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京料理・梅むらへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年9月29日(木)


京料理・梅むらへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「にらみ川床」。
それは、晩夏の京で行なわれる、密かな愉悦。
政治的無力さと、気位の高さと、吝嗇と、そしてマゾヒズムが、
「にらみ鯛」などという、食への愛と冒涜を同時に満たす放置プレイを生んだこの地に於いて、
「にらみ川床」はその放置をさらにエスカレートさせた、禁断の戯れ。
もちろんそれは、鴨川の川原から貧民よろしく床を見上げて、
「あんなもん、ぼったくりや。涼しゅうもないし、味も大したことない。見栄ばっかり張ってアホちゃうか」
などと「酸っぱい葡萄」をマニュアル通りにこなすようなものでは、ありえない。
しかるべき金銭を支払い、川床を眺めながら食事を楽しみつつ、でも一歩も足を踏み入れない。
川床を、目の前で、放置する。ただ、じっと、見るだけ。お前になんか、指1本、触れてやるか。
床は床で、そんな腐れ変態の世を拗ねた遊びを、快しとはしない。
好きでもないが、誘ってやる。引き入れてやる。吸い込んでやる。こっちへ、おいで。
9月末の床には、もはや、テーブルも何もない。全ては片付けられ、何もない。
からっぽの床には、今年ここで行なわれたであろう様々な饗宴の残り香だけが、漂っている。
その残り香から幻の酔客を生成し、床は、腐れ変態を誘う。「こっち来て、一杯どないですか」と。
誘いに乗ると、終わりだ。自分自身が、幻、残り香になって、床と一緒に片付けられてしまう。
からっぽの床と、孤独な男が、歪んだ愛と存在の駆け引きを楽しむ、「にらみ川床」。
それは、夏と秋の間に一瞬生じる魔界なのかも知れない・・・。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【5】 還幸の儀

2011年9月15日(木)


延々と続けてきた石清水祭レポート、遂に最終回でございます。

地元民の思い入れゆえ延々と続けたのかというと、そういうわけでもありません。
私は、この祭りが斎行される頓宮から徒歩5分のところで生まれ育ち、
正に頓宮、放生川、あるいは八幡山全域を遊び場として、幼少期を過ごしてます。
が、この祭儀のことについては一切知りませんでした。私の親もまた、知りませんでした。
たまたまウチが流れ者の貧乏一家だから知らなかった、というわけでもないでしょう。
祭りといえば、ただ縁日に行くのみ。多くの八幡人にとって、石清水祭はこんな感じだと思います。
要するに石清水八幡宮って、お上の神さんなんですよね。
京都の裏鬼門守護のため建立され、例大祭には天皇陛下の使者が直々に派遣され、
国家の一大事には山が鳴動する神社。あくまで鎮護国家、国のための神さまというわけです。
なので平民の我々は、神の間近にいても何をやってるのか全然、見えない、気づかない。
祭りだって気軽に観れる時間にやらないし、気軽に払える金で観せないし、気軽な格好も許さない。
京都市内の神社の祭りに多く溢れる熱気や一体感、町衆自治の誇り、
あるいは神社そのものに漂う、人々から愛されてることに由来する優しさやあったかさ。
そういったものは、ここにはありません。それは確かに、少し寂しいことなのかも知れません。
が、それゆえに、かつてのやんごとなき方々への態度、やんごとなき祭りへの態度を、
生臭いまでに現代へ伝承してるかも知れないのです。
そんな石清水祭のフィナーレである還幸の儀、タダ見可能な行列部分は大幅カット、
大金払わないと見れない「神のおかえり」を、お楽しみください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【4】 放生会-法華三昧

2011年9月15日(木)


