2014年2月3日(月)

2014年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。
毎年恒例の節分めぐり、2014年度版でございます。
深層意識で今なお旧暦のタイムテーブルが稼働し続けているせいなのか何なのか、
「本来の年越し」 的な感じで、ある意味では正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
市内の多くの寺社で2月3日を中心に各種祭典が行われ、大きな賑わいを呼んでいるのであり、
メジャーどころの単独正面突破を旨とするうちでも、毎年、めぐり特攻を繰り返してきました。
2011年は、本丸たる吉田神社の節分祭・追儺式に特攻して鬼が全然見えない玉砕から始め、
各地で鬼が暴れる様を追いかけ回した末、火炉祭を観に戻った吉田で今度は閉め出し食らったり。
2012年は、舞踊奉納や節分狂言、追儺狂言といった芸能を、あちこちでタダ見しまくった後、
須賀神社で独男に無縁な懸想文を購入し、悲願の吉田神社・火炉祭の炎では顔面を焼かれたり。
そして2013年は手抜きをしたくなったので、東山周辺の寺社の節分祭を極めて適当に巡り、
鬼の写真が全然撮れなかったので、 「無形の鬼を追い求める」 とか適当な屁理屈をこねてみたり。
といった感じで、熱狂と混雑の巷へ飛び込んでは、無意味な疲労を積み重ねて来たわけですが、
では今回の2014年度版はどうしたかといえば、2013年に引き続き、何というか、適当です。
今まで回れてないスポットを、ユル目のスケジュールでダラっと回り、すぐ帰った。そんな感じです。
2月って、寒いですしね。出歩くと、疲れますしね。それにこの時期、色々と金無いですしね。
いや、 「体も懐も寒いからこそ、景気良く盛り上がりたい」 という気持ちは、ないでもありません。
が、でもやっぱり2月って、寒いですしね。疲れますしね。この時期、色々と金無いですしね。
というわけで、前年以上に少ないスポット数を日和り気味で回る、今回の節分めぐりであります。
逆に言えば、堅気の人も実行可能であろう普通の街めぐり+寺社めぐり的なその様、
やはり適当に降りた京阪電車・三条駅から、スタートです。
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2014年1月16日(木)

東林院の 「小豆粥で初春を祝う会」 へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「関西の薄味は、味が薄いのではなく、色が薄いだけ」 。
某夜更かし発のそんな理解が広まりつつある、昨今の関西薄味事情であります。
否定は、しません。薄口醤油の塩分濃度など持ち出されずとも、我々は濃い味が大好きです。
京都にも、濃厚嗜好は歴然と存在します。特にラーメン領域では、それが露骨に顕在化。
脂を大量に投入する背脂系、炒飯まで真っ黒な新福・第一旭系、スープに箸が立つ天一などなど。
いずれも、病的です。異常です。薄味和食への欲求不満で発狂したかの如く、変態です。
が、その薄味和食にしても、出汁レベルでは塩分以上に濃厚だったりするのであり、
「ダシは張り込め」 を合言葉に、一般家庭でも案外と旨味に金と手間がかけられてたりします。
我々は濃い味が大好きです。単に醤油を煮詰めたような味は、やはり病的に嫌いですが。
とはいえ、本当に薄味を極め、素材の力を極限まで引き出す料理もまた京都には存在するのであり、
その典型が、寺院、特に禅宗寺院で食される精進料理であることは、言うまでもありません。
道元禅師の教えに従って、禅の思想を食でも実現し、後には和食の原点にもなった、精進料理。
もちろん現在でも寺で食され、京都でもいくつかの禅院では一般人も食することができます。
「沙羅双樹の寺」 こと妙心寺塔頭・東林院も、そんな精進料理が食せる寺のひとつ。
食せるのみならず、料理教室や宿坊でも知られる東林院ですが、様々な催しも行っていて、
「沙羅の花を愛でる会」 、そして1月中旬から月末まで開かれる 「小豆粥で初春を祝う会」 は、有名。
特に 「小豆粥で~」 は、精進料理のひとつとして禅宗で大切に継承されてきたという小豆粥を、
小正月に合わせていただき一年中の邪気を祓うという、精進度が高い感じの催しです。
ちなみに会費も精進度が高く、3700円。370円ではありません。3700円。
「何だそれは」 と、額に興味はあったものの、額ゆえに行く気は起きなかったんですが、
今年は奮発して、高価い小豆粥で一発、精進してみることにしました。
割高な精進に励む様から精進落としまで、お楽しみください。
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2014年1月11日(土)

