昼も、ひとり アーカイブ - 12ページ目 (15ページ中) - ひとりでうろつく京都 (β版) ひとりでうろつく京都 (β版)

archives:
昼も、ひとり

市比賣神社のひいなまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年3月3日(土)


市比賣神社のひいなまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

市比賣神社。平仮名だと、いちひめじんじゃ。
名前からして雛祭りにふさわしい、実にレディーステイストを感じさせる神社です。
元々は商売の神様であり、平安京の官営市場である東市・西市の守護神として795年に創建。
昭和に入っても中央卸売市場構内へ分社が建てられたりと、そっち方面の信仰は篤いようですが、
やはり市比賣神社といえば 「女人厄除け」 こそが、一番の売り、メジャーな御利益。
私は全然知らないんですが、女性専門の厄除け神社というのは結構珍しいもんだそうで、
厄年の厄祓い、また良縁・子授け・安産などを求め、全国から悩める女性たちが参拝しに来るとか。
何でここが商売の神様から女性の神様になったのかも全然知らなかったので、
秀吉の命により現在地 = 遊郭・五條楽園のすぐ近所へ移転させられたことでも関係あるのか、
あるいは光源氏 = 源融の六条河原院跡に近いのも関係あったりするのかとか思ってたんですが、
そもそも市比賣神社の祭神は全て女神・比賣命。女性の神様なのが、当たり前と。
歴代の皇后からも篤く崇敬されているというほどレディース志向全開な市比賣神社ですから、
3月3日に 「ひいなまつり」 の名で行われる雛祭り行事も、極めて気合が入りまくり。
巨大雛壇へ十二単を着付けた人間が座るという 「ひいなまつり」 名物である 「ひと雛」 に加え、
貝合わせなどの雅なひいな遊び実演、そして 「ひちぎり」 が食える茶席と、お楽しみが盛り沢山。
盛り沢山過ぎて入場料が1000円と高価ですが、それもまた雅なのでございます。
そんな 「ひいなまつり」 、アウェー全開覚悟でもぐりこんでみました。

続きはこちら »

醍醐寺の五大力へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年2月23日(木)


醍醐寺の五大力へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

五大力。
一応、念のために言っておくと、長州力とは関係ありません。
長州力にそっくりの人が餅上げ大会に参加してはいましたが、関係ありません。
正式名称、五大力尊仁王会。 「五大力の尊仁王会」 ではなく、「五大力尊の仁王会」 。
平安時代の五重塔で知られる世界遺産・醍醐寺で毎年2月23日に行われる最大の行事であり、
上醍醐の五大堂に祀られる五大力尊へ、国家安穏・万民豊楽を祈願する法会です。
本来は山上までしっかり登って、五大堂でしっかり厳修するのが筋なわけですが、
さすがに3.5キロの登山は万民には厳し。なので、山麓・下醍醐でも祭灯護摩供を、終日厳修。
また、災難&盗難除けの功徳があるという本尊・五大力尊」の「御影」 も、この日に授与。
この札は、愛宕さんの 「火迺要慎」 お札と同じく京の家々の定番のお札であり、
ゆえに、善男善女が集結。それを目当てに露店も集結。えらい賑わいとなるのであります。
加えて五大力の集客力をブーストしてるのが、餅。餅あげ。餅あげくらべ。
女性90キロ・男性150キロもの巨大な紅白の鏡餅を持ち上げ、持ち上げ続け、その時間を競い、
発揮した大力を五大力さんに奉納して無病息災を願うというのが、餅上げです。
戦後に余興として始まったものですが、巨大餅そのものの存在感と、
それを必死で持ち上げる挑戦者の姿のインパクトが人気を呼び、定着化。
この日は金堂+五重塔が無料開放されることもあり、今では京都に春を告げる行事になってます。
その五大力さん、生憎の雨ですが、行って来ました。

続きはこちら »

阿含の星まつり2012へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年2月11日(土)


