2013年5月5日(日)

上賀茂神社の賀茂競馬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
Godspeed You 。ゴッドスピード・ユー。
「あなたの成功を祈ります」 「幸運を祈ります」 みたいな意味のフレーズです。
が、語尾に 「Black Emperor」 と付けると、暴走族映画のタイトルに化けてしまう通り、
日本ではその筋の嗜好と思考を持つ方々から重用され、高い認知度を誇る慣用句であります。
「God」 + 「speed」 。故に、 「神速」 。DQN的なセンス溢れる誤訳とは言えるでしょう。
しかし、それが本当に単なる誤訳、脊髄反射レベルの誤訳に過ぎないとは、私は思いません。
むしろ 「Godspeed」 という言葉の深層には、神とスピードの間にある親和性が潜むと考えます。
「宇宙で神に遭遇した」 とか言い出し、後には教団へ入ったりした、どっかの宇宙飛行士。
「S字で神を見た」 とか言い出し、後には自分も天高く昇天してしまった、どっかの音速の貴公子。
現代であっても、死と隣り合わせの速度の中にいる人たちは、何かと神を感じがちです。
モータリゼーション皆無時代の人々なら、その親和性に一層、敏感だったのではないでしょうか。
多くの神社で行われる、馬の奉納。または、競馬等の形式で行われる、馬の速度そのものの奉納。
それらの伝承は、私たちに 「Godspeed」 的なる何かを、力強く語りかけてる気がします。
神は、スピードである。スピードは、神である。そんなこと、感じたことはありませんか。
と、別の意味のスピードが好きな人が聞いたら、瞬間冷凍で大喜びそうな与太話はともかく、
京都の神社で馬が爆走するといえば、競馬の神様・藤森神社の駆馬神事が、あまりにも有名です。
が、駆馬神事と同じ5月5日に、葵祭の前儀として行われる上賀茂神社・賀茂競馬もまた、有名。
平安期の宮中武徳殿に於いて、端午の節会に行われたという 「くらべうま」 に始まり、
賀茂氏人が引き継いだ後も、現在に至るまで雅なるマナーで受け継がれてきた、賀茂競馬。
しかし、神のために爆走する馬が発するスピード感、そして衝撃波の如き音と風は、
単に雅なだけの鑑賞神事ではない、 生々しいまでの 「Godspeed」 を感じさせてくれます。
そんな賀茂競馬、奮発して千円のセレブなる有料席で観てみました。
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2013年5月2日(木)

先斗町歌舞練場へ鴨川をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「おけいはんの民」 にとって、先斗町はよくわからんところです。
あ、「おけいはんの民」 とは、京阪で入洛する同胞を、私が勝手に呼んでる名前。
より厳密に定義すれば 「花街に出入りできない、貧しきおけいはんの民」 となりますが、
とにかく三条大橋 or 四条大橋で鴨川を日常的かつ強制的に渡る必要がある我々にとって、
先斗町はよくわからんというか、微妙な距離感を感じるところだったりします。
何故そんな距離感を感じるかといえば、多分、前を通り過ぎることがあまりにも多いからでしょう。
先斗町のあの狭い路地、いかにもわかりやすい京都的なビジュアルを見せる、あの路地。
我々とて、あそこを歩くことはあります。しかし、その数千倍、前を通り過ぎることの方が、多い。
それも大抵は 「橋増やせよ」 「歩道拡げろよ」 「京阪と阪急の間に地下道作れよ」 と激怒しながら、
人事不詳の観光客や酔客をかわしつつ、この花街の入口を日々通り過ぎているわけです。
人は、通り過ぎることが多い場所に対し、妙に無関心になったり、距離を感じたりします。
子供の頃から目にし続けながらも、中がどうなってるのか知らないし、知る気も全然起こらない。
四条大橋西詰・東華菜館に感じるこんな気持ちを、先斗町にも感じたりするのです。
この感じ、わかってもらえるでしょうか。わかってもらっても、特に何にもならないんですが。
そんな (どんなだ) 先斗町で、毎年5月に行われる舞踊公演が、鴨川をどり。
都をどりと同じく、第1回京都博覧会の附博覧として明治5年に創設された、歴史あるをどりです。
総踊がノンストップで爆走する都をどりとは対照的に、セリフ多用の舞踊劇を打ち出し、
始まったばかりの川床と共に、京の初夏の風物詩として愛され続けています。
その鴨川をどり、GW+開幕2日目ながら、飛び込みで行ってみました。
あ、先斗町の読み方が分からん人は、自分で調べて下さいね。
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2013年4月23日(火)

