2011年8月13日(土)

東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
全盛期には邦画の実に6割を生産していたという、映画の街・太秦。
そこら中に旧跡が残り、そこら中に着物屋が溢れ、そこら中に職人が住んでいる京都は、
時代劇にとっては正に、聖地。この地独特の職人気質もまた、映画制作に強い親和性を発揮。
当初は関東大震災から疎開してきただけの撮影所も、どんどん太秦に定着&増殖し、
「日本のハリウッド」と呼ばれるほどの製作本数を誇るのみならず、
大映の『羅生門』『雨月物語』などでは、技術面・芸術面でも国際的な評価も獲得しました。
が、テレビの登場により、昭和30年代をピークとして映画産業は一気に、斜陽化。
ひたすら映画だけで食ってきた太秦の多くの撮影所は、苦境に立たされることになります。
ラッパから札束バラまいて見境なき作品クオリティを実現していた大映が、先頭切って倒産。
他社もスタジオを東京へひき上げ、東映撮影所のオープンセットもまた、なかば廃墟化。
生き残り策を模索した撮影所の従業員が思いついたのは、そのオープンセットの公開でした。
映画製作の裏側を、製作してる現場そのものを、そのまま見せる。
このスタイルで、1975年に東映太秦映画村は「開村」。日本初のテーマパークが誕生した瞬間です。
食える程度に稼ぎが出てくれたらという期待に反し、映画村は大当たり。
以後、京都の新たな文化観光資産として、現在に至るまで高い人気を維持し続けています。
ナイターまつりは、そんな映画村がお盆の時期に行なう催し。1998年から始まりました。
普段は夕方で閉まる村をライトアップして公開、
入園時間は短くなりますが、そのぶん料金が安くなるのも、お得なイベントです。
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2011年8月12日(金)

京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京の七夕。ざっくり言えば、夏季閑散期の客寄せイベントです。
集客の華・祇園祭が終わり、8月に入ると、京都は観光客が減ります。理由は、暑いから。
暑いだけなら海水浴場も同じですが、京都の盆地性の暑さというのは、何というか、体に悪い。
「北欧から来た留学生が、暑過ぎて死んだ」という噂がまことしやかに囁かれるくらい、
独特のバッドな内蔵侵食感および神経破壊感が、暑さに伴います。
京都の観光スポットの大半は昼間に見るもんですから、そんな暑さの中での観光はもはや、苦行。
「こんな季節に京都へ来るのは、やめときなはれ」と考えるのが普通の人ですが、
「こんな季節でも京都に来て欲しい、体が壊れても」みたいなことを考える方もいらっしゃるようで、
ほんのちょっとだけ暑さがマシになる夜間を狙って、イベントを新規立ち上げ。
旧暦の七夕と夏季閑散期がカブってるのに目をつけ、鴨川と堀川の2会場で電飾を灯し、
市民に書かせた短冊を飾り、なんとか観光促進を計るというのが、京の七夕であります。
去年の2010年度から始まり、まずまずの成果を残したそうですが、
「祈り」や「願い」、そして何より電気の意味が全く変わってしまった今年は、どうなんでしょう。
そんなことを考えたり、考えなかったりしながら、堀川会場へと足を運びました。
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2011年8月12日(金)

北野商店街の糸源へ、鱧を食べに行って来ました。もちろん、ひとりで。
京都の夏といえば、鱧。
というわけで、ひとりで鱧が味わえる店を探し求めるこの企画、遂に上京区へ進出です。
こちらの糸源は、かつてN電が走っていた北野商店街にある、料理屋。
N電というのは、知ってる人は知ってるでしょうが、知らない人は知らないでしょうから説明すると、
明治に京都電気鉄道・通称京電が開通させた、北野天満宮と京都駅を結ぶ路面電車です。
同時期に敷設された路線の多くが市電化されて広軌となったのに対し、
唯一狭軌(Narrow Gauge)のまま残った路線。N電の「N」は、もちろん「Narrow」の「N」。
明治のままな車輌が京の街並を走る往時の姿は、廃止からちょうど半世紀経った現在も人気が高く、
「せめてN電だけでも残ってたら、いい観光資源になったのに」と、悔やむ声も多し。
時の変遷を経て、一応「廃線跡」である堀川通は景観そのものさえ大きく変貌しまくってますが、
この北野商店街のあたりにはまだ微妙に「鉄」の匂いが残っている気がします。
特に、七本末中立売から天神さんまでのカーブとか。何か実に「廃線跡」っぽいなあ、と。
元々このあたりは北野の下の森と呼ばれる北野社の境内だったそうで、
まず鉄道が敷かれ、それにつれて道が出来、商店街が形成されたんだとか。
鉄に先導され街が出来ると、廃線後も動線とかから鉄の匂いが漂うもんなんでしょうか。
と、とりとめのない話は置いといて、糸源です。鱧です。鱧しゃぶです。
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2011年8月10日(水)

