★★★ - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 4

祇園祭・後祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年7月23日(木)


祇園祭・後祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭・宵山への単独特攻、2011年の敢行以来、4年振りの復活でございます。
といっても今回特攻をかけたのは、7月16日の宵山ではなく、7月23日の宵山の方ですけど。
そう、山鉾巡行・後祭巡行の復活に伴い、こちらも復活成った 「あとのまつり」 の宵山であります。
山鉾巡行の本義は元来、祇園祭の神輿巡幸路に散在する疫神を掃除機の如く吸引し、浄めること。
神輿は、17日に八坂神社→御旅所の神幸24日に御旅所→八坂神社の還幸が行われるので、
山鉾巡行も当然ながら両日に行う必要がある、というか実際、ずっとそういう形で行われて来ました。
が、時代が昭和の高度成長期に至り、交通麻痺緩和&観光客の集中的集客を考えた京都市は、
山鉾巡行の前祭巡行&後祭巡行の統合、即ち、昭和モードとして認識されている合同巡行を提起。
1966年に山鉾巡行の17日一本化は開始され、前夜の宵山もまた16日へ一本化されたのであります。
以降、山鉾巡行の観光化は果てしなく進み、それと同時 or それ以上の勢いで宵山もまた、観光化。
浴衣コスプレの観光客&近隣エリアのDQNが10万単位で大量に集結する馬鹿騒ぎと成り果て、
あらゆる独な者にとって鬼門たる行事となっていたのは、2011年の特攻記事でも触れてる通りです。
しかし、祭を本来の形へ戻したいという山鉾町の願いは強く、21世紀以降は旧儀復活が本格化、
2014年には大船鉾と共に24日の後祭巡行が復活し、それに併せて23日の宵山も復活したのでした。
実に目出度い目出度いという話ですが、しかし約半世紀という長きブランクを挟んでの復活に際し、
後祭巡行は 「復活というより新設に等しい」 とも言われ、その辺の事情は後祭宵山もまた同じ。
その辺、どうなるかという話であります。外野の人間としては、実に無責任な興味が涌く点であります。
「宵山」 と聞けば蛾の如く集まる観光客&DQNにより、馬鹿騒ぎの日が増えるだけになるのか。
あるいは逆に、知名度が全然浸透せず、混雑が発生するほどの人出もない地味なものになるのか。
その辺を確認し、そして 「新設」 の雰囲気がどんなものなのかを、ざっくり拝ませてもらいました。
加えて、宵山の重要行事である日和神楽&南観音山の 「謎」 な風習・あばれ観音も、目撃。
「最新型」 の宵山は、独な者でも楽しみ方が見い出せるものになってるでしょうか。

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新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年5月5日(火)


新熊野神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「新」 と書いて、 「しん」 と読まずして、 「いま」 と読む。
「本当」 と書いて 「マジ」 と読む類の話ではありません。新熊野神社の話です。マジです。
平安末期、陰謀&戦乱で忙しい後白河法皇が、その忙しさへ追い打ちをかけて熊野信仰へハマり、
何十回と紀州熊野詣を行うも気が済まず、京都・若王子へ熊野神を勧請するもまだ気が済まず、
より 「なう」 感覚を導入するかの如く、院政の舞台・法住寺殿の鎮守として創建された、新熊野神社
清盛らが担った造営に於いては、リアル熊野がある那智の砂が運び込まれたという説もあるなど、
後白河院個人のオブセッションを強く反映される形で創建された印象のある社ではあります。
が、後白河院亡き後もこの社は、現在では想像できない広大な社領&荘園を持つ社として、継続。
また、熊野は修験道の聖地でもある為、新熊野社に於いても多くの山伏が旺盛な活動を展開。
さらに室町時代に至ると、観阿弥世阿弥親子による猿楽能を、足利義満がこの社で初めて見物し、
能が幕府の庇護を受けるきっかけとなった 「能楽発祥の地」 としてのエピソードも、有名でしょう。
応仁の乱の兵火で一時 「わず」 状態へ陥りますが、江戸期に入ると聖護院などの力を借りて、再興。
「いま」 は、すっかり宅地化した今熊野の氏神的存在として、ネイティブで強い信仰を集めてます。
そんな新熊野神社が毎年5月5日のこどもの日、年に一度の例大祭として執行する神幸祭は、
千年単位のロイヤルな由緒と、 「なう」 な現在進行形の信仰の両方を、垣間見させてくれる祭です。
子供の神輿&マーチングバンドが登場するあたりは、実に宅地のネイティブ祭という感じですが、
氏子域の巡行にあたって神が乗るのは、一般的な神輿ではなくクラシックな鳳輦と、極めてロイヤル。
また聖護院との深き縁に因むのか、山伏による神仏習合全開な行列同行+鳳輦への読経もあり、
さらには獅子舞の演舞も大々的にフィーチャーするなど、賑やかで面白い祭となってます。
そんな 「いま」 の神幸祭、のんびり拝ませて頂きました。

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将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年4月4日(土)


