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祇園祭の花傘巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月24日(日)


祇園祭の花傘巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

花傘巡行。山鉾巡行の「あとのまつり」の名残ともいえる神事です。
かつて山鉾巡行は、「さきのまつり」と「あとのまつり」の2回、行われてました。
「さきのまつり」は17日、神幸祭の露払いとして。「あとのまつりは24日、還幸祭の露払いとして。
山鉾が神輿に代って祇園祭の主役になってからも、本来の意義を失うことなく続いてたわけです。
その伝統に変化が起こったのが、昭和の中頃。マイカーが走るようになる高度成長期の頃。
市内交通が麻痺する日を一日でも減らしたい、ついでに観光客を集中的に呼び込みたい、
京都市はそんな思惑を抱き、「さきのまつり」と「あとのまつり」の統合、合同巡行を提案。
祇園祭の神事としての側面により重きを置く八坂神社は、この案に反対しましたが、
実際に巡行を担う山鉾町からは「2週もやってたら、商売やりにくてかなわんわ」という声も多く、
昭和41年、山鉾巡行は17日に一本化。千年以上続いた「あとのまつり」は、途絶しました。
「あとのまつり」の意義を遺したい神社側は、24日に何らかの神事を行なうことを発案。
どうせならと山鉾の原型・花傘を復活させ、各種芸能行事も盛り込み、花傘巡行はスタートしました。
巨大な鉾などは出ませんが、織物業者や花街がメインで参加するため、行列の華やかさは随一。
巫女さんのような神饌行列、芸舞妓はん、鷺踊、万灯踊、そして「きものの女王」に花傘娘と、
ほとんど女人禁制の山鉾巡行とは対照的に、女性が大量動員される神事なのであります。

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五智山蓮華寺のきゅうり封じへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月21日(木)


五智山蓮華寺のきゅうり封じへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

きゅうり封じ。それは、弘法大師が京の都に遺した、秘法。
恐ろしい呪術には事欠かない京都の中でもダントツの法力を持ち、
あまりにシャレにならぬゆえ、メジャーなメディアでもカルトなメディアでもその扱いは極めて、希少。
今だ全貌さえ明らかになってないそのきゅうり封じへ、私は単身乗り込んだ・・・というのは大嘘です。
もらったパンフに「土用丑の日は年一回の秘法厳修の日」などと書かれてたので、
狂った反応をしてしまいました。鰻を食う勢いで「秘法厳修」するギャップ感が、たまりません。
実際のきゅうり封じは 「きゅうりに願かけて、悪いところを持ってってもらう」 というもんです。
病苦・悪行の根から逃れ、長生き&安楽往生できるよう、大師が秘法を残してくれた、という。
「だけど、何できゅうり?」と思うんですが、一説によると空海、きゅうりが嫌いだったそうです。
人形とか使えばいかにも「秘法」っぽいですが、そこを、きゅうり。それも、自分が嫌いな、きゅうり。
千年の時を超えて空海の素顔がダイレクトに感じられるような由緒であり、
ゆえに、千年の時を超えて人々からの信仰を集め続けている行事であります。

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四条河原町下ルの三栄で鱧を食べました。もちろん、ひとりで。

2011年7月14日(木)


四条河原町下ルの三栄へ、鱧を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、鱧。
というわけで、貧乏独男でも京の夏を楽しもうと始めた夏季集中企画 『ひとりで食べる鱧』 。
己の財政事情を省みずに食べ歩きをスタートしたんですが、結果、あの、今回で最終回です。
最終回じゃないにしても、多分、当分、お休みです。何故って、いや、お金がなくなるから。
お金ってね、使うとなくなるもんなんですよ。御存知でしょうか。本当に不思議ですよね。
貧乏なら貧乏で、もうちょっとお手ごろな惣菜ものとかで攻めてもよかったんですが、
しかし、そういう守りの姿勢では絶対に楽しめない味覚があるのも、これまた世の真実。
特に今回の三栄、良かった。本当に、良かった。
この企画では「昼&5000円以内」の予算を想定してたんですが、こちらの御代は7000円弱。
結構なオーバーではありましたが、でも本当に、良かった。美味かった。
四条通を避けて寺町通の電器街へ行く時、団栗橋からこの店の前あたりをよく通ってましたが、
「何か渋い店」という印象しかなかっただけに、嬉しい驚きでした。
当日の朝10時頃に「ひとりで。13時半頃」と予約の電話を入れたら、OKの返事。
だったのでのこのこ出かけました。

