2013年2月3日(日)

2013年度の節分めぐり、後篇です。
太古の追儺には、鬼は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。
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2013年1月1日(火)

嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。
夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
「花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。
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2013年1月1日(火)

2013年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。
2011年+2012年と、混んでそうなとこをあちこち特攻し、
寒さと徒労で正月早々死にかけた年越し in 京都ネタ、2013年度版でございます。
除夜の鐘が撞ける寺を巡っては大混雑で退散し、それを繰り返すうちに路上で新年を迎え、
初詣先を求めて今度は神社を巡るもまた大混雑で退散、という愚行をまた重ねるわけであります。
何故そんな下らんことをするのかといえば、もちろん、そこに年越しがあるからです。
そこに除夜の鐘があるからです。そこに初詣があるからです。決まってるじゃないですか。
わけもわからず、行く。気がついたら、既に行っている。目的や理由、由緒や薀蓄は、どうでもいい。
誰にとっても年越しは、そんな惰性と無意識が溢れかえるカーニバルのようなものでしょう。
独男の私にとっても、話は同じです。私の年越しの愚行に、理由なんか、ありません。
むしろ、理由なんか、あってはいけません。何なら、理由なく行くのが、大事です。
私の言ってることが、わかるでしょうか。私は全然、わかりません。とにかく、年越しであります。
今回は、どこへ行こうかなと。年越しで混雑になりそうなとこ、他にどこがあるかな、と。
などと狂ったことを考えてるうちに、思い出しました。メジャー観光地・嵐山へ行ってないな、と。
というか、知恩院の鐘の混雑とかはニュースで見るけど、嵐山の年越しはあまり話を聞かんな、と。
もちろん、嵐山では除夜の鐘を撞かない or 一般公開してないというわけでは、ありません。
天龍寺をはじめ嵐山にある多くの寺院では、一般の人にも除夜の鐘を開放しています。
話は聞かないけど、きっと混んでるんだろうな。であれば、行かねばならぬ。
そんな狂気の義務感に導かれて、2013年の年越しは嵐山で迎えてみることにしました。
東山界隈と同様の馬鹿騒ぎがここでも展開されてるのか or そうでもないのか。
そのあたりの徒労極まる実地確認、御堪能ください。
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2012年12月24日(月)

町家・懐古庵を一軒借りしての聖夜、いよいよ最終回です。
子供の頃に見た町家は、ただただ暗い気分にさせられるものでした。
下松屋町通沿いに住む親戚の家は、古い壁に虫籠窓が開いた、ただ単に古い町家。
中もまたただ単に古く、狭くて暗くて圧迫感のある部屋、得体の知れない化物が並ぶ台所、
至る所から響いてくる木の悲鳴、そして何より家そのものから濃厚に漂う不気味なオーラを感じて、
子供心に 「こんな狭くて暗くて気味悪いところには、絶対住みたくない」 と思ったものでした。
あ、為念で言っておきますが、この頃の我家は4畳半&6畳のアパート暮らし。狭いもいいとこです。
にも関わらず、町家は狭く見えたのでした。それも、自分の家と比べて、狭く見えたのでした。
何かが、いるんですよ。何かが、あるんですよ。で、それが、空間を圧迫してるんですよ。
こんな原体験を持つためか、私は現在に至るも、町家が人気を呼ぶ理由が、よくわかりません。
元から住んでた人が、家を大事に想ったり、大事に使い続けようとするのはわかりますが、
「憧れの町家」 みたいな狂気のフレーズと共に、他所の人が有り難がる理由が、よくわかりません。
90年代後半あたりから、『超力ロボ ガラット』 の主題歌で有名な某女性作詞家を始めとして、
アート or オサレな連中が多く町家へ移住しましたが、あの感じが未だに受け続けてるんでしょうか。
あるいは、リノベのオサレさが受けてるとか。でもそんなの、すぐ陳腐化するしな。
ひょっとすると、町家ブームがここまで長続き&拡大してる理由は、オサレやリノベなどではなく、
私が子供の頃に感じた町家独特の不気味さみたいなものにこそあるのかも知れません。
オサレの影で生き続ける、何か。丸出しにされると引くけど、オサレに包まれると魅かれる、何か。
人間が凄まじく狭いところへ密集し、何世紀にも渡って生活しないと醸成されない、何か。
そんな何かが町家ブームの背後で暗躍してくれてると楽しいんですが、そんな戯言はともかく、
そんな何かがかなり丸出しになってる懐古庵でのクリスマス、いよいよ最終回です。
ラストは、夜散歩、炭酸晩酌、そして狂気の朝食まで、一気に突っ走ります。
孤独、寒さ、太鼓、そして白味噌と戦う様、とくと御覧下さい。
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2012年12月24日(月)

