★★ - ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 3

京の七夕・舞妓茶屋へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月14日(日)


京の七夕の協賛企画・舞妓茶屋へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

舞妓茶屋。
京都の夏季閑散期における集客促進イベント『京の七夕』の協賛企画のひとつです。
京都が「客を呼びたい」となれば、脊髄反射で引っ張り出されるのが、舞妓はん。
というわけで、鴨川会場に隣接する『鴨川をどり』のホームグラウンド・先斗町歌舞練場を使い、
先斗町の舞妓はんがお話&撮影&をどりで楽しませてくれる、期間超限定のお茶屋を開業。
それが、舞妓茶屋です。値段も1500円と、貧乏独男でも手の届く良心設定。
「でもそれって、メイド喫茶みたいなもんじゃないっすかぁ」と、皮肉を込めて言ったあなた、
残念ながらその言葉は、結構、正鵠を射てしまってます。
もちろんイベント企画とはいえ、出てくる舞妓はんは、本物です。コスプレとは、世界が違います。
でも、歌舞練場がね・・・。いや、歌舞練場そのものはいいんですよ。立派な建物です、本当に。
ただ、使う場所と、使い方が、何とも、いやはや。
「コンクリの壁+手作り感が過剰に漂う七夕飾り」という内装を目の当たりにすると
「メイド喫茶みたい・・・」あるいは「学校設定のメイド喫茶みたい・・・」と呟かざるを得ません。
また、『舞妓はん以外の経費は、極限まで削ります』と宣言するかのようなメニューも、刺激的。
感慨深いものがあるのです。そして、そんな感慨深い状況でもしっかり仕事する舞妓はんに、
リスペクトを感じずにはいられないのが、舞妓茶屋なのです。

続きはこちら »

東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月13日(土)


東映太秦映画村のナイターまつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

全盛期には邦画の実に6割を生産していたという、映画の街・太秦。
そこら中に旧跡が残り、そこら中に着物屋が溢れ、そこら中に職人が住んでいる京都は、
時代劇にとっては正に、聖地。この地独特の職人気質もまた、映画制作に強い親和性を発揮。
当初は関東大震災から疎開してきただけの撮影所も、どんどん太秦に定着&増殖し、
「日本のハリウッド」と呼ばれるほどの製作本数を誇るのみならず、
大映の『羅生門』『雨月物語』などでは、技術面・芸術面でも国際的な評価も獲得しました。
が、テレビの登場により、昭和30年代をピークとして映画産業は一気に、斜陽化。
ひたすら映画だけで食ってきた太秦の多くの撮影所は、苦境に立たされることになります。
ラッパから札束バラまいて見境なき作品クオリティを実現していた大映が、先頭切って倒産。
他社もスタジオを東京へひき上げ、東映撮影所のオープンセットもまた、なかば廃墟化。
生き残り策を模索した撮影所の従業員が思いついたのは、そのオープンセットの公開でした。
映画製作の裏側を、製作してる現場そのものを、そのまま見せる。
このスタイルで、1975年に東映太秦映画村は「開村」。日本初のテーマパークが誕生した瞬間です。
食える程度に稼ぎが出てくれたらという期待に反し、映画村は大当たり。
以後、京都の新たな文化観光資産として、現在に至るまで高い人気を維持し続けています。
ナイターまつりは、そんな映画村がお盆の時期に行なう催し。1998年から始まりました。
普段は夕方で閉まる村をライトアップして公開、
入園時間は短くなりますが、そのぶん料金が安くなるのも、お得なイベントです。

続きはこちら »

京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月12日(金)


