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下鴨神社の名月管絃祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年9月19日(木)


下鴨神社の名月管絃祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「美」 を追い求める人間は、とどのつまり、夜空の月へとたどり着く。
花をねぶり回し、鳥を追いかけ回し、風流に狂い回った 「美」 のプリズナーたちも、
最終的には夜空に浮かび静かな光を発する月に、究極の 「美」 を見い出す境地へと到達する。
と、こんな風に 「花鳥風月」 の意味が語られることがあります。 「ゆえに、最後が月」 的な。
この 「月 = 上がり」 説、実は全然ガセだそうですが、ただ、妙な説得力を感じる人は多いはずです。
月が体現している、 「美」 の究極。または、 「美」 のデッドエンド。あるいは、 「美」 の最終解脱。
時に人を狂気へ誘いかねない、逝ってしまった 「美」 の魔力を、明らかに、月は持ってます。
そして、そんな 「美」 が最も露になる時こそ、十五夜お月さん aka 仲秋の名月ではないでしょうか。
「月々に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月 (詠み人知らず) 」 などという、
「ああ松島や」 級のトートロジー炸裂短歌が詠まれるほど、デッドエンドな 「美」 を誇る、初秋の満月。
石を投げたら 「美」 の最終解脱者に当たるくらい、市井のそこら中で濃い口の好事家が蠢き、
「チャーミングチャーハン」 なるトートロジー or 狂気が滲む屋号を生むクレージータウン・京都でも、
この逝けてる名月は 「月が月で月だから」 という勢いで、大いに鑑賞され、愛でられます。
大覚寺の観月の夕べをはじめとして、ロイヤルな趣向の月見イベントを催すロイヤルな寺社も多く、
今回特攻をかけた下鴨神社の名月管絃祭もまた、そんなロイヤルな月見イベントのひとつ。
平安期の神事 「御戸代会 (みとしろえ) 」 を、昭和38年に再現再開したというこちらの名月管絃祭、
秋の稔りを前に、天下泰平と五穀豊穣を祈願し、雅なる伝統芸能を奉納するというものです。
実にロイヤル。誠にロイヤル。で、お代もロイヤル。とか思いそうですが、しかし入場は基本、無料。
「観月茶席」 なる茶席こそ有料ですが、筝曲や尺八など芸能は無料で拝めるため、
街中の 「美」 の最終解脱者が大挙して押しかけ、雅ならざる混雑を呼ぶ催しとなってます。
そんな名月管絃祭、私も 「美」 を最終解脱すべく、行ってきました。

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干菜寺へ小山郷六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年8月20日(火)


干菜寺へ小山郷六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の六斎念仏は、二つの系統に分類できると言われてます。
一方は、元来の念仏フォーマットを遵守して、鉦と太鼓のみで演奏される、念仏六斎。
もう一方は、「花の都」 ゆえに溢れる芸能を導入しまくって、極度にエンタメ化した、芸能六斎。
どちらの系統にも、京都 or 京都外に点在する講中へ免許を授ける総括寺院が存在し、
念仏六斎の 「干菜寺系」 、芸能六斎の 「空也堂系」 なる呼称は、その寺名から出来たわけです。
総括寺院が分かれてるからといって、両系統がバトルしてるということはもちろんなく、
時代の流れの中で転向した講も多数存在し、特に念仏六斎から芸能六斎への転向組は、多し。
念仏と言えどやはり楽しいのが一番なのか、空也堂系は江戸期以降、大いに勢力を伸ばし、
遂には京都の大半の六斎講中が芸能化、その状態は現在に至るも続いてたります。
しかし一方では逆に、芸能六斎から念仏六斎へ転向した上鳥羽橋上鉦講中のようなケースも存在し、
両系統の交錯ぶりはなかなかに面白かったり、あるいはミステリアスだったりするんですが、
そんな交錯ぶりがより顕著に表われてるのが、干菜寺での小山郷六斎念仏奉納ではないでしょうか。
干菜寺。正式名称、干菜山光福寺。言うまでもなく、干菜寺系念仏六斎の総本寺です。
秀吉が訪れた際に干菜を献じたことから、現在の通称を授けられたという由緒を持つ、干菜寺。
授けられたのは通称だけでなく、六斎念仏の講を統括する免状もまたもらったようで、
干菜寺は 「六斎念仏総本寺」 として、以後広範に伝播する六斎の宗教的支柱となっていきます。
が、先述の通り、時代を下ると干菜寺系はどんどんと空也堂系にシェアを食われまくり、
地元の田中六斎も途絶状態、盆の奉納は近所の空也堂系・小山郷六斎が行うようになりました。
そう、つまり念仏六斎の 「総本寺」 において、空也堂系の芸能六斎が奉納されるわけです。
不思議といえば不思議、奇遇といえば奇遇、時代の流れといえば時代の流れですが、
とにかくそんな干菜寺での芸能全開な六斎奉納、観てきました。

