東山区 - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 2

鍵善良房でくづ切りを、八坂神社・夏越祓の帰りに食べてきました。もちろん、ひとりで。

2014年7月31日(木)


鍵善良房でくづ切りを、八坂神社・夏越祓の帰りに食べてきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、くづ切りと決まってます。
「誰が決めた」 と問われたら、私が決めました。今、ここで、決めました。
「くづ切りなんかどこでも食えるだろ。それに近畿圏で葛といえば吉野に決まってるだろ」
などという訳知り顔の正論は、人々の勝手な幻想がふき溜るこの街では、何の効力も持ちません。
そう、ここは、京都。 「京都といえば」 が枕詞なら、どんな出鱈目も通ってしまう魔都、京都。
「京都の夏といえば、かき氷」 程度は無論、 「京都の夏といえば、すき焼き」 でも案外平気で通り、
「やっぱり」 や 「あえて」 も使えば、安易なブランディングが無限に成立する、魔都なのです。
言い切れば、何であろうと真実になります。それが貴方の、真実の京都なのであります。
無論、その真実は、貴方自身のことでもあります。京都を語ることは、常に己を語ることであります。
「京都といえば、パン」 「京都といえば、ケーキ」 「京都といえば、チョコレート」、全部、OKです。
それが、貴方の京都なんだから。それが、貴方自身なんだから。しょうがないですよね。
という感じで、得体の知れぬスイーツが我が物顔で 「京都」 を名乗る昨今の動勢を考慮すれば、
私がくづ切りを 「京都の夏の風物詩」 と勝手に断言した所で、多分、どこからも文句は出ないはず。
それに、紫紅社 『きょうの京都』 においても、さらには淡交社 『京都歳時記』 においても、
くづ切りは 「八月」 の項に 「夏の風物詩」 「夏に食うもの」として、しっかり掲載されてますしね。
なので、京都の夏といえば、くづ切りであります。しょうがないことなく、くづ切りであります。
そんな京都のくづ切りといえば、祇園・四条通の鍵善良房が、最も有名ということになるでしょうか。
ランチジャーみたいな箱に入ったくづ切りは、誰もが一度は見たことがあるかも知れません。
その鍵善良房へ、混迷を極める京都のスイーツシーンの今後を見据えるべく出かけた、
というのはもちろん大嘘で、実は八坂神社夏越祓の帰りに何となく寄っただけなんですけど。
フラっと食したくづ切りの涼しさ、夏越祓の雑なレポと共にお楽しみ下さい。

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夏越祓の茅の輪をまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2014年6月30日(月)


夏越祓の茅の輪をまたまたまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

熱いお茶で、みなづきをいただいてると、月日の経つのは、なんと早いもんやろうと、しみじみこたえて
くる。ついこの間、お雑煮を祝うたと思うているのに、知らん間に夏越の祓となって、半年の、なんと短
かったことやろう。なんにもせんうちに、わたしにも白髪がふえだした。
大村しげ 『京暮し』

ほんわかしてるようで、実は高速かつ硬質な大村しげの文章が描破してるように、
時の流れの速さに恐怖さえ感じる今日この頃、暇丸出しな当サイトでも季節は超高速でめぐり、
勝手に恒例化してる夏越の茅の輪めぐりも、2014年度版が早くもやって来てしまいました。
正月からの半年間でこびりついた魂の穢れを、神社に設置された茅の輪をくぐることで祓い浄め、
暑さ+疫病の脅威が本格化する厳しい夏を乗り切ろうという古来からの慣わし、夏越祓
うちでは、腐った欲求各種を持て余す己が存在の膿の大掃除 or スピリチュアル・デトックスに加え、
普段は記事で訪れる機会のない、小さいというか地味というか、そんな神社への訪問を兼ね、
毎年あちこちの社に設置された茅の輪を探し求めてはくぐりまくり、溜った穢れを祓い倒してきました。
2011年は市バス一日券を使って、京都市内の各神社をランダムかつノーコンセプトに徘徊。
2012年は一転して全行程を徒歩にして、東福寺から西陣周辺までを、やはりノーコンセプトに徘徊。
そして2013年はまた徒歩で、右京区をローラー的に回り、最後はまた西陣へ着く感じで徘徊。
で、2014年の今回は、やや手薄になってる感のある東北方面を攻めてみることにしました。
京阪三条駅から出発し、東大路通&白川通を縦軸として、あちこちをダラダラとうろつき回ってます。
果たして私は、穢れを見事祓った清い体&魂で、熱いお茶&水無月を頂けたりするのか。
それとも、穢れと共に無意味な徒労がバンバカ蓄積し、頭に白髪が増えるだけで終わるのか。
蒸した空気を日光が時折暖めるような不快な天気ですが、さあ、出発しましょう。

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京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2014年3月16日(日)