金札宮の寶恵駕籠巡行を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
伏見城築城以前の伏見は、決して何も無かったわけではありません。
巨椋池に面した月見スポットとして、伏見殿など貴族の別荘が数多く建ってたのであり、
いわゆる城下町としてのイメージは、当然ながら伏見城が建った織豊期以降の代物であります。
また、寺田屋を始めとする河川交通のターミナルとしての顔は、伏見城廃城後の産物であり、
恐らく最もポピュラーなイメージである酒蔵に至っては、河川交通が駄目になった明治以降の産物。
京都の中心部と風土が異なる伏見ですが、伝統と刷新の歴史を持つことは変わらないわけです。
もちろん伏見城築城による 「刷新」 は、その影響が現在に残るほど大規模&決定的ですが、
「伏見城以前」 の痕跡もまた伏見には多く残ってるのであり、御香宮神社などはその代表格でしょう。
そして、その御香宮神社とミステリアスな関係があるとかないとか言われる金札宮もまた、
そんな1000年以上前から続く 「伏見城以前」 の伝統を、現在に伝えてくれる神社だったりします。
金札宮。きんさつぐう。観阿弥の 『金札』 、あるいは金絡みのパワスポとしても、有名かも知れません。
750年に天照大神が天太玉命を遣わせたとか、貞観年間に橘良基が阿波国から勧請したとか、
創建について幾つか説はあるものの、結局 「昔過ぎて詳細不明」 となってしまうほどの古社・金札宮。
そんな金札宮で年明けに行われるのが、末社である恵比須社絡みの寶恵駕籠巡行です。
寶恵駕籠。新字だと、宝恵駕籠。いわゆる 「えべっさん」 です。 「えべっさんのほえかご」 です。
近くに巨大な大手筋商店街があるためか、その賑わいは実にネイティブな 「笹持て来い」 感に溢れ、
同時に、長きにわたりこの社が集め続けるネイティブな信仰も感じさせるものになってます。
金札宮に恵比須社が遷座したのは明治以降らしいので、比較的新しい行事なのかも知れませんが、
ある意味、伝統と刷新を繰り返した歴史を持つこの町らしい催しとも言えるのではないでしょうか。
というわけで、そんな金札宮の寶恵駕籠巡行、伏見の町をうろつくように見物してみました。
明治以降に始まった行事かも知れないのなら、明治以降の酒蔵にも敬意を表すべきだろうと考え、
というのは完全に嘘ですが、とにかく寒かったので、酒粕スープの麺類もおまけで連食。
寒くて、でも熱い新春の伏見を、一緒にうろついてみませんか。
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2013年12月24日(火)

橋本の多津美旅館で過ごす聖夜、ラストです。
ぶちまけるという、快楽。 「異界」 で無責任にぶちまけるという、快楽。
生殖と切断された形で、未来を踏みつけ吐き捨てるような形で、ぶちまけるという、快楽。
そうすることでしか味わえない、凄く性質の悪い、しかし抗いようがなく魅力的でもある、快楽。
そんな困った快楽を、売防法施行以前は遊廓が、そして現在は風俗が担ってるわけですが、
お役御免の遊廓に昨今、昔とは違う、でもある意味で似た欲望がぶちまけられるようになりました。
「残照」 やら 「郷愁」 やら 「幻影」 やら、あるいは 「レトロ」 やら 「裏」 やら 「ディープ」 やら、
また特殊な性癖としては 「日本文化の粋」 やら 「真の伝統」 やら 「聖なる空間」 やら。
様々な人の様々な立場からの様々な欲望が、遊廓 or 遊廓跡へぶちまけられるようになりました。
もう、ベットベトであります。バンバカバンバカぶっぱなされまくって、もう、ベットベトであります。
いや、別にそういう下衆な行為を批判したいのではありません。私が今してることも、基本、同じだし。
私も、好きなことを無責任にぶちまけてるだけです。何なら、もっと性質が悪いともいえるでしょう。
ただ、遊廓跡が地元というか近所にある人間としては、そのぶちまけぶりが妙に見えたり、
または滑稽に見えたり、あるいは特に理由は無いですが酷く醜悪に見える、というだけのことです。
で、その妙さ&滑稽さ&醜悪さは、姦淫を以て主の生誕を祝す類の輩へ対して抱く感情と、
日常が 「異界」 化した聖夜に欲望をぶちまける輩へ対して抱く感情と、奇妙なくらい似てたりします。
この感情は、いったい何なんでしょうか。こんな感情を抱く私は、いったい何なんでしょうか。
そして、こんな奇妙な欲望と性癖で右往左往する私たちは、いったい何なんでしょうか。
というわけで、境界が孕む魔力によりブーストされた遊びセックス祭としての日本のクリスマスを、
元・遊びセックス祭の場である国境の遊廓跡にて見据えるという2013年のクリスマスネタ、
【1】 と 【2】 に続いて遂にラスト、孤独な夜を乗り越えるまでを、一気に突っ走ります。
私は、正気を保てるのか。そして、思いつき一発の問題提起に、それなりの決着はつくのか。
末尾のありきたりな町めぐりと共に、最後まで見届けてやって下さい。
【本記事の内容は、全て筆者個人の主観に基づくものです】
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2013年12月9日(月)

