昼も、ひとり アーカイブ - 10ページ目 (15ページ中) - ひとりでうろつく京都 (β版) ひとりでうろつく京都 (β版)

archives:
昼も、ひとり

立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年4月4日(木)


立本寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都市上京区には、 「元●●寺町」 みたいな地名が多くあります。
「元真如堂町」 とか 「元百万遍町」 とか。 「元頂妙寺町」 とか 「元本満寺町」 とか。
中には、頭に 「元」 をつけず堂々と 「実相院町」 「革堂町」 「阿弥陀寺町」 と名乗ってたりとか。
町名のみならず、「元誓願寺通」 なんて通が、誓願寺と全然関係ないとこを走ってたりとか。
もちろん、元々はその町名の場所に名前の通りの寺があり、のち移転したわけです。
単に焼亡などで移転した寺も多いですが、移転の大きな山を作ったのは、天文法華の乱と、秀吉
法華宗の隆盛にブチ切れた比叡山が攻めてきて、法華宗は法華宗でそれを市内で迎え撃ち、
組の抗争の如き市街戦を展開したのち法華宗が洛外へ追い出された、天文法華の乱。
そして、そんな血気盛んな仏教勢力を殺ぐため、多くの寺を町外れへ集中移転させた、秀吉。
法華宗の中には、その両方で移転を余儀なくされた寺も結構存在するわけで、
今回桜を見に行った西陣の日蓮宗本山・立本寺もまた、幾多の変遷を経た寺だったりします。
創建以来、山門による破却や仲間割れを繰り返し、天文法華の乱では堺へ避難し、
帰洛したら秀吉に移転させられ、移転したら大火で焼失、現在地でようやく落ち着いた、立本寺。
北野商店街のすぐ南側で、住宅地に包囲されつつも極めて広い境内を持つ現在の姿は、
ちょっとしたハッピーエンド感さえ感じさせますが、もっとハッピーに見えるのが、桜の季節です。
かなりなボリュームの桜が、かなりなボリュームで密集して咲き、人もあまりいない。
何かもう、ちょっとした天国が現出してます。街角の天国、とでもいうか。
そんな立本寺の桜、ハッピーな気分でご堪能下さい。

続きはこちら »

梅宮大社の梅産祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年3月3日(日)


梅宮大社の梅産祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

産め、産め、産め、産め、産め。
こんなことを言われると、女性は、一体どんな気持になるんでしょうか。
「子供作れ」 どころか、 「結婚しろ」 「彼女作れ」 とさえ身内から言われなくなった私には、
理解する機会はほぼ永久に来ないと思いますが、ゆえに不思議といえば結構、不思議であります。
自分の性的なファクターにあれこれと口を出されると、私はかなり頭に来る方なんですが、
「産め、産め」 というのはそれどころの騒ぎではないのであり、私が女なら言った奴に向かって、
「お前が、産め。男でも、産め。肛門で、産め。女なら、もっと産め。まずお前が、貧乏大家族やれ」
みたいなことを言いそうですが、でも実際の女性がそういうことを言うのはあまり聞かないので、
やはり不思議といえば実に不思議、よくわからんと言えば実によくわからん話であります。
再生産プロパガンダは飛び交うものの、露骨に 「産め」 とはさすがにあまり言わない現代日本で、
堂々と 「産め、産め」 と言ってるのが、梅宮大社で3月第1日曜に行われる 「梅産祭」 です。
「梅産祭」 、読みは 「うめうめまつり」 。いや、本当に。丸っきり、「産め、産め」。
死体の腐乱化を9コマで描いた西福寺・九相図で御馴染、橘嘉智子 aka 檀林皇后が、
なかなか夫・嵯峨天皇の子を産めないのを悩んだ末、この社の白砂を床の下に敷いて寝たところ、
直ちに懐妊、めでたく仁明天皇を産んだことに端を発するという、梅宮大社の子授け信仰。
そんな由緒と梅の開花シーズンをひっかけ、さらには女の子の節句である3月3日もひっかけ、
ついでに日本で最初に酒が作られたという日本第一酒造の祖神という由緒もひっかけ、
梅を見ながら梅酒 or ジュースを飲み、再生産の活性化を祈願する祭であります。
独男には無縁というか、本質的な意味では花灯路以上のアウェーさえ予測される祭ですが、
その恐怖に特攻魂を刺激され、梅が本咲きでもないのにノコノコ出かけてみました。
何も生み出さない男が、梅から 「うめ、うめ」 と言われる様、御覧下さい。

続きはこちら »

2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2013年2月3日(日)


2013年度の節分めぐり、後篇です。

太古の追儺には、は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。

続きはこちら »

2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2013年2月3日(日)