壬生寺へ壬生狂言を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
壬生狂言。正しくは、壬生大念仏狂言。
京都にいくつか残る大念仏狂言の中でも、最も有名といえるものでしょう。
創始したのは、鎌倉時代に壬生寺を再興すべく、勧進聖として聴衆を集めた、円覚上人。
巧みな説法が庶民から支持され、「十万上人」 と呼ばれるほど圧倒的集客力を誇った上人は、
PAなどあるわけ無い時代に更なる大ハコ系法会を成立させるべく、持斎融通念仏を創始。
声を使わず身振り手振りを用いることで、スタジアム級の聴衆にも仏の教えを説くこの踊躍念仏は、
やがて大念仏会という名の法会となり、時を経て仏教無言仮面劇・壬生狂言となりました。
近世に入ると壬生狂言は、能や物語など同時代の芸能からもエッセンスを導入するようになり、
節分の炮烙奉納 & 『炮烙割』 のガッシャーンも定着するなど、娯楽や行事としても発展。
以後、現代に至るまで、アマチュアである地元の壬生大念仏講中の人たちによって公演が続けられ、
激レアな面&衣装と共に、 「壬生さんのカンデンデン」 の伝統は継承されてるわけです。
素晴らしい。実に、素晴らしい。しかし、今までうちでは壬生狂言、がっつりとは扱ってませんでした。
節分奉納にはチラッと触れてますが、メイン公演である春の公開は、ずっと未訪のままでした。
理由は、ふたつ。壬生狂言には、鑑賞料がかかるから。そして、撮影が禁止だから。
鑑賞料は、まあ、800円。それに撮影禁止なら、神泉宛狂言だって同じ。ですが、Wだと、な。
吝嗇+記事プランが立たんという知らんがな事情が重なり、ずっとスルーし続けてたのであります。
が、何度でも繰り返しますが、うちのサイトの趣旨は、メジャースポットの単独正面突破。
壬生狂言も当然、メジャーです。初日の 『炮烙割』 は京都新聞に絶対載るほど、メジャーです。
それに、他の念仏狂言は観といて、壬生だけ観ないのも、妙です。そして、不勉強です。
行かねばなるまい。下手すると全画像が漆黒の闇になっても、行かねばなるまい。
そんな狂った義務感と、狂言への興味も一応抱き、暮春の壬生へと出かけたのでした。
結果、やはり黒画像ばかりが延々続く無茶苦茶な内容の記事となりましたが、
想像力を働かせるのも無言劇らしいと考え、お楽しみくださいませ。
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2013年4月8日(月)

宮川町歌舞練場へ京おどりを観に行きました。もちろん、ひとりで。
宮川町。言うまでもなく、京都五花街のうちのひとつです。
川端四条の南、祇園祭の神輿洗式が行われる鴨川 = 宮川のほとりにあって、
伏見城&方広寺建設で大和大路が賑わった時代あたりから、茶屋が並ぶようになり、花街化。
近くの河原では出雲阿国が歌舞伎を創始し、現在も残る南座を始めとして芝居小屋も林立、
さらには美少年の歌舞伎役者が女犯禁止の僧侶相手に男娼となる 「陰間茶屋」 でも名を売るなど、
実に 「聖」 と 「芸能」 と 「俗」 が濃厚に入り混じる、花街らしい由緒を誇る街であります。
「俗」 「裏」 は時を経るごとに後景化、昭和33年の売春防止法施行以降は芸舞妓一本となり、
現在は観光テイストが濃い甲部のお隣にあって、比較的ネイティブな花街の存在感を見せてます。
京おどりは、そんな宮川町の芸舞妓はんらが芸を披露する、春の舞踊公演。
「京をどり」 ではございません。あくまで、「京おどり」 。何故かは全然知りませんが。
初演は昭和25年と、明治スタートの都をどりや鴨川をどりなどと比べると割と最近ですが、
楽しんでもらうことをモットーとした若柳流の振付で、観光客のみならず地元にも愛好者、多し。
で、そのおどりへ行ってきたわけです。もちろん、予約とか一切なしの、飛び込みで。
私は知ってます。 「京都 をどり チケット」 で検索をかける人間の多さを、私は知ってます。
うちみたいな零細サイトにさえ、どれだけの人がそのワードで飛んでくるかを、私は知ってます。
本当に観たいなら、事前にチケットを確保した方がいい。わかってます。でも、しない。
何故か。面倒くさいから。あと、飛び込みでどれくらい行けるか、確認したいから。
というわけで、また手ぶらで特攻です。よい子は真似しちゃ、駄目。
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2013年4月5日(金)