六道まいり、続きです。いや、これからが六道珍皇寺へ向かう本番ですが。
地獄絵と九想図で脳内を地獄の色彩で染められ西福寺を出ると、
ちょうど六波羅蜜寺の萬燈会の時間。なので、六道さんの前にそちらへ寄ることにしました。
六波羅蜜寺。もちろん、空也上人が小人を吐いてる例のあれで有名な寺です。
萬燈会はその空也が発祥、七難即滅・七福即生を祈願して灯りをともし、精霊を迎えるというもの。
小さいですが「大」の字で火を焚くので、五山の送り火と関係あるのかもしれん行事であります。
そのあとで行った今夜の本丸・六道珍皇寺は、言うまでもなく、かの小野篁ゆかりの寺。
昼は官僚&夜は魔界と、「この世」と「あの世」を往復して働きまくった奇人・小野篁。
普段はそんな小野篁が好きそうな方々が、「あの世」へ通じる井戸を見に来る静かな寺ですが、
六道まいりの期間中は、御先祖様を迎えに来た善男善女で深夜まで大繁盛&超ディープ化。
「六道の辻」にまつわる伝承が、そのまま現代に現出したかのような、民俗感爆裂状態となります。
大量の人間と、大量の人間以外のもので形成される、混雑。
「この世」と「あの世」の乗り換えターミナルのような、混雑。
濃過ぎます。あまりにも、濃過ぎます。夜なので余計に、見境なく、濃過ぎます。
そんな「濃い」二寺、めぐってきました。現場の「空気の濃さ」を感じてもらえたら、幸いです。
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2011年8月10日(水)

六道まいりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
六道まいり。
東山区・六波羅にある六道珍皇寺にて行なわれる、いわゆる精霊迎えの行事であります。
かつては京都の東の葬地であり、現在も大谷宗廟など多くの墓地が存在し、
山の向こうへ行けば京都市中央火葬場が今日も元気に稼動中という、東山・鳥辺野一帯。
六原の地は、この鳥辺野の入り口にあたります。いわば、この世とあの世のボーダー領域。
このことから、衆生が死後に必ず赴く「六界」のゲート「六道の辻」の名を、誘引。
さらに、現世と冥界を股にかける平安時代のダブルワーカー・小野篁の伝説とも、リンク。
京都は何故か、特定の寺へ先祖霊を迎えに行くという習慣を持ち、
千本閻魔堂やかつての化野・福正寺など、いくつか「精霊ステーション」みたいなとこがありますが、
精霊迎えで最も高い知名度と集客力を誇るのは、ここ六波羅の六道まいりです。
六道まいり、やっているのは六道珍皇寺ですが、近所の寺も連携して各種霊的行事を開催。
中でも、本物の「六道の辻」に立ち、「轆轤(ロクロ = 髑髏」町なる住所を持つ西福寺では、
この期間限定で「死後の世界」をハードコアに絵解きした「六道十界図」を開帳しています。
本丸たる六道珍皇寺へ赴く前に、まずはそちらを拝むことにしました。
あ、ちなみにこの西福寺という名前、あの有名な東福寺と対応してるわけではありません。
というか、多分この寺、東福寺より東にあると思います。あしからず。
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2011年8月9日(火)

