2013年12月24日(火)

橋本の多津美旅館で、聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。
日本に於けるクリスマスは、何故、性の祝祭となり得たのでしょうか。
考えてみれば、不思議です。歳末の忙しい時期に、セックス祭。不思議というか、妙です。
バレンタインデーなら不思議はありません。というかむしろ、自然。なのに何故、クリスマスかと。
その理由は、クリスマスが孕む境界性にあるのではないかと、私は勝手に考えてます。
「今年と来年」 または 「平時と年末」 という、時期的な境界。 「西洋と東洋」 という、文化的な境界。
そして、帰省する者が現在より遙かに強く感じたであろう 「都市と地方」 という、地理的な境界。
本来の起源も 「太陽神の誕生祭」 = 冬至の日であるように、クリスマスは様々な境界を孕んでます。
境界 or アジールが、遊興や性的放埓へ人を駆り立てる魔力を持つことは、周知の事実。
その魔力が、バブル期日本の聖夜に於いてより強烈に作用したのではないかと、私は思うのです。
本気で思うのかといえばもちろん冗談ですが、しかし、聖夜の性祭化に謎があることは、確か。
そこで、聖夜に孤独な聖戦を繰り返して来た当サイトとしては、より敵の本質に肉迫すべく、
境界性がより露わとなるスポットで、2013年のクリスマス単独お泊まり企画を決行してみました。
泊まったのは、橋本の多津美旅館。橋本は、私の地元・八幡にあり、かつて遊廓のあったところです。
「天下分け目の天王山」 の山崎と、淀川を渡る橋で結ばれてたことにその名が由来する、橋本。
京都と大阪の国境+石清水八幡宮の門前にあって、淀川通運の宿場町+門前町として、
また昭和33年の売春防止法施行に至るまでは大きな廓町として、大いに賑わった町であります。
遊廓廃止後も街並がかなりそのままの形で残り、好事家の注目を集めるようになったため、
その手の書籍やサイトがお好きな方なら、町の名前を聞いたことがあるという方もきっと多いでしょう。
多津美旅館は、そんな橋本にあって、売防法施行後に遊廓から転業されたビジネス旅館。
建物は大半が改装されてますが、玄関には華やかなりし往時の面影が猛烈に残ってたりします。
八幡市民の私としては、ちょくちょく前を通るところであり、何か凄く気まずいんですが、
クリスマスと境界性の関係を見据えるにはこれ以上の場所はないと考えて、泊まってみました。
えと、題材が題材+地元の話ゆえ、今回ちょっと、重いです。と同時に、狂ってます。
色んな意味で真面目な方は、閲覧、御遠慮下さい。では、行きましょうか。
【本記事の内容は、全て筆者個人の主観に基づくものです】
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2013年11月30日(土)

光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「月影の いたらぬ里は なけれども. 眺むる人の 心にぞすむ」 。
浄土宗の開祖である法然上人が、阿弥陀仏への信仰を詠んだといわれる歌です。
月影とは、仏が放つ光のこと。つまり、世界のあらゆるところに仏の慈悲は届いている、と。
しかしその光が真に光となるのは、眺める人の心の中だ、と。念仏を唱える人の心の中だ、と。
上人はそんなことを仰ってるのであります。何と有り難く、示唆に富んだお言葉でしょう。
私たちは、とかく物事の悪い面ばかりを見つめ、論いがちです。また、自身の不幸を嘆きがちです。
しかし、それは間違っている。私たちは、既に、仏の大いなる慈悲に包まれているのです。
如何なる時も、仏の光に照らされているのです。輝いているのです。存在が祝福されているのです。
私たちはそのことに、気付かなくてはいけない。そのことを、受け入れなくてはいけない。
偽りのさもしさに身をやつしては、いけないのです。心を開き光を信じなければ、いけないのです。
と、調子に乗って適当なことを書いてると、違う宗教の勧誘みたいな感じになってきましたが、
とにかく法然上人によると、仏すなわち光であり、光すなわち仏となるんだそうですよ。
そんな上人の開いた浄土宗には、そのままずばりな 「光明寺」 という名の寺がいくつかありますが、
中でも最も有名なのは、上人の廟所がある京都西山粟生野の光明寺ではないでしょうか。
法然が初めて念仏の教えを説き、叡山に襲撃された上人の柩が光で指したという、粟生野の地。
熊谷次郎直実は、この地に念仏三昧堂を建立すると共に、上人の廟所を建立に尽力。
その話を聞いた四条天皇の勅願で光明寺と改名され現在に至る、西山浄土宗総本山であります。
総本山らしい規模ながら、普段は郊外にあって静かな佇まいを見せる光明寺ですが、
紅葉の名所でもあり、秋ともなれば正しく 「光」 を 「観」 る人たちが溢れかえる混雑を現出。
通常は拝観無料ですが、この季節だけは有料化するほどの繁盛振りを見せてます。
そんな光明寺の紅葉、観てきました。紅の光、お楽しみ下さい。
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2013年11月29日(金)