石清水祭、遂に午前中の行事ラストの放生会でございます。

ご存知の方も多いかも知れませんが、石清水八幡宮はもともと神仏習合の宮寺でした。
もちろん、幕末までの大きな神社はどこもそんな感じではあり、
京都でも八坂神社がかつて「祇園感神院」と仏教丸出しの名前で呼ばれていたことは、有名です。
特に「仏教に帰依して、国家鎮護の神とならん」とか言ってしまう八幡神はその傾向が強かったようで、
京都の裏鬼門・男山に鎮座して以降、石清水八幡宮でも神と仏は濃厚に入り混じり続けました。
「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊が山のそこら中に建ち、その寺には数百人の僧が住み、
神社の管理もまた僧が担当し、あげく名称も「石清水八幡宮寺」という思いっきり寺全開状態。
それが明治初頭の神仏分離により、寺はほぼ完全に破却、文化財は流出、僧はトンズラ。
現在の「山の頂上に本殿があり、あとは野生」という清々しい神社ができあがってしまいました。
当然、石清水祭も神仏分離の影響を蒙って、旧儀廃絶・名称変更・再興を繰り返してるわけですが、
現在に至るまで元通りに再興できなかったのが、かつて祭の名称であった、放生会。
「放生会」という仏教的な名のとおり、僧参列のもと執り行われるのが本来の姿だったそうですが、
明治維新以降は仏教色を排し、神道式による行事として今日まで斎行。
それを元の神仏混合に戻そうと、2004年には特別行事として比叡山の僧職と共に放生会を開催。
そしてついに今年、やはり比叡山の僧職に出仕を賜り、
石清水祭の当日に国家鎮護の神仏が相集う形で、めでたく放生会を行うことになりました。
実に140年ぶりのことであります。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【3】 奉幣の儀

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭、ひとりで行ってます。続きです。

宇佐の地から京都の裏鬼門・男山へ八幡神が勧請された4年後の863年、
石清水八幡宮の例祭・石清水祭は、「石清水放生会」として始められました。
始めは単なる私祭でしたが、承平天慶の乱の調伏などで八幡宮が朝廷の崇敬を得るようになると、
勅使の御差遣が開始され、勅祭化。やがて、雅楽寮の楽人舞人による楽舞も、開始。
賀茂・松尾・春日・平野などに比べると新参もいいところの石清水は、凄まじい成り上がりを見せ、
遂には伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟としての地位を確立、
放生会には、太政官の最上位である上卿が、参議以下の諸官を率いて参向するようになりました。
と、上り調子だった石清水八幡宮ですが、応仁の乱により祭りは200年ほど、中絶。
江戸時代に再興されますが、明治維新の神仏分離で祭りどころか神社そのものがズタボロに。
のちに明治天皇が旧儀復興を仰せ出されたおかげで、何とか官祭としてまた再興しますが、
敗戦後の昭和20年にまたしても旧儀、中絶。24年には三度、再興。で、現在に至ります。
【2】でも触れましたが、「勅祭・石清水祭」、現行の制度上では全てが、私祭です。官祭ではなく。
現代の勅使を担当する掌典職は、皇室の宮中祭祀を担当する部門。
政教分離のため、給与は天皇家の内廷費、ポケットマネーから支払われています。
いわば、天皇家の私的使用人に相当するわけです。宮内庁職員 or 国家公務員ではないわけです。
が、石清水祭のパンフレットなどでは堂々と「私祭」「官祭」という言葉を、大々的に使用。
「まだ戦争は終わってないっていうか (by 電気グルーヴ)」な勢いを感じることしきりですが、
これから始まる奉幣の儀は、戦争どころか平安時代さえまだ終わってないような、
荘厳と雅を極め倒す祭儀が繰り広げられるのであります。
勅祭の勅祭たるパート、官祭のコアブロック、とくと御堪能ください。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【2】 神幸の儀-絹屋殿の儀

2011年9月15日(木)


石清水祭は、大きく分けて以下の次第で行なわれます。

①神幸の儀 (AM2:00)
 御鳳輦(ごほうれん)に御神霊を乗せ、約500名の神職・楽人・神人と共に山をおりる祭儀。
②絹屋殿の儀 (AM3:40)
 下院頓宮前に設けられた絹屋殿にて、里神楽奉納、そして勅使が頓宮まで案内申し上げる祭儀。
③奉幣の儀 (AM5:30)
 頓宮へ奉遷された御神霊に、天皇陛下より賜る御幣物、そして神饌が奉献される古儀。
④放生会 (AM8:00)
 男山山麓を流れる放生川へ魚鳥を放つと共に、太鼓橋にて童による胡蝶の舞が奉納される祭儀。
⑤還幸の儀 (PM5:00)
 再び御鳳輦に遷された御神霊が、約500名のお供を連れて、山上本殿へ還幸になる祭儀。

