場する祭や、奇景を呈する祭が存在しますが、
全体のスケールとバランス、そして何より 「これからどうなる」 「どこまで行く」 という点に於いて、
爆笑と教養、神と仏、そして歴史の継続と未来への挑戦が習合する粟田祭は、
現在の京都で最も目の離せない祭と言えるのではないでしょうか。いや、知らんけど。
そんな粟田祭、前年2011年は爆発的に怪しい夜渡り神事を中心に見物させてもらいましたが、
2012年度は、神幸祭で白昼の大燈呂+剣鉾+神輿をメインに追っかけてみました。
面白さがどこまで伝わるのか、あるいはこのトップ画像だけでもう充分なのか。
いろいろ不安ですが、とにかくお楽しみください。

続きはこちら »

三栖神社の炬火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月7日(日)


三栖神社の炬火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

かつて京都の南には、巨大な池がありました。
その名を、巨椋池四神相応の朱雀にあたり、平安京の背山臨水を実現した池です。
実際にはあまりにも巨大過ぎ、池というより湖と呼んだ方が正確なサイズを誇ってましたが。
おまけに、桂川・宇治川・木津川の合流点+遊水池機能を持つため、そのサイズはかなり、可変。
池の周囲には、広範囲にわたって沼地や湿地帯ばかりが広がってたと伝えられてます。
現在は怖いダンプやトラックがバンバカ走りまくる伏見西部・横大路のあたりも、かつては、沼地。
「鳥や小動物が住む所」 という意味の 「栖」 の字を名前に含んだ中書島の西隣・三栖もまた、
巨椋池とほぼ同化した宇治川の氾濫に見舞われ、葦ばかり生える湿地帯だったとか。
それが、秀吉による伏見港開港+宇治川改修で、集落が発生+往来も活性化。
さらに時代が下ると、運河・高瀬川が開通。さらにさらに時代が下ると、巨椋池自体が干拓
さらにさらにさらに時代が下ると、既に方向幕も出来てたという地下鉄延伸の話はどうなったとか、
京阪も新駅開設とか言ってたあの話はどうなったとかいう話になるんですが、それはともかく。
とにかく、現在は普通の住宅地に時折古い町家が混じる、渋くていい町となってる、三栖。
そんな三栖にあって、「葦ばかり生える」 頃の名残を留めるのが、その名も三栖神社の炬火祭です。
あり余る葦で巨大松明を作り、それを燃やすという、シンプル&ストレートな火祭、炬火祭。
オーソドックスといえば実にオーソドックスな火祭ですが、市街地の路上で大炎上をやるため、
いろんな意味でワイルドかつショッキングなビジュアルが楽しめる祭であります。
そんな炬火祭、火傷しそうな勢いを感じながら、見てきました。

続きはこちら »

北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2012年10月4日(木)


北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき御輿。
完成した際に氏子が随喜の涙を流したからその名が付いた、というのは、嘘です。
ずいき = 里芋の茎で葺かれた屋根を始め、ボディ全域を野菜でデコられた、アーシーな御輿。
それがずいき御輿であり、その巡幸を行うのが北野天満宮秋の大祭・ずいき祭であります。
普通、北野天満宮といえば、平安朝の文人・菅原道真。そして、菅原道真といえば、怨霊。
陰謀により大宰府へ左遷され、結局その地で死に果てた道真は、怨霊化して都へストライクバック。
御所に雷を落として憎い相手を焼き殺すなど、無茶苦茶をやらかし都人を恐怖のどん底へ。
何とか道真の魂を鎮めるべく、朝廷は北野に社を建立。北野天満宮の、有名な創建の由緒です。
どちらかといえば 「魔界」 などのワードが似合う、首都ならではの物騒な由緒を持つ社であり、
芋の茎で屋根が出来た御輿の牧歌性は、あまり関係なさそうに見えたりもします。
しかし、この辺は元々、農村だったとか。天満宮創建前から、天神地祇を祀る聖地だったとか。
都市化された現在の姿からは想像もできませんが、農村のテイストは昭和初期まで残ってたそうで、
野菜に穀物、蔬菜や湯葉に麩などの乾物類で覆われたずいき御輿は、ある意味、
太古の昔から続くこの地の農耕文化の伝統を、最も深く引き継ぐものなのかも知れません。
時代の変遷の中で、時には途絶したり、時には逆に増殖したりもした、ずいき御輿。
現代に至ると農村の方がほとんど消滅しましたが、それでも祭と御輿はしっかり、存続。
祭のクライマックスである還幸祭では、道真+嫁+息子が乗る鳳輦や、牛車などの行列と共に、
ネイティブテイストが溢れる激渋な街中を、野菜全開の姿で巡幸してくれます。
ちょっと不思議で味のあるそんな風景、たっぷりと見てきました。