善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子が2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。
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2013年10月7日(月)

園部のくりや本店とかどや老舗に栗餅を買いに行きました。もちろん、ひとりで。
京都の秋の味覚といえば、丹波栗。
和菓子店はもとより、洋菓子店や料理店でも秋となれば、その名を見かけます。
丹波の地より運ばれてきた山の味覚に、京童は秋の到来を感じ、心を躍らせるというわけです。
が、私は丹波栗と聞いても、特に心が踊りません。何故なら、私の本籍地は丹波だから。
父の実家は家庭の事情で私の生まれる前に地上から消滅しましたが、母の実家はまだ健在で、
長じて孤立を深めるようになる以前は、私も普通に、丹波の旧家をたびたび訪れてました。
敷地内には何本か栗の木が生えていて、秋に訪れた際にはその栗の木へ蹴りを入れ、
「痛い痛い痛い」 とか言いながら落ちてきた栗を拾い、「痛い痛い痛い」 とか言いながら針皮を剥き、
生のまま食おうとしては 「固い、食えへん」 と、何度も何度もその辺に捨ててたものです。
もちろん、おやつにはちゃんと茹でた栗を出してもらえたわけですが、それも私は嫌いでした。
何故なら、茹でられてもなお、皮を剥くのが、面倒くさいから。パクッとすぐ、食えないから。
「痛い」 「固い」 「面倒くさい」 。これが、私の抱く丹波栗の原風景ということになります。
自分で書いてても 「死ねよ」 とか思いますが、そんなわけで、丹波栗と聞いても心は躍りません。
が、このサイトの趣旨は、ベタの単独正面突破。栗も一応、押さえておくべきでしょう。
京都で栗といえば、丸太町の 「くりや」 が、定期的に京都新聞へ広告を出したりしてますが、
あそこで栗菓子各種を買って食うだけでは、ちょっと楽過ぎるというか、ネタにならん。
なので、くりやの本店があり、父の故郷&私の本籍地でもある園部へ行ってみることにしました。
栗の産地である園部では、くりや園部本店&400年続くという超老舗のかどや老舗の両店が、
栗の収穫期だけ栗餅を販売するというので、それを買いに行ってみようじゃないか、と。
プレミアな栗餅、城、生身の神社、そして何故か味噌とんかつも登場する、
栗に導かれた錯乱する魂の遡行、お付き合い下さい。
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2013年8月14日(水)