京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人は何故、光を求めるのか。何故、闇の中に光を求めるのか。
「暗いから」 「暗いと何も見えへんから」 「何も見えへんと不便やから」 と答える輩には、
「暗くなったら寝え。日照時間だけ起きとけ」 としか返し様のない、深淵なる問いであります。
本能の名残なのか何なのかは知りませんが、人は実用的な理由が無くとも光を求めるものです。
震災以降も多発するライトアップ or イルミネーションの人気は、その証明に違いありません。
「いや、それは交尾へのステップという極めて実用的な理由があるんだよ」 という下衆の輩には、
交尾へ全く繋がらないのに、こうして2014年も花灯路へ特攻する私の動機を説明できないでしょう。
正直、私は東山花灯路に、ある種、大きな声では言えない類の魅力を感じ始めてます。
光を求める人間の根源的なオブセッションと、それを垂れ流しで露出する快感を感じ始めてます。
そんなことを、震災関係の展示が激減した今回の春の花灯路で、自覚させられたのです。
閑散期における純然たる電飾客寄せイベントとして始まり、今やすっかり定着した、京都花灯路。
勝手ながら私にとっては、初めてまともに特攻したのが震災直後の2011年春であったため、
「光とは何か」 or 「灯とは何か」 みたいなことを、考えさせられるイベントだったりします。
同時に、 「その影に生じる闇とは何か」 みたいなこともまた、考えさせられるイベントだったりします。
電力不足による終了フラグをひりひりと感じさせられた前回前々回前々々回とは異なり、
震災の事を忘れたかの如く展開された今回の東山花灯路でも、その印象は特に変わりません。
いや、むしろそれ故に、光へのオブセッション&その影に生じる闇を、強く感じさせられたのでした。
人は何故、闇の中に光を求めるのか。正確に言えば、何故、わざわざ闇の中で求めるのか。
凡庸な客寄せイベントだからこそ、そんな問いを丸出しで転がしてる東山花灯路2014、
例年よりやや暗めの写真で、影&闇の魔力と共にお楽しみ下さい。

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文の助茶屋へ寄ってから、八坂庚申堂の初庚申へ行きました。もちろん、ひとりで。

2014年2月18日(火)


文の助茶屋へ寄ってから、八坂庚申堂の初庚申へ行きました。もちろん、ひとりで。

八坂道は私にとって、迷うことが案外多い道だったりします。
えと、八坂通というのは、東山の八坂道のことです。八坂の塔へ続く、あの道のことです。
清水寺などと並ぶ超メジャー級京都観光アイコンである、あの塔が突っ立ってる道のことです。
「何をどう迷うのか」 と思われるかも知れませんが、正にあの八坂の塔があるが故に、迷うのです。
塔で視野狭窄になってる観光客を、疲労と徒労を回避すべく視界から省く癖がついてしまい、
そのうち八坂の塔そのものも見てるだけで疲れてくるので、知覚から削除する癖がついてしまい、
そのため土地鑑が歪に狂い、方向感覚が壊れ、何となく迷いがちになってしまったというか。
知覚と認識の遮断による、土地鑑と方向感覚の混乱。そんなのを、私は八坂通に感じるのです。
で、そんな感覚遮断を誘発させる八坂通に、 「見ざる聞かざる言わざる」 の八坂庚申堂があるのは、
当の八坂庚申堂からすると 「知るか」 という話でしょうが、私には腑に落ちることだったりします。
八坂庚申堂。正式名称、大黒山金剛寺延命院。ネイティブな通称は、単に 「庚申さん」 。
日本に於けるほぼあらゆる事象について、 「京都が一番」 「京都が最初」 を自称する京都ですが、
庚申信仰三猿についても無論 「日本最初」 を押さえてて、それがこちらの 「庚申さん」 です。
平安京構築への貢献で知られる秦氏が、本尊として中国より招来したとされる青面金剛を、
秦氏滅亡の後にこの地へ安置したのが始まりという、やはり極めて古い由緒を持つお堂であります。
で、そんな八坂庚申堂が旧暦最初の庚申日に行う初庚申へ、のこのこ出かけたわけですが、
「庚申さん」 、現在は観光地のど真ん中ながら実にネイティブなお堂で、初庚申もまたネイティブ。
基本、猿型の蒟蒻焚きを食う他には、特にすることがありません。ネタ的に正直、不安です。
というわけで、 「庚申さん」 の近くにあって実に観光地らしい佇まいの文の助茶屋にも立ち寄り、
早春を告げる和菓子であるわらび餅を食らってから出向く、という流れにしてみました。
猿と蒟蒻とわらび餅が錯綜する八坂の迷宮、迷ってみて下さい。

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2014年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

2014年1月1日(水)


