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昼も、ひとり

即成院の二十五菩薩お練り供養大法会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月21日(日)


即成院の二十五菩薩お練り供養へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

仏像を見て 「ウルトラマンに似てる」 と思う人は、多いでしょう。
光の国 or M78星雲、何でもいいですが、とにかく極楽浄土みたいな所から現れ、
怪獣や宇宙人が引き起こした苦境にのたうちまわる我々人類を救ってくれる、ウルトラマン。
人を浄土へは連れて行きませんが、暴れる怪獣は速やかにあの世へ送ってくれる、ウルトラマン。
そして、これはシリーズ初期だけかも知れませんが、南方仏教感が妙に漂う、ウルトラマン。
何か、仏と似てるな、と。もちろんそれは、ある種の本末転倒ではありますが。
本当かどうかは知りませんが、ウルトラマンの造形は、弥勒菩薩を参考にしたんだそうです。
しかし、デザイン上の類似や、顔面のツルンとした質感といったものものの類似以上に、
より本質的に両者は似てるというか、私達の心の中の何かが両者は同じと言ってる気がします。
この感情は一体、何なんでしょうか。単に元ネタと二次創作を識別しない阿呆脳の産物でしょうか。
それとも、私達の深層心理に引き継がれているかも知れない仏教の外来性に関する記憶と、
宇宙人の救済者・ウルトラマンの異人感が、シンクロしてたりするのでしょうか。
そんなわけのわからんことを、即成院二十五菩薩お練り供養を見てる間に、考えてました。
本堂を浄土、地蔵堂を現世と見立て、その間を人間が扮した二十五菩薩が練り歩くことで、
極楽往生の様を具現化した、泉涌寺塔頭・即成院の二十五菩薩お練り供養大法会。
そこに現れた菩薩たちは、ギンギラギンかつド派手なコス&生々しいまでの異国テイストが、
ウルトラマンというより 『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』 の凶暴な怪神・ハヌマーンに似てましたが、
しかし、仮面に神々しさと妖しさが宿るその姿は、やはり実にウルトラ的だったのです。
そんなお練り、肝心の二十五菩薩像を拝まぬままの見物してきました。
異人の救済を感じるか、仏像コスプレに見えるかは、あなた次第。

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粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年10月8日(月)


粟田神社の粟田祭・神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

粟田祭は、面白い。
「面白い」 は 「funny」 と 「interesting」 、両方の意味で使われますが、
粟田祭は、その両方が習合したような、興味深さと爆笑誘引力を兼ね備えてる気がします。
何せトップ画像のような巨大物体・粟田大燈呂が闊歩するわけです。それはもう、笑えるわけです。
と同時に、こんな物体にも神仏習合が色濃く残るあたりが、興味深かったりもするわけです。
そもそもは祇園感神院 aka 八坂神社の新宮として、粟田口に創建された社、粟田神社。
言うまでもなく由緒正しき神社であり、その大祭・粟田祭もまた長い歴史を持つ、由緒正しき祭。
それもただ単に千年以上やってるというだけでなく、名物の剣鉾は祇園祭の山鉾の原型とも言われ、
戦乱などで祇園祭が催行不能に陥った際は代理も務めたほど、大御所な祭なのであります。
しかしそれでも、粟田祭は、面白い。現在進行形でかつ、怪しいまでに、面白い。
その怪しさを集中的に担うのはもちろん、京都造形芸大により近年復活した粟田大燈呂ですが、
こちらも本来は青森ねぶたのルーツである可能性も考えられるほど、歴史を持つ風流灯籠。
何も怪しくなく、何もおかしくないのです。しかし路上へ出た途端、爆笑が止まらない。
さらには、京都のネイティブな町並とのギャップ感 or サイズバランスが、どうにも面白過ぎる。
京都には他にも、怪しい案件が登場する祭や、奇景を呈する祭が存在しますが、
全体のスケールとバランス、そして何より 「これからどうなる」 「どこまで行く」 という点に於いて、
爆笑と教養、神と仏、そして歴史の継続と未来への挑戦が習合する粟田祭は、
現在の京都で最も目の離せない祭と言えるのではないでしょうか。いや、知らんけど。
そんな粟田祭、前年2011年は爆発的に怪しい夜渡り神事を中心に見物させてもらいましたが、
2012年度は、神幸祭で白昼の大燈呂+剣鉾+神輿をメインに追っかけてみました。
面白さがどこまで伝わるのか、あるいはこのトップ画像だけでもう充分なのか。
いろいろ不安ですが、とにかくお楽しみください。

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北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2012年10月4日(木)


