2011年8月5日(金)

醍醐寺の万灯会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
醍醐寺。
名前の通り、醍醐にある寺です。そして、醍醐味のある世界遺産であります。
「千年の都」とか言いながら、実は千年前の建物は全然ない京都にあって、
正真正銘の平安時代建築にして、京都府最古の木造建築である国宝・五重塔を保持。
また、面積200万坪以上、醍醐山がまるごと境内という無茶苦茶な広大さを誇り、
その広大さと実に山らしい山の立地条件ゆえ、長く修験道の法頭でもありました。
もちろん、春の桜の見事さ+豊太閤花見行列の豪華絢爛さでも、極めて有名であります。
そんな醍醐寺、私も一度は行きたいと思いながら、今まで行ったことがありません。
本気で山上の上醍醐まで行くと、登山になってしまうので面倒だというのもありますが、
何というか、地下鉄開通前に染み付いた頭の中の距離感では、遠いんですよね、醍醐って。
市営地下鉄醍醐駅の開業は、1997年。それまではこの辺、鉄道は一切ありませんでした。
今なお駅のひとつもない洛西ニュータウンと共に「陸の孤島」とか言われてたんですが、
醍醐に住む親戚を訪ねてたその頃の記憶が、まだ脳にしみついてるんですよ。
もちろん、今は便利になってます。だから、行きました。駅からは結構、歩かされましたけど。
万灯会は、毎年8月5日の夜に醍醐寺が全山で営なむ、法要。
山麓の下醍醐では金堂や五重塔がライトアップされ、各種法要を厳修。上醍醐では、夜まいり。
何より、普段は見るのにお金のかかる伽藍が、無料公開されるのが嬉しい夜であります。
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2011年7月30日(土)

木津川市夏祭りの花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の中心部では、いわゆる「花火大会」というのは、行なわれません。
安全を確保するのが困難だからで、おおむね府下、大河川の流域での開催となります。
まず、宇治。そして、男前豆腐の八木。あと、亀岡。さらには府の北部。そんなところでしょうか。
本当は、隣の滋賀県でやる「びわ湖大花火大会」が、アクセスも良く一番人気なんですが、
そのことは京都の公然の秘密。断じて、表沙汰にすることはできません。
そんな花火貧民である京都の民にとって、新たな救世主となってくれそうなのが、木津川市夏祭り。
木津川市。京都府の南端、奈良県と接するところにある自治体です。
昔は木津町というのどかな町でしたが、合併と急激な人口増により、2007年に市制へ移行。
市内を流れる木津川をアイデンティファイした市名を採用し、活況めざましい市であります。
京都市内中心部からはかなりの距離がありますが、奈良市街には案外と間近。
そして何より、JR大和路線の新快速によって大阪へのアクセスが飛躍的に向上。
新快速が進入する加茂あたりまでを含め、新たな都市近郊としての顔を確固たるものにしてます。
そんな上り調子の木津川市がブチ上げるのが、木津川市夏祭り。
そして、祭りのみならずブチ上げてしまうのが、花火なのです。
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2011年7月24日(日)

祇園祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
還幸祭。祇園祭であっても、還幸祭は還幸祭であります。
御旅所に着御していた神輿が神社へ還る、いわゆる文字通りの還幸祭であります。
で、山鉾巡行を中心に観光化された祇園祭にあって、正直、かなり地味な扱いの神事であります。
西楼門前の差し上げに人気のある神幸祭は、メディアなどでも大きく取り上げられる昨今ですが、
還幸祭はその数分の一の扱いだったり、あるいは数行のフォローだったりします。
しかし、山鉾が主役化する室町時代以前は、この還幸祭こそが「祇園会」と呼ばれてたそうです。
神幸祭の呼び名が「神輿迎」、還幸祭は「祇園会」あるいは「祇園御霊会」。
後白河院をはじめ多くの貴顕が三条通の桟敷で還幸を見物し、着飾った騎馬の童・馬長を寄進。
この「御霊会の馬長」は、清少納言の枕草子で「心地よげなるもの」として挙げられたりもしてます。
が、後白河院が「もう金、ない。お前ら、出せ」と、洛内の有力町衆「潤屋の賎民」に命じて以降、
祇園祭は町衆主体の「民営化路線」を突っ走り、山鉾町は数百年に渡って祭を継続・発展・巨大化。
現代に入り、山鉾巡行が一本化で更なる観光化を推し進めると、宵山とのペアで一人勝ちが確定。
還幸祭は、今や、ガイドブック等に載らないようにさえなりました。
しかし還幸祭、神事としての重要性は今も変わっていません。それがわかるのが、神輿の巡行ルート。
神幸祭より距離的が圧倒的に長いです。長くなるのは、三条御供所と神泉苑へ出向くため。
祇園祭のルーツである御霊会が催された神泉苑、その神泉苑の池の汀だったという三条御供所。
共に、祇園祭発祥の地であり、「千年以上続く祭り」を文字通りの形で確認できる場でもあります。
数キロという本当に長大な巡行であり、おまけに3基の神輿がバラバラのルートを進むので、
全部のフォローは諦め、神宝奉持列の冒頭と中御座を追っかけてみました。
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2011年7月24日(日)

