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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 (3) 七条通巡幸

2011年4月24日(日)

宗像社の巡幸
松尾祭・神幸祭、いよいよラスト、七条通巡幸です。

松尾祭、一日くっついて見物してると、氏子さんの数の物凄さに圧倒されます。
見物人もそれなりに多いんですが、何よりも白法被の人たちが、多い。そして全員が、濃い。
数だけなら祇園祭の方が多いかも知れないし、手伝いの人も多少は混じってるでしょうが、
でも、ひとりひとりが放つオーラと、祭全体の熱狂度は、圧倒的に京都一ではないかと。
特に、インドアな感じな少年たちでさえ積極的に祭へ没入してる姿は、感動的でさえありました。
と、同時に感じたのが、この祭りが西七条 / 西市跡 / 西寺跡の祭りだということ。
出かける時は何となく「松尾、梅津、桂あたりの人たちがやってる祭」とか思ってたんですが、
考えてみれば神輿が駐輦する御旅所は、ほとんどが西七条を中心に点在。
もちろん、奉仕する氏子さんもその区域の人たちです。
これは、洛外の神様に自分の街へおいで頂く祭なんだな、と。だから「おいで」なんだなと。
祇園祭や稲荷祭と似た形式であり、特に東寺と縁深い稲荷祭とは近いものがあるんじゃないかと。
西寺跡が氏子区域の大宮社神輿に松尾神を乗せ、西市跡近くの西七条御旅所へ向かう七条通巡幸。
いよいよ神をホームタウンへ迎えることで、祭の盛り上がりはピークへ。
同時に疲労もピークに達するためか、ストリートは怒号と絶叫と微笑みが渦巻く興奮の巷と化します。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(2) 船渡御

2011年4月24日(日)

宗像社・神輿
松尾大社の神幸祭、続きです。

松尾の祭には、必ず雨が降るそうです。
それは、松尾の神様が水の神であることに由来するんだとか。
松尾大社の祭神は、松尾山を支配する神・大山昨神と、海上守護の神・中津島姫命の二柱。
海の無い京都に海の神さまが祀られてるのを不思議に思われるかも知れませんが、
松尾の目の前には、淀川を経て瀬戸内航路に直結する桂川が流れてます。
また、桂川上流である保津川を経由して、丹波から木材などの交易を行っていたことは有名です。
この地で水運、あるいは漁などで「水」に関わってた人たちは、多かったんでしょう。
松尾の氏子にとって、水と船は、今よりもはるかに大きな意味を持ってたんじゃないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれるのが、松尾祭・神幸祭の最大の見せ場である、船渡御。
文字通り、神輿を舟に乗せ桂川を渡ってしまうという、京都で唯一無二の勇壮な荒技です。
もっとも、さらに昔は舟さえ使わず肩で担いで川を渡りきったそうですが、
いずれにせよ人と水とのダイナミックな係わり合いが見れる神事です。
今日は朝から、日本晴れ。午前中は、暑いくらいの陽気でした。雨なんか降るんでしょうか。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(1) 発御祭

2011年4月24日(日)