北野天満宮・ずいき祭の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき御輿。
完成した際に氏子が随喜の涙を流したからその名が付いた、というのは、嘘です。
ずいき = 里芋の茎で葺かれた屋根を始め、ボディ全域を野菜でデコられた、アーシーな御輿。
それがずいき御輿であり、その巡幸を行うのが北野天満宮秋の大祭・ずいき祭であります。
普通、北野天満宮といえば、平安朝の文人・菅原道真。そして、菅原道真といえば、怨霊。
陰謀により大宰府へ左遷され、結局その地で死に果てた道真は、怨霊化して都へストライクバック。
御所に雷を落として憎い相手を焼き殺すなど、無茶苦茶をやらかし都人を恐怖のどん底へ。
何とか道真の魂を鎮めるべく、朝廷は北野に社を建立。北野天満宮の、有名な創建の由緒です。
どちらかといえば 「魔界」 などのワードが似合う、首都ならではの物騒な由緒を持つ社であり、
芋の茎で屋根が出来た御輿の牧歌性は、あまり関係なさそうに見えたりもします。
しかし、この辺は元々、農村だったとか。天満宮創建前から、天神地祇を祀る聖地だったとか。
都市化された現在の姿からは想像もできませんが、農村のテイストは昭和初期まで残ってたそうで、
野菜に穀物、蔬菜や湯葉に麩などの乾物類で覆われたずいき御輿は、ある意味、
太古の昔から続くこの地の農耕文化の伝統を、最も深く引き継ぐものなのかも知れません。
時代の変遷の中で、時には途絶したり、時には逆に増殖したりもした、ずいき御輿。
現代に至ると農村の方がほとんど消滅しましたが、それでも祭と御輿はしっかり、存続。
祭のクライマックスである還幸祭では、道真+嫁+息子が乗る鳳輦や、牛車などの行列と共に、
ネイティブテイストが溢れる激渋な街中を、野菜全開の姿で巡幸してくれます。
ちょっと不思議で味のあるそんな風景、たっぷりと見てきました。

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安井金毘羅宮の櫛まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月24日(月)


安井金毘羅宮の櫛まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

髪と、愛欲。共に独男には縁のないものです。
中には、サラサラのロン毛を誇る同志の方もいらっしゃるのかも知れませんが、
その髪を撫でられることがない点では、ロン毛でも坊主でも、事情はさほど変わらないでしょう。
魂は、常に禁欲。禁じられてるわけでもなく、自ら禁じてるわけでもないけど、何か、禁欲。
軍国少年の硬直性だけを理由も無く継承したような我々にとって、髪も、愛欲も、共に邪魔です。
人によっては、抜け毛のために排水口が世界最恐の恐怖スポットに化けてしまったり、
慣れない愛欲のために貯蓄のみならず命まで盗られたりと、基本、ロクなことがありません。
近づかないのに越したことはないのであります。君子危うきに近寄らずなのであります。
が、このサイトの趣旨は何度も何度も書いてるように、ベタスポット&イベントの単独正面突破。
「花街ならではの技術で各時代の髪型を再現し、その髪型で祇園の街を練り歩く、女だけの時代祭」
みたいなことを言われたら、危うきであろうが何だろうが、逃げるわけにはいきません。
甲部&宮川町など花街に近い立地ゆえ、ややこしい愛欲に苦しむ舞妓はん&芸妓はんから、
また最近では歪んだ愛欲に悩む一般婦女子からも信仰を集める、縁切りスポット・安井金毘羅宮
「切る」 のは愛欲に限らず、酒 or タバコ or ヤクなんかもズバっといってくれるそうで、
その繋がりか、あるいはやはり土地柄なのか、切るのが仕事の美容師からも信仰されてます。
昭和中頃には、商売道具である櫛を祀る櫛塚ならぬ 「久志塚」 を、境内に建立。
櫛供養と時代風俗行列も開始されました。それが、9月第4月曜に開催される、櫛まつり。
古墳時代から現代に至る各時代の女性の髪型を、考証に基づき再現したモデルさん達が、
祇園の街を練り歩く様は、京都の初秋を彩る風物詩としてすっかり定着してます。
そんな櫛まつり、髪の恐怖も愛欲の恐怖も何のそのと、行ってきました。
で、そこで目にしたのは、それらとは全く別の恐怖でした。

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晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年9月22日(土)