京の七夕の堀川会場へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京の七夕。ざっくり言えば、夏季閑散期の客寄せイベントです。
集客の華・祇園祭が終わり、8月に入ると、京都は観光客が減ります。理由は、暑いから。
暑いだけなら海水浴場も同じですが、京都の盆地性の暑さというのは、何というか、体に悪い。
「北欧から来た留学生が、暑過ぎて死んだ」という噂がまことしやかに囁かれるくらい、
独特のバッドな内蔵侵食感および神経破壊感が、暑さに伴います。
京都の観光スポットの大半は昼間に見るもんですから、そんな暑さの中での観光はもはや、苦行。
「こんな季節に京都へ来るのは、やめときなはれ」と考えるのが普通の人ですが、
「こんな季節でも京都に来て欲しい、体が壊れても」みたいなことを考える方もいらっしゃるようで、
ほんのちょっとだけ暑さがマシになる夜間を狙って、イベントを新規立ち上げ。
旧暦の七夕と夏季閑散期がカブってるのに目をつけ、鴨川と堀川の2会場で電飾を灯し、
市民に書かせた短冊を飾り、なんとか観光促進を計るというのが、京の七夕であります。
去年の2010年度から始まり、まずまずの成果を残したそうですが、
「祈り」や「願い」、そして何より電気の意味が全く変わってしまった今年は、どうなんでしょう。
そんなことを考えたり、考えなかったりしながら、堀川会場へと足を運びました。

続きはこちら »

第42回鴨川納涼へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年8月7日(日)


第42回鴨川納涼へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鴨川。それはいくつかの「不思議」を持った川。
まずは言わずと知れた、カップルが何故か等距離で川辺に座るという「不思議」。
それに、「加茂川」 or 「鴨川」と、ニアイコールな表記が入り混じるという「不思議」。
そして、そんな鴨川に関する数多の言説が、七条以南については急激に減少するという「不思議」。
加茂川と高野川の合流点である出町柳の「鴨川デルタ」が最近人気を呼んでるようですが、
それなら、かつてあの高瀬川が鴨川と平面交差していた「十条クロッシング」なんかにも、
もっとスポットが当たってもいいんじゃないかと思うんですが、あなた、どう思いますか。
それはともかく、いろんな意味で京都のシンボルであるそんな鴨川において、
夏の真っ盛りに行なわれる市民主体の夏祭りが、鴨川納涼。
例年、県人会の方によるB級グルメグランプリの如き出店と、昭和臭あふれる出し物が、
川岸に色を添えてましたが、去年からはそこに「京の七夕」なる電飾客引きイベントも、乱入。
カップルたちが蛾のように吸い寄せられるきらびやかなイルミネーションと、
各屋台の鉄板から放たれる油煙、そしてハワイアンや南京玉すだれのサウンドなどが入り混じる、
極めて特殊な空間が現出されるようになりました。
そんな鴨川納涼、今までは「君子危うきに近寄らず」で左岸から眺めるのみでしたが、
このサイトのモットーはあくまで単独正面突破、今年は意を決して右岸へ飛び込んでみました。

続きはこちら »

下鴨神社の御手洗祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月21日(木)


下鴨神社の御手洗祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

御手洗池。
「おてあらいいけ」とは読みません。「みたらしいけ」です。一応。
世界遺産・下鴨神社の奥の方にある、名前の通りにもっぱらお清めを本業とする聖水です。
雛祭の雛飾りを流す禊や、葵祭の斎王代が行なう禊など、メジャーな神事でも名高いですが、
「みたらし」と聞いて誰もが思い浮かべる「みたらし団子」の発祥の地でもあります。
土用の丑の頃になるとこの池、地下から溢れ出す水の量が増えて、水泡を発生させるそうです。
その泡を模して、ちっちゃい団子が連なる「みたらし団子」は生まれたんだとか。
いや、本当です。多分、本当です。加茂みたらし茶屋がそう言ってるんだから、きっと本当です。
その土用の丑の日を中心にして開かれる御手洗祭は、
御手洗池の前に鎮座して、お祓いの神様である瀬織津比売命を祀る末社・井上社の、例祭。
読んで字の如く手を洗いまくる祭り、ではありません。足を洗いまくる祭りです。
ちょっと前の蛍茶会では蛍つかみ取り大会が発生してた御手洗池へ、今夜は人間を大放流。
善男善女が聖水に足を浸し、悪いところを水に流すわけであります。別名、足つけ神事。
平安貴族の清めの行事に由来する、いわゆる「千年の時を越え」た神事ですが、
どっちかといえば「千年の時を越え」て盆地の蒸し暑さに苦しむ京の民が、
「暑いから水につかりたい」と思ったのが由来じゃないかとも思える、結構庶民的な神事です。
率直なニーズに応えてる分、現代でも参拝者は多数。
神社側も、土用の丑の日を中心にした4日間、昼夜を問わず参拝に対応してます。
で、その初日の夜に、私も水につかりに行きました。