京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
最近よく言われることですが、京都にはレトロ洋館が結構、残ってます。
明治から昭和初期にかけて、全国に先駆ける勢いで建てられた、重厚なる洋館の数々。
大きな空襲を受けなかったためか、あるいは何であろうと大事に保存する習性が発揮されたのか、
それらは三条通を中心に結構な量&結構な質で残り、近年、人気を呼んでるわけです。
「京都の別の顔を見た」 みたいな。 「実は新しいもの好きの京都を見た」 みたいな。
個人的にはこれらの近代建築遺産、京都人の隠された進取の気風の表われたものというより、
東京遷都で焦った明治期の息吹 or 殺気をより伝えてる気がするんですが、あなたどう思いますか。
とにかく、それなりに見るべきものが多く、また人気スポットも数ある京都の洋館シーンにあって、
ぶっちぎりの由緒を持つものといえば、恐らく京都府庁旧本館ということになるんでしょう。
京都ハリストス正教会聖堂などを手がけたことで知られる京都府の設計技師・松室重光が設計し、
破格の費用をかけ明治37年に完成した、堂々たるルネッサンス様式の、府庁本館。
極めて完成度の高い意匠を誇り、そのハイクオリティぶりは単に焦りの表出レベルに止まらず、
その後、続々と洋式で建てられた各地の県庁舎の立派なお手本ともなりました。
昭和46年まで現役として使われ、以後も現在に至るまで様々な形で稼働し続けてる旧本館、
最近はもっぱらロケや結婚式、時にはコスプレ撮影会などにも活用されたりしてますが、
そんな流れの一環として、春の桜シーズンに開催されてるのが、観桜会。
口の字型に建てられた洋館の中庭に植えられた、枝垂桜。それで、花見をしようじゃないか、と。
花見のみならず、アーティストとかも呼んで、期間限定で美術館化しようじゃないか、と。
桜の最盛期には夜間も開放して、ライトアップやプロジェクションマッピングもしようじゃないかと。
それが、観桜祭であります。で、もちろん、夜間公開へ行ったわけであります。
古いものを何でも活用する京都の息吹 or 殺気、お楽しみ下さい。
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2013年4月5日(金)

大宮交通公園へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
大宮通の北端と聞いて、貴方はどの辺りを連想するでしょうか。
本来は御所の隣を通るが故にその名が付けられた、正に都を代表する通であり、
さらには平安遷都以前から存在して都市計画の基準になったとも言われる、大宮通、その北端。
私の場合、恐ろしいことに、四条大宮を連想します。知識と関係なく、四条大宮を連想します。
御存知の方は御存知でしょうが、大宮通、あそこで北へ向かって急に細くなるんですよね。
大きい道は、市電由来の何かよくわからん斜め道となり、その先で千本通と合流してしまうという。
サウス民であり、自転車で毎日のように東寺から大宮通を北上してた時期もある私は、
その 「急に細くなる」 印象ゆえ 「大宮通は四条大宮で終わり」 と反射的に考えてしまいます。
もちろん実際の大宮通は、二条城に寸断されたりしつつも北へ向かって細長く続き、
上京を越えた辺からは 「新大宮商店街」 という名のダラダラ果てしなく続くユルい商店街を形成、
確認したことはないですが、とりあえず御薗橋近くのどっかで北端に達するわけです。
が、生活圏が全然違う私は、あんな北の方まで大宮通が続いてることに、正直、混乱します。
そして、その北端近くに大宮交通公園なるものがあることにも、正直、混乱します。
大宮で 「交通」 といえば、四条大宮じゃないか。阪急と嵐電を乗り換える、四条大宮じゃないか。
トロリーバスの始発点だった、四条大宮じゃないか。市電車庫が近くにあった、四条大宮じゃないか。
市電の車庫はバスの車庫から操車場になり、その傍には 「ベンガル湾」 というカレー屋があって、
あそこあまり美味くはなかったけど出来ればもう一回食いたいぞの、四条大宮じゃないか。
と、全くどうでもいいことを書いてるのは、大宮交通公園に関して何も書くことが無いからですが、
では、何故そんな興味のない公園へ行ったかといえば、ここの桜がなかなか見事だから。
何といっても植えたのが、桜守・佐野藤右衛門。1969年の開園時に植えたとか。
植樹から30年という良い頃合の時が経ち、現在の桜は正に良い頃合。
そんな桜、児童と保護者だらけの中、観に行ってきました。
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2013年4月5日(金)

半木の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
昔、京都には 「ニナガワフセイ」 なる妖怪がいたそうです。
と言っても、怨霊飛び交う平安時代の話ではありません。割と最近の話と聞きます。
私はよくわからないんですが、お年寄りの方や、若いながらもディープな京都人の方から、
この名を聞かされることが結構あり、その度に 「何なんだろう、その妖怪」 と不思議に思ってました。
「ニナガワフセイ」 のうち、「フセイ」 には 「府政」 という当て字が使われることが多いのですが、
それはこの 「ニナガワフセイ」 が、京都府の知事を務めてたことに由来するんだとか。
妖怪なのに、府知事。笑っちゃ、いけませんよ。京都はそういう、不思議大好きな街なんですよ。
何でも 「ニナガワフセイ」 、28年も知事をやったそうです。そう、28年。どっかの田舎の村長か、と。
府のトップに於いてそんな無茶苦茶な人事がまかり通るなど、現実には考えられませんから、
全ては 「200歳も生きた」 とかいった類の、ブラフ混じりな神話レベルの話なんでしょう。
とはいえ、神話や伝承が単なる現実として日常に紛れ込む不思議大好きな京都に於いては、
それこそ平安時代の怨霊の痕跡でさえしっかり残存し、時に観光スポットとなったりもするわけで、
「ニナガワフセイ」 が残した不思議な神話の痕跡もまた、史跡として数多く残ってたりします。
そのうちのひとつが、北大路大橋から北の加茂川沿いに桜が咲く、半木の道です。
「この道、殺風景だから、桜を植えろ。すぐ植えろ」 と、「ニナガワフセイ」 が言い出したために、
桜守・佐野藤右衛門氏が70本もの紅枝垂桜をたった3日で植えたという、半木の道。
発端からして信じ難いものがありますが、それ以前にここはそもそも石ころだらけのガレ地であり、
桜が育ったこと自体も、「ニナガワフセイ」 の妖力の表われと言えるのかも知れません。
今では 「ニナガワフセイ」 を知らぬ他所者も 「そうだ」 とか言って訪れるようになり、
すっかり京都の桜名所のひとつとなった感もある、そんな半木の道、
満開の紅枝垂桜に漂う妖力を感じながら、歩いてみました。
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2013年4月4日(木)

