2014年10月26日(日)

京都刑務所の京都矯正展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都刑務所。その名の通り、京都市にある刑務所です。
平安遷都後に設けられた 「左獄」 & 「右獄」 にまで遡る歴史を持つこの獄は、
この雅なる街に於けるいわば 「街中の獄」 として、現在に至るまで存在し続けてきました。
「右獄」 はすぐ衰退したものの、 「左獄」 は秀吉の時代まで生き延びた後、小川通御池へ移転。
江戸中期に至ると、六角通へ面した 「三条新地牢屋敷」 、通称 「六角牢屋敷」 が新設。
維新後は短期間の小浜藩邸時代を経て、千本屋敷跡に於いて府立の 「京都府徒刑場」 が成立。
「府懲役場」 「府監獄本署」 「京都監獄」 「京都刑務所」 と改名を繰り返した千本時代の獄は、
囚人の農作業姿が普通に見れたというくらい、 「親水」 ならぬ 「親獄」 的状態を呈していたと言われ、
この状態を改善すべく、獄は当時は過疎地だった現在地・山科へ移転し、 「街中」 を一旦脱出。
しかし山科は山科で、大正の鉄道・道路開通から昭和の高度成長期にかけて都市化が進み、
人口は4000人から14万人へと爆増、移転した刑務所の周囲にはマンションなどがバカスカと林立。
結局、京都刑務所はまた 「街中の獄」 「親獄」 的なる佇まいとなって、現在に至るのでした。
運命を感じるほどの 「街中」 さ加減です。次に移転したとこも、また都市化するんじゃないでしょうか。
「ならもう、徹底的に親獄を深めてしまえ。塀も、取り払ってしまえ」 と思ってるかは知りませんが、
それに近い勢いで 「親」 感に溢れた催しが、毎年10月末、京都刑務所では行われてます。
それが、京都矯正展。 「中の人」 の作業品を 「中」 にて買える、あの矯正展の、京都刑務所版です。
『函館監獄』 などヒットが生まれる隆盛を誇ると共に、獄中見学も人気が高い矯正展ですが、
周辺地域住民の理解が必須な立地を誇る京都刑務所も、当然のようにム所見学はしっかり実施。
良い品が安く買え、おまけに普段中々入れないところにも入れるとあって、人気を博してます。
そんな京都矯正展、私もこのサイトが 「観光テロ」 扱いされ摘発されるかもしれませんし、
そもそも独男自体が違法化してブチ込まれる可能性も無いとは限らないので、
「親獄」 を深めるべく、無論見学込みで行ってみました。
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2014年10月19日(日)

野宮神社の斎宮行列を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
葵祭のヒロイン or 花形である斎王には、モデルみたいなものがあります。
「いや、斎王代のモデルが斎王だろ」 とか言われそうですが、そういう話ではありません。
葵祭・斎王代のモデルである斎王 aka 賀茂斎院には、モデル or 先行者がいるのであります。
それが、斎宮。伊勢神宮にて祭祀を司り、その宮殿名 「斎宮」 が呼称化した斎王のことです。
古くは 『日本書紀』 にまで遡るという斎宮の制度が、本格的に整備されたのは、天武天皇の時代。
壬申の乱で天武帝は、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利。以来、伊勢を 「天下の宗廟」 と規定。
未婚の内親王 or 女王をかの地へ下向させ、祭祀を担わせる斎宮の制度を確立させたのでした。
以来、多くの御供を引き連れ伊勢へ向かう斎王の行列 = 群行は、平安期から中世にかけて存続し、
その群行の様を平安京の周辺のみで小じんまり踏襲した賀茂斎院の行列は、都の風物詩化。
で、その踏襲した賀茂斎院の行列こそが、現代葵祭に於ける斎王代の元ネタとなったわけですね。
「コスプレの元ネタに、さらに元ネタあり」 という話であります。雑な言い方過ぎて、恐縮ですけど。
葵祭・路上の儀が、往時の完コピを目指したコスプレで現在も継続してるのは御存知の通りですが、
では斎宮行列の方も、完コピを目指したコスプレ行列が行われているかといえば、これが難しい。
単純に、京都から伊勢って、遠いし。近鉄特急なら速いけど、徒歩だと5泊6日かかるそうだし。
なので、伊勢と京都それそれの由緒ある場所で、バラバラにイベントが開催されてるのが現状です。
伊勢では、有名な斎王まつり。で、京都では、今回出かけた野宮神社の斎宮行列であります。
斎宮は、伊勢へ下向する前、洛外に設けられた 「野宮」 で厳重なる潔斎を行うのが決まりでした。
その 「野宮」 が数多く設けられたという嵯峨野には、 「野宮」 跡がいくつかが神社化して残存。
嵐山にて源氏物語の何ちゃらと縁結びが売りの野宮神社もまた、そんな 「野宮」 跡神社のひとつ。
その由緒と観光客寄せがクロスする形で、ミニ斎宮行列 「斎宮夢行列」 が平成に入って復活し、
2005年には 「斎宮行列」 と改称、嵐山の秋の風物詩として認知度を深めつつあります。
そんな斎宮行列、 「元ネタの元ネタのコスプレ」 を拝むべく、行ってきました。
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2014年10月12日(日)