祇園祭の花傘巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
花傘巡行。山鉾巡行の「あとのまつり」の名残ともいえる神事です。
かつて山鉾巡行は、「さきのまつり」と「あとのまつり」の2回、行われてました。
「さきのまつり」は17日、神幸祭の露払いとして。「あとのまつりは24日、還幸祭の露払いとして。
山鉾が神輿に代って祇園祭の主役になってからも、本来の意義を失うことなく続いてたわけです。
その伝統に変化が起こったのが、昭和の中頃。マイカーが走るようになる高度成長期の頃。
市内交通が麻痺する日を一日でも減らしたい、ついでに観光客を集中的に呼び込みたい、
京都市はそんな思惑を抱き、「さきのまつり」と「あとのまつり」の統合、合同巡行を提案。
祇園祭の神事としての側面により重きを置く八坂神社は、この案に反対しましたが、
実際に巡行を担う山鉾町からは「2週もやってたら、商売やりにくてかなわんわ」という声も多く、
昭和41年、山鉾巡行は17日に一本化。千年以上続いた「あとのまつり」は、途絶しました。
「あとのまつり」の意義を遺したい神社側は、24日に何らかの神事を行なうことを発案。
どうせならと山鉾の原型・花傘を復活させ、各種芸能行事も盛り込み、花傘巡行はスタートしました。
巨大な鉾などは出ませんが、織物業者や花街がメインで参加するため、行列の華やかさは随一。
巫女さんのような神饌行列、芸舞妓はん、鷺踊、万灯踊、そして「きものの女王」に花傘娘と、
ほとんど女人禁制の山鉾巡行とは対照的に、女性が大量動員される神事なのであります。
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2011年7月14日(木)

四条河原町下ルの三栄へ、鱧を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の夏といえば、鱧。
というわけで、貧乏独男でも京の夏を楽しもうと始めた夏季集中企画 『ひとりで食べる鱧』 。
己の財政事情を省みずに食べ歩きをスタートしたんですが、結果、あの、今回で最終回です。
最終回じゃないにしても、多分、当分、お休みです。何故って、いや、お金がなくなるから。
お金ってね、使うとなくなるもんなんですよ。御存知でしょうか。本当に不思議ですよね。
貧乏なら貧乏で、もうちょっとお手ごろな惣菜ものとかで攻めてもよかったんですが、
しかし、そういう守りの姿勢では絶対に楽しめない味覚があるのも、これまた世の真実。
特に今回の三栄、良かった。本当に、良かった。
この企画では「昼&5000円以内」の予算を想定してたんですが、こちらの御代は7000円弱。
結構なオーバーではありましたが、でも本当に、良かった。美味かった。
四条通を避けて寺町通の電器街へ行く時、団栗橋からこの店の前あたりをよく通ってましたが、
「何か渋い店」という印象しかなかっただけに、嬉しい驚きでした。
当日の朝10時頃に「ひとりで。13時半頃」と予約の電話を入れたら、OKの返事。
だったのでのこのこ出かけました。
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2011年7月10日(日)