西陣桜めぐりをしてみました。もちろん、ひとりで。
西陣。言うまでもなく、「織物の街」 です。
平安期は宮廷の 「織部町」 として、鎌倉期は公家や武家相手の 「大舎人町」 として、
そして応仁の乱以降は、山名宗全が本丸を置いた西陣跡で再建されたために 「西陣」 として、
現在に至るまで京都 or 日本の工芸技術 or 文化を代表する 「織物の街」 であり続け、
あり続けるがゆえに、色んな事が色々大変になってたりもするエリアであります。
そんな西陣の生み出す西陣織といえば、生産工程が高度に分業化されてることで、有名です。
で、分業化してると、当然というか何というか、お互いが近所に住んでる方が便利なので、
織物に関連したあらゆる業種の人たちが密集して暮らしてることでも、有名です。
現在は工場が郊外へ出たり、産業自体のが衰退したりで、往年の密集感はありませんが、
町並にはその名残が濃厚に残っており、特に残り香を感じさせてくれるのが、寺ではないかな、と。
人間が密集して生活するとなれば、昔の 「生活必需品」 だった宗教も入り用となるわけで、
西陣にはかなりの密度で、寺が、それも町衆からの信仰が篤い法華宗の寺が、林立してます。
それらの寺の多くは、観光化されるわけでもなく、檀家以外立入禁止というわけでもなく、
でも小さな寺から本山クラスの寺に至るまで、どこも不思議な現役稼働感みたいなのが漂ってて、
よそ者である私としては、その辺に何となく西陣独特の雰囲気を感じるというか。
そんな西陣の寺には、やはり観光化されるわけでもなく、身内以外見所がないわけでもない、
実に程良いサイジングで、程良い味のある桜が、あちこちでさりげなく咲いてます。
立本寺の桜にすっかり気を良くしたので、そんな西陣の寺の桜、愛でて回ってみました。
密集してるがゆえに、徒歩で楽にこなせる桜巡り、お付き合い下さい。
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2013年4月4日(木)

立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都市上京区には、 「元●●寺町」 みたいな地名が多くあります。
「元真如堂町」 とか 「元百万遍町」 とか。 「元頂妙寺町」 とか 「元本満寺町」 とか。
中には、頭に 「元」 をつけず堂々と 「実相院町」 「革堂町」 「阿弥陀寺町」 と名乗ってたりとか。
町名のみならず、「元誓願寺通」 なんて通が、誓願寺と全然関係ないとこを走ってたりとか。
もちろん、元々はその町名の場所に名前の通りの寺があり、のち移転したわけです。
単に焼亡などで移転した寺も多いですが、移転の大きな山を作ったのは、天文法華の乱と、秀吉。
法華宗の隆盛にブチ切れた比叡山が攻めてきて、法華宗は法華宗でそれを市内で迎え撃ち、
組の抗争の如き市街戦を展開したのち法華宗が洛外へ追い出された、天文法華の乱。
そして、そんな血気盛んな仏教勢力を殺ぐため、多くの寺を町外れへ集中移転させた、秀吉。
法華宗の中には、その両方で移転を余儀なくされた寺も結構存在するわけで、
今回桜を見に行った西陣の日蓮宗本山・立本寺もまた、幾多の変遷を経た寺だったりします。
創建以来、山門による破却や仲間割れを繰り返し、天文法華の乱では堺へ避難し、
帰洛したら秀吉に移転させられ、移転したら大火で焼失、現在地でようやく落ち着いた、立本寺。
北野商店街のすぐ南側で、住宅地に包囲されつつも極めて広い境内を持つ現在の姿は、
ちょっとしたハッピーエンド感さえ感じさせますが、もっとハッピーに見えるのが、桜の季節です。
かなりなボリュームの桜が、かなりなボリュームで密集して咲き、人もあまりいない。
何かもう、ちょっとした天国が現出してます。街角の天国、とでもいうか。
そんな立本寺の桜、ハッピーな気分でご堪能下さい。
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2013年3月30日(土)

