ひとりでうろつく京都 (β版) - 19ページ目 (25ページ中) - 独男が、なるべく人が多い所へ多い時に赴く、修行の如き京都徘徊。現在、ペースダウンからのリハビリで記事制作中。 ひとりでうろつく京都 (β版)

東九条マダンへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月3日(木)


東九条マダンへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都駅八条口から徒歩数分の場所にある、京都最大のコリアンタウン・東九条
東九条マダンは、そこで開催される地域の祭りです。東九条마당。今回で19回目。
全くどうでもいい個人的事柄ですが、私、このあたりをよく歩きます。
といっても、特に東九条に用事があって歩くわけではありません。
京阪八幡から京都駅へ行く場合、「丹波橋で近鉄」か「東福寺でJR」乗り換えが常道なんですが、
乗り継ぎ分の電車賃を惜しみたい場合、あるいはちょっと歩きたい気分の時などに、
東福寺か七条から歩くわけです。東福寺からなら東九条を、七条からなら崇仁を、テクテクと。
八幡に住み、金を惜しみ、時間を惜しまない私は、かなり高い頻度でここを歩きます。
ネット界では、言及されることが多い割に実地へ赴いた話が少なかったりするエリアですが、
南部の辺境に住む私にとっては、ここがいわば「みやこ」の入り口。
ここを基準にして京都という街を眺める習性みたいなのも、ちょっと、あったりします。
私だけの話ではありません。新幹線で京都入りする人にとっても、ここは「みやこ」の入り口です。
人の住む街を「そうだ」呼ばわりしながら入洛する際、ここを通ってるのです。気づいてないだけで。
そんな話はともかく、東九条マダン。
韓流の趨勢を先取りするように、19年前から多文化共生を打ち出してきたマダンですが、
今年も歌や踊りの民俗芸能はもちろん、アーティストの公演など盛りだくさん。
私は昼過ぎから、もっぱら食い気メインで寄せてもらいました。

続きはこちら »

京都市美術館で行なわれた岡崎ときあかりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月29日(土)


京都市美術館で行なわれた岡崎ときあかりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治28年、京都復興を賭けた平安遷都1100年祭開催にあたり、
本来の平安京大極殿の場所だった千本丸太町付近に、レプリカ建造が提案されました。
が、市街地化してたため、断念。代わりに選ばれたのが、当時は田んぼだらけだった、岡崎でした。
田んぼだらけといってもこのエリア、近くで琵琶湖疎水が開通し、水と電気は極めて、豊富。
京都の近代化をアピールするイベント開催にはうってつけの場所となり、
また、イベント終了後も大箱の近代建築をぶっ建てるのには最適のロケーションということで、
図書館・勧業館・公会堂などの文化施設が次々と建てられました。
昭和8年に建てられた大礼記念京都美術館、現在の京都市美術館も、そのひとつ。
京都で行われた昭和天皇即位の大礼を記念して開設され、
戦後は表札から「大礼記念」を外して近・現代美術の舞台としての役割を果たし続けてます。
今回の「岡崎ときあかり」は、そんな美術館の壁へプロジェクション・マッピングなるものを投影、
昼間とは違う夜の美しさを見せることで、岡崎全体を活性化させようというものです。
プロジェクション・マッピングとは、建物の形状に合わせてデザインした映像を照射するもの。
要はライトアップの客寄せイベントですが、見るだけならタダなので、のこのこ出かけてみました。

続きはこちら »

八坂倶楽部での京都国文・食文化の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月29日(土)


八坂倶楽部での京都国文・食文化の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

国民文化祭とは、日本中でいろいろな文化活動に親しんでいる個人や団体が集まって、日ごろの成果や実力を披露するため、全国各地から多くの「文化」や「人」が集まる「日本最大の文化祭典」です。昭和61年からの毎年、各都道府県持ち回りで開催されてきたこの国民文化祭が、平成23年京都府で開催します。音楽、舞踊、演劇、美術、文芸などの芸術文化から伝統文化や生活文化、さらに特色のある開催地独自の文化まで、盛りだくさんの催しが開催期間中に次々と繰り広げられ、国内外から参加者・観客が集まります。府内一円で約70もの文化イベントを開催します。この機会に、皆さんの「文化」を再発見してみませんか?
国民文化祭とは | 第26回国民文化祭・京都2011 – こころを整える~文化発心