2014年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

あなたは知ってるでしょうか。元旦の深夜は寒いということを。
元旦というのは、あの元旦のことです。1月1日とも呼ばれたりする、あの日のことです。
で、深夜というのは、遅い夜のことです。具体的には、22時から翌5時ぐらいの時間のことです。
元日のこの時間帯って、寒いんですよね。寒いって言葉では全然足りないくらい、寒いんですよね。
特に京都は、夏の頃は 「俺を殺す気か!!いやもういっそ殺せ!!」 って思うくらい暑いのに、
冬は死ぬほどというか、比喩ではなく明確かつ具体的に死の恐怖を感じるくらい、寒いんですよね。
あ、そんなことは知ってますか。百も承知ですか。それはまあ、そうですよね、安心しました。
じゃあ、いきなり本題に入りますが、京都で年越しなんてもう、やってられないんですよ。
2011年の時みたいに、時ならぬ大雪が降る大晦日の昼に円山公園&清水寺へ特攻かけたり
高台寺行って除夜の鐘撞き損ねたりとか、翌日も寝ずにうろついたりとか、やってられないんですよ。
また2012年の時みたいに、年始早々伏見稲荷の山を巡ったりとか、やってられないんですよ。
さらには2013年の時みたいに、真っ暗な嵯峨野で除夜の鐘難民化とか、やってられないんですよ。
と、こうやって過去の年越しネタを並べると、明らかにうろつくボリュームが年々減ってますが、
それくらいこのネタ、帰ってしばらくは頭痛や脚痛で動けなくなるくらい、体がガタガタになるんですよ。
というわけで2014年度の年越しネタ、前後編に分けることなく、1本の手抜きな内容です。
いや、誰に頼まれてやってるわけでもないので、そもそも手抜きもひったくれもない話なんですが、
とにかく己の体をいたわるべく、ゆっくりと、そしてのんびりと、浅~く浅~く、うろつきました。
うろついたのは、岡崎→黒谷→蹴上といったエリア。この選択にも、特に大した理由はありません
単なる気まぐれ+私がおけいはんの民ゆえ、不調の際は電車ですぐ帰れるよう、日和っただけです。
ただ、徒歩圏を適当な彷徨う仕様である分、気まぐれにうろつく 「普通の年越し」 的内容に、
真人間も参考に出来る 「普通の年越し」 的内容に、あるいはなってると言えるかも知れません。
「なるわけがない」 とも思いますが、とにかく孤独な年越し、行ってみましょう。

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法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月15日(金)


法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

まつろわぬ者としての、
そんな鬼認識が生まれたのは、一説では平安末期からとも言われてます。
元来は、闇や異界といった不可視なる 「おぬ」 の世界を体現する存在だったという鬼は、
末法の世に入り、武家の台頭や盗賊の跋扈などで 「外部」 の都への侵入が常態化し始めると、
「可視化されたアウトサイダー」 ともいうべき新たな相貌が付加されるようになったそうです。
彼岸へ出かけて退治する存在から、此岸へ恐怖をデリバリーする存在と化した、鬼。
平安末期にそんな変貌を遂げた鬼が、同時代の帝である後白河上皇の法住寺陵を参拝するのは、
実に奇妙なことのようであると同時に、ある意味で実にもっともなことと言えるかも知れません。
法住寺陵があるのは、その名の通り、法住寺三十三間堂のすぐ傍にある寺であります。
藤原為光創建の元祖・法住寺の跡地に、後白河院は院政の舞台として広大な法住寺殿を築き、
熊野狂いを反映した新熊野神社や頭痛を具現化した三十三間堂など、多くの伽藍もばんばか建立。
それらは、三十三間堂を除いて大半が消失し、後にいずれも小じんまりと再興されましたが、
法住寺も木曾義仲に焼討された後に小じんまりと再興、以来、後白河院の御陵を守り続けてます。
そんな法住寺で11月15日に行われるのが、身代不動尊大祭。身代、すなわち身代わり。
この寺の不動明王像が、義仲の焼討の際に後白河院の身代わりになった伝説に由来するこの大祭、
狭い境内が視界ゼロとなる護摩や、狭い境内が炊き出し場化するうどん&ぜんざい奉仕など、
ネイティブ色濃い催しですが、何よりの目玉は鬼たちによる後白河院御陵参拝と鬼法楽でしょう。
ここだけ宮内庁管轄である御陵へ、金棒片手で堂々と入り参拝する、 「まつろわぬ者」 たち。
その姿は確かに奇観であり、ある種のアイロニカルなユーモアを感じさせるものですが、
同時に、鬼を遥かに凌ぐ 「アウトサイダー」 的な 「闇」 をその心の中に抱えていたかも知れず、
また実際に 「アウトサイダー」 の歌ばかりで歌集を編纂したりもした後白河院の御霊に、
鬼たちが鬼なりの流儀で真なるリスペクトを捧げてるように見えたりもします。
そんな妙なる法住寺の鬼法楽と墓参り、見に行ってきました。