将軍塚へ、夜桜と夜景を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

夜景を観たいという気持ちが、私は湧かないというか、そもそもよくわかりません。
函館長崎といった夜景で知られる街へ出かけた際も、特に観たいとは思いませんでした。
長崎では、道に迷った流れで偶然に夜景を観ることにはなりましたが、これといった感慨も湧かず、
むしろ迷路めいた街自体や、日常に紛れ込む被爆者向けの各種案内が印象に残ったものです。
人間には、空から地を見る人と、地から空を見る人の、2種類が存在するのかも知れません。
私はきっと、後者なんでしょう。空から地を見下しても、何かを読み取ることが出来ないんでしょう。
ある意味、 「夜景不感症」 なわけですが、この症状、京都の夜景がしょぼいことも一因と思われます。
巨大建造物も無く、海など自然の演出も無く、人々の細々とした生活が見えるだけの、京都の夜景。
不感症を誘発するネガティブ・イメージを植え付けられた人は、案外多いのではないでしょうか。
あんなん観て、どうすんのん、と。あんなん観て、何が面白いのん、と。阿呆ちゃうのん、と。
とはいえ、 「夜景は観るものではなく性的に活用するもの」 という元気な輩はどこにでもいるのであり、
また、己で己を 「空から地を見る人」 と言い聞かせたい煙のような習性を持つ輩もいるのであり、
こうした連中がしょぼ過ぎる夜景をわざわざ観るというスポットもまた、京都にはいくつか存在します。
その代表が、将軍塚。東山に連なる華頂山にあり、現在は青蓮院門跡・別院になってる塚です。
そもそもは、遷都先を探していた桓武天皇が、ここから盆地を見下ろし平安遷都を決めた場所であり、
遷都後は王城を霊的に守護すべく、完全武装した巨大な将軍像が埋められたという伝説もあり。
国家危機の際は、この将軍像が山を揺らし、鳴動を起こすというスピリチュアルな伝承も誇りますが、
高度成長期に東山ドライブウェイが開通すると、一転して夜景スポットしての世俗的な名声を獲得。
華頂山山中でサルベージされたという大日如来を祀る大日堂も、春・秋にはライトアップを展開し、
美しく照らし出された桜や紅葉がしょぼい夜景を盛り立てて、不感症の進行を防いでくれたりもします。
当サイトでは2011年、開花直前という意味不明なタイミングにて一度将軍塚を訪問してますが、
2014年に大規模な改装が行われたので、その確認も込みで今回、桜の季節に再訪してみました。
しょぼ過ぎる夜景は、桜の魔力により鮮やかな美景へと生まれ変わるのでしょうか。

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石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月11日(水)


石清水八幡宮のエジソン生誕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

エジソンと、絵馬。食い合わせの悪さは、確かに否定出来ません。
しかし、 「1%のひらめきと99%の努力」 を 「1%のひらめきと99%の訴訟」 ともじられるほど、
訴訟に明け暮れた俗物として名高く、数多くの黒歴史エピソードも残したこの 「発明王」 が、
その一方で宗教、更には 「あっち」 方面にも強い関心と探究心を抱いていたことは、割と有名です。
あらゆる宗教書を読破すると共に、ブラヴァツキー夫人達が神智学協会を設立すると即入会、
晩年は 「魂というエネルギーは死後も存在する」 と言って、霊界通信機の開発に挑んだ、エジソン。
天才ゆえの奇人的側面と嗤うのも、老化でボケたと一蹴するのも、共に簡単な話ではあります。
が、この 「メンロパークの魔術師」 にとって電気は、単に 「科学」 の領域で完結するものではなく、
背後に神の領域、未知なるハイヤーパワーの領域が広がるものだったのではないでしょうか。
ロマンに湿る科学者の眼ではなく、新たな商圏を追い求めるゲス商人の眼を持っていたからこそ、
彼には神の領域、ハイヤーパワーの領域が、極めて具体的に 「見えていた」 のではないでしょうか。
「見えていた」 からこそ、 「自分は宇宙エネルギーの触媒」 的なことさえも語った、エジソン。
そんなハイヤーパワーの僕たるエジソンが、人類を 「光」 のネクストフェーズへ導こうとした瞬間、
神仏習合の神・石清水八幡宮の神威が、和洋も習合し働いたのは、ある意味、必然かも知れません。
電球のフィラメント開発にあたり、より長時間使用が可能な植物をエジソンが世界中で探した末、
ここ八幡の真竹が選ばれたという、凄いと言えば凄いけど、どうでもいいと言えばどうでもいい逸話。
しかし、我々が見据えるべきなのは、この逸話の背後に隠された神々のシンクロニシティであり、
シンクロニシティの根源たるハイヤーパワーだけが生み出し得る、人類の真なる 「未来」 なのです。
石清水八幡宮に於いて、エジソン誕生日に行われるエジソン生誕祭は、無論、その為の企て。
「和洋もひったくれもなく乗っかれるもんなら何でも乗っかってしまえ」 的イベントなどでは断じてなく、
また 「偉人との縁でちょっと高価めの絵馬を作り一儲け」 的な企画などでも、断じてありません。
我々は、 「未来」 を見るのです。エジソンの視界に同期し、エジソンが見た 「未来」 を見るのです。
私の地元である石清水の力を借りて、見るのです。ちょっと高価めの絵馬越しに、見るのです。
という感じで、エジソン生誕祭、地元の者として厳粛に紹介させて頂きます。

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2015年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

2015年2月3日(火)


2015年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

節分めぐり、もうめぐるべき所は大体めぐってしまったんですよね。
2011年よりやってるこのネタ、1年毎に数ヵ所を回る為か、正直、かなりネタ切れ気味です。
無論、細かい所を穿っていけば、まだまだ色んな地域で色んな行事が行われてはいるんでしょう。
深層意識の内で今なお旧暦のタイムテーブルが拘束力を保持し続けてる為なのか何なのか、
「これこそが本来の年越し」 とでも言わんばかりに、正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
比較的小規模な行事もフォローし始めた場合、底無し沼状態へ突入することも予測されます。
しかし、当サイトの趣旨はあくまで、超メジャースポットおよび超メジャーイベントの単独正面突破。
「見ぃつけた!」 と幼児性を意図的に偽装してるつもりで無自覚に無知・無神経を垂れ流す輩や、
自己愛+承認欲求+山師根性から観光資源の乱獲に励む輩などとは、一線を画さざるを得ません。
というわけで、メジャー級スポットで行ってない節分って何処かあったかなと、しばらく悩んでました。
が、ありましたよ。松尾大社ですよ。 「洛西の総氏神」 として信仰を集める、松尾大社ですよ。
平安遷都より以前の創建という猛烈に古い歴史を持ちながら、現役仕様のネイティブ信仰を集め、
京都市西側の大半が含まれる巨大な氏子域と、凄まじく盛り上がる大祭・松尾祭を誇る、松尾大社。
そんな松尾大社の節分では、祇園祭に於ける奉納で京都でも御馴染みの石見神楽を招聘。
八岐大蛇がとぐろを巻く神楽の奉納と共に、無茶苦茶恐ろしい造形の顔した鬼が 「鬼の舞」 も披露。
豆撒きも無論行われ、松尾っぽいワイルドな豆争奪戦が、豆撒き自体より楽しかったりします。
なので2015年の節分は、まずそちらへ御邪魔して、正しく乾の方角から現れた鬼&豆撒きを堪能し、
続いて京都ウェッサイ節分シーンに於けるコアたる壬生寺を改めて訪問し、節分狂言を再堪能。
壬生寺では、2012年訪問時に金をケチって宿題にしたほおらく奉納を、今度はしっかり行い、
ついでといっては何ですが、近くの神泉苑でも念仏狂言援助の意味でほおらくを奉納してきました。
例年に増してコンセプトも大義もなく、ただただ流れてるだけの適当過ぎる節分彷徨ですが、
故に溢れるユルくて妙に多幸的な気分、感じてもらえると幸いです。