続きはこちら »

祇園祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月17日(日)


祇園祭の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「祇園祭は山鉾巡行だけではない」。
こんな物言いも、最近ではすっかり馴染のものとなりました。でもないでしょうか。
神事や行事やイベントなどが、7月1日から31日まで延々と続く、祇園祭。
中には宵山のように山鉾巡行の倍以上の客を動員するイベントもありますが、
「山鉾巡行だけではない」という言葉を最も言葉通りの意味で体現してるのは、
山鉾巡行当日の夜に行われるこの神幸祭をおいて他にはないでしょう。
神幸祭。文字通り、神幸祭です。神がおいでになる、神幸祭です。
神の御霊を遷した神輿が、神社を出て氏子の町内を巡幸してから御旅所へ入る、神幸祭です。
祇園祭の神幸祭も、当然そういう形で行われます。神輿が舁かれ、町内を巡幸します。
超ド派手な山鉾巡行と比べたら、極めてオーソドックスなスタイルの神事と言えるでしょう。
が、やることはオーソドックスでも、やる場所はオーソドックスではありません。
八坂神社は、祇園の真ん中に立つ神社。というか、神社の周りに祇園ができたんですが。
近所にはお膝元の祇園はもちろん、木屋町、先斗町、河原町、寺町と、京都の歓楽街が揃い踏み。
神幸祭の巡行は、氏子区域の東側にあたるそんな歓楽街をメインに行われます。
色っぽい街に神様がおいでになり、伝統・信仰・奉仕・疲労・享楽・景観破壊・無関心などなど、
その全てを祝祭の中でひとつにする、本当の祇園祭が始まるのです。

続きはこちら »

祇園祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月17日(日)


祇園祭の山鉾巡行へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

山鉾巡行。
正に名実ともに祇園祭の代名詞、もはや京都観光そのもののアイコンとさえ言える、
文句なしの花看板、メインイベント中のメインイベントであります。
が、この山鉾巡行が宵山よりも来客数が少ないということを、実は私、今さっき知りました。
2011年度の山鉾巡行の来客数、20万人。対して、宵山に集った烏合の衆の数、45万人。
少ないどころの話ではありません。ダブルスコアでお釣りが来ますな。
知った瞬間は驚いたんですが、しかし我に帰ると、納得です。まあそりゃそうだわな、と。
良くて、ピーカンの激暑。悪くて、梅雨明け前の猛暑+猛湿度。最悪で、豪雨か台風。
そんな7月の気候の中、京都の街中を朝早くから駈けずり回るなど、正気の沙汰ではありません。
山鉾巡行は、KBS京都の中継で見るもの。あるいは、過ぎ去るのを家の中でただじっと待つもの。
京都市民のみならず、辺境の民である私でさえ生活感覚としてはそう認識してるのであり、
実際、今の今まで山鉾巡行を見たことはありませんし、見たいと思ったことさえありません。
が、このサイトのモットーはあくまでも、メジャーどころの単独正面突破。
メジャー中のメジャー、キング・オブ・キングの山鉾巡行から、逃げを打つわけにはいかないのです。
宵山のダメージがまだ全く体から抜けてませんが、意地だけで現場へ赴きました。
苦しくも今年の山鉾巡行は、日曜開催。さらに悪いことに、快晴です。

