2014年2月25日(火)

北野天満宮の梅花祭へ行って、野点大茶湯を拝服してきました。もちろん、ひとりで。
一年の生活を、神社や寺院の暦と共におくる京人は、毎年二月二十五日は、梅の花の訪れだとはな
しあう。二十五日は、菅公の命日である。毎月、天満宮に市がたつが、二月だけは、特別、 「梅花祭」
がひらかれた。もともと、この 「梅花祭」 は、梅を愛した菅公の命日に因んだもので、古くからこの日
だけ、 「菜の花御供」 とよばれる祭典があり、その年の五穀豊穣を祈願して、菜の花をさした白米が
供えられ、宮中からも、代参者がきた。奉納神楽や式典もある。だが、どちらかというと、この日は、
上七軒の芸妓連中が献茶をうけもつ 「梅花祭」 の方が有名だ。 (水上勉 『北野梅花祭』 )
という、北野天満宮の梅花祭。祭神・菅原道真公の命日に、梅を愛でる催しです。
有能ゆえ家格を超え昇進するも、それを嫉んだ藤原時平により大宰府へ流され死んだ、菅公。
呪いのあまり雷神と化して、陰謀関係者各位へ片っ端からローリングサンダーを叩き込み、
頼むからもう勘弁してくれということで創建されたのが、菅公を主祭神とする北野天満宮であります。
つまり梅花祭は、北野天満宮 = 天神さん創建の本義に関わる極めて重要な祭儀なのであり、
ゆえに伝統の本質と信仰の大義を重要視する当サイトでは、2011年度の梅花祭訪問時において、
カメと見物客が群がる野点には目もくれず、参拝および梅苑の鑑賞に明け暮れたのでした。
「本当は、単に茶券が売り切れてたんだよ~ん」 「1500円の茶券代も、ケチりたかったんよ~ん」 と、
魂の底から妖しき声が響かないでもないですが、とにかくお茶は意図的にスルーしたのです。
しかし、うちのそもそもの趣旨は繰り返し書いてる通り、あくまでもメジャーどころの単独正面突破。
水上勉でさえ、やたら読点の多い文章で 「野点の方が有名」 みたいなことを書いてる以上、
上七軒の芸舞妓さんによるお点前が披露される茶席を、スルーし続けるなど、断じてありえません。
というわけで今回は、野点大茶湯への単独特攻を含めた形で、梅花祭を改めて訪問。
無論、をどり特攻の際と同じく前売券には手を出さず、玉砕覚悟の飛び込みで行ってみました。
梅と茶と人間の渦巻く中で、春をフラゲしようとする試みの一部始終、御覧下さい。
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2013年5月12日(日)

新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
新日吉神宮はかつて、官社的性格が強かったそうです。
武将ファンには、秀吉の墓・豊国廟の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
そして変態さんには、京女の娘を狙う 「女坂」 の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
しかし本当は、秀吉よりも京女よりも変態よりも長い歴史と、ロイヤルな由緒を持つ神社であります。
新日吉神宮。 「新日吉」 の読み仮名は、「しんひよし」 に非ずして、 「いまひえ」 。
平安末期、後白河法皇が法住寺殿造営に際し、新熊野神社と共に鎮守として創建した社です。
熊野フリークとして知られ、新熊野神社には本社から砂まで勧請したとも言われる後白河院ですが、
平治の乱に於ける祈願をきっかけに、比叡山・日吉大社もまた崇敬しまくってたんだとか。
日吉大神を勧請した新日吉社は、壮麗なる伽藍を誇り、後白河院は当然、他の皇族も多数臨幸。
途絶していた宮中行事を復活させる形で始められた祭礼・小五月会 (こさきのまつり) は、
競馬・流鏑馬・芸能奉納などが華々しく行われ、官社としての格式を誇るものだったと言われてます。
やがて朝廷の衰微に伴い社運も衰微、室町後期には小五月会も中断の止むなきに至りますが、
江戸期に入ると、氏子区域の七条×鴨川エリアが高瀬川開削で開発され、住民が増加。
小五月会は、妙法院のパワーに氏子奉仕が加わり、より民間色が濃いものとして復興しますが、
その際にも禁裏からは女房奉書や鉾などを賜り、その習わしは明治まで続いたのでした。
現在の小五月会 = 新日吉祭は、東京遷都を受けて民間色がさらに濃くなり、
祭りを支える修道・貞教・菊浜・崇仁の各氏子町を、鳳輦が細かく回るものになってますが、
官社のテイストが残る鳳輦&行装列メインの神幸列と、町中のネイティブさ加減が、
いい感じのコラボ効果を生んでいて、独特の味がある祭になってます。
そんな新日吉祭、暇に任せて追いかけてみました。
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2013年5月5日(日)