柳家本店へ鱧を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の夏といえば、鱧。
ですが、偽京都人の私には夏に鱧を食う習性などありません。
あ、いや、ちょっとだけ思い出はあります。幼少時、母が作ってくれた鱧の吸い物。
安物の骨だらけな鱧を、インスタントの出汁に放り込んだだけの代物。これがまあ、不味かった。
鱧大好きという関東の知人にこの話をすると
「それ!そういうのがいいんですよ」とか喜びましたが、実物を食えば閉口すること間違いなし。
本当に泣くほど不味く、それから私は鱧が嫌いになりました。
嫌いになればなるほど懐には優しい食材なので、特に困ることなく今まで生きて来ましたが、
しかし、京都の夏といえばやはり、鱧。
京都ベタスポットの単独正面突破を身上とするうちとしては、逃げるわけにはいきません。
本当にベタな老舗にはとても入れませんが、比較的庶民派な店でも美味しい鱧はあるはず。
そんな店を渡り歩く、夏季限定シリーズ 『ひとりで食べる鱧』。
予算は、5000円以内。金が続く限り続けます。次回か、下手すると今回で終了かも知れませんが。
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2011年7月7日(木)

白峯神宮の七夕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
白峯神宮。
御存知、「日本国の大魔縁」となったことで知られる崇徳天皇を祀る神社です。
保元の乱に敗れ、讃岐国へ流罪とされ、都を呪いながら死んでいった、崇徳帝。
「皇を取って民とし、民を皇となさん」と血で書きつけたその呪いのパワーこそが、
鎌倉以降長らく日本を武士の国にしてしまったと考えたのは、大政奉還を控えた維新政府。
「この呪い、何とかしとかないと、マジヤバし」と考えたのか、実に明治改元の2日前、
讃岐国より京都へ帰還した崇徳帝の御霊は、この白峯神宮へ遷霊されたのでした。
しかし、この神社が祀ってるのは恐怖の大魔縁だけではありません。
境内には多くの摂社がありますが、中でも東側で大きな存在感を放ってるのが、精大明神。
この土地は元々、蹴鞠の宗家・飛鳥井家の邸宅跡。で、精大明神はその飛鳥井家の祖先神。
ゆえにこの神様、蹴鞠はもちろん、サッカーは初めとした球技各種の上達に効能があると言われ、
プロアマ問わずたくさんのスポーツ関係者から篤い信仰を集めてます。
白峯神宮の七夕祭は、崇徳帝ではなくこの精大明神のお祭り。精大明神例祭。
蹴鞠はもちろん、舞楽や、かつて七夕踊りとも呼ばれたという「小町をどり」なども奉納されます。
あいにくの雨ですが、舞殿での蹴鞠というのもそう見れるものではありません。
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2011年6月30日(木)

上賀茂神社の夏越大祓へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
夏越祓の茅の輪をくぐりまくり、オーラスです。
小さめの神社を一日中駆けずり回り、茅の輪をくぐりまくった夏越デイでしたが、
締めはやはり世界遺産、超メジャー級で行こうじゃないかということで、上賀茂神社であります。
といっても「みなづきのなごしのはらえするひとはちとせのいのちのぶというなり」と言いながら
輪をくぐるだけではありません。結構な神事も行われるので、そっちも見物しました。
上賀茂神社は、祓、禊祓を非常に重要視してるそうです。
理由は、祭神である賀茂別雷神が母・玉依比売命の禊の最中に降臨したからだとか。
大和国・葛城から、山城国、そして上賀茂地域に定住した賀茂県主族は、神を求めた、と。
一族の祭祀の権を与えられた玉依比売命は、神の降臨を願って毎日川辺で禊をした、と。
すると、川上から仁塗の矢が流れてきたので、持ち帰った、と。
その夜、何か神を感じ、子供が生まれた、と。で、その御子が祭神・賀茂別雷神だった、と。
このような由緒ゆえ祓を大切にし、この夜の夏越大祓&人型流しも荘厳に執り行われます。
元々夏越祓は12月の晦日に共に「大祓」という国家的な除災行事だったそうで、
奈良時代には朱雀門前に百官が集まり、大祓詞を読み上げるという大層なものだったとか。
上賀茂神社の夏越大祓はもしかすると、そんな平安以前の祓の姿を伝えてるかも知れませ
地元の神社で地元の人たちがささやかに無病息災を願うのとは一味違う、
世界遺産ならではの祓いの儀、ご堪能ください。
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2011年6月10日(金)

