2012年7月28日(土)

狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
火渡り祭。読んで字の如く、火の中を渡る行事です。
タヌキの置物&自動車祈祷&ガン封じで知られる、一乗寺奥の狸谷山不動院にて、
護摩火をバンバカ焚きまくった後、その残り火の中を一般参拝者が裸足で歩く、火渡り。
何ゆえ夏の一番暑い時に、そんなデンジャラスな灼熱地獄を味わねばならんのかといえば、
無論、我々が穢れ切っているからであり、その穢れを聖なる炎で焼き尽くす必要があるからです。
この一ヶ月ほど前にあった夏越祓の茅の輪くぐりまくり記事でも、似たことを書いてますが、
タヌキゆえ手抜きでコピペしてるのではなく、こちらの火渡り祭もまた、夏越祓の一種。
八坂神社・疫神社や伏見・御幸宮神社の茅の輪、または下鴨神社の矢取り神事などと同じく、
旧暦のタイミングで穢れを祓い、夏を乗り切るための健全な心身を手に入れようというわけです。
一ヶ月しか経ってないのに、また祓うのか。茅の輪くぐりまくりでは、清め切れなかったのか。
そう問われると、「何も考えず興味本位で行ったんだよ~ん」 と、魂の真実を告げたくなりますが、
しかし、盛夏へ突入するにあたり、スピリチュアルな調整が必要なのもまた、確かなこと。
夏は、誰にとっても、我々独男にとってもなお、煩悩を刺激されやすいシーズンであります。
健全な人間が煩悩を刺激されたのなら、勝手に盛り上がって人口でも増やしとけという話ですが、
我々独男が下手に夏の煩悩を刺激されると、色々と厄介な事態が出来しがちであります。
個人の恥的にも、社会的にも、時に人道的にも、厄介な事態が出来しがちであります。
危険なのです。夏は、危険な季節なのです。なので、前もって穢れの始末をつけておきたい。
しっかりと、蓋をしてしまいたい。できることなら、完全に燃やし尽くしてしまいたい。
そんな思いに駆られ、一乗寺の坂を登ったというのはやはり大嘘ですが、
暑い季節の熱い行事、とにかく行ってきました。
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2012年7月18日(水)

高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
高良神社。
石清水八幡宮が鎮座する男山、その麓にある同宮の摂社です。
創建は、石清水とほぼ同時期。創建したのは、石清水を宇佐より勧請した、行教。
かつては、石清水祭の舞台となる頓宮や極楽寺などと共に、壮麗な山麓下院を構成し、
そのゴージャスさは、『徒然草』 に登場したかの仁和寺の法師でさえ、石清水本殿と間違えるほど。
「何事にも先達はあらまほしきもの」 という教訓を生んだ場所としても、名高い社であります。
時が幕末に至ると、鳥羽伏見の戦い+神仏分離の波乱で壊滅的なダメージを受け、
何をどう見ても石清水と間違えようのない小さな建物にはなりましたが、神社そのものは、存続。
皇族や武家などが御用達の、いわゆる 「お上の神さん」 である石清水八幡宮とは別に、
地元の住民たちを護る氏神として、現在もなお篤い崇敬を集め続けています。
太鼓まつりは、そんな高良神社で盛夏が始まる頃に行われる、例祭。
「男山の麓で、太鼓まつり」 と聞くと、ある種の性癖を持つ方は、ある種の連想をするのでしょう。
「褌一丁の男が荒々しいバチさばきを見せる」 みたいな。別方面の視線が熱い、みたいな。
しかし八幡の太鼓まつりは、そういった「太鼓の技を競う」 といったテイストの祭りではありません。
打ち鳴らすのは、いわゆる触れ太鼓のフレーズである 「ドンドンドドドン」 のみ。
この 「ドンドンドドドン」 を本当に延々と叩き続け、そのトランス的高揚で盛り上がる祭りです。
勅祭である石清水祭が 「お上の祭」 なら、こちらは正に地元の祭という感じでしょうか。
ゆえに、幼少の頃は確かにこの山麓下院で遊びまわっていたものの、
貧乏な移住者の子であった私には、正直今ひとつ馴染みがなかったりするんですが、
疎遠な母校の同窓会へ向うような気分で、とにかく行ってきました。
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2012年7月17日(火)

2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。
そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。
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2012年7月17日(火)