上賀茂神社の賀茂競馬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
Godspeed You 。ゴッドスピード・ユー。
「あなたの成功を祈ります」 「幸運を祈ります」 みたいな意味のフレーズです。
が、語尾に 「Black Emperor」 と付けると、暴走族映画のタイトルに化けてしまう通り、
日本ではその筋の嗜好と思考を持つ方々から重用され、高い認知度を誇る慣用句であります。
「God」 + 「speed」 。故に、 「神速」 。DQN的なセンス溢れる誤訳とは言えるでしょう。
しかし、それが本当に単なる誤訳、脊髄反射レベルの誤訳に過ぎないとは、私は思いません。
むしろ 「Godspeed」 という言葉の深層には、神とスピードの間にある親和性が潜むと考えます。
「宇宙で神に遭遇した」 とか言い出し、後には教団へ入ったりした、どっかの宇宙飛行士。
「S字で神を見た」 とか言い出し、後には自分も天高く昇天してしまった、どっかの音速の貴公子。
現代であっても、死と隣り合わせの速度の中にいる人たちは、何かと神を感じがちです。
モータリゼーション皆無時代の人々なら、その親和性に一層、敏感だったのではないでしょうか。
多くの神社で行われる、馬の奉納。または、競馬等の形式で行われる、馬の速度そのものの奉納。
それらの伝承は、私たちに 「Godspeed」 的なる何かを、力強く語りかけてる気がします。
神は、スピードである。スピードは、神である。そんなこと、感じたことはありませんか。
と、別の意味のスピードが好きな人が聞いたら、瞬間冷凍で大喜びそうな与太話はともかく、
京都の神社で馬が爆走するといえば、競馬の神様・藤森神社の駆馬神事が、あまりにも有名です。
が、駆馬神事と同じ5月5日に、葵祭の前儀として行われる上賀茂神社・賀茂競馬もまた、有名。
平安期の宮中武徳殿に於いて、端午の節会に行われたという 「くらべうま」 に始まり、
賀茂氏人が引き継いだ後も、現在に至るまで雅なるマナーで受け継がれてきた、賀茂競馬。
しかし、神のために爆走する馬が発するスピード感、そして衝撃波の如き音と風は、
単に雅なだけの鑑賞神事ではない、 生々しいまでの 「Godspeed」 を感じさせてくれます。
そんな賀茂競馬、奮発して千円のセレブなる有料席で観てみました。
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2013年5月2日(木)

先斗町歌舞練場へ鴨川をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「おけいはんの民」 にとって、先斗町はよくわからんところです。
あ、「おけいはんの民」 とは、京阪で入洛する同胞を、私が勝手に呼んでる名前。
より厳密に定義すれば 「花街に出入りできない、貧しきおけいはんの民」 となりますが、
とにかく三条大橋 or 四条大橋で鴨川を日常的かつ強制的に渡る必要がある我々にとって、
先斗町はよくわからんというか、微妙な距離感を感じるところだったりします。
何故そんな距離感を感じるかといえば、多分、前を通り過ぎることがあまりにも多いからでしょう。
先斗町のあの狭い路地、いかにもわかりやすい京都的なビジュアルを見せる、あの路地。
我々とて、あそこを歩くことはあります。しかし、その数千倍、前を通り過ぎることの方が、多い。
それも大抵は 「橋増やせよ」 「歩道拡げろよ」 「京阪と阪急の間に地下道作れよ」 と激怒しながら、
人事不詳の観光客や酔客をかわしつつ、この花街の入口を日々通り過ぎているわけです。
人は、通り過ぎることが多い場所に対し、妙に無関心になったり、距離を感じたりします。
子供の頃から目にし続けながらも、中がどうなってるのか知らないし、知る気も全然起こらない。
四条大橋西詰・東華菜館に感じるこんな気持ちを、先斗町にも感じたりするのです。
この感じ、わかってもらえるでしょうか。わかってもらっても、特に何にもならないんですが。
そんな (どんなだ) 先斗町で、毎年5月に行われる舞踊公演が、鴨川をどり。
都をどりと同じく、第1回京都博覧会の附博覧として明治5年に創設された、歴史あるをどりです。
総踊がノンストップで爆走する都をどりとは対照的に、セリフ多用の舞踊劇を打ち出し、
始まったばかりの川床と共に、京の初夏の風物詩として愛され続けています。
その鴨川をどり、GW+開幕2日目ながら、飛び込みで行ってみました。
あ、先斗町の読み方が分からん人は、自分で調べて下さいね。
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2013年4月23日(火)

壬生寺へ壬生狂言を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
壬生狂言。正しくは、壬生大念仏狂言。
京都にいくつか残る大念仏狂言の中でも、最も有名といえるものでしょう。
創始したのは、鎌倉時代に壬生寺を再興すべく、勧進聖として聴衆を集めた、円覚上人。
巧みな説法が庶民から支持され、「十万上人」 と呼ばれるほど圧倒的集客力を誇った上人は、
PAなどあるわけ無い時代に更なる大ハコ系法会を成立させるべく、持斎融通念仏を創始。
声を使わず身振り手振りを用いることで、スタジアム級の聴衆にも仏の教えを説くこの踊躍念仏は、
やがて大念仏会という名の法会となり、時を経て仏教無言仮面劇・壬生狂言となりました。
近世に入ると壬生狂言は、能や物語など同時代の芸能からもエッセンスを導入するようになり、
節分の炮烙奉納 & 『炮烙割』 のガッシャーンも定着するなど、娯楽や行事としても発展。
以後、現代に至るまで、アマチュアである地元の壬生大念仏講中の人たちによって公演が続けられ、
激レアな面&衣装と共に、 「壬生さんのカンデンデン」 の伝統は継承されてるわけです。
素晴らしい。実に、素晴らしい。しかし、今までうちでは壬生狂言、がっつりとは扱ってませんでした。
節分奉納にはチラッと触れてますが、メイン公演である春の公開は、ずっと未訪のままでした。
理由は、ふたつ。壬生狂言には、鑑賞料がかかるから。そして、撮影が禁止だから。
鑑賞料は、まあ、800円。それに撮影禁止なら、神泉宛狂言だって同じ。ですが、Wだと、な。
吝嗇+記事プランが立たんという知らんがな事情が重なり、ずっとスルーし続けてたのであります。
が、何度でも繰り返しますが、うちのサイトの趣旨は、メジャースポットの単独正面突破。
壬生狂言も当然、メジャーです。初日の 『炮烙割』 は京都新聞に絶対載るほど、メジャーです。
それに、他の念仏狂言は観といて、壬生だけ観ないのも、妙です。そして、不勉強です。
行かねばなるまい。下手すると全画像が漆黒の闇になっても、行かねばなるまい。
そんな狂った義務感と、狂言への興味も一応抱き、暮春の壬生へと出かけたのでした。
結果、やはり黒画像ばかりが延々続く無茶苦茶な内容の記事となりましたが、
想像力を働かせるのも無言劇らしいと考え、お楽しみくださいませ。
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2013年4月11日(木)