円山公園へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵会う人 みな美しき」 。 by 晶子。
というような、恋愛ハイの多幸感で自我境界線がボケた女から視線を向けられると、
「それでも今、オレのこと見て、やっぱり美しくないとか思っただろ、この糞馬鹿ビッチ女郎」 と、
一瞬で脳内が被害妄想で満たされる同志の皆さん、正気で春を迎えてらっしゃいますか。
今宵は共に、円山公園へ繰り出しましょう。そう、晶子が 「みな美しき」 と詠った、円山公園へです。
桜が満開の、そして酔っ払いも満開の、野外大宴会場と化した桜月夜の円山公園へです。
みたいなことを言うと 「そういう僻み根性に基づいた露悪的な言い方、もういいから」 と、
クールなようでいて実は単に脳のキャパが狭いだけのボンクラさんたちに敬遠されそうですが、
しかし、そもそもこのあたり一帯は、歓楽地としての歴史が長いエリアだったりします。
大正に入ってから、植治こと七代目小川治兵衛により現在の円山公園が整備される以前は、
京都初の巨大洋館ホテルや人工鉱泉浴場・吉水温泉が並ぶ、現代で言うところのレジャーゾーン。
さらにその以前は、現在も残る料亭・左阿弥を含む安養寺の六つの塔頭・六阿弥が、
料亭や貸座敷を盛大に営み、正に坊主丸儲けな享楽世界が繰り広げられてたわけです。
であれば、雅もひったくれもない猥雑なまでの野外大宴会場姿こそが、この地の本来の姿であり、
その姿が、桜の魔力により、春の間だけ蘇ってると考えるのが妥当なのかも知れません。
そう思えば、独男の目にも酔客たちが 「美しき」 に見えてくるはず・・・そう、まるで晶子のように・・・
なんてことは全くなく、出来れば、いやはっきり言えば心底行きたくないんですが、
しかしうちのモットーはメジャーどころの単独正面突破ゆえ、逃げるわけにはいきません。
夜の円山公園、わざわざ桜満開の時期を選び、ひとりで特攻をかけてみました。
途中、あまりに辛いので、恐怖スポットや寺巡りと逃げを打ってますが、
とにかく 「美しき」 夜桜と人間の姿、存分にお楽しみ下さい。
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2013年3月9日(土)

東山花灯路2013協賛の清水寺夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
桜シーズン目前+紅葉シーズン直後という閑散期の京都で、
ベタ名所の東山&嵐山をライトアップし、夜間集客を図る電飾イベント・京都花灯路。
無料のもの&光るものが好きな蛾の如き民ばかり集めて、経済効果があるのかは知りませんが、
とにかく2003年の初回以来、徐々に規模と知名度を上げつつ順調に回数を重ねてきました。
しかし2011年、そんな花灯路に試練が訪れます。言うまでもなく、東日本大震災です。
発生直後に始まった東山花灯路は、『東山祈りの灯り』 なる灯火管制モードに変更を余儀なくされ、
世間では原発が止まり、ライトアップどころか家庭レベルでまで節電が要求される事態が出来。
あの日を境に、私たちにとっての電気の意味は、完全に変わってしまったのであります。
正直、花灯路は終わったと思いました。のみならず、ライトアップ全般が終わったと思いました。
電気が余ってると思われてた頃から、浪費的にも宗教的にも批判が多かった、ライトアップ。
節電中にやれるものではないでしょう。それに、電気があり余る世の中は、恐らくもう、やって来ない。
2012年の東山花灯路は、開始から10周年ということで盛大に盛り上がってはいましたが、
「こんな馬鹿騒ぎも、これで見納めかもな」 という予感は全く払拭されることがなく、
そんな予感と共に見た電飾の光景は、言うのは嫌ですが、少し魅力的に見えたりもしたのでした。
で、その予感は、何ら終了の気配もなく例年通りに開かれた2013年の花灯路でも、
ゆとり溢れる阿呆の子たちが例年通りに騒ぎ倒す2013年の花灯路でも、実は消えてません。
うちでももちろん例年通りに特攻を行った、花灯路、そして提携の清水寺夜間拝観。
パッと見レベルでの変化の無さと、その下に隠れる危うさ&根源的な懐疑の変化の無さ、
私たちの生活が持つ矛盾・欺瞞・危うさは何ら解決も解消もされてない感じを、
写真から溢れる徒労感と共に味わってもらえると、幸いです。
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春も、ひとり,
東山区,
夜も、ひとり,
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ひとりで目眩むライトアップ,
ひとりで突っ込む清水寺,
超メジャー級,
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大混雑,
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2013年3月3日(日)