2012年の祇園祭・山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
山鉾巡行、2012年度の追尾録でございます。
千年前から超過密都市であるため、疫病が死に直結する時代が長く続いた、京都。
梅雨明け+盛夏初頭あたりは特に怖い季節であり、氾濫する疫病の元・疫神を何とか祓うべく、
華麗な山車で街中を巡行し、厄神を吸引してまわることこそが、そもそもの山鉾巡行の本義でした。
その巡行が、疫神を祓うどころか疫人たる観光客を大量に呼び込むショーと化した時期こそ、
疫病の恐怖が消え、産業と観光重視の思想が前面化した、昭和の高度経済成長期。
17日 「さきのまつり」 +24日 「あとのまつり」 の二週またぎ開催だった巡行が17日に一本化、
ルートも大幅に変更され、現在生きてる大半の人にとっての 「山鉾巡行」 の形が出来たわけです。
しかし、昭和終了からもそれなりの時間が経ち、経済成長の夢もまた跡形もなく消え去った今、
山鉾町や行政など祭に関わる人たちの関心は、旧儀の復活の方により向いてます。
「さきのまつり」+「あとのまつり」 の二週またぎ開催早期復活が、現実的に協議されるようになり、
2012年の今回は、実に140年も休み山だった大船鉾が、巡行に復帰することになりました。
全てが 「例年通り」 のようでいて、実は激しく形を変え続けている、山鉾巡行。
ひょっとすると現行の昭和フォーマットでの巡行は、逆にあと数年で見納めとなるかも知れません。
正午を過ぎてからの疲労よ、さらば。無残なまでにカラッポになる有料席よ、さらば。
そんな哀惜の念を抱きながら眺めたというのは大嘘ですが、とにかく2012年も追尾です。
朝7時の飾りつけから14時過ぎの解体まで、延々と追っかけてみました。
あまりに暑過ぎて記憶が曖昧なため、ほとんど写真の羅列のみで恐縮ですが、
現場の興奮と猛暑と疲労を感じていただければ、幸いです。
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2012年7月15日(日)

祇園祭の昼の宵々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
宵々山。すなわち、山鉾巡行の前々夜という意味です。
「15日の宵山」 が本来の呼び方だそうですが、すっかりこの呼称が定着してます。
最近は宵々々山という言葉も浸透し、私もふざけて 「宵々々々山」 などと書いたりしました。
しかし、そのうち 「宵々々々々々々々々々々々々山」 などという阿呆な言葉が本当に現れようとも、
「宵」 という文字が夜を表すことについては、どうにもこうにも曲解のしようがありません。
そう、そもそも山鉾町の散策は、夜に行うもの。何故なら、昼は暑いから。死ぬほど、暑いから。
しかし、宵々々山あたりからの山鉾町は、昼でも多くの観光客で賑わうようになります。
まだ山のいくつかが建ってもいない宵々々々山の頃だと、まだ地元の人が多い感じですが、
交通規制や露店が始まる宵々山あたりからは、混雑は夜顔負けのレベルに達してしまいます。
頭の上からは、直射日光。足元からは、輻射熱。そして周囲は、木材と人肉だらけ。
それでも、来る人がいるのです。それも沢山、いるのです。死を覚悟しているとしか思えないのです。
幻想と疲労の間から生まれた、観光ハイとは違うヘビーで殺伐とした空気を放ちながら、
超狭い山鉾町の中を徘徊し続ける人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人。
人間の業が露になるという点では、それはそれで興味深いものがあるかも知れませんが、
地元あるいは近隣の住民ならあまり近づきたくない、そんな恐るべき昼の宵々山。
しかし、超メジャースポットの単独特攻が趣旨のうちとしては、逃げるわけにはいきません。
単独特攻のみならず、山鉾全てを網羅するというどうでもいいミッションも己へ課し、
炎天下と超人圧の中、熱中症の恐怖を背中に感じながら徘徊してみました。
疲労が過ぎて、細かいことを記憶する脳の余裕がなかったため、長ったらしい文章は、カット。
写真の単なる羅列から、現場の異様な空気を感じて下さい。
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2012年7月12日(木)