阿含の星まつり2012へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

阿含の星まつり。
正式名称、 「炎の祭典・阿含の星まつり 神仏両界大柴燈護摩供」 。
阿含宗が、京都・東山の総本殿で毎年建国記念日に行う、護摩法要です。
一大観光都市・京都にあって、50万人(主催者側発表)と宵山以上の動員力を誇り、
CMはバンバカ流れるわ、シャトルバスはR1を走りまくるわ、そこら中で山伏がウロウロしてるわと、
大騒ぎの祝祭状況を現出させる割に、何故か観光案内などでは扱いが小さい行事であります。
不思議だなあ。何でもっと大きく取り上げないんでしょう。いや実に、不思議だなあ。
ひょっとすると混雑が既にパンク状態で、取り上げようがないんでしょうか。何せ 「50万人」 だし。
でも去年行った感じでは、50万人はちょっとない感じに見えたけどなあ。不思議だなあ。
そんな不思議な星まつり、前年は早朝からそのシャトルバスへ乗り込み、
もの凄い雪が降る中で護摩が点火&爆発するオープニングを拝ませてもらった
わけですが、
今年はその逆、エンディングの鎮火・火伏せをメインにして出かけてみました。
何故かといえば、朝早く起きるのが面倒くさくて、しんどかったからです。
加えて、今回は現場まで徒歩で行こうと決めてたので、より安全な昼間を選んだわけです。
阿含宗総本山があるのは、清水寺・奥の院の背後から500mくらいのところ。
「歌の中山」 で知られる清閑寺&京都随一の心霊スポット・旧東山トンネルを通る道があったりと、
両者のアクセスは妙に良好だったりします。で、今年はそこを歩いてみた、と。

続きはこちら »

2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【2】

2012年2月3日(金)


2012年の節分めぐり、続きです。3日の昼の部。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

【2】、北野天満宮の追儺狂言、そして千本釈迦堂のおかめ福節分です。

続きはこちら »

2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【1】

2012年2月2日(木)


2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。
2月2日と3日の両日を、暇丸出しでフルにうろつきまくってます。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

の、まずは 【1】、八坂神社、壬生狂言、そして懸想文です。

続きはこちら »

石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月29日(日)


石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鬼やらい。いわゆる節分の追灘というものです。
今なお深層意識の中では旧暦のタイムテーブルがしぶとく生き続けているためか、
「本来の年越し」みたいな感じで、ある意味正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
京都市内の多くの寺社が2月3日を中心に各種祭典を行ない、大きな賑わいを呼んでいますが、
我が地元である石清水八幡宮は、節分に一番近くて早い日曜日に、鬼やらい神事を開催。
ちょっと、フライングです。何故かといえば、まあ多分、客を呼ぶためじゃないかと。
この神事、始まったのは割と最近。最近といっても、もう25年くらいはやってるそうですが。
京都市内の節分行事も、実は結構歴史が浅い復活系のものが多かったりしますが、
八幡の鬼やらいはそれらに増して新しく、イベントテイストがより濃厚です。
本気というよりはお遊びであり、開催日を厳密に2月3日とする必要がないタイプの行事であり、
ついでに鬼のクオリティも若干の手作り感が否めないものだったりするのであります。
しかし、いやむしろそれゆえに、ある種の大らかさみたいなのは、炸裂。
出てる方にも、そして見てる方にも、率直な笑顔が溢れる鬼退治と言えるんじゃないでしょうか。
この数週間前には、某大河ドラマ清盛の舞の舞台となってた、石清水八幡宮。
初詣厄除大祭と続くボロ儲け月間を締めくくるのに相応しい混雑の中、
一足早い節分を楽しんできました。

続きはこちら »

三十三間堂の楊枝のお加持と通し矢へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月15日(日)