大宮社の神輿を見送る子供
松尾大社の松尾祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾大社。
一般的な認知のされ方としては、お酒の神様という感じなんでしょうか。
あるいは、近所の料亭に生前の某マイコーが来損ねて、サインだけ残ってるとか。
しかし、京都的には違うのであります。松尾大社は、何といっても洛西総氏神なのであります。
平安遷都以前よりこの地を開発していた渡来系・秦氏が、土着の松尾山磐座信仰と結びつき、創建。
秦氏が平安京造営を支援したことで皇室の御崇敬も篤く、賀茂社と共に皇城守護の社に指定。
大祭の松尾祭も、「松尾の葵祭」という通称が今も残る通り、かつては賀茂祭と同じく勅祭でした。
しかし、朝廷の力はやがて衰微。で、代わって松尾大社と祭を支えるようになったのが、氏子。
中世以降、祇園御霊会を下京の町衆が支えるようになったのは有名な話ですが、
それと似たような感じでしょうか。鎌倉時代には既に祭祀組織が存在してた記録もあるとか。
ただし、祇園会は町衆が主導権を握ったのに対し、松尾を支えたのは、村人。
京都の都市域が東へスライドしていくのに従い、右京・西京は近隣の農村地帯と次第に同化。
住宅街化したのも最近の話であり、そのため、松尾大社とその祭をとりまく共同体のあり方は
祇園会 = 祇園祭のように観光化により変形されることなく、中世の香りをよく伝えてるといわれ、
また松尾祭は京都では珍しいくらいに勇壮で大らかな盛り上がり見せることで知られます。
現代の松尾祭は、神幸祭が4月20日以降の日曜、還幸祭がその三週間後の日曜に開催。
神幸祭では桂川を神輿が渡る船渡御、還幸祭ではワイルド極まる宮入りが有名ですが、
今回は神幸祭、通称「おいで」を丸一日、追っかけてみました。

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仁和寺の御室桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年4月21日(木)

御室桜と御影供の列
仁和寺の御室桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

「私しゃ お多福 お室の桜 花は低ても 人が好く」。
仁和寺名物・御室桜の花の低さと、醜女の鼻の低さをかけて歌われた、俗謡です。
「お多福みたいな顔で御室桜みたいな低い鼻やけど、愛嬌あるからモテモテや」と。
あ、ちなみに「低ても」という表記に、送り仮名の脱字はありません。
「ひくても」とまんまで読んでも、よろし。あるいは「ひくぅても」と読んだら、なおよろし。
「ひくても」と読む場合、「ひくくても」から真ん中の「く」を抜くニュアンスではなく、
「ひくぅても」からちっちゃい「ぅ」を省略する気持ちで読むと、なおなおよろし。ほんまかいな。
土壌が固いのか粘土質だからか、とにかく3mくらいしか花の背が伸びず、
根元から枝が張るという特殊なビジュアルを誇る、御室桜。
江戸初期・寛永年間に現在の伽藍が再建されるのに合わせて植えられ、
後水尾上皇が観桜、のちに町人も花見するようになり、上記の歌も生まれたわけです。
満開の桜の中で五重塔が浮かぶビジュアルはあまりに有名ですが、
5月前でもまだ咲いてるという遅咲き中の遅咲きの点でもまた、有名。
正に京都の桜の見納め、というか最早、ロスタイム。そんな僥倖感溢れる桜を観てきました。

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原谷苑へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月17日(日)

原谷苑の桜と提灯
原谷苑へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

原谷苑。
今、京都で一番有名な桜の「穴場」かも知れません。
金閣寺の北、大文字山の西、戦後に外地からの引揚者たちが農地として開拓した地・原谷。
以前は荒地のまま放置されてた土地だったそうですが、入植民は何とか生活できるよう、改善。
やがてインフラが整いアクセスも向上すると、今度は宅地開発で一気に人口が流入。
今では、普通の住宅地+少し山の香りが残る感じになってる郊外なエリアであります。
そんな原谷で、個人の方が自身の農園にて数十年に渡り桜を育成したのが、原谷苑。
その育ち方と量が尋常ではないと口コミで名が広がり、桜の開花期間のみ一般公開を開始。
「ガイドブックに載ってない名所」を求める人が大挙して押し寄せるようになったわけです。
話題になってるのは、桜そのものだけではありません。独特な入苑料設定と金額も、しかり。
御存知の方も多いでしょうが、ここ原谷苑は、その日の開花状況によって入苑料を決めます。
もちろん、桜の状態が良いほど、高し。で、値段のMAXは、実に1500円。
おまけなどの類は、何もありません。おみやげも、なし。純粋に入苑料だけで、1500円。
もはや清々しささえ感じるほどの、ブッちぎり加減なのであります。
が、実際の1500円の桜は、そのマッシブな値段設定を凌ぐブッちぎり加減だったのであります。