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柳家本店へ鱧を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月10日(日)


柳家本店へ鱧を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都の夏といえば、鱧。
ですが、偽京都人の私には夏に鱧を食う習性などありません。
あ、いや、ちょっとだけ思い出はあります。幼少時、母が作ってくれた鱧の吸い物。
安物の骨だらけな鱧を、インスタントの出汁に放り込んだだけの代物。これがまあ、不味かった。
鱧大好きという関東の知人にこの話をすると
「それ!そういうのがいいんですよ」とか喜びましたが、実物を食えば閉口すること間違いなし。
本当に泣くほど不味く、それから私は鱧が嫌いになりました。
嫌いになればなるほど懐には優しい食材なので、特に困ることなく今まで生きて来ましたが、
しかし、京都の夏といえばやはり、鱧。
京都ベタスポットの単独正面突破を身上とするうちとしては、逃げるわけにはいきません。
本当にベタな老舗にはとても入れませんが、比較的庶民派な店でも美味しい鱧はあるはず。
そんな店を渡り歩く、夏季限定シリーズ 『ひとりで食べる鱧』。
予算は、5000円以内。金が続く限り続けます。次回か、下手すると今回で終了かも知れませんが。

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白峯神宮の七夕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月7日(木)


白峯神宮の七夕祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

白峯神宮。
御存知、「日本国の大魔縁」となったことで知られる崇徳天皇を祀る神社です。
保元の乱に敗れ、讃岐国へ流罪とされ、都を呪いながら死んでいった、崇徳帝。
「皇を取って民とし、民を皇となさん」と血で書きつけたその呪いのパワーこそが、
鎌倉以降長らく日本を武士の国にしてしまったと考えたのは、大政奉還を控えた維新政府。
「この呪い、何とかしとかないと、マジヤバし」と考えたのか、実に明治改元の2日前、
讃岐国より京都へ帰還した崇徳帝の御霊は、この白峯神宮へ遷霊されたのでした。
しかし、この神社が祀ってるのは恐怖の大魔縁だけではありません。
境内には多くの摂社がありますが、中でも東側で大きな存在感を放ってるのが、精大明神。
この土地は元々、蹴鞠の宗家・飛鳥井家の邸宅跡。で、精大明神はその飛鳥井家の祖先神。
ゆえにこの神様、蹴鞠はもちろん、サッカーは初めとした球技各種の上達に効能があると言われ、
プロアマ問わずたくさんのスポーツ関係者から篤い信仰を集めてます。
白峯神宮の七夕祭は、崇徳帝ではなくこの精大明神のお祭り。精大明神例祭。
蹴鞠はもちろん、舞楽や、かつて七夕踊りとも呼ばれたという「小町をどり」なども奉納されます。
あいにくの雨ですが、舞殿での蹴鞠というのもそう見れるものではありません。

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夏越祓の茅の輪をくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。(後編)

2011年6月30日(木)