御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
御香宮神社。洛南・伏見にあって、 「伏見の総鎮守」 と称される神社です。
清和天皇から名を贈られたと伝わるも、基本的には創建の詳細が不明なほどの歴史を誇り、
山村・石井村・船戸庄村・森村・久米村・北尾村・北内村・法安寺村・即成就院村という伏見の村々、
すなわち 「伏見九郷」 より、伏見城築城の遙か昔から総鎮守として信仰を集める社であります。
その伏見城築城の際には秀吉により移転させられますが、家康の代には現在地へ帰還し、
その家康により社殿も再建され、孫娘・千姫の誕生祝いとして2.3トンに及ぶ 「千姫神輿」 もゲット。
この神輿を得た御香宮神社の秋祭、通称 「伏見祭」 は、伏見城が廃城された後も更に活性化、
維新の波乱や現代の変化も乗り越え、神輿を分割した現在もその勢いは止まるところを知りません。
一週間以上に及ぶ期間、各種行事&子供が多いエリアゆえに活況を極める夜店が展開され、
中でも宵宮に行われる花傘パレードの凄まじさは、当サイトでも2011年にお伝えしてる通りです。
で、今回はその 「伏見祭」 最終日、正にクライマックスたる神幸祭に出かけたわけですが、
えと、あの、今回はいつもと比べてちょっと、いやかなり、いやはっきり言って非常に、日和ってます。
当サイトの祭記事は、ストーカーの如く神輿や行列を追尾しまくってるのが常態なんですが、
今回は門前付近で神輿などを淡々と待ち、宮入りだけ見るという、淡々モードの見物となってます。
待ってる時間もまた、淡々と露店を冷やかしてみたり、あるいは淡々と担々麺を食ってみたりと、
まるでサイト名が 『独虚坊の京都幸せおでかけ日記』 に化けたようなユルさ爆裂状態になってます。
何故こうも日和ったかといえば、 「伏見九郷」 を回る神輿の巡幸範囲が、広過ぎるからです。
酒蔵界隈は無論、北は深草、南は向島、東は六地蔵に及び、更に3基の神輿は別行動。追えません。
加えて、獅子舞や武者行列なども別ルートで参加し、おまけにこれらの全てが早朝から巡幸。
完全追尾はおろかチョイ見を重ねることさえ無理と判断し、淡々見物を渋々決断したのであります。
というわけで、担々麺に加えて豆腐ハンバーグまで混入するユル過ぎ記事となってますが、
しかし、あるいはそれ故に、街に充満する祭の気配は、よりリアルに感じられるかも知れません。
「洛南の大祭」 とも呼ばれる、その大祭ぶり、街の息吹と共に御覧下さい。
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2014年9月21日(日)

京都岡崎レッドカーペット2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「アーキテクチユール」 すなわち 「Architecture」 の本義は、
「実躰を Building に籍り形式を線條躰裁に訴へて眞美を發揮するに在る」 がゆえに、
その訳語を 「造家」 より 「建築」 へ改めるべきと主張したのは、日本近代建築の祖・伊東忠太。
京都の平安神宮は、そんな伊東が帝大院生時、共作ながらデビュー作として手がけた 「建築」 です。
明治28年、平安遷都千百年祭紀年祭のために平安京・太極殿の縮小ハリボテを岡崎に作ったら、
勢いでマジ神社化したという、 「仏作って魂入れず」 の真逆を行く創建経緯を持つこの神社に、
伊東らは 「古都」 としてのもっともらしさ、もとい、復古的な 「眞美を發揮」 するビジュアルをデザイン。
一歩間違えれば、万博パビリオンかネズミーランドに祈りを捧げるような奇景が生まれてた所を、
「眞美」 により見事超克し、今なお魅力と魔力が稼働し続ける 「建築」 として仕立て上げたのでした。
京都三大祭のひとつにして例大祭であるヒストリカル・コスプレ・パレード aka 時代祭に於いても、
平安神宮が持つもっともらしさ、もとい、復古的な 「眞美」 は、強い魅力と魔力を 「發揮」 してますが、
一方、復古的ではないのに何か 「平安神宮的」 な魔力を持つイベントも、この神社にはあります。
それが、毎年9月中旬に応天門前の神宮道にて開催される、京都岡崎レッドカーペットです。
要は、門前に赤絨毯敷いて各種パフォーマンスを行うという、行政絡みの振興策みたいなもんですが、
ヲタ動員を狙ってコスプレなどの風味も大量導入されてるため、その外観は極めて、魑魅魍魎。
特に2014年は、映画の宣伝で 『機動警察パトレイバー』 の実物大ハリボテまで御覧のように屹立し、
その真前ではフラダンスが行われるなど、 「状況、カオス!」 と叫ぶしかない事態が現出してます。
しかしそのカオス状況は、宗教ネズミーランド化しかねなかった平安神宮にある意味で相応しく、
また近代化の真中を進む一方で幻獣を愛し、作品にも混入させた伊東が喜ぶものかも知れません。
と、本気で思うかといえば、これも無論もっともらしさを 「發揮」 すべく吐き散らした大嘘ですが、
とにかくハリボテとコスプレが百鬼昼行する赤絨毯、行ってきました。
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2013年11月30日(土)