祇園祭の山鉾曳初めへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「あなたも山鉾巡行の曳き手になってみませんか」 。
春を過ぎると、こんな曳き手ボランティア募集広告を、街角でよく見かけます。
私の住んでる八幡にはありませんが、京都市内なら誰もががちょくちょく目にするでしょう。
何故か古い感じのアパートが多い所で出くわすことが多い気がするんですが、それはともかく、
山鉾を曳く機会というのは、男限定ではあるものの、案外簡単に得ることができるわけです。
あれを見るたび、足を止めてしばし眺め、 「やってみようかな」 とか思ったりします。
「中に入らないと、わからないことも多いだろう。やってみようかな」 とか思ったりします。
でも、当日に休みが取れるかどうか、わからん。それに、どう考えても体力的に、ハード過ぎる。
見てるだけの見物客からでさえ、熱中症で病院送りになる奴が毎年現れる、山鉾巡行。
日差しからの逃げ場がない道の真ん中で、あんなデカいもん引っ張るなんて、ちょっと、ありえん。
こんな感じで、毎年、尻込みしています。似たようなヘタレ野郎の方、多いんじゃないでしょうか。
しかし、死ぬ思いで曳き手ボランティアをせずとも、山鉾を曳くチャンスは、ないことはありません。
山鉾が組み上げられ、正常に運行が可能かどうかを試す行事 「曳初め」 が、それです。
文字通りの試験走行である曳初めは、その場にいる見物客を曳き手に大量登用。
予約も申込も必要なく、その場に居合わせ列に並べば、老若男女誰でも鉾が曳ける、と。
観光客が少なく交通整理も甘い街中を、大勢の地元民に曳かれて進む山鉾の姿は、
写真などで見る昔の巡行のイメージと妙に重なり、いい味があったりもします。
そんな曳初め、ヘタレの私もこっそり混じってきました。
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2012年6月30日(土)

夏越祓の茅の輪をまたくぐりまくりました。もちろん、ひとりで。
私は、穢れている。どうしようもなく、穢れている。
いい歳こいた、独男。そのことだけで既に、臭気が漏れるほど、穢れている。
おまけに、肉体はあらぬことで日々悦びの声を上げ、魂は無力感に溺れて無為に腐り続け、
さらにはその腐り切った魂を、ネットを通じて無関係である他者へ伝染させてやろうなどと目論み、
自意識の臭気を汁にして飲ませるような、無駄に暑苦しいサイトを、日々作り続けている。
私は、穢れている。どうしようもなく、穢れている。果てしなく、穢れている。
祓わなくては、いけない。それも、なるべくたくさんのお社で、祓わなくては、いけない。
というわけで、2012年度上半期もやってしまいました。夏越祓の茅の輪、くぐりまくりであります。
正月から六月末までの半年間に溜まった穢れを、茅の輪をくぐることで祓う、夏越祓。
前回2011年度は、それなりに茅の輪が知られる神社をバスで回り、数をこなしたわけですが、
今回は穢れの影響か懐具合が非常によろしくなく、500円の市バス一日券を買う金さえ惜しいので、
スタートの東福寺から、ラストの檪谷七野神社まで、全行程、徒歩を貫いてみました。
徒歩貫徹といっても、特にハードな意思に基づくわけではなく、基本、ウロウロと街中をうろつくのみ。
適当に目がついた神社へ立ち寄り、茅の輪があればくぐるという、街ブラモード全開路線。
そんなユルユルな姿勢で、穢れ切った肉体と魂が祓われるかどうかは知りませんが、
祓われ過ぎると自分そのものが消滅するので、適度に加減した次第です。
立ち寄った神社全てと、茅の輪の有無を記したので、参考にする方は、参考にしてください。
それでは半期に一度のスピリチュアル・デトックス or 存在の膿の大棚ざらえ、
生憎の雨&曇天ですが、行ってみましょう。
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2012年6月5日(火)

宇治の縣祭りへ行って来ました。もちろん、ひとりで。
「暗闇の中で、見知らぬ男女が乱交を繰り広げる、奇祭」 。
「日本の奇祭」 的な企画が雑誌やネットである度、こんなアオリで名が挙がるのが、
茶処・宇治にて新茶の季節に開かれる、縣 (あがた) 祭り、通称 「くらやみ祭り」 であります。
平等院の鎮守だった縣神社の例祭が、江戸中期の信徒圏拡大と共に膨大な客を集めるようになり、
宇治神社御旅所から行われる男根ライクな梵天渡御、祭神・木花開耶姫の安産&良縁の霊験、
そしてその両神が 「逢引」 してるかのように見えることなどもあって、祭は、何というか、無法地帯化。
無料開放された真夜中の周辺民家で、男女が文字通りの何でもありとなるこの至福の祝祭は、
「暗闇の奇祭」 「くらやみ祭り」 の名で愛され、明治維新以降も、さらには昭和以降も、継続しました。
しかし、戦後社会でそんな祭が許されるわけもなく、高度成長期あたりから乱交は、後景化。
現在では、近隣DQNこそ多く集結するものの、路上で見境無く交尾るということも特になく、
威勢の良い梵天渡御&大量の屋台がメインの、健康優良&地元密着路線の祭りとなってます。
が、縣祭りが 「奇祭」 の名に全く相応しくなくなったかといえば、案外そうでもありません。
21世紀に入り、それまで梵天渡御を担ってきた奉賛会側と、縣神社側が、決裂。
昔から両者の関係は 「神」 をめぐって裁判さえ発生するほどややこしいものだったようですが、
2003年に奉賛会が梵天を縣神社へ還す神事をすっ飛ばしたことで、対立が一気に悪化。
「神の拉致だ」 とブチ切れた縣神社側が、独自に梵天を製作&渡御を始めたため、
現在の縣祭りは、まるで 「本家」 と 「元祖」 のように、二つの梵天が存在することとなりました。
信仰が根強く息づくゆえの事態とも言えますが、根強過ぎるとも言える、ややこしき事態。
かつてとは別の意味で 「奇祭」 化しつつある、そんな縣祭りの今の姿を、
近隣ゆえ終電お構いなし、DQNまみれの中で見てきました。
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2012年5月27日(日)