三十三間堂の楊枝のお加持と通し矢へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

等身大の観音像を、千一体、並べる。
それは一体、どんな精神状態から生まれる発想なのでしょう。
「でっかい寺 or 仏像を作る」なら、わかります。大きいことはいいことだ、と。
数的膨張も、伏見稲荷の鳥居のような闇雲さがあれば、まだ人の体温が感じられるというものです。
しかし、三十三堂の千一体観音は、そのどちらとも違う印象を見る者に与えます。
熱狂を感じさせない、冷たく醒めた過剰さ。そしてそこに響く、救済を求める無言の絶叫。
普通の人間が考えつくものではない。少なくとも私は、そんなことを感じたりします。
後白河法皇。普通の人間ではないといえば、確かに普通の人間ではありません。天皇だし。
「今様狂い」「比類少きの暗主」と揶揄されるほど過剰な遊蕩に呆けながら、
源平を手玉に取って権力に固執し、なおかつその全てを放り出して熊野を何度も何度も詣でまくり。
勝負には絶対負けたくないが、勝ったところで全ては遊びだとも知っている、大天狗。
まこと「もののけ」と呼ぶにふさわしい、院政期を体現したような強烈なるパーソナリティです。
そして、その院から発願された三十三堂もまた、強烈なインフレーション感に溢れた建造物です。
そもそもは院の頭痛平癒を祈願して建てられながら、いわゆる癒しテイストは皆無、
だだっ広いにも関わらず開放感がなく、閉塞感+強迫観念=偏頭痛誘引効果が爆裂状態。
むしろ偏頭痛者のパースペクティブをそのまま具現化したようにさえ感じられ、
疾病退散の加持より、矢でこの頭を吹っ飛ばしてくれと頼みたくなること、しきりです。
そんな三十三堂の成人の日名物である、楊枝のお加持通し矢
「どんなだ」という話ですが、無料開放で頭痛がしそうな堂内へ、とにかく突入してきました。

続きはこちら »

大本亀岡本部へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月7日(土)


大本亀岡本部へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

大本についての説明、どれくらい必要なんでしょうか。
本籍地を丹波に置きっぱなしの私にとっては、何となく「知ってて、普通」な感じなんですが、
一般的知名度はそれほどでもないのかも知れません。そうでもないのかな。
大本。平仮名で書くと、おほもと。読みは普通に、おおもと。
いわゆる新宗教の老舗です。「新」なのに「老舗」というのも変ですが。
明治中頃、京都北丹・綾部で開祖・出口なおが「御筆先」を記したことで始まる神道系の教団ですが、
教団を巨大化させたのは、『霊界物語』などで今なおカリスマ的人気を誇る、出口王仁三郎
メディア戦略に天才的な才能を持つ王仁三郎は、勃興期にあった新聞&ラジオを大々的に活用、
教団を爆発的に拡大させ、「万教同根」の真理に基づいて大陸にも進出、世界各国の宗教とも提携し、
遂には郷里・亀岡の亀山城をまるごと購入、綾部と共に聖地としました。
インテリ・貴族・軍人までも巻き込むその勢いに、特高は目をつけ、大正・昭和と二度にわたり弾圧
特に戦中行われた「第二次大本事件」と呼ばれる二度目の弾圧は熾烈を極め、
「大本を地上から抹殺する」と、1300本のダイナマイトで教団施設を城ごとぶっ飛ばしました。
壊滅状態に陥った大本は、追い討ちをかけられるようにカリスマ・王仁三郎も失いますが、
何とか自主再建を果たし、ズタボロになった亀山城址も何とか再整備。
戦前の勢いはないにせよ、平和運動・農業運動・芸術運動などに力を入れ、現在も活動を続けてます。
そんな大本が、信者以外にも無料で振舞ってるのが、1月7日の七草粥。
普段は拝観に申込が要る亀山城も、一般開放。なので、城見物をかねて出かけてみました。

続きはこちら »

正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月5日(木)