続きはこちら »

安井金毘羅宮の櫛まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月24日(月)


安井金毘羅宮の櫛まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

髪と、愛欲。共に独男には縁のないものです。
中には、サラサラのロン毛を誇る同志の方もいらっしゃるのかも知れませんが、
その髪を撫でられることがない点では、ロン毛でも坊主でも、事情はさほど変わらないでしょう。
魂は、常に禁欲。禁じられてるわけでもなく、自ら禁じてるわけでもないけど、何か、禁欲。
軍国少年の硬直性だけを理由も無く継承したような我々にとって、髪も、愛欲も、共に邪魔です。
人によっては、抜け毛のために排水口が世界最恐の恐怖スポットに化けてしまったり、
慣れない愛欲のために貯蓄のみならず命まで盗られたりと、基本、ロクなことがありません。
近づかないのに越したことはないのであります。君子危うきに近寄らずなのであります。
が、このサイトの趣旨は何度も何度も書いてるように、ベタスポット&イベントの単独正面突破。
「花街ならではの技術で各時代の髪型を再現し、その髪型で祇園の街を練り歩く、女だけの時代祭」
みたいなことを言われたら、危うきであろうが何だろうが、逃げるわけにはいきません。
甲部&宮川町など花街に近い立地ゆえ、ややこしい愛欲に苦しむ舞妓はん&芸妓はんから、
また最近では歪んだ愛欲に悩む一般婦女子からも信仰を集める、縁切りスポット・安井金毘羅宮
「切る」 のは愛欲に限らず、酒 or タバコ or ヤクなんかもズバっといってくれるそうで、
その繋がりか、あるいはやはり土地柄なのか、切るのが仕事の美容師からも信仰されてます。
昭和中頃には、商売道具である櫛を祀る櫛塚ならぬ 「久志塚」 を、境内に建立。
櫛供養と時代風俗行列も開始されました。それが、9月第4月曜に開催される、櫛まつり。
古墳時代から現代に至る各時代の女性の髪型を、考証に基づき再現したモデルさん達が、
祇園の街を練り歩く様は、京都の初秋を彩る風物詩としてすっかり定着してます。
そんな櫛まつり、髪の恐怖も愛欲の恐怖も何のそのと、行ってきました。
で、そこで目にしたのは、それらとは全く別の恐怖でした。

続きはこちら »

晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月22日(土)


晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

晴明神社は元々、名づけの神様として親しまれてたそうです。
何ゆえに名づけの神になったかといえば、「晴明」 = 「せーめー」 = 「姓名」 だと。
スピリチュアルな世界とグダグダな日常が恐ろしいまでに混在する京都らしいエピソードですが、
しかし、私が晴明神社のことを知った頃には、ここは既にいわゆる 「聖地」 と化してました。
「母親は狐だった」 「何ちゃらを駆使して怨霊と戦った」 「箱の中身を思い通りに変化させた」
「死者を復活させることができた」 「自分も一旦死んで、骨にまでなったが、何ちゃらで復活した」
「小さい鬼を操った」 「でも嫁にそいつらキモいから家入れんなと言われ、橋の下の石櫃に隠した」
「隠したままほったらかしにされた石櫃が千年後になって出てきて、大騒ぎなった」 などなど、
無理目なエピソードが千年の時を越えて無限に捏造、もとい二次創作されまくる、陰陽師・安倍晴明
その邸宅跡に建てられた晴明神社は、晴明に最もゆかりが深い特級のパワースポットとして、
陰陽師ブームの発生以降、ややこしい思考や嗜好を持つ人達の間で、一気に聖地化。
拡張された敷地には式神オブジェが立ち、近所には五芒星グッズを売る店が現れて神社と揉め、
今や隣の西陣織会館を凌ぐ勢いを誇る、一大観光スポットと化したのであります。
しかしそれ以前は先述のように、地元の人の為の駄洒落爆発な名づけの神様だったのであり、
明治期に荒れた神社を救ったのも、「晴明」 を 「清く明るいことやろ」 とか言いそうな氏子さんたち。
また現在も西陣の人達にとって 「せーめーさん」 はごくごく普通の氏神さんのようで、
その辺のネイティブ感がよく現れてるのが、その名もずばりの例祭 「晴明祭」 ではないでしょうか。
陰陽大爆発な世界を連想したくなる名前ですが、実際に行われるのは、ごく普通の神幸。
でも、神輿や法被にはもちろん、五芒星。で、ネイティブな西陣の街中を進む、と。
混在してます。ある意味、極めて京都らしい神幸と言えるかも知れません。
そんな晴明祭、暇にまかせて追いかけてみました。