まとめるのが面倒くさいから、公式サイトから丸写ししたった・・・。
国民文化祭、略して国文。興味ある人は、あまりいないでしょう。私も全然、ありません。
が、2011年の開催地は、京都。文化が売り物というか、ほとんど文化しか売るもんのない街・京都。
京都市のみならず京都府全域で、それなりに力の入ったイベントが用意されてて、
祇園甲部歌舞練場の隣、八坂倶楽部で行われた『食文化の祭典・京料理』も、そのひとつです。
内容こそ「有名店による料理の実物展示+式包丁や京菓子作りなどの実演」という、
毎年12月にやってる「京料理展示大会」みたいなもんですが、場所が違いますよ、場所が。
京料理にも名店にもさほどの関心はございませんし、ご縁はもっとございませんが、
八坂倶楽部の中はちょっと見てみたくて、場違いモード全開で出かけてみました。

続きはこちら »

時代祭の神幸列を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭の神幸列を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

コスプレパレードと揶揄されがちな時代祭ではありますが、
行列の最後列には、平安神宮の祭神・桓武天皇&孝明天皇の御輿がしっかりとついてます。
たとえ明治時代に行われた第一回目が純然たる集客イベントの純然たる余興であったとしても、
現在の時代祭は天皇の御霊をいただく、れっきとした神社のれっきとした祭りというわけです。
その時代行列、ご存知のとおりスタート地点は平安神宮ではなく、京都御所。
で、これも言うまでもないことですが、時代祭は京都御所の祭ではありません。
つまり、あの行列は「神霊が御所へおいでになり、神宮へ帰る」という、還幸にあたります。
還幸があるなら、本来は神幸も、あるはず。いわゆる「おいで」が、あるはず。
「ええ加減にせえ」と交通渋滞にブチ切れる市民を考慮して省略したのかと思いたくなりますが、
実際には時代祭においても、神幸はしっかり行われてます。祭の当日、午前中に。
それも、稲荷祭みたいにトラックへ神輿を載せてピャーっと運んでしまうようなものではなく、
ちゃんと人力で御鳳輦を押し、えっちらおっちらと御所まで運ぶスタイルで。
三大祭のひとつでありながら、葵祭&祇園祭に比べると、もうひとつ盛り上がりに欠ける、時代祭。
でも、やることは、やってるのです。で、やることやっても、やっぱり、盛り上がらないのです。
その辺の温度感が、ある意味本編よりも如実に感じられる、神幸列。
行った動機は本編スタートまでの暇つぶしでyはありましたが、とにかく見てきました。

続きはこちら »

時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。
言うまでもなく、葵祭および祇園祭と並ぶ、京都三大祭のひとつであります。
が、御存知の方も多いでしょうがこの祭、始まったのは明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、地域振興として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカが、当時田んぼだらけの岡崎に建設されました。
江戸時代でもかろうじて都の誇りだけは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は京都への遷都を成した桓武天皇、氏子は京都市民全員、
例大祭は平安遷都の日である10月22日と決められました。平安神宮と時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ単たる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化&ラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」足利将軍が開催100年目にして参加を許されたりながら、現在に至ってます。
そんな時代祭、御所や平安神宮応天門前で見るのが堅気の楽しみ方ですが、
私は行列と一緒に歩いてみました。全行程4.5キロを、行列から少しずつ遅れて歩いてみました。
「動く歴史絵巻」を、普通の街中を進む絵面ばかりで、全時代、網羅してみようかなと。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して捏造された「雅」さではなく、
「雅」さが普通の街中に転がる京都のストレンジさこそを、感じてもらおうかなと。
曜日問わず22日固定で開催される時代祭ですが、今年は天候不良により、23日に順延。
2011年は、奇しくも三大祭の全てが日曜に開催される年となりました。

続きはこちら »

粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


粟田神社の粟田祭・夜渡り神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

えと、トップ画像で光り輝いてらっしゃるのは、かの法然上人でございます。
法然。もちろん、浄土宗の開祖です。粟田神社のすぐ南にある知恩院の、ラスボスです。
神社の祭のトップ画像がバリバリの仏僧とは、これいかに。
いや、それ以前に何故この法然はこんなにキンキラキンなのかという話ではありますが、
しかし、これが粟田神社の粟田祭なのであります。宵宮の奇祭・夜渡り神事なのであります。
粟田神社は、明治維新の神仏分離までは「感神院新宮」と呼ばれていました。
「感神院」といえば八坂神社の旧名「祇園感神院」が有名ですが、粟田神社はその新宮。
平安時代に朝廷が祇園社へ勅使を派遣、「東北に清浄の地あり」と神託を受け、創建されたわけです。
祇園感神院は、一時は比叡山の門下に寺として入るほど神仏習合が激しい社でしたが、
粟田神社もまたその傾向は強かったようで、社名から祭神から「ご一新」した経緯を持ってます。
が、往時の残り香のようなものは濃厚に残っていて、この夜渡り神事はその典型。
粟田神社名物の剣鉾が知恩院の七不思議のひとつ・胡瓜石の前まで出向き、
出迎えた知恩院の僧たちと一緒に剣鉾&石に祈るという、神仏コラボ祭事を展開してしまうのです。
その名も「れいけん祭」。凄い、何かよくわからないけど、凄いのであります。
2008年からは京都造形芸術大学の学生さんによる、超巨大燈籠「粟田大燈呂」も登場し、
2010年には御覧の法然も団体の枠を越え参戦、何かよくわからん凄さはさらに加速しました。
もとから奇祭だった祭がさらに奇祭化してる様、とくとお楽しみ下さい。

続きはこちら »

安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「課長と奥さんが早く別れて私と一緒になってくれますように」。実際は、その課長の姓名はもちろん年齢から会社名まで書いてあったのだが、それだけなら珍しくもない不倫成就の嘆願である。祇園に近く水商売関係の参詣者も多いだろう土地柄か、ここに掛けられる絵馬の二割近くが不倫絡みなのだ。問題は奉納者名の後の空スペースに、あきらかに異なる筆跡で記されていた文字である。
「そうはなるものか」
鉛筆書きの尖った文字が突き刺さっているようであった。 (入江敦彦 『京都人だけが知っている』

この文章がきっかけになったのかどうかは知りませんが、
とにかく、愛情が呪いの域に達した恐怖絵馬で一気に名を上げた、安井金毘羅宮。
一応、縁結びの神様でもあるわけですが、奉納される絵馬は相変わらず縁切り祈願が大多数。
「あの人と別れたい」「あの人とあの人が別れて欲しい」といったベーシックなものならず、
「あの人がこの世と縁が切れますように」と、現世との縁切りを祈願するものも多数、奉納。
中には、部署名・配偶者名・子供の名前まで記入して「逝ってくれ」と願うものなどもあって、
愛欲に無縁な私にとっては、もはや恐怖を越え、不可解・不条理極まる世界であります。
何でそんなに人が好きになるんだ? 何でそんなに人が嫌いになるんだ?
10月初旬に行なわれる例大祭は、そんな疑問に答えてくれるもの、ではありません。
安井といえば、9月第4月曜に美容業界が定休日返上でバックアップする「櫛祭り」が有名ですが、
この日の祭りは全然オーソドックスな、神輿巡幸。もちろん、縁切り神輿とかも、ありません。

続きはこちら »

御香宮神社の花傘パレードへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月8日(土)


御香宮神社の御香宮神幸祭・花傘パレードへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御香宮神社。ひらがなだと、ごこうのみやじんじゃ。
晩年の秀吉が半狂乱で誇大妄想を育んだ伏見城へのメインルート・大手筋沿いに立ち、
伏見城がぶっ潰れた後はその大手門を移築して表門とする、名実ともに伏見を代表する神社です。
といっても伏見城の築城とともに社ができたではなく、創建はその遥か昔の平安時代。
地元の氏子さん達による崇敬も太古の昔より篤く、伏見九郷の総氏神として、
また神功皇后が主祭神の安産の神様として、現在も「ごこんさん」の愛称で親しまれてます。
毎年10月初頭に行なわれる神幸祭は、そんな御香宮神社の例大祭。
「伏見祭」あるいは「洛南の大祭」の別名を持つほど、その規模は大きく、認知度も高し。
開催期間も実に9日間にも及び、最終日に行なわれる1000人単位の神輿巡幸は特に有名です。
で、神輿巡幸と並んで名高いのが、祭りの初日と宵宮に行なわれる、花傘行列。
各氏子地区から出た華やかな風流花傘20数基が、夜の大手筋を練り歩いて参宮する行事です。
御香宮神社の門前はもちろん、道中あちこちで厄除け祈願の傘の差し上げが行なわれ、
大手筋商店街では、各花傘が競演する審査会も開催されます。
写真で見るとギンギラギンのケンカ祭り状態であり、秀吉好みの流れを引くのかと思いたくなりますが、
この花傘行列もやはり歴史は古く、室町時代にはすでに祭りの名物になってたとか。
とにかく「京都であって京都でない」を自認する伏見の独特なテイストが炸裂する祭りであります。
そんな花傘行列、もちろん混雑も熱狂が最もスパークする宵宮に行ってきました。