光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「月影の いたらぬ里は なけれども. 眺むる人の 心にぞすむ」 。
浄土宗の開祖である法然上人が、阿弥陀仏への信仰を詠んだといわれる歌です。
月影とは、仏が放つ光のこと。つまり、世界のあらゆるところに仏の慈悲は届いている、と。
しかしその光が真に光となるのは、眺める人の心の中だ、と。念仏を唱える人の心の中だ、と。
上人はそんなことを仰ってるのであります。何と有り難く、示唆に富んだお言葉でしょう。
私たちは、とかく物事の悪い面ばかりを見つめ、論いがちです。また、自身の不幸を嘆きがちです。
しかし、それは間違っている。私たちは、既に、仏の大いなる慈悲に包まれているのです。
如何なる時も、仏の光に照らされているのです。輝いているのです。存在が祝福されているのです。
私たちはそのことに、気付かなくてはいけない。そのことを、受け入れなくてはいけない。
偽りのさもしさに身をやつしては、いけないのです。心を開き光を信じなければ、いけないのです。
と、調子に乗って適当なことを書いてると、違う宗教の勧誘みたいな感じになってきましたが、
とにかく法然上人によると、仏すなわち光であり、光すなわち仏となるんだそうですよ。
そんな上人の開いた浄土宗には、そのままずばりな 「光明寺」 という名の寺がいくつかありますが、
中でも最も有名なのは、上人の廟所がある京都西山粟生野の光明寺ではないでしょうか。
法然が初めて念仏の教えを説き、叡山に襲撃された上人の柩が光で指したという、粟生野の地。
熊谷次郎直実は、この地に念仏三昧堂を建立すると共に、上人の廟所を建立に尽力。
その話を聞いた四条天皇の勅願で光明寺と改名され現在に至る、西山浄土宗総本山であります。
総本山らしい規模ながら、普段は郊外にあって静かな佇まいを見せる光明寺ですが、
紅葉の名所でもあり、秋ともなれば正しく 「光」 を 「観」 る人たちが溢れかえる混雑を現出。
通常は拝観無料ですが、この季節だけは有料化するほどの繁盛振りを見せてます。
そんな光明寺の紅葉、観てきました。紅の光、お楽しみ下さい。
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2013年11月29日(金)

善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子が2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。
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2013年11月28日(木)

無鄰菴へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「俺流」 。反吐が出る言葉です。
教養が、無い。それを気にしない度量も、無い。にも関わらず勉強は、しない。
でも、何かしたい。 「したい」 という気持ちのままに、したい。素直な気持ちのままで、したい。
それが、何故か許されると思ってる。何なら、積極的に許されなければならないと思ってる。
許されないと、怒り出す。 「後向きだ」 「揚げ足取りだ」 「重箱の隅つつきだ」 などと、怒り出す。
そんな、腐った臆病さ+狂気に近い鈍感さ+可愛げの無い甘えのコラボが生む、 「俺流」 の世界。
反吐が出ます。いや、何故出るかといえば、私も紛れもなく 「俺流」 な奴だからなんですけど。
金も能力も権力も無い私のような 「俺流」 男の場合、こんな性根の腐ったサイトの更新にいそしみ、
安全圏にて箱庭的世界を作り 「全てが自分の思い通り」 と悦に入る傾向があるわけですが、
現実的に金や権力がある 「俺流」 男の場合、作る 「箱庭」 もまた現実的になる傾向があるようです。
要は、本当に庭を造ってしまうわけですね。別荘とかに。それも、作法無視の 「俺流」 で。
京都・岡崎の名勝・無鄰菴もまた、そんな 「俺流」 感に溢れた庭園と言えるのではないでしょうか。
「京都に於る庭園は幽邃といふことを重にして、豪壮だとか雄大だとかいふ趣致が少しもない」
「多くは規模の小さい、茶人風の庭であって面白くないから、己は己流儀の庭園を作ることに決した」
(黒田天外 『続江湖快心録』 。但、鈴木博之 『庭師 小川治兵衛とその時代』 より孫引) と、
正に 「俺流」 な宣言の下にこの別邸を建てたのは、近代日本の政治史に君臨する、山縣有朋。
「ほんなら田舎帰るか、東京で作りなはれ」 という顰みを踏み潰し、植治の手を借り作ったその庭は、
東山を借景とした芝生の庭に疏水が流れるという、何というかこう、のびのびした世界を、現出。
まるで吉本芸人の映画の如き 「俺流」 加減ですが、しかし山縣のこの 「俺流」 は結局、
現代人の我々が一見して 「あっ、成り上がりの庭っ」 と脊髄反射で思わずにはいられないほど、
近代大型和風庭園の原型として、後世の成り上がりたちに影響を与えたのでありました。
そんな 「俺流」 の偉人が作った 「俺流」 な無鄰菴、紅葉も綺麗と言われたら、
「俺流」 の末席を汚す者としては、行かぬわけにはいかぬでしょう。
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2013年11月26日(火)