妙心寺塔頭・退蔵院へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
妙心寺といえば、「行く」 ところではなく、「通る」 ところ。
少なくとも花園周辺に住んでると、そんな印象を持つ方も多いんじゃないでしょうか。
禅テイスト全開の整然さを誇りながら、何故か大徳寺のような色気が無いだだっ広き境内に、
やはり整然としてるけど色気無き伽藍、そして大半が年中無休で拝観謝絶の塔頭が並ぶ、妙心寺。
臨済宗妙心寺派の大本山でありながら、ベタな観光客で溢れるようなことはほとんどなく、
といって、通気取りや穴場探しのネタになるような、消費者の自意識に優しい所もない、妙心寺。
信徒以外の人間から見ると、正直、ただただ広いばっかりという感じの寺であります。
独立した町と言えるくらい広いゆえ、クローズすると周辺住民の通行の妨げとなるということで、
山門の脇に設けられたくぐり戸は終日開放され、住民の通行が可能になってるんですが、
近所の方も、境内で足を止める人はほぼなく、自転車などでさっと駆け抜ける人が圧倒的に、多し。
「行く」 ところではなく、「通る」 ところ。そんな妙心寺であります。どんなだという話ですが。
しかし、そんな色気が全然無い、チャラチャラ浮ついたところがない質実剛健なる妙心寺にあっても、
中には常時公開され、桜のライトアップなんかを行ってしまう塔頭も、あったりします。
それが、退蔵院。室町期に開創された、妙心寺では三番目に古い塔頭です。
瓢箪で鮎を押さえるという、禅問答の世界を絵画化した 『瓢鮎図』 で有名な寺院ですが、
画家・狩野元信が、滝水が海へ流れ出る様を石と白砂で表現したという、枯山水 「元信の庭」 や、
四季折々の花々や池を配した、中根金作氏作庭による昭和の名庭 「余香苑」 もまた、有名。
やや小ぶりながら、桜もまた見事であり、2013年春は 『そうだ 京都、行こう』 とも提携。
かなり、色気を出してるのであります。「行く」 ところに、なってるのであります。
そんな退蔵院、さらに色気が増すであろう夜桜を、観に行ってきました。
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2013年4月8日(月)

宮川町歌舞練場へ京おどりを観に行きました。もちろん、ひとりで。
宮川町。言うまでもなく、京都五花街のうちのひとつです。
川端四条の南、祇園祭の神輿洗式が行われる鴨川 = 宮川のほとりにあって、
伏見城&方広寺建設で大和大路が賑わった時代あたりから、茶屋が並ぶようになり、花街化。
近くの河原では出雲阿国が歌舞伎を創始し、現在も残る南座を始めとして芝居小屋も林立、
さらには美少年の歌舞伎役者が女犯禁止の僧侶相手に男娼となる 「陰間茶屋」 でも名を売るなど、
実に 「聖」 と 「芸能」 と 「俗」 が濃厚に入り混じる、花街らしい由緒を誇る街であります。
「俗」 「裏」 は時を経るごとに後景化、昭和33年の売春防止法施行以降は芸舞妓一本となり、
現在は観光テイストが濃い甲部のお隣にあって、比較的ネイティブな花街の存在感を見せてます。
京おどりは、そんな宮川町の芸舞妓はんらが芸を披露する、春の舞踊公演。
「京をどり」 ではございません。あくまで、「京おどり」 。何故かは全然知りませんが。
初演は昭和25年と、明治スタートの都をどりや鴨川をどりなどと比べると割と最近ですが、
楽しんでもらうことをモットーとした若柳流の振付で、観光客のみならず地元にも愛好者、多し。
で、そのおどりへ行ってきたわけです。もちろん、予約とか一切なしの、飛び込みで。
私は知ってます。 「京都 をどり チケット」 で検索をかける人間の多さを、私は知ってます。
うちみたいな零細サイトにさえ、どれだけの人がそのワードで飛んでくるかを、私は知ってます。
本当に観たいなら、事前にチケットを確保した方がいい。わかってます。でも、しない。
何故か。面倒くさいから。あと、飛び込みでどれくらい行けるか、確認したいから。
というわけで、また手ぶらで特攻です。よい子は真似しちゃ、駄目。
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2013年4月5日(金)