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南丹市やぎの花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年8月14日(水)


南丹市やぎの花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

軍人の墓を初めて見たのは、母の実家がある八木の墓地でした。
父方の墓地でも、近所の墓地でも、何故か軍人の墓を見たことがなかった幼い私は、
母方の祖父の墓参りへ出かけた際、初めて目にした形状の墓を指さして、母に尋ねたのでした。
「なんであのお墓、先っちょが尖ってるのん」 「あれは戦争で死なはった人のお墓やから」 。
あ、別に祖父が戦死した軍人だったというわけではありませんよ。全然、全く、違います。
祖父は、酒に狂い、 「俺はマッカーサーの通訳やった」 と妄言を吐き、DV三昧の末、野垂れ死。
母が 「死んで、嬉しかった」 と語るような人なんですが、ゆえに里帰りの際も墓参りはあまり行かず、
ゆえに数少ない墓参りで目にした 「戦争」 の痕跡が、私には妙に強く印象に残ったのでした。
八木町が、他の地域と比べて特に戦没者が多いところなのかどうかは、よくわかりません。
が、恐らく戦後すぐの頃には日本の至るところで開催されていたであろう戦没者慰霊の花火大会が、
失礼ながら決して大きいとは言えないこの町で、形を変えながらも盛大に継続されているのは、
私には、どうでもいい個人的記憶とも結びついて、妙にしっくり来ることだったりします。
2005年の大合併で南丹市の一部になりましたが、それ以前は独立した町だった、京都府八木町。
またまた失礼ながら、農業と男前豆腐以外にはこれといった産業も、観光資源も無い町ですが、
それゆえなのか何なのか、戦後すぐに戦没者慰霊で始めたお盆の花火大会は、徹底死守。
死守のみならず花火の規模はどんどん巨大化し、超至近距離で5000発の花火が炸裂する様は、
戦没者慰霊というより、もはや爆撃そのものの再現としか思えないほどの迫力を、現出。
そのあまりの凄まじさゆえ、近隣住民&私の家族みたいなお盆で里帰りする連中は無論のこと、
京都市 or 関西圏全域からも客を集める、メジャーな花火大会へと成長しています。
もちろん私にとっても、正気だった子供の頃に何度も見た、思い出のある花火大会です。
そんな思い出のある花火大会、狂気の独り身で再訪してみました。

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下鴨神社の夏越・矢取神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年8月6日(火)


下鴨神社の矢取神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

旧暦。それは、今もなお京都を影で支配し続ける、ルール。
東京遷都以降の全てを否定したい」 という集合無意識が働いてるのか何なのか、
とにかく新暦導入から100年以上経過した現在も、京都では多くの局面で旧暦が稼働してます。
例えば、正月以上に盛り上がる本来の正月 = 節分。例えば、月送りの8月に営まれる、お盆
例えば、やはり月送りの8月に堂々と 「七夕」 を名乗り、電飾で集客を目論むイベント 「京の七夕」
などなど、この街のタイムテーブルを規定する旧暦の力は、21世紀も衰える様子はありません。
半期に一度のスピリチュアル・デトックスである夏越祓もまた、いくつかの神社は旧暦で実施。
一番有名なのは、祇園祭の〆として7月末日に茅の輪くぐりを行う八坂神社摂社・疫神社でしょうが、
伏見の氏神・御香宮神社、そしてかの世界遺産・下鴨神社も、旧暦タイムで夏越祓を行ってます。
下鴨神社の夏越祓に至っては、より本来の定義に準じた仕様とするためか、立秋前夜に、実施。
さらには、茅の輪のみならず、「裸男」 による水中斎串取り合い大会である 「矢取神事」 も、実施。
下鴨神社の祭神である玉依媛命が、糺の森の中を流れる瀬見の小川で川遊びをしてると、
丹塗矢が流れつき、それを持ち帰った玉依媛命は、上賀茂神社祭神・賀茂別雷命を懐妊したという、
何となくセクシャルなメタファーが散りばめられてる感じがしないでもない同社の神話に因み、
やはり何となくセクシャルな裸男が、何となくセクシャルな矢をめぐり大暴れを演じる、 矢取神事。
この荒行のインパクト&時期が他と隔絶してるため、夏越としての印象はやや希薄ですが、
旧暦の街・京都を代表する神社に相応しいタイミングの夏越祓であることは、間違いないでしょう。
そんな下鴨神社の夏越・矢取神事、暑さは全く立秋してませんが、行ってきました。
一瞬の大騒ぎで 「夏を越す」 その一瞬さ加減、御堪能下さい。

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MOVIX京都へ 『風立ちぬ』 を観に行きました。もちろん、ひとりで。

2013年7月25日(木)