続きはこちら »

祇園祭の宵々々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年7月14日(木)


祇園祭の宵々々山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宵々々山。本来は「14日の宵山」と呼ぶのが正しいらしい、宵々々山。
では「10日の宵山」や「1日の宵山」なる呼称が有り得るのかといえばよくわかりませんが、
とにかくこの宵々々山から、山鉾町周辺の歩行者天国は始まるのであります。
そして、昨日までの「町の祭」は、「市の祭」を飛び越え、「府の祭」へと変貌するのであります。
府の祭。そう、市民じゃなくて府民がいっぱい来るわけですね。例えば、俺とか。昨日も来たけど。
歩行者天国と露店、そして「祇園祭」という名前に蛾の如く吸い寄せられる、辺境の民草。
そんな愛しき我が同胞たちが、この日を境に市街地のコアブロックへ一気に流入。
雅もひったくれもないDQN臭をあたり一面へ撒き散らしながら、金もろくすっぽ使うことなく、
ただただ広いだけの四条通や烏丸通を歩いて喜ぶという事態が出来します。
「府民」には大阪府民も含まれますし、また滋賀県民も京都人のような顔をして大量混入。
関西以外の観光客がまだ少ない分、ある意味、DQN濃度が最も濃い夜かも知れません。
もちろん山鉾周辺も凄まじい混雑となり、見物しにくいどころか、生還こそが重要テーゼ化。
そんな宵々々山、昨夜との空気の違いを感じながら、うろついてみました。
前夜に引き続き、駄文抜き+画像メインで淡々とお楽しみください。

続きはこちら »

下鴨神社の蛍火の茶会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月11日(土)


下鴨神社の蛍火の茶会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

蛍火の茶会。
文字通り、下鴨神社・糺の森を飛び交う蛍の灯りを眺めながら、お茶を嗜む催しです。
都市部にありながら、太古以来の山城原野の植生を残すという、糺の森。
特に5月から6月にかけては緑が美しく、神の森というイメージが強いスポットであります。
が、ここ、江戸時代には庶民の憩いの場として、茶店も立ち並んだりしたんだとか。
森の中を流れる川に船を浮かべての納涼茶会、また能や相撲なども行われたそうです。
しかし明治維新以後、下鴨神社は国の管理下に置かれ、茶会などの庶民的行事はどんどん消滅。
昭和に入ると、周囲が開発されたことで糺の森の環境も悪化。
川には上流からの農薬が流れ込み、蛍はもちろん昆虫類も絶滅寸前に至ったそうです。
現在の蛍火の茶会は、地元の人たちにより糺の森周辺の川が繰り返し清掃され、
放流された蛍が定着したことをうけての復活もの。明治の廃絶から実に100年ぶり。
重文である橋殿・細殿で夕方から茶が供され、夜には御手洗池で大量の蛍を放流。
加えて、神服殿では下鴨神社名物・十二単の着付が行われ、各種音曲の披露もあります。
そんな風流な茶会へ行ってきました。と言っても、私は茶会そのものには参加してませんが。
お茶のこと、知らないし。それに事前申し込みしないと駄目だし。
ただただ、蛍を見に行っただけです。

続きはこちら »

修学旅行生だらけの清水寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年6月5日(日)


修学旅行生だらけの清水寺へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

 世界遺産に登録されている清水寺(京都市東山区)で、江戸初期に再建された国宝・本堂の「清水の舞台」を支える柱78本のうち12本にシロアリ被害などが発生していることが7日、わかった。
 同寺は現在、本堂を含む建造物9棟の「平成の大修復」を行っており、その過程で判明した。倒壊の危険はないが、東日本大震災などを踏まえ、柱の補強など修復計画の変更も検討している。
 清水寺によると、異変がわかったのは平成21年秋。寛永10(1633)年の本堂再建以来、380年近くにわたって本堂と舞台を支え続けてきた直径60センチ以上の欅(けやき)の柱12本がシロアリや湿気の被害で腐食したり、大人の腕が入るほどの空洞が開いていたりする可能性が目視調査などで指摘された。(産経新聞より)