2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが密かに生き続ける京都にあって、
節分は 「本来の年越」 として、ある意味、正月を凌ぐ盛り上がりを見せます。
年末の大祓よろしく、一年の間に溜まった穢れを祓う追儺式があちこちの寺社で行われ、
そこら中で鬼が暴れ回り、そこら中で火炉が炎上し、そこら中で福豆に人々が殺到するわけです。
そんな大賑わいな京都の節分、人が多い所へ多い時に赴くのが趣旨の我がサイトとしても、
無論黙って見過ごすわけにはいかず、これまでも過酷なスケジュールで徘徊を繰り返してきました
鬼が出る寺社へ潜り込んでは、一目鬼を見ようとする人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
舞妓はんが豆まきする寺社へ潜り込んでは、豆を求める人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
吉田の追儺式では何も見えず、火炉祭では焼死と圧死の恐怖に見舞われた末に締め出しを食らい
須賀神社では恋に効くという 「懸想文」 を男一人でこっそり買ってみたりしてきたわけですが、
そんな暇と阿呆が丸出しな徘徊の季節が、2013年も無事にやってきたのであります。
で、今回は何をするかといえば、かなりユル目というか、はっきり言って省力化 aka 手抜きです。
だってもう、しんどいもん。おまけに、寒いもん。加えて、虚しいもん。それに何より、阿呆らしいもん。
あと、節分前日と当日の2連日を徘徊に使うのが、一応真人間としては、苦しくなってきたもん。
というわけで今回の節分めぐりは、2月3日のみ、東山近辺をうろつく仕様となっております。
超メジャーな観光地と重なるエリアながら、超ネイティブな雰囲気もまた濃厚に残る、東山近辺。
伝統と日常が交錯する京都ならではの節分を楽しむ、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
このエリアを選び、徒歩だけでユルく、のんびり、気の向くままに、めぐってみました。
京阪沿線の私にとってバス代がかからん所なので、選んだのではありません。
労力と共に金もケチりたくて選んだのでは、ありません。違います。

続きはこちら »

下鴨神社の御粥祭へ小豆粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年1月15日(火)


下鴨神社の御粥祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

小豆には、魔力が秘められてるんだそうです。
といっても、昭和の相場師を狂わせた 「赤いダイヤ」 云々といった話ではありません。
また、夜の川で小豆を洗うという、何が恐いのかよくわからん妖怪・小豆洗いの話でもありません。
餡子にしたり赤飯炊いたりして食べる、いわゆる食物である、あの小豆の話であります。
小豆が持つ赤黒いビジュアルに、昔の人は何かしらスピリチュアルなパワーを感じてたようで、
年頭&夏越の祓には、その力で邪気を祓うべく、小豆を用いた食物を食す風習を生み出しました。
6月の夏越祓には、氷をイメージした外郎の如き生地に小豆をぶっこんだ、水無月を。
そして年頭に当たっては、白い粥の中で餅と共に小豆が点々と泳ぐ、小豆粥を。
特に小豆粥は、ものごとの変わり目に発生する境界領域に於いてパワーを発揮するとかで、
転居や葬式の際に食べる地方さえあるようですが、最もポピュラーなタイミングはやはり、小正月
宮中では平安時代の頃から、正月最初の満月の日 = 小正月に小豆粥が食されてたそうで、
そのスピリチュアルな食風習は、現在に至るも様々な形で日本全国に残ってます。
京都でも 「1月15日 = 小豆粥」 という認識は家庭の献立カレンダーレベルで根付いてますが、
あちこちの神社もまた、宮中行事を神事化した形で小豆粥の奉納 or 接待を斎行。
中でも、宮中との結びつきが強い上賀茂下鴨の両賀茂社では、御粥祭なるものが行われ、
下鴨の方は有料ながら小豆粥の接待もあるというので、私も出向いてみました。
相場師を狂わせ、謎の妖怪も生んだ、小豆。その魔力を食らう様、とくと御覧下さい。
当日は奇しくも初えと祭もやってたので、その様子も併せてどうぞ。

続きはこちら »

恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年1月9日(水)


恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

応仁の乱で丸焼けとなった後、京都は商業の街として再生します。
もちろん、止む事無き方々は戦乱以後も変わらずこの街に住み続けたわけですが、
復興や再興の主力となったのは、弱体化した朝廷ではなく、あくまでも民間の商工業者たちでした。
秀吉による手厚い商業保護を経て、実際の政治権力が完全に東へ移った江戸期以降は、
この商工業者 = 町人主導な傾向がより顕著化し、都に残る寺社や風習などもどんどんと商品化。
雅なる伝統を語る一方で、時流に乗った新商品を次々と生み出す観光都市の側面を強め、
「本物」 を求めて入洛した輩には失望のカウンターパンチを食らわせる楽しい街となったわけですが、
そんな話はともかく、京都は今でも 「家が商売してる」 というところが、普通に多かったりします。
で、商売やってる家が多いため、この雅な街でも商売の神様は極めて篤い信仰を集めてたりします。
「しょーばいはんじょでささもてこい」 のフレーズで知られる恵比寿神も、例外ではありません。
バキバキの商都・大阪の今宮戎、あるいは西宮のイメージが強い恵比寿神 = えべっさんですが、
祇園近くに立つ恵美須神社は、その二社と並んで 「日本三大えびす」 と称されるほど、人気。
また、その近所である超メジャー級の八坂神社の境内にも、末社として祇園蛭子社があり、
こちらも 「祇園のえべっさん」 として、祇園で商売やってる人たちから信仰されてます。
恵美須神社も祇園蛭子社も、えべっさんの誕生日である1月10日前後は 「十日えびす」 として、
数日に渡り盛大な祭りを行いますが、9日の 「宵えびす」 には祇園蛭子社がパレードを開催。
えべっさんを筆頭としたコスプレ七福神が乗るえびす船と、金烏帽子姿の福娘さんたちが、
「しょーばいはんじょでささもてこい」 と歌いながら、四条通を巡行する奇景が拝めるわけです。
そんな奇景をメインに、祇園一帯のえべっさんの賑わい、見てきました。

