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鳴滝・了徳寺の大根焚へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年12月9日(月)


鳴滝・了徳寺の大根焚へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「大根滝」 なるものが存在するとしたら、それは如何なるものでしょうか。
大根が滝の如く流れるものでしょうか。あるいは、滝が大根の如く流れるものでしょうか。
もし後者のような滝だとしたら、 「大根の如く流れる滝」 とは、如何なる状態を指すのでしょうか。
日本語の根源、いやもう言語そのものの根源さえ問い正しかねないそんな深遠なる疑問に、
正面から答えてくれるのこそ鳴滝は了徳寺の大根焚、というのは無論、完全なる大嘘であります。
鳴滝の大根焚。断じて、鳴焚の大根滝ではありません。京都の大根焚き界を代表する、大根焚です。
『蜻蛉日記』 において愛の籠城戦が展開される 「鳴滝籠り」 で著名な、京都洛西の鳴滝。
芭蕉も訪れた文学の香り高きこの地に立つ了徳寺は、浄土真宗開祖・親鸞に因んで創建された寺。
愛宕山に師・法然の遺跡を訪ねた親鸞聖人は、その帰りに鳴滝へ立ち寄り、しばし滞在&説法。
里人には饗応するものがなく、やむなく塩煮の大根を出しますが、聖人はこれに大変御満悦。
お礼にと、筆代わりにすすきの穂を持って 「帰命尽十方石寺光如来」 なる十文字の名号を授与。
で、そのエピソードが伝承+蓮如も訪問+了徳寺が創建+大根焚は報恩講として恒例行事化、と。
近年は京都のあちこちの寺で 「冬の到来を告げる風物詩」 的に行われる大根焚きですが、
鳴滝・了徳寺は、その由緒からも元祖と見なされ、凄まじい数の老若男女を狭い境内に集客しまくり。
いや、客層はより正確に言うなら、「中風除けの御利益を求める老老男女」 といった感じですが、
とにかく 「キング・オブ・大根焚」 と呼びたくなるような盛況ぶりを、12月の度に見せてます。
そんな鳴滝の大根焚、私も栄養的&呪術的にパワーアップを図るべく、頂きに出かけてみました。
狭い寺へ滝の如く人間が流入する混雑のため、大根焚自体のネタ採集がさほど出来ず、
補遺として、鳴滝の地名の由来となった鳴焚の大根滝ならぬリアル鳴滝も、訪問。
湯気+熱気+飛沫が舞う冬の風物詩、狂った駄洒落と共に御堪能下さい。

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2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【後篇】

2013年2月3日(日)


2013年度の節分めぐり、後篇です。

太古の追儺には、は現れなかったそうです。
元々は、一年の穢れを祓うべく、大晦日に宮中行事として行われていた、追儺。
平安以前の追儺において鬼は、方相氏に声だけで追い払われる、ステルス的存在だったとか。
それがやがて、追い払う側の方相氏がそのイカツさゆえに鬼と見做されるようになり、
追儺が民間に膾炙すると、様々なエッセンスを吸収して鬼がより鬼的に造形されるようになり、
更に時代が下りエンタメ化が進むと、人間が豆をぶつけて追い払う極めてフィジカルな存在となり、
現代に至れば携帯で写メという、可視化されるにも程がある存在となり果てたわけです。
しかし、「おぬ」 が語源という説もある通り、真の鬼はやはり、姿が見えないものではないでしょうか。
見えない理由は、もちろん、鬼が私たちの中にいるから。というか、私たち自身も、鬼だから。
架空の大量虐殺兵器をめぐる戦争から、どうでもいい芸能人へのどうでもいい倫理的追及まで、
頓珍漢な正義の誤爆を繰り返す私たちは、可視化された鬼をひたすら外部に求めてます。
己の暗部に目を瞑るため、呪われた日常を少しでも延命させるため、鬼的に造形された鬼を、叩く。
その愚行の影で、真の鬼はどんどん膨張していく。私たち自身が、どんどん鬼化していく。
あまりに愚鈍なこの悪循環を断ち切るには、鬼の無形性を復活させるしかありません。
鬼を再び無形と見做すことで、私たちの中にいる真の鬼を生々しく現出させ、真正面から対峙する。
そう、退治ではなく、対峙する。それこそ、現代における正しい追儺のあり方ではないのか。
そんな哲学的命題を考えながら、知的に冬の京都を歩く、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
2013年節分の後篇は、東山区で鬼が出ない寺社ばかりを集中的にめぐってみました。
決して、無計画に行ったら偶然鬼が出ない所ばかりだったのでは、ありません。
絵が地味なので、屁理屈で誤魔化してるのでは、ありません。違います。

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2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【前篇】

2013年2月3日(日)


