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2012年7月31日(火)

八坂神社・疫神社の夏越祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
祇園祭、いや元々の呼称だと祇園御霊会は、
街に蔓延する疫病の退散を目的として、平安前期に開始されました。
科学の無い時代の人口密集都市・京都にとって、疫病が流行り易い梅雨明けは、恐怖の季節。
死体が次々と生まれ、その死体がさらに死体を生むという魔のスパイラルを断ち切るため、
ほとんど疫神と紙一重の荒っぽい祇園神・素戔鳴尊 = 牛頭天王のパワーを借りて、
のちには山鉾なる超巨大悪神吸引機も造り、疫神を吸引したり追い出したりしてたわけです。
で、パワフルであると同時にリスキーでもある牛頭天王の扱いの際に援用されたのが、
牛頭天王に一夜の宿を供したことで惨禍から免れたという、蘇民将来の説話。
「俺、明日、南の海へ女を引っ掛けにいくねん。でも今日、もう遅いやろ。せやから、泊めて」 と、
アポなし宿泊を強引に頼んできた神を、貧しくも粟粥などで丁重にもてなした、蘇民将来。
金持ちのくせに神の宿泊を断った弟・巨旦将来に半ギレだった牛頭天王は、このもてなしに感動、
「お前とお前の身内だけ、助けたる」 と、目印になる茅の輪を蘇民将来に授け、
巨旦将来を始めとする他の村人、つまり茅の輪を持たない者を、ことごとくブチ殺しました。
茅の輪を持っていれば、助かる。蘇民将来の身内と名乗れば、助かる。
そんな信仰から、現在でも祇園祭では奉仕者が 「蘇民将来之子孫也」 の護符を身につけ、
茅の輪の変形にあたる食えないちまきが、お守りのように重宝されています。
7月31日、一ヶ月にも渡って様々な行事が行われてきた祇園祭のフィナーレを飾るのは、
この蘇民将来を祭神とする八坂神社摂社・疫神社の、夏越祭。
フィナーレと言っても、派手なイベントはありません。設置された茅の輪を、ただ、くぐるだけ。
しかし、レアな端緒が剥き出しになってると言える神事をもって祭を終了するその様に、
祇園祭が単なる観光イベントではないことを、改めて実感できるはずです。
そんな夏越祭、ふらっと寄ってきました。
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2012年7月28日(土)

狸谷山不動院の火渡り祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
火渡り祭。読んで字の如く、火の中を渡る行事です。
タヌキの置物&自動車祈祷&ガン封じで知られる、一乗寺奥の狸谷山不動院にて、
護摩火をバンバカ焚きまくった後、その残り火の中を一般参拝者が裸足で歩く、火渡り。
何ゆえ夏の一番暑い時に、そんなデンジャラスな灼熱地獄を味わねばならんのかといえば、
無論、我々が穢れ切っているからであり、その穢れを聖なる炎で焼き尽くす必要があるからです。
この一ヶ月ほど前にあった夏越祓の茅の輪くぐりまくり記事でも、似たことを書いてますが、
タヌキゆえ手抜きでコピペしてるのではなく、こちらの火渡り祭もまた、夏越祓の一種。
八坂神社・疫神社や伏見・御幸宮神社の茅の輪、または下鴨神社の矢取り神事などと同じく、
旧暦のタイミングで穢れを祓い、夏を乗り切るための健全な心身を手に入れようというわけです。
一ヶ月しか経ってないのに、また祓うのか。茅の輪くぐりまくりでは、清め切れなかったのか。
そう問われると、「何も考えず興味本位で行ったんだよ~ん」 と、魂の真実を告げたくなりますが、
しかし、盛夏へ突入するにあたり、スピリチュアルな調整が必要なのもまた、確かなこと。
夏は、誰にとっても、我々独男にとってもなお、煩悩を刺激されやすいシーズンであります。
健全な人間が煩悩を刺激されたのなら、勝手に盛り上がって人口でも増やしとけという話ですが、
我々独男が下手に夏の煩悩を刺激されると、色々と厄介な事態が出来しがちであります。
個人の恥的にも、社会的にも、時に人道的にも、厄介な事態が出来しがちであります。
危険なのです。夏は、危険な季節なのです。なので、前もって穢れの始末をつけておきたい。
しっかりと、蓋をしてしまいたい。できることなら、完全に燃やし尽くしてしまいたい。
そんな思いに駆られ、一乗寺の坂を登ったというのはやはり大嘘ですが、
暑い季節の熱い行事、とにかく行ってきました。
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2012年7月18日(水)