嵯峨祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
嵯峨祭。言うまでもなく、嵯峨の祭です。
極めてまんまな名の通り、その時々の嵯峨の状況をヴィヴィッドに反映し、
度々姿を変えながらも、現代まで脈々と受け継がれている、洛西の春祭であります。
嵯峨天皇による離宮造営以来、風光明媚の遊興地として多くの貴人たちに愛された、嵯峨野。
しかし、離宮の後身である大覚寺が京における南朝の拠点となった南北朝時代以降は、
皇族や武士や坊主たちが、この美しき地で金と武力と宗派を巡るパワーゲームを、大々的に展開。
大覚寺。その大覚寺をどうにかしたい、室町幕府。その幕府によってブッ建てられた、天龍寺。
その天龍寺の金満ぶりに焦った大覚寺が、財政基盤確立のため掌中に収めようとした、清涼寺。
その清涼寺と浅からぬ縁を持つゆえ、大覚寺がついでにゲットしようと目論んだ、愛宕神社。
そして、斎宮の潔斎所としての存在感をなくし、身の振りように困ってた野宮神社。
これらプレイヤーたちの思惑が絡みに絡み、その結果をヴィヴィッドに反映した嵯峨祭は、
小さな村祭から、愛宕神社&野宮神社のダブル神輿が巡幸する大掛かりなものへと、変貌しました。
さらに、プレイヤー間のパワーバランスが変わるごとに、祭の内容・性質・主催者まで、変化。
かなり、ややこしい祭なのです。そして、そこが極めて面白いとも言える祭なのです。
状況のヴィヴィッドな反映は現代も続いており、住宅地化による人口増+若者の伝統回帰で、
嵯峨祭を考察した数少ない書である古川修氏の 『嵯峨祭の歩み』 によると、
現在嵯峨祭は参加人数が増えまくり、その勢いは 「最盛期に近づいている」 んだとか。
鉾差しなど生きた文化財を体現する祭衆、増幅し続け未定型の混雑に対応し切れてない警備、
そしてそんな盛り上がりに舌打ちする無関心な住民が入り乱れる、嵯峨の祭・嵯峨祭。
常に動態、そして現在進行形であり続ける伝統の姿、ご堪能ください。
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2012年5月20日(日)

車折神社の三船祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
嵐山には、昭和の匂いが残っている。
時にそんなことを、私は感じます。率直に言えば、何かちょっと古いなと。
メジャーな観光地として、ソフト面もハード面もそれなりに更新は行われてるわけですが、
小手先のバージョンアップでは左右されない、土地固有のレベルで昭和感が残存してるというか。
貴族の遊興地としての歴史を持つと共に、丹波との水運の要所でもあり続けた嵐山が、
完全に庶民相手の観光オンリーで食っていくと腹を決めたのは、案外最近なのかも知れません。
それこそ、昭和の頃とか。なので、昭和テイストが何となく残ってるのかな、みたいな。
毎年秋に行われる 「嵐山もみじ祭」 の、40年ほどタイムスリップしたような昭和全開ぶりや、
バブルの頃に林立したタレントショップの唯一の生き残りが美空ひばり記念館だったことを思うと、
どうでもいい印象や思いつきに妙な確信を感じたりするんですが、あなたどう思いますか。
「もみじ祭」 とは逆に、春、五月第三日曜に開催される車折神社の例祭延長神事・三船祭もまた、
そんな 「昭和の観光」 の残り香のようなものを、ちょっとだけ感じさせてくれる神事です。
近年パワスポとして益々名が高い車折神社の御神霊を、新緑眩しい嵐山へ運び、
王朝絵巻さながら水上にて多種多様の芸能を奉納するという、嵯峨ならではの雅な祭。
しかし、始まったのが昭和初期のためか、どちらかといえば近過去寄りの観光モード感が漂い、
どちらかといえば中高年以上の世代が喜ぶコンテンツに満ちたイベントだったりします。
優雅と言えば、極めて優雅。かったるいと言えば、残念ながら、かなりかったるい。
そんな三船祭、混雑で日和気味ながら、行ってきました。昭和生まれの平安、ご堪能下さい。
あ、一応言っときますが、三船祭、三船敏郎とは何も関係ありません。
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2012年5月12日(土)