京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
最近よく言われることですが、京都にはレトロ洋館が結構、残ってます。
明治から昭和初期にかけて、全国に先駆ける勢いで建てられた、重厚なる洋館の数々。
大きな空襲を受けなかったためか、あるいは何であろうと大事に保存する習性が発揮されたのか、
それらは三条通を中心に結構な量&結構な質で残り、近年、人気を呼んでるわけです。
「京都の別の顔を見た」 みたいな。 「実は新しいもの好きの京都を見た」 みたいな。
個人的にはこれらの近代建築遺産、京都人の隠された進取の気風の表われたものというより、
東京遷都で焦った明治期の息吹 or 殺気をより伝えてる気がするんですが、あなたどう思いますか。
とにかく、それなりに見るべきものが多く、また人気スポットも数ある京都の洋館シーンにあって、
ぶっちぎりの由緒を持つものといえば、恐らく京都府庁旧本館ということになるんでしょう。
京都ハリストス正教会聖堂などを手がけたことで知られる京都府の設計技師・松室重光が設計し、
破格の費用をかけ明治37年に完成した、堂々たるルネッサンス様式の、府庁本館。
極めて完成度の高い意匠を誇り、そのハイクオリティぶりは単に焦りの表出レベルに止まらず、
その後、続々と洋式で建てられた各地の県庁舎の立派なお手本ともなりました。
昭和46年まで現役として使われ、以後も現在に至るまで様々な形で稼働し続けてる旧本館、
最近はもっぱらロケや結婚式、時にはコスプレ撮影会などにも活用されたりしてますが、
そんな流れの一環として、春の桜シーズンに開催されてるのが、観桜会。
口の字型に建てられた洋館の中庭に植えられた、枝垂桜。それで、花見をしようじゃないか、と。
花見のみならず、アーティストとかも呼んで、期間限定で美術館化しようじゃないか、と。
桜の最盛期には夜間も開放して、ライトアップやプロジェクションマッピングもしようじゃないかと。
それが、観桜祭であります。で、もちろん、夜間公開へ行ったわけであります。
古いものを何でも活用する京都の息吹 or 殺気、お楽しみ下さい。
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2013年4月5日(金)

大宮交通公園へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
大宮通の北端と聞いて、貴方はどの辺りを連想するでしょうか。
本来は御所の隣を通るが故にその名が付けられた、正に都を代表する通であり、
さらには平安遷都以前から存在して都市計画の基準になったとも言われる、大宮通、その北端。
私の場合、恐ろしいことに、四条大宮を連想します。知識と関係なく、四条大宮を連想します。
御存知の方は御存知でしょうが、大宮通、あそこで北へ向かって急に細くなるんですよね。
大きい道は、市電由来の何かよくわからん斜め道となり、その先で千本通と合流してしまうという。
サウス民であり、自転車で毎日のように東寺から大宮通を北上してた時期もある私は、
その 「急に細くなる」 印象ゆえ 「大宮通は四条大宮で終わり」 と反射的に考えてしまいます。
もちろん実際の大宮通は、二条城に寸断されたりしつつも北へ向かって細長く続き、
上京を越えた辺からは 「新大宮商店街」 という名のダラダラ果てしなく続くユルい商店街を形成、
確認したことはないですが、とりあえず御薗橋近くのどっかで北端に達するわけです。
が、生活圏が全然違う私は、あんな北の方まで大宮通が続いてることに、正直、混乱します。
そして、その北端近くに大宮交通公園なるものがあることにも、正直、混乱します。
大宮で 「交通」 といえば、四条大宮じゃないか。阪急と嵐電を乗り換える、四条大宮じゃないか。
トロリーバスの始発点だった、四条大宮じゃないか。市電車庫が近くにあった、四条大宮じゃないか。
市電の車庫はバスの車庫から操車場になり、その傍には 「ベンガル湾」 というカレー屋があって、
あそこあまり美味くはなかったけど出来ればもう一回食いたいぞの、四条大宮じゃないか。
と、全くどうでもいいことを書いてるのは、大宮交通公園に関して何も書くことが無いからですが、
では、何故そんな興味のない公園へ行ったかといえば、ここの桜がなかなか見事だから。
何といっても植えたのが、桜守・佐野藤右衛門。1969年の開園時に植えたとか。
植樹から30年という良い頃合の時が経ち、現在の桜は正に良い頃合。
そんな桜、児童と保護者だらけの中、観に行ってきました。
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2013年4月5日(金)