2013年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。

旧暦のタイムテーブルが密かに生き続ける京都にあって、
節分は 「本来の年越」 として、ある意味、正月を凌ぐ盛り上がりを見せます。
年末の大祓よろしく、一年の間に溜まった穢れを祓う追儺式があちこちの寺社で行われ、
そこら中で鬼が暴れ回り、そこら中で火炉が炎上し、そこら中で福豆に人々が殺到するわけです。
そんな大賑わいな京都の節分、人が多い所へ多い時に赴くのが趣旨の我がサイトとしても、
無論黙って見過ごすわけにはいかず、これまでも過酷なスケジュールで徘徊を繰り返してきました
鬼が出る寺社へ潜り込んでは、一目鬼を見ようとする人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
舞妓はんが豆まきする寺社へ潜り込んでは、豆を求める人たちに押され、蹴られ、足を踏まれ、
吉田の追儺式では何も見えず、火炉祭では焼死と圧死の恐怖に見舞われた末に締め出しを食らい
須賀神社では恋に効くという 「懸想文」 を男一人でこっそり買ってみたりしてきたわけですが、
そんな暇と阿呆が丸出しな徘徊の季節が、2013年も無事にやってきたのであります。
で、今回は何をするかといえば、かなりユル目というか、はっきり言って省力化 aka 手抜きです。
だってもう、しんどいもん。おまけに、寒いもん。加えて、虚しいもん。それに何より、阿呆らしいもん。
あと、節分前日と当日の2連日を徘徊に使うのが、一応真人間としては、苦しくなってきたもん。
というわけで今回の節分めぐりは、2月3日のみ、東山近辺をうろつく仕様となっております。
超メジャーな観光地と重なるエリアながら、超ネイティブな雰囲気もまた濃厚に残る、東山近辺。
伝統と日常が交錯する京都ならではの節分を楽しむ、大人の 「ひとり節分」 を提案したくて、
このエリアを選び、徒歩だけでユルく、のんびり、気の向くままに、めぐってみました。
京阪沿線の私にとってバス代がかからん所なので、選んだのではありません。
労力と共に金もケチりたくて選んだのでは、ありません。違います。

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下鴨神社の御粥祭へ小豆粥を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年1月15日(火)


下鴨神社の御粥祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

小豆には、魔力が秘められてるんだそうです。
といっても、昭和の相場師を狂わせた 「赤いダイヤ」 云々といった話ではありません。
また、夜の川で小豆を洗うという、何が恐いのかよくわからん妖怪・小豆洗いの話でもありません。
餡子にしたり赤飯炊いたりして食べる、いわゆる食物である、あの小豆の話であります。
小豆が持つ赤黒いビジュアルに、昔の人は何かしらスピリチュアルなパワーを感じてたようで、
年頭&夏越の祓には、その力で邪気を祓うべく、小豆を用いた食物を食す風習を生み出しました。
6月の夏越祓には、氷をイメージした外郎の如き生地に小豆をぶっこんだ、水無月を。
そして年頭に当たっては、白い粥の中で餅と共に小豆が点々と泳ぐ、小豆粥を。
特に小豆粥は、ものごとの変わり目に発生する境界領域に於いてパワーを発揮するとかで、
転居や葬式の際に食べる地方さえあるようですが、最もポピュラーなタイミングはやはり、小正月
宮中では平安時代の頃から、正月最初の満月の日 = 小正月に小豆粥が食されてたそうで、
そのスピリチュアルな食風習は、現在に至るも様々な形で日本全国に残ってます。
京都でも 「1月15日 = 小豆粥」 という認識は家庭の献立カレンダーレベルで根付いてますが、
あちこちの神社もまた、宮中行事を神事化した形で小豆粥の奉納 or 接待を斎行。
中でも、宮中との結びつきが強い上賀茂下鴨の両賀茂社では、御粥祭なるものが行われ、
下鴨の方は有料ながら小豆粥の接待もあるというので、私も出向いてみました。
相場師を狂わせ、謎の妖怪も生んだ、小豆。その魔力を食らう様、とくと御覧下さい。
当日は奇しくも初えと祭もやってたので、その様子も併せてどうぞ。

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恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2013年1月9日(水)