このうちからはほぼ、ノンストップ。文字通りの、オールナイト状態。過酷であります。
ちなみに有料参列者しか見れないのは、および。情報が極端に少ないのも、ここです。
なお、今年はに比叡山延暦寺の僧職そして天台座主が出仕され、後に法華三昧法要も厳修。
あと、ハーフタイムとも言えるの間には、頓宮前舞台にて舞楽・演武奉納が行なわれます。

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石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【1】 イントロダクション

2011年9月15日(木)


石清水八幡宮の石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水祭。
京都の裏鬼門を守護する八幡市の石清水八幡宮に於いて、毎年9月15日に行われる例祭です。
上下賀茂神社の葵祭、そして春日神社の春日祭と並び、
天皇陛下の使者である勅使がじきじきに差し遣わせられる三大勅祭のひとつであります。
別名、南祭。対応する北祭とは何かといえば、もちろん京におけるもうひとつの勅祭・葵祭。
この二つの勅祭、実に対照的だったりします。
白昼の都大路に平安絵巻を現出させ、巨大な観光資産でもある葵祭が「表」の祭りだとすれば、
観光客がアクセス困難な真夜中に、僻地にて行われる石清水祭は、いわば「裏」の祭り。
鞍馬寺のウエサク祭でさえ参拝客に考慮して早めに終了するこの御時世に、
日時変更一切なし、大雨食らいがちな季節なのに雨天順延もなしという、強気過ぎるスタンス。
人間よりも神の都合を最優先して斎行され続けてる祭りなのであります。

しょっちゅう書いてることですが、私は八幡市の住民です。
なので、この石清水祭も何度か見てます。が、肝心の祭儀そのものは見たことありません。
勅使参向の祭儀を見るには、奉賛金を払わなくてはいけないからです。その金額、5000円。
500円ではありません。5000円です。五千円。
普通なら即時撤退の額ですが、しかし今年は思い切って大枚払い、参列してみることにしました。
理由は、石清水祭に関する情報が少ないから。特に、参列の情報がすごく少ない。
単に需要がないからかも知れませんが、それならそれで新たに八幡の魅力を知ってもらいたい。
そんな思いで身銭を切り、見れるものを全て見てきました。
そしてその経験は、私の故郷に対する認識を大きく改めさせられるものでした。
このネタは、ちょっと真面目にやります。真面目かつ、しつこくやります。元出かかってますからね。
まずは前日の宵宮などをイントロダクションとして、お楽しみ下さい。

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大覚寺の観月の夕べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年9月11日(日)


大覚寺の観月の夕べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

中国より伝わった「観月」が、貴族の間で流行った平安時代。
当時の雅人たちは、中秋の名月を直接見ず、杯や池に月を映して楽しんでたんだとか。
都のはずれにある嵯峨野の苑池など、きっとその格好の舞台であったことでしょう。
平安京を完成させた嵯峨天皇が、この地を仙洞と定め造営した、嵯峨離宮。
離宮の一部として中国の洞庭湖に模して造られたという、日本最古の人工林泉、大沢池。
数々の歌にも詠まれた名勝であるこの池に映った満月を、
オーナーの嵯峨天皇はもちろん、招かれた文人墨客たちもまた、愛でていたに違いありません。
嵯峨天皇崩御の後、皇女・正子内親王の勅願により離宮は門跡寺院・大覚寺となりましたが、
大沢池は驚くべきことに、平安期の宮廷文化華やかなりし頃の形を現在もほぼ、保持。
中秋の名月の時期になるとここで行なわれる「観月の夕べ」もまた、
二隻一対となる龍頭鷁首をあしらった舟を池に浮かべる、王朝時代の雅なるフォーマットを遵守。
平安のまんまの「観月」を、平成の現在において楽しめるのでございます。
雅なのででございます。それゆえ、雅もひったくれもなくなるほど、人が集まるのでございます。
「観月の夕べ」、外から見てると「舟券」は大体すぐ売り切れ。
「混み過ぎて池に落ちた奴がいる」みたいな話も、ちょくちょく聞くことあります。怖い。
しかし、何度も書いてますが、このサイトのモットーはベタスポットの単独正面突破。
中の様子はどうか、その前に果たして舟には乗れるのか、自分を実験台にして確かめてみました。