市バスの一日券を使った、でも結局歩きまくってる夏越祓の茅の輪くぐりまくり、前編の続きです。

全くどうでもいい話ですが、私、バスが苦手なんですよね。
どこの街のバスも苦手なんですが、京都のバスは特に苦手です。
府民ではあるものの相当長く利用し続けてるはずですが、未だに系統さえ覚えられません。
何より車内の空気が、ダメなんですよね。あの、モワ~っとした空気というか、ノリというか。
一言で言うなら、しんきくさい。 「遅延にイラつく」 といった話ではなく、空気そのものが、しんきくさい。
このしんきくさい空気、バスのみならず、地下鉄にも漂ってることがあります。
特に、市営地下鉄の今出川以北。何故か列車の中の雰囲気がバス的になり、すごくしんきくさい。
「鉄道の生理」が欠落してるというか、鉄道の基準で人間が動いてない感じが、苦手なんですよ。
私は京阪の駅前に生まれ、列車が大鉄橋を渡る音を聞いて育ったような人間なので、
京都市中心部に漂うこの「非鉄」なノリに、いつまで経ってもなじめません。
明治以前に街が出来上がってた多くの都市と同様、
京都も大きな鉄道 = JR・京阪・近鉄・阪急などは市街地中心部を避けて建設されてますが、
阪急が市街地ど真ん中の四条通り地下へ乗り入れる昭和中頃までその状態が続いたために、
京都の「非鉄」はある意味、純粋培養されてしまったのでしょうか。
と、全く無関係な話を全く無意味に終えたところで、夏越祓の茅の輪めぐり、後編であります。
後編は灼熱のラッシュ、ひたすら数ばっかりこなしていく様を、ご覧下さい。

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夏越祓の茅の輪をくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。(前編)

2011年6月30日(木)


夏越祓の茅の輪をくぐりまくってきました。もちろん、ひとりで。

夏越祓。なごしのはらい。6月の晦日に行われる、お祓いです。
正月からの半年間でこびりついた身の穢れを、多くの神社で設置された茅の輪をくぐることで祓い、
疫病の脅威と暑さそのものが本格化する厳しい夏を乗り切ろうという慣わしであります。
元々は701年の大宝律令によって定められた「大祓」という国家的な除災行事だったそうで、
かつては朱雀門前に百官以下天下万民が集まり、国民全ての犯した罪や穢れを祓ったんだとか。
しかし現在ではもちろんそんな大層なことは行われず、
むしろ茅の輪目当てにあちこちの小さい神社を訪問する楽しみが味わえる日となってます。
で、私、この日が暇だったので、穢れに穢れた身を清めようと、市内各社の輪をめぐってみました。
行ってみたかった神社が数社と、あとは適当にその場の気分で足が向いたお社と。
市バスの一日乗車券を買って、でも五十日ゆえか混雑しまくりなので結局大半は歩いたりして、
「みなづきのなごしのはらいするひとはちとせのいのちのぶというなり」と言いまくりました。
あ、これ、茅の輪をくぐる時の呪文です。意味ですか。さあ、何なんでしょうね。
おおむねどこの神社も、人はまばらか無人なので、客層リサーチや気まづさ度チェックは省略。
ひたすら輪をくぐり続ける様、ごらん下さい。

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伏見稲荷の田植祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月10日(金)

田植する早乙女と老人カメラマン
伏見稲荷の田植祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

稲を荷うと書いて、イナリ。稲荷はあくまで、農耕神であります。
「ウソをつけ」と言いたくなるくらい、伏見稲荷の「お塚」にはあらゆる効能を誇るお社が密集し、
神々のラッシュアワー、あるいは神徳のワンストップサービスとでもいうべき状態を呈してますが、
しかし稲荷はあくまで、農耕神であります。だからこそ、これだけ幅広い欲望を集めるのであります。
なぜ集まるかといえば、それはおそらく、我々日本人が農耕民族だからでしょう。
自然にひれ伏すだけでなく、コントロールして収穫を得るという、テクノロジーの萌芽としての稲作。
その第一歩である 「苗を植える」 という小さな行為に、
産業・商売問わず、豊穣を生むあらゆるものの始まりをごく自然に連想できる、我々の感性。
どっかのわけのわからん映画で、猿が天へ向けて投げた骨が宇宙船に化けたように、
田に植えられた1本の苗は我々の魂の中で、スカイツリーにまで真っ直ぐ繋がっているのです。
神前に供する米を収穫する神田に、豊作祈願をしながら苗を植える、伏見稲荷の田植祭。
現代人の目には「のどか」に見え、その見た目に惹かれカメラマンや見物客が集まる神事ですが、
その混雑で「のどか」さがかき消されてる現実が表すように、ここに真に満ちているのは、欲望。
「食いたいものを、食いたいときに、食いたいだけ、食いたい」。
「やりたいことを、やりたい時に、やりたいだけ、やりたい」。
「撮りたいものを、撮りたい時に、撮りたいだけ、撮りたい」。
そんな欲望のカオスなのです。本当かと訊かれたらウソですが、とにかく稲荷なのです。