壬生寺の六斎念仏を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。
壬生寺で民俗芸能といえば、真っ先に思い浮かぶのは、壬生狂言。
ですが、壬生狂言保存会とは別に、六斎念仏の保存会も存在し、活発に活動をしています。
もともとは六斎日に念仏を修する信仰行事だったものが、
町人文化の開花した江戸中期の京都に於いて急激に芸能化して現在の形になった、六斎念仏。
芸の基本こそ鉦と太鼓に置きながらも、先端の芸能が集約される京都にあっては、
当時流行していた長唄や地唄、歌舞伎の曲や振りなどに影響受けまくり&貪欲に取り入れまくり。
民衆の人気は果てしなくあがり、幕末の頃には狂言をとりこむ講中まで現われたといいます。
壬生狂言のホーム・壬生寺の壬生六斎も、狂言の『土蜘蛛』をしっかり六斎へ移入。
祇園祭の綾傘鉾に奉仕してきた伝統から、棒振も六斎化して「祇園囃子」の入れ事として導入。
また、「獅子舞を土蜘蛛と絡ませる」という、現在の六斎の王道展開は、
壬生六斎が伊勢太神楽から移入したのではないかとも言われてます。
そんな壬生六斎がホームグラウンドで奉納されるのが、万灯会の最初の夜・精霊迎え火。
ステージは、本堂前の特設舞台。バックには、千に近い数の壁のごとき行灯、そして千体仏塔。
ほとんど異次元状態の舞台を背に、圧巻のパフォーマンスが展開されました。
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2011年8月7日(日)

第42回鴨川納涼へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
鴨川。それはいくつかの「不思議」を持った川。
まずは言わずと知れた、カップルが何故か等距離で川辺に座るという「不思議」。
それに、「加茂川」 or 「鴨川」と、ニアイコールな表記が入り混じるという「不思議」。
そして、そんな鴨川に関する数多の言説が、七条以南については急激に減少するという「不思議」。
加茂川と高野川の合流点である出町柳の「鴨川デルタ」が最近人気を呼んでるようですが、
それなら、かつてあの高瀬川が鴨川と平面交差していた「十条クロッシング」なんかにも、
もっとスポットが当たってもいいんじゃないかと思うんですが、あなた、どう思いますか。
それはともかく、いろんな意味で京都のシンボルであるそんな鴨川において、
夏の真っ盛りに行なわれる市民主体の夏祭りが、鴨川納涼。
例年、県人会の方によるB級グルメグランプリの如き出店と、昭和臭あふれる出し物が、
川岸に色を添えてましたが、去年からはそこに「京の七夕」なる電飾客引きイベントも、乱入。
カップルたちが蛾のように吸い寄せられるきらびやかなイルミネーションと、
各屋台の鉄板から放たれる油煙、そしてハワイアンや南京玉すだれのサウンドなどが入り混じる、
極めて特殊な空間が現出されるようになりました。
そんな鴨川納涼、今までは「君子危うきに近寄らず」で左岸から眺めるのみでしたが、
このサイトのモットーはあくまで単独正面突破、今年は意を決して右岸へ飛び込んでみました。
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2011年8月7日(日)

清水寺での盂蘭盆会・六斉念仏奉納へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
盂蘭盆会。平仮名だと、うらぼんえ。いわゆる、お盆のことであります。
なのにトップ画像は、イカついお面の方が刀を構えてて、物騒この上ないのは、何故。
それにそもそも、清水寺って念仏の寺だったっけ。
そう思っていただけると嬉しいんですが、これはいわゆる京都の六斎念仏であります。
元来は殺生禁断や謹慎を定めた「六斎日」に、念仏を修するところから始まった、六斎念仏。
それが時代を経て踊り念仏へ変容し、さらに「見せる」ことを意識し始めて、芸能化。
京都は最先端の芸能が集結する場でしたから、一旦芸能化するとその流れは止まらず、
長唄・地唄・歌舞伎などを貪欲に吸収、あげくセリフ付きの狂言まで取り入れてしまったという、
特殊過ぎる発展をした民俗芸能というか、信仰行事というか、まあそんなんであります。
現在も市内のあちこちに保存会があり、お盆を中心に奉納演舞を行なってますが、
「清水の舞台」を文字通りの桧舞台とした、こちらの清水寺盂蘭盆会奉納も、そのひとつ。
この舞台での奉納は、かつて六斎の最高の栄誉だったそうで、それを平成十年に復活。
中堂寺六斎会が、牛若丸と弁慶の対決を描いた『橋弁慶』を上演することでも知られます。
そう、トップ画像のイカついマスクマンは、弁慶なのです。
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2011年8月6日(土)