続きはこちら »

石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【2012年度版・前篇】

2012年9月15日(土)


2012年の石清水八幡宮・石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

勅祭・石清水祭
京都の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮に於いて、9月に行われる例大祭です。
二所宗廟の一つとして朝廷から崇敬された経緯ゆえ、現在も旧儀に則って勅使が派遣され、
知名度は今イチながら、賀茂祭春日祭と共に 「三勅祭」 と呼ばれる、ロイヤルな祭であります。
以前も書きましたが、私はこの祭の舞台となる頓宮のすぐ近所で、生まれ育ちました。
しかし、貧乏な流れ者の子だったためか、石清水祭についてほとんど何も知らないままでした。
その欠落を埋めるべく、2011年は5000円のロイヤルな参列料を払って祭に参列し、
朝の2時からオール&ノンストップで続く祭儀を、食うものも食わず&寝るものも寝ずに見続け
その全てを全5回の超冗長な記事にまとめたんですが、しかし、勅祭はやはり、甘くない。
倒れかけながら全てを見尽くしたつもりでも、実際にはいくつか見落としがありました。
まずは、石清水祭独特のものと言われる、御花神饌。そして、放生会終了後の、舞楽奉納。
どちらも、前回見ようと思えば見れたものです。でも、見なかった。だって、死ぬほど眠かったから。
腹も死ぬほど減ってた。1秒でも早く、帰りたかった。なので、スルーしました。見落としです。
御花神饌はともかく、舞楽はさほど興味が無いんですが、でも見落としは見落としです。
というわけで、2012年度はこれらのフォローに終始。で、その他は思いっきり、適当。
参列料を払う金もないので、タダ見できるところばかりを、ひたすらダラダラウロウロしています。
なので、祭儀の詳細の方は前年の記事を御覧いただくとして、今回は空気のようなもの、
一般的な神輿大騒ぎな祭とは少し違う、石清水祭の雰囲気みたいなものを、
適当な写真&文から感じとってもらえると、幸いです。

続きはこちら »

祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇王寺
平家物語における白拍子祇王の悲恋伝説で有名な、奥嵯峨の寺です。
近江・野州で平家家人の娘に生まれるも、父が死に、母&妹と共に京都で白拍子となった、祇王。
その美しさと華麗な舞から、驕る平家全開&DQNモードの平清盛に寵愛され、
大金+名声+故郷の水不足を解決する祇王井川開削までゲットしますが、しかし、好事魔多し。
強硬に舞プレゼンを願う16歳の仏御前を、お情けで清盛にとりなしてやったら、
清盛一発で心変わり+祇王叩き出し+仏御前の余興のためだけに再度呼び出し&再度叩き出し。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわで果つべし」。
やっとられんわという思いでこのような歌を詠み、祇王&妹&母は洛外へ脱出+出家。
その出家の場所が、この祇王寺と言われてます。他にも諸説はありますが。
山里で念仏三昧の日々を送る尼母娘3人組には、祇王没落の原因となった仏御前も、のちに合流。
どうせ自分も、いずれ似た運命を辿るのだ。いずれか秋にあわで、果つるのだ。
愛欲の諸行無常を知る者同士で連携を深めた四人は、チームワークで念仏三昧へ没頭、
全員がめでたく往生を遂げたといいます。「われらも遂には仏なり」と。
愛欲の諸行無常にも、逆にDQN性質を発揮する権力・金力・精力にも無縁の独男には、
かなり関係のない寺ではありますが、とりあえず紅葉シーズンのラストですし、
一人で数時間座り込む女性がいるというディープさも面白そうなので、興味本位で出かけてみました。