町家宿・懐古庵を一軒借りしての聖夜、続きです。
京都の町家の源流は、実に平安時代まで遡れるそうですが、
現代に続く町家の形は、応仁の乱の後、町人が街の主役になってから整い始めます。
正方形の条坊制町割に秀吉が図子を通し細分化して以降、土地の高度利用はさらに活性化し、
町家本来のレゾンデートルである商売スペースの共有や、間口割の賦課金低減などのため、
家々の間口は 「間口三間」 とよく言われるようにどんどん狭化+奥行きは果てしなく深化。
いわゆる 「うなぎの寝床」 の誕生です。 「これ、どこまで続くねん」 なアレの誕生です。
この果てしなき奥行きは、坪庭を挟むような表屋造の立派な町家などにも当然活用されましたが、
土地を前後で二分し、奥には家賃収入を見込んで借家を建てるケースも、増加します。
表通りから路地 = ロージが引かれ、 その路地を 「一軒路地」 として独占的に使う一軒家や、
井戸や流しや便所が共同+路地自体も半ば公共空間と化したような長屋が、多く建てられました。
「オモテ」 に面した町家が、江戸期以降、各々の家が調和した美しい町並を形成したのに対し、
路地裏の長屋 = 路地長屋は、それらとはまた違う、生活感に満ちた独自の景観を形成。
明治に建てられたというこちらの懐古庵も、そんな路地長屋の形を伝える建物だったりします。
ゆえにここには、坪庭や通り庭、虫籠窓といった、町家の代名詞的なアイテムは、さほどありません。
しかし、ハードコアな共同生活の残り香を激烈に感じさせるオープンおくどさんを始めとして、
リノベをミニマル、あるいはミニマル以下に抑えた敷地内には、よりリアルな何かが、猛烈に残存。
昔日の生活感がきれいサッパリ脱臭されたような、オサレで現代的なリノベ町家にはない、
迫力や渋み、そしてストレンジな味わいを、そこかしらから感じられたりします。
そんな懐古庵の一軒を、ひとりで借りて過ごす、聖夜。ここからはいよいよ、夕食です。
台所が付いてるのをいいことに、リアルな生活感が残る町家に相応しい、
リアルおばんざいをリアルな手抜きで作ってみましょう。
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2012年12月9日(日)

宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
東山に立つ禅刹・高台寺の、その和風テーマパークぶり。
特に春秋のライトアップとなれば、開基・北政所ねねの夫である豊臣秀吉の魂が、
下世話さのみを抽出して再生されたかの如く、境内は絢爛&ケバケバしき輝きが、溢れまくり。
人によっては 「商業主義」 「それでも禅寺か」 と眉を顰めるような世界が現出してしまうわけですが、
しかし、90年代の改装で生まれたこの輝きが、京都観光の夜の姿を変えたのもまた、事実。
多くの寺院が追随してライトアップを始め、光へ群がる虫の如きカップルどもを動員するようになり、
近年に庭園を整備した寺では、桜も紅葉も、照明で自在に出現させる所さえ現れました。
嵐山を代表する禅刹・天龍寺の塔頭であり、近年大堰川沿いへ移転した宝厳院も、そんな寺です。
室町時代に上京区で創建されたものの、応仁の乱で焼失+同じ天龍寺塔頭の弘源寺へ移転、
21世紀に入って、これまた天龍寺塔頭であった妙智院の跡地へ移転を果たした、宝厳院。
個人所有の別荘だった時代が続いた敷地には、別荘時代に作られた大正期の書院や、
妙智院時代の遺産である 「獅子吼の庭」 、現代数奇屋の新築本堂など、それなりに見所、多し。
ですが、この寺の一番の見所は何といっても 「高台寺以後」 を強く感じさせる照明でしょう。
12月を過ぎ、紅葉の大半が散ってもなお、庭園に 「紅葉」 がある気にさせる、照明。
やり過ぎを通り越して、「そもそも紅葉とは何だ」 と思わず根源的疑問さえ発したくなるその輝きは、
「存在しない紅葉を見る」 という、ある意味で枯山水にも似た禅的境地へと俗人を誘い、
さらには、電飾庭を枯山水の 「次」 の様式として確立せんとする試みなのかも知れません。
と、書いてる自分でさえ阿呆らし過ぎて呆れてしまう戯言はどうでもいいとして、
とにかくそんな宝厳院の秋の夜間拝観、完全に真冬ではありますが、行ってきました。
折りしも嵐山は、紅葉が枯れた山を電飾で照らす無理矢理集客策・嵐山花灯路を、開催中。
無意味に青く光る嵐山を借景として、幻覚の紅葉を楽しんでみたというわけです。
冬の嵯峨野を彩る禅のエレクトリカルパレード、とくと御覧下さい。
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2012年10月22日(月)