高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
高良神社。
石清水八幡宮が鎮座する男山、その麓にある同宮の摂社です。
創建は、石清水とほぼ同時期。創建したのは、石清水を宇佐より勧請した、行教。
かつては、石清水祭の舞台となる頓宮や極楽寺などと共に、壮麗な山麓下院を構成し、
そのゴージャスさは、『徒然草』 に登場したかの仁和寺の法師でさえ、石清水本殿と間違えるほど。
「何事にも先達はあらまほしきもの」 という教訓を生んだ場所としても、名高い社であります。
時が幕末に至ると、鳥羽伏見の戦い+神仏分離の波乱で壊滅的なダメージを受け、
何をどう見ても石清水と間違えようのない小さな建物にはなりましたが、神社そのものは、存続。
皇族や武家などが御用達の、いわゆる 「お上の神さん」 である石清水八幡宮とは別に、
地元の住民たちを護る氏神として、現在もなお篤い崇敬を集め続けています。
太鼓まつりは、そんな高良神社で盛夏が始まる頃に行われる、例祭。
「男山の麓で、太鼓まつり」 と聞くと、ある種の性癖を持つ方は、ある種の連想をするのでしょう。
「褌一丁の男が荒々しいバチさばきを見せる」 みたいな。別方面の視線が熱い、みたいな。
しかし八幡の太鼓まつりは、そういった「太鼓の技を競う」 といったテイストの祭りではありません。
打ち鳴らすのは、いわゆる触れ太鼓のフレーズである 「ドンドンドドドン」 のみ。
この 「ドンドンドドドン」 を本当に延々と叩き続け、そのトランス的高揚で盛り上がる祭りです。
勅祭である石清水祭が 「お上の祭」 なら、こちらは正に地元の祭という感じでしょうか。
ゆえに、幼少の頃は確かにこの山麓下院で遊びまわっていたものの、
貧乏な移住者の子であった私には、正直今ひとつ馴染みがなかったりするんですが、
疎遠な母校の同窓会へ向うような気分で、とにかく行ってきました。
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2012年7月17日(火)

2012年の山鉾巡行追尾録、前篇に続き後篇です。
そういえば、2012年巡行では、放下鉾の喧嘩騒ぎがありました。
当日から 「放下鉾 喧嘩」 で検索して飛んできた人がいたので、何のことかと思ってたら、
鉾の保存会と囃子方の保存会が揉め、巡行の途中で囃子方が鉾から降りてしまったんだとか。
実は私、放下鉾から囃子方が降りてる現場を、数10mほど離れた所から見てました。
新町御池あたりで止まったまま動かず、後続の山にどんどん追い抜かれていく、放下鉾。
のみならず、通常は激しい尿意を催しても降りることが許されないという山鉾から、人が降りている。
変だな、とは確かに思いました。でも、近くに寄って事態を確認しようとは思いませんでした。
何故なら、面倒くさかったから。何故面倒くさかったかといえば、暑かったから。
もうね、何時間も直射日光浴びながらウロウロしてるとね、数10mを動くのもイヤになるんですよ。
あと、御池通自体が、暑いし。道が広くて日陰がないので、逃げ場がなくて、暑いし。
目もね、かすんできますよ。いや、見えてるんだけど、画像の信号が脳に届かない状態というか。
耳も、きつい。聞こえてるけど、聞こえてない。世界が、遠い。ちょっとした、離人状態です。
それくらい、暑かったんですよ。あんまり暑いと、下衆な好奇心って、蒸発するもんなんですよ。
多分、喧嘩の理由も多分、暑かったからですよ。暑いと、腹立ってきますもんね、うん。
と、狂ったイントロと共に、河原町通北上から山鉾解体に至るまでの後篇、スタートであります。
モチベーションと体力がダダ下がりの中、灼熱のストリートを這いずり回る感覚を、
またしても文章超手抜き+単なる写真の羅列状態で味わってください。
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2012年6月5日(火)