晴明神社の晴明祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

晴明神社は元々、名づけの神様として親しまれてたそうです。
何ゆえに名づけの神になったかといえば、「晴明」 = 「せーめー」 = 「姓名」 だと。
スピリチュアルな世界とグダグダな日常が恐ろしいまでに混在する京都らしいエピソードですが、
しかし、私が晴明神社のことを知った頃には、ここは既にいわゆる 「聖地」 と化してました。
「母親は狐だった」 「何ちゃらを駆使して怨霊と戦った」 「箱の中身を思い通りに変化させた」
「死者を復活させることができた」 「自分も一旦死んで、骨にまでなったが、何ちゃらで復活した」
「小さい鬼を操った」 「でも嫁にそいつらキモいから家入れんなと言われ、橋の下の石櫃に隠した」
「隠したままほったらかしにされた石櫃が千年後になって出てきて、大騒ぎなった」 などなど、
無理目なエピソードが千年の時を越えて無限に捏造、もとい二次創作されまくる、陰陽師・安倍晴明
その邸宅跡に建てられた晴明神社は、晴明に最もゆかりが深い特級のパワースポットとして、
陰陽師ブームの発生以降、ややこしい思考や嗜好を持つ人達の間で、一気に聖地化。
拡張された敷地には式神オブジェが立ち、近所には五芒星グッズを売る店が現れて神社と揉め、
今や隣の西陣織会館を凌ぐ勢いを誇る、一大観光スポットと化したのであります。
しかしそれ以前は先述のように、地元の人の為の駄洒落爆発な名づけの神様だったのであり、
明治期に荒れた神社を救ったのも、「晴明」 を 「清く明るいことやろ」 とか言いそうな氏子さんたち。
また現在も西陣の人達にとって 「せーめーさん」 はごくごく普通の氏神さんのようで、
その辺のネイティブ感がよく現れてるのが、その名もずばりの例祭 「晴明祭」 ではないでしょうか。
陰陽大爆発な世界を連想したくなる名前ですが、実際に行われるのは、ごく普通の神幸。
でも、神輿や法被にはもちろん、五芒星。で、ネイティブな西陣の街中を進む、と。
混在してます。ある意味、極めて京都らしい神幸と言えるかも知れません。
そんな晴明祭、暇にまかせて追いかけてみました。

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八坂神社・疫神社の夏越祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月31日(火)


八坂神社・疫神社の夏越祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇園祭、いや元々の呼称だと祇園御霊会は、
街に蔓延する疫病の退散を目的として、平安前期に開始されました。
科学の無い時代の人口密集都市・京都にとって、疫病が流行り易い梅雨明けは、恐怖の季節。
死体が次々と生まれ、その死体がさらに死体を生むという魔のスパイラルを断ち切るため、
ほとんど疫神と紙一重の荒っぽい祇園神・素戔鳴尊 = 牛頭天王のパワーを借りて、
のちには山鉾なる超巨大悪神吸引機も造り、疫神を吸引したり追い出したりしてたわけです。
で、パワフルであると同時にリスキーでもある牛頭天王の扱いの際に援用されたのが、
牛頭天王に一夜の宿を供したことで惨禍から免れたという、蘇民将来の説話。
「俺、明日、南の海へ女を引っ掛けにいくねん。でも今日、もう遅いやろ。せやから、泊めて」 と、
アポなし宿泊を強引に頼んできた神を、貧しくも粟粥などで丁重にもてなした、蘇民将来。
金持ちのくせに神の宿泊を断った弟・巨旦将来に半ギレだった牛頭天王は、このもてなしに感動、
「お前とお前の身内だけ、助けたる」 と、目印になる茅の輪を蘇民将来に授け、
巨旦将来を始めとする他の村人、つまり茅の輪を持たない者を、ことごとくブチ殺しました。
茅の輪を持っていれば、助かる。蘇民将来の身内と名乗れば、助かる。
そんな信仰から、現在でも祇園祭では奉仕者が 「蘇民将来之子孫也」 の護符を身につけ、
茅の輪の変形にあたる食えないちまきが、お守りのように重宝されています。
7月31日、一ヶ月にも渡って様々な行事が行われてきた祇園祭のフィナーレを飾るのは、
この蘇民将来を祭神とする八坂神社摂社・疫神社の、夏越祭。
フィナーレと言っても、派手なイベントはありません。設置された茅の輪を、ただ、くぐるだけ。
しかし、レアな端緒が剥き出しになってると言える神事をもって祭を終了するその様に、
祇園祭が単なる観光イベントではないことを、改めて実感できるはずです。
そんな夏越祭、ふらっと寄ってきました。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2012年7月17日(火)


2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。

そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。

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2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2012年7月17日(火)