恵美須神社と祇園蛭子社の宵えびすへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

応仁の乱で丸焼けとなった後、京都は商業の街として再生します。
もちろん、止む事無き方々は戦乱以後も変わらずこの街に住み続けたわけですが、
復興や再興の主力となったのは、弱体化した朝廷ではなく、あくまでも民間の商工業者たちでした。
秀吉による手厚い商業保護を経て、実際の政治権力が完全に東へ移った江戸期以降は、
この商工業者 = 町人主導な傾向がより顕著化し、都に残る寺社や風習などもどんどんと商品化。
雅なる伝統を語る一方で、時流に乗った新商品を次々と生み出す観光都市の側面を強め、
「本物」 を求めて入洛した輩には失望のカウンターパンチを食らわせる楽しい街となったわけですが、
そんな話はともかく、京都は今でも 「家が商売してる」 というところが、普通に多かったりします。
で、商売やってる家が多いため、この雅な街でも商売の神様は極めて篤い信仰を集めてたりします。
「しょーばいはんじょでささもてこい」 のフレーズで知られる恵比寿神も、例外ではありません。
バキバキの商都・大阪の今宮戎、あるいは西宮のイメージが強い恵比寿神 = えべっさんですが、
祇園近くに立つ恵美須神社は、その二社と並んで 「日本三大えびす」 と称されるほど、人気。
また、その近所である超メジャー級の八坂神社の境内にも、末社として祇園蛭子社があり、
こちらも 「祇園のえべっさん」 として、祇園で商売やってる人たちから信仰されてます。
恵美須神社も祇園蛭子社も、えべっさんの誕生日である1月10日前後は 「十日えびす」 として、
数日に渡り盛大な祭りを行いますが、9日の 「宵えびす」 には祇園蛭子社がパレードを開催。
えべっさんを筆頭としたコスプレ七福神が乗るえびす船と、金烏帽子姿の福娘さんたちが、
「しょーばいはんじょでささもてこい」 と歌いながら、四条通を巡行する奇景が拝めるわけです。
そんな奇景をメインに、祇園一帯のえべっさんの賑わい、見てきました。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2013年1月1日(火)


嵯峨嵐山で迎えた2013年の年越し、続きです。

夜、嵐電嵐山駅へ降り立つと、田舎の匂いを感じることがあります。
匂いといっても、田舎の雰囲気というような話ではありません。物理的な匂いの話です。
田舎の匂いというか、畑の匂いというか。とにかくそんな匂いを、濃厚に感じることがあります。
当然といえば、当然です。近くの嵯峨野には、農業をやってるところが多く存在するわけですから。
とはいえ、昼間の観光客だらけな嵐山では、まず嗅ぎ取ることが出来ない、そんな匂い。
でも、日が暮れて人がいなくなり、店も閉まって辺りが闇に包まれると、息を吹き返す、そんな匂い。
四季を通じて美しい自然に恵まれた嵐山ですが、それら 「観る自然」 とは一味違う、
よりネイティブな自然が息づく嵯峨嵐山の顔を、そんな匂いに見出したりすることがあります。
2013年の年越しで訪れた、大晦日深夜の嵯峨嵐山も、正にそんな 「夜の嵐山」 でした。
「除夜の鐘&初詣巡りの客を乗せた人力車やタクシーが、正月料金で発狂したように荒稼ぎ」 とか、
花灯路に群がるような阿呆の若者が、路上で酒盛り&除夜の鐘乱打&絶叫カウントダウン」 とか、
赴く前は色々勝手な妄想をしてたんですが、現場にはそんな外道な輩の姿、一切なし。
ごく普通に地元の人たちが、昼間の顔とは全く違う観光街を歩いて近所の寺や神社へ出かけ、
ごく普通に除夜の鐘を撞き、ごく普通に初詣を行う姿が、そこにはありました。
あまりにもごく普通にネイティブ過ぎて、メシ食うところを見つけるのにも難儀しましたが、
しかしそのネイティブな姿は、阿呆の若者+阿呆の観光客が多い東山エリアの年越しよりも、
はるかに魅力的で、かつはるかに本来的なものに見えたのでした。
そんな嵐山での年越し、後篇です。前篇以上に、鐘難民の鐘難民ぶり、全開です。
漆黒の嵯峨嵐山を徘徊する気分、存分にお楽しみください。

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2013年への年越しを、嵯峨嵐山で迎えました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2013年1月1日(火)