宇治の縣祭りへ行って来ました。もちろん、ひとりで。
「暗闇の中で、見知らぬ男女が乱交を繰り広げる、奇祭」 。
「日本の奇祭」 的な企画が雑誌やネットである度、こんなアオリで名が挙がるのが、
茶処・宇治にて新茶の季節に開かれる、縣 (あがた) 祭り、通称 「くらやみ祭り」 であります。
平等院の鎮守だった縣神社の例祭が、江戸中期の信徒圏拡大と共に膨大な客を集めるようになり、
宇治神社御旅所から行われる男根ライクな梵天渡御、祭神・木花開耶姫の安産&良縁の霊験、
そしてその両神が 「逢引」 してるかのように見えることなどもあって、祭は、何というか、無法地帯化。
無料開放された真夜中の周辺民家で、男女が文字通りの何でもありとなるこの至福の祝祭は、
「暗闇の奇祭」 「くらやみ祭り」 の名で愛され、明治維新以降も、さらには昭和以降も、継続しました。
しかし、戦後社会でそんな祭が許されるわけもなく、高度成長期あたりから乱交は、後景化。
現在では、近隣DQNこそ多く集結するものの、路上で見境無く交尾るということも特になく、
威勢の良い梵天渡御&大量の屋台がメインの、健康優良&地元密着路線の祭りとなってます。
が、縣祭りが 「奇祭」 の名に全く相応しくなくなったかといえば、案外そうでもありません。
21世紀に入り、それまで梵天渡御を担ってきた奉賛会側と、縣神社側が、決裂。
昔から両者の関係は 「神」 をめぐって裁判さえ発生するほどややこしいものだったようですが、
2003年に奉賛会が梵天を縣神社へ還す神事をすっ飛ばしたことで、対立が一気に悪化。
「神の拉致だ」 とブチ切れた縣神社側が、独自に梵天を製作&渡御を始めたため、
現在の縣祭りは、まるで 「本家」 と 「元祖」 のように、二つの梵天が存在することとなりました。
信仰が根強く息づくゆえの事態とも言えますが、根強過ぎるとも言える、ややこしき事態。
かつてとは別の意味で 「奇祭」 化しつつある、そんな縣祭りの今の姿を、
近隣ゆえ終電お構いなし、DQNまみれの中で見てきました。
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2012年5月3日(木)