半木の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
昔、京都には 「ニナガワフセイ」 なる妖怪がいたそうです。
と言っても、怨霊飛び交う平安時代の話ではありません。割と最近の話と聞きます。
私はよくわからないんですが、お年寄りの方や、若いながらもディープな京都人の方から、
この名を聞かされることが結構あり、その度に 「何なんだろう、その妖怪」 と不思議に思ってました。
「ニナガワフセイ」 のうち、「フセイ」 には 「府政」 という当て字が使われることが多いのですが、
それはこの 「ニナガワフセイ」 が、京都府の知事を務めてたことに由来するんだとか。
妖怪なのに、府知事。笑っちゃ、いけませんよ。京都はそういう、不思議大好きな街なんですよ。
何でも 「ニナガワフセイ」 、28年も知事をやったそうです。そう、28年。どっかの田舎の村長か、と。
府のトップに於いてそんな無茶苦茶な人事がまかり通るなど、現実には考えられませんから、
全ては 「200歳も生きた」 とかいった類の、ブラフ混じりな神話レベルの話なんでしょう。
とはいえ、神話や伝承が単なる現実として日常に紛れ込む不思議大好きな京都に於いては、
それこそ平安時代の怨霊の痕跡でさえしっかり残存し、時に観光スポットとなったりもするわけで、
「ニナガワフセイ」 が残した不思議な神話の痕跡もまた、史跡として数多く残ってたりします。
そのうちのひとつが、北大路大橋から北の加茂川沿いに桜が咲く、半木の道です。
「この道、殺風景だから、桜を植えろ。すぐ植えろ」 と、「ニナガワフセイ」 が言い出したために、
桜守・佐野藤右衛門氏が70本もの紅枝垂桜をたった3日で植えたという、半木の道。
発端からして信じ難いものがありますが、それ以前にここはそもそも石ころだらけのガレ地であり、
桜が育ったこと自体も、「ニナガワフセイ」 の妖力の表われと言えるのかも知れません。
今では 「ニナガワフセイ」 を知らぬ他所者も 「そうだ」 とか言って訪れるようになり、
すっかり京都の桜名所のひとつとなった感もある、そんな半木の道、
満開の紅枝垂桜に漂う妖力を感じながら、歩いてみました。
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2013年4月4日(木)

西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。
西陣。言うまでもなく、「織物の街」 です。
平安期は宮廷の 「織部町」 として、鎌倉期は公家や武家相手の 「大舎人町」 として、
そして応仁の乱以降は、山名宗全が本丸を置いた西陣跡で再建されたために 「西陣」 として、
現在に至るまで京都 or 日本の工芸技術 or 文化を代表する 「織物の街」 であり続け、
あり続けるがゆえに、色んな事が色々大変になってたりもするエリアであります。
そんな西陣の生み出す西陣織といえば、生産工程が高度に分業化されてることで、有名です。
で、分業化してると、当然というか何というか、お互いが近所に住んでる方が便利なので、
織物に関連したあらゆる業種の人たちが密集して暮らしてることでも、有名です。
現在は工場が郊外へ出たり、産業自体のが衰退したりで、往年の密集感はありませんが、
町並にはその名残が濃厚に残っており、特に残り香を感じさせてくれるのが、寺ではないかな、と。
人間が密集して生活するとなれば、昔の 「生活必需品」 だった宗教も入り用となるわけで、
西陣にはかなりの密度で、寺が、それも町衆からの信仰が篤い法華宗の寺が、林立してます。
それらの寺の多くは、観光化されるわけでもなく、檀家以外立入禁止というわけでもなく、
でも小さな寺から本山クラスの寺に至るまで、どこも不思議な現役稼働感みたいなのが漂ってて、
よそ者である私としては、その辺に何となく西陣独特の雰囲気を感じるというか。
そんな西陣の寺には、やはり観光化されるわけでもなく、身内以外見所がないわけでもない、
実に程良いサイジングで、程良い味のある桜が、あちこちでさりげなく咲いてます。
立本寺の桜にすっかり気を良くしたので、そんな西陣の寺の桜、愛でて回ってみました。
密集してるがゆえに、徒歩で楽にこなせる桜巡り、お付き合い下さい。
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2013年4月4日(木)

立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都市上京区には、 「元●●寺町」 みたいな地名が多くあります。
「元真如堂町」 とか 「元百万遍町」 とか。 「元頂妙寺町」 とか 「元本満寺町」 とか。
中には、頭に 「元」 をつけず堂々と 「実相院町」 「革堂町」 「阿弥陀寺町」 と名乗ってたりとか。
町名のみならず、「元誓願寺通」 なんて通が、誓願寺と全然関係ないとこを走ってたりとか。
もちろん、元々はその町名の場所に名前の通りの寺があり、のち移転したわけです。
単に焼亡などで移転した寺も多いですが、移転の大きな山を作ったのは、天文法華の乱と、秀吉。
法華宗の隆盛にブチ切れた比叡山が攻めてきて、法華宗は法華宗でそれを市内で迎え撃ち、
組の抗争の如き市街戦を展開したのち法華宗が洛外へ追い出された、天文法華の乱。
そして、そんな血気盛んな仏教勢力を殺ぐため、多くの寺を町外れへ集中移転させた、秀吉。
法華宗の中には、その両方で移転を余儀なくされた寺も結構存在するわけで、
今回桜を見に行った西陣の日蓮宗本山・立本寺もまた、幾多の変遷を経た寺だったりします。
創建以来、山門による破却や仲間割れを繰り返し、天文法華の乱では堺へ避難し、
帰洛したら秀吉に移転させられ、移転したら大火で焼失、現在地でようやく落ち着いた、立本寺。
北野商店街のすぐ南側で、住宅地に包囲されつつも極めて広い境内を持つ現在の姿は、
ちょっとしたハッピーエンド感さえ感じさせますが、もっとハッピーに見えるのが、桜の季節です。
かなりなボリュームの桜が、かなりなボリュームで密集して咲き、人もあまりいない。
何かもう、ちょっとした天国が現出してます。街角の天国、とでもいうか。
そんな立本寺の桜、ハッピーな気分でご堪能下さい。
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2013年3月30日(土)