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祇園会館へ祇園をどりを観にいってきました。もちろん、ひとりで。

2013年11月1日(金)


祇園会館へ祇園をどりを観にいってきました。もちろん、ひとりで。

祇園会館。ああ、祇園会館。
名画座の割に造りが異常に良く、500席とキャパもデカかった、祇園会館。
そんな良いハコなのに、名画二本立て+入れ替えなしというスタイルを貫いた、祇園会館。
しかし私は正規料金を払う余裕が全然なくて、せいぜい千円の日にしか行けなかった、祇園会館。
その千円の日に観た 『トレインスポッティング』 では、ラリ中の寝糞が顔にへばりつくシーンを、
日本ではおそらく最も巨大なスクリーンで目にすることとなってしまった、祇園会館。
そんな思い出の詰まった祇園会館が、『よしもと祇園花月』 に化けてから、しばらく経ちました。
花道や桟敷席まである劇場のクオリティを考えると、映画より演芸の方がふさわしいのは、当然です。
使えるハコは、有効な形で活用すべき。私もそう思います。でも本当は、ちょっと寂しい。
観光客だらけの八坂神社石段前に建つ立派な劇場で、超ルーズに映画を観るという、不思議な贅沢。
そんな贅沢を味わえなくなったのが、ちょっと寂しいのです。どうでもいい私情ではありますが。
祇園会館の造りがオーバークオリティである理由は、元来ここは映画館ではないから。
京都五花街のひとつ・祇園東の舞踊公演 「祇園をどり」 を行うことこそが、ここの最大の目的です。
元々は甲部と一体の祇園町を形成していたものの、明治14年に京都府の指示で分離し、
戦前は祇園乙部、戦後は祇園東新地から現呼称で愛されている花街・祇園東。
その祇園東の 「祇園をどり」 は、1952年から始まり、唯一秋に公演が行われるをどりです。
祇園花月に化けた現在も伝統は守られ、11月上旬だけは全吉本を会場から一掃。
祇園会館が、本来の目的で本来のスペックを発揮する様を拝めるひと時となるわけであります。
で、そんな祇園をどりに忍び込んでみた、と。しかも、初日に忍び込んでみた、と。
初日にも関わらず、もちろん今回も飛び込み、当日券に賭けてみた、と。
その結果や、いかに。一発勝負の一部始終、お楽しみください。

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2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年10月22日(火)


2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。

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瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年9月29日(日)


瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。

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祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月15日(月)


祇園祭の宵宮祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭を 「二つの祭が同時進行している」 と言ったのは、山路興造
いわく、平安期から八坂神社主体で行われている神輿渡御が中心の 「祇園御霊会」 と、
中世以降の下京町衆主体で行われる山鉾巡行中心の 「祇園祭り」 が、同時進行している、と。
( 平凡社刊 『別冊太陽 京の歳時記 今むかし』 中 「月次の京・七月」 の項より )
もちろん実際は、両者は密接に関わり合い、山鉾巡行もそもそもは神輿渡御の先触れです。
が、現場を歩くと、山鉾町と八坂神社近辺で空気が違うと感じられるのもまた、確かだったりします。
山鉾町に漂う、むしろこちらを 「御霊会」 と呼びたくなる、闇や恐怖さえ孕んだ独特の雰囲気。
そして八坂神社と門前の祇園町に漂う、一転してオーソドックスかつ大らかな、神祭りの雰囲気。
いろんな意味&点でややこしそうなので、私には何もわからんとしか言えない話ですが、
とにかく空気の違いは明白に存在し、その辺がクリアになるのがこの宵宮祭以降ではないかな、と。
もう充分に知られてるようで、案外やっぱり知られてないようですが、祇園祭にも神輿は出ます。
神輿は無論、神様の乗り物。ゆえに、神輿が出る場合、本殿から神様を遷す儀式が、必須。
というわけで、祇園祭でもこの儀式は当然執行され、行われる日は神幸の2日前である、7月15日。
一般的には 「宵々山」 の夜に、八坂神社では 「宵宮祭」 として遷霊神事が行われるわけです。
遷霊の儀式そのものは、境内の照明完全オフ+撮影も完全禁止という、極めて厳粛なもの。
厳粛過ぎて、何やってるのかわからんくらい地味だったりしますが、とにかく、極めて厳粛なもの。
しかし、門前の祇園商店街は、 「宵宮神賑奉納・前夜祭」 として様々なイベントを開催。
その賑わいの空気が、先述のように山鉾町とはちょっと違うテイストなのが、面白かったりします。
そんな宵宮祭、混雑の酷さは山鉾町よりほんの少しだけマシ or ほぼ変わりませんが、
より本義に近い儀式と賑わいの香りを嗅ぐべく、突っ込んでみました。

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地主神社の恋愛成就七夕祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年7月7日(日)