伏見稲荷の田植祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
稲を荷うと書いて、イナリ。稲荷はあくまで、農耕神であります。
「ウソをつけ」と言いたくなるくらい、伏見稲荷の「お塚」にはあらゆる効能を誇るお社が密集し、
神々のラッシュアワー、あるいは神徳のワンストップサービスとでもいうべき状態を呈してますが、
しかし稲荷はあくまで、農耕神であります。だからこそ、これだけ幅広い欲望を集めるのであります。
なぜ集まるかといえば、それはおそらく、我々日本人が農耕民族だからでしょう。
自然にひれ伏すだけでなく、コントロールして収穫を得るという、テクノロジーの萌芽としての稲作。
その第一歩である 「苗を植える」 という小さな行為に、
産業・商売問わず、豊穣を生むあらゆるものの始まりをごく自然に連想できる、我々の感性。
どっかのわけのわからん映画で、猿が天へ向けて投げた骨が宇宙船に化けたように、
田に植えられた1本の苗は我々の魂の中で、スカイツリーにまで真っ直ぐ繋がっているのです。
神前に供する米を収穫する神田に、豊作祈願をしながら苗を植える、伏見稲荷の田植祭。
現代人の目には「のどか」に見え、その見た目に惹かれカメラマンや見物客が集まる神事ですが、
その混雑で「のどか」さがかき消されてる現実が表すように、ここに真に満ちているのは、欲望。
「食いたいものを、食いたいときに、食いたいだけ、食いたい」。
「やりたいことを、やりたい時に、やりたいだけ、やりたい」。
「撮りたいものを、撮りたい時に、撮りたいだけ、撮りたい」。
そんな欲望のカオスなのです。本当かと訊かれたらウソですが、とにかく稲荷なのです。
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2011年6月5日(日)

祇園の放生会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
放生会。そもそもは仏教の戒律に基づいた、殺生を戒める宗教儀式であります。
必要以上に他の生きものの命を奪い、食い尽くさずにはいられない、罪深き我々人類。
飽食は改めることができても、やはり最低限食うもんは食わねばならない、罪深き我々人類。
その原罪性を認識し、魚や鳥を野に放つことで食材化した生きものを供養するのが、放生会です。
しかし、神仏習合の国・日本に於いては、この仏教儀式が神道にも大幅にフィーチャア。
よりによって春秋の収穫祭・感謝祭とも習合し、混交の度が特に高い八幡宮では例祭化。
筥崎八幡宮・放生会のお祭り加減は有名ですし、私の地元の石清水八幡宮なんかでは、
放生会で鳥を放ちながら神饌として焼鳥を献上するという、わけのわからないことになってます。
が、とにかく大事なのは、食べ物のありがたみを実感し感謝すること。
いのちをありがとう、ってやつです。で、そんな気持ちを祇園のど真ん中で祈るのが、祇園放生会。
開催場所が辰巳大明神前ということで、思わずディープな神仏習合の名残を期待したくなりますが、
実際は古来の行事ではなく、昭和末期にどっかの学生団体が企画したイベントもの。
で、学生が飽きたのか辞めて、今は赤山禅院がメインの実行委員会が引き受けてると。
だからかどうかは知りませんが、読経には赤山禅院の親玉である比叡山の偉いさんが参加。
もちろん、舞妓はんもしっかり登場する、祇園の初夏の風物詩です。
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2011年6月3日(金)