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2015年への年越しを、八幡で迎えました。もちろん、ひとりで。

2015年1月1日(木)


2015年への年越しを、八幡で迎えました。もちろん、ひとりで。

年越し、当サイトでは年末年始もネタにすべく、何年にも渡り京都で続けてきました
しかし、考えてみれば私の地元・八幡での年越しを、まだちゃんとした形で記事化してません。
もちろん初詣の名所・石清水八幡宮 = 「八幡さん」 には、何度となく年始にお参りしてはいますが、
大抵はネタ徘徊を重ねた末、あたかも飲みの〆のラーメンの如き姿勢で赴いていたのであり、
「八幡」 ということにこだわって、全てを 「八幡」 に絞り込む年越しというのは、やってませんでした。
これは、いかん。これではまるで、地元へ帰らず京都に来て年を越す観光客みたいではないか。
地元へ帰れば自身のつまらぬ生まれに嫌気が差すのか、親不孝&罰当たりにも帰省せず、
といって海外へ出かける金も無いので、安上がりに京都へ来て、他人の家の伝統行事へ割り込み、
それを以て 「オトナの年越し」 とさえ言い出しそうな阿呆の観光客と、丸っきり同じではないか。
これは、いかん。正気で考えると、 「いかん」 と考える方がいかん気もするけど、これは、いかん。
安易な情報主義、安易な体験主義、双方の悪所を集めた安易なコミュニケーション至上主義を廃し、
「夢の島」 の如きネット空間にて血の通った表現の獲得を目指すことこそ、当サイトの真なる目的。
八幡という辺境から京都を見ることで生じるバイアスや異常性を、敢えて前面へ押し出すことで、
所与の重力と向き合い、共に踊り、そのグルーヴを以て何かを語ることこそ、当サイトの真なる目的。
となれば、生臭いエゴを膨脹させる阿呆な年越しに、これ以上荷担するわけには行きません。
というわけで、2015年の年越しは八幡から一歩も出ず、除夜の鐘から初詣までをこなしてみました。
除夜の鐘は、江戸時代・寛永年間のタイムカプセルの如き伽藍を誇る寺である正法寺にて撞き、
初詣は言うまでも無く石清水八幡宮にて行うという、八幡年越し黄金コースを敢行することで、
改めてこのサイトのコンセプト、あるいはスピリットのようなものを、再確認してみたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、寒い最中にあちこちをウロウロするのが、いい加減しんどくなったのでは、ありません。
断じて、昼寝してたら寝過ごし、近所で済ませざるを得なくなったのでも、ありません。

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御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年10月12日(日)


御香宮神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御香宮神社。洛南・伏見にあって、 「伏見の総鎮守」 と称される神社です。
清和天皇から名を贈られたと伝わるも、基本的には創建の詳細が不明なほどの歴史を誇り、
山村・石井村・船戸庄村・森村・久米村・北尾村・北内村・法安寺村・即成就院村という伏見の村々、
すなわち 「伏見九郷」 より、伏見城築城の遙か昔から総鎮守として信仰を集める社であります。
その伏見城築城の際には秀吉により移転させられますが、家康の代には現在地へ帰還し、
その家康により社殿も再建され、孫娘・千姫の誕生祝いとして2.3トンに及ぶ 「千姫神輿」 もゲット。
この神輿を得た御香宮神社の秋祭、通称 「伏見祭」 は、伏見城が廃城された後も更に活性化、
維新の波乱や現代の変化も乗り越え、神輿を分割した現在もその勢いは止まるところを知りません。
一週間以上に及ぶ期間、各種行事&子供が多いエリアゆえに活況を極める夜店が展開され、
中でも宵宮に行われる花傘パレードの凄まじさは、当サイトでも2011年にお伝えしてる通りです。
で、今回はその 「伏見祭」 最終日、正にクライマックスたる神幸祭に出かけたわけですが、
えと、あの、今回はいつもと比べてちょっと、いやかなり、いやはっきり言って非常に、日和ってます。
当サイトの祭記事は、ストーカーの如く神輿や行列を追尾しまくってるのが常態なんですが、
今回は門前付近で神輿などを淡々と待ち、宮入りだけ見るという、淡々モードの見物となってます。
待ってる時間もまた、淡々と露店を冷やかしてみたり、あるいは淡々と担々麺を食ってみたりと、
まるでサイト名が 『独虚坊の京都幸せおでかけ日記』 に化けたようなユルさ爆裂状態になってます。
何故こうも日和ったかといえば、 「伏見九郷」 を回る神輿の巡幸範囲が、広過ぎるからです。
酒蔵界隈は無論、北は深草、南は向島、東は六地蔵に及び、更に3基の神輿は別行動。追えません。
加えて、獅子舞や武者行列なども別ルートで参加し、おまけにこれらの全てが早朝から巡幸。
完全追尾はおろかチョイ見を重ねることさえ無理と判断し、淡々見物を渋々決断したのであります。
というわけで、担々麺に加えて豆腐ハンバーグまで混入するユル過ぎ記事となってますが、
しかし、あるいはそれ故に、街に充満する祭の気配は、よりリアルに感じられるかも知れません。
「洛南の大祭」 とも呼ばれる、その大祭ぶり、街の息吹と共に御覧下さい。

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上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年9月9日(火)