毘沙門堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
近年、 「見つけた感」 なる言葉が流行っております。
裏通りとかにあり派手な看板も出さない店を、見つけ、見つけた自分を好きになる。
ちょっと賢い消費者な自分を、好きになる。ちょっと勘の良い消費者な自分を、好きになる。
もちろんその店は、 「見つける」 のに本当の知恵や知識や労力が必要な場所であってはならず、
また本当に 「見つける」 ことが出来ない奴は全体の数%程度の難易度でなければならない。
で、その数%を嗤い、優越感と安心感を得るという、 「見つけた感」 。下衆です。極めて、下衆です。
そんな 「見つけた感」 に溺れる、破裂寸前のメタンガスバルーンの如き消費者エゴを愛撫し、
人が住むとこを 「そうだ」 呼ばわりで叩き売り続けてるのが 「そうだ 京都、行こう。」 なわけですが、
その 「そうだ」 で 「見つけた感」 が上手く作用した寺といえば、毘沙門堂ではないでしょうか。
毘沙門堂。山科にあって、山寺の風情を持ちつつ天台宗五箇室門跡の寺格も誇る、名刹であります。
平安遷都以前に出雲路にて創建され、 「毘沙門堂の花盛り」 と詠われる優美さを誇りましたが、
応仁の乱など数々の戦乱で衰退し、1665年に現在地・山科へ移転+再建+門跡寺院化。
再建後も 「花盛り」 ぶりは維持され、特に秋の紅葉は山寺の風情も相まって見事なものながら、
アクセスがよろしくないためか、長年に渡り 「知る人ぞ知る京の名所」 的存在だったとか。
そんな毘沙門堂に目を付けたのが、 「そうだ」 。で、以降、いわば 「みんなでシェアする穴場」 化。
秋ともなれば狭い参道をタクシーがバンバカ突っ走る光景が恒例になったわけです。
寺の方も寺の方で最近はライトアップも始め、何か積極的に 「見つか」 りに行ってる感じですが、
アクセスの不便さは変わらないためか、見事な風情と紅葉はかなり濃厚に生き続けてます。
というわけで、消費者エゴのみならず色んなエゴが飛行船のように膨張した私もまた、
やはり何かを 「見つけ」 て、自分をもっともっと好きになるべく山科へ出かけ、
鉛のツェッペリン号を燃やす炎の如き紅葉を観たのでした。
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2013年11月26日(火)

勧修寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
昭和の匂いを感じる寺社、というのがあったりします。
無論、単純に設備が昭和期に整備された寺社なら、昭和を感じるのは当然ですが、
それ以外でも、サイズ感 or スケール感みたいな点で、昭和を感じることがあったりします。
要は、全体的に何か、大きい。妙な寂寞感を感じさせるような感じで、ダダっ広く、大きい。
より正確に言うなら、空間が埋まってない感じというか。あと、コンクリが効いてる感じというか。
昭和期のシネスコサイズの邦画でよく見かけそうな感じ、みたいな。こんな感じ、わかるでしょうか。
土地が比較的豊富で、かつ観光開発が比較的遅かった京都郊外&周辺部の寺社には、
こんな昭和的なるとこが点在してますが、山科の勧修寺にも私は似た印象を受けたりします。
勧修寺。 「かんじゅうじ」 でも 「きんじゅうじ」 でもなく、また、果汁寺でも加重寺でもない、勧修寺。
醍醐天皇が母・藤原胤子の菩提を弔うべく、胤子の祖父・宮道弥益の邸を寺化した寺です。
その境内は、のちに秀吉の伏見街道敷設で縮小されたものの、現在もなお広大な印象を与え、
何より借景とする周囲の山々と、境内に咲く四季の花が、雄大な印象を鮮やかにブースト。
また、京都でも屈指の古池であると言われる 「氷室の池」 を中心に造園された池泉舟遊式庭園は、
旧御所からの移築された伽藍の数々と共に、平安貴族の雅趣を現代へ伝えてくれてます。
と、昭和どころか平安時代にまで遡る立派過ぎな由緒を持つ門跡寺院なんですが、
伽藍以外の周辺整備が昭和期に行われたのか何なのか、全体のテイストはどこか、昭和チック。
特に山門までの景観は痺れるくらい昭和的であり、境内の庭園自体も何となく昭和的。
拝観チケット代わりの絵はがきまで昭和的で、更新の遅れた施設の趣がないでもないですが、
しかし勧修寺、ただ手をこまねいているわけでもないようで、近年、紅葉を整備。
年々と良い色を出すようになり、紅葉面でもじわじわと名所化してると言われてます。
そんな勧修寺の紅葉、ほぼ独り占めするような感じで見てきました。
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2013年11月24日(日)