鞍馬の火祭・後篇、いよいよ祭本番です。
鞍馬の火祭は、ただいたずらに松明を大量に燃やして、
アホの外人が 「ファ━━イアァ━━━━ッ」 などと絶叫するだけのものではありません。
ちゃんと神輿も出ます。神幸祭なのですから、本殿から御旅所へ向けて、ちゃんと神輿も出ます。
天皇の病や天変地異に際し、五条天神と共に社前へ閉門・流罪の印である靫を掲げられ、
スピリチュアルなスケープゴート的役割を担ってきたという、靫明神 = 由岐神社。
そして、現在はその由岐神社の相殿に 「客神」 として合祀されているものの、
かつては鞍馬寺の鎮守社であり、鞍馬山上に独立した社殿も構えていたという、八所大明神。
この二神を乗せた神輿が、鞍馬の町を巡幸することこそ、鞍馬の火祭の本義なのです。
本当かどうかは知りませんが、元来の鞍馬の火祭は、ここまで松明燃えまくりだったわけではなく、
神輿と剣鉾こそが祭のメインという、極めてオーソドックスな神幸祭の形を持ってたとか。
もちろんそれは、祭の本義というものを考えれば、当然といえる話であります。
やはり重点的に見るべきは、燃えさかる松明ではなく、神輿ということになるのであります。
百数十本の松明が鞍馬寺門前に集まる松明集合も、本義を考えれば、見なくていいのであります。
凄まじい炎の中で行われるという注連縄切りも、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
「これを見なければ、鞍馬の火祭を見たことにならない。絶対、見たい。見せろ」 と、
怒り出す奴がいたとしても、本義を考えれば、見なくてもいいのであります。
と、先の流れがほとんど読めること書いてますが、鞍馬の火祭レポート、いよいよ本番です。
セコいコネ使って民家へ上がり込んだり、隅っこで屏風見てクールな観察者を気取ったりせず、
超絶的な混雑へ真正面から特攻したらどうなるか、それを全身で確認してきました。
火の粉の中で燃え上がる、怒り、苛立ち、徒労、疲労、絶望、尿意、空腹、
そして興奮や歓喜などを、とことん体感的に御堪能下さい。
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2012年10月22日(月)

鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
鞍馬の火祭。京都で最もメジャーな火祭です。
今宮神社のやすらい祭、広隆寺の牛祭と共に、京都三大奇祭のひとつでもあり、
京都のみならず、全国的にもかなりな知名度と集客力を誇っている火祭と言えるでしょう。
正しくは鞍馬寺ではなく、同寺境内にある由岐神社の秋季大祭である、鞍馬の火祭。
御所内に祀られていたという靫明神が、940年、朱雀天皇の勅命で鞍馬の地へ遷されることになり、
その際、鞍馬の村人たちが篝火を焚いて神を出迎えたことから、始まったとされてます。
祭の舞台は、鞍馬寺の門前集落として、また若狭街道筋の交通集落として栄えた、鞍馬町、全体。
今なお木造家屋が多く軒を連ねる町中を、数mもある松明が火の粉を散らしながら練り歩き、
最後は町内全焼+山火事大爆発の恐怖もいとわず、その松明百数十本を集め、燃やしまくり。
実に、恐るべき祭りです。が、鞍馬の火祭の真の恐怖は、火にはありません。
この祭りの開催日は、10月22日。雅なるコスプレパレード・時代祭の開催日と、同じであります。
時間的にちょうど良い感じのハシゴができるため、流れて来る観光客は極めて、多し。
しかし、鞍馬に一度でも行ったことがある人は御存知でしょうが、あそこはとても、狭い町です。
道もほぼ一本で、これまた、狭い。そこへ1万人以上の人間と、百本以上の松明が、集まるのです。
圧死の恐怖。踏死の恐怖。トイレがなくて、失禁の恐怖。食事ができず、行き倒れの恐怖。
足を滑らせ鞍馬川へ落ちて溺死 or 凍死の恐怖。などなど、恐い、考えただけで、怖い。
鞍馬の狭さを知る人なら、誰もがこの恐怖を想像し、近づきたいとは思わないんじゃないでしょうか。
私も正直、できたら、いやなるべく、いや本当はかなり絶対に、行きたくなかったりします。
が、このサイトの趣旨は、ベタスポットの単独正面突破。逃げるわけにはいきません。
というわけで、炎の狂乱と混雑の狂気の中へ、正面から飛び込んでみました。
人圧と炎熱がスパークする奇祭の様、とくと御堪能下さい。
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2012年10月7日(日)