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南禅寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月10日(日)


南禅寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

南禅寺の桜を観ると、東山高校を受験した時のことを思い出します。
東山高校とは、ちょっと歩けばすぐ南禅寺境内へ潜り込んでしまう場所にある、男子校。
代表的な卒業生はみうらじゅん、などと言うと高校側は怒るでしょうか。
もちろん入試は2月に行なわれるので、「桜+受験」は明らかに時期間違い&記憶の混濁です。
だけど、受験した教室の記憶と桜の記憶が、私の頭の中では今でも一緒くたになってます。
おそらくは、受験の際に境内をうろついた記憶と、別の日に桜を観た記憶が、結びついたんでしょう。
何故結びついたかといえば、「もしここに通ってたら」という思いがあったからでしょう。
おかしいのは、近くの哲学の道やインクライン、さらには東山高校そのものを見ても何も感じないのに、
南禅寺にだけその虚偽の郷愁を感じることです。不思議。
抑圧したバッドな感情が、変なところで変なかたちで噴き出してるんでしょうか。
あるいは「禅寺の武家面」と言われたこの寺独特の雰囲気が、
やはり独特の色と匂いを持つ少年期の可能性の死体みたいなもんに共鳴するんでしょうか。
あ、私の名誉のために言うと、受験は通ってますよ。でも、お家にお金があんまりなくてね・・・。
おかげで今でも春にここを通ると、入学前のような青い胸騒ぎを感じます。
で、今年もまたそんな狂った気分で胸をいっぱいにして、桜を観に行きました。

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八幡の背割堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月9日(土)

背割堤の桜並木
八幡の淀川河川公園・背割堤へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

背割堤。せわりづつみ。
私の地元・八幡における桜の名所です。
が、名所といってもトップ絵面をご覧の通り、基本、ソメイヨシノがボーンボーンと立ち並ぶだけ。
量は多いですが、凡庸といえば凡庸。どこにでもありそうな感じの、郊外的な桜スポットであります。
しかし、植えられた桜は凡庸でも、植えられた土地は凡庸ではありません。
ここ背割堤は、府南部の木津から流れてきた木津川、琵琶湖から宇治を通ってきた宇治川、
そして鴨川と保津川を飲み込んだ桂川の三川が合流し、大阪のシンボルである淀川に化ける地。
昔は「淀川」という名前の通り、淀城のあたりで合流してたんですが、
明治初頭に流路を変更、現在の合流点はちょうど京都府と大阪府の境界あたりだったりします。
そう、ここはまさに、国境。
生と死の境界線上で咲く桜にふさわしい、清と濁、光と闇が相まみえる場所なのです。
京都と大阪のどっちが濁かは知りませんし、あるいはどっちも闇かも知れませんが、
とにかく、凡庸なソメイヨシノであっても何らかの妖しき魔力が作用するのは、確かなのです。
「ほんまか」と問われたら「嘘です」としか答えようがないですが、確かなのです。
KBS京都とテレビ大阪が見れたり見れなかったりした私が言ってるんだから、確かなのです。

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白川宵桜ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月3日(日)

弁財天付近の宵桜
祇園の白川宵桜ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水のながるる」。
言わずと知れた、歌人・吉井勇が祇園を詠んだ歌です。
祇園歌人として知られる吉井ですが、実はちょっとだけ八幡歌人でもあります。
と言い出すと、八幡市民による地元ゴリ押しと思われそうですが、実際そうです。すんません。
「かにかくに~」と詠んだ30年後、吉井は療養のために辺境の地・八幡へ転居します。
松花堂庭園の近くの寺・宝青庵へ寓居し、谷崎潤一郎や志賀直哉などの訪問を受けながら、
妻とのつつましい生活を『残夢』なる歌集にまとめたり、八幡音頭なるものを作詞したりしました。
文化的水準が極めて高い我々八幡市民は、そんな吉井勇を最大限にリスペクト。
新しく開発された地域を「男山吉井」と命名、彼の文学的功績を「生きた形」で讃え続けています。
では男山吉井はさぞ「かにかくに」な風流な花街かといえば、特にそういうこともなく、
どっちかと言えば「蟹角煮」な生活感の漂うちょっと良さげな住宅地だったりするんですが、
もちろんそんな狂った与太は全くどうでもよく、話はあくまでも白川のライトアップです。
「寝るときも 枕の下を 水のながるる」茶屋だったという「大友」など、
残っていたら値打ちものであったろう街並を、戦時疎開でぶっ潰して生まれた、白川南通。
その通をメインに、道沿いの桜をライトアップするのが、祇園白川宵桜ライトアップであります。