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修学旅行生だらけの清水寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月5日(日)


修学旅行生だらけの清水寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

 世界遺産に登録されている清水寺(京都市東山区)で、江戸初期に再建された国宝・本堂の「清水の舞台」を支える柱78本のうち12本にシロアリ被害などが発生していることが7日、わかった。
 同寺は現在、本堂を含む建造物9棟の「平成の大修復」を行っており、その過程で判明した。倒壊の危険はないが、東日本大震災などを踏まえ、柱の補強など修復計画の変更も検討している。
 清水寺によると、異変がわかったのは平成21年秋。寛永10(1633)年の本堂再建以来、380年近くにわたって本堂と舞台を支え続けてきた直径60センチ以上の欅(けやき)の柱12本がシロアリや湿気の被害で腐食したり、大人の腕が入るほどの空洞が開いていたりする可能性が目視調査などで指摘された。(産経新聞より)

2011年6月7日にこんなニュースが出た、清水寺。
その2日前の6月5日、シロアリにやられてるという舞台はいつもと同様、人間でいっぱいでした。
誰も穴が開いてるなんて知らないわけですから当然ですが、それにしてもそれにしてもであります。
時折りしも、修学旅行シーズン。6月は、特に中学生が多いそうです。
で、中学生は清水寺へやってくると、舞台の欄干に登りたがる習性を持つそうです。
シロアリニュースを聞いたあとで見ると、何とも感慨深いビジュアルの数々、
長ったらしい文章を書くのが何かもう面倒なので、写真のみで淡々と見届けていただきましょう。

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貴船・ひろ文で、川床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2011年6月3日(金)

そうめんフロアから見た貴船川
貴船・ひろ文で、川床料理を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

川床って、もともとは涼を取るためのもんだったんですよ。
だって、京都の夏は暑いから。暑さから逃れるために、川に床を敷いたんですよ、昔の人は。
あ、御存知ですか。で、今もそうだろって。そんなわけないでしょ。今はクーラーがあるんだから。
風というより熱気がまとわり付いてくる夏の京都の川べり vs クーラーが効いた部屋。
どっちが涼しいと思いますか。幻想や痩せ我慢を取り去れば、答えは明らかです。
というわけで、現代の川床は実際的な納涼から開放され、風情こそを楽しむものとなりました。
おかげで、営業形態は年々多様化。期間も夏に限定されず、果てしなく長期化。
明らかに寒いと思える5月も営業し、むしろその寒さを利用して真夏では不可能な昼床が増殖中。
何でもありであります。
が、何でもありだからこそ、貧乏で孤独な我々が川床を楽しむチャンスも生まれるわけであります。
今回訪れたひろ文は、市内中心部より気温が数度低い、京都の奥座敷・貴船の料理旅館。
1200円で川床気分が味わえる流しそうめんで有名な店ですが、
6月いっぱいまでは3500円の清涼膳なる平日限定昼メニューを設定。で、それを食いにいった、と。
あ、為念で言っときますが、貴船の川床は「かわゆか」ではなく「かわどこ」です。
「かわゆか」は鴨川みたいな川沿いの床、貴船は川を覆う床ゆえ「かわどこ」だそうです。

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下御霊神社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年5月22日(日)