2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行、2012年度の追尾録でございます。
千年前から超過密都市であるため、疫病が死に直結する時代が長く続いた、京都。
梅雨明け+盛夏初頭あたりは特に怖い季節であり、氾濫する疫病の元・疫神を何とか祓うべく、
華麗な山車で街中を巡行し、厄神を吸引してまわることこそが、そもそもの山鉾巡行の本義でした。
その巡行が、疫神を祓うどころか疫人たる観光客を大量に呼び込むショーと化した時期こそ、
疫病の恐怖が消え、産業と観光重視の思想が前面化した、昭和の高度経済成長期。
17日 「さきのまつり」 +24日 「あとのまつり」 の二週またぎ開催だった巡行が17日に一本化、
ルートも大幅に変更され、現在生きてる大半の人にとっての 「山鉾巡行」 の形が出来たわけです。
しかし、昭和終了からもそれなりの時間が経ち、経済成長の夢もまた跡形もなく消え去った今、
山鉾町や行政など祭に関わる人たちの関心は、旧儀の復活の方により向いてます。
「さきのまつり」+「あとのまつり」 の二週またぎ開催早期復活が、現実的に協議されるようになり、
2012年の今回は、実に140年も休み山だった大船鉾が、巡行に復帰することになりました。
全てが 「例年通り」 のようでいて、実は激しく形を変え続けている、山鉾巡行。
ひょっとすると現行の昭和フォーマットでの巡行は、逆にあと数年で見納めとなるかも知れません。
正午を過ぎてからの疲労よ、さらば。無残なまでにカラッポになる有料席よ、さらば。
そんな哀惜の念を抱きながら眺めたというのは大嘘ですが、とにかく2012年も追尾です。
朝7時の飾りつけから14時過ぎの解体まで、延々と追っかけてみました。
あまりに暑過ぎて記憶が曖昧なため、ほとんど写真の羅列のみで恐縮ですが、
現場の興奮と猛暑と疲労を感じていただければ、幸いです。

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祇園祭の昼の宵々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月15日(日)


祇園祭の昼の宵々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宵々山。すなわち、山鉾巡行の前々夜という意味です。
「15日の宵山」 が本来の呼び方だそうですが、すっかりこの呼称が定着してます。
最近は宵々々山という言葉も浸透し、私もふざけて 「宵々々々山」 などと書いたりしました。
しかし、そのうち 「宵々々々々々々々々々々々々山」 などという阿呆な言葉が本当に現れようとも、
「宵」 という文字が夜を表すことについては、どうにもこうにも曲解のしようがありません。
そう、そもそも山鉾町の散策は、夜に行うもの。何故なら、昼は暑いから。死ぬほど、暑いから。
しかし、宵々々山あたりからの山鉾町は、昼でも多くの観光客で賑わうようになります。
まだ山のいくつかが建ってもいない宵々々々山の頃だと、まだ地元の人が多い感じですが、
交通規制や露店が始まる宵々山あたりからは、混雑は夜顔負けのレベルに達してしまいます。
頭の上からは、直射日光。足元からは、輻射熱。そして周囲は、木材と人肉だらけ。
それでも、来る人がいるのです。それも沢山、いるのです。死を覚悟しているとしか思えないのです。
幻想と疲労の間から生まれた、観光ハイとは違うヘビーで殺伐とした空気を放ちながら、
超狭い山鉾町の中を徘徊し続ける人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人。
人間の業が露になるという点では、それはそれで興味深いものがあるかも知れませんが、
地元あるいは近隣の住民ならあまり近づきたくない、そんな恐るべき昼の宵々山。
しかし、超メジャースポットの単独特攻が趣旨のうちとしては、逃げるわけにはいきません。
単独特攻のみならず、山鉾全てを網羅するというどうでもいいミッションも己へ課し、
炎天下と超人圧の中、熱中症の恐怖を背中に感じながら徘徊してみました。
疲労が過ぎて、細かいことを記憶する脳の余裕がなかったため、長ったらしい文章は、カット。
写真の単なる羅列から、現場の異様な空気を感じて下さい。

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祇園祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年7月12日(木)


祇園祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「あなたも山鉾巡行の曳き手になってみませんか」 。
春を過ぎると、こんな曳き手ボランティア募集広告を、街角でよく見かけます。
私の住んでる八幡にはありませんが、京都市内なら誰もががちょくちょく目にするでしょう。
何故か古い感じのアパートが多い所で出くわすことが多い気がするんですが、それはともかく、
山鉾を曳く機会というのは、男限定ではあるものの、案外簡単に得ることができるわけです。
あれを見るたび、足を止めてしばし眺め、 「やってみようかな」 とか思ったりします。
「中に入らないと、わからないことも多いだろう。やってみようかな」 とか思ったりします。
でも、当日に休みが取れるかどうか、わからん。それに、どう考えても体力的に、ハード過ぎる。
見てるだけの見物客からでさえ、熱中症で病院送りになる奴が毎年現れる、山鉾巡行。
日差しからの逃げ場がない道の真ん中で、あんなデカいもん引っ張るなんて、ちょっと、ありえん。
こんな感じで、毎年、尻込みしています。似たようなヘタレ野郎の方、多いんじゃないでしょうか。
しかし、死ぬ思いで曳き手ボランティアをせずとも、山鉾を曳くチャンスは、ないことはありません。
山鉾が組み上げられ、正常に運行が可能かどうかを試す行事 「曳初め」 が、それです。
文字通りの試験走行である曳初めは、その場にいる見物客を曳き手に大量登用。
予約も申込も必要なく、その場に居合わせ列に並べば、老若男女誰でも鉾が曳ける、と。
観光客が少なく交通整理も甘い街中を、大勢の地元民に曳かれて進む山鉾の姿は、
写真などで見る昔の巡行のイメージと妙に重なり、いい味があったりもします。
そんな曳初め、ヘタレの私もこっそり混じってきました。