円山公園へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵会う人 みな美しき」 。 by 晶子。
というような、恋愛ハイの多幸感で自我境界線がボケた女から視線を向けられると、
「それでも今、オレのこと見て、やっぱり美しくないとか思っただろ、この糞馬鹿ビッチ女郎」 と、
一瞬で脳内が被害妄想で満たされる同志の皆さん、正気で春を迎えてらっしゃいますか。
今宵は共に、円山公園へ繰り出しましょう。そう、晶子が 「みな美しき」 と詠った、円山公園へです。
桜が満開の、そして酔っ払いも満開の、野外大宴会場と化した桜月夜の円山公園へです。
みたいなことを言うと 「そういう僻み根性に基づいた露悪的な言い方、もういいから」 と、
クールなようでいて実は単に脳のキャパが狭いだけのボンクラさんたちに敬遠されそうですが、
しかし、そもそもこのあたり一帯は、歓楽地としての歴史が長いエリアだったりします。
大正に入ってから、植治こと七代目小川治兵衛により現在の円山公園が整備される以前は、
京都初の巨大洋館ホテルや人工鉱泉浴場・吉水温泉が並ぶ、現代で言うところのレジャーゾーン。
さらにその以前は、現在も残る料亭・左阿弥を含む安養寺の六つの塔頭・六阿弥が、
料亭や貸座敷を盛大に営み、正に坊主丸儲けな享楽世界が繰り広げられてたわけです。
であれば、雅もひったくれもない猥雑なまでの野外大宴会場姿こそが、この地の本来の姿であり、
その姿が、桜の魔力により、春の間だけ蘇ってると考えるのが妥当なのかも知れません。
そう思えば、独男の目にも酔客たちが 「美しき」 に見えてくるはず・・・そう、まるで晶子のように・・・
なんてことは全くなく、出来れば、いやはっきり言えば心底行きたくないんですが、
しかしうちのモットーはメジャーどころの単独正面突破ゆえ、逃げるわけにはいきません。
夜の円山公園、わざわざ桜満開の時期を選び、ひとりで特攻をかけてみました。
途中、あまりに辛いので、恐怖スポットや寺巡りと逃げを打ってますが、
とにかく 「美しき」 夜桜と人間の姿、存分にお楽しみ下さい。
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2013年3月9日(土)

東山花灯路2013協賛の清水寺夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
桜シーズン目前+紅葉シーズン直後という閑散期の京都で、
ベタ名所の東山&嵐山をライトアップし、夜間集客を図る電飾イベント・京都花灯路。
無料のもの&光るものが好きな蛾の如き民ばかり集めて、経済効果があるのかは知りませんが、
とにかく2003年の初回以来、徐々に規模と知名度を上げつつ順調に回数を重ねてきました。
しかし2011年、そんな花灯路に試練が訪れます。言うまでもなく、東日本大震災です。
発生直後に始まった東山花灯路は、『東山祈りの灯り』 なる灯火管制モードに変更を余儀なくされ、
世間では原発が止まり、ライトアップどころか家庭レベルでまで節電が要求される事態が出来。
あの日を境に、私たちにとっての電気の意味は、完全に変わってしまったのであります。
正直、花灯路は終わったと思いました。のみならず、ライトアップ全般が終わったと思いました。
電気が余ってると思われてた頃から、浪費的にも宗教的にも批判が多かった、ライトアップ。
節電中にやれるものではないでしょう。それに、電気があり余る世の中は、恐らくもう、やって来ない。
2012年の東山花灯路は、開始から10周年ということで盛大に盛り上がってはいましたが、
「こんな馬鹿騒ぎも、これで見納めかもな」 という予感は全く払拭されることがなく、
そんな予感と共に見た電飾の光景は、言うのは嫌ですが、少し魅力的に見えたりもしたのでした。
で、その予感は、何ら終了の気配もなく例年通りに開かれた2013年の花灯路でも、
ゆとり溢れる阿呆の子たちが例年通りに騒ぎ倒す2013年の花灯路でも、実は消えてません。
うちでももちろん例年通りに特攻を行った、花灯路、そして提携の清水寺夜間拝観。
パッと見レベルでの変化の無さと、その下に隠れる危うさ&根源的な懐疑の変化の無さ、
私たちの生活が持つ矛盾・欺瞞・危うさは何ら解決も解消もされてない感じを、
写真から溢れる徒労感と共に味わってもらえると、幸いです。
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2013年3月3日(日)

梅宮大社の梅産祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
産め、産め、産め、産め、産め。
こんなことを言われると、女性は、一体どんな気持になるんでしょうか。
「子供作れ」 どころか、 「結婚しろ」 「彼女作れ」 とさえ身内から言われなくなった私には、
理解する機会はほぼ永久に来ないと思いますが、ゆえに不思議といえば結構、不思議であります。
自分の性的なファクターにあれこれと口を出されると、私はかなり頭に来る方なんですが、
「産め、産め」 というのはそれどころの騒ぎではないのであり、私が女なら言った奴に向かって、
「お前が、産め。男でも、産め。肛門で、産め。女なら、もっと産め。まずお前が、貧乏大家族やれ」
みたいなことを言いそうですが、でも実際の女性がそういうことを言うのはあまり聞かないので、
やはり不思議といえば実に不思議、よくわからんと言えば実によくわからん話であります。
再生産プロパガンダは飛び交うものの、露骨に 「産め」 とはさすがにあまり言わない現代日本で、
堂々と 「産め、産め」 と言ってるのが、梅宮大社で3月第1日曜に行われる 「梅産祭」 です。
「梅産祭」 、読みは 「うめうめまつり」 。いや、本当に。丸っきり、「産め、産め」。
死体の腐乱化を9コマで描いた西福寺・九相図で御馴染、橘嘉智子 aka 檀林皇后が、
なかなか夫・嵯峨天皇の子を産めないのを悩んだ末、この社の白砂を床の下に敷いて寝たところ、
直ちに懐妊、めでたく仁明天皇を産んだことに端を発するという、梅宮大社の子授け信仰。
そんな由緒と梅の開花シーズンをひっかけ、さらには女の子の節句である3月3日もひっかけ、
ついでに日本で最初に酒が作られたという日本第一酒造の祖神という由緒もひっかけ、
梅を見ながら梅酒 or ジュースを飲み、再生産の活性化を祈願する祭であります。
独男には無縁というか、本質的な意味では花灯路以上のアウェーさえ予測される祭ですが、
その恐怖に特攻魂を刺激され、梅が本咲きでもないのにノコノコ出かけてみました。
何も生み出さない男が、梅から 「うめ、うめ」 と言われる様、御覧下さい。
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2012年5月27日(日)