梅宮大社の梅産祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
産め、産め、産め、産め、産め。
こんなことを言われると、女性は、一体どんな気持になるんでしょうか。
「子供作れ」 どころか、 「結婚しろ」 「彼女作れ」 とさえ身内から言われなくなった私には、
理解する機会はほぼ永久に来ないと思いますが、ゆえに不思議といえば結構、不思議であります。
自分の性的なファクターにあれこれと口を出されると、私はかなり頭に来る方なんですが、
「産め、産め」 というのはそれどころの騒ぎではないのであり、私が女なら言った奴に向かって、
「お前が、産め。男でも、産め。肛門で、産め。女なら、もっと産め。まずお前が、貧乏大家族やれ」
みたいなことを言いそうですが、でも実際の女性がそういうことを言うのはあまり聞かないので、
やはり不思議といえば実に不思議、よくわからんと言えば実によくわからん話であります。
再生産プロパガンダは飛び交うものの、露骨に 「産め」 とはさすがにあまり言わない現代日本で、
堂々と 「産め、産め」 と言ってるのが、梅宮大社で3月第1日曜に行われる 「梅産祭」 です。
「梅産祭」 、読みは 「うめうめまつり」 。いや、本当に。丸っきり、「産め、産め」。
死体の腐乱化を9コマで描いた西福寺・九相図で御馴染、橘嘉智子 aka 檀林皇后が、
なかなか夫・嵯峨天皇の子を産めないのを悩んだ末、この社の白砂を床の下に敷いて寝たところ、
直ちに懐妊、めでたく仁明天皇を産んだことに端を発するという、梅宮大社の子授け信仰。
そんな由緒と梅の開花シーズンをひっかけ、さらには女の子の節句である3月3日もひっかけ、
ついでに日本で最初に酒が作られたという日本第一酒造の祖神という由緒もひっかけ、
梅を見ながら梅酒 or ジュースを飲み、再生産の活性化を祈願する祭であります。
独男には無縁というか、本質的な意味では花灯路以上のアウェーさえ予測される祭ですが、
その恐怖に特攻魂を刺激され、梅が本咲きでもないのにノコノコ出かけてみました。
何も生み出さない男が、梅から 「うめ、うめ」 と言われる様、御覧下さい。
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2013年2月3日(日)

2013年度の節分めぐり、後篇です。
太古の追儺には、鬼は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。
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東山区,
昼も、ひとり,
★★★★,
夜も、ひとり,
冬も、ひとり,
伏見区,
拝観無料,
ひとりでなやらう京都の節分 | tags:
藤森神社,
恵美須神社,
瀧尾神社,
新熊野神社 |
2013年2月3日(日)

2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。
旧暦のタイムテーブルが密かに生き続ける京都にあって、
節分は 「本来の年越」 として、ある意味、正月を凌ぐ盛り上がりを見せます。
年末の大祓よろしく、一年の間に溜まった穢れを祓う追儺式があちこちの寺社で行われ、
そこら中で鬼が暴れ回り、そこら中で火炉が炎上し、そこら中で福豆に人々が殺到するわけです。
そんな大賑わいな京都の節分、人が多い所へ多い時に赴くのが趣旨の我がサイトとしても、
無論黙って見過ごすわけにはいかず、これまでも過酷なスケジュールで徘徊を繰り返してきました。
鬼が出る寺社へ潜り込んでは、一目鬼を見ようとする人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
舞妓はんが豆まきする寺社へ潜り込んでは、豆を求める人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
吉田の追儺式では何も見えず、火炉祭では焼死と圧死の恐怖に見舞われた末に締め出しを食らい、
須賀神社では恋に効くという 「懸想文」 を男一人でこっそり買ってみたりしてきたわけですが、
そんな暇と阿呆が丸出しな徘徊の季節が、2013年も無事にやってきたのであります。
で、今回は何をするかといえば、かなりユル目というか、はっきり言って省力化 aka 手抜きです。
だってもう、しんどいもん。おまけに、寒いもん。加えて、虚しいもん。それに何より、阿呆らしいもん。
あと、節分前日と当日の2連日を徘徊に使うのが、一応真人間としては、苦しくなってきたもん。
というわけで今回の節分めぐりは、2月3日のみ、東山近辺をうろつく仕様となっております。
超メジャーな観光地と重なるエリアながら、超ネイティブな雰囲気もまた濃厚に残る、東山近辺。
伝統と日常が交錯する京都ならではの節分を楽しむ、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
このエリアを選び、徒歩だけでユルく、のんびり、気の向くままに、めぐってみました。
京阪沿線の私にとってバス代がかからん所なので、選んだのではありません。
労力と共に金もケチりたくて選んだのでは、ありません。違います。
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2013年1月15日(火)