続きはこちら »

京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【2】

2012年12月24日(月)


町家宿・懐古庵を一軒借りしての聖夜、続きです。

京都の町家の源流は、実に平安時代まで遡れるそうですが、
現代に続く町家の形は、応仁の乱の後、町人が街の主役になってから整い始めます。
正方形の条坊制町割に秀吉が図子を通し細分化して以降、土地の高度利用はさらに活性化し、
町家本来のレゾンデートルである商売スペースの共有や、間口割の賦課金低減などのため、
家々の間口は 「間口三間」 とよく言われるようにどんどん狭化+奥行きは果てしなく深化。
いわゆる 「うなぎの寝床」 の誕生です。 「これ、どこまで続くねん」 なアレの誕生です。
この果てしなき奥行きは、坪庭を挟むような表屋造の立派な町家などにも当然活用されましたが、
土地を前後で二分し、奥には家賃収入を見込んで借家を建てるケースも、増加します。
表通りから路地 = ロージが引かれ、 その路地を 「一軒路地」 として独占的に使う一軒家や、
井戸や流しや便所が共同+路地自体も半ば公共空間と化したような長屋が、多く建てられました。
「オモテ」 に面した町家が、江戸期以降、各々の家が調和した美しい町並を形成したのに対し、
路地裏の長屋 = 路地長屋は、それらとはまた違う、生活感に満ちた独自の景観を形成。
明治に建てられたというこちらの懐古庵も、そんな路地長屋の形を伝える建物だったりします。
ゆえにここには、坪庭や通り庭、虫籠窓といった、町家の代名詞的なアイテムは、さほどありません。
しかし、ハードコアな共同生活の残り香を激烈に感じさせるオープンおくどさんを始めとして、
リノベをミニマル、あるいはミニマル以下に抑えた敷地内には、よりリアルな何かが、猛烈に残存。
昔日の生活感がきれいサッパリ脱臭されたような、オサレで現代的なリノベ町家にはない、
迫力や渋み、そしてストレンジな味わいを、そこかしらから感じられたりします。
そんな懐古庵の一軒を、ひとりで借りて過ごす、聖夜。ここからはいよいよ、夕食です。
台所が付いてるのをいいことに、リアルな生活感が残る町家に相応しい、
リアルおばんざいをリアルな手抜きで作ってみましょう。

続きはこちら »

京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【1】

2012年12月24日(月)


懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリー・クリスマス!!
商魂&性欲&臆病者の承認欲求が破裂する街の乱痴気騒ぎに背を向け、
「汝姦淫するなかれ」 という主の教えに従い、ひとりで過ごす聖夜のお泊り in 2012です。
2010年は1500円の激安宿2011年は寺の宿坊と、清く正しく主の生誕を祝したわけですが、
2012年は、考えてた阿呆なプランの全てが、予約的にも、天気的にも、オール没に。
急に行く所が無くなったので、さあどうしようかなと思ってる時、ふと町家のことが頭に浮かびました。
町家。21世紀以降の京都観光を語る上で、絶対に外すことができない要素である、町家。
元々は本当に単なる古い民家であり、ゆえに昭和以降は法律的にも人心的にもそっぽを向かれ、
駆逐された頃になって希少価値が生まれ、他所の小金持ちが有り難がるようになった、町家。
おかげでここ十数年、京都にはリノベされた町家ショップが見境なく林立するようになり、
単なる民家がゲストハウスや一軒貸しの宿泊施設に化けるケースも、無限気味に増殖しています。
町家、泊まってみるか。猛烈に恥ずかしいけど。でも、検索流入は、増えるかもな。
そう思って町家宿を調べ始めると、値段が異常に安い所と、異常に高い所が、やたら多い。
安い方はもちろん、いわゆるゲストハウス。高い方はもちろん、いわゆる一軒貸し。
民家を旅館のような部屋割で使うのは難しいので、こうなるのも当然といえば当然なんでしょうが、
でもなあ、ゲストハウスは嫌だなあ、旅人とのコミュニケーションとか、凄く嫌だなあ。
というわけで、一棟貸しの中でも値段が安くて、ひとりでも宿泊可能な宿を探してみました。
見つけたのは、東山三条近くの、懐古庵という宿。明治に建てられた路地長屋を転用した宿です。
値段は、ひとりだと一万円代から。確かに他所よりは、安い。でも、私には十二分に、高い。
なので、食事は完備されてる台所を利用し、ケチ臭い料理ばかり自炊してみました。
生活感が残る町家で、ひとり料理し続ける聖夜、見届けて下さい。

続きはこちら »