上賀茂神社へ鳥相撲を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

重陽五節句の中でも、正直、浮かばれない印象が否めない節句です。
3月3日は、上巳の節句で雛祭5月5日は、端午の節句。そして7月7日は無論、七夕
ついでに言えば、1月1日・元旦の代わりたる1月7日もまた、人日の節句ということで七草粥と、
五節句を構成する他の節句がかなり or それなりの人気と盛況ぶりを見せてるのに対して、
9月9日の重陽の節句は、現状としてはぶっちゃけ、人気以前に認知度さえ高いとは言えません。
数多ある節日の中から奇数のゾロ目日を選び、室町期の頃から祝されていたという、五節句。
江戸期に入ると幕府公認の祝日 = 式日となったことで、民衆から圧倒的支持を受けるようになり、
明治維新の際に公式には廃止されるも、雛祭&端午の節句&七夕は継続して人気を獲得。
根強いのであります。ターゲットが子供だからか何なのか、他の節句は実に、根強いのであります。
しかし重陽は、仲秋の名月に押され気味なのか何なのか、若干、浮かばれないのであります。
菊花を浮かべた菊花酒で、長寿を祝う節句であるにも係わらず、若干、浮かばれないのであります。
そんな不遇さに同情するのか、または宮中行事として菊花宴が催された実績を重視するのか、
あるいは 「明治以降のものは基本、全否定」 という集合無意識による闇のフォースが作用するのか、
京都では超メジャー級を含むいくつかの寺社が、この浮かばれない節句を祝う行事を開催。
世界遺産・上賀茂神社で9月9日に行われる鳥相撲 (からすずもう) も、そんな行事のひとつです。
祭神・賀茂建角身命が、東征する神武天皇を八咫烏に変化し導いた伝承を持つ、上賀茂神社。
その祭神の祖父・賀茂建角身命が、神に相撲を上覧したことに始まるともされる烏相撲は、
刀禰が横飛び+鳥鳴きを披露し、子供相撲が同時開催されるという、実に不思議でのどかなもの。
とはいえ、雅な由緒をアピールするためか、葵祭の花形・斎王代がオブザーバーとして参列し、
さらには菊花酒の振る舞いが行われることもあり、不思議ながらも人気が高い行事となってます。
子供相撲が写真アップ禁止ゆえ、何やってるか全然わからんビジュアルが続く内容ですが、
とにかくそんな不思議な鳥相撲、菊の露の香りを感じながら御覧下さい。

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佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年8月14日(木)


佐伯灯籠、前篇の続きです。

私の母の故郷・八木町氷所は、畿内隼人の移配地という説があったりします。
室町時代隼人正・中原康富による 『康富記』 に、そう書かれてるとか。 「丹州少所」 と。
では、それにまつわる何らかの伝承が身内で伝えられているかといえば、そんなもんは全然なく、
そもそも隼人移配が行われたのは奈良時代以前なので、細かいことは悉く不詳なんですが。
千年以上前の話ゆえ場所もまた怪しく、 「丹州少所」 と比定される場所は他にも存在したりします。
それが、氷所から10キロほど南の、佐伯。そう、佐伯灯籠を観に今回訪れた、旧佐伯郷です。
畿内隼人が実際に住んだ 「朝恩の地」 としては、氷所よりこちらの方が確証度は全然高いそうで、
呪力を買われ朝廷の近習も務めたという隼人の、ゆえに持ち得た公家とのコネクションこそが、
この灯籠祭のルーツと考えられている風流灯籠の下賜をもたらした、という見方もあるとかないとか。
佐伯灯籠の人形を見てる間、ずっとその事を考えてました。何か隼人と繋がりがあるのかも、と。
一般的な文楽人形とは、サイズも、テイストも、そして放つオーラも明らかに違う、人形。
その人形が、演技で醸成する物語の情感を越え、体の奥から立ち昇らせる、より原初的な何か。
その何かとは、ひょっとすると、文楽完成以前を遙かに越え、風流灯籠が生まれた室町期さえも越え、
人形により隼人が幻惑&虐殺された、720年の隼人の乱にまでリンクするものではないか、と。
いや、無論これは、適当極まる妄想に過ぎません。 「日本にもピラミッドが」 的な話に過ぎません。
しかし、そんな正気の判断を振り切り、ミッシングリンク妄想へ人を駆り立てる異様な魅力が、
この美しくて、ミステリアスで、そして何かしら恐ろしささえ孕む人形にあるのもまた、確かなのです。
そんな佐伯灯籠、後篇であります。後篇は、人形浄瑠璃の続きと、神輿行事であります。
親の実家の近所ゆえ、馴染む空気を感じると同時に余計にアウェーも感じる妙な状況ですが、
とにかく時間が許す限り、そのミステリアスな魅力を堪能させてもらいました。

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佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年8月14日(木)


佐伯灯籠へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

佐伯灯籠。亀岡市旧佐伯郷、現・ひえ田野町で行われる夏祭です。
亀岡市ひえ田野町というのは、亀岡の西部、JR亀岡駅から5キロほど西へ行った辺、
『大林幸二ときょうの夜』 によく出てくる松園荘がある湯ノ花温泉、そのちょい東側にあるエリア。
同町に鎮座する薭田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿神社の合計4社が合同で執り行う、
五穀豊穣を祈願する神事と、祖霊を慰める盂蘭盆会の仏事が習合した祭典が、佐伯灯籠であります。
何ゆえ夏祭なのに、 「何ちゃら祭」 といった名前ではなく 「灯籠」 なる名前が付いてるかといえば、
この祭に灯籠、それも長い歴史を持つ灯籠が、大きくフィーチャアされてるからに他なりません。
京都の周辺部には、室町時代に都市部で流行した風流灯籠の風雅を伝える祭が現在も存続しており、
当サイトでも訪れた八瀬の赦免地踊りはその代表例ですが、こちらの佐伯灯籠もまた、そのひとつ。
寛喜元年に勅使・広幡大納言より5基の神灯籠を下賜されたことから始まるとされるこの祭は、
現在もその5基の神灯籠が、一年の稲作の場面を人形を使って飾りつける役灯籠という形で存続。
また、国内では唯一ともいう一人使いの串人形を用いた人形浄瑠璃が演じられるのも、特徴。
さらには神輿も繰り出して、祭終盤の深夜には役灯籠と神輿が追いかけ合うような 「灯籠追い」 や、
バンバカ打ち鳴らされる太鼓台に神輿が乗っかるという豊穣祈願テイスト爆裂の 「太鼓がけ」 も展開。
農村の習俗+都市の風流、神の神事+仏事の盆会、古風な人形+近世の浄瑠璃などなど、
京都周辺部のエッセンス or 旨みの如きものを、凄まじい濃度で圧縮したような祭なのであります。
そんな佐伯灯籠、行ってきました。といっても基本的には、夕方以降の浄瑠璃を見てただけですけど。
昼間も、御霊神社での人形浄瑠璃奉納や大松明炎上など、興味深い行事が多い祭ですが、
時間の都合が合わず夕方から出かけ、帰れるギリギリまで見せてもらったわけです。
口丹波の盆夜に展開されるミステリアスな幻惑の世界、御覧下さい。