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隨心院のはねず踊りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年3月27日(日)

はねず踊り
隨心院のはねず踊りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

隨心院。
山科区小野にある、真言宗善通寺派大本山の寺院です。
「小野」という地名がまんまで示しているように、かの絶世の美女・小野小町ゆかりの寺であります。
もらいまくった恋文を下張りにした文張地蔵尊像や、もらいまくった恋文を埋めてできた文塚など、
絶世の美女ならではの豪気なアイテムは、この寺にもいろいろ存在。
男から見ると不条理極まるエピソードである「深草の少将百夜通い」の舞台も、ここです。
「私が欲しければ、私の家まで100回来い」と。で、少将は毎夜通ったと。でも、99回目に凍死したと。
99回目の夜に雪が降ったことが不条理なのか、100回も来いというのがそもそも不条理なのか。
「無論、後者だ。30回くらいにまけてやれ」と説教したくなるあなたは多分、私の同志でしょうが、
でも同時に多分、もてないんでしょうね。
とにかくそんな「百夜通い」のエピソードをを主題にしたのが、この日に行われた、はねず踊り。
悲しい物語を、地元の少女たちが深草少将と小野小町に扮して、踊ってくれます。
「跳ねない踊り」のことかと思ってたら、かつては随心院の梅を「はねず」と呼んでいたとか。
で、その「はねず」が咲く頃に踊るから、はねず踊り、と。
一時衰退しましたが、昭和48年に地元の努力で復活したそうです。

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清涼寺のお松明式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年3月15日(火)

嵯峨大念仏狂言
清涼寺のお松明式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東日本大震災から、4日目。
発生当初は自粛ムード希薄、ライトアップ等も敢行していた京都ですが、
被害の未曾有な実態が判明するに連れ、後手後手的な中止や延期が多発。
こちら清涼寺のお松明式も開催の是非で議論があったようですが、とりあえずやるようです。
清涼寺。通称、嵯峨釈迦堂。
釈迦の生前の姿+内蔵まで再現した、本尊にして国宝、三国伝来の釈迦如来立像が、
貴族から庶民まで幅広く信仰を集め、今なお地元の方々から愛されてる寺です。
光源氏@源氏物語のモデル・源融の没後、その山荘に阿弥陀堂を建てたのに始まり、
東大寺の僧・奝然が宗より釈迦像を請来、弟子の盛子が安置して、寺名を清涼寺と改称。
鎌倉時代には融通念仏の中興者・円覚上人より無言劇・念仏狂言が伝えられ、
現在も京都三大念仏狂言のひとつ・嵯峨大念仏狂言のホームグラウンドとして、伝統を守ってます。
そんな清涼寺で行なわれるお松明式は、お釈迦様の入滅した日に行う、涅槃会の行事。
釈迦が荼毘に付された時の様子を模して、大松明3基を燃え上がらせるわけであります。
嵯峨大念仏狂言の無料公演も開催。トップ画像は、その写真です。

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北野天満宮の梅花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年2月25日(金)