下鴨神社の流鏑馬神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
春の都大路に華麗なる平安行列を再現する、葵祭。
しかし、 「山城国風土記」 などに伝わる平安京成立以前の葵祭 = 賀茂祭は、
ほぼケンカ祭同然、DQNや輩な連中が大暴れする、かなりワイルドな祭だったようです。
欽明天皇の時代、凶作に苦しんだ賀茂氏と在地民は、賀茂別雷神の祟りを鎮めようと考えて、
鈴をつけた馬を4月吉日に走らせ、豊作を祈願したのが、賀茂祭のそもそもの始まり。
最初は極めてアーシーというか、オーソドックスに農耕テイストが漂う予祝祭だったわけです。
それが、単に馬を走らせてるだけではつまらなくなったのか、やがて笠懸などをおっ始め、
これに興奮した馬鹿どもが大暴れ、政府から何度も禁止令を食らうケンカ祭にまで成長しました。
正に、DQNであります。正に、輩であります。完全に、田舎祭りだったのであります。
そんな楽しく野蛮な賀茂祭が、その姿を大きく変えることになったのは、平安遷都前後の頃。
朝廷は賀茂氏の勢力取り込みを図るため、賀茂社を都の鬼門守護を担う社と位置づけ、
ローカルな祭だった賀茂祭を勅使の奉幣を受ける超メジャー級国家的祭祀に変貌させました。
以後、中断を挟みながらも、賀茂祭は 「雅」 モードで現代まで継承されているわけですが、
ワイルドな香りを残す神事もあり、それが前儀として行われる、流鏑馬神事です。
下鴨神社・糺の森の中、射手が猛スピードの馬で駆け抜けながら的を射抜くその姿は、
昭和48年の復刻とはいえ、原始の賀茂祭の息吹を伝えるものと言えるでしょう。
そんな流鏑馬、GW混雑のど真ん中ながら、のたくりこんできました。
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2012年4月18日(水)

知恩院のミッドナイト念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「今夜はオールで、念仏三昧」 。
末法テイスト溢れるそんなセリフを、現実に実行する催しが、春の京都にはあります。
といっても、妖しきクラブへ妖しき者たちが集い、妖しき飛び薬を吸ったり打ったりしながら、
「ブッダ・トランス」 とかわけのわからぬ音源を聴いて不穏な法悦に浸る類のものでは、ありません。
また、さらに妖しき者たちが、人もまばらな山中をパワースポットなどと称して参集し、
アセンションだの次元アゲアゲだの言いつつ、念仏と共に朝日を迎える類のものでも、ありません。
催しの名は、ミッドナイト念仏。行われる場所は、かの浄土宗総本山・知恩院。
そう、マジなのです。メジャー中のメジャーである寺にて、オールナイトで念仏が行われるのです。
真に末法の時代であった平安末期、旧来の仏教教団からの弾圧にも屈することなく、
南無阿弥陀仏を唱えるだけで救済される専修念仏を民衆に広く説いた、浄土宗開祖・法然上人。
上人が没した地・知恩院ではその遺徳を偲ぶべく、忌日に合わせ御忌大会を大々的に開催。
法要に加え様々な行事も行われ、ミッドナイト念仏もその一環というわけであります。
真面目な催しなのです。名前はほとんど面白半分な感じですが、真面目な催しなのです。
真剣に念仏を唱える人々と共に、興味本位&冷かし丸出しの若者や、酔っ払いなどが入り混じり、
全員でポクポクと木魚叩いて念仏トランスを目指す様は、奇観といえば、確かに奇観。
しかしその混沌こそ、無差別の救済を目指した上人の御心に沿うものとも言えるのでしょう。
そんな懐の大きいミッドナイト念仏、今回私はフルで参加してみることにしました。
20時のスタートから翌朝の終了まで、途中日和ってますが、ぶっ通しでポクポクしてきました。
闇の中の念仏で、何を見たのか。その果ての光の中で、何を見たのか。
真面目に、かつ興味本位&冷かし丸出しで、御覧下さい。
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2012年4月13日(金)