正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

八幡の八幡さん(やわたのはちまんさん)、地元ゆえ再び初詣です。
元旦には、今イチながらも初日の出まで拝ませてもらった石清水八幡宮ですが、
昼間の混み加減も一応チェックしておきたくなって、改めて参拝させていただきました。
混雑度を見るなら何といっても元日、せめて三が日の間に行っとくべきなのですが、
諸般の事情で4日まで身動きとれず、5日に至ってのデータ取得となってます。ご了承下さいませ。
「世は変われども、神は変わらず」というキャッチコピーの通り、
例年と特に変わるところのない、賑やかかつ穏やかな八幡の八幡さんの正月ではあるのですが、
去年の年末にはこの石清水八幡宮、国史跡に指定されるというトピックがありました。
それも本殿のみならず、明治以前の神仏習合の遺跡を含めての指定。
ちょっと前には松花堂昭乗の滝本坊跡で「空中茶席」なるものの遺構が発見されるなど、
静かに盛り上がりを見せていた八幡さんの発掘ですが、この指定でより拍車がかかることでしょう。
八幡さんの参道の横にずらっと並ぶ、石垣。あれ、遺構なんですよ。かつて林立していた宿坊の。
でも、参拝される方の多くは登ることに必死で、全然そんなことに気にしてくれません。
ので、ちょっとその辺にも触れながらの初詣記事にしてみます。興味を持ってもらえたら、幸いです。
あ、トップの龍は、本殿にいる奴。辰年ということで、フィーチャアしてみました。

続きはこちら »

祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


祇王寺へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

祇王寺
平家物語における白拍子祇王の悲恋伝説で有名な、奥嵯峨の寺です。
近江・野州で平家家人の娘に生まれるも、父が死に、母&妹と共に京都で白拍子となった、祇王。
その美しさと華麗な舞から、驕る平家全開&DQNモードの平清盛に寵愛され、
大金+名声+故郷の水不足を解決する祇王井川開削までゲットしますが、しかし、好事魔多し。
強硬に舞プレゼンを願う16歳の仏御前を、お情けで清盛にとりなしてやったら、
清盛一発で心変わり+祇王叩き出し+仏御前の余興のためだけに再度呼び出し&再度叩き出し。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわで果つべし」。
やっとられんわという思いでこのような歌を詠み、祇王&妹&母は洛外へ脱出+出家。
その出家の場所が、この祇王寺と言われてます。他にも諸説はありますが。
山里で念仏三昧の日々を送る尼母娘3人組には、祇王没落の原因となった仏御前も、のちに合流。
どうせ自分も、いずれ似た運命を辿るのだ。いずれか秋にあわで、果つるのだ。
愛欲の諸行無常を知る者同士で連携を深めた四人は、チームワークで念仏三昧へ没頭、
全員がめでたく往生を遂げたといいます。「われらも遂には仏なり」と。
愛欲の諸行無常にも、逆にDQN性質を発揮する権力・金力・精力にも無縁の独男には、
かなり関係のない寺ではありますが、とりあえず紅葉シーズンのラストですし、
一人で数時間座り込む女性がいるというディープさも面白そうなので、興味本位で出かけてみました。

続きはこちら »

千本釈迦堂の大根焚きに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年12月8日(木)


千本釈迦堂の大根焚きに行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の冬の到来を告げる、師走の風物詩・大根焚き
鳴滝の了徳寺や、その近所の三寳寺も有名ですが、やはり大根焚きといえば、千本釈迦堂
鎌倉時代に茲禅上人が大根の切り口に梵字を書き魔除けにしたのが始まりとされ、
現代に至るまで中風&諸病除けの御利益を求め人々が食し続ける、実に歴史ある大根焚きです。
集められた大根を加持祈祷して輪切りにし、大鍋で煮込み参拝者に振舞うその様は、
「京都の師走の風物詩」という感じのニュースなどで目にした方も多いでしょう。
そう、京都の大根焚きが取り上げられる際、出てくるのは大抵、ここです。
もちろん他の大根焚きも、特に了徳寺の大根焚きは結構な頻度で取り上げられますが、
どこが一番メジャーかと考えるなら、千本釈迦堂ということになるんじゃないでしょうか。
でも、何でやろ。何か違いって、あったっけ。人気とか動員数とかの問題か。
味の違いやろか。味やったら、僕、三寳寺が一番好きやけど。一番ようしゅんでたし。
と、アホなことを考えてると、思いつきました。千本釈迦堂の大根焚きって、野外でやるやん。
了徳寺と三寳寺がお堂の中で食するの対し、千本釈迦堂はお堂の外。
どこの大根焚きも狭いところが超混雑状況となりますが、室内での混雑はカメラ置きにくし。
より取材しやすい千本釈迦堂に、マスコミは行くようになった。そうや、きっとそうや。
と、やはりアホなことを考えながら、大根、食べに行きました。
当日は、雨。「お堂の外で食べる」のが、完全に裏目に出たシチュエーションでございました。