伏見万灯流しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
伏見の街に漂う、「死」の匂い。
とか言うと伏見の人に怒られそうですが、でも、夜の伏見に濃厚なる何かを感じることは、否めません。
特に、京町通とか。京町通から、ビデオ1観月橋店へ行くあたりとか。
不埒な物件をカバンに抱え、不穏な闇に怖気つきながら、あの辺を歩く方も多いのではないかと。
洛内にも同様の「匂い」はありますが、ここのはテイストが違うというか、もっともっと、生々しい。
その生々しさは、きっと、鳥羽伏見の戦いに由来するものでもあるんでしょう。
鳥羽伏見の戦い。明治元年に、新政府軍と旧幕府軍が洛南でまき起こした、内戦。
鳥羽、そしてここ伏見、さらには私の地元の八幡までを戦場とした市街戦が繰り広げられました。
戦争やってる当事者はもちろんバンバカ死んだわけですが、一帯の建物も燃えまくり、焼けまくり。
はっきり言って、迷惑です。戦争当時、私は生まれてませんが、結構、迷惑です。
かつて壮麗を極めたという石清水八幡宮山麓の高良神社・頓宮などは、この戦乱で焼けました。
後の神仏分離により目ぼしい伽藍が破却の憂き目に合う八幡さんにあって、
これらの山麓の建物は後世、良い観光資源になってくれたはずです。ああ、もったいない。
「戦争なら、よそでやれ」という感情は、幕末維新に戦災を蒙ったエリアに共通してるのか、
鳥羽伏見の戦いの戦没者を慰霊するこの「伏見万灯流し」も、始まったのは、2004年。
実に戦後140年を経て、やっとこさ、市民からも慰霊してもらえるようになったのであります。
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2011年8月5日(金)

醍醐寺の万灯会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
醍醐寺。
名前の通り、醍醐にある寺です。そして、醍醐味のある世界遺産であります。
「千年の都」とか言いながら、実は千年前の建物は全然ない京都にあって、
正真正銘の平安時代建築にして、京都府最古の木造建築である国宝・五重塔を保持。
また、面積200万坪以上、醍醐山がまるごと境内という無茶苦茶な広大さを誇り、
その広大さと実に山らしい山の立地条件ゆえ、長く修験道の法頭でもありました。
もちろん、春の桜の見事さ+豊太閤花見行列の豪華絢爛さでも、極めて有名であります。
そんな醍醐寺、私も一度は行きたいと思いながら、今まで行ったことがありません。
本気で山上の上醍醐まで行くと、登山になってしまうので面倒だというのもありますが、
何というか、地下鉄開通前に染み付いた頭の中の距離感では、遠いんですよね、醍醐って。
市営地下鉄醍醐駅の開業は、1997年。それまではこの辺、鉄道は一切ありませんでした。
今なお駅のひとつもない洛西ニュータウンと共に「陸の孤島」とか言われてたんですが、
醍醐に住む親戚を訪ねてたその頃の記憶が、まだ脳にしみついてるんですよ。
もちろん、今は便利になってます。だから、行きました。駅からは結構、歩かされましたけど。
万灯会は、毎年8月5日の夜に醍醐寺が全山で営なむ、法要。
山麓の下醍醐では金堂や五重塔がライトアップされ、各種法要を厳修。上醍醐では、夜まいり。
何より、普段は見るのにお金のかかる伽藍が、無料公開されるのが嬉しい夜であります。
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2011年8月5日(金)