鳴滝・了徳寺の大根焚へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「大根滝」 なるものが存在するとしたら、それは如何なるものでしょうか。
大根が滝の如く流れるものでしょうか。あるいは、滝が大根の如く流れるものでしょうか。
もし後者のような滝だとしたら、 「大根の如く流れる滝」 とは、如何なる状態を指すのでしょうか。
日本語の根源、いやもう言語そのものの根源さえ問い正しかねないそんな深遠なる疑問に、
正面から答えてくれるのこそ鳴滝は了徳寺の大根焚、というのは無論、完全なる大嘘であります。
鳴滝の大根焚。断じて、鳴焚の大根滝ではありません。京都の大根焚き界を代表する、大根焚です。
『蜻蛉日記』 において愛の籠城戦が展開される 「鳴滝籠り」 で著名な、京都洛西の鳴滝。
芭蕉も訪れた文学の香り高きこの地に立つ了徳寺は、浄土真宗開祖・親鸞に因んで創建された寺。
愛宕山に師・法然の遺跡を訪ねた親鸞聖人は、その帰りに鳴滝へ立ち寄り、しばし滞在&説法。
里人には饗応するものがなく、やむなく塩煮の大根を出しますが、聖人はこれに大変御満悦。
お礼にと、筆代わりにすすきの穂を持って 「帰命尽十方石寺光如来」 なる十文字の名号を授与。
で、そのエピソードが伝承+蓮如も訪問+了徳寺が創建+大根焚は報恩講として恒例行事化、と。
近年は京都のあちこちの寺で 「冬の到来を告げる風物詩」 的に行われる大根焚きですが、
鳴滝・了徳寺は、その由緒からも元祖と見なされ、凄まじい数の老若男女を狭い境内に集客しまくり。
いや、客層はより正確に言うなら、「中風除けの御利益を求める老老男女」 といった感じですが、
とにかく 「キング・オブ・大根焚」 と呼びたくなるような盛況ぶりを、12月の度に見せてます。
そんな鳴滝の大根焚、私も栄養的&呪術的にパワーアップを図るべく、頂きに出かけてみました。
狭い寺へ滝の如く人間が流入する混雑のため、大根焚自体のネタ採集がさほど出来ず、
補遺として、鳴滝の地名の由来となった鳴焚の大根滝ならぬリアル鳴滝も、訪問。
湯気+熱気+飛沫が舞う冬の風物詩、狂った駄洒落と共に御堪能下さい。
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2013年11月30日(土)

光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「月影の いたらぬ里は なけれども. 眺むる人の 心にぞすむ」 。
浄土宗の開祖である法然上人が、阿弥陀仏への信仰を詠んだといわれる歌です。
月影とは、仏が放つ光のこと。つまり、世界のあらゆるところに仏の慈悲は届いている、と。
しかしその光が真に光となるのは、眺める人の心の中だ、と。念仏を唱える人の心の中だ、と。
上人はそんなことを仰ってるのであります。何と有り難く、示唆に富んだお言葉でしょう。
私たちは、とかく物事の悪い面ばかりを見つめ、論いがちです。また、自身の不幸を嘆きがちです。
しかし、それは間違っている。私たちは、既に、仏の大いなる慈悲に包まれているのです。
如何なる時も、仏の光に照らされているのです。輝いているのです。存在が祝福されているのです。
私たちはそのことに、気付かなくてはいけない。そのことを、受け入れなくてはいけない。
偽りのさもしさに身をやつしては、いけないのです。心を開き光を信じなければ、いけないのです。
と、調子に乗って適当なことを書いてると、違う宗教の勧誘みたいな感じになってきましたが、
とにかく法然上人によると、仏すなわち光であり、光すなわち仏となるんだそうですよ。
そんな上人の開いた浄土宗には、そのままずばりな 「光明寺」 という名の寺がいくつかありますが、
中でも最も有名なのは、上人の廟所がある京都西山粟生野の光明寺ではないでしょうか。
法然が初めて念仏の教えを説き、叡山に襲撃された上人の柩が光で指したという、粟生野の地。
熊谷次郎直実は、この地に念仏三昧堂を建立すると共に、上人の廟所を建立に尽力。
その話を聞いた四条天皇の勅願で光明寺と改名され現在に至る、西山浄土宗総本山であります。
総本山らしい規模ながら、普段は郊外にあって静かな佇まいを見せる光明寺ですが、
紅葉の名所でもあり、秋ともなれば正しく 「光」 を 「観」 る人たちが溢れかえる混雑を現出。
通常は拝観無料ですが、この季節だけは有料化するほどの繁盛振りを見せてます。
そんな光明寺の紅葉、観てきました。紅の光、お楽しみ下さい。
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2013年11月28日(木)

無鄰菴へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「俺流」 。反吐が出る言葉です。
教養が、無い。それを気にしない度量も、無い。にも関わらず勉強は、しない。
でも、何かしたい。 「したい」 という気持ちのままに、したい。素直な気持ちのままで、したい。
それが、何故か許されると思ってる。何なら、積極的に許されなければならないと思ってる。
許されないと、怒り出す。 「後向きだ」 「揚げ足取りだ」 「重箱の隅つつきだ」 などと、怒り出す。
そんな、腐った臆病さ+狂気に近い鈍感さ+可愛げの無い甘えのコラボが生む、 「俺流」 の世界。
反吐が出ます。いや、何故出るかといえば、私も紛れもなく 「俺流」 な奴だからなんですけど。
金も能力も権力も無い私のような 「俺流」 男の場合、こんな性根の腐ったサイトの更新にいそしみ、
安全圏にて箱庭的世界を作り 「全てが自分の思い通り」 と悦に入る傾向があるわけですが、
現実的に金や権力がある 「俺流」 男の場合、作る 「箱庭」 もまた現実的になる傾向があるようです。
要は、本当に庭を造ってしまうわけですね。別荘とかに。それも、作法無視の 「俺流」 で。
京都・岡崎の名勝・無鄰菴もまた、そんな 「俺流」 感に溢れた庭園と言えるのではないでしょうか。
「京都に於る庭園は幽邃といふことを重にして、豪壮だとか雄大だとかいふ趣致が少しもない」
「多くは規模の小さい、茶人風の庭であって面白くないから、己は己流儀の庭園を作ることに決した」
(黒田天外 『続江湖快心録』 。但、鈴木博之 『庭師 小川治兵衛とその時代』 より孫引) と、
正に 「俺流」 な宣言の下にこの別邸を建てたのは、近代日本の政治史に君臨する、山縣有朋。
「ほんなら田舎帰るか、東京で作りなはれ」 という顰みを踏み潰し、植治の手を借り作ったその庭は、
東山を借景とした芝生の庭に疏水が流れるという、何というかこう、のびのびした世界を、現出。
まるで吉本芸人の映画の如き 「俺流」 加減ですが、しかし山縣のこの 「俺流」 は結局、
現代人の我々が一見して 「あっ、成り上がりの庭っ」 と脊髄反射で思わずにはいられないほど、
近代大型和風庭園の原型として、後世の成り上がりたちに影響を与えたのでありました。
そんな 「俺流」 の偉人が作った 「俺流」 な無鄰菴、紅葉も綺麗と言われたら、
「俺流」 の末席を汚す者としては、行かぬわけにはいかぬでしょう。
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2013年11月26日(火)