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夏越祓の茅の輪をまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

2012年6月30日(土)


夏越祓の茅の輪をまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。

私は、穢れている。どうしようもなく、穢れている。
いい歳こいた、独男。そのことだけで既に、臭気が漏れるほど、穢れている。
おまけに、肉体はあらぬことで日々悦びの声を上げ、魂は無力感に溺れて無為に腐り続け、
さらにはその腐り切った魂を、ネットを通じて無関係である他者へ伝染させてやろうなどと目論み、
自意識の臭気を汁にして飲ませるような、無駄に暑苦しいサイトを、日々作り続けている。
私は、穢れている。どうしようもなく、穢れている。果てしなく、穢れている。
祓わなくては、いけない。それも、なるべくたくさんのお社で、祓わなくては、いけない。
というわけで、2012年度上半期もやってしまいました。夏越祓の茅の輪、くぐりまくりであります。
正月から六月末までの半年間に溜まった穢れを、茅の輪をくぐることで祓う、夏越祓。
前回2011年度は、それなりに茅の輪が知られる神社をバスで回り、数をこなしたわけですが、
今回は穢れの影響か懐具合が非常によろしくなく、500円の市バス一日券を買う金さえ惜しいので、
スタートの東福寺から、ラストの檪谷七野神社まで、全行程、徒歩を貫いてみました。
徒歩貫徹といっても、特にハードな意思に基づくわけではなく、基本、ウロウロと街中をうろつくのみ。
適当に目がついた神社へ立ち寄り、茅の輪があればくぐるという、街ブラモード全開路線。
そんなユルユルな姿勢で、穢れ切った肉体と魂が祓われるかどうかは知りませんが、
祓われ過ぎると自分そのものが消滅するので、適度に加減した次第です。
立ち寄った神社全てと、茅の輪の有無を記したので、参考にする方は、参考にしてください。
それでは半期に一度のスピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえ、
生憎の雨&曇天ですが、行ってみましょう。

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嵯峨祭・還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月27日(日)


嵯峨祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

嵯峨祭。言うまでもなく、嵯峨の祭です。
極めてまんまな名の通り、その時々の嵯峨の状況をヴィヴィッドに反映し、
度々姿を変えながらも、現代まで脈々と受け継がれている、洛西の春祭であります。
嵯峨天皇による離宮造営以来、風光明媚の遊興地として多くの貴人たちに愛された、嵯峨野
しかし、離宮の後身である大覚寺が京における南朝の拠点となった南北朝時代以降は、
皇族や武士や坊主たちが、この美しき地で金と武力と宗派を巡るパワーゲームを、大々的に展開。
大覚寺。その大覚寺をどうにかしたい、室町幕府。その幕府によってブッ建てられた、天龍寺
その天龍寺の金満ぶりに焦った大覚寺が、財政基盤確立のため掌中に収めようとした、清涼寺
その清涼寺と浅からぬ縁を持つゆえ、大覚寺がついでにゲットしようと目論んだ、愛宕神社
そして、斎宮の潔斎所としての存在感をなくし、身の振りように困ってた野宮神社
これらプレイヤーたちの思惑が絡みに絡み、その結果をヴィヴィッドに反映した嵯峨祭は、
小さな村祭から、愛宕神社&野宮神社のダブル神輿が巡幸する大掛かりなものへと、変貌しました。
さらに、プレイヤー間のパワーバランスが変わるごとに、祭の内容・性質・主催者まで、変化。
かなり、ややこしい祭なのです。そして、そこが極めて面白いとも言える祭なのです。
状況のヴィヴィッドな反映は現代も続いており、住宅地化による人口増+若者の伝統回帰で、
嵯峨祭を考察した数少ない書である古川修氏の 『嵯峨祭の歩み』 によると、
現在嵯峨祭は参加人数が増えまくり、その勢いは 「最盛期に近づいている」 んだとか。
鉾差しなど生きた文化財を体現する祭衆、増幅し続け未定型の混雑に対応し切れてない警備、
そしてそんな盛り上がりに舌打ちする無関心な住民が入り乱れる、嵯峨の祭・嵯峨祭。
常に動態、そして現在進行形であり続ける伝統の姿、ご堪能ください。

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車折神社の三船祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月20日(日)