今熊野の魚市へ鱧を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。
『ひとりで食べる鱧』、復活です。
己の財政状態を省みず鱧を食い始め、わずか2回で予算爆発&中断したこの企画ですが、
絶食してみたり、命の次に大事な動画を消してHD購入を先送りしたりすることで、奇跡の予算確保。
想定枠も5000円から3000~4000円に修正して、何とか再開にこぎつけました。
実は中断してる間、鱧ネタを続けるために「ひとりで作って食べる鱧」なんてことを試してたんですよ。
スーパーで生鱧を購入し、おとし・天ぷら・出汁・鱧寿司を見よう見まねで作り、食す、みたいな。
結果はそれはもう恐ろしいこととなり、ちょっと詳述出来ないような臭気が家に満ちたんですが、
しかしその際、鱧の生頭に直接触れる経験を持てたのは、ちょっとした収穫でした。
出汁をとるため、炙ってから肉を落として洗ってる時に感じた、あの不思議な感触。
子犬の頭骸骨を撫でてるような禽獣感と、今にも噛み付いてきそうな鋭い口先との、ギャップ。
「確かにこいつはパワー、あるな」と無条件で納得させられる何かがありました。
鱧のラディカルな魅力、食材以前の生物としての魅力とでもいいましょうか。
で、鱧のそんな魅力にとりつかれてるような気がするのが、こちらのはも料理・魚市。
鱧のレントゲン写真を展示してることで有名な店です。そう、レントゲン。骨でも拓でもなく、レントゲン。
鱧には、思わずそんなことをしてみたくなる何かがあるということなのです。
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2011年8月3日(水)

伏見桃山のラーメン店・大中へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
大中!!ああ、大中!!!
美味くてしょうがない = 小がない = 大中小の小を取って大中!!!万歳!!!!
と、思わず正気を失いましたが、大中の話になると同じ状態に陥る方は多いんじゃないでしょうか。
異常な値段の安さ、異常なオーダーの自在さ、そして異常な中毒性を呼ぶ味で、
伏見住民に止まらず各地から熱狂的なファンを呼び寄せる、伏見ラーメンの名店・大中。
八幡市民の私も、その魅力にとりつかれて以来、ここのラーメンを食うためだけに、
京阪途中下車・近鉄と桃山乗り換え・JR桃山から歩き過ぎ乗り換えなどを、やらかしてきました。
大中、美味いといっても正直、いわゆる高級志向や本物志向みたいなのでは、ありません。
また、背脂醤油や新福系など、京都ラーメン伝統の味を守ってるというわけでも、ありません。
ぶっちゃけ、ジャンクです。ラーメン好きの間で様々な伝説が流れるくらい、ジャンクです。
しかし、ラーメン快楽中枢みたいのだけは恐ろしく正確に突いてくるというか、
「ああ、ラーメン食った」という満足感だけは、最高レベルで満たしてくれる店なのです。
文句を言い出したらいくらでも出てくるけど、それを越える何かがある。いや、あり過ぎる。
ほとんどソウルフード領域の味。それが、大中。
伏見へ立ち寄ったなら、ここのラーメンを食わずに帰るわけにはいけません。
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2011年8月3日(水)

伏見十石舟と、酒蔵通り伏見灯ろうのライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
伏見。
海が無い都・京都にあって、江戸期、港の役割を担った元・港町です。
現在は干拓された巨大湖・巨椋池、それと一体化したほとんど宇治川に面し、
京都へは高瀬川、大阪および瀬戸内海には淀川で繋がってた、水上交通の一大ターミナル・伏見港。
半分以上発狂して明征服を目指した秀吉が、伏見城を築城したことで城下町として整備され、
江戸時代に入ると、伏見城はぶっ潰されたものの、京阪間の経済都市として発展。
明治維新に至るまで、十石舟・三十石舟・伏見舟などが川の上を活発に往来してたわけですが、
しかし幕末、ややこしい奴らが現れ、血ぃパッパ。さらに、鳥羽伏見の戦いにより市街地、全焼。
命の綱の舟運も、京阪間に省線の鉄道(現在の東海道本線)が開通したことで、大打撃。
明治末までは蒸気船を走らせて頑張りましたが、おけいはんが伏見経由で開通して、絶滅。
「不死身」の街として起死回生をはかる伏見は、「伏見の酒」で知られる酒造で盛り返します。
また、陸軍演習場も誘致。鉄っちゃんご存知の無橋脚トラス橋「澱川橋梁」なんかも、誕生。
現在では京都・大阪・奈良へのアクセシビリティが活き、市内有数の人口増加率を誇示、
「港町」としての顔は、すっかり過去のものとなりました。
が、風情は今でもあちこちに残っていて、その代表格が、街の川を走る観光舟・伏見十石舟。
そして、その風情を酒蔵のビジュアルと共に夜も楽しもうと言うのが、
夏季恒例・十石舟の夕涼みライトアップ運行と、酒蔵通り伏見灯ろうライトアップであります。
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2011年7月30日(土)