MOVIX京都へ 『風立ちぬ』 を観に行きました。もちろん、ひとりで。

『風立ちぬ』 。言うまでもなく、宮崎駿、2013年の最新作です。
それが何か京都に関係あるのかといえば、関係ありません。全く何も、ありません。
では何故記事にするかといえば、ネタにして映画代の元を取りたいのが一番の理由ですが、
同時に近年の京都、いや新京極周辺に於ける映画状況の激変に触れたかったからでもあります。
私が最後にジブリ作品を京都で観たのは、今から十何年も前の、 『もののけ姫』 でした。
で、後の作品は基本、スルー。 『千と千尋』 は大阪で安い日に観ましたが、後は全て、スルー。
予告篇だけで 「駄目」 と断定し、NHK特番だけ眺めて 「オッサン、まあ勝手に頑張れよ」 と済まし、
作品自体はTV放送さえ無視し続けてきたんですが、今回の 『風立ちぬ』 は、何か来たな、と。
『もののけ』 予告の土鬼なタタリ神&首チョンパ&腕ピョーン以来の、本気感、ガチ感を感じたのです。
というわけで、上映されてるシネコン・MOVIX京都へ、レイトショー狙いで出かけたんですが、
そういえば 『もののけ姫』 を観た1997年頃って、こんなシネコン、なかったなあ、と。
ジブリなら、東宝公楽か、京宝か、あるいは京極東宝か。でも、どこも全部、つぶれたなあ、と。
というか、河原町&新京極の映画館自体、全滅したなあ、と。シネコン一館以外は、全滅したなあ、と。
明治初頭の府による上地+歓楽街としての再開発以前から、多くの寺と芝居小屋が林立し、
近代に入るとその芝居小屋がストレートに映画館へ移行したという歴史を持つ、映画の街・新京極
そんな由緒を持つがゆえに、劇場の存在はこの街のレゾンデートルだと思ってたんですが、
シネコン化の流れの前には、そんなゴタクは屁のツッパリにもならなかったようです。
十数年ぶりにジブリ作品を京都で観ることで、私はその現実を急に意識して、愕然としたのでした。
というわけで、映画を見る前に潰れた映画館跡をめぐって徘徊し、時の流れを感じることで、
単なる個人的な映画鑑賞を、無理矢理に記事に仕立て上げてみようと思います。
凡庸な時代の波を凡庸に受けまくる凡庸な地方都市としての京都の姿を、
何となくでも感じ、そして楽しんでもらえると、幸いです。

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八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。

2013年7月22日(月)


八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。

「そうだ 京都、行こう」 連携の夜間拝観をしている、2013年夏の石清水八幡宮
あれ行って、ライトアップを存分に堪能してから、あなた、どうしますか。そのまま、帰りますか。
「そうだ」 のロゴ入り提灯を返すため、ケーブル山上駅へ帰るしかない、と。そりゃまあ、そうですね。
で、ケーブルで下へ降りたら、そのまま真っ直ぐ京阪電車に乗る、と。で、帰る、と。
だって、しょうがないじゃないか、と。山上にも山下にも、めぼしい遊びスポットはないじゃないか、と。
駅前には、居酒屋が一軒あるだけじゃないか、と。他はあたり一面、漆黒の闇じゃないか、と。
確かに、そうです。そそくさと帰って、当然です。しかし、それでもやはり、惜しい。
八幡には、色々と面白い所があります。石清水八幡宮を中心に、色々と面白い所があります。
京都の裏鬼門を守護する社として、または源氏の武神として、あるいは厄除の神様として、
キナ臭い創建以来1000年以上に渡り、貴賎を問わない信仰を集め続けてきた、石清水八幡宮。
その歴史の痕跡は、鎮座する八幡山 = 男山の周囲に、様々な形で紛れ込んでいます。
あるものは、観光資源に化けそうな魅力を持ってたり。あるものは、観光化が絶対不能だったり。
電飾や映像技術で偽装された幽玄さに陶酔するのも大いに結構ではありますが、
現代生活と 「歴史」 がコンフリクトする、そんなリアルな町の姿も見たいとは思いませんか。
というわけで、夜間拝観の帰りに八幡をゆっくり巡るウォーキング、設定してみました。
名づけて、八幡ナイトウォーク。歩行距離、約12キロ。所要時間、約4時間。
グーグルで 「京都府八幡市」 と検索したら 「治安」 とキーワードが提示されるような町を、
夜、真っ暗の中、不審者全開でウロウロと歩きまわろうというわけです。
独男にしか、出来ないことであります。そして、独男だけの楽しみでもあります。
歴史丸出しなスポットから、単なる地元民愛着丸出しスポットまで、
生の八幡を感じるウォーキング、さあ、出発しましょう。

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石清水八幡宮の夏の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月20日(土)