続きはこちら »

北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月1日(土)


北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき祭。
美しい少女を見て随喜の涙を浮かべる祭ではありません。あしからず。
ずいきとは、里芋の茎のこと。漢字で書くと、瑞饋祭。京都の代表的な秋祭です。
のちに北野天満宮の祭神となる菅原道真が、配流先の大宰府にて怨み骨髄で彫り上げた木像を、
随行した西ノ京の神人が持ち帰り、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えしたことに始まる、ずいき祭。
ずいき・赤茄子・栗・柿・稲穂などの野菜で作られた『ずいき神輿』が祭りの何よりの名物であり、
元農村ならではの収穫を感謝するさまと、祭ごとに作ってはぶっ壊す神輿本来の聖性が、
ちょっと不思議な形で現在まで継承されてる祭りであります。
毎年10月4日の還幸祭では、ずいき神輿はもちろん、「天神さん」のシンボルである牛も町内を巡行。
現在は完全に住宅地の氏子区域を野菜神輿や牛が闊歩する姿は、独特の風味を醸し出してますが、
この日の神幸祭もそんな不思議さに満ち溢れているかといえば、これがそうでもありません。
ずいき祭の神幸祭は、応仁の乱で途絶して以降ずっと中断したままだったそうで、
再開されたのは実に明治8年のこと。何事も千年単位の京都にあっては、最近の話です。
配流された主祭神・道真の「おかえり」すなわち都への帰還をイメージさせるためか、
還幸祭が極めて盛大に行なわれるのに対し、神幸祭はやや、地味。ずいき神輿の巡幸も、なし。
私も還幸祭の方へ行きたかったんですが、ずいき祭は日程固定で平日開催が多く、今年はアウト。
神幸祭だけじっくりと見物させてもらうことにしました。
とはいえ神幸祭も、行列の巡行、そして何より八乙女舞の奉納など、見所はいっぱいです。

続きはこちら »

京料理・梅むらへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年9月29日(木)


京料理・梅むらへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「にらみ川床」。
それは、晩夏の京で行なわれる、密かな愉悦。
政治的無力さと、気位の高さと、吝嗇と、そしてマゾヒズムが、
「にらみ鯛」などという、食への愛と冒涜を同時に満たす放置プレイを生んだこの地に於いて、
「にらみ川床」はその放置をさらにエスカレートさせた、禁断の戯れ。
もちろんそれは、鴨川の川原から貧民よろしく床を見上げて、
「あんなもん、ぼったくりや。涼しゅうもないし、味も大したことない。見栄ばっかり張ってアホちゃうか」
などと「酸っぱい葡萄」をマニュアル通りにこなすようなものでは、ありえない。
しかるべき金銭を支払い、川床を眺めながら食事を楽しみつつ、でも一歩も足を踏み入れない。
川床を、目の前で、放置する。ただ、じっと、見るだけ。お前になんか、指1本、触れてやるか。
床は床で、そんな腐れ変態の世を拗ねた遊びを、快しとはしない。
好きでもないが、誘ってやる。引き入れてやる。吸い込んでやる。こっちへ、おいで。
9月末の床には、もはや、テーブルも何もない。全ては片付けられ、何もない。
からっぽの床には、今年ここで行なわれたであろう様々な饗宴の残り香だけが、漂っている。
その残り香から幻の酔客を生成し、床は、腐れ変態を誘う。「こっち来て、一杯どないですか」と。
誘いに乗ると、終わりだ。自分自身が、幻、残り香になって、床と一緒に片付けられてしまう。
からっぽの床と、孤独な男が、歪んだ愛と存在の駆け引きを楽しむ、「にらみ川床」。
それは、夏と秋の間に一瞬生じる魔界なのかも知れない・・・。

続きはこちら »

石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【5】 還幸の儀

2011年9月15日(木)