嵯峨祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
嵯峨祭。言うまでもなく、嵯峨の祭です。
極めてまんまな名の通り、その時々の嵯峨の状況をヴィヴィッドに反映し、
度々姿を変えながらも、現代まで脈々と受け継がれている、洛西の春祭であります。
嵯峨天皇による離宮造営以来、風光明媚の遊興地として多くの貴人たちに愛された、嵯峨野。
しかし、離宮の後身である大覚寺が京における南朝の拠点となった南北朝時代以降は、
皇族や武士や坊主たちが、この美しき地で金と武力と宗派を巡るパワーゲームを、大々的に展開。
大覚寺。その大覚寺をどうにかしたい、室町幕府。その幕府によってブッ建てられた、天龍寺。
その天龍寺の金満ぶりに焦った大覚寺が、財政基盤確立のため掌中に収めようとした、清涼寺。
その清涼寺と浅からぬ縁を持つゆえ、大覚寺がついでにゲットしようと目論んだ、愛宕神社。
そして、斎宮の潔斎所としての存在感をなくし、身の振りように困ってた野宮神社。
これらプレイヤーたちの思惑が絡みに絡み、その結果をヴィヴィッドに反映した嵯峨祭は、
小さな村祭から、愛宕神社&野宮神社のダブル神輿が巡幸する大掛かりなものへと、変貌しました。
さらに、プレイヤー間のパワーバランスが変わるごとに、祭の内容・性質・主催者まで、変化。
かなり、ややこしい祭なのです。そして、そこが極めて面白いとも言える祭なのです。
状況のヴィヴィッドな反映は現代も続いており、住宅地化による人口増+若者の伝統回帰で、
嵯峨祭を考察した数少ない書である古川修氏の 『嵯峨祭の歩み』 によると、
現在嵯峨祭は参加人数が増えまくり、その勢いは 「最盛期に近づいている」 んだとか。
鉾差しなど生きた文化財を体現する祭衆、増幅し続け未定型の混雑に対応し切れてない警備、
そしてそんな盛り上がりに舌打ちする無関心な住民が入り乱れる、嵯峨の祭・嵯峨祭。
常に動態、そして現在進行形であり続ける伝統の姿、ご堪能ください。
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2012年5月20日(日)

車折神社の三船祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
嵐山には、昭和の匂いが残っている。
時にそんなことを、私は感じます。率直に言えば、何かちょっと古いなと。
メジャーな観光地として、ソフト面もハード面もそれなりに更新は行われてるわけですが、
小手先のバージョンアップでは左右されない、土地固有のレベルで昭和感が残存してるというか。
貴族の遊興地としての歴史を持つと共に、丹波との水運の要所でもあり続けた嵐山が、
完全に庶民相手の観光オンリーで食っていくと腹を決めたのは、案外最近なのかも知れません。
それこそ、昭和の頃とか。なので、昭和テイストが何となく残ってるのかな、みたいな。
毎年秋に行われる 「嵐山もみじ祭」 の、40年ほどタイムスリップしたような昭和全開ぶりや、
バブルの頃に林立したタレントショップの唯一の生き残りが美空ひばり記念館だったことを思うと、
どうでもいい印象や思いつきに妙な確信を感じたりするんですが、あなたどう思いますか。
「もみじ祭」 とは逆に、春、五月第三日曜に開催される車折神社の例祭延長神事・三船祭もまた、
そんな 「昭和の観光」 の残り香のようなものを、ちょっとだけ感じさせてくれる神事です。
近年パワスポとして益々名が高い車折神社の御神霊を、新緑眩しい嵐山へ運び、
王朝絵巻さながら水上にて多種多様の芸能を奉納するという、嵯峨ならではの雅な祭。
しかし、始まったのが昭和初期のためか、どちらかといえば近過去寄りの観光モード感が漂い、
どちらかといえば中高年以上の世代が喜ぶコンテンツに満ちたイベントだったりします。
優雅と言えば、極めて優雅。かったるいと言えば、残念ながら、かなりかったるい。
そんな三船祭、混雑で日和気味ながら、行ってきました。昭和生まれの平安、ご堪能下さい。
あ、一応言っときますが、三船祭、三船敏郎とは何も関係ありません。
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2012年5月12日(土)