石清水八幡宮の夏の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「そうだ 京都、行こう」
「人の住んでる所を、そうだ呼ばわれすんな」 と言いたくなるこのフレーズが、
JR東海による新幹線の広告キャンペーンに使われるようになり、もう20年もの時間が経ちました。
東京から2時間というタイム感を、 「そうだ」 という無礼千万な一言を用いて表現したことで、
より京都旅行をカジュアルに、そして気軽にリピートさせることにも成功した、「そうだ 京都、行こう」 。
古典的なパックツアーを、行き先だけちょこっと目先を変えて 「上質」 なるものに化けさせ、
おかげで狭い寺に大量動員をかけ、無茶苦茶な混雑を生んだりもしてる、「そうだ 京都、行こう」 。
自分で勉強したり調べたりするのは面倒だけど、 「私だけのお気に入り」 の京都は欲しい。
知性を圧迫してエゴだけが膨張した消費者の、そんな勝手極まるニーズにもしっかりと応え続け、
京都もまた奥が深いがゆえに、無茶な注文に対応が出来てたキャンペーンなわけです。
しかし、さすがに20年もやってるとネタ切れとなったのか、「そうだ 京都、行こう」 、
遂に私の地元である石清水八幡宮にまで、その魔の手を伸ばしてきました。
「まあ神社自体はそれなりに大きいけど、それ以外は特に目ぼしいスポットは、ないぞ」
「女子供に受けがいいメシ屋やスイーツなんか、全然ないぞ」 「夜なんかもう、ゴーストタウンだぞ」
と、地元民としては思うことしきりだったりするんですが、そんなのは全て、杞憂でした。
石清水八幡宮、従来は石清水灯燎華で3日間しか行われなかったライトアップを、
キャンペーンと提携した 「夏の夜間特別拝観」 として、7月中旬から8月末まで、1ヶ月半も開催。
地元商工会も、これを機に観光客を呼び込もうと、特設ステージやイベントを用意
「私のお気に入り」 になることを、目指すというわけです。鳩が、鷹になろうというわけです。
そんな地元の奮闘、 「絶対無理じゃ」 と思いながらも、観に行ってきました。

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祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

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妙心寺塔頭・退蔵院へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月11日(木)


妙心寺塔頭・退蔵院へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

妙心寺といえば、「行く」 ところではなく、「通る」 ところ。
少なくとも花園周辺に住んでると、そんな印象を持つ方も多いんじゃないでしょうか。
禅テイスト全開の整然さを誇りながら、何故か大徳寺のような色気が無いだだっ広き境内に、
やはり整然としてるけど色気無き伽藍、そして大半が年中無休で拝観謝絶の塔頭が並ぶ、妙心寺。
臨済宗妙心寺派の大本山でありながら、ベタな観光客で溢れるようなことはほとんどなく、
といって、通気取りや穴場探しのネタになるような、消費者の自意識に優しい所もない、妙心寺。
信徒以外の人間から見ると、正直、ただただ広いばっかりという感じの寺であります。
独立した町と言えるくらい広いゆえ、クローズすると周辺住民の通行の妨げとなるということで、
山門の脇に設けられたくぐり戸は終日開放され、住民の通行が可能になってるんですが、
近所の方も、境内で足を止める人はほぼなく、自転車などでさっと駆け抜ける人が圧倒的に、多し。
「行く」 ところではなく、「通る」 ところ。そんな妙心寺であります。どんなだという話ですが。
しかし、そんな色気が全然無い、チャラチャラ浮ついたところがない質実剛健なる妙心寺にあっても、
中には常時公開され、桜のライトアップなんかを行ってしまう塔頭も、あったりします。
それが、退蔵院。室町期に開創された、妙心寺では三番目に古い塔頭です。
瓢箪で鮎を押さえるという、禅問答の世界を絵画化した 『瓢鮎図』 で有名な寺院ですが、
画家・狩野元信が、滝水が海へ流れ出る様を石と白砂で表現したという、枯山水 「元信の庭」 や、
四季折々の花々や池を配した、中根金作氏作庭による昭和の名庭 「余香苑」 もまた、有名。
やや小ぶりながら、桜もまた見事であり、2013年春は 『そうだ 京都、行こう』 とも提携。
かなり、色気を出してるのであります。「行く」 ところに、なってるのであります。
そんな退蔵院、さらに色気が増すであろう夜桜を、観に行ってきました。

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京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月5日(金)