木津川市夏祭りの花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の中心部では、いわゆる「花火大会」というのは、行なわれません。
安全を確保するのが困難だからで、おおむね府下、大河川の流域での開催となります。
まず、宇治。そして、男前豆腐の八木。あと、亀岡。さらには府の北部。そんなところでしょうか。
本当は、隣の滋賀県でやる「びわ湖大花火大会」が、アクセスも良く一番人気なんですが、
そのことは京都の公然の秘密。断じて、表沙汰にすることはできません。
そんな花火貧民である京都の民にとって、新たな救世主となってくれそうなのが、木津川市夏祭り。
木津川市。京都府の南端、奈良県と接するところにある自治体です。
昔は木津町というのどかな町でしたが、合併と急激な人口増により、2007年に市制へ移行。
市内を流れる木津川をアイデンティファイした市名を採用し、活況めざましい市であります。
京都市内中心部からはかなりの距離がありますが、奈良市街には案外と間近。
そして何より、JR大和路線の新快速によって大阪へのアクセスが飛躍的に向上。
新快速が進入する加茂あたりまでを含め、新たな都市近郊としての顔を確固たるものにしてます。
そんな上り調子の木津川市がブチ上げるのが、木津川市夏祭り。
そして、祭りのみならずブチ上げてしまうのが、花火なのです。
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2011年7月28日(木)

祇園祭の神輿洗式へまた行ってきました。もちろん、ひとりで。
神輿洗式。10日にも同じ神事がありましたが、基本、内容も同じです。
主祭神・素盞嗚尊が乗る中御座の神輿が、四条大橋まで出向き、神水を浴びて清められるという。
10日のは「祭りの準備」としてのお清めでしたが、28日の今回は言わば「仕舞い」。
この儀式終了後、三基の神輿は境内の神輿庫へ入り、来年の夏までお休みです。
まだちょこちょこ神事各種は残ってますが、祇園祭の締めに近い行事ではないでしょうか。
ところでこの神輿洗、実は神輿を洗ってるのでなく、鴨川の神を送迎してるという考え方があります。
荒くれ川・鴨川の神を祇園祭へ招き、機嫌をとり、何とか夏の「荒れ」を回避しようという。
確かに、四条大橋の上で執り行われる儀式は、榊で鴨川の水をチャッチャとかけるだけ。
「洗う」感じにはちょっと、見えません。でも「神様を遷してる」なら、見えなくもありません。
鴨川の夏の風物詩・川床も、この「鴨川の神」の「お出かけ」に由来するといいます。
神様が留守だ、と。なら、多少宴席を設けても構わんだろう、と。で、川床が生まれた、と。
実際、江戸時代の川床は、前と後の神輿洗の間だけの超期間限定営業だったそうです。
「なら現在の川床は神の・・・」とかいらんことを言いたくなりますが、とにかく神輿洗であります。
10日とは違い、お迎え提灯の行列がない分、シンプルに神事を見れる、28日の神輿洗。
祭りの終わりの気分を感じながら、ご覧下さい。
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東山区,
★★★★,
夏も、ひとり,
下京区,
夜も、ひとり,
中京区,
ひとりで京都の三大祭,
ひとりで燃える京都の火祭,
拝観無料,
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御霊会,
八坂神社,
神輿,
祇園 |
2011年7月24日(日)