北野天満宮の梅花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

学問の神様と呼ばれる、平安時代のエリート・菅原道真。
実際に頭が良く有能であり、それゆえ家格を超え右大臣にまで昇進した、菅原道真。
しかしそれが面白くない藤原時平により謀略を企てられ、大宰府へ流され、死んだ、菅原道真。
生きてるうちは配流も困窮も我慢した道真でしたが、死後は雷神と化し、京の街を呪いまくり。
首謀者・時平のみならず、陰謀関係者各位へ片っ端からヴードゥースプラッターをお見舞いし、
ビビりまくって名誉回復を決めた朝廷にもブチ切れ、遂には雷で御所をストライクアタック。
焼死体続出の惨状を見せつけられた醍醐天皇は、のちにショック死。
頼むからもう勘弁してくれと、朝廷は道真を主祭神とする北野天満宮を造営。
で、道真の命日である2月25日には、道真が愛した梅を大々的にフィーチャアした祭りを開催。
それが、この梅花祭なのであります。恐るべき因縁を持つ祭なのであります。
なので、本来は呑気に梅の観賞などをしてる場合ではありません。
縁日に並ぶ露店で、呑気に鯛焼きや回転焼きなど食ってる場合でもありません。
何故か毎回やってきて、楼門前に陣取る富山ブラックラーメンを食ってる場合でもありません。
ちゃんとお参りしないと、呪われるのです。雷を落とされるのです。大変なのです。
で、私は祈ってきました。祈るためだけに、天神さんへ出かけてきました。
偉いのです。真面目なのです。そしてひょっとすると、暇なのです。

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涌出宮の居籠祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年2月19日(土)


涌出宮の居籠祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

涌出宮の居籠祭。
読みは、「わきでのみや」 の 「いごもりまつり」 。
京都府南部も南部、もう奈良の方が近い木津川市山城町にある神社・涌出宮の、
平安時代や奈良時代はおろか、縄文レベルの伝統を継承してると考えられている神事です。
奈良時代に伊勢から天乃夫岐賣命が飛んできて創建されたという涌出宮ですが、
近年の発掘調査では、境内から縄文 & 弥生時代の生活 & 祭祀を示す遺物が多数、出土。
いにしえより何らかの生活と、祝祭が行われていたことが明らかとなり、
居籠祭は、古代日本の神祭りが天然記念物的に残ったものと見なされるようになりました。
その内容は、神様を迎え豊作を予祝するという、実に日本の魂を感じさせるテイスト。
「いごもり」 という不思議な名前は、深夜に行われる 「神迎えの森まわし」 などの際に、
氏子たちが家に籠もり、神を見ることを厳重に禁じられていることに由来します。
音を立てることもまた厳重に禁じられるため 「音無しの祭」 という別名までついてますが、
とにかくハードな潔斎と物忌みを現代へ伝える、とんでもない祭りなわけです。
で、そんな祭りへ興味本位でノコノコ出かけ、見てはならぬものを見ちゃったのかといえば、
もちろん、そんなことはありません。そもそも、見たら 「目がつぶれる」 らしいし。
居籠祭は3日間に斎行され、私が見物させてもらったのは2日夜の 「門の儀」 と 「松明の儀」 。
前者は迎えた神を宮座が饗応する儀式、後者は神火で旧年の穢れを祓う儀式であり、
もちろん 「いごもる」 わけではなく、松明が大炎上のなかなかなお祭り状態です。
それに、出かけてきました。ほとんど火を見に行っただけの感じですが。

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阿含の星まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年2月11日(金)