2011年6月7日にこんなニュースが出た、清水寺。
その2日前の6月5日、シロアリにやられてるという舞台はいつもと同様、人間でいっぱいでした。
誰も穴が開いてるなんて知らないわけですから当然ですが、それにしてもそれにしてもであります。
時折りしも、修学旅行シーズン。6月は、特に中学生が多いそうです。
で、中学生は清水寺へやってくると、舞台の欄干に登りたがる習性を持つそうです。
シロアリニュースを聞いたあとで見ると、何とも感慨深いビジュアルの数々、
長ったらしい文章を書くのが何かもう面倒なので、写真のみで淡々と見届けていただきましょう。

続きはこちら »

城南宮の曲水の宴へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月29日(金)

曲水の宴
城南宮の曲水の宴へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

曲水の宴。
それは平安時代の貴族の間で流行したという、優雅な歌遊び。
烏帽子に狩衣姿の公卿たちと小桂姿の女官たちが、庭園の遣水のほとりに座り、
御所伝来の羽觴なる盃台の酒が流れてくるまでに、出された歌題に沿った歌を詠みけり。
古代中国より伝わり、奈良から平安時代までは無病息災を願う三月上巳の宮中行事であそばされ、
のちには貴族の姫の雛飾りと重なって、3月3日の桃の節句へ発展したのもいとおかし。
そんな雅な宴が、白河上皇院政の地・鳥羽離宮跡地のど真ん中に立つ城南宮には、残ってます。
観光資産化不能で困るぐらい鳥羽離宮が跡形もなく消滅したがゆえに、城南宮の曲水の宴は、
平安の姿のまま現代に至るまでひっそりと動態保存されてきた・・・というわけではありません。
方除の神様として名高いこの神社が、
「昭和の小堀遠州」中根金作による「楽水苑」を造営したのは、昭和36年。
その中の「平安の庭」で行われる現在の曲水の宴は、もちろんそれ以降に再興された行事。
良く言えば新たなる歴史の継承、悪く言えばほとんど単なるコスプレショーですが、
わかりやすく「雅」を具現化したビジュアル、そしてこの日は庭の拝観料が無料になることもあって、
年々人気を高めてます。そんな雅な世界、行ってみました。

続きはこちら »

吉祥院六斎念仏を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月25日(月)

太鼓曲の演奏
吉祥院天満宮の吉祥院六斎念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

六斎念仏。全国的に広く伝承されている念仏踊りの一種です。
元々は仏教の六斎日=8・14・15・23・29・晦日に斎戒謹慎して鬼神の災いを避けてたのが、
いつしか空也上人の踊躍念仏と結びつき、さらにお盆にも結びつき、現在に近い形となったとか。
京都にも六斎念仏はあります。それも、2つの派閥みたいなのがあります。
ひとつは、あくまで念仏に重きを置く、干菜寺系。鉦と太鼓でシンプルに念仏を歌うという。
もう一方は、花の都ならではの芸能華やかな、空也堂系。で、主流は圧倒的に後者。
獅子舞・歌舞伎などの流行芸を取り入れ、原型を止めないほど芸能化した六斎 = 芸能六斎は、
江戸時代、娯楽に飢えた京都西南部の農村を中心に劇的に普及。
で、正に京都の西南にあたる吉祥院は、そんな芸能六斎の一大中心地となりました。
最盛期には8組もの講が夏祭で芸を競い合い、演舞は夜通し、あるいは日が明けても続いたとか。
時代の流れで現在残る講は一つだけとなりましたが、今なお活動は活発であり、伝承を守ってます。
盆の活動が多い六斎念仏ですが、こちら吉祥院は夏に加え春の大祭でも演舞を披露。
で、それに出かけたわけです。

続きはこちら »

龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月14日(木)