宝筐院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「筐体」 を、長らく 「とくたい」 と読んでいた阿呆は、この私です。
PC関連でよく見かけた、 「筐体」 。でも、生の読みを聞いたことが無かった 「筐体」 。
でも何となく、 「とく」 っぽいな。 「秘匿」 の 「匿」 の字にも、似てるしな。そうだ、多分、そうだ。
そんな阿呆な思い込み+日常で使うことがなかったため、己の中で定着してしまった、 「とくたい」。
恋人どころか友人さえロクにいない、孤立上等を謳う独男には、発生しがちな事態ではあります。
誤読の時期はかなり長く続き、ゆえに嵐山に建つこちらの宝筐院もまた 「ほうとくいん」 などと誤読し、
近所の人からは 「ほうとくさん」 と親しまれてるのではないかと勝手に妄想したりもしたのですが、
無論、宝筐院はあくまでも宝筐院であり、 「ほうとくいん」 でも 「ほうとくさん」 でもないのであります。
宝筐院。豊胸院でも豊頬院でもない、宝筐院。楠木正行 aka 小楠公ゆかりの寺です。
元々は平安末期に白河天皇が善入寺として創建し、これを後に夢窓国師の高弟・黙庵が再興。
黙庵は小楠公と交流を持っていたため、 四條畷の合戦で討ち死した小楠公の首級をこの寺に埋葬。
室町二代将軍・足利義詮は、この黙庵に帰依し、さらには黙庵の知り合いたる小楠公にもハマり、
ハマり過ぎて小楠公の隣に葬れと命じ、義詮と小楠公の菩提寺化+名前も宝筐院へ変更。
その後、応仁の乱でまた荒廃し、江戸期は天龍寺の末寺となり、幕末にはとうとう廃寺となりますが、
明治期にやはり小楠公にハマってた京都府知事・北垣国道が伽藍を復興、現在に至ります。
何かすぐ近所の祇王寺と似た経緯で再興された寺ですが、紅葉の方も祇王寺同様に良く、
嵐山の他の名刹と共に、秋ともなれば紅葉狩りの人民が押しかける寺なわけです。
そんな豊凶院でも宝鏡院でもない宝筐院、出かけてきました。
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2013年11月23日(土)

赤山禅院へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都御所から比叡山までを結ぶ、猿ライン。
「魔界としての京都」 が流行った頃によく聞いた言葉です。今も言うんでしょうか。
御所鬼門の猿ヶ辻から幸神社、そして赤山禅院から叡山へ、幾重にも設置された猿像たち。
猿は魔物を退治する力を持つため、これらの猿象は怨霊防衛線として配置されたのだと。
これが、猿ライン。身内の呪いに怯えまくる桓武帝が作った風水都市・京都らしい話ではあります。
「目ぼしいポイントを適当に線で結んだら、何でもかんでもレイラインになるんちゃうんか」 と、
大人の対応をしたくなる話ではありますが、しかし子供の夢を踏み潰さないのもまた、大人のマナー。
それに、猿ラインの中間点に立つ赤山禅院の、不思議かつ魅力的な雰囲気に触れたら、
「大人」 な方であっても、猿や鬼門や怨霊といった話に多少の信憑性を感じてしまうかも知れません。
赤山禅院。比叡山延暦寺別院ながら、様々な神が入り交じる、魅惑の宗教施設であります。
平安期、遣唐使として中国へ渡った第三世天台座主・慈覚大師円仁は、帰国時に海難に遭遇。
その時に円仁を守護したのが、道教や陰陽道の神であり、閻魔大王とも見なされるという、泰山府君。
円仁はこの神を日本へ勧進しようと決意しましたが、生きてるうちにはその願いが叶わず、
第四世天台座主・安慧が遺命を果たす形で、泰山府君を赤山大明神として888年に創建しました。
平安期は無論マジの鬼門守護を務め、現在も様々な神が様々なネイティブ信仰を篤く集め、
また 「失敗したら、自決」 で知られる叡山・千日回峰行の通過ポイントとしても有名な、赤山禅院。
しかし、 「赤山」 の名は紅葉の赤に由来すると言われるくらい、紅葉の名所としても著名です。
実際、その紅葉の色の素晴らしさと、神が入り交じる魅惑的な伽藍とのマッチングは、
「確かにここには、ただならぬ霊気が漂っている」 と、霊気の門外漢にも感じさせてくれます。
あと、拝観が無料だし。実はここが一番の人気を呼んでるポイントかも知れないけど。
そんな赤山禅院の紅葉、数珠供養の日に観に行ってみました。
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2013年11月21日(木)