六波羅蜜寺のかくれ念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月13日(木)


六波羅蜜寺のかくれ念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

かくれ念仏。正しくは、元かくれ念仏。
今は隠れてません。今も隠れてたら、見れませんから。
近年に公開されるまで、実に800年に渡り六波羅蜜寺で秘儀とされてきた、かくれ念仏。
その正式名称は、空也踊躍念仏。空也とはもちろん、口から小阿弥陀を吐いてる、あの空也です。
飢饉&疫病による放置死体がそこら中に転がっていた平安中期の京へ現れ、
仏の教えのみならず、火葬による防疫や架橋などの実用的な知恵も民に説いた、空也上人。
「阿弥陀聖」「市聖」「市上人」などの呼称で幅広い帰依者を得ましたが、
さらに念仏をわかりやすく伝えるため、上人は踊念仏を開発。それが、空也踊躍念仏の始まりと。
上人の建てた西光寺がルーツの六波羅蜜寺は、当然空也をモストリスペクトしており、
阿弥陀吐き空也像はもちろん、上人自刻という本尊十一面相観音像も1000年の永きにわたり保持。
さらには、鎌倉の念仏弾圧時代に入っても「上人の教えを捨てるわけにはいかぬ」と、
あの手この手を尽くして、こっそりと念仏をキープオン&キーピングオン。
まともに「南無阿弥陀仏」とやったら即座にとっ捕まるのため、言葉面を巧みに変容させ、
いつでも中断してトンズラできるよう構成にも工夫を凝らし、独特の踊り念仏を生み出しました。
以後、念仏弾圧の時代が過ぎても空也踊躍念仏は隠れ続け、そのまま現代へ至ります。
昭和53年、重要無形文化財に指定されたのをきっかけとして、
元来の「民と共にある念仏」の姿を取り戻そうと、一般公開が開始されました。
なので、元かくれ念仏。もちろん、こっそり行く必要もありません。
おまけに、念仏の拝観だけなら、無料です。

続きはこちら »

蓮華寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月28日(水)


蓮華寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

穴場。
自分が可愛くてしょうがない人達が、すぐに飛びつくワードです。
美しい紅葉が、観たい。あまり人がいないところで、観たい。何なら、独占して、観たい。
できれば、自分しか知らないものとして、観たい。それも、自分が見つけたものとして、観たい。
そして、自分しか知らない穴場を自分で見つけた自分を、もっともっと、好きになりたい。
でも、そのための努力は、特にしたくない。むしろ絶対に、したくない。したら何か、負けな気がする。
「京都 紅葉 穴場」 くらいの検索で、すぐ見つかるものでなくてはならない。というか、そうしろよ。
こんな無駄な長文書いてる暇があったら、もっと有益な情報を共有しろよ、この糞野郎。
と、こんな感じの狂った人達が、肥大したエゴを垂れ流しながら大挙して狭い寺へ強襲をかけ、
あちこちの京都ブログに 「京都 紅葉 穴場」 の検索ワードが落葉の如く積もる、京の秋。
「穴場として有名」 という、日本語として狂ったワードで有名な洛北・上高野の名刹・蓮華寺にも、
そんな自分が可愛くてしょうがない人達が、自分だけの何かを求め、押し寄せます。
江戸初期、加賀前田藩の老臣・今枝民部近義が祖父への菩提の心から再興したという、蓮華寺。
その造営にあたっては、やはり 「超メジャー級の穴場」 詩仙堂石川丈山を始めとして、
朱子学者・木下順庵画家・狩野探幽隠元禅師など、同時代における錚々たる文化人が助力。
丈山作庭とも伝わる池泉庭園、黄檗禅の様式の本堂、そして蓮華寺形灯籠などなど、
良い時代と良い人に恵まれて作り上げられた境内は、小さいながらも高い完成度を誇ってます。
故に穴場としての魅力を強く放ち、故に 「穴場として有名」 になってしまった、蓮華寺。
こうなるともう、ある種のベタです。穴場だろうが何だろうが、明らかにベタです。
であれば、不毛な穴場探しを排し、ベタの単独特攻が趣旨のうちも行かねばならぬと、
早くも紅葉が散り始めている洛北へ出かけたのでした。

続きはこちら »

金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月25日(日)


金閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「また焼いたるぞ」 。
昭和25年7月3日、21歳の学僧による放火で金閣が全焼した翌日、
住職・村上慈海との会見を許された産経新聞記者・福田定一、のちの司馬遼太郎が、
庫裏の黒板に書かれてるのを見て 「異常な気分になった」 という言葉です。(水上勉 『金閣炎上』
再建前の金閣が、狂気に近い嫉妬を駆らせるほど美しかったのか、私にはよくわかりません。
水上三島の作品で、紙面から精液の匂いがしそうなほど独男的に描かれた学僧の、
恐らく実際その通りであっただろう心の内も、わかるような気はするけど、正直よくわかりません。
でも、その場の勢いで思わず黒板に 「また焼いたるぞ」 と書いてしまうような、
ボンクラ極まる調子乗りたちの持ってた 「異常な気分」 は、少しわかるような気がします。
超メジャーな観光寺院として金が入りまくり、宗教面と齟齬を起こしてたという、当時の金閣寺。
そんな矛盾の中で、札束の海へ泳ぐのでもなく、放火テロで腐敗を弾劾するのでもなく、
時折憂い、時折おちょくり、時折怒ったりしながら、その場にへばりつき続ける、大半の凡夫たち。
その姿は、歴史や文化に深い愛情や尊敬の念を抱くと共に、冷笑&嘲笑もやらかし、
「金にならんかな」 てなことも思いつつ、こんなサイトやってる自分と変わらぬものに思えるのです。
と同時に、凡夫に支えられ、焼かれることもなく、美を提供し続ける再建金閣そのものが、
金欲と信仰の矛盾の真っ只中を生き、伝統を誇りながらも実は大して古いものはない京都の、
美の側面と俗の側面を極限までデフォルメした自画像のようにも思えたりするのです。
ある意味で、金閣は最も京都的な寺なのかも知れません。故に、地元からは忌避されるという。
あなた、そう思いませんか。全然、思いませんか。実は私も、あんまり思いません。
そんな金閣、秋の紅葉大混雑シーズンに、銀閣に続き特攻してみました。
炎のような紅葉に囲まれた美と俗の様、ご覧ください。

続きはこちら »

銀閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月25日(日)


銀閣寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

うちのモットーは、京都メジャースポットの単独正面突破です。
である以上、金閣寺銀閣寺は、絶対に避けるわけにはいかないスポットです。
しかも、金閣寺は、実に独男臭い奴が燃やした寺。銀閣寺は、実に独男臭い奴が建てた寺。
本来なら、真っ先に特攻をかけてなければいけません。しかし、今まで行くのを躊躇していました。
何故か。それは、行くのが面倒臭いからです。どっちも私の家から、何となく遠いからです。
京阪沿線に住む私にとって、金閣寺はあからさまに、遠い。銀閣寺は、出町柳から微妙に、遠い。
微妙に遠いのはキング・清水寺も同じなんですが、あそこは諸般の事情で近くをよく通るし、
ライトアップや行事各種など、「行かねばならぬ」 と腰を上げさせられるイベントが多く催されます。
しかし金閣&銀閣は、そういうのが、あんまりありません。ライトアップとかも、ありません。
何か、行く機会がないのです。行く機会というか、行く気を起こす機会がないのです。
そんな感じで、「そのうち行く」 「何かあったら行く」 「行こうと思えば何時でも行ける」 とか思いつつ、
結局は金閣&銀閣、さらには清水寺さえ行かないまま一生を終える多くの京都人と同じく、
私もまた 「どうせ絶対行くから」 と思いながら、一向に足が向かなかったのでした。
これは、いかん。こんな怠惰な理由で必須スポットを放置するのは、どう考えても、いかん。
というわけで、敢えて最も混みそうな紅葉ピークの連休日曜に、金閣&銀閣を連続特攻しました。
こちらの記事は、その前半戦にあたる銀閣寺篇。寺が出来たのと、順番が逆ですが。
何故逆かといえば、義政の幽玄の美を先に見ることで、義満の絢爛さを浮き立たせてみようと、
深遠なことを考えたためではなく、単に銀閣の方が京阪の駅に近いからであります。
あ、銀閣寺の説明、要りますか。ああ、要りますか。そうですか。
でも面倒なので、しません。自分で調べてください。

続きはこちら »

等持院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


等持院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

かつて時代祭「室町時代」 はありませんでした。
理由は、室町幕府を開いた足利尊氏が、天皇に刃を向けた 「逆賊」 だから。
いや、冗談ではありません。本当です。 「逆賊」 ゆえ、実に2007年に至るまでなかったのです。
金閣寺&銀閣寺という超キング級の観光資源を残し、多くの文化が花開いた、室町時代。
親族間の揉め事から都市を焼き尽くすという鬼畜の所業・応仁の乱もやらかしてはいますが、
何であれ、京都にとって極めて重要な時代であることは、疑う余地がありません。
しかし、時代祭に 「室町時代」 はなかった。祭が開始されてから100年もの間、なかった。
もちろん、開始された明治期における尊皇の風潮は無視できませんが、それを全て差し引いても、
京都における室町時代、いや足利尊氏の影の薄さ・人気の無さは、なかなかなものです。
尊氏、そして歴代足利将軍の墓が祀られる等持院にも、そんな不人気は、色濃く反映されています。
天龍寺創建で組んだ夢窓疎石と共に、尊氏が、兵士を祀るため作り上げた、等持院。
実に立派な寺ですが、かつてここで修行していた水上勉『私版京都図絵』 でボヤいてる通り、
財政の悪化した寺は境内の土地を次々と切り売りして、周囲は民家が林立&完全包囲。
庭園の向こうには立命館の学舎が奇怪な借景を演出し、墓地もまた分断。ある意味、凄いです。
伽藍も映画へ貸し出して、日本映画の父・マキノ省三はここに 「等持院撮影所」 を設立。
おかげで、境内にはまるで開基のような顔でマキノ先生像が屹立しています。
尊氏さんよ、これではあんたがあまりにも可哀想だ。あんたは結構、いい仕事したんだよ。
そんな思いを、尊氏の墓へ伝えるために等持院へ赴いた、というのは全く嘘で、
ただただ紅葉を観るためだけに出かけたのでした。