烏丸通を渡る御鳳簾
下御霊神社の還幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

下御霊神社。
京都御所の南東にあり、名前の通り御霊 = 怨霊を祀る神社です。
祭神は早良天皇を始め、この世に未練を残して非業の死を遂げた貴人の霊ばかり、八柱。
パッと見は、地元の人が梨木神社と同じ水源という名水を汲みに来る渋い神社ですが、
本当は極めてやんごとなき、そして恐るべきルーツを持つ社なのであります。
平安前期・貞観年間、都の人々は、都市化により熾烈を極めるようになった疫病に直面。
貴賎問わず襲い掛かるこの災厄を、人々は御霊によるものと考え、貴人の霊を慰める御霊会を開催。
怨念の直接的なターゲットであるため、ある意味民衆以上に怨霊にビビリまくっていた朝廷は、
この動きに呼応する形で神泉苑にてオフィシャルな御霊会を開催&年中行事化。
有名な祇園祭のルーツの話ですが、下御霊神社も同経緯で創始されたと考えられています。
例祭には、今宮のやすらい祭と同じく、いにしえの御霊会のテイストが色濃く残存。
神幸列のプレ祇園祭な剣鉾や山車が、平安期の祇園祭をイメージさせることも、多大です。
また興味深いのが、この神社の氏子区域。もともと上御霊神社と共に皇居の御産土神であり、
多くの御殿や公爵の邸宅が並んでたというこのエリアは、現在はバリバリの都心。
高層ビルと、昔のままの町家が入り混じる、京都ならではのオフィス街になってます。
そこを、平安装束の神職たちが鳳簾を押して歩く、シュールともいえる光景が展開されるのです。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (2)

2011年5月15日(日)

賀茂川堤の斎王代列
葵祭・路頭の儀のフル追尾、続きです。

京都の人にとって、葵祭は「それほどでもない」んだそうです。
『京都大不満』 という本に、そう書いてありました。曰く、三大祭の中では「それほどでもない」。
祇園祭は愛着度が高い、と。誰が見てもわかります。で、時代祭は全然だ、と。これもわかります。
が、葵祭の「それほどでもない」という感じは、ちょっと微妙なニュアンスの世界かも知れません。
しかし、私にはわかる気がします。一応、勅祭が行われる八幡の民としては、わかる気がします。
勅祭って基本、じっと見るしかしょうがないんですよね。
ほとんど無形無実とはいえ皇族が関わる祭ですから、平民はおいそれと参加できないわけです。
その割には学生バイトが動員されまくってるし、ボランティアの方も多く関わってるんでしょうが、
自分達で作る自分達の自主的な祭というのとは、何かが決定的に違う。
今でも「お上の祭」なわけです。当の「お上」が御所にいなくなっても、「お上の祭」なわけです。
神が街を巡幸することはなく、あるのはコスプレ行列のみ。それらをただ、見る。じっと、見る。
牛車を、風流傘を、知らん間に知らん所で決定される斎王代などを、つくづくと見る。
「見る」側の優位性がとかく強調され、無能ゆえの万能感を膨張しやすい現代において、
葵祭は、見ることしか出来ない平民の無力さを改めて教える儀礼なのかもしれません(大層な)。
5月のよく晴れた都大路を、コスプレ追いかけて走りまわる、そのみっともなさ。
もちろん現代の我々は、そのみっともなさをマゾヒスティックに享受する自由も持ってるわけですが。
社頭の儀を終えた下鴨神社からゴールの上賀茂神社までのパレード後半戦、
同志のあなたもマゾヒスティックに、無能に、追走してみますか。

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葵祭・路頭の儀を追尾してみました。もちろん、ひとりで。 (1)

2011年5月15日(日)