阿含の星まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

阿含の星まつり。
名前の通り、かの阿含宗が開催する宗教行事であります。
何故、阿含宗の行事を京都でやるのかといえば、総本山が京都にあるからであります。
清水寺の向こう、心霊スポット・旧東山トンネルの奥にゲートがある、総本殿・釈迦山大菩提寺。
単なる山奥みたいなその聖地に於いて、毎年建国記念日に行われるのが、星まつり、と。
正式名称である 「炎の祭典・阿含の星まつり 神仏両界大柴燈護摩供」 の通り、
総本山境内地にて超巨大護摩が、大炎上。それも、神仏両界分2つの超巨大護摩が、大炎上。
その浄火は、民の業苦を焼き尽くすかのように天空へ向け高く高く舞い上がり、
その煙は、遠く離れた市街地からでも確認できるほど迷惑、もとい、物凄かったりします。
しかし、星まつりが真に凄いのは、その圧倒的な動員力。参拝者は、何と50万人にも及ぶとか。
ちなみに、かの祇園祭・宵山の動員数でもだいたい、40万人。余裕で越えてるのです。
観光都市・京都にあって、数字が本当なら最大級のイベントである、星まつり。
その割には、観光案内各種では黙殺され味なのは、何故なんでしょう。不思議だなあ。
煙のみならず花火もバンバカ上がるわ、京都駅では山伏がウロウロしてるわ、
黙殺しようのない有様ながら、でも黙殺気味なのは、何故なんでしょう。不思議だなあ。
そのあたりの不思議さを探るため、というのは嘘で本当は純粋な興味本位で、
京都駅発着のシャトルバス乗り場へ早朝から出向きました。

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2011年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【2】

2011年2月3日(木)


2011年の節分めぐり、続きです。

【1】 聖護院の追儺式平安神宮の古式な大儺之儀廬山寺の鬼踊り
【2】 須賀神社で懸想文売り冷やかし藤森神社で鬼大暴れ吉田神社で沈没

の 【2】 、興奮と徒労が燃え上がる様、ご覧下さい。

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2011年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【1】

2011年2月3日(木)


2011年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

【1】 聖護院の追儺式平安神宮の古式な大儺之儀廬山寺の鬼踊り
【2】 須賀神社で懸想文売り冷やかし藤森神社で鬼大暴れ吉田神社で沈没

の 【1】 、鬼と豆と中高年が大興奮の節分スペクタクル、とくとご覧下さい。

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吉田神社の節分祭・追儺式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年2月2日(水)


吉田神社の節分祭・追儺式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京の町の節分に初めて触れたのは、京都へ来て間もなくの、寒い日のことだった。講師として通って
いた女子高校からの帰り道、そのころはまだ東大路を走っていた市電の中で、何か異様な熱気を感
じた。ふと外へ目をやると、いつもは人影もまばらなはずの吉田神社の参道が、彼方まで人の波に
埋め尽くされていたのだった。道路はいつになく渋滞しており、当日だけ運行されるという吉田と壬生
間を結ぶ臨時バスに、年配の人たちが我先にと乗り込んでゆく ━━━そういえば数日前の新聞に、
各寺社の節分の参詣の案内が一斉にでてたっけと、ようやくことの次第を理解したのだった。

(真矢都 『京のオバケ』 より)

吉田の節分は、異常です。
ネイティブの人には自然かも知れませんが、部外者には凄く異常に見えます。
都の表鬼門の守護神として創建され、 厄除けの神様として現在も篤い信仰を集める、吉田神社。
旧暦が密かに生き続ける京都に於いて「本来の大晦日」たる節分に行われるその節分大祭は、
極めて気合の入ったものであり、裏鬼門・壬生寺の節分会と共に高い集客力を誇ってます。
が、壬生寺がネイティブさでは圧倒的ディープネスを放ってるのにも関わらず、
吉田の節分はそれを遥かに凌ぎ、異常です。何が異常かといえば、熱狂の温度感かなと。
この日の追儺式など、殺人的混雑が出来してます。しかし、どこかみんな、醒めている。
それも現代人として醒めてるのではなく、何か別の所で醒めてる感じが、凄くする。
その感じが、他にはない、吉田の節分独特の不気味さと魅力を生んでるような気がします。
そんな違和感も楽しみながら、古式に則った追儺式を存分に堪能したかといえば、
ひたすら殺人的混雑に振り回されただけで終わったわけですが。

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狸谷山不動院の初不動へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年1月28日(金)