下鴨神社の御蔭祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
毎年更新される、神。
と書くと、まるで神をカードか賃貸契約呼ばわりしてるみたいで恐縮ですが、
京都を名実共に代表する神社であり、三大祭の一つ・葵祭を行う上賀茂神社と下鴨神社は、
実際に毎年5月12日、その葵祭が開催される正に直前、「神の更新」 のようなことを行ってます。
その名を、上賀茂神社は、御阿礼 (ミアレ) 神事。下鴨神社は、御蔭 (ミカゲ) 祭。
「御生」 「御荒」 「御顕」 「産霊」 などなど、様々な字で 「ミアレ」 と表現されるこの神事は、
神地に新たに顕れた荒御魂を、本宮の和御魂と合体させ、霊力をより若々しきものにするもの。
正に、アップデートです。そう呼ぶと、何か神罰が下りそうですが、でも、アップデートです。
現在は学生バイト大量動員の平安コスプレパレードで知られる葵祭・路頭の儀も、
そもそもはこの更新された神に挨拶すべく、朝廷が勅使を派遣してるだけだったりします。
本当は、葵祭よりも重要な神事なのかも知れないのです。というか、多分、そうです。
二千年もの歴史を持つとも言われるこの更新、旧儀が途絶したり、名称が変わったりはしてますが、
生まれたてホヤホヤの神を扱うがゆえのスピリチュアルなテイストは、今なお猛烈に、健在。
特に下鴨神社の御蔭祭は、普段は元官営神社ならではの気高さを誇る同社が、
この日は一転してアーシーなまでのネイティブ感を全開にし、かつての神領域を巡行。
観光客&カメが喜ぶ平安装束のみならず、バス使用も辞さず祖社を回り、歓迎されるその様は、
賀茂の地に根づく信仰の深さと豊かさを、リアルなものとして感じさせてくれるはずです。
そんな御蔭祭、途中からではありますが、ちょっとしつこく追っかけてみました。
妙にバスの写真が多いですが、それこそリアルとご理解下さいませ。
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2012年5月5日(土)

石清水八幡宮の石清水灯燎華へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
石清水八幡宮と 「灯り」 は、様々な縁を持っています。
中世において油の独占的販売権を握り、その名と財力を轟かせた大山崎油座は、
そもそもは淀川を挟んで鎮座する石清水八幡宮に、灯油を納めるのを本務とした神人でした。
「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
また時代を下ると、かの発明王エジソンは電球開発の際にフィラメントの寿命で苦心、
世界中の竹を試した末、石清水八幡宮の竹が最適であることを発見、実用化にこぎつけました。
これも 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
さらに言うと、二股ソケットで日本中の家庭の電灯を消さずに済ませた松下幸之助は、
熱烈な石清水八幡宮崇敬者であり、初期松下の商標 「M矢」 は八幡御神矢がモチーフになってます。
これまた 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
こんな感じで、どことなく希薄感は漂うものの、それなりに縁がある八幡と 「灯り」 。
その縁をより深きものにしようと、GWの夜に重文・本殿を始めとして境内一円をライトアップ、
期間限定の神札などパワスポ商品も用意して、観光客との縁もついでに深めてしまおうというのが、
石清水八幡宮、春の最大集客イベントである、石清水灯燎華でございます。
灯燎華の期間は3日間。しかし、私は地元民ゆえ二夜出かけ、見所を拾いまくってみました。
荘厳なビジュアルから、妙味溢れるアイテムまで、夜の 「八幡さん」 、たっぷりとご堪能ください。
あ、ちなみにTOP画像は、エジソン記念碑のフィラメント型ライトアップです。
ドクロベエでは、ありません。ウォーズマンでも、ありません。
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2012年5月3日(木)

神泉苑へ大念仏狂言と静御前の舞を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
神泉苑。
現在は太いうどんが売りである平八の庭みたいな存在感を放ってますが、
元々は平安京造営と同時に作られた禁苑であり、京都で最も古い史跡のひとつであります。
平安初期には多くの天皇が行幸、池に舟を浮かべ管弦の宴などが開かれたそうですが、
かの空海が西寺僧と祈雨バトルを繰り広げてからは、徐々に祈雨修法の道場化。
空海がバトルの切り札としてチベットから呼んだ助っ人外神・善女竜王を池のほとりに祀り、
多くの真言密教僧たちが 「雨ふれ、雨ふれ」 と、様々な修法を繰り広げました。
のちには義経の愛妾となる静御前も祈雨の舞を奉納するなど、賑わいを見せた神泉苑でしたが、
結局、平安時代が終わると衰退を始め、時を重ねるごとに果てしなく、荒廃。
江戸期には二条城に土地と水もブン盗られますが、遷都以前から残る池だけは何とか守り、
平安時代のリアルな残り香のようなものを、平八と共に現代まで伝えてくれています。
そんな神泉苑で、毎年5月3日を中心として開催されるのが、神泉苑祭。
善女竜王社前で行われる、祈雨道場時代のような大般若経六百巻転読祈願法要をコアとして、
子供みこし、稚児お練、雅楽や太鼓の奉納など、様々な催しが目白押しなんですが、
目玉は何といっても、京都無形民俗文化財である神泉苑大念仏狂言、そして静御前の舞。
前者は、壬生狂言の流れを汲む無言劇であり、この祭の期間中だけ執行されるもの。
後者は、義経を魅了した祈雨の舞を、現代に蘇らせるというものです。
GW真っ只中ですが、特に用事もないので、出かけてみました。
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