車折神社の三船祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

嵐山には、昭和の匂いが残っている。
時にそんなことを、私は感じます。率直に言えば、何かちょっと古いなと。
メジャーな観光地として、ソフト面もハード面もそれなりに更新は行われてるわけですが、
小手先のバージョンアップでは左右されない、土地固有のレベルで昭和感が残存してるというか。
貴族の遊興地としての歴史を持つと共に、丹波との水運の要所でもあり続けた嵐山が、
完全に庶民相手の観光オンリーで食っていくと腹を決めたのは、案外最近なのかも知れません。
それこそ、昭和の頃とか。なので、昭和テイストが何となく残ってるのかな、みたいな。
毎年秋に行われる 「嵐山もみじ祭」 の、40年ほどタイムスリップしたような昭和全開ぶりや、
バブルの頃に林立したタレントショップの唯一の生き残りが美空ひばり記念館だったことを思うと、
どうでもいい印象や思いつきに妙な確信を感じたりするんですが、あなたどう思いますか。
「もみじ祭」 とは逆に、春、五月第三日曜に開催される車折神社の例祭延長神事・三船祭もまた、
そんな 「昭和の観光」 の残り香のようなものを、ちょっとだけ感じさせてくれる神事です。
近年パワスポとして益々名が高い車折神社の御神霊を、新緑眩しい嵐山へ運び、
王朝絵巻さながら水上にて多種多様の芸能を奉納するという、嵯峨ならではの雅な祭。
しかし、始まったのが昭和初期のためか、どちらかといえば近過去寄りの観光モード感が漂い、
どちらかといえば中高年以上の世代が喜ぶコンテンツに満ちたイベントだったりします。
優雅と言えば、極めて優雅。かったるいと言えば、残念ながら、かなりかったるい。
そんな三船祭、混雑で日和気味ながら、行ってきました。昭和生まれの平安、ご堪能下さい。
あ、一応言っときますが、三船祭、三船敏郎とは何も関係ありません。

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下鴨神社の御蔭祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月12日(土)


下鴨神社の御蔭祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

毎年更新される、神。
と書くと、まるで神をカードか賃貸契約呼ばわりしてるみたいで恐縮ですが、
京都を名実共に代表する神社であり、三大祭の一つ・葵祭を行う上賀茂神社と下鴨神社は、
実際に毎年5月12日、その葵祭が開催される正に直前、「神の更新」 のようなことを行ってます。
その名を、上賀茂神社は、御阿礼 (ミアレ) 神事。下鴨神社は、御蔭 (ミカゲ) 祭。
「御生」 「御荒」 「御顕」 「産霊」 などなど、様々な字で 「ミアレ」 と表現されるこの神事は、
神地に新たに顕れた荒御魂を、本宮の和御魂と合体させ、霊力をより若々しきものにするもの。
正に、アップデートです。そう呼ぶと、何か神罰が下りそうですが、でも、アップデートです。
現在は学生バイト大量動員の平安コスプレパレードで知られる葵祭・路頭の儀も、
そもそもはこの更新された神に挨拶すべく、朝廷が勅使を派遣してるだけだったりします。
本当は、葵祭よりも重要な神事なのかも知れないのです。というか、多分、そうです。
二千年もの歴史を持つとも言われるこの更新、旧儀が途絶したり、名称が変わったりはしてますが、
生まれたてホヤホヤの神を扱うがゆえのスピリチュアルなテイストは、今なお猛烈に、健在。
特に下鴨神社の御蔭祭は、普段は元官営神社ならではの気高さを誇る同社が、
この日は一転してアーシーなまでのネイティブ感を全開にし、かつての神領域を巡行。
観光客&カメが喜ぶ平安装束のみならず、バス使用も辞さず祖社を回り、歓迎されるその様は、
賀茂の地に根づく信仰の深さと豊かさを、リアルなものとして感じさせてくれるはずです。
そんな御蔭祭、途中からではありますが、ちょっとしつこく追っかけてみました。
妙にバスの写真が多いですが、それこそリアルとご理解下さいませ。

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下鴨神社の流鏑馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年5月3日(木)