続きはこちら »

法金剛院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


法金剛院へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

花園の地に建つ、法金剛院
名前だけ見ると、「金剛」 の字面と濁音感、「法」 から分泌されるスクエアさ、
そして 「花園」 の醸し出すラグビー感が、何となく男の子向けなイメージを沸かせる寺です。
「超合金みたいな体の坊主が、精神棒持って仁王立ちしたり、スクラム組んだりしてる」 みたいな。
しかし実際の法金剛院は、蓮を始めとする四季折々の花、苑池を生かした浄土式庭園
そして、開基・待賢門院の失われた愛が売りの、極めて女の子向け寺院であります。
古来よりの名勝・双ヶ丘の東麓にあるこの地は、元々は平安初期の右大臣・清原夏野の山荘。
雅なる詩歌管弦の宴が催され、天皇の行事もあったそうですが、夏野の死後は、荒廃。
その地を新たに法金剛院として復興したのが、白河法皇の寵愛を受けた、待賢門院璋子でした。
7歳にして白河院の養女となり、何というか、恐らくは書けないような方面において深く愛され、
愛されるままその皇子・鳥羽天皇の嫁となり、どちらの子かわからん崇徳天皇を生み、
おかげで白河院の死後は果てしなく凋落、鳥羽院も若い女・美福門院にガンガン走ってしまい、
孤独なメンヘラ&クラッシャー魂を、現世の極楽浄土・法金剛院の建立で癒した、璋子。
現代の独男からすると、理解不能を越えて面白がるしかしょうがない共感不能な生涯ですが、
メンヘラ&クラッシャーは時代を超えて共感不能だったのか、寺は鎌倉期以降、衰退。
融通念仏で有名な円覚上人が再興を果たしますが、それも応仁の乱でパー。
江戸期にはとことん荒れ果て狭くなり、明治後は道路と山陰線に境内の南側をぶん取られ、
昭和も後半になって、ようやく創建時の庭園が発掘・再現され、現在に至ります。
そんな法金剛院、紅葉もまた、見もの。なので、見てきました。
妙に色濃い昭和感と共に、花園の秋、ご覧下さい。

続きはこちら »

今熊野観音寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月21日(水)


今熊野観音寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

今熊野観音寺。イマクマノカンノンジ。
「今熊野」 だったり 「新熊野」 だったりと、漢字表記が揺れがちなイマクマノですが、
正式名称はその 「イマクマノ」 が付かない、単なる 「観音寺」 だったりする、今熊野観音寺。
新熊野神社の本地堂として、御寺・泉涌寺の塔頭として、またそれ以前から始まる長い歴史を持ち、
頭痛封じの御利益で現在もなお極めてネイティブな信仰を集め続けている寺です。
開基は、かの空海。東寺で修行してた弘法大師が、東山に光を見出し、この地で熊野権現と遭遇。
白髪の老翁の姿をした権現から、十一観音と宝印を授けられました。で、観音寺、創建。
平安時代の観音寺は、観音信仰、ぞして熊野信仰の霊場として大いに信仰を集めたそうですが、
末期になって超熊野フリーク&超頭痛持ちの後白河院が、近所に法住寺殿を建設。
院は、頭痛持ちの強迫的な脳内パースペクティブをそのまま具現化したような三十三間堂と共に、
はるばる熊野の地から神のみならず木や土まで勧請した新熊野神社も、創建。
近所である観音寺は、新熊野神社の本地堂とされ、「今熊野観音寺」 と呼ばれるようになりました。
後白河院ゆかりである頭痛封じの御利益も人気を呼び、寺運が上がった観音寺でしたが、
応仁の乱で全てがパーとなり、江戸期に泉涌寺の塔頭として再興、そのまま現在に至ってます。
しかし、他の 「御寺の塔頭」 と比べると、今熊野観音寺のビジュアルは極めて独特であり、
周囲を取り囲む大自然もまた、泉涌寺より何かしら濃厚な霊気を放ってて、独特。
で、この大自然が、秋には実に渋くて良い紅葉を見せてくれるわけです。
おまけに、拝観無料。「紅葉まつり」 として、茶屋も出るため、静かに人気上昇中。
そんな今熊野観音寺の、なうな紅葉、見てきました。

続きはこちら »