龍安寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

龍安寺の境内って、広いんですよね。地図で見ると、近所の仁和寺と同じくらい。
でも、あんまりそういう印象、ありません。イメージの中では、仁和寺よりずっと小さく思えます。
たぶん、龍安寺最大の売りであるあの石庭が、そう思わせてるんでしょうね。
不可解な配列で石が並んだ小さな空間が、見る物全てを禅の宇宙へ誘う、石庭。
馬鹿デカい建造物で圧倒するのとは真逆な、吸引型とでもいうべきインパクトを放つ、石庭。
加えて、その石庭をかかえる本堂も、小振り。その本堂への拝観券を売ってる山門もまた、小振り。
おまけに、チケット売るのは山門だけどモギるのは本堂前のため、
その間の池や、奥の方のよくわからん庭を、無料区域&前フリみたいに思いがちです。
しかしあの池は、龍安寺が徳大寺家山荘だった平安時代に作られた池泉舟遊式庭園で、
貴族が舟を浮かべ歌舞音曲を楽しみ、近世までは石庭よりずっと有名だったのであります。
奥の方のよくわからん庭も、歴史があるのかは知りませんが、とにかく桜が咲くのであります。
なので、桜の季節の龍安寺は、石庭以外にこそ注目するべきなのであります。
それなのに、やっぱりトップ画像は石庭なのであります。

続きはこちら »

二条城のライトアップへまた行きました。もちろん、ひとりで。

2011年4月13日(水)

清流園の桜①
二条城のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

二条城。二条にある、あんまり城らしくない城であります。
もちろん、そもそもは徳川幕府が朝廷を牽制するため築城したイカツい城であり、
かつては天守閣がそれなりに体裁を保ってたそうですが、炎上&移築&放置プレイ。
大政奉還後は京都府庁になったり離宮になったりしたのち、京都市に下賜&一般公開。
市は天守閣再建など完全スルー、ひたすら庭園に力を入れるのみ。城らしくない城であります。
天守を再建しないのは当然金がないからですが、他にも理由があると思うのは私だけでしょうか。
堀の周囲の道を歩く時に感じる、疲労感。回り道をさせられる時に感じる、徒労感。
車で行くことが前提のショッピングモールへ徒歩で行ったときに感じる
「歩いていくの、しんどっ」という感じ。あれに近いものを、私は二条城に感じます。
二条城より広いスポットは他にもありますが、御所をはじめその多くは中の通行が可能。
もちろん、コアな部分への闖入は許しませんが、その壁をあまり可視化&表沙汰にはしない。
それに対し、壁どころか堀を明らさまに強調する二条城、やはり「城」だなあと思うわけです。
市が庭園や桜ばかりに力を入れるのは、そんな「城」の暴力的存在感を少しでも中和しよう、
ゴツい建物をちょっとずつでも京都になじませようと考えてのことなのかも知れません。
そういえば、毎年桜の季節に行なわれるこのライトアップでは、もはや御殿の拝観さえ、謝絶。
これはケチではないのです、きっと。二条城を京都化するための企てなのです、きっと。

続きはこちら »

哲学の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月10日(日)

哲学の道の桜
哲学の道へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」。
「俺が俺で俺だから」の如き「俺俺俺」な響きを持つこの歌、詠んだ人は、西田幾多郎。
「絶対矛盾的自己同一」などとややこしいことを言って、京大で京都学派を創始した哲学者です。
その西田幾多郎が思索に耽りながら歩いたから、哲学の道は、哲学の道。
琵琶湖疏水の開鑿に伴い整備された、銀閣寺から若王子神社前までの約2キロの歩道。
そこへ、日本画家・橋本関雪と妻よねによって大正時代から桜の植樹が始められ、
昭和後期に改めて整備、名前も正式に「哲学の道」となり、日本の道100選にも選定。
今では春になるたび、哲学から最も遠い人々が哲学から最も通り理由でそぞろ歩く、
桜の無料&超メジャースポットとなりました。
が、それでも哲学の道は、哲学の道。やはり、吾行く道を、吾は行くなり。
俗人が集うこの雑踏の中こそ、己の哲学的精神を試すには、ふさわしいのではないか。
この享楽的な空間こそ、真に現代的な哲学を構築するのには、ふさわしいのではないか。
そう考え、満開の桜の中を歩きながら、思う存分思索に耽ってみました。