延々と続けてきた石清水祭レポート、遂に最終回でございます。

地元民の思い入れゆえ延々と続けたのかというと、そういうわけでもありません。
私は、この祭りが斎行される頓宮から徒歩5分のところで生まれ育ち、
正に頓宮、放生川、あるいは八幡山全域を遊び場として、幼少期を過ごしてます。
が、この祭儀のことについては一切知りませんでした。私の親もまた、知りませんでした。
たまたまウチが流れ者の貧乏一家だから知らなかった、というわけでもないでしょう。
祭りといえば、ただ縁日に行くのみ。多くの八幡人にとって、石清水祭はこんな感じだと思います。
要するに石清水八幡宮って、お上の神さんなんですよね。
京都の裏鬼門守護のため建立され、例大祭には天皇陛下の使者が直々に派遣され、
国家の一大事には山が鳴動する神社。あくまで鎮護国家、国のための神さまというわけです。
なので平民の我々は、神の間近にいても何をやってるのか全然、見えない、気づかない。
祭りだって気軽に観れる時間にやらないし、気軽に払える金で観せないし、気軽な格好も許さない。
京都市内の神社の祭りに多く溢れる熱気や一体感、町衆自治の誇り、
あるいは神社そのものに漂う、人々から愛されてることに由来する優しさやあったかさ。
そういったものは、ここにはありません。それは確かに、少し寂しいことなのかも知れません。
が、それゆえに、かつてのやんごとなき方々への態度、やんごとなき祭りへの態度を、
生臭いまでに現代へ伝承してるかも知れないのです。
そんな石清水祭のフィナーレである還幸の儀、タダ見可能な行列部分は大幅カット、
大金払わないと見れない「神のおかえり」を、お楽しみください。

続きはこちら »

石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【4】 放生会-法華三昧

2011年9月15日(木)


石清水祭、遂に午前中の行事ラストの放生会でございます。

ご存知の方も多いかも知れませんが、石清水八幡宮はもともと神仏習合の宮寺でした。
もちろん、幕末までの大きな神社はどこもそんな感じではあり、
京都でも八坂神社がかつて「祇園感神院」と仏教丸出しの名前で呼ばれていたことは、有名です。
特に「仏教に帰依して、国家鎮護の神とならん」とか言ってしまう八幡神はその傾向が強かったようで、
京都の裏鬼門・男山に鎮座して以降、石清水八幡宮でも神と仏は濃厚に入り混じり続けました。
「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊が山のそこら中に建ち、その寺には数百人の僧が住み、
神社の管理もまた僧が担当し、あげく名称も「石清水八幡宮寺」という思いっきり寺全開状態。
それが明治初頭の神仏分離により、寺はほぼ完全に破却、文化財は流出、僧はトンズラ。
現在の「山の頂上に本殿があり、あとは野生」という清々しい神社ができあがってしまいました。
当然、石清水祭も神仏分離の影響を蒙って、旧儀廃絶・名称変更・再興を繰り返してるわけですが、
現在に至るまで元通りに再興できなかったのが、かつて祭の名称であった、放生会。
「放生会」という仏教的な名のとおり、僧参列のもと執り行われるのが本来の姿だったそうですが、
明治維新以降は仏教色を排し、神道式による行事として今日まで斎行。
それを元の神仏混合に戻そうと、2004年には特別行事として比叡山の僧職と共に放生会を開催。
そしてついに今年、やはり比叡山の僧職に出仕を賜り、
石清水祭の当日に国家鎮護の神仏が相集う形で、めでたく放生会を行うことになりました。
実に140年ぶりのことであります。

続きはこちら »