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八大神社の鉄扇音頭奉納を観に行ききました。もちろん、ひとりで。

2011年8月31日(水)


八大神社の鉄扇音頭奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、いわゆる盆踊りというものが、ありません。
いや、そんなことはないか。ある、確かにある。町内の盆踊り大会も、あるといえばあります。
しかし、何というか、「京都といえば○○音頭」みたいなのは、ないんですよね。
祇園祭音頭とか、舞妓はん音頭とか、そういうのはあります。西陣音頭もあったかな。
でもそういうのは、まあ、そういうものです。伝統というよりは、昭和のテイストが濃いものです。
民俗的な匂いが残る盆踊りは都市部では見当たらず、滋賀県の江州音頭が妙に浸透してたりして。
若干中心部を離れると、今度はあくまで「魅せる」芸能的な六斎念仏が、一気にメジャー化。
「みんなで、一緒になって、踊る」ということが、あんまりないわけです。
千年単位でこの街に根付く個人主義が、原始的な集団エクスタシーと相性が悪いのか。
7月の祇園祭で全ての祝祭エネルギーを使い果たすため、8月に余力など残ってないのか。
それともやっぱりただただ暑いので、夜であろうと踊る気になどなれないのか。
理由はいくつか妄想できますが、とにかく現状、京都の街中にめぼしい盆踊りはありません。
が、六斎念仏の盛んな旧農村エリアよりさらに外、特に洛北方面へ行くと、
今度は超素朴&超ネイティブな盆踊りが、しっかりと受け継がれてたりします。
鉄扇音頭や題目踊りなど、音頭の原始形態を保ち、念仏の香りが濃厚に漂う音頭の数々。
8月の末に八大神社で行なわれる鉄扇音頭奉納も、そんな音頭のひとつなのです。

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梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月28日(日)


梅宮大社・嵯峨天皇祭での梅津六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

梅宮大社。祭神は名前の通り、梅宮辰夫です。もちろん、嘘です。
本当の祭神は、本殿に酒解神・大山祇神をはじめとする、四柱。
相殿には、平安京を完成させたといわれる嵯峨天皇と、その后である橘嘉智子ら、四柱。
橘氏の氏神として山城国相楽郡に創建されましたが、遷都に伴い現在地の梅津へ移転。
一門から皇族に嫁いだ橘嘉智子が、この神社に祈願+仁明天皇を懐妊したことは有名であり、
「梅」という言葉の響きもあってか、子授け・安産の神としても崇拝されてます。
そんな梅宮大社の夏の大きなお祭りが、嵯峨天皇祭。
浅からぬ縁があることを反映して、嵯峨天皇の命日8/28に近い8月最終日曜に、祭礼を開催。
といっても、雅かつ堅苦しいものではなく、午前中には小学生らによる奉納相撲、
午後らは参道に露店が並び、夜には盆踊りも完備の、地元密着系のアーシーな祭りであります。
で、何といってもこの祭りの目玉は、梅津六斎保存会による奉納公演。
現在でこそ郊外住宅地の梅津ですが、昭和に入って高度成長期に至るまではずっと、農村。
京都の都市郊外の他の農村と同じく、ここでも大いに六斎念仏は隆盛したといいます。
中断や再興を経ながらも、その精神は現在の講中にもたっぷりと受け継がれ、
トップ画像を見てもらえば一発でお分かりの通り、六斎ならではのディープさを放っているのです。

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化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月24日(水)