続きはこちら »

高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2011年12月4日(日)


高桐院へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

高桐院
美しき禅寺・大徳寺の、美しき塔頭です。
秀吉による信長の菩提寺・総見院の建立以降、大徳寺では武将の塔頭建立が相次ぎますが、
こちらの高桐院もまた、細川忠興 aka 三斎が、父・幽斉の菩提所として創建。
戦国時代きっての冷徹な智将にして、キリシタン&明智光秀の娘・ガラシャを嫁とし
隠居後は茶の道も究め三斎流の開祖ともなった、細川忠興。
かの千利休は、利休七哲の一人として認めるほどこの三斎が気に入ってたようで、
こちらの高桐院には利休邸からの移築されたと伝えられる書院・意北軒が残り、
また、北野大茶湯のために作られ利休の茶を忠実に継承したとされる茶室・松向軒も、設置。
さらに利休は、自らの灯籠を三斎の墓塔として贈り、これを気に入った秀吉が横取りしようとすると、
「こっちの方が風流だ」と塔の一部を削るなどという、実に性格の悪いことをやらかしたそうです。
心温まるんだか温まらないんだかよくわからんそんな数々の伝承と共に、
三斎&ガラシャ、三斎の三回忌に殉死した興津弥五衛門、そして何故か出雲阿国が眠る、高桐院。
年中無休で拝観謝絶の塔頭が多い大徳寺にあって、こちらは常時、拝観を受入。
もちろん紅葉シーズンも開いてます。そしてもちろん、混みます。
紅葉がすっかり落ちた頃に出かけましたが、それでも全然、混んでました。

続きはこちら »

鷹峰の源光庵へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月25日(金)


鷹峰源光庵へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

迷いの窓。そして、悟りの窓。
片や人間の生涯の四苦八苦を表す、角窓。片や大宇宙や真理を表現する、丸窓。
の哲学を具現化したこの二つの窓で知られるのが、北区鷹峰に立つ禅寺・源光庵であります。
1346年に臨済宗大徳寺二世の徹翁義亨が隠居所として創建しましたが、のちに荒廃。
時代が下って1694年、加賀国大聖寺の曹洞宗僧侶・卍山道白によって再興され、その際に改宗。
再興後に再建された本堂には、廃城となった伏見城の遺構である血天井が流用され、
養源院宝泉院正伝寺などと並ぶ「京都血天井めぐり」のスポットとしても、有名です。
禅が全開の、窓。そのピュアな精神性を諸行無常にブーストする、血天井。
そして「鉄道なし+バス少なめ+坂めっさキツい」という、単純にアクセス不便気味な立地条件。
本来は、なかなかに渋好みな寺なわけです。実際、普段は本当に渋好みな寺なわけです。
が、秋になったら窓の向こうに紅葉が見えてしまうもんから、もう大変。
額縁効果が効いた紅葉を見よう or 撮ろうと、観光ハイで生老病苦も忘れたツアー客の方々が、
大型バスに乗り大挙してやってくるスポットになり果ててしまうのであります。
そんな源光庵、今年は今いちではあるものの、わざわざ紅葉のピークに訪れてみました。
人間だらけの状況で、迷いの窓と悟りの窓は、どんな相貌を見せてくれるでしょうか。

続きはこちら »

相生餅・新町店へあん餅うどんを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月20日(日)