石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【3】 奉幣の儀

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭、ひとりで行ってます。続きです。

宇佐の地から京都の裏鬼門・男山へ八幡神が勧請された4年後の863年、
石清水八幡宮の例祭・石清水祭は、「石清水放生会」として始められました。
始めは単なる私祭でしたが、承平天慶の乱の調伏などで八幡宮が朝廷の崇敬を得るようになると、
勅使の御差遣が開始され、勅祭化。やがて、雅楽寮の楽人舞人による楽舞も、開始。
賀茂・松尾・春日・平野などに比べると新参もいいところの石清水は、凄まじい成り上がりを見せ、
遂には伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟としての地位を確立、
放生会には、太政官の最上位である上卿が、参議以下の諸官を率いて参向するようになりました。
と、上り調子だった石清水八幡宮ですが、応仁の乱により祭りは200年ほど、中絶。
江戸時代に再興されますが、明治維新の神仏分離で祭りどころか神社そのものがズタボロに。
のちに明治天皇が旧儀復興を仰せ出されたおかげで、何とか官祭としてまた再興しますが、
敗戦後の昭和20年にまたしても旧儀、中絶。24年には三度、再興。で、現在に至ります。
【2】でも触れましたが、「勅祭・石清水祭」、現行の制度上では全てが、私祭です。官祭ではなく。
現代の勅使を担当する掌典職は、皇室の宮中祭祀を担当する部門。
政教分離のため、給与は天皇家の内廷費、ポケットマネーから支払われています。
いわば、天皇家の私的使用人に相当するわけです。宮内庁職員 or 国家公務員ではないわけです。
が、石清水祭のパンフレットなどでは堂々と「私祭」「官祭」という言葉を、大々的に使用。
「まだ戦争は終わってないっていうか (by 電気グルーヴ)」な勢いを感じることしきりですが、
これから始まる奉幣の儀は、戦争どころか平安時代さえまだ終わってないような、
荘厳と雅を極め倒す祭儀が繰り広げられるのであります。
勅祭の勅祭たるパート、官祭のコアブロック、とくと御堪能ください。

続きはこちら »

石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【2】 神幸の儀-絹屋殿の儀

2011年9月15日(木)


石清水祭は、大きく分けて以下の次第で行なわれます。

①神幸の儀 (AM2:00)
 御鳳輦(ごほうれん)に御神霊を乗せ、約500名の神職・楽人・神人と共に山をおりる祭儀。
②絹屋殿の儀 (AM3:40)
 下院頓宮前に設けられた絹屋殿にて、里神楽奉納、そして勅使が頓宮まで案内申し上げる祭儀。
③奉幣の儀 (AM5:30)
 頓宮へ奉遷された御神霊に、天皇陛下より賜る御幣物、そして神饌が奉献される古儀。
④放生会 (AM8:00)
 男山山麓を流れる放生川へ魚鳥を放つと共に、太鼓橋にて童による胡蝶の舞が奉納される祭儀。
⑤還幸の儀 (PM5:00)
 再び御鳳輦に遷された御神霊が、約500名のお供を連れて、山上本殿へ還幸になる祭儀。

このうちからはほぼ、ノンストップ。文字通りの、オールナイト状態。過酷であります。
ちなみに有料参列者しか見れないのは、および。情報が極端に少ないのも、ここです。
なお、今年はに比叡山延暦寺の僧職そして天台座主が出仕され、後に法華三昧法要も厳修。
あと、ハーフタイムとも言えるの間には、頓宮前舞台にて舞楽・演武奉納が行なわれます。

続きはこちら »

石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【1】 イントロダクション

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水祭。
京都の裏鬼門を守護する八幡市の石清水八幡宮に於いて、毎年9月15日に行われる例祭です。
上下賀茂神社の葵祭、そして春日神社の春日祭と並び、
天皇陛下の使者である勅使がじきじきに差し遣わせられる三大勅祭のひとつであります。
別名、南祭。対応する北祭とは何かといえば、もちろん京におけるもうひとつの勅祭・葵祭。
この二つの勅祭、実に対照的だったりします。
白昼の都大路に平安絵巻を現出させ、巨大な観光資産でもある葵祭が「表」の祭りだとすれば、
観光客がアクセス困難な真夜中に、僻地にて行われる石清水祭は、いわば「裏」の祭り。
鞍馬寺のウエサク祭でさえ参拝客に考慮して早めに終了するこの御時世に、
日時変更一切なし、大雨食らいがちな季節なのに雨天順延もなしという、強気過ぎるスタンス。
人間よりも神の都合を最優先して斎行され続けてる祭りなのであります。

しょっちゅう書いてることですが、私は八幡市の住民です。
なので、この石清水祭も何度か見てます。が、肝心の祭儀そのものは見たことありません。
勅使参向の祭儀を見るには、奉賛金を払わなくてはいけないからです。その金額、5000円。
500円ではありません。5000円です。五千円。
普通なら即時撤退の額ですが、しかし今年は思い切って大枚払い、参列してみることにしました。
理由は、石清水祭に関する情報が少ないから。特に、参列の情報がすごく少ない。
単に需要がないからかも知れませんが、それならそれで新たに八幡の魅力を知ってもらいたい。
そんな思いで身銭を切り、見れるものを全て見てきました。
そしてその経験は、私の故郷に対する認識を大きく改めさせられるものでした。
このネタは、ちょっと真面目にやります。真面目かつ、しつこくやります。元出かかってますからね。
まずは前日の宵宮などをイントロダクションとして、お楽しみ下さい。