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鍵善良房でくづ切りを、八坂神社・夏越祓の帰りに食べてきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月31日(木)


鍵善良房でくづ切りを、八坂神社・夏越祓の帰りに食べてきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、くづ切りと決まってます。
「誰が決めた」 と問われたら、私が決めました。今、ここで、決めました。
「くづ切りなんかどこでも食えるだろ。それに近畿圏で葛といえば吉野に決まってるだろ」
などという訳知り顔の正論は、人々の勝手な幻想がふき溜るこの街では、何の効力も持ちません。
そう、ここは、京都。 「京都といえば」 が枕詞なら、どんな出鱈目も通ってしまう魔都、京都。
「京都の夏といえば、かき氷」 程度は無論、 「京都の夏といえば、すき焼き」 でも案外平気で通り、
「やっぱり」 や 「あえて」 も使えば、安易なブランディングが無限に成立する、魔都なのです。
言い切れば、何であろうと真実になります。それが貴方の、真実の京都なのであります。
無論、その真実は、貴方自身のことでもあります。京都を語ることは、常に己を語ることであります。
「京都といえば、パン」 「京都といえば、ケーキ」 「京都といえば、チョコレート」、全部、OKです。
それが、貴方の京都なんだから。それが、貴方自身なんだから。しょうがないですよね。
という感じで、得体の知れぬスイーツが我が物顔で 「京都」 を名乗る昨今の動勢を考慮すれば、
私がくづ切りを 「京都の夏の風物詩」 と勝手に断言した所で、多分、どこからも文句は出ないはず。
それに、紫紅社 『きょうの京都』 においても、さらには淡交社 『京都歳時記』 においても、
くづ切りは 「八月」 の項に 「夏の風物詩」 「夏に食うもの」として、しっかり掲載されてますしね。
なので、京都の夏といえば、くづ切りであります。しょうがないことなく、くづ切りであります。
そんな京都のくづ切りといえば、祇園・四条通の鍵善良房が、最も有名ということになるでしょうか。
ランチジャーみたいな箱に入ったくづ切りは、誰もが一度は見たことがあるかも知れません。
その鍵善良房へ、混迷を極める京都のスイーツシーンの今後を見据えるべく出かけた、
というのはもちろん大嘘で、実は八坂神社夏越祓の帰りに何となく寄っただけなんですけど。
フラっと食したくづ切りの涼しさ、夏越祓の雑なレポと共にお楽しみ下さい。

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鞍馬寺の竹伐り会式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年6月20日(金)


鞍馬寺の竹伐り会式へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「金星」 「650万年前」 「宇宙エネルギー」 「サマートクマラ」 などなど、
ややアストラルな検索ワードでうちへ飛んでくる方も多い、京都パワスポ界の雄・鞍馬寺
実際、それこそ金星人やアセンションといった 「あっち」 な話題の多いスポットではありますが、
現世に於いても千年を超す古刹として、もうちょっと 「こっち」 な由緒もまたこの寺院は持ってます。
平安遷都以前の770年、鑑真和上の高弟・鑑禎がこの地にて毘沙門天像を祀ったことに始まり、
遷都後には造東寺長官・藤原伊勢人が、千手観世音を追加で祀ると共に、堂塔伽藍を建立。
平安中期には東寺の高僧・峯延が根本別当に就任、後に中興の祖と崇められる働きを見せたことで、
鞍馬寺は特に金星人の力を借りることも無く、洛北の名刹としての道を歩むようになったわけです。
ただこの峯延上人、東寺出身らしく呪術に長け、 「あっち」 的とも言える逸話もあったりします。
修行中の上人にある日、 「舌長きこと三尺ばかり、さながら火炎の如し」 という大蛇が襲来しますが、
上人はひるまず、当時恐らくバリバリだった東寺仕込みの真言を唱え、霊力のみで大蛇を呪殺。
朝廷より派遣された人夫50人で運んだ大蛇の死体は、刀でぶった切られ、崖へ捨てられたそうです。
「あっち的」 というよりは完全に 「あっち」 というか、とにかく色んな意味でパワフルな逸話ですが、
鞍馬寺ではこの逸話に因んだ儀式を今も続けており、それこそが今回訪れた竹伐り会式であります。
鞍馬寺の門前組織・七仲間の最有力集団であり、 「鞍馬の火祭」 でも活躍する大惣法師仲間が、
大蛇に見立てた竹を往時の僧兵の如き姿で勇ましく叩き割る、毎年6月20日開催の竹伐り会。
2つの座がその年の豊作を賭け速さを競い合うルールも手伝い、実にワイルドとなるその伐りの様は、
牛若丸&弁慶&天狗の伝説をも想起させる、鞍馬らしいロマンに溢れたものと言えるでしょう。
そんな竹伐り会式、6月の湿気に満ちた暑さの中、テクテクと徒歩で山を登り、出かけてきました。
「あっち」 と 「こっち」 が交錯するロマンと、 そのロマンに引き寄せられた大量の人民が、
山上の境内で汗まみれになって集結し入り乱れてる様、とくと御覧下さい。

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三室戸寺へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年6月18日(水)