続きはこちら »

高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年12月4日(日)


高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

高桐院
美しき禅寺・大徳寺の、美しき塔頭です。
秀吉による信長の菩提寺・総見院の建立以降、大徳寺では武将の塔頭建立が相次ぎますが、
こちらの高桐院もまた、細川忠興 aka 三斎が、父・幽斉の菩提所として創建。
戦国時代きっての冷徹な智将にして、キリシタン&明智光秀の娘・ガラシャを嫁とし
隠居後は茶の道も究め三斎流の開祖ともなった、細川忠興。
かの千利休は、利休七哲の一人として認めるほどこの三斎が気に入ってたようで、
こちらの高桐院には利休邸からの移築されたと伝えられる書院・意北軒が残り、
また、北野大茶湯のために作られ利休の茶を忠実に継承したとされる茶室・松向軒も、設置。
さらに利休は、自らの灯籠を三斎の墓塔として贈り、これを気に入った秀吉が横取りしようとすると、
「こっちの方が風流だ」と塔の一部を削るなどという、実に性格の悪いことをやらかしたそうです。
心温まるんだか温まらないんだかよくわからんそんな数々の伝承と共に、
三斎&ガラシャ、三斎の三回忌に殉死した興津弥五衛門、そして何故か出雲阿国が眠る、高桐院。
年中無休で拝観謝絶の塔頭が多い大徳寺にあって、こちらは常時、拝観を受入。
もちろん紅葉シーズンも開いてます。そしてもちろん、混みます。
紅葉がすっかり落ちた頃に出かけましたが、それでも全然、混んでました。

続きはこちら »

高台寺の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月1日(木)


高台寺の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

高台寺が、好きです。特に、夜の高台寺が、好きです。
はっきり言って、客層は独男にとって最低です。特に、ライトアップ時の客層は最低です。
実際、この夜の客層も最低でした。今まで行った秋の夜間拝観も、ほぼ外れなしで最低でした。
しかし、それでも、好きです。レトリックで言ってるのではありません。本当に、好きです。
何故そんなに好きかといえば、多分、この寺が率直だからでしょう。
夜間拝観を断行した同寺塔頭・圓徳院の住職・後藤典生氏は、著書『高台寺物語』にこう書いてます。
「私がライトアップを発想したもっとも大きな理由は、参拝客を増やしたいと思ったからです」。
わかりやすい。わかりやす過ぎて禅問答な気にさえなりますが、言い分はこうです。
全盛期の1/10にまで縮小した伽藍を再建したい、と。百年かかるが再建したい、と。で、金が要る、と。
そんなシンプルかつストレートな理由で、高台寺は1994年にライトアップを開始します。
寺によっては、渋さとしょぼさを意図的に混同したような照明が設定される夜間拝観ですが、
「金が欲しい」という根本動機にブレのない高台寺は、常に衒うことなく絢爛さを発揮。
「商業主義」「それでも禅寺か」「まるで和風テーマパーク」などと言われながらも、
拝観客は増えまくり、廃墟同然の状態から一転、京都随一の観光寺院の座を獲得するに至りました。
その稼ぎまくる姿に私は、率直さや大らかさ、清々しさといったものを感じます。
そしてその率直さ・大らかさ・清清しさといったものは、高台寺を建立した北政所ねねの、
夫・秀吉の配下たちを惹きつけた人柄と共通したものなのかも知れない、と思ったりもします。
私はそんな高台寺が、好きです。2011年秋の夜間拝観も、もちろん行きました。

続きはこちら »

圓徳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月1日(木)