六角堂の夜間拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
六角堂。正式名称、頂法寺。
下京の町衆が自治のために集った寺 = 町堂として知られる寺です。
秀吉の京都大改造&火事により、現在は中京区にある上京の町堂 = 革堂に対し、
六角堂は、聖徳太子の時代にまで遡るという創建時より 「京都のへそ」 たる中心部に位置。
平時は町組代表の集会所 or 生活文化の中核として、各種動乱の際には軍勢の集合場所として、
自治を死守するための勇ましくかったり物騒だったりする歴史が積み重ねられた寺であります。
他にも、かの親鸞が参籠して 「我成玉女身被犯」 「引導生極楽」などと観音様に言われ、
そのお告げが妻帯を肯定する浄土真宗誕生のきっかけになったことでも知られる、六角堂。
しかし現在は、何といっても華道家元・池坊の総本山としての顔が、有名でしょう。
境内北側にある池のほとりに住んでた坊さん = 通称 「池坊」 が、朝夕と本尊に生花を供え続け、
やってるうちにどんどん上手くなり、遂には家元になったという、池坊誕生伝説。
池坊にとっては、ここは正に、発祥の地。ゆえに、現代における六角堂存続も全面的にサポート。
サポートついでに寺の真横へビルを建て、景観的にはかなり奇妙な世界を生んでますが、
とにかく遷都でも応仁の乱でもほぼ不動の 「京都のへそ」 を、今も守り続けています。
そんな六角堂&池坊が最近になって始めたのが、春の夜の特別拝観。
名物である早咲きの枝垂桜・御幸桜と、その下に並んだやはり名物の十六羅漢像をコアに、
生花のディスプレイや池も含めて境内をライトアップ、幻想的に魅せる試みです。
街中に現れた、美しくて妙に妖しい夜の六角堂、お楽しみ下さい。
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2012年4月6日(金)

上七軒歌舞練場の北野をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
北野をどり。
京都最古の花街・上七軒の舞踊公演です。
室町時代にまで遡る歴史を持つ上七軒ですが、をどりが始まったのは比較的新しく、戦後。
昭和27年、氏神である北野天満宮の創建1050年記念万灯祭に際して
祭神・菅原道真の物語を舞踊劇にした「北野天神記」を奉納したことに始まります。
これをきっかけに、「北野をどり」を正式にスタート。今年は記念すべき60回目です。
花街としての規模も小さく、舞妓さん芸妓さんの数も決して多くはない上七軒ですが、
踊り手もお囃子もフル稼働で、セリフを多用したストーリー性の強い舞台を創出。
「通は上七軒のをどりを好む」といわれるほど、その芸への評判は高いものがあります。
最近まで4月中旬に開催されてた北野をどりですが、しばらく前、
第一回の開催日が3/25+天神さんの縁日に因み、3/25から2週間の開催に変更。
で、2012年の期間は、3/25~4/7。で、千秋楽の前日にあたる6日に行ってみました。
予約は、してません。前日に、行くことを思いついたからです。
予約なしで入れるコネは、ありません。当日券の一発勝負、飛び込みです。
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2012年3月18日(日)

東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。
巨椋池。おぐらいけ。
伏見の南にあって、平安京の四神相応では朱雀にも見なされた遊水池です。
周囲16km+約800haという、「池」 と呼ぶのがかなり相応しくない巨大なサイズを誇り、
桂川+宇治川+木津川のオリジナル合流点として、その下流である淀川の水量をコントロール。
しかし周辺地域で発生する水害は、デカ過ぎるゆえに半端なく、おまけに発生頻度も高し。
昭和に入って全域が干拓され、現在はその大半が農地化。京都随一の青果生産地となってます。
干拓直前の巨椋池は水が澱み、そのためかえって蓮の名所として名を売ったそうですが、
元々は魚類が豊富に生息する環境であり、池畔には淡水漁で生計を立てる漁民が多く居住。
京都の難読地名ブッちぎりの首位を誇る東一口は、その代表的な集落でした。
後鳥羽上皇から独占的な漁業権を賜った彼らは、池の西端で干拓完了まで漁民として生活を続け、
漁業から離れざるを得なくなった現在も、昔からの風習を根強く守り続けています。
「荒くれ漁師がお告げに従い、淀川から観音像を引き上た」 という弥陀次郎伝説に基づいて、
その引上日= 3月18日に近い土日に開催される安養寺の春祭りも、そのひとつ。
祭りでは、南山城唯一の伝承念仏という 「双盤念仏 or 六字詰念仏」 も披露。
六斎念仏ファンとして、近所の久御山に念仏があるとなっては、行かないわけにはいきません。
そう、私の住む八幡と久御山は、隣同士。巨椋池があった頃は、船で往来もできたはず。
現在は何か、異常に公共アクセスが悪いけど。それはまあ、どうでもいいんだけど。
とにかく、双盤念仏を見に行ってきました。東一口へ、行ってきました。
「東ひとくち」 ではありません。東一口へ、行ってきました。
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2012年3月3日(土)