京都府庁旧本館の観桜会へ、夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

最近よく言われることですが、京都にはレトロ洋館が結構、残ってます。
明治から昭和初期にかけて、全国に先駆ける勢いで建てられた、重厚なる洋館の数々。
大きな空襲を受けなかったためか、あるいは何であろうと大事に保存する習性が発揮されたのか、
それらは三条通を中心に結構な量&結構な質で残り、近年、人気を呼んでるわけです。
「京都の別の顔を見た」 みたいな。 「実は新しいもの好きの京都を見た」 みたいな。
個人的にはこれらの近代建築遺産、京都人の隠された進取の気風の表われたものというより、
東京遷都で焦った明治期の息吹 or 殺気をより伝えてる気がするんですが、あなたどう思いますか。
とにかく、それなりに見るべきものが多く、また人気スポットも数ある京都の洋館シーンにあって、
ぶっちぎりの由緒を持つものといえば、恐らく京都府庁旧本館ということになるんでしょう。
京都ハリストス正教会聖堂などを手がけたことで知られる京都府の設計技師・松室重光が設計し、
破格の費用をかけ明治37年に完成した、堂々たるルネッサンス様式の、府庁本館。
極めて完成度の高い意匠を誇り、そのハイクオリティぶりは単に焦りの表出レベルに止まらず、
その後、続々と洋式で建てられた各地の県庁舎の立派なお手本ともなりました。
昭和46年まで現役として使われ、以後も現在に至るまで様々な形で稼働し続けてる旧本館、
最近はもっぱらロケや結婚式、時にはコスプレ撮影会などにも活用されたりしてますが、
そんな流れの一環として、春の桜シーズンに開催されてるのが、観桜会。
口の字型に建てられた洋館の中庭に植えられた、枝垂桜。それで、花見をしようじゃないか、と。
花見のみならず、アーティストとかも呼んで、期間限定で美術館化しようじゃないか、と。
桜の最盛期には夜間も開放して、ライトアップやプロジェクションマッピングもしようじゃないかと。
それが、観桜祭であります。で、もちろん、夜間公開へ行ったわけであります。
古いものを何でも活用する京都の息吹 or 殺気、お楽しみ下さい。

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円山公園へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月30日(土)


円山公園へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵会う人 みな美しき」 。 by 晶子
というような、恋愛ハイの多幸感で自我境界線がボケた女から視線を向けられると、
「それでも今、オレのこと見て、やっぱり美しくないとか思っただろ、この糞馬鹿ビッチ女郎」 と、
一瞬で脳内が被害妄想で満たされる同志の皆さん、正気で春を迎えてらっしゃいますか。
今宵は共に、円山公園へ繰り出しましょう。そう、晶子が 「みな美しき」 と詠った、円山公園へです。
桜が満開の、そして酔っ払いも満開の、野外大宴会場と化した桜月夜の円山公園へです。
みたいなことを言うと 「そういう僻み根性に基づいた露悪的な言い方、もういいから」 と、
クールなようでいて実は単に脳のキャパが狭いだけのボンクラさんたちに敬遠されそうですが、
しかし、そもそもこのあたり一帯は、歓楽地としての歴史が長いエリアだったりします。
大正に入ってから、植治こと七代目小川治兵衛により現在の円山公園が整備される以前は、
京都初の巨大洋館ホテルや人工鉱泉浴場・吉水温泉が並ぶ、現代で言うところのレジャーゾーン。
さらにその以前は、現在も残る料亭・左阿弥を含む安養寺の六つの塔頭・六阿弥が、
料亭や貸座敷を盛大に営み、正に坊主丸儲けな享楽世界が繰り広げられてたわけです。
であれば、雅もひったくれもない猥雑なまでの野外大宴会場姿こそが、この地の本来の姿であり、
その姿が、桜の魔力により、春の間だけ蘇ってると考えるのが妥当なのかも知れません。
そう思えば、独男の目にも酔客たちが 「美しき」 に見えてくるはず・・・そう、まるで晶子のように・・・
なんてことは全くなく、出来れば、いやはっきり言えば心底行きたくないんですが、
しかしうちのモットーはメジャーどころの単独正面突破ゆえ、逃げるわけにはいきません。
夜の円山公園、わざわざ桜満開の時期を選び、ひとりで特攻をかけてみました。
途中、あまりに辛いので、恐怖スポットや寺巡りと逃げを打ってますが、
とにかく 「美しき」 夜桜と人間の姿、存分にお楽しみ下さい。

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東山花灯路2013と清水寺特別夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月9日(土)


東山花灯路2013協賛の清水寺夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

桜シーズン目前+紅葉シーズン直後という閑散期の京都で、
ベタ名所の東山&嵐山をライトアップし、夜間集客を図る電飾イベント・京都花灯路
無料のもの&光るものが好きな蛾の如き民ばかり集めて、経済効果があるのかは知りませんが、
とにかく2003年の初回以来、徐々に規模と知名度を上げつつ順調に回数を重ねてきました。
しかし2011年、そんな花灯路に試練が訪れます。言うまでもなく、東日本大震災です。
発生直後に始まった東山花灯路は、『東山祈りの灯り』 なる灯火管制モードに変更を余儀なくされ、
世間では原発が止まり、ライトアップどころか家庭レベルでまで節電が要求される事態が出来。
あの日を境に、私たちにとっての電気の意味は、完全に変わってしまったのであります。
正直、花灯路は終わったと思いました。のみならず、ライトアップ全般が終わったと思いました。
電気が余ってると思われてた頃から、浪費的にも宗教的にも批判が多かった、ライトアップ。
節電中にやれるものではないでしょう。それに、電気があり余る世の中は、恐らくもう、やって来ない。
2012年の東山花灯路は、開始から10周年ということで盛大に盛り上がってはいましたが、
「こんな馬鹿騒ぎも、これで見納めかもな」 という予感は全く払拭されることがなく、
そんな予感と共に見た電飾の光景は、言うのは嫌ですが、少し魅力的に見えたりもしたのでした。
で、その予感は、何ら終了の気配もなく例年通りに開かれた2013年の花灯路でも、
ゆとり溢れる阿呆の子たちが例年通りに騒ぎ倒す2013年の花灯路でも、実は消えてません。
うちでももちろん例年通りに特攻を行った、花灯路、そして提携の清水寺夜間拝観。
パッと見レベルでの変化の無さと、その下に隠れる危うさ&根源的な懐疑の変化の無さ、
私たちの生活が持つ矛盾・欺瞞・危うさは何ら解決も解消もされてない感じを、
写真から溢れる徒労感と共に味わってもらえると、幸いです。