下鴨神社の御蔭祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
毎年更新される、神。
と書くと、まるで神をカードか賃貸契約呼ばわりしてるみたいで恐縮ですが、
京都を名実共に代表する神社であり、三大祭の一つ・葵祭を行う上賀茂神社と下鴨神社は、
実際に毎年5月12日、その葵祭が開催される正に直前、「神の更新」 のようなことを行ってます。
その名を、上賀茂神社は、御阿礼 (ミアレ) 神事。下鴨神社は、御蔭 (ミカゲ) 祭。
「御生」 「御荒」 「御顕」 「産霊」 などなど、様々な字で 「ミアレ」 と表現されるこの神事は、
神地に新たに顕れた荒御魂を、本宮の和御魂と合体させ、霊力をより若々しきものにするもの。
正に、アップデートです。そう呼ぶと、何か神罰が下りそうですが、でも、アップデートです。
現在は学生バイト大量動員の平安コスプレパレードで知られる葵祭・路頭の儀も、
そもそもはこの更新された神に挨拶すべく、朝廷が勅使を派遣してるだけだったりします。
本当は、葵祭よりも重要な神事なのかも知れないのです。というか、多分、そうです。
二千年もの歴史を持つとも言われるこの更新、旧儀が途絶したり、名称が変わったりはしてますが、
生まれたてホヤホヤの神を扱うがゆえのスピリチュアルなテイストは、今なお猛烈に、健在。
特に下鴨神社の御蔭祭は、普段は元官営神社ならではの気高さを誇る同社が、
この日は一転してアーシーなまでのネイティブ感を全開にし、かつての神領域を巡行。
観光客&カメが喜ぶ平安装束のみならず、バス使用も辞さず祖社を回り、歓迎されるその様は、
賀茂の地に根づく信仰の深さと豊かさを、リアルなものとして感じさせてくれるはずです。
そんな御蔭祭、途中からではありますが、ちょっとしつこく追っかけてみました。
妙にバスの写真が多いですが、それこそリアルとご理解下さいませ。
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2012年5月5日(土)

石清水八幡宮の石清水灯燎華へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
石清水八幡宮と 「灯り」 は、様々な縁を持っています。
中世において油の独占的販売権を握り、その名と財力を轟かせた大山崎油座は、
そもそもは淀川を挟んで鎮座する石清水八幡宮に、灯油を納めるのを本務とした神人でした。
「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
また時代を下ると、かの発明王エジソンは電球開発の際にフィラメントの寿命で苦心、
世界中の竹を試した末、石清水八幡宮の竹が最適であることを発見、実用化にこぎつけました。
これも 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
さらに言うと、二股ソケットで日本中の家庭の電灯を消さずに済ませた松下幸之助は、
熱烈な石清水八幡宮崇敬者であり、初期松下の商標 「M矢」 は八幡御神矢がモチーフになってます。
これまた 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
こんな感じで、どことなく希薄感は漂うものの、それなりに縁がある八幡と 「灯り」 。
その縁をより深きものにしようと、GWの夜に重文・本殿を始めとして境内一円をライトアップ、
期間限定の神札などパワスポ商品も用意して、観光客との縁もついでに深めてしまおうというのが、
石清水八幡宮、春の最大集客イベントである、石清水灯燎華でございます。
灯燎華の期間は3日間。しかし、私は地元民ゆえ二夜出かけ、見所を拾いまくってみました。
荘厳なビジュアルから、妙味溢れるアイテムまで、夜の 「八幡さん」 、たっぷりとご堪能ください。
あ、ちなみにTOP画像は、エジソン記念碑のフィラメント型ライトアップです。
ドクロベエでは、ありません。ウォーズマンでも、ありません。
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2012年5月3日(木)