市比賣神社のひいなまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
市比賣神社。平仮名だと、いちひめじんじゃ。
名前からして雛祭りにふさわしい、実にレディーステイストを感じさせる神社です。
元々は商売の神様であり、平安京の官営市場である東市・西市の守護神として795年に創建。
昭和に入っても中央卸売市場構内へ分社が建てられたりと、そっち方面の信仰は篤いようですが、
やはり市比賣神社といえば 「女人厄除け」 こそが、一番の売り、メジャーな御利益。
私は全然知らないんですが、女性専門の厄除け神社というのは結構珍しいもんだそうで、
厄年の厄祓い、また良縁・子授け・安産などを求め、全国から悩める女性たちが参拝しに来るとか。
何でここが商売の神様から女性の神様になったのかも全然知らなかったので、
秀吉の命により現在地 = 遊郭・五條楽園のすぐ近所へ移転させられたことでも関係あるのか、
あるいは光源氏 = 源融の六条河原院跡に近いのも関係あったりするのかとか思ってたんですが、
そもそも市比賣神社の祭神は全て女神・比賣命。女性の神様なのが、当たり前と。
歴代の皇后からも篤く崇敬されているというほどレディース志向全開な市比賣神社ですから、
3月3日に 「ひいなまつり」 の名で行われる雛祭り行事も、極めて気合が入りまくり。
巨大雛壇へ十二単を着付けた人間が座るという 「ひいなまつり」 名物である 「ひと雛」 に加え、
貝合わせなどの雅なひいな遊び実演、そして 「ひちぎり」 が食える茶席と、お楽しみが盛り沢山。
盛り沢山過ぎて入場料が1000円と高価ですが、それもまた雅なのでございます。
そんな 「ひいなまつり」 、アウェー全開覚悟でもぐりこんでみました。
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2012年2月23日(木)

醍醐寺の五大力へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
五大力。
一応、念のために言っておくと、長州力とは関係ありません。
長州力にそっくりの人が餅上げ大会に参加してはいましたが、関係ありません。
正式名称、五大力尊仁王会。 「五大力の尊仁王会」 ではなく、「五大力尊の仁王会」 。
平安時代の五重塔で知られる世界遺産・醍醐寺で毎年2月23日に行われる最大の行事であり、
上醍醐の五大堂に祀られる五大力尊へ、国家安穏・万民豊楽を祈願する法会です。
本来は山上までしっかり登って、五大堂でしっかり厳修するのが筋なわけですが、
さすがに3.5キロの登山は万民には厳し。なので、山麓・下醍醐でも祭灯護摩供を、終日厳修。
また、災難&盗難除けの功徳があるという本尊・五大力尊」の「御影」 も、この日に授与。
この札は、愛宕さんの 「火迺要慎」 お札と同じく京の家々の定番のお札であり、
ゆえに、善男善女が集結。それを目当てに露店も集結。えらい賑わいとなるのであります。
加えて五大力の集客力をブーストしてるのが、餅。餅あげ。餅あげくらべ。
女性90キロ・男性150キロもの巨大な紅白の鏡餅を持ち上げ、持ち上げ続け、その時間を競い、
発揮した大力を五大力さんに奉納して無病息災を願うというのが、餅上げです。
戦後に余興として始まったものですが、巨大餅そのものの存在感と、
それを必死で持ち上げる挑戦者の姿のインパクトが人気を呼び、定着化。
この日は金堂+五重塔が無料開放されることもあり、今では京都に春を告げる行事になってます。
その五大力さん、生憎の雨ですが、行って来ました。
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2012年2月11日(土)