2013年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。

2011年2012年と、混んでそうなとこをあちこち特攻し、
寒さと徒労で正月早々死にかけた年越し in 京都ネタ、2013年度版でございます。
除夜の鐘が撞ける寺を巡っては大混雑で退散し、それを繰り返すうちに路上で新年を迎え、
初詣先を求めて今度は神社を巡るもまた大混雑で退散、という愚行をまた重ねるわけであります。
何故そんな下らんことをするのかといえば、もちろん、そこに年越しがあるからです。
そこに除夜の鐘があるからです。そこに初詣があるからです。決まってるじゃないですか。
わけもわからず、行く。気がついたら、既に行っている。目的や理由、由緒や薀蓄は、どうでもいい。
誰にとっても年越しは、そんな惰性と無意識が溢れかえるカーニバルのようなものでしょう。
独男の私にとっても、話は同じです。私の年越しの愚行に、理由なんか、ありません。
むしろ、理由なんか、あってはいけません。何なら、理由なく行くのが、大事です。
私の言ってることが、わかるでしょうか。私は全然、わかりません。とにかく、年越しであります。
今回は、どこへ行こうかなと。年越しで混雑になりそうなとこ、他にどこがあるかな、と。
などと狂ったことを考えてるうちに、思い出しました。メジャー観光地・嵐山へ行ってないな、と。
というか、知恩院の鐘の混雑とかはニュースで見るけど、嵐山の年越しはあまり話を聞かんな、と。
もちろん、嵐山では除夜の鐘を撞かない or 一般公開してないというわけでは、ありません。
天龍寺をはじめ嵐山にある多くの寺院では、一般の人にも除夜の鐘を開放しています。
話は聞かないけど、きっと混んでるんだろうな。であれば、行かねばならぬ。
そんな狂気の義務感に導かれて、2013年の年越しは嵐山で迎えてみることにしました。
東山界隈と同様の馬鹿騒ぎがここでも展開されてるのか or そうでもないのか。
そのあたりの徒労極まる実地確認、御堪能ください。

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京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【3】

2012年12月24日(月)


町家・懐古庵を一軒借りしての聖夜、いよいよ最終回です。

子供の頃に見た町家は、ただただ暗い気分にさせられるものでした。
下松屋町通沿いに住む親戚の家は、古い壁に虫籠窓が開いた、ただ単に古い町家。
中もまたただ単に古く、狭くて暗くて圧迫感のある部屋、得体の知れない化物が並ぶ台所、
至る所から響いてくる木の悲鳴、そして何より家そのものから濃厚に漂う不気味なオーラを感じて、
子供心に 「こんな狭くて暗くて気味悪いところには、絶対住みたくない」 と思ったものでした。
あ、為念で言っておきますが、この頃の我家は4畳半&6畳のアパート暮らし。狭いもいいとこです。
にも関わらず、町家は狭く見えたのでした。それも、自分の家と比べて、狭く見えたのでした。
何かが、いるんですよ。何かが、あるんですよ。で、それが、空間を圧迫してるんですよ。
こんな原体験を持つためか、私は現在に至るも、町家が人気を呼ぶ理由が、よくわかりません。
元から住んでた人が、家を大事に想ったり、大事に使い続けようとするのはわかりますが、
「憧れの町家」 みたいな狂気のフレーズと共に、他所の人が有り難がる理由が、よくわかりません。
90年代後半あたりから、『超力ロボ ガラット』 の主題歌で有名な某女性作詞家を始めとして、
アート or オサレな連中が多く町家へ移住しましたが、あの感じが未だに受け続けてるんでしょうか。
あるいは、リノベのオサレさが受けてるとか。でもそんなの、すぐ陳腐化するしな。
ひょっとすると、町家ブームがここまで長続き&拡大してる理由は、オサレやリノベなどではなく、
私が子供の頃に感じた町家独特の不気味さみたいなものにこそあるのかも知れません。
オサレの影で生き続ける、何か。丸出しにされると引くけど、オサレに包まれると魅かれる、何か。
人間が凄まじく狭いところへ密集し、何世紀にも渡って生活しないと醸成されない、何か。
そんな何かが町家ブームの背後で暗躍してくれてると楽しいんですが、そんな戯言はともかく、
そんな何かがかなり丸出しになってる懐古庵でのクリスマス、いよいよ最終回です。
ラストは、夜散歩、炭酸晩酌、そして狂気の朝食まで、一気に突っ走ります。
孤独、寒さ、太鼓、そして白味噌と戦う様、とくと御覧下さい。

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京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【2】

2012年12月24日(月)


町家宿・懐古庵を一軒借りしての聖夜、続きです。

京都の町家の源流は、実に平安時代まで遡れるそうですが、
現代に続く町家の形は、応仁の乱の後、町人が街の主役になってから整い始めます。
正方形の条坊制町割に秀吉が図子を通し細分化して以降、土地の高度利用はさらに活性化し、
町家本来のレゾンデートルである商売スペースの共有や、間口割の賦課金低減などのため、
家々の間口は 「間口三間」 とよく言われるようにどんどん狭化+奥行きは果てしなく深化。
いわゆる 「うなぎの寝床」 の誕生です。 「これ、どこまで続くねん」 なアレの誕生です。
この果てしなき奥行きは、坪庭を挟むような表屋造の立派な町家などにも当然活用されましたが、
土地を前後で二分し、奥には家賃収入を見込んで借家を建てるケースも、増加します。
表通りから路地 = ロージが引かれ、 その路地を 「一軒路地」 として独占的に使う一軒家や、
井戸や流しや便所が共同+路地自体も半ば公共空間と化したような長屋が、多く建てられました。
「オモテ」 に面した町家が、江戸期以降、各々の家が調和した美しい町並を形成したのに対し、
路地裏の長屋 = 路地長屋は、それらとはまた違う、生活感に満ちた独自の景観を形成。
明治に建てられたというこちらの懐古庵も、そんな路地長屋の形を伝える建物だったりします。
ゆえにここには、坪庭や通り庭、虫籠窓といった、町家の代名詞的なアイテムは、さほどありません。
しかし、ハードコアな共同生活の残り香を激烈に感じさせるオープンおくどさんを始めとして、
リノベをミニマル、あるいはミニマル以下に抑えた敷地内には、よりリアルな何かが、猛烈に残存。
昔日の生活感がきれいサッパリ脱臭されたような、オサレで現代的なリノベ町家にはない、
迫力や渋み、そしてストレンジな味わいを、そこかしらから感じられたりします。
そんな懐古庵の一軒を、ひとりで借りて過ごす、聖夜。ここからはいよいよ、夕食です。
台所が付いてるのをいいことに、リアルな生活感が残る町家に相応しい、
リアルおばんざいをリアルな手抜きで作ってみましょう。