狸谷山不動院の初不動へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「効き目が強いパワースポットは、都の周辺部に多い」。
「パワーを通り越して霊気そのものを発する妖しいスポットも、都の周辺部に多い」。
興味本位の軽い気持ちで京都のパワスポ巡りや恐怖スポットへ出かけたことのある人なら、
そんなことを思うかも知れません。実感として 「ちょっとアクセス不便なとこ、多いなあ」 と。
もちろん、本当にヤバい所というのは、京都市街の中心部にもいくらでもあります。
郊外のその手の物件は、土地取得が容易だったり、放置 or 廃棄が容易だったりするために、
ヤバさがド派手化 & 大型化して、わかりやすい形になっただけとも言えます。
しかし、「ちょっと不便」という距離感そのものが魅力の根源になってるとも考えられるのであり、
スポットの強度や性質もまた距離に規定される、と思えないこともありません。
「ちょっと不便だけど、頑張って行った」 という行為によって何かが救われるタイプの、思い。
逆に頑張り過ぎてマジな修行の領域に入ると、全部が昇華されてしまいそうなタイプの、思い。
一乗寺から坂を上った先の山奥にあり、パワースポットを自認している狸谷山不動院は、
そんな距離感の思い・願望を、真正面から受け止めている寺ではないでしょうか。
本尊・咤怒鬼(たぬき)不動明王から来る「他抜き」 という語呂合わせな勝負の願いから、
ガン治癒祈願、そして自動車祈祷と、そのご利益は極めて切実、かつ現世的。
桓武天皇の勅命で建てられながら、戦後に至ってようやく本格的に復活したという経緯もあり、
より 「今」 な問題へ向き合う姿勢を打ち出し、それにより多くの信奉者を集めています。
そんな狸谷山不動院の一年で最初の縁日が、初不動
大護摩供養が行われるんですが、その火で暖められた笹酒が無料で振舞われます。
しかも、おかわり自由。「狸谷飲放題」 という異名もあり。行くでしょ、そりゃ。

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法界寺の裸踊りを見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年1月14日(金)


法界寺の裸踊りを見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

褌一丁で歓喜に沸く男たちの姿。
それは、男子の草食化が嘆かれる現在でも、決して珍しいものではありません。
神事、仏事、祭り、その他その他。季節の折々に、全国からそんなニュース映像はやってきます。
しかし「裸踊り」で検索をかけると、最初に出てくる仏事は、この法界寺の裸踊り。
あとは、どっかの自称宇宙人が国会の中で裸踊りをやらかしたとか、
結婚式の余興で裸踊りを試みる馬鹿をどう止めたらよいかとか、そんなしょぼい話ばかりです。
野趣溢れるワイルドな裸踊りの躍動を伝えるページは、意外と見当たりません。
どうしたんだ。いったい、どうしたんだ、裸踊り。
京都の比較的マイナーな祭事に天辺を獲られるほど、弱体化したのか、裸踊り。
それともいわれのない偏見により、グーグル八分でも喰らってしまったのか、裸踊り。
いや、でも、ひょっとすると、ただ裸の男が踊るだけの裸踊りは、案外珍しいのかも知れません。
護符や宝木を奪い合うわけでもなく、火の粉を浴びるわけでもなく、滝に打たれるわけでもなく、
ただただ大量の男たちが下帯姿でお堂に現れ、ただただ踊る。
修正会の精進潔斎と豊穣祈願、そしてある種のセックス・アピールをピュアな形で見せるその姿は、
本尊・胎内仏が今もディープな子宝信仰を集める「乳薬師」こと法界寺にふさわしいのみならず、
グーグルの評価通り、やはり日本の裸踊りを代表しているものなのかも知れません。
自分でも何言ってるかよくわかりませんが、とにかく裸踊り、行ってきました。

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2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【3】

2011年1月1日(土)


2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 ラストです。

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2011年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。 【2】

2011年1月1日(土)


2011年への年越しを、京都で迎えました。の、続きです。

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