三栖神社の炬火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
かつて京都の南には、巨大な池がありました。
その名を、巨椋池。四神相応の朱雀にあたり、平安京の背山臨水を実現した池です。
実際にはあまりにも巨大過ぎ、池というより湖と呼んだ方が正確なサイズを誇ってましたが。
おまけに、桂川・宇治川・木津川の合流点+遊水池機能を持つため、そのサイズはかなり、可変。
池の周囲には、広範囲にわたって沼地や湿地帯ばかりが広がってたと伝えられてます。
現在は怖いダンプやトラックがバンバカ走りまくる伏見西部・横大路のあたりも、かつては、沼地。
「鳥や小動物が住む所」 という意味の 「栖」 の字を名前に含んだ中書島の西隣・三栖もまた、
巨椋池とほぼ同化した宇治川の氾濫に見舞われ、葦ばかり生える湿地帯だったとか。
それが、秀吉による伏見港開港+宇治川改修で、集落が発生+往来も活性化。
さらに時代が下ると、運河・高瀬川が開通。さらにさらに時代が下ると、巨椋池自体が干拓。
さらにさらにさらに時代が下ると、既に方向幕も出来てたという地下鉄延伸の話はどうなったとか、
京阪も新駅開設とか言ってたあの話はどうなったとかいう話になるんですが、それはともかく。
とにかく、現在は普通の住宅地に時折古い町家が混じる、渋くていい町となってる、三栖。
そんな三栖にあって、「葦ばかり生える」 頃の名残を留めるのが、その名も三栖神社の炬火祭です。
あり余る葦で巨大松明を作り、それを燃やすという、シンプル&ストレートな火祭、炬火祭。
オーソドックスといえば実にオーソドックスな火祭ですが、市街地の路上で大炎上をやるため、
いろんな意味でワイルドかつショッキングなビジュアルが楽しめる祭であります。
そんな炬火祭、火傷しそうな勢いを感じながら、見てきました。
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2012年9月15日(土)

2012年度の石清水祭、御花神饌からラストまでの後篇です。
石清水祭の旧名は、石清水放生会。
もちろん、八幡神の元宮である宇佐神宮の祭儀・放生会が、そのルーツです。
8世紀初め、律令制の徹底を目指した朝廷に対し、南九州の隼人が起こした叛乱を、
「おれが行く」 と、自分から言い出して戦場へ殴りこみ、殺戮の果てに鎮圧した、宇佐の八幡神。
しかし、殺された隼人の祟りは凶作を招き、八幡神は 「放生会で霊を慰めろ」 と、託宣。
「仏教の戒律に基づいた法会を神社で行う」 という八幡宮独自の祭儀は、ここに始まりました。
贖罪テイストが濃い端緒であります。が、別の見方をすれば、叛乱完全鎮圧の宣言とも言えます。
国的には結構、めでたい儀式になるわけです。律令制完成の、めでたい儀式になるわけです。
おまけに当時の朝廷は国を統一するため、土俗的な信仰を超越する仏教をゴリ推してましたから、
統一祝賀+仏教全開の放生会は、やがて国家的事業の性質も帯びるようになりました。
「おれが行く」 と、また自分から言い出して移座した石清水でも、放生会のそんな傾向は変わらず。
というか、都へ接近したことで神仏習合も鎮護国家もさらにブーストされる形となり、
皇室からは供花にしか見えない御花神饌なるものまで、お供え物として届くようになります。
古代染めの和紙で作られた造花による特殊神饌、御花神饌。別名、 供花神饌。
極めて珍しいこの神饌、実に戦前に至るまで御所から届いてたそうですが、戦後は途絶。
しかし近年、三笠宮彬子女王殿下が代表を務める団体・心游舎が 「御花神饌プロジェクト」 として、
一般から参加を募った子供たちと共に、神饌作りへ関わられるようになりました。
言ってみれば、ほんのちょっと旧儀に返ったような感じなのであります。
石清水祭2012後篇、その御花神饌から、スタートです。
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2012年9月15日(土)

2012年の石清水八幡宮・石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
勅祭・石清水祭。
京都の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮に於いて、9月に行われる例大祭です。
二所宗廟の一つとして朝廷から崇敬された経緯ゆえ、現在も旧儀に則って勅使が派遣され、
知名度は今イチながら、賀茂祭や春日祭と共に 「三勅祭」 と呼ばれる、ロイヤルな祭であります。
以前も書きましたが、私はこの祭の舞台となる頓宮のすぐ近所で、生まれ育ちました。
しかし、貧乏な流れ者の子だったためか、石清水祭についてほとんど何も知らないままでした。
その欠落を埋めるべく、2011年は5000円のロイヤルな参列料を払って祭に参列し、
朝の2時からオール&ノンストップで続く祭儀を、食うものも食わず&寝るものも寝ずに見続け、
その全てを全5回の超冗長な記事にまとめたんですが、しかし、勅祭はやはり、甘くない。
倒れかけながら全てを見尽くしたつもりでも、実際にはいくつか見落としがありました。
まずは、石清水祭独特のものと言われる、御花神饌。そして、放生会終了後の、舞楽奉納。
どちらも、前回見ようと思えば見れたものです。でも、見なかった。だって、死ぬほど眠かったから。
腹も死ぬほど減ってた。1秒でも早く、帰りたかった。なので、スルーしました。見落としです。
御花神饌はともかく、舞楽はさほど興味が無いんですが、でも見落としは見落としです。
というわけで、2012年度はこれらのフォローに終始。で、その他は思いっきり、適当。
参列料を払う金もないので、タダ見できるところばかりを、ひたすらダラダラウロウロしています。
なので、祭儀の詳細の方は前年の記事を御覧いただくとして、今回は空気のようなもの、
一般的な神輿大騒ぎな祭とは少し違う、石清水祭の雰囲気みたいなものを、
適当な写真&文から感じとってもらえると、幸いです。
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2012年8月31日(金)