圓徳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

圓徳院
いわずと知れた高台寺塔頭であり、同寺を建立した北政所ねねの終焉の地です。
夫・豊臣秀吉の死後、ねねは京都で隠棲を始め、「高台院」の名にちなんだ高台寺の建立を発願。
秀吉好みのギンギラギン仕様だったという伏見城から資材を流用して伽藍を整備しつつ、
やはり伏見城より化粧御殿と庭園を山内へ移築、そこへ住み、そしてその生涯を終えました。
ねねの死後、ねねの兄・木下家定の次男・利房はこの場所を寺化することを思いつき、
寛永9年、木下家の菩提寺にして高台寺塔頭である圓徳院は創建されたわけです。
が、そんなことに興味があってここを訪れる人は、稀でしょう。
参道・ねねの道まで抱き込んだ形で、大幅な観光リニューアルが施された90年台以降、
わかりやすい観光客が大挙して押し寄せるドメジャースポットへ急成長した、高台寺&圓徳院。
最盛期の1/10にまで縮小した境内伽藍を復活させたいという寺の想いは、
開き直りを通り越して清々しさや悟りの境地さえ感じさせる、飽くなき集金への情熱と直結。
「和風テーマパーク」という呼称が皮肉ではなく単なる事実でしかない境内を生み出し、
毎年行われるライトアップには、悟りもひったくれもない客が大勢集まるようになりました。
派手な伽藍とビジュアルを持つ高台寺にその傾向がより顕著ですが、
高台寺より狭い圓徳院は、その由来から逆に「ねねの愛」といったものを積極的にアピール。
「何か和で、愛で、優しい感じ」という、よりカップルを吸い寄せがちな何かになっとるのであります。
そんな圓徳院の、ちょっと遅めな紅葉真っ盛りのライトアップ。
和の心を持たず、愛を知らず、優しくない独男は、入ることができるのでしょうか。

続きはこちら »

叡電・もみじのトンネルをくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2011年11月29日(火)


叡山電車のもみじのトンネルをくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

おとついも来たんですけどね、もみじのトンネル。
でも日曜+紅葉ピークゆえ、なかなかの混雑。ゆっくり楽しむ余裕はありませんでした。
が、20時台に鞍馬行き列車の空き具合を見て、あら、と。時間をずらせば、結構空いてるな、と。
なので、平日に改めて行ってみることにしました。二ノ瀬駅のライトアップも、じっくり見たいし。
京の奥座敷・貴船の秋季集客イベント「貴船もみじ灯篭」に、叡山電車が連携、
鞍馬線市原駅二ノ瀬駅間の紅葉をライトアップし、その中を走るという、もみじのトンネル。
そのトンネルを、一日乗車券「えぇきっぷ」を使い、何度も何度もくぐったわけです。
暇だと思いますか。そうですね。こんなサイトを見てる貴方と同じくらい、暇かも知れませんね。
あ、沿線に多くの聖地を持つ『けいおん』の映画版公開がちょうど近づいてるため、
叡電にもあちこちにその手のブツが張り付いてますが、原則、うちでは『けいおん』ネタ、扱いません。
理由は、嫌いだからではなく、あまりにもハマりそうで、何か怖いから。
「独男+音楽ヲタク+聖地が近所+木津川サイクリングロードは歩いていける」な私にとって、
 (2012年追記:ついでに作画監督父親が市長になった)
あれは、ジャンキーの目の前へシャブを超える合成薬物を氷山の如く盛るに等しいのです。
何か、人間じゃなくなりそうな恐怖を感じるのです。だから距離を置いてます。心情、お察し下さい。
というわけで、せめて人間らしくもみじのトンネル連覇、参ります。

続きはこちら »

貴船もみじ灯篭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月27日(日)


貴船もみじ灯篭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

もみじが誘う、恋の道。
「恋の道」と入力したら「鯉の道」と変換してくれたマシンを持つ独男の私には、
実に無縁極まるキャッチコピーを持つのが、貴船の秋の集客イベント・もみじ灯篭です。
春は新緑が輝き、夏は言わずと知れた川床、そして秋は美しい紅葉+冬眠前の熊出没注意と、
季節ごとに豊かな、時に豊か過ぎるほどの自然に恵まれる、京の奥座敷・貴船。
市街地より気温が数度低く、真夏でも涼しいことは有名ですが、そのぶん冬の冷え込みは、熾烈。
ぼたん鍋は美味くなるものの、「ひろや」のように冬季はまるっきり休業する店もあるほどです。
なので、秋の内にちょっとでも稼ごうと考えたのか、2002年から一帯で紅葉のライトアップを開始。
貴船神社貴船街道の飲食店街、そして貴船への重要なアクセス手段である叡山電車が連携し、
叡電沿線の「もみじのトンネル」から貴船神社奥宮までを、様々な電飾で盛り上げてます。
それが、貴船もみじ灯篭。それが、もみじが誘う、恋の道。
何故「恋の道」かと言えば、光りものへ蛾の如く寄りつくカップルがそぞろ歩くからではありません。
平安時代中期の女流歌人・和泉式部が、夫である藤原保昌との復縁を願い、
縁結びの神でもある貴船神社へ参拝する際、この貴船街道を通ったことに由来します。
「夫と疎遠になったのは、お前が他の男と遊び呆けたからだろ。それでも恋の道ってか」
などということは、大の大人が言ってはいけません。
また、どっちかといえば「恋の道」より、丑の刻参りで歩く「呪の道」がふさわしい気もしますが、
そういうことも、大の大人が言ってはいけません。