地主神社の恋愛成就七夕祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「天漢 相向き立ちて わが恋し 君来ますなり 紐解き設けな (by 山上憶良) 」
という露骨極まる歌が示す通り、七夕は、実に愛欲溢れる伝説に因んだ節句であります。
互いを求め合う二つの星、琴座の主星・ベガこと織女星と、鷲座の主星・アルタイルこと牽牛星。
二星を隔てるのは、天の川。年に一度、七夕の夜空が晴れたら、二星は川を渡り、逢瀬を果たせる。
そんな、 「紐解き設けな」 となるのも当然な、それこそ 「セッス!セッス!」 な節句なのです。
が、色恋に関わることなら何であろうが商売のネタにする、腐り切った現代消費社会にあって、
この七夕、イベントとして大きな盛り上がりを見せてる感じは、はっきり言って、ありません。
新暦への移行により七夕当日が梅雨の真っ只中となって、星が大抵見えないのが悪いのか、
年一というスパンが、コンビニエントな性生活に慣れた現代人には生殺しプレイにしか見えないのか、
とにかく現状として七夕は、もっぱら児童向けの短冊吊るし大会になってる感が、否めません。
が、地主神社は違います。京都で最もメジャーな縁結びスポットである地主神社は、違います。
京都観光のキング・オブ・キングである清水寺の境内にあって、神代にまで遡る凄まじい歴史を誇り、
清水寺と共に世界遺産の指定もバッチリと受けている、あまりにも由緒正しき社、地主神社。
しかし近年は 「愛のちかい」 「しあわせ」 「よろこび」 「キューピッド」 「恋の願かけ絵馬」 などなど、
縁結びアイテムを大量リリース、その 「本気」 ぶりが各方面から注目を集めること、しきりです。
そんな地主神社、七夕という商機を見逃すはずもなく、 「恋愛成就七夕祭り」 なる祭を開催。
一対500円の紙こけしに自分&好きな人の名を書き、笹へ結わえ付けて恋愛成就を祈願するという、
「商売繁盛で笹持って、恋」 と思わず連呼したくなるような、実に景気の良い祭りであります。
当日の現場はもちろん、清水寺の超ベタな観光客+色恋に飢えた女子が、溢れまくり。
そんなアウェー地獄へ、「紐解き設け」 る人などいない独男が、特攻してみました。
折しも当日は、日曜。アウェー混雑+猛暑との死闘、見届けて下さい。

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新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年5月12日(日)


新日吉神宮の新日吉祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

新日吉神宮はかつて、官社的性格が強かったそうです。
武将ファンには、秀吉の墓・豊国廟の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
そして変態さんには、京女の娘を狙う 「女坂」 の途中にある神社と思われてる、新日吉神宮。
しかし本当は、秀吉よりも京女よりも変態よりも長い歴史と、ロイヤルな由緒を持つ神社であります。
新日吉神宮。 「新日吉」 の読み仮名は、「しんひよし」 に非ずして、 「いまひえ」 。
平安末期、後白河法皇法住寺殿造営に際し、新熊野神社と共に鎮守として創建した社です。
熊野フリークとして知られ、新熊野神社には本社から砂まで勧請したとも言われる後白河院ですが、
平治の乱に於ける祈願をきっかけに、比叡山・日吉大社もまた崇敬しまくってたんだとか。
日吉大神を勧請した新日吉社は、壮麗なる伽藍を誇り、後白河院は当然、他の皇族も多数臨幸。
途絶していた宮中行事を復活させる形で始められた祭礼・小五月会 (こさきのまつり) は、
競馬・流鏑馬・芸能奉納などが華々しく行われ、官社としての格式を誇るものだったと言われてます。
やがて朝廷の衰微に伴い社運も衰微、室町後期には小五月会も中断の止むなきに至りますが、
江戸期に入ると、氏子区域の七条×鴨川エリアが高瀬川開削で開発され、住民が増加。
小五月会は、妙法院のパワーに氏子奉仕が加わり、より民間色が濃いものとして復興しますが、
その際にも禁裏からは女房奉書や鉾などを賜り、その習わしは明治まで続いたのでした。
現在の小五月会 = 新日吉祭は、東京遷都を受けて民間色がさらに濃くなり、
祭りを支える修道・貞教・菊浜・崇仁の各氏子町を、鳳輦が細かく回るものになってますが、
官社のテイストが残る鳳輦&行装列メインの神幸列と、町中のネイティブさ加減が、
いい感じのコラボ効果を生んでいて、独特の味がある祭になってます。
そんな新日吉祭、暇に任せて追いかけてみました。

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宮川町歌舞練場へ京おどりを観に行きました。もちろん、ひとりで。

2013年4月8日(月)