相生餅・新町店であん餅うどんを食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

「あん餅うどん」。
そう聞いて、かなくま餅福田「あん餅雑煮うどん」を思い浮かべたあなたは、うどん者ですね。
アンコの入った餅を白味噌で煮込む、香川独特の郷土料理・あん餅雑煮
それを強引にうどん化した西讃の猛者、香川県観音寺・かなくま餅福田の「あん餅雑煮うどん」。
私、数年前までは最低でも月一、下手すると毎週渡讃してたほどのうどん好きでして、
かなくま餅福田のある観音寺へも、何度となく足を運んでます。
「かじまや」 「大喜多」 「柳川」に始まり、 「まり」改め「ゆり」味噌汁うどんまで食いましたが、
結局今に至るまで「あん餅雑煮うどん」には手を出してません。
理由は、怖かったから。香川が嫌いになりそうで、怖かったから。
餅を入れるのはともかくとして、よりによって、餡餅って。甘いもん、放り込むって。
でも、よくよく考えてみたら、京都の餅系食堂ではワシ、うどんとおはぎを普通に食っとるな。
それも、順番に食うんと違うて、ごっちゃに食っとるな。で、うどんと甘味って結構、合うわな。
そう思い至ったのは、経済的にも時間的にも容易に渡讃ができなくなってた頃でした。
日ごと高まる「あん餅雑煮うどん、結構イケるんちゃうやろか」の思い。
しかし今の私には、観音寺はあまりにも遠い。
18切符を使うと、姫路岡山間がつらいフェリーは、爆音で2度鳴る「風が恋を運ぶ~」がつらい。
なので、かなくま餅福田の代わりに、北大路新町の相生餅へ行くことにしました。
そして、京都の「あん餅うどん」なるものを食すことにしたのです。

続きはこちら »

北野白梅町のだいりき亭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月13日(日)


北野白梅町のだいりき亭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

北野白梅町といえば、イズミヤです。
嵐電・北野白梅町駅に隣接する、というより圧倒するようにそびえ立つ、イズミヤ白梅町店。
私、ここのトイレをよく借ります。といっても、別段このへんに用事が多いわけではありません。
が、散歩でウロウロしてる時などに立ち寄る回数は、妙に多かったりします。
何か、足が向くんですよ。そこら中にある公衆便所や観光トイレではなく、イズミヤに。
何にそんなに惹かれるかといえば、あの郊外感ではないかなと。
郊外型スーパーが希少な京都市内中心部にあって、堂々と凡庸さを誇る、その雄姿。
郊外に住む私には、その凡庸さこそ馴染むというか、ライフラインが繋がった感慨さえ抱くんですよ。
あと、京都の公衆便所にはちょっとした個人的トラウマもあるし。
梅小路公園のトイレで大いなる用を足してる時、壁の上からこちらを覗く同性の方と目があって以来、
私、京都の公衆便所が苦手です。全くどうでもいいことですが。
そんな(どんなだ)イズミヤ、そしてそんなイズミヤのある北野白梅町。
商店街との闘争を呼んだこの大型スーパーも、今となっては昭和の動態保存に見える現代にあって、
「街」の象徴ともいえる餅系食堂はしっかり、健在。その名も、だいりき亭。
力餅→大力餅→大力という流れを確信させる店名ですが、全然関係なかったら、ごめんなさい。
神護寺ライトアップへ向かうバスを待つついでに、寄らせてもらいました。

続きはこちら »

東九条マダンへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年11月3日(木)