毘沙門堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
近年、 「見つけた感」 なる言葉が流行っております。
裏通りとかにあり派手な看板も出さない店を、見つけ、見つけた自分を好きになる。
ちょっと賢い消費者な自分を、好きになる。ちょっと勘の良い消費者な自分を、好きになる。
もちろんその店は、 「見つける」 のに本当の知恵や知識や労力が必要な場所であってはならず、
また本当に 「見つける」 ことが出来ない奴は全体の数%程度の難易度でなければならない。
で、その数%を嗤い、優越感と安心感を得るという、 「見つけた感」 。下衆です。極めて、下衆です。
そんな 「見つけた感」 に溺れる、破裂寸前のメタンガスバルーンの如き消費者エゴを愛撫し、
人が住むとこを 「そうだ」 呼ばわりで叩き売り続けてるのが 「そうだ 京都、行こう。」 なわけですが、
その 「そうだ」 で 「見つけた感」 が上手く作用した寺といえば、毘沙門堂ではないでしょうか。
毘沙門堂。山科にあって、山寺の風情を持ちつつ天台宗五箇室門跡の寺格も誇る、名刹であります。
平安遷都以前に出雲路にて創建され、 「毘沙門堂の花盛り」 と詠われる優美さを誇りましたが、
応仁の乱など数々の戦乱で衰退し、1665年に現在地・山科へ移転+再建+門跡寺院化。
再建後も 「花盛り」 ぶりは維持され、特に秋の紅葉は山寺の風情も相まって見事なものながら、
アクセスがよろしくないためか、長年に渡り 「知る人ぞ知る京の名所」 的存在だったとか。
そんな毘沙門堂に目を付けたのが、 「そうだ」 。で、以降、いわば 「みんなでシェアする穴場」 化。
秋ともなれば狭い参道をタクシーがバンバカ突っ走る光景が恒例になったわけです。
寺の方も寺の方で最近はライトアップも始め、何か積極的に 「見つか」 りに行ってる感じですが、
アクセスの不便さは変わらないためか、見事な風情と紅葉はかなり濃厚に生き続けてます。
というわけで、消費者エゴのみならず色んなエゴが飛行船のように膨張した私もまた、
やはり何かを 「見つけ」 て、自分をもっともっと好きになるべく山科へ出かけ、
鉛のツェッペリン号を燃やす炎の如き紅葉を観たのでした。
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2013年11月26日(火)

勧修寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
昭和の匂いを感じる寺社、というのがあったりします。
無論、単純に設備が昭和期に整備された寺社なら、昭和を感じるのは当然ですが、
それ以外でも、サイズ感 or スケール感みたいな点で、昭和を感じることがあったりします。
要は、全体的に何か、大きい。妙な寂寞感を感じさせるような感じで、ダダっ広く、大きい。
より正確に言うなら、空間が埋まってない感じというか。あと、コンクリが効いてる感じというか。
昭和期のシネスコサイズの邦画でよく見かけそうな感じ、みたいな。こんな感じ、わかるでしょうか。
土地が比較的豊富で、かつ観光開発が比較的遅かった京都郊外&周辺部の寺社には、
こんな昭和的なるとこが点在してますが、山科の勧修寺にも私は似た印象を受けたりします。
勧修寺。 「かんじゅうじ」 でも 「きんじゅうじ」 でもなく、また、果汁寺でも加重寺でもない、勧修寺。
醍醐天皇が母・藤原胤子の菩提を弔うべく、胤子の祖父・宮道弥益の邸を寺化した寺です。
その境内は、のちに秀吉の伏見街道敷設で縮小されたものの、現在もなお広大な印象を与え、
何より借景とする周囲の山々と、境内に咲く四季の花が、雄大な印象を鮮やかにブースト。
また、京都でも屈指の古池であると言われる 「氷室の池」 を中心に造園された池泉舟遊式庭園は、
旧御所からの移築された伽藍の数々と共に、平安貴族の雅趣を現代へ伝えてくれてます。
と、昭和どころか平安時代にまで遡る立派過ぎな由緒を持つ門跡寺院なんですが、
伽藍以外の周辺整備が昭和期に行われたのか何なのか、全体のテイストはどこか、昭和チック。
特に山門までの景観は痺れるくらい昭和的であり、境内の庭園自体も何となく昭和的。
拝観チケット代わりの絵はがきまで昭和的で、更新の遅れた施設の趣がないでもないですが、
しかし勧修寺、ただ手をこまねいているわけでもないようで、近年、紅葉を整備。
年々と良い色を出すようになり、紅葉面でもじわじわと名所化してると言われてます。
そんな勧修寺の紅葉、ほぼ独り占めするような感じで見てきました。
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2013年11月24日(日)