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2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2013年2月3日(日)


2013年度の節分めぐり、後篇です。

太古の追儺には、は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2013年1月1日(火)


嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。

夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2013年1月1日(火)


2013年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

2011年2012年と、混んでそうなとこをあちこち特攻し、
寒さと徒労で正月早々死にかけた年越し in 京都ネタ、2013年度版でございます。
除夜の鐘が撞ける寺を巡っては大混雑で退散し、それを繰り返すうちに路上で新年を迎え、
初詣先を求めて今度は神社を巡るもまた大混雑で退散、という愚行をまた重ねるわけであります。
何故そんな下らんことをするのかといえば、もちろん、そこに年越しがあるからです。
そこに除夜の鐘があるからです。そこに初詣があるからです。決まってるじゃないですか。
わけもわからず、行く。気がついたら、既に行っている。目的や理由、由緒や薀蓄は、どうでもいい。
誰にとっても年越しは、そんな惰性と無意識が溢れかえるカーニバルのようなものでしょう。
独男の私にとっても、話は同じです。私の年越しの愚行に、理由なんか、ありません。
むしろ、理由なんか、あってはいけません。何なら、理由なく行くのが、大事です。
私の言ってることが、わかるでしょうか。私は全然、わかりません。とにかく、年越しであります。
今回は、どこへ行こうかなと。年越しで混雑になりそうなとこ、他にどこがあるかな、と。
などと狂ったことを考えてるうちに、思い出しました。メジャー観光地・嵐山へ行ってないな、と。
というか、知恩院の鐘の混雑とかはニュースで見るけど、嵐山の年越しはあまり話を聞かんな、と。
もちろん、嵐山では除夜の鐘を撞かない or 一般公開してないというわけでは、ありません。
天龍寺をはじめ嵐山にある多くの寺院では、一般の人にも除夜の鐘を開放しています。
話は聞かないけど、きっと混んでるんだろうな。であれば、行かねばならぬ。
そんな狂気の義務感に導かれて、2013年の年越しは嵐山で迎えてみることにしました。
東山界隈と同様の馬鹿騒ぎがここでも展開されてるのか or そうでもないのか。
そのあたりの徒労極まる実地確認、御堪能ください。

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京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【3】

2012年12月24日(月)


町家・懐古庵を一軒借りしての聖夜、いよいよ最終回です。

子供の頃に見た町家は、ただただ暗い気分にさせられるものでした。
下松屋町通沿いに住む親戚の家は、古い壁に虫籠窓が開いた、ただ単に古い町家。
中もまたただ単に古く、狭くて暗くて圧迫感のある部屋、得体の知れない化物が並ぶ台所、
至る所から響いてくる木の悲鳴、そして何より家そのものから濃厚に漂う不気味なオーラを感じて、
子供心に 「こんな狭くて暗くて気味悪いところには、絶対住みたくない」 と思ったものでした。
あ、為念で言っておきますが、この頃の我家は4畳半&6畳のアパート暮らし。狭いもいいとこです。
にも関わらず、町家は狭く見えたのでした。それも、自分の家と比べて、狭く見えたのでした。
何かが、いるんですよ。何かが、あるんですよ。で、それが、空間を圧迫してるんですよ。
こんな原体験を持つためか、私は現在に至るも、町家が人気を呼ぶ理由が、よくわかりません。
元から住んでた人が、家を大事に想ったり、大事に使い続けようとするのはわかりますが、
「憧れの町家」 みたいな狂気のフレーズと共に、他所の人が有り難がる理由が、よくわかりません。
90年代後半あたりから、『超力ロボ ガラット』 の主題歌で有名な某女性作詞家を始めとして、
アート or オサレな連中が多く町家へ移住しましたが、あの感じが未だに受け続けてるんでしょうか。
あるいは、リノベのオサレさが受けてるとか。でもそんなの、すぐ陳腐化するしな。
ひょっとすると、町家ブームがここまで長続き&拡大してる理由は、オサレやリノベなどではなく、
私が子供の頃に感じた町家独特の不気味さみたいなものにこそあるのかも知れません。
オサレの影で生き続ける、何か。丸出しにされると引くけど、オサレに包まれると魅かれる、何か。
人間が凄まじく狭いところへ密集し、何世紀にも渡って生活しないと醸成されない、何か。
そんな何かが町家ブームの背後で暗躍してくれてると楽しいんですが、そんな戯言はともかく、
そんな何かがかなり丸出しになってる懐古庵でのクリスマス、いよいよ最終回です。
ラストは、夜散歩、炭酸晩酌、そして狂気の朝食まで、一気に突っ走ります。
孤独、寒さ、太鼓、そして白味噌と戦う様、とくと御覧下さい。