宮川町歌舞練場へ京おどりを観に行きました。もちろん、ひとりで。

宮川町。言うまでもなく、京都五花街のうちのひとつです。
川端四条の南、祇園祭の神輿洗式が行われる鴨川 = 宮川のほとりにあって、
伏見城方広寺建設で大和大路が賑わった時代あたりから、茶屋が並ぶようになり、花街化。
近くの河原では出雲阿国歌舞伎を創始し、現在も残る南座を始めとして芝居小屋も林立、
さらには美少年の歌舞伎役者が女犯禁止の僧侶相手に男娼となる 「陰間茶屋」 でも名を売るなど、
実に 「聖」 と 「芸能」 と 「俗」 が濃厚に入り混じる、花街らしい由緒を誇る街であります。
「俗」 「裏」 は時を経るごとに後景化、昭和33年の売春防止法施行以降は芸舞妓一本となり、
現在は観光テイストが濃い甲部のお隣にあって、比較的ネイティブな花街の存在感を見せてます。
京おどりは、そんな宮川町の芸舞妓はんらが芸を披露する、春の舞踊公演。
「京をどり」 ではございません。あくまで、「京おどり」 。何故かは全然知りませんが。
初演は昭和25年と、明治スタートの都をどり鴨川をどりなどと比べると割と最近ですが、
楽しんでもらうことをモットーとした若柳流の振付で、観光客のみならず地元にも愛好者、多し。
で、そのおどりへ行ってきたわけです。もちろん、予約とか一切なしの、飛び込みで。
私は知ってます。 「京都 をどり チケット」 で検索をかける人間の多さを、私は知ってます。
うちみたいな零細サイトにさえ、どれだけの人がそのワードで飛んでくるかを、私は知ってます。
本当に観たいなら、事前にチケットを確保した方がいい。わかってます。でも、しない。
何故か。面倒くさいから。あと、飛び込みでどれくらい行けるか、確認したいから。
というわけで、また手ぶらで特攻です。よい子は真似しちゃ、駄目。

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円山公園へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月30日(土)


円山公園へ夜桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵会う人 みな美しき」 。 by 晶子
というような、恋愛ハイの多幸感で自我境界線がボケた女から視線を向けられると、
「それでも今、オレのこと見て、やっぱり美しくないとか思っただろ、この糞馬鹿ビッチ女郎」 と、
一瞬で脳内が被害妄想で満たされる同志の皆さん、正気で春を迎えてらっしゃいますか。
今宵は共に、円山公園へ繰り出しましょう。そう、晶子が 「みな美しき」 と詠った、円山公園へです。
桜が満開の、そして酔っ払いも満開の、野外大宴会場と化した桜月夜の円山公園へです。
みたいなことを言うと 「そういう僻み根性に基づいた露悪的な言い方、もういいから」 と、
クールなようでいて実は単に脳のキャパが狭いだけのボンクラさんたちに敬遠されそうですが、
しかし、そもそもこのあたり一帯は、歓楽地としての歴史が長いエリアだったりします。
大正に入ってから、植治こと七代目小川治兵衛により現在の円山公園が整備される以前は、
京都初の巨大洋館ホテルや人工鉱泉浴場・吉水温泉が並ぶ、現代で言うところのレジャーゾーン。
さらにその以前は、現在も残る料亭・左阿弥を含む安養寺の六つの塔頭・六阿弥が、
料亭や貸座敷を盛大に営み、正に坊主丸儲けな享楽世界が繰り広げられてたわけです。
であれば、雅もひったくれもない猥雑なまでの野外大宴会場姿こそが、この地の本来の姿であり、
その姿が、桜の魔力により、春の間だけ蘇ってると考えるのが妥当なのかも知れません。
そう思えば、独男の目にも酔客たちが 「美しき」 に見えてくるはず・・・そう、まるで晶子のように・・・
なんてことは全くなく、出来れば、いやはっきり言えば心底行きたくないんですが、
しかしうちのモットーはメジャーどころの単独正面突破ゆえ、逃げるわけにはいきません。
夜の円山公園、わざわざ桜満開の時期を選び、ひとりで特攻をかけてみました。
途中、あまりに辛いので、恐怖スポットや寺巡りと逃げを打ってますが、
とにかく 「美しき」 夜桜と人間の姿、存分にお楽しみ下さい。

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東山花灯路2013と清水寺特別夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月9日(土)