真如堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


真如堂へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

真如堂。本名、真正極楽寺
境内に入るだけなら、拝観料が要らないことで有名な寺です。
そして、無料の割に、境内の紅葉がとんでもないクオリティであることでも有名な寺です。
さらに、無料で紅葉が見れる割に、とんでもない大混雑にならないのが不思議だったりする寺です。
平安中期、一条天皇の母御&円融天皇の女御である藤原詮子 aka 東三条院の夢の中と、
比叡山・戒算上人の夢の中へ、阿弥陀如来が同時に現れ 「女人を救う。山から下ろせ」 と、お告げ。
そのお告げに従う形で、かの慈覚大師円仁が光る霊木から掘り出したという阿弥陀如来像を、
真正極楽の霊地・神楽岡にあった女院の離宮へ遷座して、真如堂は生まれました。
お告げで宣言されてた通り、地獄の如き京の日々を必死で生きる女性達から篤い信仰を集め、
中には地獄を生んだ日野富子や、地獄を生んだ男を生んだ桂昌院なども、信仰。
現在も、大涅槃図公開や宝物虫払会、またお十夜などには、多くの女性が集まります。
と、何となく独男には関係なさげというか、女子向きとも思える由緒を持ってる真如堂ですが、
では女性に優しいテイストの小じんまりした寺かといえば、全然そんなことありません。
むしろ、巨大。 「真如堂」 の通名の由来となった本堂などは、京都市内の天台宗では、最大級。
可愛いか可愛くないかで言えば、正直すまんですが、可愛くないのであります。
三井家の菩提寺なのも、特にこれといった理由はないんですが、可愛くないのであります。
そのおかげで、これだけの紅葉をタダで見れるんですが、可愛くないのであります。
逆に言えば、その可愛げのなさみたいなものが、ある種のストッパーになって、
無料にも拘らず殺人的な混雑にならない気がするんですが、あなた、どう思いますか。
とにかくそんな真如堂の紅葉、閉門間際に覗いてみました。

続きはこちら »

圓光寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


圓光寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

圓光寺
円光寺のようでいて、園光寺のようでもいて、実は圓光寺という、圓光寺です。
活字を探すのが何となく面倒くさそうな、そして変換するのは実際に面倒くさい、「圓」 という文字。
そんなややこしい字を堂々と名に掲げる圓光寺の、強気とも言えるスタンスを支えているのは、
この寺が日本最古と言われる楷書の木製活字を所蔵してるという事実に他なりません。
徳川家康によって伏見へ招かれ、この圓光寺を学問所として建立した、開山・三要元佶禅師。
金地院崇伝と共に家康のブレーンとして寺社奉行の任に当たっていた三要ですが、
朱印船関連の仕事もこなし、朝鮮役の際に輸入された十万に及ぶ木版活字の管理も任されました。
この活字こそが、 『貞観政要』 『武経七書』 『孔子家語』 などの書が上梓される際に用いられ、
印刷された書物が 「伏見版」 or 「圓光寺版」 と称される、日本最古の木製活字。
家康の駿府隠居後、寺は伏見から相国寺、そして現在地の洛北一乗寺へと移転を繰り返しますが、
無論、木活字は時代の変遷を超えて大切に保管され続け、現在に至っています。
活字を大事にしてる寺なのです。なので、面倒でも 「円」 とか 「園」 を使ってはいけないのです。
まして 「援交寺」 などという脳が腐ったような不埒な当て字は、決して許されないのです。
そんな圓光寺、明治維新の波乱で一旦は荒廃しますが、のちに尼衆専門道場として、再興。
「援交」 どころか男子禁制の時代が続いたそうですが、近年は観光客の拝観も活性化。
近所の詩仙堂曼殊院などと共に渋寺ゾーンを形成し、人気を呼んでます。
紅葉シーズンは特に人気で、池泉庭園 「十牛の庭」 や水琴窟へ落ちる落葉を目当てに、
老若男女がえんやこらと一乗寺の坂を登る姿が散見できたりするわけです。
そんな圓光寺の紅葉、潜りこんで拝んできました。

続きはこちら »

金福寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年11月19日(月)


金福寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

洛北・一乗寺に立つ禅坊、金福寺
「金が貯まって福来たる」 という、現世利益大爆発の寺というわけでは、ありません。
むしろ、その逆です。侘びと寂びの風味を全面に押し出した渋き草庵・芭蕉庵で知られる寺です。
もともとは貞観年間、やたらあちこちに寺を作った慈覚大師円仁の遺志を安恵僧都が継ぎ、
大師自作の聖観音菩薩像を本尊とする天台宗の寺として創建されるも、のちに荒廃。
江戸中期に至って、近所の圓光寺・鉄舟和尚が臨済宗南禅寺派の寺として再興しますが、
この鉄舟がかの俳聖・松尾芭蕉と友達であったため、金福寺は一気に寂への道を歩み始めます。
京都を訪れた芭蕉は、たびたびこの禅坊を訪れ、風雅の道について鉄舟と語り合ったとか。
そして、裏山に建つボロ小屋を見て、こんな句を詠みました。 「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」。
その句に感動した鉄舟は芭蕉の高風を偲ぶべく、このボロ小屋を 「芭蕉庵」 と命名。
「芭蕉庵」 の名は、近所の村人にまで浸透するようになりましたが、鉄舟が死ぬと寺はまた、荒廃。
熱烈な芭蕉ファンであった与謝蕪村は、荒廃しきった芭蕉庵を憂い、一門と共にまた、再興。
再興の経緯を 『洛東芭蕉庵再興記』 へしたためたると共に、庵の落成時には、
「耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵」 と、耳や目や肺や腸から零れ落ちる喜びを表す句も残しました。
と、俳句に興味ない人間にとっては 「だから何だ」 なエピソードがテンコ盛りの金福寺ですが、
そんな教養のない私にも、そして貴方にも、この寺の紅葉の美しさは理解できるはず。
寂全開でモノクロームな存在感を放つ芭蕉庵に、色を添える紅葉。いいです。凄く、いいです。
なので人もいっぱい来ます。「穴場」 を欲しがるような人が、いっぱい来ます。
そんな人達で大混雑の金福寺、行ってみました。