化野念仏寺の千灯供養と愛宕古道街道灯しへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

化野。平仮名にすると、あだしの。
お好きな方はとっても大好き、「化」の字からしてその手のオーラを放つエリアであります。
もともとは鳥辺野・蓮台野などと共に、平安時代の都の葬地であり、
当時はキレイに葬ってもらえる死人なんてほとんどいませんから、一帯には放置された死体が散乱。
その有様をあまりにあんまりだと思った弘法大師・空海が、「埋めたら?」と、土葬をサジェスト。
そして時を経て、法然上人が、この地に念仏道場をビルド。現在の化野念仏寺の始まりです。
土葬が一般化したのはいいですが、埋めたところで何百年も経てば、みんな素性不明の石化&骨化。
明治の中頃には、周辺から出土した由来不明の石塊や石仏は8000にも及び、
それらは化野念仏寺境内の「西院の河原」に無縁仏として結集、供養されるようになりました。
お盆にこの寺で行なわれる千灯供養は、その無縁仏に蝋燭の灯りを奉納する供養。
「京都のお盆」といえば、高い確率でこの仏事が取り上げられる、人気(?)イベントであります。
で、愛宕古道街道灯しは、嵯峨野保勝会が千灯供養に連携して開催する、ライトアップのイベント。
清涼寺から愛宕神社一の鳥居までの古道を、手作りの行灯各種で楽しませてくれるというものです。
7月の借りを返すようなとんでもない猛暑の中、鳥居本の坂を登るのは極めて億劫ですが、
「無縁仏」のオーラにわけのわからん吸引力を感じ、出かけてみました。

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阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月23日(火)


阿弥陀寺での嵯峨野六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

現在は寺社で奉納や公演が行なわれることが多い六斎念仏ですが、
かつては地域の家を演奏して回る「棚経」 or 「勧善廻り」も、大々的に行なわれてたそうです。
演奏してもらった家はいわゆる「お布施」みたいなものを渡すわけで、
演舞を披露する喜びのみならず、講中にとっては良い現金収入の機会でもあったんでしょう。
こちらの嵯峨野六斎念仏も、青年団主体で活動してた戦前期は盛んに「棚経」を行なってたようで、
近隣の家々を回るのみならず、台八車に六斎道具を積み込んで、30人以上で洛中へも進出。
懇意にしてる大家を回ったり、あるいは祇園などの色街でも演奏することがあったとか。
この「棚経」、現在はなくなったかといえば、そんなことはありません。
中堂寺や千本、そして嵯峨野などいくつかの講中で、バリバリに敢行中です。
家で、六斎。観てみたい。でも、他人の家へ上がりこむわけにもいかんしな。でも、観てみたい。
中堂寺に親戚はいるけど、結婚式で泥酔してるのを怒って以来、疎遠だしな。でも、観てみたい。
そんな気持ちに応えてくれそうなのが、嵯峨野六斎の阿弥陀寺奉納であります。
阿弥陀寺、名前からして完全に寺ですが、建物は限りなく民家に近し。
天井の低さに冷や冷やしながら観る六斎は、きっと「棚経」に近いテイストが醸し出されてるはずです。

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嵐電・妖怪電車に乗ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月21日(日)


嵐電・妖怪電車に乗ってきました。もちろん、ひとりで。

妖怪電車。
それは怨霊都市・京都が生み出した、路面電車の妖怪変化。
かつては市内交通の花形として活躍したにも関わらず、マイカー普及で邪魔者扱いされた挙句、
遂には現役半ばで命を絶たれ、忘却の彼方へ追いやられた京都の路面電車たち。
無念の死を遂げた者が怨霊と化すのは、京の道理。
芋も揚げも「さん」づけする奇怪なアニミズムが、路面電車に魂を吹き込むのも、京の道理。
というわけでこの街には、電車に関する様々な呪いがうずまくこととなりました。
利便性のみならず、ルックスが街並に調和してたことでも人気が高い、京都市電の呪い。
各地で晒しものにされる、特に八幡ポンコツ街道で無残に朽ち果てた姿を晒される、市電車輌の呪い。
京津線路面区間廃止+東西線乗り入れで、二重運賃に苦しめられる山科区民&大津市民の呪い。
これらの呪いは盆の季節になると、京都唯一の路面区間を持つ嵐電へ、集結。
観光客で一杯の車内を、化け物がうろつく魔界へ変化せしめる・・・というのはもちろん、大嘘です。
山科区民&大津市民が呪ってるのは本当かも知れないけど、あくまで大嘘です。
ポンコツ街道の「熊野」行きも、熊野古道まで行きそうな霊気を放ってますが、あくまで大嘘です。
妖怪電車は、嵐電2007年の単発企画・鬼太郎ラッピング電車「化け電」が、慣例化したもの。
以後、学生ボランティアの力を借りて着ぐるみや車内装飾にも気合を入れ、
今や京都の夏の風物詩としての認知度さえ誇る、企画列車なのであります。

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上御霊神社での小山郷六斎念仏奉納を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年8月18日(木)