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京町家一軒貸し宿泊処・懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【1】

2012年12月24日(月)


懐古庵を一軒借りして、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリー・クリスマス!!
商魂&性欲&臆病者の承認欲求が破裂する街の乱痴気騒ぎに背を向け、
「汝姦淫するなかれ」 という主の教えに従い、ひとりで過ごす聖夜のお泊り in 2012です。
2010年は1500円の激安宿2011年は寺の宿坊と、清く正しく主の生誕を祝したわけですが、
2012年は、考えてた阿呆なプランの全てが、予約的にも、天気的にも、オール没に。
急に行く所が無くなったので、さあどうしようかなと思ってる時、ふと町家のことが頭に浮かびました。
町家。21世紀以降の京都観光を語る上で、絶対に外すことができない要素である、町家。
元々は本当に単なる古い民家であり、ゆえに昭和以降は法律的にも人心的にもそっぽを向かれ、
駆逐された頃になって希少価値が生まれ、他所の小金持ちが有り難がるようになった、町家。
おかげでここ十数年、京都にはリノベされた町家ショップが見境なく林立するようになり、
単なる民家がゲストハウスや一軒貸しの宿泊施設に化けるケースも、無限気味に増殖しています。
町家、泊まってみるか。猛烈に恥ずかしいけど。でも、検索流入は、増えるかもな。
そう思って町家宿を調べ始めると、値段が異常に安い所と、異常に高い所が、やたら多い。
安い方はもちろん、いわゆるゲストハウス。高い方はもちろん、いわゆる一軒貸し。
民家を旅館のような部屋割で使うのは難しいので、こうなるのも当然といえば当然なんでしょうが、
でもなあ、ゲストハウスは嫌だなあ、旅人とのコミュニケーションとか、凄く嫌だなあ。
というわけで、一棟貸しの中でも値段が安くて、ひとりでも宿泊可能な宿を探してみました。
見つけたのは、東山三条近くの、懐古庵という宿。明治に建てられた路地長屋を転用した宿です。
値段は、ひとりだと一万円代から。確かに他所よりは、安い。でも、私には十二分に、高い。
なので、食事は完備されてる台所を利用し、ケチ臭い料理ばかり自炊してみました。
生活感が残る町家で、ひとり料理し続ける聖夜、見届けて下さい。

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六波羅蜜寺のかくれ念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月13日(木)


六波羅蜜寺のかくれ念仏へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

かくれ念仏。正しくは、元かくれ念仏。
今は隠れてません。今も隠れてたら、見れませんから。
近年に公開されるまで、実に800年に渡り六波羅蜜寺で秘儀とされてきた、かくれ念仏。
その正式名称は、空也踊躍念仏。空也とはもちろん、口から小阿弥陀を吐いてる、あの空也です。
飢饉&疫病による放置死体がそこら中に転がっていた平安中期の京へ現れ、
仏の教えのみならず、火葬による防疫や架橋などの実用的な知恵も民に説いた、空也上人。
「阿弥陀聖」「市聖」「市上人」などの呼称で幅広い帰依者を得ましたが、
さらに念仏をわかりやすく伝えるため、上人は踊念仏を開発。それが、空也踊躍念仏の始まりと。
上人の建てた西光寺がルーツの六波羅蜜寺は、当然空也をモストリスペクトしており、
阿弥陀吐き空也像はもちろん、上人自刻という本尊十一面相観音像も1000年の永きにわたり保持。
さらには、鎌倉の念仏弾圧時代に入っても「上人の教えを捨てるわけにはいかぬ」と、
あの手この手を尽くして、こっそりと念仏をキープオン&キーピングオン。
まともに「南無阿弥陀仏」とやったら即座にとっ捕まるのため、言葉面を巧みに変容させ、
いつでも中断してトンズラできるよう構成にも工夫を凝らし、独特の踊り念仏を生み出しました。
以後、念仏弾圧の時代が過ぎても空也踊躍念仏は隠れ続け、そのまま現代へ至ります。
昭和53年、重要無形文化財に指定されたのをきっかけとして、
元来の「民と共にある念仏」の姿を取り戻そうと、一般公開が開始されました。
なので、元かくれ念仏。もちろん、こっそり行く必要もありません。
おまけに、念仏の拝観だけなら、無料です。