三室戸寺へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

あじさいって、案外、人気があるんだな。
そう思ったのは、藤森神社・紫陽花苑の記事へのアクセス数を見た時です。
うち的には明らかに、多い。それも 「藤森神社 あじさい」 と明記して飛んでくる方が、多い。
「藤森神社」 だけで来る方の十数倍の数に及ぶため、人気の中心があじさいであるのは、明白。
うちのサイト以外に藤森神社・紫陽花苑の情報を扱うとこが少ないとも思えないので、
これはやはり、あじさいという花そのものに、多くの人が関心を持ってるということなんでしょう。
となれば、目先の客数を稼ぐべく、再び藤森神社へ出かけて記事を作ろうかなとも思ったんですが、
しかし、京都に於けるもうひとつのあじさいスポットの存在を忘れてることに、気が付きました。
そう、三室戸寺であります。かの西国三十三観音霊場十番札所、三室戸寺であります。
源氏ロマンの地・宇治にあって、でも中心部から離れてるため徒歩かタクシー以外に足がなく、
それ故に行くのが何となく面倒臭くなって、何かとすっ飛ばされがちな名刹、三室戸寺。
しかし、「みむろ」 という名が 「おむろ」 の変化したものという説が体現してるように、
光仁天皇による創建、そして白河花山両帝の深き崇敬と、やんごとなき由緒を持つ寺であります。
もちろん、観音巡礼の札所として庶民からも篤い信仰を集め続けてはいますが、
その観音巡礼を中興したのも花山帝だったりと、そのやんごとなさ加減、実にやんごとありません。
「歩くの、何かダルい」 などとほざいて参拝を怠れば仏罰必定というものでありますが、
そんな怠惰な愚民も観音の慈悲へ触れさせるべく、三室戸寺は昭和62年から庭園を整備。
花山天皇観音巡礼中興1000年を記念し、観音浄土の再現を目指して行われたこの整備により、
三室戸寺は四季を通じて花が咲き、梅雨時はあじさいが人気を呼ぶようになりました。
「あじさい寺」 とも呼ばれる有数のあじさいスポットとなったそんな三室戸寺へ、
またアクセスが稼げるかなと、ノコノコ出かけたわけです。

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鴨川川床カフェめぐりをやってみました。もちろん、ひとりで。

2014年5月29日(木)


鴨川川床カフェめぐりをやってみました。もちろん、ひとりで。

真面目な話、うちのサイトで最も客が来るのは、川床カフェの記事です。
貴船で川床カフェを2軒めぐった記事です。ひろ文の記事ではなく、カフェの記事です。
祭やイベントなどの時事的な瞬間風速により、他の記事が最多記録を越すことはありますし、
何故か 「祇園花月 ガラガラ」 というワードで来る人が、トップに迫る勢いで多かったりもしますが、
継続かつ安定して高い数字を稼ぎ続けてくれるのは、あくまでも貴船の川床カフェの記事です。
「貴船 川床 安い」 または 「貴船 カフェ」 あるいは 「川床 カフェ 安い」 といったワードで、
検索結果の時点でも根性最低とわかるこんなサイトにさえ、多くの方がやって来るわけであります。
「消費者のニーズに応える」 という正論の暴力が、至る所で文化&精神の破壊を巻き起こし、
「根源的懐疑の忘却」 という欲望の下、利害が真逆であるはずの資本と貧民が結託する、現代日本。
そんな腐った状況に反旗を翻すべく、わかりやすさ&便利さを徹底排除してる当サイトとしては、
いくらニーズが高かろうと 「川床 安い カフェ」 的な激安万歳記事を量産するわけには、いきません。
しかし正直、目先の客も、欲しい。その大半が10秒以内に帰る直帰客であっても、正直、欲しい。
心の中で 「信念」 と 「目先の客」 を天秤にかけてみました。天秤、 「信念」 ではない方に傾きました。
えと、あの、何というか、そんなわけで、ひとりでめぐる川床カフェめぐり、めでたく復活です。
それも、今度はより客数が稼げそうな鴨川に於いて、復活です。いや、めでたい。実に、めでたい。
気温の保健所的問題のため、貴船と違って昼間の営業が5月&9月しかない、鴨川納涼床。
夜は夜で当然普通に稼ぎ時ゆえ、隙間営業的なカフェが開く期間&時間はかなり限られますが、
それでも昼床期間は幾つかの店舗が、比較的安く床を楽しめるカフェ営業を行ってます。
そんな鴨川川床カフェへ、激安ニーズを抱く同志の期待を背に、連続特攻をかけたわけです。
単純激安路線への一応の抵抗として、今回はサイドオーダー必須の掟も勝手に設定。
胃と心と財布を無為に痛めつけながらのめぐりぶり、おつきあい下さい。

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京風宮廷タイ料理・佛沙羅館で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2014年5月23日(金)


佛沙羅館で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

川床で供される料理は、京料理に限られるわけではありません。
川の風で涼みながらの食事が、川床の本義。故に、和食必須の掟など、本来はなし。
そんな本義を無限に拡大解釈するかの如く、現在の鴨川納涼床は多様な料理が揃ってます。
フレンチ、イタリアン、中華、韓国、エスニック etc 。 「和」 もひったくれもない、正に無国籍状態。
また、本義から考えれば座敷である必要もないということで、椅子席化する店も、増殖中です。
ホームセンターで安価に買えそうなテーブル&椅子が並ぶ床を、外からながら見かけると、
「風情が無い」 「単にテラス席」 「いや雪洞があるからビアガーデン」 と、勝手を言いたくなりますが、
しかしそんな外来食×椅子席の店に、多くの客が集まってるのもまた、紛れもない事実。
特に昼床では、客単価設定が低いめか、その手の店の賑わいがより露骨に顕著だったりします。
この現状、ベタの単独正面突破を趣旨とするうちとしては、見過ごすわけにはいきません。
当サイトでは、予算不足ゆえ昼床ばかりではありますが、川床へ何度か特攻を試みてきました
が、よりベタらしいベタさを押さえるため、赴いたのはいずれも、オーセンティックな和食店。
増殖を続ける椅子床&和食以外の床は、まだ全然フォローできてなかったのです。これは、いかん。
というわけで2014年の川床特攻は、京料理+座敷とは別のベクトルの店へ目を向けてみます。
で、今回赴いたのは、佛沙羅館。仏と言っても、精進料理の店ではありません。タイ料理の店です。
京都のタイ料理界では草分け的存在であり、町家をリノベした 「京風宮廷タイ料理」 が売り。
ですが私的には、路地入り口へ置かれた川床にあるまじきガッツきぶりを誇る立て看に、
「宮廷」 らしからぬ濃い口なインパクトを感じ、前の道を通る度に印象的な店だったりします。
タイ料理店ながら、夏期は川床もしっかり展開。5・9月は、お得な昼床もあり。
で、看板が誘う路地裏のタイ川床へ、白昼堂々忍び込んでみました。