宝筐院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「筐体」 を、長らく 「とくたい」 と読んでいた阿呆は、この私です。
PC関連でよく見かけた、 「筐体」 。でも、生の読みを聞いたことが無かった 「筐体」 。
でも何となく、 「とく」 っぽいな。 「秘匿」 の 「匿」 の字にも、似てるしな。そうだ、多分、そうだ。
そんな阿呆な思い込み+日常で使うことがなかったため、己の中で定着してしまった、 「とくたい」。
恋人どころか友人さえロクにいない、孤立上等を謳う独男には、発生しがちな事態ではあります。
誤読の時期はかなり長く続き、ゆえに嵐山に建つこちらの宝筐院もまた 「ほうとくいん」 などと誤読し、
近所の人からは 「ほうとくさん」 と親しまれてるのではないかと勝手に妄想したりもしたのですが、
無論、宝筐院はあくまでも宝筐院であり、 「ほうとくいん」 でも 「ほうとくさん」 でもないのであります。
宝筐院。豊胸院でも豊頬院でもない、宝筐院。楠木正行 aka 小楠公ゆかりの寺です。
元々は平安末期に白河天皇が善入寺として創建し、これを後に夢窓国師の高弟・黙庵が再興。
黙庵は小楠公と交流を持っていたため、 四條畷の合戦で討ち死した小楠公の首級をこの寺に埋葬。
室町二代将軍・足利義詮は、この黙庵に帰依し、さらには黙庵の知り合いたる小楠公にもハマり、
ハマり過ぎて小楠公の隣に葬れと命じ、義詮と小楠公の菩提寺化+名前も宝筐院へ変更。
その後、応仁の乱でまた荒廃し、江戸期は天龍寺の末寺となり、幕末にはとうとう廃寺となりますが、
明治期にやはり小楠公にハマってた京都府知事・北垣国道が伽藍を復興、現在に至ります。
何かすぐ近所の祇王寺と似た経緯で再興された寺ですが、紅葉の方も祇王寺同様に良く、
嵐山の他の名刹と共に、秋ともなれば紅葉狩りの人民が押しかける寺なわけです。
そんな豊凶院でも宝鏡院でもない宝筐院、出かけてきました。
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2013年11月23日(土)

赤山禅院へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都御所から比叡山までを結ぶ、猿ライン。
「魔界としての京都」 が流行った頃によく聞いた言葉です。今も言うんでしょうか。
御所鬼門の猿ヶ辻から幸神社、そして赤山禅院から叡山へ、幾重にも設置された猿像たち。
猿は魔物を退治する力を持つため、これらの猿象は怨霊防衛線として配置されたのだと。
これが、猿ライン。身内の呪いに怯えまくる桓武帝が作った風水都市・京都らしい話ではあります。
「目ぼしいポイントを適当に線で結んだら、何でもかんでもレイラインになるんちゃうんか」 と、
大人の対応をしたくなる話ではありますが、しかし子供の夢を踏み潰さないのもまた、大人のマナー。
それに、猿ラインの中間点に立つ赤山禅院の、不思議かつ魅力的な雰囲気に触れたら、
「大人」 な方であっても、猿や鬼門や怨霊といった話に多少の信憑性を感じてしまうかも知れません。
赤山禅院。比叡山延暦寺別院ながら、様々な神が入り交じる、魅惑の宗教施設であります。
平安期、遣唐使として中国へ渡った第三世天台座主・慈覚大師円仁は、帰国時に海難に遭遇。
その時に円仁を守護したのが、道教や陰陽道の神であり、閻魔大王とも見なされるという、泰山府君。
円仁はこの神を日本へ勧進しようと決意しましたが、生きてるうちにはその願いが叶わず、
第四世天台座主・安慧が遺命を果たす形で、泰山府君を赤山大明神として888年に創建しました。
平安期は無論マジの鬼門守護を務め、現在も様々な神が様々なネイティブ信仰を篤く集め、
また 「失敗したら、自決」 で知られる叡山・千日回峰行の通過ポイントとしても有名な、赤山禅院。
しかし、 「赤山」 の名は紅葉の赤に由来すると言われるくらい、紅葉の名所としても著名です。
実際、その紅葉の色の素晴らしさと、神が入り交じる魅惑的な伽藍とのマッチングは、
「確かにここには、ただならぬ霊気が漂っている」 と、霊気の門外漢にも感じさせてくれます。
あと、拝観が無料だし。実はここが一番の人気を呼んでるポイントかも知れないけど。
そんな赤山禅院の紅葉、数珠供養の日に観に行ってみました。
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2013年11月21日(木)