続きはこちら »

平安神宮・紅しだれコンサートへ行きました。もちろん、ひとりで。

2011年4月8日(金)

尚美館ステージのピアノ
平安神宮の紅しだれコンサートへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

紅しだれコンサート。
毎年4月上旬に、平安神宮の神苑で開催されるコンサートイベントです。今回で23回目。
春になれば南神苑を天蓋のように覆う名物・紅しだれ桜、そのライトアップを存分に堪能してから、
招聘されたミュージシャンによる演奏もこれまた存分に楽しむという、実に結構な催しであります。
が、このイベント、料金が高い。2000円。前売りならもうちょっと安いですが、基本、こんなもん。
もちろん、一般のコンサートと比べたら、全然安い値段です。
料金には通常600円の神苑入苑料も含まれるので、実質的な値段は更に下がると言えるでしょう。
でも、何か、抵抗あるなあ。敷居が高いというのもあるけど、それ以上に何か、抵抗あるなあ。
好きなミュージシャンなら万々歳だけど、何かなあ、知らん人、多いもんなあ。
見方を変えたら、普通のライトアップにおまけがついて2000円だもんなあ、きついなあ。
と思って、当日まで金払って観る気は全くなかったんですが、
その日の昼間、都をどりがすんなり観れたことで何か、心がちょっと浮き足立ちまして。
「看板と壁と漏れてくる音だけでネタにしてやろう」という心積もりで応天門まで行ったら、
勢いでチケット買い、特攻してしまいました。

続きはこちら »

祇園へ都をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年4月8日(金)

祇園甲部歌舞練場玄関
祇園甲部歌舞練場へ都をどりを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

都をどり。
言うまでもなく毎年4月に開催される祇園甲部の舞踊公演であり、
多々ある「をどり」の中で、恐らくは最もメジャーな「をどり」であります。
発端は、明治。東京遷都により凋落の危機に立った京都は、産業振興策として博覧会を開催。
都をどりは、その付博覧、いわば余興として生まれました。
明治5年の第1回は新橋小堀の貸し席で、翌年以降に新設された祇園甲部歌舞練場で、毎年開催。
京都の新たな春の風物詩として定着し、現在に至るも高い人気を誇り続けてるというわけです。
もちろんチケットの入手は、その困難さそのものがネタになるくらい、困難。
「男ひとりでフラフラ行って、当日飛び込みで観た」なんて話、あまり聞いたことがありません。
というかそれ以前に、私、「都をどりを観る」という発想さえ、持ったことありません。
しかし、震災を受けて現在の京都は観光客、減少中。特に外人は、激減。
「ひょっとしたら、いけるんじゃないか?」「こんな今だからこそ、行くべきか?」と思い立ち、
普段はせいぜい前を通るだけの歌舞練場へ、正面から客として入ってみたというわけです。

続きはこちら »

二条城のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年3月25日(金)