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松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭追尾、前篇からの続きです。

このサイトを始めてから、私が最も衝撃を受けたのは、松尾祭です。
「半笑いで京都を面白がってやろう」 「それでゲスいアクセス集めて、広告で儲けてやろう」
「こんな面白いこと思いついて実行する俺って、最高」 と、糞の如き考えでネタ集めを始めた私に、
2011年4月に追尾した松尾祭の神幸祭は、凄まじいまでのショックを与えてくれたのでした。
当時の記事を読むと、わけのわからん熱気に憑かれた内容で、自分でも奇妙に思える程ですが、
何がそんなにショックだったかといえば、上手く言えませんが、本物だったからではないでしょうか。
「本物」 や 「ほんまもん」 といった括弧付のものではなく、単なる本物がそこにあったというか。
伝統保存系 or 町おこし系の、ある意味で辛気臭かったり胡散臭かったりする盛り上がり方とは違う、
町に生きる人間が自主的かつ好き勝手に盛り上がってるという、極めてリアリティのある祝祭。
それでいて単なる享楽のみならず、千年前からの歴史と現在が直結もしてるという、ダイナミックさ。
こんな祭が、こんな本物が、京都にあったのか。知らなかった。完全に、舐めていた。
本物の衝撃を正面から喰らったことで、ぼ~っと見てただけとはいえ腐り切った性根を叩き直され、
以後は、真摯に向き合うべき事象には出来る限りのリサーチと共に真摯な態度で向き合うよう心がけ、
そうでないものには半笑いではなく全笑いの態度で臨むようになったんですが、それはともかく。
そんな腐れナルシスの性根をも叩き直してしまった松尾祭、還幸祭追尾の後篇であります。
前半では、地元町内を巡行した6基の神輿が西寺公園へ集結+再び出発するまでを追いましたが、
後篇では、御前通北上+朱雀御旅所巡幸+旧街道巡幸+松尾大社への宮入りまでを、追尾。
いや追尾といっても、再三言ってるように、全貌を追うにはこの祭の規模は余りにもデカ過ぎるため、
ヘタレ気味にちょこちょこっと幾つかのポイントで覗いてる程度の内容ではありますけど。
おまけに後半は神輿写真の波状攻撃で、もはや何が何だかわからん世界になってますが、
本物の祭が持つ本物の熱気、気配くらいでも伝われば、幸いです。

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松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2014年5月11日(日)


松尾大社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

松尾祭。文字通り、松尾大社のお祭りです。
平安遷都以前に右京一帯を開発した渡来系の秦氏によって創建された古社であり、
遷都以降は 「賀茂の厳神、松尾の猛霊」 として賀茂社と並び王城鎮護を果たした、松尾大社。
そんな猛烈に古い歴史を持ちながら、今なお完全に現役仕様の信仰を集める社でもあり、
その氏子域は 「洛西の総氏神」 の呼び名の通り、北は等持院・南は吉祥院・西は嵐山・東は朱雀と、
誇張でも何でもなく京都市の西側地域の大半が含まれるという無茶苦茶な規模を誇ってます。
そんな松尾大社が春に行う松尾祭は、 「総氏神」 の名に相応しいワイルドかつダイナミックなもの。
かつては賀茂社・葵祭と同じく勅祭であり、松尾使なる勅使の社参があったという松尾祭ですが、
時の流れと共に氏子域が農村地域と結合し、それに従い農村的な祭のテイストを導入、
6基の神輿が広大なエリアを動き回る、京都の祭の中でも極めてアーシーなものとなってます。
神輿が桂川を渡る舟渡御を挟む4月末の神幸祭は、2011年に当サイトでも記事にしていましたが、
神幸を追ったなら還幸も追おうと、今回は神輿6基が本社へ帰る様を追いかけてみました。
新暦導入以前は、 「お出」 こと神幸が卯の日、「お還り」 こと還幸が酉の日に行われていたため、
「うかうかとおいで、とっととおかえり」 とも呼ばれていたという松尾祭の神輿巡行ですが、
現在は神幸が4月20日以後の最近日曜、還幸はその3週間後である5月中旬に行われてます。
神幸は神幸でそれこそ舟渡御を含む無茶苦茶にハードなものですが、還幸もまた激ハード。
朝から神輿が氏子域をまわりまくり、昼には西寺公園 aka 旭の社にて神事、朱雀御旅所でも神事、
もちろんその道中のあちこちで神輿を何度も何度もさし上げまくるという、とんでもないものです。
余りにとんでもなくかつエリアが大規模であるため、とても全部を追いかけること出来ず、
昼の西寺公園集合から神輿中心に断続的に眺めるという、かなりヘタレな追尾となってます。
前半は特に移動一切なし、西寺公園の神輿と神事を集中的に御覧下さい。

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善峯寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月11日(金)