金戒光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「黒谷って、谷というより丘という感じなのに、どうして谷と呼ぶんだろう」
「会津小鉄って、京都の●●●なのに、どうして会津という地名が入ってるんだろう」
この2つの疑問に答えてくれるのが、「黒谷さん」 の呼称で知られる岡崎の金戒光明寺です。
金戒光明寺。知恩院・知恩寺・清浄華院と共に、浄土宗京都四箇本山を構成する寺であります。
浄土宗の開祖である法然は、若かりし頃に比叡山にて天台宗の教学を学んだことで知られますが、
その上人が叡山の黒谷を下り草庵を結んだ地 = 浄土宗初の寺院を建てた地こそ、ここ白川。
最初は 「新黒谷」 と呼ばれたそうですが、やがて 「新」 が取れ 「黒谷」 が呼称として定着。
というわけで、黒谷は黒谷であり、また黒谷さんなのであります。よろしいでしょうか。
第5世・恵顗の時、法然が見た光明に因んで正式名称を 「紫雲山光明寺」 と決めた黒谷さんは、
第8世・運空の時には後光厳天皇に円頓戒を授け、そのおかげで 「金戒」 の2字をゲット。
寺運はどんどん隆盛し、多くの塔頭が立ち並ぶようになり、江戸期に入ると知恩院と同じく城郭化。
幕末に至ると、京都守護職としてやってきた会津藩士約1000名の本陣にもなりました。
その際、会津藩中間部屋頭の片腕として迎えられた男こそ、侠客・上坂仙吉、通称・小鉄です。
小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の遺体を、本陣を置いたこの寺に埋葬。
後に小鉄自身もこの寺に葬られましたが、それから色んなことがふにょふにょもごもごとなり、
さらに色んなことがふにょふにょもごもごとなり、結果、ふにょふにょもごもごということになりました。
というわけで、会津小鉄は会津でも京都の●●●なのであります。よろしいでしょうか。
「何ら答えにも説明にもなってない」 という話ではありますが、しかしそんな疑念も吹っ飛ぶほど、
金戒光明寺の紅葉は、独特のロケーションも相まって実に素晴らしいものとなってます。
寺側は庭園の有料拝観を推してますが、タダで観れる境内の紅葉も極めて、ナイス。
貧乏+吝嗇+美に正直な私は、無論タダの紅葉を堪能させてもらいました。
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2013年11月15日(金)

法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
まつろわぬ者としての、鬼。
そんな鬼認識が生まれたのは、一説では平安末期からとも言われてます。
元来は、闇や異界といった不可視なる 「おぬ」 の世界を体現する存在だったという鬼は、
末法の世に入り、武家の台頭や盗賊の跋扈などで 「外部」 の都への侵入が常態化し始めると、
「可視化されたアウトサイダー」 ともいうべき新たな相貌が付加されるようになったそうです。
彼岸へ出かけて退治する存在から、此岸へ恐怖をデリバリーする存在と化した、鬼。
平安末期にそんな変貌を遂げた鬼が、同時代の帝である後白河上皇の法住寺陵を参拝するのは、
実に奇妙なことのようであると同時に、ある意味で実にもっともなことと言えるかも知れません。
法住寺陵があるのは、その名の通り、法住寺。三十三間堂のすぐ傍にある寺であります。
藤原為光創建の元祖・法住寺の跡地に、後白河院は院政の舞台として広大な法住寺殿を築き、
熊野狂いを反映した新熊野神社や頭痛を具現化した三十三間堂など、多くの伽藍もばんばか建立。
それらは、三十三間堂を除いて大半が消失し、後にいずれも小じんまりと再興されましたが、
法住寺も木曾義仲に焼討された後に小じんまりと再興、以来、後白河院の御陵を守り続けてます。
そんな法住寺で11月15日に行われるのが、身代不動尊大祭。身代、すなわち身代わり。
この寺の不動明王像が、義仲の焼討の際に後白河院の身代わりになった伝説に由来するこの大祭、
狭い境内が視界ゼロとなる護摩や、狭い境内が炊き出し場化するうどん&ぜんざい奉仕など、
ネイティブ色濃い催しですが、何よりの目玉は鬼たちによる後白河院御陵参拝と鬼法楽でしょう。
ここだけ宮内庁管轄である御陵へ、金棒片手で堂々と入り参拝する、 「まつろわぬ者」 たち。
その姿は確かに奇観であり、ある種のアイロニカルなユーモアを感じさせるものですが、
同時に、鬼を遥かに凌ぐ 「アウトサイダー」 的な 「闇」 をその心の中に抱えていたかも知れず、
また実際に 「アウトサイダー」 の歌ばかりで歌集を編纂したりもした後白河院の御霊に、
鬼たちが鬼なりの流儀で真なるリスペクトを捧げてるように見えたりもします。
そんな妙なる法住寺の鬼法楽と墓参り、見に行ってきました。
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2013年11月1日(金)