下鴨神社の流鏑馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

春の都大路に華麗なる平安行列を再現する、葵祭
しかし、 「山城国風土記」 などに伝わる平安京成立以前の葵祭 = 賀茂祭は、
ほぼケンカ祭同然、DQNや輩な連中が大暴れする、かなりワイルドな祭だったようです。
欽明天皇の時代、凶作に苦しんだ賀茂氏と在地民は、賀茂別雷神の祟りを鎮めようと考えて、
鈴をつけた馬を4月吉日に走らせ、豊作を祈願したのが、賀茂祭のそもそもの始まり。
最初は極めてアーシーというか、オーソドックスに農耕テイストが漂う予祝祭だったわけです。
それが、単に馬を走らせてるだけではつまらなくなったのか、やがて笠懸などをおっ始め、
これに興奮した馬鹿どもが大暴れ、政府から何度も禁止令を食らうケンカ祭にまで成長しました。
正に、DQNであります。正に、輩であります。完全に、田舎祭りだったのであります。
そんな楽しく野蛮な賀茂祭が、その姿を大きく変えることになったのは、平安遷都前後の頃。
朝廷は賀茂氏の勢力取り込みを図るため、賀茂社を都の鬼門守護を担う社と位置づけ、
ローカルな祭だった賀茂祭を勅使の奉幣を受ける超メジャー級国家的祭祀に変貌させました。
以後、中断を挟みながらも、賀茂祭は 「雅」 モードで現代まで継承されているわけですが、
ワイルドな香りを残す神事もあり、それが前儀として行われる、流鏑馬神事です。
下鴨神社・糺の森の中、射手が猛スピードの馬で駆け抜けながら的を射抜くその姿は、
昭和48年の復刻とはいえ、原始の賀茂祭の息吹を伝えるものと言えるでしょう。
そんな流鏑馬、GW混雑のど真ん中ながら、のたくりこんできました。

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地主神社のえんむすび祈願さくら祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月15日(日)


地主神社のえんむすび祈願さくら祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

地主神社
「じぬしじんじゃ」 ではありません。地主を守護する神社でもありません。
正しい読みは、「じしゅじんじゃ」 。清水寺の舞台を出てすぐのところにある神社です。
現在はそれこそ清水寺のおまけみたいな存在感を放つ地主神社ですが、その歴史は極めて古し。
最初の本殿建造は701年とか言われてますが、境内の石は縄文時代から存在すると言われ、
京都がまだ湖の底だった頃から、何らかの信仰が根付いていた可能性がある社であります。
が、21世紀にここを訪れる人の大半にとって、そんなことは知ったことではありません。
こちら地主神社における最近の売りは、ずばり、縁結び。
それこそ間借りのような狭い境内には、「恋占いの石」 だの 「良縁大黒」 だのといった、
下司い野望を叶えてくれる、もとい、真っ直ぐな想いを受け止めてくれるアイテムが、すし詰め状態。
パワスポ商戦に乗っかるどころか先頭を切るように、多彩過ぎる良縁祈願お守りも発売し、
それら目当てに観光ハイ+恋愛ハイ+パワスポハイの女性たちが、日々群れ集うのであります。
「さくら祭り」 は、そんな地主神社の名物桜 「地主桜」 をフィーチャーしたお祭り。
かの嵯峨天皇も御車を返してまで愛で謡曲や俳句にも数多く取り上げられた地主桜に、
何故か縁結びを祈願してしまうという、わかるようなわからんようなお祭りであります。
桜シーズン+日曜という悪条件に加え、神徳も超アウェーという悪状況ですが、
とりあえず不審者モード全開で侵入を果たしてきました。

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桜満開の京都市動物園へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月12日(木)


京都市動物園へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都市動物園
名前の通り、京都市の動物園です。京都市立の動物園です。
明治初頭、奠都による衰退を挽回するため、京都では博覧会を立て続けに開催。
都をどりを生んだ第一回京都博覧会や、時代祭発端の第4回内国勧業博覧会などが有名ですが、
そんな晴れ晴れしい博覧会にはいつも、禽獣会なるものが同時開催されてたんだとか。
禽獣、すなわち、孔雀などの鳥とケダモノ。それらを見世物にする、と。いわば動物園のルーツ、と。
京都市動物園は、その禽獣会をスケールアップさせるかのような形で、創立されました。
名目は、大正天皇の成婚記念。場所はもちろん、博覧会のメッカである岡崎。
金がとことんなかったのか、必要な建設資金は市税に加えて市民に寄付を募る形をとり、
明治36年、上野に次いで日本では2番目、市立としては日本初の動物園がオープンしたわけです。
以来100年以上に渡り、京都の子供たちへ様々な動物と触れ合う機会を提供し続け、
辺境に住む子供だった私なんかは小学校最初の遠足の行き先がここだったりしたんですが、
そんな本来業務の他にも京都市動物園には大きな魅力があって、それは、桜。
園内には創立時に植樹されたという数百本の桜が並び、これが案外、立派。
インクラインなど、近代の匂いがする名桜が多いこのエリアにもあっても、なかなかの見物。
場所柄、和みムードなのもあり、隠れた桜スポットして人気があったりします。
そんな京都市動物園の桜、動物と共に見てきました。

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今宮神社のやすらい祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月8日(日)