蔵王堂光福寺へ久世六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
都ゆえに溢れる芸能、その影響を受けた、京都の六斎念仏。
しかしその講の多くは、都の中心というより周辺部、かつて農村だったエリアに集中してます。
近世、市街地に比して娯楽が少ない農村では、自分の楽しみとして、また若者流出防止策として、
多くが六斎の講を結成し、農閑期であるお盆近くとなれば、練習に励み、奉納を行ったとか。
また、大八車へ道具を積み込んで町場廻りも行い、貴重な現金収入なども得ていたといいます。
が、そんな民俗色の濃い農村エリアも、現代に入ると、格好の住宅地として開発されまくり。
六斎の講は残っても、その講の土台となった農村テイストが残る土地は、極めて稀になりました。
京都市内に点在する六斎の奉納を見て、あるいは奉納場所へ出かける途中のプロセスで、
昔は溢れてたであろう 「鄙」 な雰囲気を感じることは、少ないんじゃないでしょうか。
しかし、市の中心部から若干離れた南区久世・蔵王堂光福寺の久世六斎は、違います。
祇園祭最大のミステリーとも言われる久世駒形稚児を送り出す綾戸国中神社の近所にあって、
かつて 「京の七森」 と呼ばれた 「蔵王の森」 を持つ、修験系の寺・蔵王堂光福寺。
周辺こそベッタベタな郊外感&開発感が満ち満ちてますが、寺には濃いオーラを放つ森が残り、
八朔宵宮の8月31日夜になれば、縁日が立ち、超ネイティブな盛り上がりが展開されます。
久世六斎は、この蔵王堂光福寺発祥の六斎であり、この宵宮に行う奉納は、正にホーム公演。
他にはない大勢の観客、他にはない大勢の講員、そして森が生む闇に囲まれて観る奉納は、
「昔の六斎はこんな感じだったんじゃないか」 と思わせるものが、過剰にあります。
そんな超ディープで超ネイティブな久世六斎、忍び込んできました。
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2012年8月27日(月)

修学院の紅葉音頭を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の中心部では、盆踊りといえばもっぱら、江州音頭です。
祭やら何やらで櫓が立てば、そこへ呼ばれるのは決まって、江州音頭の音頭取り。
町内会レベルで開催される小さな盆踊り大会でも、踊られるのは大抵決まって、江州音頭。
「京都音頭」 でも 「祇園祭音頭」 でも 「西陣音頭」 でもなく、ほぼ鉄板で江州音頭が踊られます。
お隣の滋賀 = 近江 = 江州で生まれた江州音頭が、ここまで支持を集める理由は、わかりません。
近江商人の洛内進出に関係あるのかとか思ったりしますが、細かいことは全然、わかりません。
とにかく京都の盆踊りは、江州音頭なのです。みやこめっせでフェスやるくらい、江州音頭なのです。
しかし、京都でも洛北、特に北山以北、住宅地の中に農業色が色濃く残ってるエリアまで行くと、
「題目踊り」 、または 「さし踊り」 、あるいは 「鉄扇音頭」 、さらには 「ハモハ踊り」 と、
奇怪極まる名前と盆踊り本来の念仏色を併せ持つ、京都独自の盆踊りが存在してたりします。
修学院に伝わる紅葉音頭も、そんな洛北テイスト溢れるディープな盆踊りのひとつです。
晩夏に 「紅葉」 とは気が早いですが、これは修学院が紅葉の名所であることに由来する名前。
「大日踊」 という別名がある通り、踊りの意義は飢饉の死者への追悼や豊作祈願にあり、
もちろん、夜通し踊ることで情熱を開放するという側面もあった、アーシーな盆踊りであります。
と同時に、踊りそのものは御所の公卿から伝わるという伝承を持つあたりが、
日常の中に皇族やら公家からの影響が溶け込む京都らしい盆踊りという感じでしょうか。
現在はオールで踊り狂うこともなく、保存会の方々がゆったりと伝統を継承してる、紅葉音頭。
会場である鷺森神社御旅所には、子供向けのお楽しみコーナーなどが設置され、
どことなく地蔵盆の雰囲気漂う中での盆踊りが、地元の方々に親しまれてるようです。
そんなネイティブな音頭、また不審者丸出しで忍び込んでみました。
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2012年8月20日(月)