上御霊神社での小山郷六斎念仏奉納を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

六斎念仏が行なわれるところは、概ね、京都市の中心部からは若干離れています。
以前紹介した中堂寺しかり、壬生しかり、そして今回の小山郷もしかり。
これは、六斎念仏が都の周辺部の農村で受け継がれてきたことに由来するそうです。
村の若い衆が都へ流出するのを防ぐため、六斎を若者組の行事として引き止めたんだとか。
そしてそのことが、六斎の過激なまでの芸能化をより進めた要因になったとも言われてます。
言うまでもなく、現在はいずれの地域も完全なる市街地であり、
八幡市民の私から見たら、四条大宮から壬生あたりなど完全に京都の中心部に見えますが、
大正までは生田村という農村だったりするので、都に歴史ありです。
御陵神社・御霊祭の神輿でも名を馳せる小山郷もまた、「郷」の字の通り、もともとは農村。
六地蔵参りの一番札所である上善寺を本拠地として、六斎保存会が活動を続けてます。
御霊祭は元来はこの日に行われてたという御霊神社の8/18の例大祭でも、演舞を奉納。
で、それを、見に行ったというわけです。神社で念仏というのも、考えれば妙ですが。

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清水寺の千日詣りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月14日(日)


清水寺の千日詣りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

一回行っただけで、1000回分。
そんなポイントアップデーのある店なら、誰だって個人情報売り飛ばしてカードを作るもんですが、
実際にそんな気前の良いサービスをやってるのが、清水寺の千日詣り。
観音様最大の功徳日である8月9日から16日の間にお参りをすると、千回分の功徳があるそうです。
超ボーナスポイント。しかも、会員登録は不要。仏からウザいメールとかも、来ません。
「さすがユーザーと正面から向き合い続ける清水寺さん。ニーズがちゃんとわかってますねぇ」とか、
「率先してライトアップして客呼びまくる寺は、やっぱりやることが違うっ」などと、
賢い消費者づらして、狂った戯言でも吐いてみたいところですが、
しかし、京都で千日詣りといえば、清水寺よりも、愛宕神社であります。
京都で生活する上で一番大切なのは、台所に愛宕神社の火伏せのお札を貼ることであります。
千日詣りについてどうこう言うなら、先にあっちを参拝するべきなのであります。
実際、行こうとしました、7月末日。嵐山まで行きました。でも、やめました。しんどいから。
夏の最中に、標高900mの登山。ダメです。ありがたい前に、体に悪いです。
で、代わりに清水寺にお参りすることにしたわけです。こっちも、坂がいい加減しんどいですが。
ちなみに千日詣り期間の終盤は、夜間参拝と夏季ライトアップも同時開催。
ライトアップの観光モードと、千日詣りの宗教モードが、どう融和してるのかを観てきました。

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京の七夕・舞妓茶屋へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月14日(日)


京の七夕の協賛企画・舞妓茶屋へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

舞妓茶屋。
京都の夏季閑散期における集客促進イベント『京の七夕』の協賛企画のひとつです。
京都が「客を呼びたい」となれば、脊髄反射で引っ張り出されるのが、舞妓はん。
というわけで、鴨川会場に隣接する『鴨川をどり』のホームグラウンド・先斗町歌舞練場を使い、
先斗町の舞妓はんがお話&撮影&をどりで楽しませてくれる、期間超限定のお茶屋を開業。
それが、舞妓茶屋です。値段も1500円と、貧乏独男でも手の届く良心設定。
「でもそれって、メイド喫茶みたいなもんじゃないっすかぁ」と、皮肉を込めて言ったあなた、
残念ながらその言葉は、結構、正鵠を射てしまってます。
もちろんイベント企画とはいえ、出てくる舞妓はんは、本物です。コスプレとは、世界が違います。
でも、歌舞練場がね・・・。いや、歌舞練場そのものはいいんですよ。立派な建物です、本当に。
ただ、使う場所と、使い方が、何とも、いやはや。
「コンクリの壁+手作り感が過剰に漂う七夕飾り」という内装を目の当たりにすると
「メイド喫茶みたい・・・」あるいは「学校設定のメイド喫茶みたい・・・」と呟かざるを得ません。
また、『舞妓はん以外の経費は、極限まで削ります』と宣言するかのようなメニューも、刺激的。
感慨深いものがあるのです。そして、そんな感慨深い状況でもしっかり仕事する舞妓はんに、
リスペクトを感じずにはいられないのが、舞妓茶屋なのです。