下鴨神社の御粥祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
小豆には、魔力が秘められてるんだそうです。
といっても、昭和の相場師を狂わせた 「赤いダイヤ」 云々といった話ではありません。
また、夜の川で小豆を洗うという、何が恐いのかよくわからん妖怪・小豆洗いの話でもありません。
餡子にしたり赤飯炊いたりして食べる、いわゆる食物である、あの小豆の話であります。
小豆が持つ赤黒いビジュアルに、昔の人は何かしらスピリチュアルなパワーを感じてたようで、
年頭&夏越の祓には、その力で邪気を祓うべく、小豆を用いた食物を食す風習を生み出しました。
6月の夏越祓には、氷をイメージした外郎の如き生地に小豆をぶっこんだ、水無月を。
そして年頭に当たっては、白い粥の中で餅と共に小豆が点々と泳ぐ、小豆粥を。
特に小豆粥は、ものごとの変わり目に発生する境界領域に於いてパワーを発揮するとかで、
転居や葬式の際に食べる地方さえあるようですが、最もポピュラーなタイミングはやはり、小正月。
宮中では平安時代の頃から、正月最初の満月の日 = 小正月に小豆粥が食されてたそうで、
そのスピリチュアルな食風習は、現在に至るも様々な形で日本全国に残ってます。
京都でも 「1月15日 = 小豆粥」 という認識は家庭の献立カレンダーレベルで根付いてますが、
あちこちの神社もまた、宮中行事を神事化した形で小豆粥の奉納 or 接待を斎行。
中でも、宮中との結びつきが強い上賀茂&下鴨の両賀茂社では、御粥祭なるものが行われ、
下鴨の方は有料ながら小豆粥の接待もあるというので、私も出向いてみました。
相場師を狂わせ、謎の妖怪も生んだ、小豆。その魔力を食らう様、とくと御覧下さい。
当日は奇しくも初えと祭もやってたので、その様子も併せてどうぞ。
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2013年1月9日(水)

恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
応仁の乱で丸焼けとなった後、京都は商業の街として再生します。
もちろん、止む事無き方々は戦乱以後も変わらずこの街に住み続けたわけですが、
復興や再興の主力となったのは、弱体化した朝廷ではなく、あくまでも民間の商工業者たちでした。
秀吉による手厚い商業保護を経て、実際の政治権力が完全に東へ移った江戸期以降は、
この商工業者 = 町人主導な傾向がより顕著化し、都に残る寺社や風習などもどんどんと商品化。
雅なる伝統を語る一方で、時流に乗った新商品を次々と生み出す観光都市の側面を強め、
「本物」 を求めて入洛した輩には失望のカウンターパンチを食らわせる楽しい街となったわけですが、
そんな話はともかく、京都は今でも 「家が商売してる」 というところが、普通に多かったりします。
で、商売やってる家が多いため、この雅な街でも商売の神様は極めて篤い信仰を集めてたりします。
「しょーばいはんじょでささもてこい」 のフレーズで知られる恵比寿神も、例外ではありません。
バキバキの商都・大阪の今宮戎、あるいは西宮のイメージが強い恵比寿神 = えべっさんですが、
祇園近くに立つ恵美須神社は、その二社と並んで 「日本三大えびす」 と称されるほど、人気。
また、その近所である超メジャー級の八坂神社の境内にも、末社として祇園蛭子社があり、
こちらも 「祇園のえべっさん」 として、祇園で商売やってる人たちから信仰されてます。
恵美須神社も祇園蛭子社も、えべっさんの誕生日である1月10日前後は 「十日えびす」 として、
数日に渡り盛大な祭りを行いますが、9日の 「宵えびす」 には祇園蛭子社がパレードを開催。
えべっさんを筆頭としたコスプレ七福神が乗るえびす船と、金烏帽子姿の福娘さんたちが、
「しょーばいはんじょでささもてこい」 と歌いながら、四条通を巡行する奇景が拝めるわけです。
そんな奇景をメインに、祇園一帯のえべっさんの賑わい、見てきました。
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2013年1月1日(火)

嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。
夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
「花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。
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2013年1月1日(火)

2013年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。
2011年+2012年と、混んでそうなとこをあちこち特攻し、
寒さと徒労で正月早々死にかけた年越し in 京都ネタ、2013年度版でございます。
除夜の鐘が撞ける寺を巡っては大混雑で退散し、それを繰り返すうちに路上で新年を迎え、
初詣先を求めて今度は神社を巡るもまた大混雑で退散、という愚行をまた重ねるわけであります。
何故そんな下らんことをするのかといえば、もちろん、そこに年越しがあるからです。
そこに除夜の鐘があるからです。そこに初詣があるからです。決まってるじゃないですか。
わけもわからず、行く。気がついたら、既に行っている。目的や理由、由緒や薀蓄は、どうでもいい。
誰にとっても年越しは、そんな惰性と無意識が溢れかえるカーニバルのようなものでしょう。
独男の私にとっても、話は同じです。私の年越しの愚行に、理由なんか、ありません。
むしろ、理由なんか、あってはいけません。何なら、理由なく行くのが、大事です。
私の言ってることが、わかるでしょうか。私は全然、わかりません。とにかく、年越しであります。
今回は、どこへ行こうかなと。年越しで混雑になりそうなとこ、他にどこがあるかな、と。
などと狂ったことを考えてるうちに、思い出しました。メジャー観光地・嵐山へ行ってないな、と。
というか、知恩院の鐘の混雑とかはニュースで見るけど、嵐山の年越しはあまり話を聞かんな、と。
もちろん、嵐山では除夜の鐘を撞かない or 一般公開してないというわけでは、ありません。
天龍寺をはじめ嵐山にある多くの寺院では、一般の人にも除夜の鐘を開放しています。
話は聞かないけど、きっと混んでるんだろうな。であれば、行かねばならぬ。
そんな狂気の義務感に導かれて、2013年の年越しは嵐山で迎えてみることにしました。
東山界隈と同様の馬鹿騒ぎがここでも展開されてるのか or そうでもないのか。
そのあたりの徒労極まる実地確認、御堪能ください。
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2012年12月24日(月)