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京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【2】

2012年12月24日(月)


町家宿・懐古庵を一軒借りしての聖夜、続きです。

京都の町家の源流は、実に平安時代まで遡れるそうですが、
現代に続く町家の形は、応仁の乱の後、町人が街の主役になってから整い始めます。
正方形の条坊制町割に秀吉が図子を通し細分化して以降、土地の高度利用はさらに活性化し、
町家本来のレゾンデートルである商売スペースの共有や、間口割の賦課金低減などのため、
家々の間口は 「間口三間」 とよく言われるようにどんどん狭化+奥行きは果てしなく深化。
いわゆる 「うなぎの寝床」 の誕生です。 「これ、どこまで続くねん」 なアレの誕生です。
この果てしなき奥行きは、坪庭を挟むような表屋造の立派な町家などにも当然活用されましたが、
土地を前後で二分し、奥には家賃収入を見込んで借家を建てるケースも、増加します。
表通りから路地 = ロージが引かれ、 その路地を 「一軒路地」 として独占的に使う一軒家や、
井戸や流しや便所が共同+路地自体も半ば公共空間と化したような長屋が、多く建てられました。
「オモテ」 に面した町家が、江戸期以降、各々の家が調和した美しい町並を形成したのに対し、
路地裏の長屋 = 路地長屋は、それらとはまた違う、生活感に満ちた独自の景観を形成。
明治に建てられたというこちらの懐古庵も、そんな路地長屋の形を伝える建物だったりします。
ゆえにここには、坪庭や通り庭、虫籠窓といった、町家の代名詞的なアイテムは、さほどありません。
しかし、ハードコアな共同生活の残り香を激烈に感じさせるオープンおくどさんを始めとして、
リノベをミニマル、あるいはミニマル以下に抑えた敷地内には、よりリアルな何かが、猛烈に残存。
昔日の生活感がきれいサッパリ脱臭されたような、オサレで現代的なリノベ町家にはない、
迫力や渋み、そしてストレンジな味わいを、そこかしらから感じられたりします。
そんな懐古庵の一軒を、ひとりで借りて過ごす、聖夜。ここからはいよいよ、夕食です。
台所が付いてるのをいいことに、リアルな生活感が残る町家に相応しい、
リアルおばんざいをリアルな手抜きで作ってみましょう。

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宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月9日(日)


宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東山に立つ禅刹・高台寺の、その和風テーマパークぶり
特に春秋のライトアップとなれば、開基・北政所ねねの夫である豊臣秀吉の魂が、
下世話さのみを抽出して再生されたかの如く、境内は絢爛&ケバケバしき輝きが、溢れまくり。
人によっては 「商業主義」 「それでも禅寺か」 と眉を顰めるような世界が現出してしまうわけですが、
しかし、90年代の改装で生まれたこの輝きが、京都観光の夜の姿を変えたのもまた、事実。
多くの寺院が追随してライトアップを始め、光へ群がる虫の如きカップルどもを動員するようになり、
近年に庭園を整備した寺では、桜も紅葉も、照明で自在に出現させる所さえ現れました。
嵐山を代表する禅刹・天龍寺の塔頭であり、近年大堰川沿いへ移転した宝厳院も、そんな寺です。
室町時代に上京区で創建されたものの、応仁の乱で焼失+同じ天龍寺塔頭の弘源寺へ移転、
21世紀に入って、これまた天龍寺塔頭であった妙智院の跡地へ移転を果たした、宝厳院。
個人所有の別荘だった時代が続いた敷地には、別荘時代に作られた大正期の書院や、
妙智院時代の遺産である 「獅子吼の庭」 、現代数奇屋の新築本堂など、それなりに見所、多し。
ですが、この寺の一番の見所は何といっても 「高台寺以後」 を強く感じさせる照明でしょう。
12月を過ぎ、紅葉の大半が散ってもなお、庭園に 「紅葉」 がある気にさせる、照明。
やり過ぎを通り越して、「そもそも紅葉とは何だ」 と思わず根源的疑問さえ発したくなるその輝きは、
「存在しない紅葉を見る」 という、ある意味で枯山水にも似た禅的境地へと俗人を誘い、
さらには、電飾庭を枯山水の 「次」 の様式として確立せんとする試みなのかも知れません。
と、書いてる自分でさえ阿呆らし過ぎて呆れてしまう戯言はどうでもいいとして、
とにかくそんな宝厳院の秋の夜間拝観、完全に真冬ではありますが、行ってきました。
折りしも嵐山は、紅葉が枯れた山を電飾で照らす無理矢理集客策・嵐山花灯路を、開催中。
無意味に青く光る嵐山を借景として、幻覚の紅葉を楽しんでみたというわけです。
冬の嵯峨野を彩る禅のエレクトリカルパレード、とくと御覧下さい。