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東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月13日(土)


東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

全盛期には邦画の実に6割を生産していたという、映画の街・太秦。
そこら中に旧跡が残り、そこら中に着物屋が溢れ、そこら中に職人が住んでいる京都は、
時代劇にとっては正に、聖地。この地独特の職人気質もまた、映画制作に強い親和性を発揮。
当初は関東大震災から疎開してきただけの撮影所も、どんどん太秦に定着&増殖し、
「日本のハリウッド」と呼ばれるほどの製作本数を誇るのみならず、
大映の『羅生門』『雨月物語』などでは、技術面・芸術面でも国際的な評価も獲得しました。
が、テレビの登場により、昭和30年代をピークとして映画産業は一気に、斜陽化。
ひたすら映画だけで食ってきた太秦の多くの撮影所は、苦境に立たされることになります。
ラッパから札束バラまいて見境なき作品クオリティを実現していた大映が、先頭切って倒産。
他社もスタジオを東京へひき上げ、東映撮影所のオープンセットもまた、なかば廃墟化。
生き残り策を模索した撮影所の従業員が思いついたのは、そのオープンセットの公開でした。
映画製作の裏側を、製作してる現場そのものを、そのまま見せる。
このスタイルで、1975年に東映太秦映画村は「開村」。日本初のテーマパークが誕生した瞬間です。
食える程度に稼ぎが出てくれたらという期待に反し、映画村は大当たり。
以後、京都の新たな文化観光資産として、現在に至るまで高い人気を維持し続けています。
ナイターまつりは、そんな映画村がお盆の時期に行なう催し。1998年から始まりました。
普段は夕方で閉まる村をライトアップして公開、
入園時間は短くなりますが、そのぶん料金が安くなるのも、お得なイベントです。

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京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月12日(金)


京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京の七夕。ざっくり言えば、夏季閑散期の客寄せイベントです。
集客の華・祇園祭が終わり、8月に入ると、京都は観光客が減ります。理由は、暑いから。
暑いだけなら海水浴場も同じですが、京都の盆地性の暑さというのは、何というか、体に悪い。
「北欧から来た留学生が、暑過ぎて死んだ」という噂がまことしやかに囁かれるくらい、
独特のバッドな内蔵侵食感および神経破壊感が、暑さに伴います。
京都の観光スポットの大半は昼間に見るもんですから、そんな暑さの中での観光はもはや、苦行。
「こんな季節に京都へ来るのは、やめときなはれ」と考えるのが普通の人ですが、
「こんな季節でも京都に来て欲しい、体が壊れても」みたいなことを考える方もいらっしゃるようで、
ほんのちょっとだけ暑さがマシになる夜間を狙って、イベントを新規立ち上げ。
旧暦の七夕と夏季閑散期がカブってるのに目をつけ、鴨川と堀川の2会場で電飾を灯し、
市民に書かせた短冊を飾り、なんとか観光促進を計るというのが、京の七夕であります。
去年の2010年度から始まり、まずまずの成果を残したそうですが、
「祈り」や「願い」、そして何より電気の意味が全く変わってしまった今年は、どうなんでしょう。
そんなことを考えたり、考えなかったりしながら、堀川会場へと足を運びました。

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北野商店街の糸源へ、鱧を食べに行きました。もちろん、ひとりで。

2011年8月12日(金)