東山花灯路2013協賛の清水寺夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

桜シーズン目前+紅葉シーズン直後という閑散期の京都で、
ベタ名所の東山&嵐山をライトアップし、夜間集客を図る電飾イベント・京都花灯路
無料のもの&光るものが好きな蛾の如き民ばかり集めて、経済効果があるのかは知りませんが、
とにかく2003年の初回以来、徐々に規模と知名度を上げつつ順調に回数を重ねてきました。
しかし2011年、そんな花灯路に試練が訪れます。言うまでもなく、東日本大震災です。
発生直後に始まった東山花灯路は、『東山祈りの灯り』 なる灯火管制モードに変更を余儀なくされ、
世間では原発が止まり、ライトアップどころか家庭レベルでまで節電が要求される事態が出来。
あの日を境に、私たちにとっての電気の意味は、完全に変わってしまったのであります。
正直、花灯路は終わったと思いました。のみならず、ライトアップ全般が終わったと思いました。
電気が余ってると思われてた頃から、浪費的にも宗教的にも批判が多かった、ライトアップ。
節電中にやれるものではないでしょう。それに、電気があり余る世の中は、恐らくもう、やって来ない。
2012年の東山花灯路は、開始から10周年ということで盛大に盛り上がってはいましたが、
「こんな馬鹿騒ぎも、これで見納めかもな」 という予感は全く払拭されることがなく、
そんな予感と共に見た電飾の光景は、言うのは嫌ですが、少し魅力的に見えたりもしたのでした。
で、その予感は、何ら終了の気配もなく例年通りに開かれた2013年の花灯路でも、
ゆとり溢れる阿呆の子たちが例年通りに騒ぎ倒す2013年の花灯路でも、実は消えてません。
うちでももちろん例年通りに特攻を行った、花灯路、そして提携の清水寺夜間拝観。
パッと見レベルでの変化の無さと、その下に隠れる危うさ&根源的な懐疑の変化の無さ、
私たちの生活が持つ矛盾・欺瞞・危うさは何ら解決も解消もされてない感じを、
写真から溢れる徒労感と共に味わってもらえると、幸いです。

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2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2013年2月3日(日)


2013年度の節分めぐり、後篇です。

太古の追儺には、は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。

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2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2013年2月3日(日)


2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが密かに生き続ける京都にあって、
節分は 「本来の年越」 として、ある意味、正月を凌ぐ盛り上がりを見せます。
年末の大祓よろしく、一年の間に溜まった穢れを祓う追儺式があちこちの寺社で行われ、
そこら中で鬼が暴れ回り、そこら中で火炉が炎上し、そこら中で福豆に人々が殺到するわけです。
そんな大賑わいな京都の節分、人が多い所へ多い時に赴くのが趣旨の我がサイトとしても、
無論黙って見過ごすわけにはいかず、これまでも過酷なスケジュールで徘徊を繰り返してきました
鬼が出る寺社へ潜り込んでは、一目鬼を見ようとする人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
舞妓はんが豆まきする寺社へ潜り込んでは、豆を求める人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
吉田の追儺式では何も見えず、火炉祭では焼死と圧死の恐怖に見舞われた末に締め出しを食らい
須賀神社では恋に効くという 「懸想文」 を男一人でこっそり買ってみたりしてきたわけですが、
そんな暇と阿呆が丸出しな徘徊の季節が、2013年も無事にやってきたのであります。
で、今回は何をするかといえば、かなりユル目というか、はっきり言って省力化 aka 手抜きです。
だってもう、しんどいもん。おまけに、寒いもん。加えて、虚しいもん。それに何より、阿呆らしいもん。
あと、節分前日と当日の2連日を徘徊に使うのが、一応真人間としては、苦しくなってきたもん。
というわけで今回の節分めぐりは、2月3日のみ、東山近辺をうろつく仕様となっております。
超メジャーな観光地と重なるエリアながら、超ネイティブな雰囲気もまた濃厚に残る、東山近辺。
伝統と日常が交錯する京都ならではの節分を楽しむ、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
このエリアを選び、徒歩だけでユルく、のんびり、気の向くままに、めぐってみました。
京阪沿線の私にとってバス代がかからん所なので、選んだのではありません。
労力と共に金もケチりたくて選んだのでは、ありません。違います。

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恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年1月9日(水)


恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

応仁の乱で丸焼けとなった後、京都は商業の街として再生します。
もちろん、止む事無き方々は戦乱以後も変わらずこの街に住み続けたわけですが、
復興や再興の主力となったのは、弱体化した朝廷ではなく、あくまでも民間の商工業者たちでした。
秀吉による手厚い商業保護を経て、実際の政治権力が完全に東へ移った江戸期以降は、
この商工業者 = 町人主導な傾向がより顕著化し、都に残る寺社や風習などもどんどんと商品化。
雅なる伝統を語る一方で、時流に乗った新商品を次々と生み出す観光都市の側面を強め、
「本物」 を求めて入洛した輩には失望のカウンターパンチを食らわせる楽しい街となったわけですが、
そんな話はともかく、京都は今でも 「家が商売してる」 というところが、普通に多かったりします。
で、商売やってる家が多いため、この雅な街でも商売の神様は極めて篤い信仰を集めてたりします。
「しょーばいはんじょでささもてこい」 のフレーズで知られる恵比寿神も、例外ではありません。
バキバキの商都・大阪の今宮戎、あるいは西宮のイメージが強い恵比寿神 = えべっさんですが、
祇園近くに立つ恵美須神社は、その二社と並んで 「日本三大えびす」 と称されるほど、人気。
また、その近所である超メジャー級の八坂神社の境内にも、末社として祇園蛭子社があり、
こちらも 「祇園のえべっさん」 として、祇園で商売やってる人たちから信仰されてます。
恵美須神社も祇園蛭子社も、えべっさんの誕生日である1月10日前後は 「十日えびす」 として、
数日に渡り盛大な祭りを行いますが、9日の 「宵えびす」 には祇園蛭子社がパレードを開催。
えべっさんを筆頭としたコスプレ七福神が乗るえびす船と、金烏帽子姿の福娘さんたちが、
「しょーばいはんじょでささもてこい」 と歌いながら、四条通を巡行する奇景が拝めるわけです。
そんな奇景をメインに、祇園一帯のえべっさんの賑わい、見てきました。