大覚寺の宵弘法へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都で送り火といえば、普通は、五山の送り火です。
盆の終わりに、帰ってきた精霊をあの世へ送り返すため行われる、炎のページェント。
現在でこそ、コンプを求め自転車やバイクで爆走する輩や、盆地性暑気にヤラれた観光客など、
「おしょらいさん」 と共にあの世へ送られそうな奴が多発する 「火祭り」 と化してはいますが、
それでも夏の京都を代表するメジャーな行事であることは、疑う余地がありません。
が、送り火は、他のところでもやってます。その多くは、より本来の目的に近い形で、やってます。
あちこちの寺でやってる万灯会もそうですし、遥か洛北の各地で行う松上げもまたしかり。
そして、「嵯峨の送り火」 なる通称を持つ大覚寺の宵弘法もまた、そんな送り火のひとつでしょう。
大覚寺。嵯峨天皇が造営した離宮を発端とする、いわずと知れた嵯峨の名刹です。
再建ものとはいえ雅な雰囲気を放つ伽藍が、元離宮の由来を感じさせること甚だしい寺ですが、
中でも日本最古の人工林泉・大沢池は、平安時代の名残をそのまま残すと言われてます。
宵弘法は、この大沢池に於いて、弘法大師・空海の月命日前夜に営まれる、法会。
もちろん 「宵弘法」 という名前の通り、法会のコンセプトは空海へ報恩の誠を捧げることですが、
雅な池のど真ん中で焚かれる火が、あの世へ帰っていく先祖の魂にも見えたのか、
近隣の住人が灯篭流して追福菩提 or 家族多幸などを祈念する送り火行事としても、定着。
普段はそれこそ雅な茶道関係者や、雅なフリをした観光客の姿が多い大覚寺も、
この夜ばかりは、ネイティブな信仰が嵯峨独特の濃い空気と溶け合う姿を見せてくれます。
供養の収入でペイできるからかどうかは知りませんが、普段はいる拝観料も、無料。
というわけで、雅でもネイティブでもない私ですが、行ってみました。
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2012年8月14日(火)

千本六斎会の千本ゑんま堂奉納へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の夏は、六斎念仏です。
大文字でもなく、千日参りでもなく、いわんや京の七夕でもなく、六斎念仏です。
私の中では、そう決まってます。初めてまともに奉納を見てハマって以来、そう決まってます。
なので皆さんも、送り火コンプなどといった下らないことは止め、六斎念仏を見ましょう。
自転車やバイクで北山通や北大路を爆走し、死にかけたり殺しかけたりして、一体何が楽しい。
あの世へ行くより、あの世から帰ってきた死者の霊と共に、夏の夜を踊り明かそうではないですか。
というわけで、六斎念仏です。それも、死霊がより沢山溢れてそうな場所で、六斎念仏です。
本来は 「六斎日に斎戒謹慎して念仏を唱える」 という宗教戒律だったものが、
都ゆえに溢れる多種多彩な芸能と結びつき、極度にエンターテイメント化した、京都の六斎念仏。
とはいえ、念仏のエッセンスは現行の六斎にも残存し、念仏狂言との関連性も、深し。
壬生寺、そしてこちらの千本ゑんま堂でも、狂言と六斎の保存会は密接な関係にあるとか。
京都の三昧地のひとつであった蓮台野 = 紫野の入口に位置し、冥界の王・閻魔法王を本尊とし、
あの世とこの世で働きまくったダブルワーカー・小野篁の伝説も持つ、千本ゑんま堂。
衆生からは、鳥辺野・六原などと同じく 「あの世へ続く場所」 として今も昔も認識され続け、
お盆となれば、西陣近辺に於ける 「精霊迎え」 スポットとして、多くの善男善女で溢れかえります。
千本六斎の一山打ち、いわばホームでのフル公演が行われるのは、その精霊迎えの頃。
お盆期間の8月11日から15日にかけて、地域の個人宅を回る勧善廻りを行い、
そのクライマックスとして、ゑんま堂狂言も行われる特設舞台にて奉納が斎行されるのです。
迎え鐘の真横での、念仏踊り。それは、死霊との盆踊りみたいなもんかも知れません。
そんな宴の様、こっそり潜り込んで見つめてきました。
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2012年8月10日(金)