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宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年12月9日(日)


宝厳院の秋の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

東山に立つ禅刹・高台寺の、その和風テーマパークぶり
特に春秋のライトアップとなれば、開基・北政所ねねの夫である豊臣秀吉の魂が、
下世話さのみを抽出して再生されたかの如く、境内は絢爛&ケバケバしき輝きが、溢れまくり。
人によっては 「商業主義」 「それでも禅寺か」 と眉を顰めるような世界が現出してしまうわけですが、
しかし、90年代の改装で生まれたこの輝きが、京都観光の夜の姿を変えたのもまた、事実。
多くの寺院が追随してライトアップを始め、光へ群がる虫の如きカップルどもを動員するようになり、
近年に庭園を整備した寺では、桜も紅葉も、照明で自在に出現させる所さえ現れました。
嵐山を代表する禅刹・天龍寺の塔頭であり、近年大堰川沿いへ移転した宝厳院も、そんな寺です。
室町時代に上京区で創建されたものの、応仁の乱で焼失+同じ天龍寺塔頭の弘源寺へ移転、
21世紀に入って、これまた天龍寺塔頭であった妙智院の跡地へ移転を果たした、宝厳院。
個人所有の別荘だった時代が続いた敷地には、別荘時代に作られた大正期の書院や、
妙智院時代の遺産である 「獅子吼の庭」 、現代数奇屋の新築本堂など、それなりに見所、多し。
ですが、この寺の一番の見所は何といっても 「高台寺以後」 を強く感じさせる照明でしょう。
12月を過ぎ、紅葉の大半が散ってもなお、庭園に 「紅葉」 がある気にさせる、照明。
やり過ぎを通り越して、「そもそも紅葉とは何だ」 と思わず根源的疑問さえ発したくなるその輝きは、
「存在しない紅葉を見る」 という、ある意味で枯山水にも似た禅的境地へと俗人を誘い、
さらには、電飾庭を枯山水の 「次」 の様式として確立せんとする試みなのかも知れません。
と、書いてる自分でさえ阿呆らし過ぎて呆れてしまう戯言はどうでもいいとして、
とにかくそんな宝厳院の秋の夜間拝観、完全に真冬ではありますが、行ってきました。
折りしも嵐山は、紅葉が枯れた山を電飾で照らす無理矢理集客策・嵐山花灯路を、開催中。
無意味に青く光る嵐山を借景として、幻覚の紅葉を楽しんでみたというわけです。
冬の嵯峨野を彩る禅のエレクトリカルパレード、とくと御覧下さい。

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醍醐寺の五大力へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年2月23日(木)


醍醐寺の五大力へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

五大力。
一応、念のために言っておくと、長州力とは関係ありません。
長州力にそっくりの人が餅上げ大会に参加してはいましたが、関係ありません。
正式名称、五大力尊仁王会。 「五大力の尊仁王会」 ではなく、「五大力尊の仁王会」 。
平安時代の五重塔で知られる世界遺産・醍醐寺で毎年2月23日に行われる最大の行事であり、
上醍醐の五大堂に祀られる五大力尊へ、国家安穏・万民豊楽を祈願する法会です。
本来は山上までしっかり登って、五大堂でしっかり厳修するのが筋なわけですが、
さすがに3.5キロの登山は万民には厳し。なので、山麓・下醍醐でも祭灯護摩供を、終日厳修。
また、災難&盗難除けの功徳があるという本尊・五大力尊」の「御影」 も、この日に授与。
この札は、愛宕さんの 「火迺要慎」 お札と同じく京の家々の定番のお札であり、
ゆえに、善男善女が集結。それを目当てに露店も集結。えらい賑わいとなるのであります。
加えて五大力の集客力をブーストしてるのが、餅。餅あげ。餅あげくらべ。
女性90キロ・男性150キロもの巨大な紅白の鏡餅を持ち上げ、持ち上げ続け、その時間を競い、
発揮した大力を五大力さんに奉納して無病息災を願うというのが、餅上げです。
戦後に余興として始まったものですが、巨大餅そのものの存在感と、
それを必死で持ち上げる挑戦者の姿のインパクトが人気を呼び、定着化。
この日は金堂+五重塔が無料開放されることもあり、今では京都に春を告げる行事になってます。
その五大力さん、生憎の雨ですが、行って来ました。