金戒光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「黒谷って、谷というより丘という感じなのに、どうして谷と呼ぶんだろう」
「会津小鉄って、京都の●●●なのに、どうして会津という地名が入ってるんだろう」
この2つの疑問に答えてくれるのが、「黒谷さん」 の呼称で知られる岡崎の金戒光明寺です。
金戒光明寺。知恩院・知恩寺・清浄華院と共に、浄土宗京都四箇本山を構成する寺であります。
浄土宗の開祖である法然は、若かりし頃に比叡山にて天台宗の教学を学んだことで知られますが、
その上人が叡山の黒谷を下り草庵を結んだ地 = 浄土宗初の寺院を建てた地こそ、ここ白川。
最初は 「新黒谷」 と呼ばれたそうですが、やがて 「新」 が取れ 「黒谷」 が呼称として定着。
というわけで、黒谷は黒谷であり、また黒谷さんなのであります。よろしいでしょうか。
第5世・恵顗の時、法然が見た光明に因んで正式名称を 「紫雲山光明寺」 と決めた黒谷さんは、
第8世・運空の時には後光厳天皇に円頓戒を授け、そのおかげで 「金戒」 の2字をゲット。
寺運はどんどん隆盛し、多くの塔頭が立ち並ぶようになり、江戸期に入ると知恩院と同じく城郭化。
幕末に至ると、京都守護職としてやってきた会津藩士約1000名の本陣にもなりました。
その際、会津藩中間部屋頭の片腕として迎えられた男こそ、侠客・上坂仙吉、通称・小鉄です。
小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の遺体を、本陣を置いたこの寺に埋葬。
後に小鉄自身もこの寺に葬られましたが、それから色んなことがふにょふにょもごもごとなり、
さらに色んなことがふにょふにょもごもごとなり、結果、ふにょふにょもごもごということになりました。
というわけで、会津小鉄は会津でも京都の●●●なのであります。よろしいでしょうか。
「何ら答えにも説明にもなってない」 という話ではありますが、しかしそんな疑念も吹っ飛ぶほど、
金戒光明寺の紅葉は、独特のロケーションも相まって実に素晴らしいものとなってます。
寺側は庭園の有料拝観を推してますが、タダで観れる境内の紅葉も極めて、ナイス。
貧乏+吝嗇+美に正直な私は、無論タダの紅葉を堪能させてもらいました。
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2013年11月15日(金)

法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
まつろわぬ者としての、鬼。
そんな鬼認識が生まれたのは、一説では平安末期からとも言われてます。
元来は、闇や異界といった不可視なる 「おぬ」 の世界を体現する存在だったという鬼は、
末法の世に入り、武家の台頭や盗賊の跋扈などで 「外部」 の都への侵入が常態化し始めると、
「可視化されたアウトサイダー」 ともいうべき新たな相貌が付加されるようになったそうです。
彼岸へ出かけて退治する存在から、此岸へ恐怖をデリバリーする存在と化した、鬼。
平安末期にそんな変貌を遂げた鬼が、同時代の帝である後白河上皇の法住寺陵を参拝するのは、
実に奇妙なことのようであると同時に、ある意味で実にもっともなことと言えるかも知れません。
法住寺陵があるのは、その名の通り、法住寺。三十三間堂のすぐ傍にある寺であります。
藤原為光創建の元祖・法住寺の跡地に、後白河院は院政の舞台として広大な法住寺殿を築き、
熊野狂いを反映した新熊野神社や頭痛を具現化した三十三間堂など、多くの伽藍もばんばか建立。
それらは、三十三間堂を除いて大半が消失し、後にいずれも小じんまりと再興されましたが、
法住寺も木曾義仲に焼討された後に小じんまりと再興、以来、後白河院の御陵を守り続けてます。
そんな法住寺で11月15日に行われるのが、身代不動尊大祭。身代、すなわち身代わり。
この寺の不動明王像が、義仲の焼討の際に後白河院の身代わりになった伝説に由来するこの大祭、
狭い境内が視界ゼロとなる護摩や、狭い境内が炊き出し場化するうどん&ぜんざい奉仕など、
ネイティブ色濃い催しですが、何よりの目玉は鬼たちによる後白河院御陵参拝と鬼法楽でしょう。
ここだけ宮内庁管轄である御陵へ、金棒片手で堂々と入り参拝する、 「まつろわぬ者」 たち。
その姿は確かに奇観であり、ある種のアイロニカルなユーモアを感じさせるものですが、
同時に、鬼を遥かに凌ぐ 「アウトサイダー」 的な 「闇」 をその心の中に抱えていたかも知れず、
また実際に 「アウトサイダー」 の歌ばかりで歌集を編纂したりもした後白河院の御霊に、
鬼たちが鬼なりの流儀で真なるリスペクトを捧げてるように見えたりもします。
そんな妙なる法住寺の鬼法楽と墓参り、見に行ってきました。
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2013年10月22日(火)

2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。
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2013年10月13日(日)