善峯寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

写真家の水野克比古が、淡交社 『京の古寺から 善峯寺』 において、
祖母と一緒に歩いて善峯寺を参拝したという話を、子供の頃の思い出として書いてます。
曰く、電車の最寄り駅から7キロにも及ぶ距離を歩いた、と。2時間以上もかけて坂を登った、と。
それほど善峯寺は、遠くて、しかも交通が不便な所にある大変な寺だという話であります。
が、逆に考えると、2時間歩けば着くのであり、ありえないほど遠い寺ではないという話でもあります。
無論、現在は少なめながら路線バスが走り、団体バスもガンガン坂道を登っていく善峯寺ですが、
鉄道は今なお近くを全然走っておらず、公共アクセスは必ずしも良好とは言えません。
で、その程良い距離感と程良い不便さが、程良く俗界と一線を画すると共に秘境的な付加価値も排し、
ある意味、好き者を呼ぶ山奥の寺より大らかで清廉な印象を与えてくれるスポットだったりします。
西山善峯寺。京都・西山にあって、名の通りの山岳寺院なビジュアル誇る寺です。
平安中期に開かれて以来、親王の入寺が相次ぎ、後鳥羽天皇からは 「善峯寺」 の寺号を下賜。
室町期には山上にありながら僧坊が52にも及ぶ大寺へと発展しましたが、応仁の乱で焼失。
江戸期に至って、徳川第5代将軍・綱吉の生母にして西山出身の桂昌院から庇護を受けることとなり、
観音堂や鐘楼などの諸堂、そして国の天然記念物である遊龍の松が揃い、現在に至ってます。
小振りに再興されたとはいえ、現在の境内も約3万坪と通常からしたら破格に広大であり、
全部見て回ると、テーマパーク疲れというか、単純に猛烈な肉体疲労を誘引されること、必至です。
そんな善峯寺、境内では四季折々の花が咲き、秋の紅葉は特に知られますが、桜もまた名物。
樹齢300年ともいう桂昌院お手植えの枝垂れ桜以外は、成長段階の樹が多いですが、
ゆえに清廉な色づきが美しく、山上で空の青と響き合う様は、山岳寺院ならではの眼福でしょう。
京都にあって京都らしからぬダイナミックな桜、少し遠出して堪能してきました。

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平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年4月10日(木)


平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平野神社の周囲はかつて、辺り一面が長閑な農地だったそうです。
住宅地&西大路通&そこを通る立命●●学生に囲まれる現在からは想像が困難ですが、
佐野藤右衛門分厚い桜本によると、実に昭和初期に至るまで農村の雰囲気は残ってたとか。
へ~、という話ではあります。ただ 「元農村」 が全く想像つかないかといえば、そうでもありません。
すぐ隣の北野天満宮には、道真以前から五穀豊穣を祈願する雷神信仰が存在したというし、
秋のずいき祭に登場するずいき神輿などは、正しくこの地の旧来の風土性を現在へ伝えるものです。
で、そんな 「農」 or 「土」 なこの地の歴史と性質を感じさせてくれるもう一つのエレメントこそ、
当の平野神社の名物 or アイデンティティ or レゾンデートルとして有名な、桜ではないでしょうか。
「平凡苗字神社」 と、当サイトで阿呆なタグをつけてるほど平凡な苗字の如きその名に反し、
桓武天皇によって平安遷都と同時に奈良から勧請された、極めてロイヤルな由緒を誇る、平野神社。
名物の桜もまた、花山天皇による手植えに始まるという、ロイヤルな由緒を誇るものであります。
応仁の乱の際には、西軍の拠点に近いため一度は社殿や領地ごとズタボロと化しましたが、
江戸期に至ると、宮司として社の再興を果たした西洞院時慶が、現在のベースとなる桜苑を整備。
さらに近くの西陣が織物で隆盛を誇り始めると、西陣に密着した桜の名所として、発展を果たしました。
故にというか何というか、私にはいかにも京都的な 「街中の桜」 に見える平野の桜ですが、
戦後すぐの頃は桜樹を取っ払って芋が植えられたというくらい、元来この土地は肥沃なのであり、
桜も芋も育んだその肥沃さは、農地に囲まれてたかつての時代に醸成されたものかも知れません。
そんな平野神社、桜シーズンの真っ只中に、祭を開催してます。その名もずばり、桜花祭。
花山天皇の時代に始まったとも言われてる祭礼を、大正期に復活させる形で開始されたこの祭は、
恐らく明治の上知以前の神領地だったエリアを、古式に則った祭礼列が回るというもの。
都市化された元の農地を、まるで桜を育んでくれた礼をするように、神が巡幸するわけです。
そんな桜花祭、ユルく追尾すると共に、桜苑もユルく鑑賞してきました。

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文の助茶屋へ寄ってから、八坂庚申堂の初庚申へ行きました。もちろん、ひとりで。

2014年2月18日(火)


文の助茶屋へ寄ってから、八坂庚申堂の初庚申へ行きました。もちろん、ひとりで。

八坂道は私にとって、迷うことが案外多い道だったりします。
えと、八坂通というのは、東山の八坂道のことです。八坂の塔へ続く、あの道のことです。
清水寺などと並ぶ超メジャー級京都観光アイコンである、あの塔が突っ立ってる道のことです。
「何をどう迷うのか」 と思われるかも知れませんが、正にあの八坂の塔があるが故に、迷うのです。
塔で視野狭窄になってる観光客を、疲労と徒労を回避すべく視界から省く癖がついてしまい、
そのうち八坂の塔そのものも見てるだけで疲れてくるので、知覚から削除する癖がついてしまい、
そのため土地鑑が歪に狂い、方向感覚が壊れ、何となく迷いがちになってしまったというか。
知覚と認識の遮断による、土地鑑と方向感覚の混乱。そんなのを、私は八坂通に感じるのです。
で、そんな感覚遮断を誘発させる八坂通に、 「見ざる聞かざる言わざる」 の八坂庚申堂があるのは、
当の八坂庚申堂からすると 「知るか」 という話でしょうが、私には腑に落ちることだったりします。
八坂庚申堂。正式名称、大黒山金剛寺延命院。ネイティブな通称は、単に 「庚申さん」 。
日本に於けるほぼあらゆる事象について、 「京都が一番」 「京都が最初」 を自称する京都ですが、
庚申信仰三猿についても無論 「日本最初」 を押さえてて、それがこちらの 「庚申さん」 です。
平安京構築への貢献で知られる秦氏が、本尊として中国より招来したとされる青面金剛を、
秦氏滅亡の後にこの地へ安置したのが始まりという、やはり極めて古い由緒を持つお堂であります。
で、そんな八坂庚申堂が旧暦最初の庚申日に行う初庚申へ、のこのこ出かけたわけですが、
「庚申さん」 、現在は観光地のど真ん中ながら実にネイティブなお堂で、初庚申もまたネイティブ。
基本、猿型の蒟蒻焚きを食う他には、特にすることがありません。ネタ的に正直、不安です。
というわけで、 「庚申さん」 の近くにあって実に観光地らしい佇まいの文の助茶屋にも立ち寄り、
早春を告げる和菓子であるわらび餅を食らってから出向く、という流れにしてみました。
猿と蒟蒻とわらび餅が錯綜する八坂の迷宮、迷ってみて下さい。

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