神泉苑へ大念仏狂言と静御前の舞を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
神泉苑。
現在は太いうどんが売りである平八の庭みたいな存在感を放ってますが、
元々は平安京造営と同時に作られた禁苑であり、京都で最も古い史跡のひとつであります。
平安初期には多くの天皇が行幸、池に舟を浮かべ管弦の宴などが開かれたそうですが、
かの空海が西寺僧と祈雨バトルを繰り広げてからは、徐々に祈雨修法の道場化。
空海がバトルの切り札としてチベットから呼んだ助っ人外神・善女竜王を池のほとりに祀り、
多くの真言密教僧たちが 「雨ふれ、雨ふれ」 と、様々な修法を繰り広げました。
のちには義経の愛妾となる静御前も祈雨の舞を奉納するなど、賑わいを見せた神泉苑でしたが、
結局、平安時代が終わると衰退を始め、時を重ねるごとに果てしなく、荒廃。
江戸期には二条城に土地と水もブン盗られますが、遷都以前から残る池だけは何とか守り、
平安時代のリアルな残り香のようなものを、平八と共に現代まで伝えてくれています。
そんな神泉苑で、毎年5月3日を中心として開催されるのが、神泉苑祭。
善女竜王社前で行われる、祈雨道場時代のような大般若経六百巻転読祈願法要をコアとして、
子供みこし、稚児お練、雅楽や太鼓の奉納など、様々な催しが目白押しなんですが、
目玉は何といっても、京都無形民俗文化財である神泉苑大念仏狂言、そして静御前の舞。
前者は、壬生狂言の流れを汲む無言劇であり、この祭の期間中だけ執行されるもの。
後者は、義経を魅了した祈雨の舞を、現代に蘇らせるというものです。
GW真っ只中ですが、特に用事もないので、出かけてみました。
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2012年5月3日(木)

下鴨神社の流鏑馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
春の都大路に華麗なる平安行列を再現する、葵祭。
しかし、 「山城国風土記」 などに伝わる平安京成立以前の葵祭 = 賀茂祭は、
ほぼケンカ祭同然、DQNや輩な連中が大暴れする、かなりワイルドな祭だったようです。
欽明天皇の時代、凶作に苦しんだ賀茂氏と在地民は、賀茂別雷神の祟りを鎮めようと考えて、
鈴をつけた馬を4月吉日に走らせ、豊作を祈願したのが、賀茂祭のそもそもの始まり。
最初は極めてアーシーというか、オーソドックスに農耕テイストが漂う予祝祭だったわけです。
それが、単に馬を走らせてるだけではつまらなくなったのか、やがて笠懸などをおっ始め、
これに興奮した馬鹿どもが大暴れ、政府から何度も禁止令を食らうケンカ祭にまで成長しました。
正に、DQNであります。正に、輩であります。完全に、田舎祭りだったのであります。
そんな楽しく野蛮な賀茂祭が、その姿を大きく変えることになったのは、平安遷都前後の頃。
朝廷は賀茂氏の勢力取り込みを図るため、賀茂社を都の鬼門守護を担う社と位置づけ、
ローカルな祭だった賀茂祭を勅使の奉幣を受ける超メジャー級国家的祭祀に変貌させました。
以後、中断を挟みながらも、賀茂祭は 「雅」 モードで現代まで継承されているわけですが、
ワイルドな香りを残す神事もあり、それが前儀として行われる、流鏑馬神事です。
下鴨神社・糺の森の中、射手が猛スピードの馬で駆け抜けながら的を射抜くその姿は、
昭和48年の復刻とはいえ、原始の賀茂祭の息吹を伝えるものと言えるでしょう。
そんな流鏑馬、GW混雑のど真ん中ながら、のたくりこんできました。
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2012年4月18日(水)

知恩院のミッドナイト念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「今夜はオールで、念仏三昧」 。
末法テイスト溢れるそんなセリフを、現実に実行する催しが、春の京都にはあります。
といっても、妖しきクラブへ妖しき者たちが集い、妖しき飛び薬を吸ったり打ったりしながら、
「ブッダ・トランス」 とかわけのわからぬ音源を聴いて不穏な法悦に浸る類のものでは、ありません。
また、さらに妖しき者たちが、人もまばらな山中をパワースポットなどと称して参集し、
アセンションだの次元アゲアゲだの言いつつ、念仏と共に朝日を迎える類のものでも、ありません。
催しの名は、ミッドナイト念仏。行われる場所は、かの浄土宗総本山・知恩院。
そう、マジなのです。メジャー中のメジャーである寺にて、オールナイトで念仏が行われるのです。
真に末法の時代であった平安末期、旧来の仏教教団からの弾圧にも屈することなく、
南無阿弥陀仏を唱えるだけで救済される専修念仏を民衆に広く説いた、浄土宗開祖・法然上人。
上人が没した地・知恩院ではその遺徳を偲ぶべく、忌日に合わせ御忌大会を大々的に開催。
法要に加え様々な行事も行われ、ミッドナイト念仏もその一環というわけであります。
真面目な催しなのです。名前はほとんど面白半分な感じですが、真面目な催しなのです。
真剣に念仏を唱える人々と共に、興味本位&冷かし丸出しの若者や、酔っ払いなどが入り混じり、
全員でポクポクと木魚叩いて念仏トランスを目指す様は、奇観といえば、確かに奇観。
しかしその混沌こそ、無差別の救済を目指した上人の御心に沿うものとも言えるのでしょう。
そんな懐の大きいミッドナイト念仏、今回私はフルで参加してみることにしました。
20時のスタートから翌朝の終了まで、途中日和ってますが、ぶっ通しでポクポクしてきました。
闇の中の念仏で、何を見たのか。その果ての光の中で、何を見たのか。
真面目に、かつ興味本位&冷かし丸出しで、御覧下さい。
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2012年4月15日(日)