御所の斎王代
葵祭・路頭の儀をフルで追尾してみました。もちろん、ひとりで。

葵祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつです。
夏の祇園祭、秋の時代祭と並んで、春の京都の重要な観光資源でございます。
本名、賀茂祭。上賀茂神社と下鴨神社、両賀茂社の例祭であり、
私の地元の石清水祭・奈良の春日祭と共に、勅使が派遣される三大勅祭のひとつでもあります。
そもそも京に於いて「祭」といえばこの賀茂祭のみを指したくらい、その重要性は高く、歴史も長し。
平安遷都以前から「猪殺して乱闘しまくり」の喧嘩祭として、何度も禁制食らうほどの大盛り上がり。
遷都以降は賀茂社の王城鎮護指定を受け、勅祭化。また都の祭として、洗練化。
特に、御所から社までを天皇の使い・勅使とその行列が華麗な姿で行進する路頭の儀は、
雅な姿がさながらファッションショーの如き人気を呼び、見物人の場所取りで諍いが起こるほどに。
以後、応仁の乱でしばらく途絶したり、明治維新や第二次大戦などによる中断を挟みつつも、
そのたびに何とか復興、戦後は斎王代も導入し、一貫して京の「祭」であり続けてます。
流鏑馬神事・歩射神事・競馬会神事・御阿礼神事・そして御影祭などなど、
単体でも集客力のある神事が並ぶ葵祭ですが、一番の客寄せパンダはもちろん、この路頭の儀。
新緑眩しい都大路に華麗なる王朝絵巻を再現する、全長1キロもの日雇いバイトのコスプレ行列。
しかし着ている衣装は全部本物、下手すると着てる人間より高価だったりするので、あなどれません。
そんな路頭の儀、スタートの御所からゴールの上賀茂神社までは実に8kmに及びますが、
最初から最後まで、徒歩のみで追いかけてみました。何故って、暇だし・・・。

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大原女時代行列へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年5月7日(土)

大原女
大原女まつりの大原女時代行列へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

大原女と書いて、おはらめ。
隠棲の里・大原より、独特のスタイルで薪や農作物を京へ売りにやってくる女性達の通称です。
そのルーツは、壇の浦で我が子を抱いて入水するも死にきれず、寂光院に隠棲した建礼門院。
院に仕えた阿波内侍の作業着姿を、地元娘たちが真似。それが大原女の始祖と考えられてます。
鄙の中にも御所由来のセンスが光るその姿は、古くから歌に詠まれ、絵にも描かれ、
単なる行商としてのみならず、一種の雅な風物詩として長らく都の人から愛されたとか。
しかし大原女、実際は雅どころではない重労働です。大原から京都までの移動は、もちろん、徒歩。
バスなど、走ってません。そもそもバスが走れるような道さえ、最近までありませんでした
だからこそ行商に意味があったわけですが、交通が開けるとその意味が薄まり、大原女は減少。
今の大原女は、観光用ばっかり。で、それではいかんと奮い立ったのが、当の大原観光保勝会。
地元以外の若い女性にも大原女の衣装を着てもらおうと、「大原女まつり」なるイベントを企画。
大量の変身大原女を動員して、時代行列も開催。それに絡めて、フォトコンテストも開催。
「変わった格好したい」女と、「女を撮りまくりたい」男が集結するイベントとして、
人気を博するようになりました。
「それ、要するにコスプレ撮影会ですよね」と言われたら、全くその通りです。
ただ、カメコの平均年齢が普通の撮影会の3~4倍高いのが、大きな特徴であります。

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藤森神社の駆馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年5月5日(木)

疾走する駆馬とそれを止める男達
藤森神社の藤森祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

藤森神社。その筋の方には、競馬の神様として有名です。
京阪乗って淀の京都競馬場で勝負する前に、途中下車して必勝祈願、みたいな。
ファンのみならず、騎手や馬主など関係者の参拝も多いというから、筋金入りの馬神社であります。
ではこの社の祭神は馬かといえば、そうではありません。祭神は、神功皇后を始めとする十二柱。
新羅を攻略して凱旋した皇后が、戦旗と武器を納めたのが、この神社の始まりだそうです。
こんな勇ましい由来を持つわけですから、藤森神社は当然のように、武神。勝軍の神。
今も昔も「勝ち」を欲する人々から篤い崇敬を受け続けています。
勝負で直接メシを食う戦国大名たちはこの社の鳥居前を通る際には敬意を払って槍を下げ、
明治に入れば武運にあやかろうとしたのか陸軍第十六師団が隣の敷地へ駐屯し、
一応平和ということになってる現代では競馬の受験に勝利をもたらす神となってるのであります。
そんな藤森神社の大祭は、藤森祭。菖蒲の節句、すなわち端午の節句の開催です。
武神ゆえ菖蒲 = 勝負ということでこの日を選んでるのかどうかは知りませんが、
5月5日を男の子のお祭りの日として武者人形を飾るのは、この祭が発祥なんだとか。
早良親王が陸奥国の反乱鎮圧で出陣した様をなぞらえたという武者行列、
京都で最も優雅な神輿が何故か伏見稲荷あたりまで行ってしまう神輿巡幸、
そしてもちろん有名な駆馬神事と、実に男の子な行事が目白押しな祭なのであります。
そんな男の子の祭、男ひとりで行ってきました。