宇治川花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の中心部では、あまり花火大会は行われません。
木津川花火大会の記事でも書いてることですが、行われるのは大抵、近郊 or 遠郊。
大規模な花火に適した河川敷がないためか、あるいは引火したらマズい木造建築が多いためか、
理由は知りませんが、とにかく花火を見ようと思えば街中から離れる必要があるわけです。
一番人気は、いきなり他県ですが、JRで10分&地下鉄も直通する大津での、琵琶湖花火大会。
他には、狭い場所でデカい花火をぶっ放す八木町花火大会なんてのも、穴場的な人気を誇ります。
そして、洛南のディープサウスな民から半世紀以上に渡り圧倒的な支持を集めているのが、
源氏ロマン溢れる宇治橋のすぐそばで開催される、宇治川花火大会です。
平等院&宇治上神社の世界遺産と源氏物語、そして宇治茶と、雅なアイテムをいくつも持ちながら、
独特で濃厚なるDQNテイストと、縣祭なる奇祭の伝統も、何故か併せ持つ地、宇治。
そんな宇治の地に於いて、7000発もの 「源氏花火」 が打ち上げられる宇治川花火大会は、
雅な名前に反して、地元および近隣のやんちゃな方々が大集合する、一大イベントとなります。
比較的近隣に居住し、その名を幼少の頃から聞いてきた私としては、正直、行きたくない。
興味本位であっても、冷やかしであっても、ネタのためであっても、正直、行きたくない。
心からそう思うのであり、実際、今まで見物に出かけたことは一度もありません。
しかし、このサイトの趣旨は、メジャースポットの単独正面突破。行かねばならぬのです。
いやだなあ。どれくらい 「いや」 かを確認するために行くんだけど、それにしても、いやだなあ。
およそ花火見物に似つかわしくないそんな陰鬱な気持ちを抱えながら、
花火と混雑が爆発する宇治橋へ向ったのでした。
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2012年7月28日(土)

狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
火渡り祭。読んで字の如く、火の中を渡る行事です。
タヌキの置物&自動車祈祷&ガン封じで知られる、一乗寺奥の狸谷山不動院にて、
護摩火をバンバカ焚きまくった後、その残り火の中を一般参拝者が裸足で歩く、火渡り。
何ゆえ夏の一番暑い時に、そんなデンジャラスな灼熱地獄を味わねばならんのかといえば、
無論、我々が穢れ切っているからであり、その穢れを聖なる炎で焼き尽くす必要があるからです。
この一ヶ月ほど前にあった夏越祓の茅の輪くぐりまくり記事でも、似たことを書いてますが、
タヌキゆえ手抜きでコピペしてるのではなく、こちらの火渡り祭もまた、夏越祓の一種。
八坂神社・疫神社や伏見・御幸宮神社の茅の輪、または下鴨神社の矢取り神事などと同じく、
旧暦のタイミングで穢れを祓い、夏を乗り切るための健全な心身を手に入れようというわけです。
一ヶ月しか経ってないのに、また祓うのか。茅の輪くぐりまくりでは、清め切れなかったのか。
そう問われると、「何も考えず興味本位で行ったんだよ~ん」 と、魂の真実を告げたくなりますが、
しかし、盛夏へ突入するにあたり、スピリチュアルな調整が必要なのもまた、確かなこと。
夏は、誰にとっても、我々独男にとってもなお、煩悩を刺激されやすいシーズンであります。
健全な人間が煩悩を刺激されたのなら、勝手に盛り上がって人口でも増やしとけという話ですが、
我々独男が下手に夏の煩悩を刺激されると、色々と厄介な事態が出来しがちであります。
個人の恥的にも、社会的にも、時に人道的にも、厄介な事態が出来しがちであります。
危険なのです。夏は、危険な季節なのです。なので、前もって穢れの始末をつけておきたい。
しっかりと、蓋をしてしまいたい。できることなら、完全に燃やし尽くしてしまいたい。
そんな思いに駆られ、一乗寺の坂を登ったというのはやはり大嘘ですが、
暑い季節の熱い行事、とにかく行ってきました。
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2012年7月18日(水)

高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
高良神社。
石清水八幡宮が鎮座する男山、その麓にある同宮の摂社です。
創建は、石清水とほぼ同時期。創建したのは、石清水を宇佐より勧請した、行教。
かつては、石清水祭の舞台となる頓宮や極楽寺などと共に、壮麗な山麓下院を構成し、
そのゴージャスさは、『徒然草』 に登場したかの仁和寺の法師でさえ、石清水本殿と間違えるほど。
「何事にも先達はあらまほしきもの」 という教訓を生んだ場所としても、名高い社であります。
時が幕末に至ると、鳥羽伏見の戦い+神仏分離の波乱で壊滅的なダメージを受け、
何をどう見ても石清水と間違えようのない小さな建物にはなりましたが、神社そのものは、存続。
皇族や武家などが御用達の、いわゆる 「お上の神さん」 である石清水八幡宮とは別に、
地元の住民たちを護る氏神として、現在もなお篤い崇敬を集め続けています。
太鼓まつりは、そんな高良神社で盛夏が始まる頃に行われる、例祭。
「男山の麓で、太鼓まつり」 と聞くと、ある種の性癖を持つ方は、ある種の連想をするのでしょう。
「褌一丁の男が荒々しいバチさばきを見せる」 みたいな。別方面の視線が熱い、みたいな。
しかし八幡の太鼓まつりは、そういった「太鼓の技を競う」 といったテイストの祭りではありません。
打ち鳴らすのは、いわゆる触れ太鼓のフレーズである 「ドンドンドドドン」 のみ。
この 「ドンドンドドドン」 を本当に延々と叩き続け、そのトランス的高揚で盛り上がる祭りです。
勅祭である石清水祭が 「お上の祭」 なら、こちらは正に地元の祭という感じでしょうか。
ゆえに、幼少の頃は確かにこの山麓下院で遊びまわっていたものの、
貧乏な移住者の子であった私には、正直今ひとつ馴染みがなかったりするんですが、
疎遠な母校の同窓会へ向うような気分で、とにかく行ってきました。
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2012年6月5日(火)