地主神社のえんむすび祈願さくら祭りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
地主神社。
「じぬしじんじゃ」 ではありません。地主を守護する神社でもありません。
正しい読みは、「じしゅじんじゃ」 。清水寺の舞台を出てすぐのところにある神社です。
現在はそれこそ清水寺のおまけみたいな存在感を放つ地主神社ですが、その歴史は極めて古し。
最初の本殿建造は701年とか言われてますが、境内の石は縄文時代から存在すると言われ、
京都がまだ湖の底だった頃から、何らかの信仰が根付いていた可能性がある社であります。
が、21世紀にここを訪れる人の大半にとって、そんなことは知ったことではありません。
こちら地主神社における最近の売りは、ずばり、縁結び。
それこそ間借りのような狭い境内には、「恋占いの石」 だの 「良縁大黒」 だのといった、
下司い野望を叶えてくれる、もとい、真っ直ぐな想いを受け止めてくれるアイテムが、すし詰め状態。
パワスポ商戦に乗っかるどころか先頭を切るように、多彩過ぎる良縁祈願お守りも発売し、
それら目当てに観光ハイ+恋愛ハイ+パワスポハイの女性たちが、日々群れ集うのであります。
「さくら祭り」 は、そんな地主神社の名物桜 「地主桜」 をフィーチャーしたお祭り。
かの嵯峨天皇も御車を返してまで愛で、謡曲や俳句にも数多く取り上げられた地主桜に、
何故か縁結びを祈願してしまうという、わかるようなわからんようなお祭りであります。
桜シーズン+日曜という悪条件に加え、神徳も超アウェーという悪状況ですが、
とりあえず不審者モード全開で侵入を果たしてきました。
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2012年4月13日(金)

六角堂の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
六角堂。正式名称、頂法寺。
下京の町衆が自治のために集った寺 = 町堂として知られる寺です。
秀吉の京都大改造&火事により、現在は中京区にある上京の町堂 = 革堂に対し、
六角堂は、聖徳太子の時代にまで遡るという創建時より 「京都のへそ」 たる中心部に位置。
平時は町組代表の集会所 or 生活文化の中核として、各種動乱の際には軍勢の集合場所として、
自治を死守するための勇ましくかったり物騒だったりする歴史が積み重ねられた寺であります。
他にも、かの親鸞が参籠して 「我成玉女身被犯」 「引導生極楽」などと観音様に言われ、
そのお告げが妻帯を肯定する浄土真宗誕生のきっかけになったことでも知られる、六角堂。
しかし現在は、何といっても華道家元・池坊の総本山としての顔が、有名でしょう。
境内北側にある池のほとりに住んでた坊さん = 通称 「池坊」 が、朝夕と本尊に生花を供え続け、
やってるうちにどんどん上手くなり、遂には家元になったという、池坊誕生伝説。
池坊にとっては、ここは正に、発祥の地。ゆえに、現代における六角堂存続も全面的にサポート。
サポートついでに寺の真横へビルを建て、景観的にはかなり奇妙な世界を生んでますが、
とにかく遷都でも応仁の乱でもほぼ不動の 「京都のへそ」 を、今も守り続けています。
そんな六角堂&池坊が最近になって始めたのが、春の夜の特別拝観。
名物である早咲きの枝垂桜・御幸桜と、その下に並んだやはり名物の十六羅漢像をコアに、
生花のディスプレイや池も含めて境内をライトアップ、幻想的に魅せる試みです。
街中に現れた、美しくて妙に妖しい夜の六角堂、お楽しみ下さい。
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2012年4月12日(木)