八瀬の赦免地踊りを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
赦免地踊りは、断じて斜面地踊りではありません。
この踊りを受け継ぐ洛北・八瀬の地が、山の斜面に囲まれた狭隘な谷間にあり、
斜面ゆえに生まれた高野川の急瀬の多さが地名の由来でも、斜面地踊りではありません。
また、その多くが斜面地であろう林業地を巡る争論が、この踊りの生まれたきっかけであっても、
赦免地踊りは赦免地の踊りゆえに赦免地踊りなのであり、断じて斜面地踊りではありません。
よろしいでしょうか。言ってる私が一番よろしくない感じがしますが、よろしいでしょうか。
赦免地とは、お上から何かを赦免された地。八瀬で何が赦免されてたかといえば、租税です。
後醍醐天皇の叡山潜幸の際、 「山のプロフェッショナル」 として山中における帝の輿丁役を担い、
その功績により地租課役の赦免を保証する 「綸旨」 を賜った、八瀬の住人・八瀬童子。
皇室との関係は近世以降も継続され、明治以降は東京での宮中勤務まで担いながら、赦免を継続。
猪瀬直樹 『天皇の影法師』 で描かれた 「天皇の輿丁」 としての姿は、多くの方が御存知でしょう。
その一方で八瀬は、比叡山麓という立地ゆえ、延暦寺との縁も平安の頃から続いていました。
「叡山門跡が閻魔王宮から帰る際、その輿を担いだ鬼の子孫」 という伝説的な存在として、
高僧の輿を担ぐ力者 = 童子の役を担い、 「綸旨」 以前から雑役が免除されていたともいいます。
そんな八瀬童子と延暦寺がトラブり、赦免地踊り誕生の契機となる事件が起こったのは、江戸中期。
叡山の一方的寺領改めにより、その多くが斜面地であろう林業地の入会権を失った八瀬童子は、
生活の糧が他に無いゆえ死活問題として、幕府、特に時の老中・秋元但馬守喬知へ愁訴。
「綸旨」 の威光もあり、八瀬は宝永7年、赦免地としての特権を明確に認める裁決を獲得しました。
赦免地踊りは、この時の喜びと秋元但馬守への感謝を後世へ伝えるべく始められた踊りです。
登場する切子灯籠は、室町期にルーツを持つと思われる汎洛北的な風流灯籠ですが、
そんな風流灯籠の伝統と、八瀬独自の由緒と文化が交錯する、魅力的な祭なのであります。
というわけで、赦免地踊りは赦免地踊りなのであり、断じて斜面地踊りではありません。
「そんなこと誰も言ってない」 という話ですが、断じて斜面地踊りではありません。
とにかくそんな赦免地踊り、八瀬まで観に行ってみました。
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2013年10月7日(月)

園部のくりや本店とかどや老舗に栗餅を買いに行きました。もちろん、ひとりで。
京都の秋の味覚といえば、丹波栗。
和菓子店はもとより、洋菓子店や料理店でも秋となれば、その名を見かけます。
丹波の地より運ばれてきた山の味覚に、京童は秋の到来を感じ、心を躍らせるというわけです。
が、私は丹波栗と聞いても、特に心が踊りません。何故なら、私の本籍地は丹波だから。
父の実家は家庭の事情で私の生まれる前に地上から消滅しましたが、母の実家はまだ健在で、
長じて孤立を深めるようになる以前は、私も普通に、丹波の旧家をたびたび訪れてました。
敷地内には何本か栗の木が生えていて、秋に訪れた際にはその栗の木へ蹴りを入れ、
「痛い痛い痛い」 とか言いながら落ちてきた栗を拾い、「痛い痛い痛い」 とか言いながら針皮を剥き、
生のまま食おうとしては 「固い、食えへん」 と、何度も何度もその辺に捨ててたものです。
もちろん、おやつにはちゃんと茹でた栗を出してもらえたわけですが、それも私は嫌いでした。
何故なら、茹でられてもなお、皮を剥くのが、面倒くさいから。パクッとすぐ、食えないから。
「痛い」 「固い」 「面倒くさい」 。これが、私の抱く丹波栗の原風景ということになります。
自分で書いてても 「死ねよ」 とか思いますが、そんなわけで、丹波栗と聞いても心は躍りません。
が、このサイトの趣旨は、ベタの単独正面突破。栗も一応、押さえておくべきでしょう。
京都で栗といえば、丸太町の 「くりや」 が、定期的に京都新聞へ広告を出したりしてますが、
あそこで栗菓子各種を買って食うだけでは、ちょっと楽過ぎるというか、ネタにならん。
なので、くりやの本店があり、父の故郷&私の本籍地でもある園部へ行ってみることにしました。
栗の産地である園部では、くりや園部本店&400年続くという超老舗のかどや老舗の両店が、
栗の収穫期だけ栗餅を販売するというので、それを買いに行ってみようじゃないか、と。
プレミアな栗餅、城、生身の神社、そして何故か味噌とんかつも登場する、
栗に導かれた錯乱する魂の遡行、お付き合い下さい。
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2013年9月29日(日)

瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。
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2012年11月28日(水)

蓮華寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
穴場。
自分が可愛くてしょうがない人達が、すぐに飛びつくワードです。
美しい紅葉が、観たい。あまり人がいないところで、観たい。何なら、独占して、観たい。
できれば、自分しか知らないものとして、観たい。それも、自分が見つけたものとして、観たい。
そして、自分しか知らない穴場を自分で見つけた自分を、もっともっと、好きになりたい。
でも、そのための努力は、特にしたくない。むしろ絶対に、したくない。したら何か、負けな気がする。
「京都 紅葉 穴場」 くらいの検索で、すぐ見つかるものでなくてはならない。というか、そうしろよ。
こんな無駄な長文書いてる暇があったら、もっと有益な情報を共有しろよ、この糞野郎。
と、こんな感じの狂った人達が、肥大したエゴを垂れ流しながら大挙して狭い寺へ強襲をかけ、
あちこちの京都ブログに 「京都 紅葉 穴場」 の検索ワードが落葉の如く積もる、京の秋。
「穴場として有名」 という、日本語として狂ったワードで有名な洛北・上高野の名刹・蓮華寺にも、
そんな自分が可愛くてしょうがない人達が、自分だけの何かを求め、押し寄せます。
江戸初期、加賀前田藩の老臣・今枝民部近義が祖父への菩提の心から再興したという、蓮華寺。
その造営にあたっては、やはり 「超メジャー級の穴場」 詩仙堂の石川丈山を始めとして、
朱子学者・木下順庵、画家・狩野探幽、隠元禅師など、同時代における錚々たる文化人が助力。
丈山作庭とも伝わる池泉庭園、黄檗禅の様式の本堂、そして蓮華寺形灯籠などなど、
良い時代と良い人に恵まれて作り上げられた境内は、小さいながらも高い完成度を誇ってます。
故に穴場としての魅力を強く放ち、故に 「穴場として有名」 になってしまった、蓮華寺。
こうなるともう、ある種のベタです。穴場だろうが何だろうが、明らかにベタです。
であれば、不毛な穴場探しを排し、ベタの単独特攻が趣旨のうちも行かねばならぬと、
早くも紅葉が散り始めている洛北へ出かけたのでした。
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2012年11月25日(日)