宇治の縣祭りへ行って来ました。もちろん、ひとりで。
「暗闇の中で、見知らぬ男女が乱交を繰り広げる、奇祭」 。
「日本の奇祭」 的な企画が雑誌やネットである度、こんなアオリで名が挙がるのが、
茶処・宇治にて新茶の季節に開かれる、縣 (あがた) 祭り、通称 「くらやみ祭り」 であります。
平等院の鎮守だった縣神社の例祭が、江戸中期の信徒圏拡大と共に膨大な客を集めるようになり、
宇治神社御旅所から行われる男根ライクな梵天渡御、祭神・木花開耶姫の安産&良縁の霊験、
そしてその両神が 「逢引」 してるかのように見えることなどもあって、祭は、何というか、無法地帯化。
無料開放された真夜中の周辺民家で、男女が文字通りの何でもありとなるこの至福の祝祭は、
「暗闇の奇祭」 「くらやみ祭り」 の名で愛され、明治維新以降も、さらには昭和以降も、継続しました。
しかし、戦後社会でそんな祭が許されるわけもなく、高度成長期あたりから乱交は、後景化。
現在では、近隣DQNこそ多く集結するものの、路上で見境無く交尾るということも特になく、
威勢の良い梵天渡御&大量の屋台がメインの、健康優良&地元密着路線の祭りとなってます。
が、縣祭りが 「奇祭」 の名に全く相応しくなくなったかといえば、案外そうでもありません。
21世紀に入り、それまで梵天渡御を担ってきた奉賛会側と、縣神社側が、決裂。
昔から両者の関係は 「神」 をめぐって裁判さえ発生するほどややこしいものだったようですが、
2003年に奉賛会が梵天を縣神社へ還す神事をすっ飛ばしたことで、対立が一気に悪化。
「神の拉致だ」 とブチ切れた縣神社側が、独自に梵天を製作&渡御を始めたため、
現在の縣祭りは、まるで 「本家」 と 「元祖」 のように、二つの梵天が存在することとなりました。
信仰が根強く息づくゆえの事態とも言えますが、根強過ぎるとも言える、ややこしき事態。
かつてとは別の意味で 「奇祭」 化しつつある、そんな縣祭りの今の姿を、
近隣ゆえ終電お構いなし、DQNまみれの中で見てきました。
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2012年5月5日(土)

石清水八幡宮の石清水灯燎華へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
石清水八幡宮と 「灯り」 は、様々な縁を持っています。
中世において油の独占的販売権を握り、その名と財力を轟かせた大山崎油座は、
そもそもは淀川を挟んで鎮座する石清水八幡宮に、灯油を納めるのを本務とした神人でした。
「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
また時代を下ると、かの発明王エジソンは電球開発の際にフィラメントの寿命で苦心、
世界中の竹を試した末、石清水八幡宮の竹が最適であることを発見、実用化にこぎつけました。
これも 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
さらに言うと、二股ソケットで日本中の家庭の電灯を消さずに済ませた松下幸之助は、
熱烈な石清水八幡宮崇敬者であり、初期松下の商標 「M矢」 は八幡御神矢がモチーフになってます。
これまた 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
こんな感じで、どことなく希薄感は漂うものの、それなりに縁がある八幡と 「灯り」 。
その縁をより深きものにしようと、GWの夜に重文・本殿を始めとして境内一円をライトアップ、
期間限定の神札などパワスポ商品も用意して、観光客との縁もついでに深めてしまおうというのが、
石清水八幡宮、春の最大集客イベントである、石清水灯燎華でございます。
灯燎華の期間は3日間。しかし、私は地元民ゆえ二夜出かけ、見所を拾いまくってみました。
荘厳なビジュアルから、妙味溢れるアイテムまで、夜の 「八幡さん」 、たっぷりとご堪能ください。
あ、ちなみにTOP画像は、エジソン記念碑のフィラメント型ライトアップです。
ドクロベエでは、ありません。ウォーズマンでも、ありません。
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