続きはこちら »

鷹峰の源光庵へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月25日(金)


鷹峰源光庵へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

迷いの窓。そして、悟りの窓。
片や人間の生涯の四苦八苦を表す、角窓。片や大宇宙や真理を表現する、丸窓。
の哲学を具現化したこの二つの窓で知られるのが、北区鷹峰に立つ禅寺・源光庵であります。
1346年に臨済宗大徳寺二世の徹翁義亨が隠居所として創建しましたが、のちに荒廃。
時代が下って1694年、加賀国大聖寺の曹洞宗僧侶・卍山道白によって再興され、その際に改宗。
再興後に再建された本堂には、廃城となった伏見城の遺構である血天井が流用され、
養源院宝泉院正伝寺などと並ぶ「京都血天井めぐり」のスポットとしても、有名です。
禅が全開の、窓。そのピュアな精神性を諸行無常にブーストする、血天井。
そして「鉄道なし+バス少なめ+坂めっさキツい」という、単純にアクセス不便気味な立地条件。
本来は、なかなかに渋好みな寺なわけです。実際、普段は本当に渋好みな寺なわけです。
が、秋になったら窓の向こうに紅葉が見えてしまうもんから、もう大変。
額縁効果が効いた紅葉を見よう or 撮ろうと、観光ハイで生老病苦も忘れたツアー客の方々が、
大型バスに乗り大挙してやってくるスポットになり果ててしまうのであります。
そんな源光庵、今年は今いちではあるものの、わざわざ紅葉のピークに訪れてみました。
人間だらけの状況で、迷いの窓と悟りの窓は、どんな相貌を見せてくれるでしょうか。

続きはこちら »

曼殊院の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月25日(金)


曼殊院の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

男は黙って、曼殊院
といっても、別段しょうもない冗談を言いたいわけではありません。
それくらい、男好きのする寺だと言いたいだけです。そう思うのは、独男だけかも知れませんが。
修学院離宮のすぐそば、比叡山麓の一乗寺に建つ天台五門跡のひとつ、曼殊院。
戦国時代に慈運法親王が入寺したことで門跡寺院となったこの寺は、
江戸前期に至り良尚法親王を迎えたことで、ミニ桂離宮とも言われる伽藍を誇るようになります。
日本の「美」が凝縮された桂離宮、それを造った八条宮智仁親王の次男である、良尚法親王。
その幅広い識見と創意は、庭園や茶室のみならず寺の建物全てへと行き渡り、
貴族趣味が加味された江戸時代初期の代表的書院建築が残されることとなりました。
そんなやんごとなき寺が何で「男好きする」のかと言われたら、私もよくわからないんですが、
多分、美しさの中に殺気があるからじゃないでしょうか。
男にしか察知できない、殺気。それも、権力から遠い男にしか察知できない、殺気。
禁中並公家諸法度で文化事業しかすることのなくなった皇族&公家が抱いた殺気が、
時代を超えて独男の魂に響いてくる、というのはもちろん不遜な不敬で不埒な妄想です。
が、そんな不遜な妄想に独男を誘う妙な色気が曼殊院にあるのも、確かな気がします。
その色気と殺気がより濃厚になるのが、夜のライトアップ。
一応、紅葉シーズンに合わせた夜間拝観ですが、伽藍そのものの方が魅力的なので、
そっちメインでご堪能下さい。今年2011年は、紅葉が全然ですし。

続きはこちら »