金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「また焼いたるぞ」 。
昭和25年7月3日、21歳の学僧による放火で金閣が全焼した翌日、
住職・村上慈海との会見を許された産経新聞記者・福田定一、のちの司馬遼太郎が、
庫裏の黒板に書かれてるのを見て 「異常な気分になった」 という言葉です。(水上勉 『金閣炎上』)
再建前の金閣が、狂気に近い嫉妬を駆らせるほど美しかったのか、私にはよくわかりません。
水上や三島の作品で、紙面から精液の匂いがしそうなほど独男的に描かれた学僧の、
恐らく実際その通りであっただろう心の内も、わかるような気はするけど、正直よくわかりません。
でも、その場の勢いで思わず黒板に 「また焼いたるぞ」 と書いてしまうような、
ボンクラ極まる調子乗りたちの持ってた 「異常な気分」 は、少しわかるような気がします。
超メジャーな観光寺院として金が入りまくり、宗教面と齟齬を起こしてたという、当時の金閣寺。
そんな矛盾の中で、札束の海へ泳ぐのでもなく、放火テロで腐敗を弾劾するのでもなく、
時折憂い、時折おちょくり、時折怒ったりしながら、その場にへばりつき続ける、大半の凡夫たち。
その姿は、歴史や文化に深い愛情や尊敬の念を抱くと共に、冷笑&嘲笑もやらかし、
「金にならんかな」 てなことも思いつつ、こんなサイトやってる自分と変わらぬものに思えるのです。
と同時に、凡夫に支えられ、焼かれることもなく、美を提供し続ける再建金閣そのものが、
金欲と信仰の矛盾の真っ只中を生き、伝統を誇りながらも実は大して古いものはない京都の、
美の側面と俗の側面を極限までデフォルメした自画像のようにも思えたりするのです。
ある意味で、金閣は最も京都的な寺なのかも知れません。故に、地元からは忌避されるという。
あなた、そう思いませんか。全然、思いませんか。実は私も、あんまり思いません。
そんな金閣、秋の紅葉大混雑シーズンに、銀閣に続き特攻してみました。
炎のような紅葉に囲まれた美と俗の様、ご覧ください。
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2012年11月25日(日)

銀閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
うちのモットーは、京都メジャースポットの単独正面突破です。
である以上、金閣寺&銀閣寺は、絶対に避けるわけにはいかないスポットです。
しかも、金閣寺は、実に独男臭い奴が燃やした寺。銀閣寺は、実に独男臭い奴が建てた寺。
本来なら、真っ先に特攻をかけてなければいけません。しかし、今まで行くのを躊躇していました。
何故か。それは、行くのが面倒臭いからです。どっちも私の家から、何となく遠いからです。
京阪沿線に住む私にとって、金閣寺はあからさまに、遠い。銀閣寺は、出町柳から微妙に、遠い。
微妙に遠いのはキング・清水寺も同じなんですが、あそこは諸般の事情で近くをよく通るし、
ライトアップや行事各種など、「行かねばならぬ」 と腰を上げさせられるイベントが多く催されます。
しかし金閣&銀閣は、そういうのが、あんまりありません。ライトアップとかも、ありません。
何か、行く機会がないのです。行く機会というか、行く気を起こす機会がないのです。
そんな感じで、「そのうち行く」 「何かあったら行く」 「行こうと思えば何時でも行ける」 とか思いつつ、
結局は金閣&銀閣、さらには清水寺さえ行かないまま一生を終える多くの京都人と同じく、
私もまた 「どうせ絶対行くから」 と思いながら、一向に足が向かなかったのでした。
これは、いかん。こんな怠惰な理由で必須スポットを放置するのは、どう考えても、いかん。
というわけで、敢えて最も混みそうな紅葉ピークの連休日曜に、金閣&銀閣を連続特攻しました。
こちらの記事は、その前半戦にあたる銀閣寺篇。寺が出来たのと、順番が逆ですが。
何故逆かといえば、義政の幽玄の美を先に見ることで、義満の絢爛さを浮き立たせてみようと、
深遠なことを考えたためではなく、単に銀閣の方が京阪の駅に近いからであります。
あ、銀閣寺の説明、要りますか。ああ、要りますか。そうですか。
でも面倒なので、しません。自分で調べてください。
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