ライトアップされた開花前の桜
二条城のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東日本大震災からちょうど、2週間。
発生当初の京都は、両本願寺と知恩院の遠忌、そして東山花灯路の開催時期であり、
現地の被害状況さえわからない混乱の中で、イベントの自粛・中止・断行・延期・変更が相次ぎました。
それから時間が立ち、被害の全貌が見え始めた今、京都は春の稼ぎ時に入ろうとしています。
もちろん電力を多用するライトアップのイベントも、目白押しです。
どうするんでしょう。電気の意味さえ変わってしまった現在の状況で、どうするんでしょう。
ライトアップを敢えてやる、何ならガンガン派手にやってしまうことが、
被災地および計画停電に耐える首都圏の心の支えになるのか、私にはわかりません。
家でコタツをつけエアコンもつけ、テレビ観て、PEN4のPC(私のん)を稼動させることが、
ライトアップのイベントで消費&募金するより日本のためになるのか、私にはわかりません。
多分、誰にもわからないでしょう。で、わからんまま、誰もが4月を迎えようとしています。
桜の開花より若干フライング気味に始まったこちら二条城のライトアップは、
「哀悼の灯り」と称された、ある意味、震災「後」をはっきり踏まえた最初のライトアップ。
今後の京都とライトアップがどういう形で進むのか、そのあたりが垣間見えるかも知れません。
あ、二条城の説明、省略します。このライトアップでは、本丸も二の丸も見れないんで。

続きはこちら »

東山祈りの灯りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年3月17日(木)

東山祈りの灯り・幽玄の川
東山祈りの灯りへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東山祈りの灯り。別名、元・京都花灯路。
東日本大震災の発生を受け、行灯の点灯自粛を決定した京都花灯路が、
被災者の哀悼の気持ちを込めて仕様を変更、開催期間の残り期間を消化するイベントです。
13日の時点では「送電は限界がある、節電するより客集めて募金したほうがいい」と、
行灯を点灯していた花灯路ですが、やはりというか何というか、結局は14日で通常開催を終了。
15日からこの東山祈りの灯りが始まりました。
変更点としては、とにかく派手なもんを慎む、追悼する、募金をする、という感じでしょうか。
花灯路の告知ブログには、批判のコメントとして
「今、強行する必要あるのか!コンビニの看板消してるんやぞ」などというものが残ってます。
私がこんな批判を言うとしたら、コンビニではなく自分の家の電気を消した時だと思いますし、
東京で停電を恐れる知人は「絶対にやめるべきではない」とさえ言ってます。
東山花灯路で使用する電気は確か、太陽光などのグリーン発電で作られてたと思うんですが、
それでも電気を使うことは悪ということなんでしょうか。よくわかりません。
もちろん、今、ギンギラギンな気分にはなれないというのはもっとも話ですし、
また、そんな時こそ大人はちゃんと遊んでお金を回さなくてはいけないんだとも思うんですが、
とにかく花灯路は祈りの灯りとなりました。その急過ぎる変わり身の妙、お楽しみ下さい。

続きはこちら »

青蓮院のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2011年3月17日(木)

ライトアップされた宸殿南庭
青蓮院門跡のライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東日本大震災から、1週間。
発生当初は特に自粛ムードもなかった京都でしたが、
被害の凄まじさが明らかとなるにつれ、イベントの中止や延期が続出。
発生二日目の段階では、東本願寺も知恩院も遠忌遂行を宣言し、
知恩院はライトアップも敢行してたわけですが、結局は共に中止、あるいは延期。
東山花灯路も、自粛の消極性より募金の積極性を訴え続行を試みるも、結局は仕様変更。
そんな状況にあって、ライトアップを行い続けてるのが、清水寺、そしてこちらの青蓮院。
青蓮院門跡。夜間拝観の値段が高いことで有名な寺であります。
「そんな紹介の仕方があるか」という話ですが、実際に高いんだから、しょうがありません。
その額、800円。一般的な夜間拝観料金の5割増、清水寺のちょうど倍額にあたります。
門前の親鸞手植による大楠、そして内側から漏れる青い光を眺めつつ、
値段と興味を天秤にかけ、結果、その場を立ち去ったという方も多いのではないでしょうか。
天台宗三門跡のひとつにして、仮御所となった経緯から粟田御所の名も持ち、
かの親鸞が得度してその宗教人生を始めた地でもある、青蓮院。
本来こんなふざけた紹介は決して許されぬ、格式高く由緒正しき門跡寺院なのであります。
でも、夜間拝観料金は今期もしっかり、800円なのであります。

続きはこちら »