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六波羅蜜寺のかくれ念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月13日(木)


六波羅蜜寺のかくれ念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

かくれ念仏。正しくは、元かくれ念仏。
今は隠れてません。今も隠れてたら、見れませんから。
近年に公開されるまで、実に800年に渡り六波羅蜜寺で秘儀とされてきた、かくれ念仏。
その正式名称は、空也踊躍念仏。空也とはもちろん、口から小阿弥陀を吐いてる、あの空也です。
飢饉&疫病による放置死体がそこら中に転がっていた平安中期の京へ現れ、
仏の教えのみならず、火葬による防疫や架橋などの実用的な知恵も民に説いた、空也上人。
「阿弥陀聖」「市聖」「市上人」などの呼称で幅広い帰依者を得ましたが、
さらに念仏をわかりやすく伝えるため、上人は踊念仏を開発。それが、空也踊躍念仏の始まりと。
上人の建てた西光寺がルーツの六波羅蜜寺は、当然空也をモストリスペクトしており、
阿弥陀吐き空也像はもちろん、上人自刻という本尊十一面相観音像も1000年の永きにわたり保持。
さらには、鎌倉の念仏弾圧時代に入っても「上人の教えを捨てるわけにはいかぬ」と、
あの手この手を尽くして、こっそりと念仏をキープオン&キーピングオン。
まともに「南無阿弥陀仏」とやったら即座にとっ捕まるのため、言葉面を巧みに変容させ、
いつでも中断してトンズラできるよう構成にも工夫を凝らし、独特の踊り念仏を生み出しました。
以後、念仏弾圧の時代が過ぎても空也踊躍念仏は隠れ続け、そのまま現代へ至ります。
昭和53年、重要無形文化財に指定されたのをきっかけとして、
元来の「民と共にある念仏」の姿を取り戻そうと、一般公開が開始されました。
なので、元かくれ念仏。もちろん、こっそり行く必要もありません。
おまけに、念仏の拝観だけなら、無料です。

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今熊野観音寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


今熊野観音寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

今熊野観音寺。イマクマノカンノンジ。
「今熊野」 だったり 「新熊野」 だったりと、漢字表記が揺れがちなイマクマノですが、
正式名称はその 「イマクマノ」 が付かない、単なる 「観音寺」 だったりする、今熊野観音寺。
新熊野神社の本地堂として、御寺・泉涌寺の塔頭として、またそれ以前から始まる長い歴史を持ち、
頭痛封じの御利益で現在もなお極めてネイティブな信仰を集め続けている寺です。
開基は、かの空海。東寺で修行してた弘法大師が、東山に光を見出し、この地で熊野権現と遭遇。
白髪の老翁の姿をした権現から、十一観音と宝印を授けられました。で、観音寺、創建。
平安時代の観音寺は、観音信仰、ぞして熊野信仰の霊場として大いに信仰を集めたそうですが、
末期になって超熊野フリーク&超頭痛持ちの後白河院が、近所に法住寺殿を建設。
院は、頭痛持ちの強迫的な脳内パースペクティブをそのまま具現化したような三十三間堂と共に、
はるばる熊野の地から神のみならず木や土まで勧請した新熊野神社も、創建。
近所である観音寺は、新熊野神社の本地堂とされ、「今熊野観音寺」 と呼ばれるようになりました。
後白河院ゆかりである頭痛封じの御利益も人気を呼び、寺運が上がった観音寺でしたが、
応仁の乱で全てがパーとなり、江戸期に泉涌寺の塔頭として再興、そのまま現在に至ってます。
しかし、他の 「御寺の塔頭」 と比べると、今熊野観音寺のビジュアルは極めて独特であり、
周囲を取り囲む大自然もまた、泉涌寺より何かしら濃厚な霊気を放ってて、独特。
で、この大自然が、秋には実に渋くて良い紅葉を見せてくれるわけです。
おまけに、拝観無料。「紅葉まつり」 として、茶屋も出るため、静かに人気上昇中。
そんな今熊野観音寺の、なうな紅葉、見てきました。

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