貴船の川床カフェへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
貴船の川床は、大正の頃、茶屋が川の中へ床机を置いたのが始まりだそうです。
桃山時代に始まった鴨川の川床に比べると随分のちの時代の話ですが、
現在のような形で料理を出すようになったのはさらに時代が下って、実に戦後。
貴船神社や鞍馬寺は平安遷都の頃から存在し、
参拝客は数多く存在したであろうにも関わらず、遅いスタートなのであります。
何でこんなに遅いかといえば、多分、水害が怖かったんでしょうね。
昔の鴨川もいい加減恐ろしい荒くれ川でしたが、貴船川は川幅が狭い分、鉄砲水が怖い。
水の神様・貴船神社が、現在の奥社から本社の位置まで流されたくらい、その威力は強烈。
昭和に入ってからも鳥居や料理旅館が流されてるそうですから、たまったもんじゃありません。
鴨川のように川沿いに床が立つのならまだしも、川の上以外に立てる場所がない貴船では、
治水がある程度何とかならない限り、夏の風物詩もひったくれもなかったんでしょう。
と、勝手に考えてるんですが、実際は単に川床を思いつかなかっただけなら、すんません。
川の中の床机で、水に足をつけてお茶など飲むだけだったという、黎明期の貴船の川床。
その頃を彷彿させるかどうかは一切不明ですが、料理屋街を歩いてると目についたのが、川床カフェ。
昼と夜のハーフタイムの川床を、簡単にお茶を出して稼動させる試みです。
安い値段で川床に入れるのが嬉しいので、ひろ文の帰り、思わず2軒、寄ってみました。
そして、ついでというと神罰が下りそうですが、貴船神社と奥社の参拝も。
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2011年6月3日(金)

貴船・ひろ文で、川床料理を楽しんできました。もちろん、ひとりで。
川床って、もともとは涼を取るためのもんだったんですよ。
だって、京都の夏は暑いから。暑さから逃れるために、川に床を敷いたんですよ、昔の人は。
あ、御存知ですか。で、今もそうだろって。そんなわけないでしょ。今はクーラーがあるんだから。
風というより熱気がまとわり付いてくる夏の京都の川べり vs クーラーが効いた部屋。
どっちが涼しいと思いますか。幻想や痩せ我慢を取り去れば、答えは明らかです。
というわけで、現代の川床は実際的な納涼から開放され、風情こそを楽しむものとなりました。
おかげで、営業形態は年々多様化。期間も夏に限定されず、果てしなく長期化。
明らかに寒いと思える5月も営業し、むしろその寒さを利用して真夏では不可能な昼床が増殖中。
何でもありであります。
が、何でもありだからこそ、貧乏で孤独な我々が川床を楽しむチャンスも生まれるわけであります。
今回訪れたひろ文は、市内中心部より気温が数度低い、京都の奥座敷・貴船の料理旅館。
1200円で川床気分が味わえる流しそうめんで有名な店ですが、
6月いっぱいまでは3500円の清涼膳なる平日限定昼メニューを設定。で、それを食いにいった、と。
あ、為念で言っときますが、貴船の川床は「かわゆか」ではなく「かわどこ」です。
「かわゆか」は鴨川みたいな川沿いの床、貴船は川を覆う床ゆえ「かわどこ」だそうです。
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2011年5月22日(日)

下御霊神社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
下御霊神社。
京都御所の南東にあり、名前の通り御霊 = 怨霊を祀る神社です。
祭神は早良天皇を始め、この世に未練を残して非業の死を遂げた貴人の霊ばかり、八柱。
パッと見は、地元の人が梨木神社と同じ水源という名水を汲みに来る渋い神社ですが、
本当は極めてやんごとなき、そして恐るべきルーツを持つ社なのであります。
平安前期・貞観年間、都の人々は、都市化により熾烈を極めるようになった疫病に直面。
貴賎問わず襲い掛かるこの災厄を、人々は御霊によるものと考え、貴人の霊を慰める御霊会を開催。
怨念の直接的なターゲットであるため、ある意味民衆以上に怨霊にビビリまくっていた朝廷は、
この動きに呼応する形で神泉苑にてオフィシャルな御霊会を開催&年中行事化。
有名な祇園祭のルーツの話ですが、下御霊神社も同経緯で創始されたと考えられています。
例祭には、今宮のやすらい祭と同じく、いにしえの御霊会のテイストが色濃く残存。
神幸列のプレ祇園祭な剣鉾や山車が、平安期の祇園祭をイメージさせることも、多大です。
また興味深いのが、この神社の氏子区域。もともと上御霊神社と共に皇居の御産土神であり、
多くの御殿や公爵の邸宅が並んでたというこのエリアは、現在はバリバリの都心。
高層ビルと、昔のままの町家が入り混じる、京都ならではのオフィス街になってます。
そこを、平安装束の神職たちが鳳簾を押して歩く、シュールともいえる光景が展開されるのです。
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2011年5月17日(火)