祇園会館へ祇園をどりを観にいってきました。もちろん、ひとりで。
祇園会館。ああ、祇園会館。
名画座の割に造りが異常に良く、500席とキャパもデカかった、祇園会館。
そんな良いハコなのに、名画二本立て+入れ替えなしというスタイルを貫いた、祇園会館。
しかし私は正規料金を払う余裕が全然なくて、せいぜい千円の日にしか行けなかった、祇園会館。
その千円の日に観た 『トレインスポッティング』 では、ラリ中の寝糞が顔にへばりつくシーンを、
日本ではおそらく最も巨大なスクリーンで目にすることとなってしまった、祇園会館。
そんな思い出の詰まった祇園会館が、『よしもと祇園花月』 に化けてから、しばらく経ちました。
花道や桟敷席まである劇場のクオリティを考えると、映画より演芸の方がふさわしいのは、当然です。
使えるハコは、有効な形で活用すべき。私もそう思います。でも本当は、ちょっと寂しい。
観光客だらけの八坂神社石段前に建つ立派な劇場で、超ルーズに映画を観るという、不思議な贅沢。
そんな贅沢を味わえなくなったのが、ちょっと寂しいのです。どうでもいい私情ではありますが。
祇園会館の造りがオーバークオリティである理由は、元来ここは映画館ではないから。
京都五花街のひとつ・祇園東の舞踊公演 「祇園をどり」 を行うことこそが、ここの最大の目的です。
元々は甲部と一体の祇園町を形成していたものの、明治14年に京都府の指示で分離し、
戦前は祇園乙部、戦後は祇園東新地から現呼称で愛されている花街・祇園東。
その祇園東の 「祇園をどり」 は、1952年から始まり、唯一秋に公演が行われるをどりです。
祇園花月に化けた現在も伝統は守られ、11月上旬だけは全吉本を会場から一掃。
祇園会館が、本来の目的で本来のスペックを発揮する様を拝めるひと時となるわけであります。
で、そんな祇園をどりに忍び込んでみた、と。しかも、初日に忍び込んでみた、と。
初日にも関わらず、もちろん今回も飛び込み、当日券に賭けてみた、と。
その結果や、いかに。一発勝負の一部始終、お楽しみください。
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2013年10月22日(火)

2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。
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ひとりで京都の三大祭,
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2013年10月7日(月)

園部のくりや本店とかどや老舗に栗餅を買いに行きました。もちろん、ひとりで。
京都の秋の味覚といえば、丹波栗。
和菓子店はもとより、洋菓子店や料理店でも秋となれば、その名を見かけます。
丹波の地より運ばれてきた山の味覚に、京童は秋の到来を感じ、心を躍らせるというわけです。
が、私は丹波栗と聞いても、特に心が踊りません。何故なら、私の本籍地は丹波だから。
父の実家は家庭の事情で私の生まれる前に地上から消滅しましたが、母の実家はまだ健在で、
長じて孤立を深めるようになる以前は、私も普通に、丹波の旧家をたびたび訪れてました。
敷地内には何本か栗の木が生えていて、秋に訪れた際にはその栗の木へ蹴りを入れ、
「痛い痛い痛い」 とか言いながら落ちてきた栗を拾い、「痛い痛い痛い」 とか言いながら針皮を剥き、
生のまま食おうとしては 「固い、食えへん」 と、何度も何度もその辺に捨ててたものです。
もちろん、おやつにはちゃんと茹でた栗を出してもらえたわけですが、それも私は嫌いでした。
何故なら、茹でられてもなお、皮を剥くのが、面倒くさいから。パクッとすぐ、食えないから。
「痛い」 「固い」 「面倒くさい」 。これが、私の抱く丹波栗の原風景ということになります。
自分で書いてても 「死ねよ」 とか思いますが、そんなわけで、丹波栗と聞いても心は躍りません。
が、このサイトの趣旨は、ベタの単独正面突破。栗も一応、押さえておくべきでしょう。
京都で栗といえば、丸太町の 「くりや」 が、定期的に京都新聞へ広告を出したりしてますが、
あそこで栗菓子各種を買って食うだけでは、ちょっと楽過ぎるというか、ネタにならん。
なので、くりやの本店があり、父の故郷&私の本籍地でもある園部へ行ってみることにしました。
栗の産地である園部では、くりや園部本店&400年続くという超老舗のかどや老舗の両店が、
栗の収穫期だけ栗餅を販売するというので、それを買いに行ってみようじゃないか、と。
プレミアな栗餅、城、生身の神社、そして何故か味噌とんかつも登場する、
栗に導かれた錯乱する魂の遡行、お付き合い下さい。
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2013年9月29日(日)

瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。
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2013年8月11日(日)

下鴨神社・糺の森の納涼古本まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「納涼」 と冠されたものの多くは、実際、大して涼しくありません。
「納涼花火大会」 「納涼ビアガーデン」 「納涼盆踊り」 「納涼船」 など色々ありますが、
そのいずれもが実際はさほど涼しくないという 「真実」 を、知らない人は今やいないでしょう。
現代の夏において、最も効率良く涼が得られるのは、言うまでもなく、冷房が効いた部屋。
震災以降、様々な節電の動きが起こり、様々な 「冷房以外」 の納涼方法が模索されてますが、
画期的な手段は現れず、 「クーラーやっぱり最高」 と文明の利器を再認識しがちなのが現状です。
盆地性の性悪な暑気が充満しまくる京都の夏においても、この辺の事情は全く変わりません。
川からの熱風を感じながら 「風流だ風流だ風流だ」 と自己暗示をかけて飯を食う鴨川川床を筆頭に、
京都の野外で行われる様々な 「納涼」 イベントは、その大半が名に反し、暑苦しかったりします。
世界遺産・下鴨神社の糺の森において、8月中旬、お盆の頃に開催される 「納涼古本まつり」 もまた、
「納涼」 と冠しながら全く涼しくない、逆に暑苦しさが極限域でバーストする、恐怖のイベントです。
都会の真ん中ながら原生林に近い状態を誇る糺の森、そこに聳える大樹の陰を利用する形で、
葵祭・流鏑馬神事会場である馬場に大量の古書店&数十万の古書が並ぶ、 「納涼古本まつり」 。
「自然の恵みたる木陰の涼を感じながらの本探し」 と、文字にすると優雅かつ知的な感じがしますが、
世界遺産の木陰であろうが何であろうが、実際の現場は当然のように死ぬほど暑いのであり
そしてあまり人のことは言えませんが、古書市ゆえに集まるのは暑苦しい独男ばっかりなのであり、
そんな独男たちが汗だくになって本を探し、ゲットした大量の本を汗だくになって運ぶという、
体育会系の阿呆学生でさえ逃げ出しそうな、完全に体力勝負の世界が展開されるのであります。
暑さと共に、ネイティブ京都の妙な過剰さ、バースト感にも溢れてる気がする 「古本まつり」 、
私は単に本を探しに出かけてるんですが、2013年は特に面白いくらい暑かったので、
本を漁る最中にちょこちょこと写真を撮って、ざっくりと記事に仕立ててみました。
熱中死と背中合わせで古書を漁るバースト感、お楽しみ下さい。
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2013年7月25日(木)