祇園祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
還幸祭。祇園祭であっても、還幸祭は還幸祭であります。
御旅所に着御していた神輿が神社へ還る、いわゆる文字通りの還幸祭であります。
で、山鉾巡行を中心に観光化された祇園祭にあって、正直、かなり地味な扱いの神事であります。
西楼門前の差し上げに人気のある神幸祭は、メディアなどでも大きく取り上げられる昨今ですが、
還幸祭はその数分の一の扱いだったり、あるいは数行のフォローだったりします。
しかし、山鉾が主役化する室町時代以前は、この還幸祭こそが「祇園会」と呼ばれてたそうです。
神幸祭の呼び名が「神輿迎」、還幸祭は「祇園会」あるいは「祇園御霊会」。
後白河院をはじめ多くの貴顕が三条通の桟敷で還幸を見物し、着飾った騎馬の童・馬長を寄進。
この「御霊会の馬長」は、清少納言の枕草子で「心地よげなるもの」として挙げられたりもしてます。
が、後白河院が「もう金、ない。お前ら、出せ」と、洛内の有力町衆「潤屋の賎民」に命じて以降、
祇園祭は町衆主体の「民営化路線」を突っ走り、山鉾町は数百年に渡って祭を継続・発展・巨大化。
現代に入り、山鉾巡行が一本化で更なる観光化を推し進めると、宵山とのペアで一人勝ちが確定。
還幸祭は、今や、ガイドブック等に載らないようにさえなりました。
しかし還幸祭、神事としての重要性は今も変わっていません。それがわかるのが、神輿の巡行ルート。
神幸祭より距離的が圧倒的に長いです。長くなるのは、三条御供所と神泉苑へ出向くため。
祇園祭のルーツである御霊会が催された神泉苑、その神泉苑の池の汀だったという三条御供所。
共に、祇園祭発祥の地であり、「千年以上続く祭り」を文字通りの形で確認できる場でもあります。
数キロという本当に長大な巡行であり、おまけに3基の神輿がバラバラのルートを進むので、
全部のフォローは諦め、神宝奉持列の冒頭と中御座を追っかけてみました。
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2011年7月24日(日)

祇園祭の花傘巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
花傘巡行。山鉾巡行の「あとのまつり」の名残ともいえる神事です。
かつて山鉾巡行は、「さきのまつり」と「あとのまつり」の2回、行われてました。
「さきのまつり」は17日、神幸祭の露払いとして。「あとのまつりは24日、還幸祭の露払いとして。
山鉾が神輿に代って祇園祭の主役になってからも、本来の意義を失うことなく続いてたわけです。
その伝統に変化が起こったのが、昭和の中頃。マイカーが走るようになる高度成長期の頃。
市内交通が麻痺する日を一日でも減らしたい、ついでに観光客を集中的に呼び込みたい、
京都市はそんな思惑を抱き、「さきのまつり」と「あとのまつり」の統合、合同巡行を提案。
祇園祭の神事としての側面により重きを置く八坂神社は、この案に反対しましたが、
実際に巡行を担う山鉾町からは「2週もやってたら、商売やりにくてかなわんわ」という声も多く、
昭和41年、山鉾巡行は17日に一本化。千年以上続いた「あとのまつり」は、途絶しました。
「あとのまつり」の意義を遺したい神社側は、24日に何らかの神事を行なうことを発案。
どうせならと山鉾の原型・花傘を復活させ、各種芸能行事も盛り込み、花傘巡行はスタートしました。
巨大な鉾などは出ませんが、織物業者や花街がメインで参加するため、行列の華やかさは随一。
巫女さんのような神饌行列、芸舞妓はん、鷺踊、万灯踊、そして「きものの女王」に花傘娘と、
ほとんど女人禁制の山鉾巡行とは対照的に、女性が大量動員される神事なのであります。
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下京区,
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夏も、ひとり,
★★★,
中京区,
舞妓はん芸妓はん,
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拝観無料,
超メジャー級,
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御霊会,
祇園 |
2011年7月21日(木)