鞍馬寺の五月満月祭 (ウエサク祭)へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
天上と地上の間に栄光の通路が開かれるという、五月の満月の夜。
宇宙より降り注ぐ高次元のエネルギーを身に受けながら、聖水を捧げ、灯を供え、
すべての「めざめ」のため、尊天・大魔王尊に皆で祈るのが、鞍馬寺の五月満月祭です。
魔王尊とは、650万年前に金星より鞍馬山へ飛来した神。別名、サナート・クマラ。
意志・力・勇気・創造・破壊・進化の神にして、人類の父であり、宇宙の大霊・大光明・大活動体。
地下空洞の支配者でもあり、北欧・ヒマラヤ・南米・そして鞍馬山の4ヶ所より自由に出入り。
また人類救済のため、キリストや仏陀を現世に投入。あと、永遠に16歳。
鞍馬寺はこの何でもありな魔王尊を本尊 = 尊天として、千手観音や毘沙門天の背後で密かに信仰、
五月満月祭もまた完全クローズドで密教的に500年以上行われてきましたが、
昭和20年代に至りこの儀式がヒマラヤ山中で行われるウエサク祭と酷似していることが判明。
のみならず、タイ・ミャンマーなどの南方仏教圏でも同様の儀式が脈々と続いてることも判明。
金星経由で魂が世界とリンクしてることを確信した鞍馬寺は、魔王尊を一気に前面へ押し出し、
鞍馬弘教総本山として天台宗より独立、この五月満月祭も一般に広く公開することを決定。
「ウエサク祭」の名を併記し国際的祭典となった現在では、三部構成で朝まで続く儀式に、
多くのヤバい人、もとい、カルトな人、もとい、信仰深い人がオールナイトで集まるようになりました。
何というか、「パワースポット」とか「スピリチュアル」の権化の如き世界なのであります。
「五月満月祭」でググると、それはもう、ヤバ気なサイトばっかりヒットするのであります。
怖いのであります。でも、好奇心には勝てないのであります。
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2011年5月15日(日)

葵祭・路頭の儀のフル追尾、続きです。
京都の人にとって、葵祭は「それほどでもない」んだそうです。
『京都大不満』 という本に、そう書いてありました。曰く、三大祭の中では「それほどでもない」。
祇園祭は愛着度が高い、と。誰が見てもわかります。で、時代祭は全然だ、と。これもわかります。
が、葵祭の「それほどでもない」という感じは、ちょっと微妙なニュアンスの世界かも知れません。
しかし、私にはわかる気がします。一応、勅祭が行われる八幡の民としては、わかる気がします。
勅祭って基本、じっと見るしかしょうがないんですよね。
ほとんど無形無実とはいえ皇族が関わる祭ですから、平民はおいそれと参加できないわけです。
その割には学生バイトが動員されまくってるし、ボランティアの方も多く関わってるんでしょうが、
自分達で作る自分達の自主的な祭というのとは、何かが決定的に違う。
今でも「お上の祭」なわけです。当の「お上」が御所にいなくなっても、「お上の祭」なわけです。
神が街を巡幸することはなく、あるのはコスプレ行列のみ。それらをただ、見る。じっと、見る。
牛車を、風流傘を、知らん間に知らん所で決定される斎王代などを、つくづくと見る。
「見る」側の優位性がとかく強調され、無能ゆえの万能感を膨張しやすい現代において、
葵祭は、見ることしか出来ない平民の無力さを改めて教える儀礼なのかもしれません(大層な)。
5月のよく晴れた都大路を、コスプレ追いかけて走りまわる、そのみっともなさ。
もちろん現代の我々は、そのみっともなさをマゾヒスティックに享受する自由も持ってるわけですが。
社頭の儀を終えた下鴨神社からゴールの上賀茂神社までのパレード後半戦、
同志のあなたもマゾヒスティックに、無能に、追走してみますか。
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2011年5月15日(日)