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阿含の星まつり2012へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年2月11日(土)


阿含の星まつり2012へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

阿含の星まつり。
正式名称、 「炎の祭典・阿含の星まつり 神仏両界大柴燈護摩供」 。
阿含宗が、京都・東山の総本殿で毎年建国記念日に行う、護摩法要です。
一大観光都市・京都にあって、50万人(主催者側発表)と宵山以上の動員力を誇り、
CMはバンバカ流れるわ、シャトルバスはR1を走りまくるわ、そこら中で山伏がウロウロしてるわと、
大騒ぎの祝祭状況を現出させる割に、何故か観光案内などでは扱いが小さい行事であります。
不思議だなあ。何でもっと大きく取り上げないんでしょう。いや実に、不思議だなあ。
ひょっとすると混雑が既にパンク状態で、取り上げようがないんでしょうか。何せ 「50万人」 だし。
でも去年行った感じでは、50万人はちょっとない感じに見えたけどなあ。不思議だなあ。
そんな不思議な星まつり、前年は早朝からそのシャトルバスへ乗り込み、
もの凄い雪が降る中で護摩が点火&爆発するオープニングを拝ませてもらった
わけですが、
今年はその逆、エンディングの鎮火・火伏せをメインにして出かけてみました。
何故かといえば、朝早く起きるのが面倒くさくて、しんどかったからです。
加えて、今回は現場まで徒歩で行こうと決めてたので、より安全な昼間を選んだわけです。
阿含宗総本山があるのは、清水寺・奥の院の背後から500mくらいのところ。
「歌の中山」 で知られる清閑寺&京都随一の心霊スポット・旧東山トンネルを通る道があったりと、
両者のアクセスは妙に良好だったりします。で、今年はそこを歩いてみた、と。

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2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【2】

2012年2月3日(金)


2012年の節分めぐり、続きです。3日の昼の部。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

【2】、北野天満宮の追儺狂言、そして千本釈迦堂のおかめ福節分です。

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2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。【1】

2012年2月2日(木)


2012年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。
2月2日と3日の両日を、暇丸出しでフルにうろつきまくってます。

【1】 八坂神社の芸舞妓舞踊奉納+豆まき壬生寺の節分狂言須賀神社で懸想文購入
【2】 北野天満宮の追儺狂言+芸舞妓舞踊奉納+豆まき千本釈迦堂のおかめ福節分
【3】 千本ゑんま堂の節分狂言吉田神社の火炉祭大炎上

の、まずは 【1】、八坂神社、壬生狂言、そして懸想文です。

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石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月29日(日)


石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

鬼やらい。いわゆる節分の追灘というものです。
今なお深層意識の中では旧暦のタイムテーブルがしぶとく生き続けているためか、
「本来の年越し」みたいな感じで、ある意味正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
京都市内の多くの寺社が2月3日を中心に各種祭典を行ない、大きな賑わいを呼んでいますが、
我が地元である石清水八幡宮は、節分に一番近くて早い日曜日に、鬼やらい神事を開催。
ちょっと、フライングです。何故かといえば、まあ多分、客を呼ぶためじゃないかと。
この神事、始まったのは割と最近。最近といっても、もう25年くらいはやってるそうですが。
京都市内の節分行事も、実は結構歴史が浅い復活系のものが多かったりしますが、
八幡の鬼やらいはそれらに増して新しく、イベントテイストがより濃厚です。
本気というよりはお遊びであり、開催日を厳密に2月3日とする必要がないタイプの行事であり、
ついでに鬼のクオリティも若干の手作り感が否めないものだったりするのであります。
しかし、いやむしろそれゆえに、ある種の大らかさみたいなのは、炸裂。
出てる方にも、そして見てる方にも、率直な笑顔が溢れる鬼退治と言えるんじゃないでしょうか。
この数週間前には、某大河ドラマ清盛の舞の舞台となってた、石清水八幡宮。
初詣厄除大祭と続くボロ儲け月間を締めくくるのに相応しい混雑の中、
一足早い節分を楽しんできました。

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チャーミングチャーハンめぐりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月22日(日)


チャーミングチャーハンめぐりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

チャーミングチャーハン。
その恐るべきネーミングセンスで、京都はおろか日本全国を震撼させた中華料理店です。
死ぬほど暇な時に思わず検索欄へ打ち込んでしまいそうなワードを堂々と屋号に掲げ、
「焼きめし+チャーハン付き」などという、言語への挑戦のごときメニューをひっさげたこの店が、
移転先の堀川丸太町で突如ブレイクしたのは、もう何時のことになるのでしょうか。
ブレイク当初は 「ネットやマスコミから散々ネタにされ、消費され尽くされたところで、終了」 か、
「ネーミングをさらにエスカレートさせ、収拾つかなくなり、終了」 みたいな展開を想像してたんですが、
店は意外にも普通のお手頃中華屋として存続&出前サービスが効いて地域に定着。
遂には2011年の暮、今出川通へ支店まで出してしまいました。
もちろん支店の方も、チャーミングチャーハンの店名、「焼きめし+チャーハン付き」、ともに健在。
もしかしてチャーミングチャーハン、狙ってるんでしょうか、飛躍を。
かつて王将が、四条大宮の賃貸ビルから全国区へ羽ばたいたような、飛躍を。
かつて天下一品が、北白川の屋台から全国区へ羽ばたいたような、飛躍を。
そのあたりの腹を探るべく、新規オープンの今出川店、そして本店を、いっぺんにめぐってみました。

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石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月19日(木)


石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

石清水八幡宮はその創建時から、明確に王城守護を目的としています。
平安京陰陽道に基づいて展開した怨霊防衛線構築の最終ステージにおいて、
裏鬼門守護の責を担うべく、パワフルで雄弁な神・八幡神を勧請して建てられた、国策神社。
そう、石清水は紛れもなく「国のための神社」であり、地元の言い方だと「お上の神さん」なわけです。
それゆえ明治維新の際に神仏分離令が出ると、「お上」からのお達しと慌てふためき、
山中の仏教施設を片っ端からブッ壊したり売り飛ばしたりもするわけですが、それはともかく。
しかし、そんな「お上」第一な石清水八幡宮にも、民衆と切り結ぶ接点は存在します。
それが、厄除。いわゆる厄年とか、厄ばらいとかの、厄除です。
こちらも元々は、京への疫神侵入を阻止する朝廷の祭祀「畿内十処堺疫神祭」が由来であり、
疫神社 = 現在の山麓頓宮に道祖神を招き、国家安泰を祈願する「お上」なものでしたが、
やがて民衆からの厄除信仰の方が強くなり、1月15日~19日の祭儀は「法会」という名でお祭り化。
京都や大阪から大挙して参拝客が押しかけ、それを目当てにした土産店なども多数立ち、
田楽・舞楽・相撲の奉納も行われるなど、それは大層な賑わいだったといわれてます。
神仏分離で石清水がズタボロ化したのちも、民衆ベースである厄除信仰は根強く持続したようで、
敗戦で戦勝の神としての名声を失ってもなお、「法会」だけはしばらく隆盛を保ったそうです。
現在は「厄除大祭」と呼ばれるこの祭儀、古代祭祀のルーツは18日に斎行される 「青山祭」 に残り、
「お祭り」テイストの方は期間最後の日に行われるこの焼納神事が担ってる感じでしょうか。
焼納神事は要するに左義長 or どんど焼きであり、規模もそこそこなもんですが、
厄除開運餅がタダでもらえるということもあり、結構人気があります。
そんな焼納神事へ、「法会」の残り香を嗅ぎに行ってきました。

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石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2012年1月18日(水)


石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

青山祭。もちろん、青山学院大学の学園祭ではありません。
呪術都市・平安京が構築した悪霊・疫病・厄神防衛線の名残を、現代にまで伝える神事です。
「悪しきものは、人と同じく道を歩いて都へ入る」という当時のセキュリティ思想に基づき、
平安京の国境には、怨霊の水際対策として霊的城壁を築くべく、強力な寺社が建立されました。
鬼門封じの猿ラインは言うに及ばず、四方を固める大将軍各社や逢坂山蝉丸神社
あるいはパワーが強過ぎていまや心霊スポットとしか思われてない老ノ坂の首塚大明神などなど。
中でも、裏鬼門であることに加え、都と瀬戸内海と直結する水路のゲートでもあり、
さらには魔の国・大阪と山を介さず接している数少ないポイントに鎮座する石清水八幡宮には、
より強い霊的パワーが求められ、そのニーズは古代祭祀が消滅した後世も継続。
厄神防衛線の各社で斎行されたという祭儀「畿内十処堺疫神祭」は、
石清水では道餐祭として残り、斎場を囲む青柴垣に由来して「青山祭」と名称を変化。
八幡の厄除としての評判が民間にも広まるに連れ、正月以上に人を集めるお祭りへ変貌しました。
と、青山祭についてざっと調べると、こんな感じの話がいろいろと出てきます。
が、実際の内容についての情報が、妙に少ない。現在、何をどうやってるのかの情報が、少ない。
秘儀なんでしょうか。現在もこっそり、呪術とか、魔界とか、やってるんでしょうか。
私、子供の頃は近所に住んでましたが、そんな話、聞いたことありません。
やはり、秘儀か。そのあたりを確認すべく、日の暮れかかる山麓下院へと出かけてみました。
そして、そこで目にした「真実」は、実に驚くべきものでした。

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