続きはこちら »

大覚寺の観月の夕べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年9月11日(日)


大覚寺の観月の夕べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

中国より伝わった「観月」が、貴族の間で流行った平安時代。
当時の雅人たちは、中秋の名月を直接見ず、杯や池に月を映して楽しんでたんだとか。
都のはずれにある嵯峨野の苑池など、きっとその格好の舞台であったことでしょう。
平安京を完成させた嵯峨天皇が、この地を仙洞と定め造営した、嵯峨離宮。
離宮の一部として中国の洞庭湖に模して造られたという、日本最古の人工林泉、大沢池。
数々の歌にも詠まれた名勝であるこの池に映った満月を、
オーナーの嵯峨天皇はもちろん、招かれた文人墨客たちもまた、愛でていたに違いありません。
嵯峨天皇崩御の後、皇女・正子内親王の勅願により離宮は門跡寺院・大覚寺となりましたが、
大沢池は驚くべきことに、平安期の宮廷文化華やかなりし頃の形を現在もほぼ、保持。
中秋の名月の時期になるとここで行なわれる「観月の夕べ」もまた、
二隻一対となる龍頭鷁首をあしらった舟を池に浮かべる、王朝時代の雅なるフォーマットを遵守。
平安のまんまの「観月」を、平成の現在において楽しめるのでございます。
雅なのででございます。それゆえ、雅もひったくれもなくなるほど、人が集まるのでございます。
「観月の夕べ」、外から見てると「舟券」は大体すぐ売り切れ。
「混み過ぎて池に落ちた奴がいる」みたいな話も、ちょくちょく聞くことあります。怖い。
しかし、何度も書いてますが、このサイトのモットーはベタスポットの単独正面突破。
中の様子はどうか、その前に果たして舟には乗れるのか、自分を実験台にして確かめてみました。

続きはこちら »

八大神社の鉄扇音頭奉納を観に行ききました。もちろん、ひとりで。

2011年8月31日(水)


八大神社の鉄扇音頭奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、いわゆる盆踊りというものが、ありません。
いや、そんなことはないか。ある、確かにある。町内の盆踊り大会も、あるといえばあります。
しかし、何というか、「京都といえば○○音頭」みたいなのは、ないんですよね。
祇園祭音頭とか、舞妓はん音頭とか、そういうのはあります。西陣音頭もあったかな。
でもそういうのは、まあ、そういうものです。伝統というよりは、昭和のテイストが濃いものです。
民俗的な匂いが残る盆踊りは都市部では見当たらず、滋賀県の江州音頭が妙に浸透してたりして。
若干中心部を離れると、今度はあくまで「魅せる」芸能的な六斎念仏が、一気にメジャー化。
「みんなで、一緒になって、踊る」ということが、あんまりないわけです。
千年単位でこの街に根付く個人主義が、原始的な集団エクスタシーと相性が悪いのか。
7月の祇園祭で全ての祝祭エネルギーを使い果たすため、8月に余力など残ってないのか。
それともやっぱりただただ暑いので、夜であろうと踊る気になどなれないのか。
理由はいくつか妄想できますが、とにかく現状、京都の街中にめぼしい盆踊りはありません。
が、六斎念仏の盛んな旧農村エリアよりさらに外、特に洛北方面へ行くと、
今度は超素朴&超ネイティブな盆踊りが、しっかりと受け継がれてたりします。
鉄扇音頭や題目踊りなど、音頭の原始形態を保ち、念仏の香りが濃厚に漂う音頭の数々。
8月の末に八大神社で行なわれる鉄扇音頭奉納も、そんな音頭のひとつなのです。

続きはこちら »

梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月28日(日)


梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

梅宮大社。祭神は名前の通り、梅宮辰夫です。もちろん、嘘です。
本当の祭神は、本殿に酒解神・大山祇神をはじめとする、四柱。
相殿には、平安京を完成させたといわれる嵯峨天皇と、その后である橘嘉智子ら、四柱。
橘氏の氏神として山城国相楽郡に創建されましたが、遷都に伴い現在地の梅津へ移転。
一門から皇族に嫁いだ橘嘉智子が、この神社に祈願+仁明天皇を懐妊したことは有名であり、
「梅」という言葉の響きもあってか、子授け・安産の神としても崇拝されてます。
そんな梅宮大社の夏の大きなお祭りが、嵯峨天皇祭。
浅からぬ縁があることを反映して、嵯峨天皇の命日8/28に近い8月最終日曜に、祭礼を開催。
といっても、雅かつ堅苦しいものではなく、午前中には小学生らによる奉納相撲、
午後らは参道に露店が並び、夜には盆踊りも完備の、地元密着系のアーシーな祭りであります。
で、何といってもこの祭りの目玉は、梅津六斎保存会による奉納公演。
現在でこそ郊外住宅地の梅津ですが、昭和に入って高度成長期に至るまではずっと、農村。
京都の都市郊外の他の農村と同じく、ここでも大いに六斎念仏は隆盛したといいます。
中断や再興を経ながらも、その精神は現在の講中にもたっぷりと受け継がれ、
トップ画像を見てもらえば一発でお分かりの通り、六斎ならではのディープさを放っているのです。

続きはこちら »

化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月24日(水)


化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

化野。平仮名にすると、あだしの。
お好きな方はとっても大好き、「化」の字からしてその手のオーラを放つエリアであります。
もともとは鳥辺野・蓮台野などと共に、平安時代の都の葬地であり、
当時はキレイに葬ってもらえる死人なんてほとんどいませんから、一帯には放置された死体が散乱。
その有様をあまりにあんまりだと思った弘法大師・空海が、「埋めたら?」と、土葬をサジェスト。
そして時を経て、法然上人が、この地に念仏道場をビルド。現在の化野念仏寺の始まりです。
土葬が一般化したのはいいですが、埋めたところで何百年も経てば、みんな素性不明の石化&骨化。
明治の中頃には、周辺から出土した由来不明の石塊や石仏は8000にも及び、
それらは化野念仏寺境内の「西院の河原」に無縁仏として結集、供養されるようになりました。
お盆にこの寺で行なわれる千灯供養は、その無縁仏に蝋燭の灯りを奉納する供養。
「京都のお盆」といえば、高い確率でこの仏事が取り上げられる、人気(?)イベントであります。
で、愛宕古道街道灯しは、嵯峨野保勝会が千灯供養に連携して開催する、ライトアップのイベント。
清涼寺から愛宕神社一の鳥居までの古道を、手作りの行灯各種で楽しませてくれるというものです。
7月の借りを返すようなとんでもない猛暑の中、鳥居本の坂を登るのは極めて億劫ですが、
「無縁仏」のオーラにわけのわからん吸引力を感じ、出かけてみました。

続きはこちら »

阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月23日(火)


阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

現在は寺社で奉納や公演が行なわれることが多い六斎念仏ですが、
かつては地域の家を演奏して回る「棚経」 or 「勧善廻り」も、大々的に行なわれてたそうです。
演奏してもらった家はいわゆる「お布施」みたいなものを渡すわけで、
演舞を披露する喜びのみならず、講中にとっては良い現金収入の機会でもあったんでしょう。
こちらの嵯峨野六斎念仏も、青年団主体で活動してた戦前期は盛んに「棚経」を行なってたようで、
近隣の家々を回るのみならず、台八車に六斎道具を積み込んで、30人以上で洛中へも進出。
懇意にしてる大家を回ったり、あるいは祇園などの色街でも演奏することがあったとか。
この「棚経」、現在はなくなったかといえば、そんなことはありません。
中堂寺や千本、そして嵯峨野などいくつかの講中で、バリバリに敢行中です。
家で、六斎。観てみたい。でも、他人の家へ上がりこむわけにもいかんしな。でも、観てみたい。
中堂寺に親戚はいるけど、結婚式で泥酔してるのを怒って以来、疎遠だしな。でも、観てみたい。
そんな気持ちに応えてくれそうなのが、嵯峨野六斎の阿弥陀寺奉納であります。
阿弥陀寺、名前からして完全に寺ですが、建物は限りなく民家に近し。
天井の低さに冷や冷やしながら観る六斎は、きっと「棚経」に近いテイストが醸し出されてるはずです。

続きはこちら »