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城南宮の曲水の宴へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月29日(金)

曲水の宴
城南宮の曲水の宴へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曲水の宴。
それは平安時代の貴族の間で流行したという、優雅な歌遊び。
烏帽子に狩衣姿の公卿たちと小桂姿の女官たちが、庭園の遣水のほとりに座り、
御所伝来の羽觴なる盃台の酒が流れてくるまでに、出された歌題に沿った歌を詠みけり。
古代中国より伝わり、奈良から平安時代までは無病息災を願う三月上巳の宮中行事であそばされ、
のちには貴族の姫の雛飾りと重なって、3月3日の桃の節句へ発展したのもいとおかし。
そんな雅な宴が、白河上皇院政の地・鳥羽離宮跡地のど真ん中に立つ城南宮には、残ってます。
観光資産化不能で困るぐらい鳥羽離宮が跡形もなく消滅したがゆえに、城南宮の曲水の宴は、
平安の姿のまま現代に至るまでひっそりと動態保存されてきた・・・というわけではありません。
方除の神様として名高いこの神社が、
「昭和の小堀遠州」中根金作による「楽水苑」を造営したのは、昭和36年。
その中の「平安の庭」で行われる現在の曲水の宴は、もちろんそれ以降に再興された行事。
良く言えば新たなる歴史の継承、悪く言えばほとんど単なるコスプレショーですが、
わかりやすく「雅」を具現化したビジュアル、そしてこの日は庭の拝観料が無料になることもあって、
年々人気を高めてます。そんな雅な世界、行ってみました。

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松尾大社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。(2) 船渡御

2011年4月24日(日)

宗像社・神輿
松尾大社の神幸祭、続きです。

松尾の祭には、必ず雨が降るそうです。
それは、松尾の神様が水の神であることに由来するんだとか。
松尾大社の祭神は、松尾山を支配する神・大山昨神と、海上守護の神・中津島姫命の二柱。
海の無い京都に海の神さまが祀られてるのを不思議に思われるかも知れませんが、
松尾の目の前には、淀川を経て瀬戸内航路に直結する桂川が流れてます。
また、桂川上流である保津川を経由して、丹波から木材などの交易を行っていたことは有名です。
この地で水運、あるいは漁などで「水」に関わってた人たちは、多かったんでしょう。
松尾の氏子にとって、水と船は、今よりもはるかに大きな意味を持ってたんじゃないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれるのが、松尾祭・神幸祭の最大の見せ場である、船渡御。
文字通り、神輿を舟に乗せ桂川を渡ってしまうという、京都で唯一無二の勇壮な荒技です。
もっとも、さらに昔は舟さえ使わず肩で担いで川を渡りきったそうですが、
いずれにせよ人と水とのダイナミックな係わり合いが見れる神事です。
今日は朝から、日本晴れ。午前中は、暑いくらいの陽気でした。雨なんか降るんでしょうか。

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原谷苑へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月17日(日)