今宮神社のやすらい祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

やすらい祭。漢字にすると、夜須礼祭。
広隆寺の牛祭、鞍馬の火祭と共に、京の三奇祭に数えられる今宮神社の祭りです。
遷都以前から紫野の地にあり、既に疫神が祀られていたとも言われる今宮神社ですが、
本格的に疫病退散を祈願されまくるようになったのは、人間密集都市・平安京が成立して以降。
遷都の頃はまだ水が残ってたという元・湖の盆地なんかへ、大量の人間が密集して住んだため、
暑気+洪水+死体腐敗などの合わせ技が発生、この街には伝染病が流行りまくります。
特に春から夏かけては人がバッタバッタと死にまくりますが、当時の人々には何ら打つ手はなし。
しょうがないので、この災厄を疫神の仕業と断定。そして、この疫神の慰撫を企画。
風流や歌舞音曲で疫病を鎮めようと、あちこちの神社でお祭り騒ぎを開くようになりました。
それが、御霊会。平仮名だと、ごりょうえ。祇園祭のルーツと言われる、あれです。
祇園祭は山鉾などが過激に発展し、街が一ヶ月丸ごと祝祭空間化する現代の形になりましたが、
やすらい祭は、もう少しクラシックな御霊会の形を現代に継承してると言われてます。
桜や椿を挿した、山鉾のアーキタイプたる花傘。赤毛や黒毛を振り乱して路上で乱舞する、大鬼。
そして、ブルージーなメロディで 「や~す~ら~い~は~な~や」 と歌われる、やすらい歌。
やすらい祭の名物とも言えるそれらが放つ、実にストレンジで 「奇祭」 な雰囲気は、
一条天皇の時代に船岡山で開かれて以来、ずっとこの地に残ってる御霊会本来の息吹を、
ある意味、形式以上のリアルさをもって伝えているのかも知れません。
そんな 「奇祭」 の空気、たっぷりと堪能してきました。

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上七軒へ北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年4月6日(金)

北野をどり・提灯
上七軒歌舞練場の北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

北野をどり。
京都最古の花街・上七軒の舞踊公演です。
室町時代にまで遡る歴史を持つ上七軒ですが、をどりが始まったのは比較的新しく、戦後。
昭和27年、氏神である北野天満宮の創建1050年記念万灯祭に際して
祭神・菅原道真の物語を舞踊劇にした「北野天神記」を奉納したことに始まります。
これをきっかけに、「北野をどり」を正式にスタート。今年は記念すべき60回目です。
花街としての規模も小さく、舞妓さん芸妓さんの数も決して多くはない上七軒ですが、
踊り手もお囃子もフル稼働で、セリフを多用したストーリー性の強い舞台を創出。
「通は上七軒のをどりを好む」といわれるほど、その芸への評判は高いものがあります。
最近まで4月中旬に開催されてた北野をどりですが、しばらく前、
第一回の開催日が3/25+天神さんの縁日に因み、3/25から2週間の開催に変更。
で、2012年の期間は、3/25~4/7。で、千秋楽の前日にあたる6日に行ってみました。
予約は、してません。前日に、行くことを思いついたからです。
予約なしで入れるコネは、ありません。当日券の一発勝負、飛び込みです。

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東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年3月18日(日)


東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

巨椋池。おぐらいけ。
伏見の南にあって、平安京の四神相応では朱雀にも見なされた遊水池です。
周囲16km+約800haという、「池」 と呼ぶのがかなり相応しくない巨大なサイズを誇り、
桂川+宇治川+木津川のオリジナル合流点として、その下流である淀川の水量をコントロール。
しかし周辺地域で発生する水害は、デカ過ぎるゆえに半端なく、おまけに発生頻度も高し。
昭和に入って全域が干拓され、現在はその大半が農地化。京都随一の青果生産地となってます。
干拓直前の巨椋池は水が澱み、そのためかえって蓮の名所として名を売ったそうですが、
元々は魚類が豊富に生息する環境であり、池畔には淡水漁で生計を立てる漁民が多く居住。
京都の難読地名ブッちぎりの首位を誇る東一口は、その代表的な集落でした。
後鳥羽上皇から独占的な漁業権を賜った彼らは、池の西端で干拓完了まで漁民として生活を続け、
漁業から離れざるを得なくなった現在も、昔からの風習を根強く守り続けています。
「荒くれ漁師がお告げに従い、淀川から観音像を引き上た」 という弥陀次郎伝説に基づいて、
その引上日= 3月18日に近い土日に開催される安養寺の春祭りも、そのひとつ。
祭りでは、南山城唯一の伝承念仏という 「双盤念仏 or 六字詰念仏」 も披露。
六斎念仏ファンとして、近所の久御山に念仏があるとなっては、行かないわけにはいきません。
そう、私の住む八幡と久御山は、隣同士。巨椋池があった頃は、船で往来もできたはず。
現在は何か、異常に公共アクセスが悪いけど。それはまあ、どうでもいいんだけど。
とにかく、双盤念仏を見に行ってきました。東一口へ、行ってきました。
「東ひとくち」 ではありません。東一口へ、行ってきました。

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