阿含の星まつり2012へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
阿含の星まつり。
正式名称、 「炎の祭典・阿含の星まつり 神仏両界大柴燈護摩供」 。
阿含宗が、京都・東山の総本殿で毎年建国記念日に行う、護摩法要です。
一大観光都市・京都にあって、50万人(主催者側発表)と宵山以上の動員力を誇り、
CMはバンバカ流れるわ、シャトルバスはR1を走りまくるわ、そこら中で山伏がウロウロしてるわと、
大騒ぎの祝祭状況を現出させる割に、何故か観光案内などでは扱いが小さい行事であります。
不思議だなあ。何でもっと大きく取り上げないんでしょう。いや実に、不思議だなあ。
ひょっとすると混雑が既にパンク状態で、取り上げようがないんでしょうか。何せ 「50万人」 だし。
でも去年行った感じでは、50万人はちょっとない感じに見えたけどなあ。不思議だなあ。
そんな不思議な星まつり、前年は早朝からそのシャトルバスへ乗り込み、
もの凄い雪が降る中で護摩が点火&爆発するオープニングを拝ませてもらったわけですが、
今年はその逆、エンディングの鎮火・火伏せをメインにして出かけてみました。
何故かといえば、朝早く起きるのが面倒くさくて、しんどかったからです。
加えて、今回は現場まで徒歩で行こうと決めてたので、より安全な昼間を選んだわけです。
阿含宗総本山があるのは、清水寺・奥の院の背後から500mくらいのところ。
「歌の中山」 で知られる清閑寺&京都随一の心霊スポット・旧東山トンネルを通る道があったりと、
両者のアクセスは妙に良好だったりします。で、今年はそこを歩いてみた、と。
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2012年2月2日(木)

2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。
2月2日と3日の両日を、暇丸出しでフルにうろつきまくってます。
【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき→壬生寺の節分狂言→須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき→千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言→吉田神社の火炉祭大炎上
の、まずは 【1】、八坂神社、壬生狂言、そして懸想文です。
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2012年1月15日(日)

三十三間堂の楊枝のお加持と通し矢へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
等身大の観音像を、千一体、並べる。
それは一体、どんな精神状態から生まれる発想なのでしょう。
「でっかい寺 or 仏像を作る」なら、わかります。大きいことはいいことだ、と。
数的膨張も、伏見稲荷の鳥居のような闇雲さがあれば、まだ人の体温が感じられるというものです。
しかし、三十三堂の千一体観音は、そのどちらとも違う印象を見る者に与えます。
熱狂を感じさせない、冷たく醒めた過剰さ。そしてそこに響く、救済を求める無言の絶叫。
普通の人間が考えつくものではない。少なくとも私は、そんなことを感じたりします。
後白河法皇。普通の人間ではないといえば、確かに普通の人間ではありません。天皇だし。
「今様狂い」「比類少きの暗主」と揶揄されるほど過剰な遊蕩に呆けながら、
源平を手玉に取って権力に固執し、なおかつその全てを放り出して熊野を何度も何度も詣でまくり。
勝負には絶対負けたくないが、勝ったところで全ては遊びだとも知っている、大天狗。
まこと「もののけ」と呼ぶにふさわしい、院政期を体現したような強烈なるパーソナリティです。
そして、その院から発願された三十三堂もまた、強烈なインフレーション感に溢れた建造物です。
そもそもは院の頭痛平癒を祈願して建てられながら、いわゆる癒しテイストは皆無、
だだっ広いにも関わらず開放感がなく、閉塞感+強迫観念=偏頭痛誘引効果が爆裂状態。
むしろ偏頭痛者のパースペクティブをそのまま具現化したようにさえ感じられ、
疾病退散の加持より、矢でこの頭を吹っ飛ばしてくれと頼みたくなること、しきりです。
そんな三十三堂の成人の日名物である、楊枝のお加持と通し矢。
「どんなだ」という話ですが、無料開放で頭痛がしそうな堂内へ、とにかく突入してきました。
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2012年1月7日(土)