原谷苑の桜と提灯
原谷苑へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

原谷苑。
今、京都で一番有名な桜の「穴場」かも知れません。
金閣寺の北、大文字山の西、戦後に外地からの引揚者たちが農地として開拓した地・原谷。
以前は荒地のまま放置されてた土地だったそうですが、入植民は何とか生活できるよう、改善。
やがてインフラが整いアクセスも向上すると、今度は宅地開発で一気に人口が流入。
今では、普通の住宅地+少し山の香りが残る感じになってる郊外なエリアであります。
そんな原谷で、個人の方が自身の農園にて数十年に渡り桜を育成したのが、原谷苑。
その育ち方と量が尋常ではないと口コミで名が広がり、桜の開花期間のみ一般公開を開始。
「ガイドブックに載ってない名所」を求める人が大挙して押し寄せるようになったわけです。
話題になってるのは、桜そのものだけではありません。独特な入苑料設定と金額も、しかり。
御存知の方も多いでしょうが、ここ原谷苑は、その日の開花状況によって入苑料を決めます。
もちろん、桜の状態が良いほど、高し。で、値段のMAXは、実に1500円。
おまけなどの類は、何もありません。おみやげも、なし。純粋に入苑料だけで、1500円。
もはや清々しささえ感じるほどの、ブッちぎり加減なのであります。
が、実際の1500円の桜は、そのマッシブな値段設定を凌ぐブッちぎり加減だったのであります。

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龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)


龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

龍安寺の境内って、広いんですよね。地図で見ると、近所の仁和寺と同じくらい。
でも、あんまりそういう印象、ありません。イメージの中では、仁和寺よりずっと小さく思えます。
たぶん、龍安寺最大の売りであるあの石庭が、そう思わせてるんでしょうね。
不可解な配列で石が並んだ小さな空間が、見る物全てを禅の宇宙へ誘う、石庭。
馬鹿デカい建造物で圧倒するのとは真逆な、吸引型とでもいうべきインパクトを放つ、石庭。
加えて、その石庭をかかえる本堂も、小振り。その本堂への拝観券を売ってる山門もまた、小振り。
おまけに、チケット売るのは山門だけどモギるのは本堂前のため、
その間の池や、奥の方のよくわからん庭を、無料区域&前フリみたいに思いがちです。
しかしあの池は、龍安寺が徳大寺家山荘だった平安時代に作られた池泉舟遊式庭園で、
貴族が舟を浮かべ歌舞音曲を楽しみ、近世までは石庭よりずっと有名だったのであります。
奥の方のよくわからん庭も、歴史があるのかは知りませんが、とにかく桜が咲くのであります。
なので、桜の季節の龍安寺は、石庭以外にこそ注目するべきなのであります。
それなのに、やっぱりトップ画像は石庭なのであります。

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墨染寺へ墨染桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月13日(水)

桜と日蓮上人像①
墨染寺へ墨染桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

墨染寺。通称、桜寺。
伏見区の墨染にある、桜で有名なお寺です。「ぼくせんじ」も「すみぞめでら」も、どっちもアリ。
風変わりな地名ですが、これは墨染寺名物である墨染桜に由来します。
891年、かつて深草の里と呼ばれ鶉が鳴く野辺だったこの地に、
太政大臣・藤原基経が葬られ、それを悲しんだ平安歌人・上野峯雄が詠んだ歌が
「深草の野辺の桜の心あれば 今年ばかりは墨染に咲け」。
その歌を聞き、当時この辺に生えてた桜は一斉に薄墨色に咲いたとか。それが、墨染桜。
何故か秀吉はこのエピソードが大層お気に入りだったそうで、墨染の地を何度も訪問。
のみならず、元は貞観寺という寺だった土地を日秀上人に与え、墨染桜寺として再興。
で、現在に至るかといえばそうでもなく、一時は多くの塔頭を抱えるほどの大寺に化けた墨染寺、
徳川期になると一気に凋落、縮小に移転を重ね塔頭のひとつに納まったのが、今の姿。
うっかりすると見落とすような商店街の一角で、桜目当ての客をひっそりと待ち受けてます。
夕刻、もはや花びらが舞い散りまくるその小さな境内へ、行ってみました。

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