植藤造園の夜桜を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「桜守。なんと匂やかで優雅な職業名であろうか」
という書き出しで始まるのは、入江敦彦の 『京都人だけが知っている』 ですが、
テレビなどで見かける当の桜守・十六代佐野藤右衛門氏は、職業名が持つ優雅さとは真逆に、
コテコテな地の言葉、いわゆる京言葉ではない京都の地の言葉をしゃべりまくってます。
何というか、聞きようによっては柄の悪い大阪弁よりさらにダーティにも聞こえる、
「け」 の語尾の連発がわけのわからんアーシーな粘着力を感じさせる、京都の地の言葉。
私の実家は建築に噛んでた時期があり、その時期に見かけた職人さんたち、
いや、そのプロフェッショナリズムにより敬意を表すなら、むしろ 「おっさんら」 と呼ぶべき彼らが、
正にその 「地の言葉」 で話す人たちでした。「け」 の人たちだったわけです。
なので私には、佐野藤右衛門氏が単なる植木屋か土建屋のおっさんに見えたりします。
たけしのアート番組とかで 「映画の監督っちゅうのは・・・」 みたいなことを話してるのを見ると、
「おいおいおっさん、ええ加減にせえ」 と、思わず突っ込みたくなったりします。
実際には、たけしよりもはるかに偉い人かも知れないのに。
そんな (どんなだ) 佐野藤右衛門氏、春になると広沢池近くの自邸の桜を一般開放しています。
家業である造園業・植藤造園の、桜畑。桜守の桜、というわけです。
周囲はかなりな山の中ゆえ、夜は闇の中に桜が美しく映え、年々人気も上昇中。
私ももちろん夜桜を拝ませてもらうべく、乗り慣れない路線のバスに揺られ、
洛西は嵯峨野に近い広沢池へ向かったのでした。
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2012年4月12日(木)

京都市動物園へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都市動物園。
名前の通り、京都市の動物園です。京都市立の動物園です。
明治初頭、奠都による衰退を挽回するため、京都では博覧会を立て続けに開催。
都をどりを生んだ第一回京都博覧会や、時代祭発端の第4回内国勧業博覧会などが有名ですが、
そんな晴れ晴れしい博覧会にはいつも、禽獣会なるものが同時開催されてたんだとか。
禽獣、すなわち、孔雀などの鳥とケダモノ。それらを見世物にする、と。いわば動物園のルーツ、と。
京都市動物園は、その禽獣会をスケールアップさせるかのような形で、創立されました。
名目は、大正天皇の成婚記念。場所はもちろん、博覧会のメッカである岡崎。
金がとことんなかったのか、必要な建設資金は市税に加えて市民に寄付を募る形をとり、
明治36年、上野に次いで日本では2番目、市立としては日本初の動物園がオープンしたわけです。
以来100年以上に渡り、京都の子供たちへ様々な動物と触れ合う機会を提供し続け、
辺境に住む子供だった私なんかは小学校最初の遠足の行き先がここだったりしたんですが、
そんな本来業務の他にも京都市動物園には大きな魅力があって、それは、桜。
園内には創立時に植樹されたという数百本の桜が並び、これが案外、立派。
インクラインなど、近代の匂いがする名桜が多いこのエリアにもあっても、なかなかの見物。
場所柄、和みムードなのもあり、隠れた桜スポットして人気があったりします。
そんな京都市動物園の桜、動物と共に見てきました。
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2012年4月10日(火)

ふかくさ・藤森・桜並木ライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
桜といえば、軍です。軍といえば、桜です。
花と散り、闇に溶ける。このエロスとタナトスの魅惑に、県境も府境もありません。
「ソメイヨシノなんてどこでも同じように咲く桜、別に見とないわ」 というネイティブ京都人も、
「京都の桜は、山桜や枝垂桜。ソメイヨシノで喜ぶのは、素人」 とか言う知ったかぶりの素人も、
軍のオーラに加え、近代の残り香も濃厚に漂う地で鮮やかに咲くソメイヨシノを目にしたら、
きっと己の不明を恥じ入り、思わず腹のひとつでも切りたくなるというものでしょう。
かつて帝国陸軍第16師団が置かれ、京都近代化の象徴・琵琶湖疎水も流れる地、深草+藤森。
京都にあっては珍しく 「戦前の日本」 or 「戦争」 そのものの匂いが残るエリアです。
ちょっと目を凝らせば、至る所に 「皇紀」 や 「紀元」 や 「陸軍用地」 と刻まれた道標が残り、
「師団街道」 や 「第一軍道」 などというそのまんまな名前の道も、あちこちに現存。
そして、疏水沿いには春になるたびパッと咲いてパッと散るソメイヨシノが並ぶのであります。
2011年からこの疏水沿いで始まった 「ふかくさ・藤森・桜並木ライトアップ」 は、
近代のエロスとタナトスを体現するソメイヨシノを、闇の中でより妖しく輝かせることで、
ベタな死の誘惑を軽視+冷笑しスルーし続けてきた戦後日本の臆見を批判し、
その臆見により崩壊しつつある現代社会も批判するイベント、というのはもちろん、大嘘です。
軍都であったことも、疏水が流れることも本当ですが、イベントは基本、単なるイベント。
ただ知名度がまだまだのため、結構な穴場感が味わえるスポットになってます。
そんな深草・藤森の夜桜、軍の残り香と共に楽しんできました。
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