下鴨神社の御手洗祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
御手洗池。
「おてあらいいけ」とは読みません。「みたらしいけ」です。一応。
世界遺産・下鴨神社の奥の方にある、名前の通りにもっぱらお清めを本業とする聖水です。
雛祭の雛飾りを流す禊や、葵祭の斎王代が行なう禊など、メジャーな神事でも名高いですが、
「みたらし」と聞いて誰もが思い浮かべる「みたらし団子」の発祥の地でもあります。
土用の丑の頃になるとこの池、地下から溢れ出す水の量が増えて、水泡を発生させるそうです。
その泡を模して、ちっちゃい団子が連なる「みたらし団子」は生まれたんだとか。
いや、本当です。多分、本当です。加茂みたらし茶屋がそう言ってるんだから、きっと本当です。
その土用の丑の日を中心にして開かれる御手洗祭は、
御手洗池の前に鎮座して、お祓いの神様である瀬織津比売命を祀る末社・井上社の、例祭。
読んで字の如く手を洗いまくる祭り、ではありません。足を洗いまくる祭りです。
ちょっと前の蛍茶会では蛍つかみ取り大会が発生してた御手洗池へ、今夜は人間を大放流。
善男善女が聖水に足を浸し、悪いところを水に流すわけであります。別名、足つけ神事。
平安貴族の清めの行事に由来する、いわゆる「千年の時を越え」た神事ですが、
どっちかといえば「千年の時を越え」て盆地の蒸し暑さに苦しむ京の民が、
「暑いから水につかりたい」と思ったのが由来じゃないかとも思える、結構庶民的な神事です。
率直なニーズに応えてる分、現代でも参拝者は多数。
神社側も、土用の丑の日を中心にした4日間、昼夜を問わず参拝に対応してます。
で、その初日の夜に、私も水につかりに行きました。
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2011年7月21日(木)

五智山蓮華寺のきゅうり封じへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
きゅうり封じ。それは、弘法大師が京の都に遺した、秘法。
恐ろしい呪術には事欠かない京都の中でもダントツの法力を持ち、
あまりにシャレにならぬゆえ、メジャーなメディアでもカルトなメディアでもその扱いは極めて、希少。
今だ全貌さえ明らかになってないそのきゅうり封じへ、私は単身乗り込んだ・・・というのは大嘘です。
もらったパンフに「土用丑の日は年一回の秘法厳修の日」などと書かれてたので、
狂った反応をしてしまいました。鰻を食う勢いで「秘法厳修」するギャップ感が、たまりません。
実際のきゅうり封じは 「きゅうりに願かけて、悪いところを持ってってもらう」 というもんです。
病苦・悪行の根から逃れ、長生き&安楽往生できるよう、大師が秘法を残してくれた、という。
「だけど、何できゅうり?」と思うんですが、一説によると空海、きゅうりが嫌いだったそうです。
人形とか使えばいかにも「秘法」っぽいですが、そこを、きゅうり。それも、自分が嫌いな、きゅうり。
千年の時を超えて空海の素顔がダイレクトに感じられるような由緒であり、
ゆえに、千年の時を超えて人々からの信仰を集め続けている行事であります。
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2011年7月17日(日)

祇園祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「祇園祭は山鉾巡行だけではない」。
こんな物言いも、最近ではすっかり馴染のものとなりました。でもないでしょうか。
神事や行事やイベントなどが、7月1日から31日まで延々と続く、祇園祭。
中には宵山のように山鉾巡行の倍以上の客を動員するイベントもありますが、
「山鉾巡行だけではない」という言葉を最も言葉通りの意味で体現してるのは、
山鉾巡行当日の夜に行われるこの神幸祭をおいて他にはないでしょう。
神幸祭。文字通り、神幸祭です。神がおいでになる、神幸祭です。
神の御霊を遷した神輿が、神社を出て氏子の町内を巡幸してから御旅所へ入る、神幸祭です。
祇園祭の神幸祭も、当然そういう形で行われます。神輿が舁かれ、町内を巡幸します。
超ド派手な山鉾巡行と比べたら、極めてオーソドックスなスタイルの神事と言えるでしょう。
が、やることはオーソドックスでも、やる場所はオーソドックスではありません。
八坂神社は、祇園の真ん中に立つ神社。というか、神社の周りに祇園ができたんですが。
近所にはお膝元の祇園はもちろん、木屋町、先斗町、河原町、寺町と、京都の歓楽街が揃い踏み。
神幸祭の巡行は、氏子区域の東側にあたるそんな歓楽街をメインに行われます。
色っぽい街に神様がおいでになり、伝統・信仰・奉仕・疲労・享楽・景観破壊・無関心などなど、
その全てを祝祭の中でひとつにする、本当の祇園祭が始まるのです。
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