葵祭・路頭の儀をフルで追尾してみました。もちろん、ひとりで。
葵祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつです。
夏の祇園祭、秋の時代祭と並んで、春の京都の重要な観光資源でございます。
本名、賀茂祭。上賀茂神社と下鴨神社、両賀茂社の例祭であり、
私の地元の石清水祭・奈良の春日祭と共に、勅使が派遣される三大勅祭のひとつでもあります。
そもそも京に於いて「祭」といえばこの賀茂祭のみを指したくらい、その重要性は高く、歴史も長し。
平安遷都以前から「猪殺して乱闘しまくり」の喧嘩祭として、何度も禁制食らうほどの大盛り上がり。
遷都以降は賀茂社の王城鎮護指定を受け、勅祭化。また都の祭として、洗練化。
特に、御所から社までを天皇の使い・勅使とその行列が華麗な姿で行進する路頭の儀は、
雅な姿がさながらファッションショーの如き人気を呼び、見物人の場所取りで諍いが起こるほどに。
以後、応仁の乱でしばらく途絶したり、明治維新や第二次大戦などによる中断を挟みつつも、
そのたびに何とか復興、戦後は斎王代も導入し、一貫して京の「祭」であり続けてます。
流鏑馬神事・歩射神事・競馬会神事・御阿礼神事・そして御影祭などなど、
単体でも集客力のある神事が並ぶ葵祭ですが、一番の客寄せパンダはもちろん、この路頭の儀。
新緑眩しい都大路に華麗なる王朝絵巻を再現する、全長1キロもの日雇いバイトのコスプレ行列。
しかし着ている衣装は全部本物、下手すると着てる人間より高価だったりするので、あなどれません。
そんな路頭の儀、スタートの御所からゴールの上賀茂神社までは実に8kmに及びますが、
最初から最後まで、徒歩のみで追いかけてみました。何故って、暇だし・・・。
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2011年5月5日(木)

藤森神社の藤森祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
藤森神社。その筋の方には、競馬の神様として有名です。
京阪乗って淀の京都競馬場で勝負する前に、途中下車して必勝祈願、みたいな。
ファンのみならず、騎手や馬主など関係者の参拝も多いというから、筋金入りの馬神社であります。
ではこの社の祭神は馬かといえば、そうではありません。祭神は、神功皇后を始めとする十二柱。
新羅を攻略して凱旋した皇后が、戦旗と武器を納めたのが、この神社の始まりだそうです。
こんな勇ましい由来を持つわけですから、藤森神社は当然のように、武神。勝軍の神。
今も昔も「勝ち」を欲する人々から篤い崇敬を受け続けています。
勝負で直接メシを食う戦国大名たちはこの社の鳥居前を通る際には敬意を払って槍を下げ、
明治に入れば武運にあやかろうとしたのか陸軍第十六師団が隣の敷地へ駐屯し、
一応平和ということになってる現代では競馬の受験に勝利をもたらす神となってるのであります。
そんな藤森神社の大祭は、藤森祭。菖蒲の節句、すなわち端午の節句の開催です。
武神ゆえ菖蒲 = 勝負ということでこの日を選んでるのかどうかは知りませんが、
5月5日を男の子のお祭りの日として武者人形を飾るのは、この祭が発祥なんだとか。
早良親王が陸奥国の反乱鎮圧で出陣した様をなぞらえたという武者行列、
京都で最も優雅な神輿が何故か伏見稲荷あたりまで行ってしまう神輿巡幸、
そしてもちろん有名な駆馬神事と、実に男の子な行事が目白押しな祭なのであります。
そんな男の子の祭、男ひとりで行ってきました。
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2011年4月24日(日)