北野商店街の糸源へ、鱧を食べに行って来ました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、鱧。
というわけで、ひとりで鱧が味わえる店を探し求めるこの企画、遂に上京区へ進出です。
こちらの糸源は、かつてN電が走っていた北野商店街にある、料理屋。
N電というのは、知ってる人は知ってるでしょうが、知らない人は知らないでしょうから説明すると、
明治に京都電気鉄道・通称京電が開通させた、北野天満宮と京都駅を結ぶ路面電車です。
同時期に敷設された路線の多くが市電化されて広軌となったのに対し、
唯一狭軌(Narrow Gauge)のまま残った路線。N電の「N」は、もちろん「Narrow」の「N」。
明治のままな車輌が京の街並を走る往時の姿は、廃止からちょうど半世紀経った現在も人気が高く、
「せめてN電だけでも残ってたら、いい観光資源になったのに」と、悔やむ声も多し。
時の変遷を経て、一応「廃線跡」である堀川通は景観そのものさえ大きく変貌しまくってますが、
この北野商店街のあたりにはまだ微妙に「鉄」の匂いが残っている気がします。
特に、七本末中立売から天神さんまでのカーブとか。何か実に「廃線跡」っぽいなあ、と。
元々このあたりは北野の下の森と呼ばれる北野社の境内だったそうで、
まず鉄道が敷かれ、それにつれて道が出来、商店街が形成されたんだとか。
鉄に先導され街が出来ると、廃線後も動線とかから鉄の匂いが漂うもんなんでしょうか。
と、とりとめのない話は置いといて、糸源です。鱧です。鱧しゃぶです。

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六道まいりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。(2) 六波羅蜜寺~六道珍皇寺

2011年8月10日(水)


六道まいり、続きです。いや、これからが六道珍皇寺へ向かう本番ですが。

地獄絵と九想図で脳内を地獄の色彩で染められ西福寺を出ると、
ちょうど六波羅蜜寺の萬燈会の時間。なので、六道さんの前にそちらへ寄ることにしました。
六波羅蜜寺。もちろん、空也上人が小人を吐いてる例のあれで有名な寺です。
萬燈会はその空也が発祥、七難即滅・七福即生を祈願して灯りをともし、精霊を迎えるというもの。
小さいですが「大」の字で火を焚くので、五山の送り火と関係あるのかもしれん行事であります。
そのあとで行った今夜の本丸・六道珍皇寺は、言うまでもなく、かの小野篁ゆかりの寺。
昼は官僚&夜は魔界と、「この世」と「あの世」を往復して働きまくった奇人・小野篁。
普段はそんな小野篁が好きそうな方々が、「あの世」へ通じる井戸を見に来る静かな寺ですが、
六道まいりの期間中は、御先祖様を迎えに来た善男善女で深夜まで大繁盛&超ディープ化。
「六道の辻」にまつわる伝承が、そのまま現代に現出したかのような、民俗感爆裂状態となります。
大量の人間と、大量の人間以外のもので形成される、混雑。
「この世」と「あの世」の乗り換えターミナルのような、混雑。
濃過ぎます。あまりにも、濃過ぎます。夜なので余計に、見境なく、濃過ぎます。
そんな「濃い」二寺、めぐってきました。現場の「空気の濃さ」を感じてもらえたら、幸いです。

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六道まいりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。(1)西福寺

2011年8月10日(水)


六道まいりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

六道まいり。
東山区・六波羅にある六道珍皇寺にて行なわれる、いわゆる精霊迎えの行事であります。
かつては京都の東の葬地であり、現在も大谷宗廟など多くの墓地が存在し、
山の向こうへ行けば京都市中央火葬場が今日も元気に稼動中という、東山・鳥辺野一帯。
六原の地は、この鳥辺野の入り口にあたります。いわば、この世とあの世のボーダー領域。
このことから、衆生が死後に必ず赴く「六界」のゲート「六道の辻」の名を、誘引。
さらに、現世と冥界を股にかける平安時代のダブルワーカー・小野篁の伝説とも、リンク。
京都は何故か、特定の寺へ先祖霊を迎えに行くという習慣を持ち、
千本閻魔堂やかつての化野・福正寺など、いくつか「精霊ステーション」みたいなとこがありますが、
精霊迎えで最も高い知名度と集客力を誇るのは、ここ六波羅の六道まいりです。
六道まいり、やっているのは六道珍皇寺ですが、近所の寺も連携して各種霊的行事を開催。
中でも、本物の「六道の辻」に立ち、「轆轤(ロクロ = 髑髏」町なる住所を持つ西福寺では、
この期間限定で「死後の世界」をハードコアに絵解きした「六道十界図」を開帳しています。
本丸たる六道珍皇寺へ赴く前に、まずはそちらを拝むことにしました。
あ、ちなみにこの西福寺という名前、あの有名な東福寺と対応してるわけではありません。
というか、多分この寺、東福寺より東にあると思います。あしからず。

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