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鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭・後篇、いよいよ祭本番です。

鞍馬の火祭は、ただいたずらに松明を大量に燃やして、
アホの外人が 「ファ━━イアァ━━━━ッ」 などと絶叫するだけのものではありません。
ちゃんと神輿も出ます。神幸祭なのですから、本殿から御旅所へ向けて、ちゃんと神輿も出ます。
天皇の病や天変地異に際し、五条天神と共に社前へ閉門・流罪の印である靫を掲げられ、
スピリチュアルなスケープゴート的役割を担ってきたという、靫明神 = 由岐神社
そして、現在はその由岐神社の相殿に 「客神」 として合祀されているものの、
かつては鞍馬寺の鎮守社であり、鞍馬山上に独立した社殿も構えていたという、八所大明神。
この二神を乗せた神輿が、鞍馬の町を巡幸することこそ、鞍馬の火祭の本義なのです。
本当かどうかは知りませんが、元来の鞍馬の火祭は、ここまで松明燃えまくりだったわけではなく、
神輿と剣鉾こそが祭のメインという、極めてオーソドックスな神幸祭の形を持ってたとか。
もちろんそれは、祭の本義というものを考えれば、当然といえる話であります。
やはり重点的に見るべきは、燃えさかる松明ではなく、神輿ということになるのであります。
百数十本の松明が鞍馬寺門前に集まる松明集合も、本義を考えれば、見なくていいのであります。
凄まじい炎の中で行われるという注連縄切りも、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
「これを見なければ、鞍馬の火祭を見たことにならない。絶対、見たい。見せろ」 と、
怒り出す奴がいたとしても、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
と、先の流れがほとんど読めること書いてますが、鞍馬の火祭レポート、いよいよ本番です。
セコいコネ使って民家へ上がり込んだり、隅っこで屏風見てクールな観察者を気取ったりせず、
超絶的な混雑へ真正面から特攻したらどうなるか、それを全身で確認してきました。
火の粉の中で燃え上がる、怒り、苛立ち、徒労、疲労、絶望、尿意、空腹、
そして興奮や歓喜などを、とことん体感的に御堪能下さい。

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鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鞍馬の火祭。京都で最もメジャーな火祭です。
今宮神社のやすらい祭広隆寺の牛祭と共に、京都三大奇祭のひとつでもあり、
京都のみならず、全国的にもかなりな知名度と集客力を誇っている火祭と言えるでしょう。
正しくは鞍馬寺ではなく、同寺境内にある由岐神社の秋季大祭である、鞍馬の火祭。
御所内に祀られていたという靫明神が、940年、朱雀天皇の勅命で鞍馬の地へ遷されることになり、
その際、鞍馬の村人たちが篝火を焚いて神を出迎えたことから、始まったとされてます。
祭の舞台は、鞍馬寺の門前集落として、また若狭街道筋の交通集落として栄えた、鞍馬町、全体。
今なお木造家屋が多く軒を連ねる町中を、数mもある松明が火の粉を散らしながら練り歩き、
最後は町内全焼+山火事大爆発の恐怖もいとわず、その松明百数十本を集め、燃やしまくり。
実に、恐るべき祭りです。が、鞍馬の火祭の真の恐怖は、火にはありません。
この祭りの開催日は、10月22日。雅なるコスプレパレード・時代祭の開催日と、同じであります。
時間的にちょうど良い感じのハシゴができるため、流れて来る観光客は極めて、多し。
しかし、鞍馬に一度でも行ったことがある人は御存知でしょうが、あそこはとても、狭い町です。
道もほぼ一本で、これまた、狭い。そこへ1万人以上の人間と、百本以上の松明が、集まるのです。
圧死の恐怖。踏死の恐怖。トイレがなくて、失禁の恐怖。食事ができず、行き倒れの恐怖。
足を滑らせ鞍馬川へ落ちて溺死 or 凍死の恐怖。などなど、恐い、考えただけで、怖い。
鞍馬の狭さを知る人なら、誰もがこの恐怖を想像し、近づきたいとは思わないんじゃないでしょうか。
私も正直、できたら、いやなるべく、いや本当はかなり絶対に、行きたくなかったりします。
が、このサイトの趣旨は、ベタスポットの単独正面突破。逃げるわけにはいきません。
というわけで、炎の狂乱と混雑の狂気の中へ、正面から飛び込んでみました。
人圧と炎熱がスパークする奇祭の様、とくと御堪能下さい。

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