安楽寺の鹿ヶ谷カボチャ供養へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京野菜の多くは、その原産地が京都ではありません。
代表格とも言える聖護院大根を筆頭に、大半が外から持ち込まれた外来種です。
いや、「だから偽物だ、ブランディングという名の詐欺だ」 みたいな話がしたいのではありません。
そもそも日本の野菜自体、大半が、外来種。和食に使われる野菜も、実は大半が、外来種。
京野菜も、事情は同じです。違う点があるとすれば、この地に持ち込まれて以降の変化でしょう。
京都に移り住んだ人間が、この地が持つ妖しき霊気によってどんどんと精神を浸食され、
やがて根性が腐り魂が歪み、何の根拠もなく 「京都が一番」 と盲信する京都人へ化けるのにも似て、
この地へ持ち込まれた野菜の幾つかは、パッと見レベルでさえそれとわかる変化を被りました。
全く大根に見えない先述の聖護院大根、海老というより何かの幼虫っぽい海老芋と並び、
そんな変態京野菜の典型が、何をどう見ても瓢箪にしか見えない鹿ヶ谷カボチャではないでしょうか。
江戸後期、津軽より種が持ち込まれ、鹿ヶ谷に於いて栽培が始まったという、鹿ヶ谷カボチャ。
元々はノーマルな見た目だったそうですが、陰謀と縁深い土地で連作を重ねたためか、形状が変化。
かなり最近に至るまで 「ひょうたんなんきん」 と呼ばれていたことが即座に納得できるくらい、
実に瓢箪テイスト満開、いや、もう瓢箪でなければ何だというくらいのビジュアルを持つに至ってます。
そんな 「ひょうたんなんきん」 、明治の中頃までは鹿ヶ谷でよく栽培されてそうですが、
それ以降は新品種 = 現在の菊座型である普通のカボチャに押され、絶滅寸前にまで衰退。
かろうじてその命脈を繋ぎとどめたのは、鹿ケ谷の安楽寺で毎年夏に行われるカボチャ供養でした。
いわゆる 「建永の法難」 で知られる安楽寺と、カボチャ。どう繋がるのかは、知りません。
多分、単に近所の誼なんでしょうが、とにかくそれで鹿ケ谷カボチャは生き残ったのであります。
カボチャ供養はもちろん現在も行われていて、中風除けの御利益で人気も結構、高し。
私も、現在のところは大丈夫ですが、いつ中風になってもおかしくない体質なので、
健康体へ変態する陰謀を胸に秘めつつ、鹿ケ谷へ向かったのでした。
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2013年7月20日(土)

八幡駅近観光をやってみました。もちろん、ひとりで。
「八幡って、石清水八幡宮の他に何があるの?」
よく訊かれる質問、ではありません。そもそも大抵の人は、八幡にあまり興味がないので。
しかし2013年の夏は、石清水八幡宮がかの 「そうだ 京都、行こう」 の提携先に選ばれました。
捏造された京都幻想を抱えた幾ばくかの人が、捏造されたCMと全然違う八幡さんに落胆したのち、
懲りずに 「私のお気に入り」 を捜し求め、物欲しげに八幡市内をうろつくことが予想されます。
その中には、背景ボカシの彼方やフレーム外へ抹殺された真実を愛せる心を持ちながらも、
一時の気の迷いで 「そうだ」 の導きに乗っかってしまった、独な同志の方もいるかも知れません。
消費者ボケした享楽乞食のレミングなど、ポンコツ街道でスクラップにされてしまえばいいのですが、
同志の方が、ケーブル乗って、八幡さんをお参りして、何なら松花堂弁当も食って、
「ふーん」 という感慨だけ抱いて帰ってしまうというのも、それはそれで、残念ではあります。
というわけで、石清水八幡宮参拝のついでに小さめの観光スポットを回るコース、設定してみました。
八幡には、流れ橋や松花堂など結構いろんなスポットがあるんですが、生憎、いずれも遠い。
流れ橋は、アクセスも、よろしくない。レンタサイクルは無料ですが、今の時期、暑い。
なので、駅から徒歩10分程度の範囲内にあるスポットだけで、コースを設定。
駅近で一番スペクタクルで面白いのは、神応寺の記事でも紹介した駅前渓谷なんですが、
ここは本当にスペクタクル過ぎて、雨が降った後とかだと怖過ぎるのでパスし、
平地の穏やかな門前町をめぐり、最後はおやつのかき氷で締める仕様としています。
幼少期の私の行動圏である、静かでのんびりした八幡を、お楽しみ下さい。
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