続きはこちら »

亀岡祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月25日(木)


亀岡祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行は、祇園祭だけの専売特許というわけではありません。
「山車」 でも、「屋台」 でも、あるいは 「だんじり」 でも、名前は何でもいいですが、
「曳山を曳いて盛り上がる」 祭礼というのは、日本全国に数え切れないくらい存在するわけです。
もちろん当の京都でも、近郊には多くの祭があり、その内のいくつかは曳山祭だったりします。
そして、近郊であるがゆえに、祇園祭から強い影響を受けた曳山祭も、存在したりします。
中でも、極めて似てて、極めて規模が大きく、そして極めて魅力的なビジュアルを持つ祭といえば、
京都府亀岡市の城下町を舞台に繰り広げられる、鍬山神社例祭・亀岡祭でしょう。
京都から出雲へ続く山陰道の要衝として、古くより軍事的に重要視されてきた亀岡 = 亀山は、
信長にブチ切れる前の明智光秀亀山城を建てたことで、城下町として一気に発展。
この地を開拓したという伝説を持つ地元の氏神・鍬山神社も、手厚い保護を受けるようになり、
長く途絶していた例祭もまた江戸前期に復興、城主の援助もあり、規模が拡大します。
江戸中期になると町衆達も多彩な練り物を出すようになり、その流れで、山鉾もまた、出現。
近郊というか、実際の交流も盛んであるがゆえに、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾が、
西陣織や海外から取り入れた豪華な織物で懸装し、城下を練り歩くようにまでなりました。
「口丹波の祇園祭」 としてその名を轟かせた亀岡祭でしたが、城が消滅した明治以降は、衰退。
昭和期は大半の山鉾が巡行を休んでたそうですが、平成に入ると、祭復興の気運が上昇。
山鉾が次々復活し、最近は全ての鉾が勢ぞろいしての城下町巡行も開始されてます。
現在もかなり天然で残る亀岡の城下町ビジュアルの中、本家によく似た山鉾が進む様は、
ある意味、本家以上のマジなタイムスリップ感が堪能できること、請け合い。
で、知名度はもうひとつゆえに、そんな醍醐味が至近距離で楽しめるわけです。
そんな亀岡祭、早朝から夕方まで、潜りこんでみました。

続きはこちら »

鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2012年10月22日(月)


鞍馬の火祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鞍馬の火祭。京都で最もメジャーな火祭です。
今宮神社のやすらい祭広隆寺の牛祭と共に、京都三大奇祭のひとつでもあり、
京都のみならず、全国的にもかなりな知名度と集客力を誇っている火祭と言えるでしょう。
正しくは鞍馬寺ではなく、同寺境内にある由岐神社の秋季大祭である、鞍馬の火祭。
御所内に祀られていたという靫明神が、940年、朱雀天皇の勅命で鞍馬の地へ遷されることになり、
その際、鞍馬の村人たちが篝火を焚いて神を出迎えたことから、始まったとされてます。
祭の舞台は、鞍馬寺の門前集落として、また若狭街道筋の交通集落として栄えた、鞍馬町、全体。
今なお木造家屋が多く軒を連ねる町中を、数mもある松明が火の粉を散らしながら練り歩き、
最後は町内全焼+山火事大爆発の恐怖もいとわず、その松明百数十本を集め、燃やしまくり。
実に、恐るべき祭りです。が、鞍馬の火祭の真の恐怖は、火にはありません。
この祭りの開催日は、10月22日。雅なるコスプレパレード・時代祭の開催日と、同じであります。
時間的にちょうど良い感じのハシゴができるため、流れて来る観光客は極めて、多し。
しかし、鞍馬に一度でも行ったことがある人は御存知でしょうが、あそこはとても、狭い町です。
道もほぼ一本で、これまた、狭い。そこへ1万人以上の人間と、百本以上の松明が、集まるのです。
圧死の恐怖。踏死の恐怖。トイレがなくて、失禁の恐怖。食事ができず、行き倒れの恐怖。
足を滑らせ鞍馬川へ落ちて溺死 or 凍死の恐怖。などなど、恐い、考えただけで、怖い。
鞍馬の狭さを知る人なら、誰もがこの恐怖を想像し、近づきたいとは思わないんじゃないでしょうか。
私も正直、できたら、いやなるべく、いや本当はかなり絶対に、行きたくなかったりします。
が、このサイトの趣旨は、ベタスポットの単独正面突破。逃げるわけにはいきません。
というわけで、炎の狂乱と混雑の狂気の中へ、正面から飛び込んでみました。
人圧と炎熱がスパークする奇祭の様、とくと御堪能下さい。

続きはこちら »