町家・懐古庵を一軒借りしての聖夜、いよいよ最終回です。
子供の頃に見た町家は、ただただ暗い気分にさせられるものでした。
下松屋町通沿いに住む親戚の家は、古い壁に虫籠窓が開いた、ただ単に古い町家。
中もまたただ単に古く、狭くて暗くて圧迫感のある部屋、得体の知れない化物が並ぶ台所、
至る所から響いてくる木の悲鳴、そして何より家そのものから濃厚に漂う不気味なオーラを感じて、
子供心に 「こんな狭くて暗くて気味悪いところには、絶対住みたくない」 と思ったものでした。
あ、為念で言っておきますが、この頃の我家は4畳半&6畳のアパート暮らし。狭いもいいとこです。
にも関わらず、町家は狭く見えたのでした。それも、自分の家と比べて、狭く見えたのでした。
何かが、いるんですよ。何かが、あるんですよ。で、それが、空間を圧迫してるんですよ。
こんな原体験を持つためか、私は現在に至るも、町家が人気を呼ぶ理由が、よくわかりません。
元から住んでた人が、家を大事に想ったり、大事に使い続けようとするのはわかりますが、
「憧れの町家」 みたいな狂気のフレーズと共に、他所の人が有り難がる理由が、よくわかりません。
90年代後半あたりから、『超力ロボ ガラット』 の主題歌で有名な某女性作詞家を始めとして、
アート or オサレな連中が多く町家へ移住しましたが、あの感じが未だに受け続けてるんでしょうか。
あるいは、リノベのオサレさが受けてるとか。でもそんなの、すぐ陳腐化するしな。
ひょっとすると、町家ブームがここまで長続き&拡大してる理由は、オサレやリノベなどではなく、
私が子供の頃に感じた町家独特の不気味さみたいなものにこそあるのかも知れません。
オサレの影で生き続ける、何か。丸出しにされると引くけど、オサレに包まれると魅かれる、何か。
人間が凄まじく狭いところへ密集し、何世紀にも渡って生活しないと醸成されない、何か。
そんな何かが町家ブームの背後で暗躍してくれてると楽しいんですが、そんな戯言はともかく、
そんな何かがかなり丸出しになってる懐古庵でのクリスマス、いよいよ最終回です。
ラストは、夜散歩、炭酸晩酌、そして狂気の朝食まで、一気に突っ走ります。
孤独、寒さ、太鼓、そして白味噌と戦う様、とくと御覧下さい。
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2012年12月24日(月)

町家宿・懐古庵を一軒借りしての聖夜、続きです。
京都の町家の源流は、実に平安時代まで遡れるそうですが、
現代に続く町家の形は、応仁の乱の後、町人が街の主役になってから整い始めます。
正方形の条坊制町割に秀吉が図子を通し細分化して以降、土地の高度利用はさらに活性化し、
町家本来のレゾンデートルである商売スペースの共有や、間口割の賦課金低減などのため、
家々の間口は 「間口三間」 とよく言われるようにどんどん狭化+奥行きは果てしなく深化。
いわゆる 「うなぎの寝床」 の誕生です。 「これ、どこまで続くねん」 なアレの誕生です。
この果てしなき奥行きは、坪庭を挟むような表屋造の立派な町家などにも当然活用されましたが、
土地を前後で二分し、奥には家賃収入を見込んで借家を建てるケースも、増加します。
表通りから路地 = ロージが引かれ、 その路地を 「一軒路地」 として独占的に使う一軒家や、
井戸や流しや便所が共同+路地自体も半ば公共空間と化したような長屋が、多く建てられました。
「オモテ」 に面した町家が、江戸期以降、各々の家が調和した美しい町並を形成したのに対し、
路地裏の長屋 = 路地長屋は、それらとはまた違う、生活感に満ちた独自の景観を形成。
明治に建てられたというこちらの懐古庵も、そんな路地長屋の形を伝える建物だったりします。
ゆえにここには、坪庭や通り庭、虫籠窓といった、町家の代名詞的なアイテムは、さほどありません。
しかし、ハードコアな共同生活の残り香を激烈に感じさせるオープンおくどさんを始めとして、
リノベをミニマル、あるいはミニマル以下に抑えた敷地内には、よりリアルな何かが、猛烈に残存。
昔日の生活感がきれいサッパリ脱臭されたような、オサレで現代的なリノベ町家にはない、
迫力や渋み、そしてストレンジな味わいを、そこかしらから感じられたりします。
そんな懐古庵の一軒を、ひとりで借りて過ごす、聖夜。ここからはいよいよ、夕食です。
台所が付いてるのをいいことに、リアルな生活感が残る町家に相応しい、
リアルおばんざいをリアルな手抜きで作ってみましょう。
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