松尾祭・神幸祭、いよいよラスト、七条通巡幸です。
松尾祭、一日くっついて見物してると、氏子さんの数の物凄さに圧倒されます。
見物人もそれなりに多いんですが、何よりも白法被の人たちが、多い。そして全員が、濃い。
数だけなら祇園祭の方が多いかも知れないし、手伝いの人も多少は混じってるでしょうが、
でも、ひとりひとりが放つオーラと、祭全体の熱狂度は、圧倒的に京都一ではないかと。
特に、インドアな感じな少年たちでさえ積極的に祭へ没入してる姿は、感動的でさえありました。
と、同時に感じたのが、この祭りが西七条 / 西市跡 / 西寺跡の祭りだということ。
出かける時は何となく「松尾、梅津、桂あたりの人たちがやってる祭」とか思ってたんですが、
考えてみれば神輿が駐輦する御旅所は、ほとんどが西七条を中心に点在。
もちろん、奉仕する氏子さんもその区域の人たちです。
これは、洛外の神様に自分の街へおいで頂く祭なんだな、と。だから「おいで」なんだなと。
祇園祭や稲荷祭と似た形式であり、特に東寺と縁深い稲荷祭とは近いものがあるんじゃないかと。
西寺跡が氏子区域の大宮社神輿に松尾神を乗せ、西市跡近くの西七条御旅所へ向かう七条通巡幸。
いよいよ神をホームタウンへ迎えることで、祭の盛り上がりはピークへ。
同時に疲労もピークに達するためか、ストリートは怒号と絶叫と微笑みが渦巻く興奮の巷と化します。
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2011年4月24日(日)

松尾大社の神幸祭、続きです。
松尾の祭には、必ず雨が降るそうです。
それは、松尾の神様が水の神であることに由来するんだとか。
松尾大社の祭神は、松尾山を支配する神・大山昨神と、海上守護の神・中津島姫命の二柱。
海の無い京都に海の神さまが祀られてるのを不思議に思われるかも知れませんが、
松尾の目の前には、淀川を経て瀬戸内航路に直結する桂川が流れてます。
また、桂川上流である保津川を経由して、丹波から木材などの交易を行っていたことは有名です。
この地で水運、あるいは漁などで「水」に関わってた人たちは、多かったんでしょう。
松尾の氏子にとって、水と船は、今よりもはるかに大きな意味を持ってたんじゃないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれるのが、松尾祭・神幸祭の最大の見せ場である、船渡御。
文字通り、神輿を舟に乗せ桂川を渡ってしまうという、京都で唯一無二の勇壮な荒技です。
もっとも、さらに昔は舟さえ使わず肩で担いで川を渡りきったそうですが、
いずれにせよ人と水とのダイナミックな係わり合いが見れる神事です。
今日は朝から、日本晴れ。午前中は、暑いくらいの陽気でした。雨なんか降るんでしょうか。
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2011年4月24日(日)

松尾大社の松尾祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
松尾大社。
一般的な認知のされ方としては、お酒の神様という感じなんでしょうか。
あるいは、近所の料亭に生前の某マイコーが来損ねて、サインだけ残ってるとか。
しかし、京都的には違うのであります。松尾大社は、何といっても洛西総氏神なのであります。
平安遷都以前よりこの地を開発していた渡来系・秦氏が、土着の松尾山磐座信仰と結びつき、創建。
秦氏が平安京造営を支援したことで皇室の御崇敬も篤く、賀茂社と共に皇城守護の社に指定。
大祭の松尾祭も、「松尾の葵祭」という通称が今も残る通り、かつては賀茂祭と同じく勅祭でした。
しかし、朝廷の力はやがて衰微。で、代わって松尾大社と祭を支えるようになったのが、氏子。
中世以降、祇園御霊会を下京の町衆が支えるようになったのは有名な話ですが、
それと似たような感じでしょうか。鎌倉時代には既に祭祀組織が存在してた記録もあるとか。
ただし、祇園会は町衆が主導権を握ったのに対し、松尾を支えたのは、村人。
京都の都市域が東へスライドしていくのに従い、右京・西京は近隣の農村地帯と次第に同化。
住宅街化したのも最近の話であり、そのため、松尾大社とその祭をとりまく共同体のあり方は
祇園会 = 祇園祭のように観光化により変形されることなく、中世の香りをよく伝えてるといわれ、
また松尾祭は京都では珍しいくらいに勇壮で大らかな盛り上がり見せることで知られます。
現代の松尾祭は、神幸祭が4月20日以降の日曜、還幸祭がその三週間後の日曜に開催。
神幸祭では桂川を神輿が渡る船渡御、還幸祭ではワイルド極まる宮入りが有名ですが、
今回は神幸祭、通称「おいで」を丸一日、追っかけてみました。
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