東九条マダンへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都駅八条口から徒歩数分の場所にある、京都最大のコリアンタウン・東九条
東九条マダンは、そこで開催される地域の祭りです。東九条마당。今回で19回目。
全くどうでもいい個人的事柄ですが、私、このあたりをよく歩きます。
といっても、特に東九条に用事があって歩くわけではありません。
京阪八幡から京都駅へ行く場合、「丹波橋で近鉄」か「東福寺でJR」乗り換えが常道なんですが、
乗り継ぎ分の電車賃を惜しみたい場合、あるいはちょっと歩きたい気分の時などに、
東福寺か七条から歩くわけです。東福寺からなら東九条を、七条からなら崇仁を、テクテクと。
八幡に住み、金を惜しみ、時間を惜しまない私は、かなり高い頻度でここを歩きます。
ネット界では、言及されることが多い割に実地へ赴いた話が少なかったりするエリアですが、
南部の辺境に住む私にとっては、ここがいわば「みやこ」の入り口。
ここを基準にして京都という街を眺める習性みたいなのも、ちょっと、あったりします。
私だけの話ではありません。新幹線で京都入りする人にとっても、ここは「みやこ」の入り口です。
人の住む街を「そうだ」呼ばわりしながら入洛する際、ここを通ってるのです。気づいてないだけで。
そんな話はともかく、東九条マダン。
韓流の趨勢を先取りするように、19年前から多文化共生を打ち出してきたマダンですが、
今年も歌や踊りの民俗芸能はもちろん、アーティストの公演など盛りだくさん。
私は昼過ぎから、もっぱら食い気メインで寄せてもらいました。

続きはこちら »

八坂倶楽部での京都国文・食文化の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月29日(土)


八坂倶楽部での京都国文・食文化の祭典へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

国民文化祭とは、日本中でいろいろな文化活動に親しんでいる個人や団体が集まって、日ごろの成果や実力を披露するため、全国各地から多くの「文化」や「人」が集まる「日本最大の文化祭典」です。昭和61年からの毎年、各都道府県持ち回りで開催されてきたこの国民文化祭が、平成23年京都府で開催します。音楽、舞踊、演劇、美術、文芸などの芸術文化から伝統文化や生活文化、さらに特色のある開催地独自の文化まで、盛りだくさんの催しが開催期間中に次々と繰り広げられ、国内外から参加者・観客が集まります。府内一円で約70もの文化イベントを開催します。この機会に、皆さんの「文化」を再発見してみませんか?
国民文化祭とは | 第26回国民文化祭・京都2011 – こころを整える~文化発心

まとめるのが面倒くさいから、公式サイトから丸写ししたった・・・。
国民文化祭、略して国文。興味ある人は、あまりいないでしょう。私も全然、ありません。
が、2011年の開催地は、京都。文化が売り物というか、ほとんど文化しか売るもんのない街・京都。
京都市のみならず京都府全域で、それなりに力の入ったイベントが用意されてて、
祇園甲部歌舞練場の隣、八坂倶楽部で行われた『食文化の祭典・京料理』も、そのひとつです。
内容こそ「有名店による料理の実物展示+式包丁や京菓子作りなどの実演」という、
毎年12月にやってる「京料理展示大会」みたいなもんですが、場所が違いますよ、場所が。
京料理にも名店にもさほどの関心はございませんし、ご縁はもっとございませんが、
八坂倶楽部の中はちょっと見てみたくて、場違いモード全開で出かけてみました。

続きはこちら »

時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月23日(日)


時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

時代祭。
言うまでもなく、葵祭および祇園祭と並ぶ、京都三大祭のひとつであります。
が、御存知の方も多いでしょうがこの祭、始まったのは明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、地域振興として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカが、当時田んぼだらけの岡崎に建設されました。
江戸時代でもかろうじて都の誇りだけは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は京都への遷都を成した桓武天皇、氏子は京都市民全員、
例大祭は平安遷都の日である10月22日と決められました。平安神宮と時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ単たる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化&ラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」足利将軍が開催100年目にして参加を許されたりながら、現在に至ってます。
そんな時代祭、御所や平安神宮応天門前で見るのが堅気の楽しみ方ですが、
私は行列と一緒に歩いてみました。全行程4.5キロを、行列から少しずつ遅れて歩いてみました。
「動く歴史絵巻」を、普通の街中を進む絵面ばかりで、全時代、網羅してみようかなと。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して捏造された「雅」さではなく、
「雅」さが普通の街中に転がる京都のストレンジさこそを、感じてもらおうかなと。
曜日問わず22日固定で開催される時代祭ですが、今年は天候不良により、23日に順延。
2011年は、奇しくも三大祭の全てが日曜に開催される年となりました。