大本亀岡本部へ七草粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。
大本についての説明、どれくらい必要なんでしょうか。
本籍地を丹波に置きっぱなしの私にとっては、何となく「知ってて、普通」な感じなんですが、
一般的知名度はそれほどでもないのかも知れません。そうでもないのかな。
大本。平仮名で書くと、おほもと。読みは普通に、おおもと。
いわゆる新宗教の老舗です。「新」なのに「老舗」というのも変ですが。
明治中頃、京都北丹・綾部で開祖・出口なおが「御筆先」を記したことで始まる神道系の教団ですが、
教団を巨大化させたのは、『霊界物語』などで今なおカリスマ的人気を誇る、出口王仁三郎。
メディア戦略に天才的な才能を持つ王仁三郎は、勃興期にあった新聞&ラジオを大々的に活用、
教団を爆発的に拡大させ、「万教同根」の真理に基づいて大陸にも進出、世界各国の宗教とも提携し、
遂には郷里・亀岡の亀山城をまるごと購入、綾部と共に聖地としました。
インテリ・貴族・軍人までも巻き込むその勢いに、特高は目をつけ、大正・昭和と二度にわたり弾圧。
特に戦中行われた「第二次大本事件」と呼ばれる二度目の弾圧は熾烈を極め、
「大本を地上から抹殺する」と、1300本のダイナマイトで教団施設を城ごとぶっ飛ばしました。
壊滅状態に陥った大本は、追い討ちをかけられるようにカリスマ・王仁三郎も失いますが、
何とか自主再建を果たし、ズタボロになった亀山城址も何とか再整備。
戦前の勢いはないにせよ、平和運動・農業運動・芸術運動などに力を入れ、現在も活動を続けてます。
そんな大本が、信者以外にも無料で振舞ってるのが、1月7日の七草粥。
普段は拝観に申込が要る亀山城も、一般開放。なので、城見物をかねて出かけてみました。
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2012年1月5日(木)

正月の石清水八幡宮へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
八幡の八幡さん(やわたのはちまんさん)、地元ゆえ再び初詣です。
元旦には、今イチながらも初日の出まで拝ませてもらった石清水八幡宮ですが、
昼間の混み加減も一応チェックしておきたくなって、改めて参拝させていただきました。
混雑度を見るなら何といっても元日、せめて三が日の間に行っとくべきなのですが、
諸般の事情で4日まで身動きとれず、5日に至ってのデータ取得となってます。ご了承下さいませ。
「世は変われども、神は変わらず」というキャッチコピーの通り、
例年と特に変わるところのない、賑やかかつ穏やかな八幡の八幡さんの正月ではあるのですが、
去年の年末にはこの石清水八幡宮、国史跡に指定されるというトピックがありました。
それも本殿のみならず、明治以前の神仏習合の遺跡を含めての指定。
ちょっと前には松花堂昭乗の滝本坊跡で「空中茶席」なるものの遺構が発見されるなど、
静かに盛り上がりを見せていた八幡さんの発掘ですが、この指定でより拍車がかかることでしょう。
八幡さんの参道の横にずらっと並ぶ、石垣。あれ、遺構なんですよ。かつて林立していた宿坊の。
でも、参拝される方の多くは登ることに必死で、全然そんなことに気にしてくれません。
ので、ちょっとその辺にも触れながらの初詣記事にしてみます。興味を持ってもらえたら、幸いです。
あ、トップの龍は、本殿にいる奴。辰年ということで、フィーチャアしてみました。
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2012年1月1日(日)

2012年への年越しを、京都で迎えました、の続きです。
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八幡市,
★★★,
冬も、ひとり,
夜も、ひとり,
上京区,
伏見区,
ひとりで京都でゆく年くる年,
拝観無料 | tags:
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