続きはこちら »

安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年10月9日(日)


安井金毘羅宮の例大祭・神幸渡御へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「課長と奥さんが早く別れて私と一緒になってくれますように」。実際は、その課長の姓名はもちろん年齢から会社名まで書いてあったのだが、それだけなら珍しくもない不倫成就の嘆願である。祇園に近く水商売関係の参詣者も多いだろう土地柄か、ここに掛けられる絵馬の二割近くが不倫絡みなのだ。問題は奉納者名の後の空スペースに、あきらかに異なる筆跡で記されていた文字である。
「そうはなるものか」
鉛筆書きの尖った文字が突き刺さっているようであった。 (入江敦彦 『京都人だけが知っている』

この文章がきっかけになったのかどうかは知りませんが、
とにかく、愛情が呪いの域に達した恐怖絵馬で一気に名を上げた、安井金毘羅宮。
一応、縁結びの神様でもあるわけですが、奉納される絵馬は相変わらず縁切り祈願が大多数。
「あの人と別れたい」「あの人とあの人が別れて欲しい」といったベーシックなものならず、
「あの人がこの世と縁が切れますように」と、現世との縁切りを祈願するものも多数、奉納。
中には、部署名・配偶者名・子供の名前まで記入して「逝ってくれ」と願うものなどもあって、
愛欲に無縁な私にとっては、もはや恐怖を越え、不可解・不条理極まる世界であります。
何でそんなに人が好きになるんだ? 何でそんなに人が嫌いになるんだ?
10月初旬に行なわれる例大祭は、そんな疑問に答えてくれるもの、ではありません。
安井といえば、9月第4月曜に美容業界が定休日返上でバックアップする「櫛祭り」が有名ですが、
この日の祭りは全然オーソドックスな、神輿巡幸。もちろん、縁切り神輿とかも、ありません。

続きはこちら »

北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年10月1日(土)


北野天満宮・ずいき祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

ずいき祭。
美しい少女を見て随喜の涙を浮かべる祭ではありません。あしからず。
ずいきとは、里芋の茎のこと。漢字で書くと、瑞饋祭。京都の代表的な秋祭です。
のちに北野天満宮の祭神となる菅原道真が、配流先の大宰府にて怨み骨髄で彫り上げた木像を、
随行した西ノ京の神人が持ち帰り、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えしたことに始まる、ずいき祭。
ずいき・赤茄子・栗・柿・稲穂などの野菜で作られた『ずいき神輿』が祭りの何よりの名物であり、
元農村ならではの収穫を感謝するさまと、祭ごとに作ってはぶっ壊す神輿本来の聖性が、
ちょっと不思議な形で現在まで継承されてる祭りであります。
毎年10月4日の還幸祭では、ずいき神輿はもちろん、「天神さん」のシンボルである牛も町内を巡行。
現在は完全に住宅地の氏子区域を野菜神輿や牛が闊歩する姿は、独特の風味を醸し出してますが、
この日の神幸祭もそんな不思議さに満ち溢れているかといえば、これがそうでもありません。
ずいき祭の神幸祭は、応仁の乱で途絶して以降ずっと中断したままだったそうで、
再開されたのは実に明治8年のこと。何事も千年単位の京都にあっては、最近の話です。
配流された主祭神・道真の「おかえり」すなわち都への帰還をイメージさせるためか、
還幸祭が極めて盛大に行なわれるのに対し、神幸祭はやや、地味。ずいき神輿の巡幸も、なし。
私も還幸祭の方へ行きたかったんですが、ずいき祭は日程固定で平日開催が多く、今年はアウト。
神幸祭だけじっくりと見物させてもらうことにしました。
とはいえ神幸祭も、行列の巡行、そして何より八乙女舞の奉納など、見所はいっぱいです。

続きはこちら »