南丹市やぎの花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
軍人の墓を初めて見たのは、母の実家がある八木の墓地でした。
父方の墓地でも、近所の墓地でも、何故か軍人の墓を見たことがなかった幼い私は、
母方の祖父の墓参りへ出かけた際、初めて目にした形状の墓を指さして、母に尋ねたのでした。
「なんであのお墓、先っちょが尖ってるのん」 「あれは戦争で死なはった人のお墓やから」 。
あ、別に祖父が戦死した軍人だったというわけではありませんよ。全然、全く、違います。
祖父は、酒に狂い、 「俺はマッカーサーの通訳やった」 と妄言を吐き、DV三昧の末、野垂れ死。
母が 「死んで、嬉しかった」 と語るような人なんですが、ゆえに里帰りの際も墓参りはあまり行かず、
ゆえに数少ない墓参りで目にした 「戦争」 の痕跡が、私には妙に強く印象に残ったのでした。
八木町が、他の地域と比べて特に戦没者が多いところなのかどうかは、よくわかりません。
が、恐らく戦後すぐの頃には日本の至るところで開催されていたであろう戦没者慰霊の花火大会が、
失礼ながら決して大きいとは言えないこの町で、形を変えながらも盛大に継続されているのは、
私には、どうでもいい個人的記憶とも結びついて、妙にしっくり来ることだったりします。
2005年の大合併で南丹市の一部になりましたが、それ以前は独立した町だった、京都府八木町。
またまた失礼ながら、農業と男前豆腐以外にはこれといった産業も、観光資源も無い町ですが、
それゆえなのか何なのか、戦後すぐに戦没者慰霊で始めたお盆の花火大会は、徹底死守。
死守のみならず花火の規模はどんどん巨大化し、超至近距離で5000発の花火が炸裂する様は、
戦没者慰霊というより、もはや爆撃そのものの再現としか思えないほどの迫力を、現出。
そのあまりの凄まじさゆえ、近隣住民&私の家族みたいなお盆で里帰りする連中は無論のこと、
京都市 or 関西圏全域からも客を集める、メジャーな花火大会へと成長しています。
もちろん私にとっても、正気だった子供の頃に何度も見た、思い出のある花火大会です。
そんな思い出のある花火大会、狂気の独り身で再訪してみました。
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2013年7月22日(月)

八幡ナイトウォークをやってみました。もちろん、ひとりで。
「そうだ 京都、行こう」 連携の夜間拝観をしている、2013年夏の石清水八幡宮。
あれ行って、ライトアップを存分に堪能してから、あなた、どうしますか。そのまま、帰りますか。
「そうだ」 のロゴ入り提灯を返すため、ケーブル山上駅へ帰るしかない、と。そりゃまあ、そうですね。
で、ケーブルで下へ降りたら、そのまま真っ直ぐ京阪電車に乗る、と。で、帰る、と。
だって、しょうがないじゃないか、と。山上にも山下にも、めぼしい遊びスポットはないじゃないか、と。
駅前には、居酒屋が一軒あるだけじゃないか、と。他はあたり一面、漆黒の闇じゃないか、と。
確かに、そうです。そそくさと帰って、当然です。しかし、それでもやはり、惜しい。
八幡には、色々と面白い所があります。石清水八幡宮を中心に、色々と面白い所があります。
京都の裏鬼門を守護する社として、または源氏の武神として、あるいは厄除の神様として、
キナ臭い創建以来1000年以上に渡り、貴賎を問わない信仰を集め続けてきた、石清水八幡宮。
その歴史の痕跡は、鎮座する八幡山 = 男山の周囲に、様々な形で紛れ込んでいます。
あるものは、観光資源に化けそうな魅力を持ってたり。あるものは、観光化が絶対不能だったり。
電飾や映像技術で偽装された幽玄さに陶酔するのも大いに結構ではありますが、
現代生活と 「歴史」 がコンフリクトする、そんなリアルな町の姿も見たいとは思いませんか。
というわけで、夜間拝観の帰りに八幡をゆっくり巡るウォーキング、設定してみました。
名づけて、八幡ナイトウォーク。歩行距離、約12キロ。所要時間、約4時間。
グーグルで 「京都府八幡市」 と検索したら 「治安」 とキーワードが提示されるような町を、
夜、真っ暗の中、不審者全開でウロウロと歩きまわろうというわけです。
独男にしか、出来ないことであります。そして、独男だけの楽しみでもあります。
歴史丸出しなスポットから、単なる地元民愛着丸出しスポットまで、
生の八幡を感じるウォーキング、さあ、出発しましょう。
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2013年7月20日(土)

石清水八幡宮の夏の夜間特別拝観へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「そうだ 京都、行こう」 。
「人の住んでる所を、そうだ呼ばわれすんな」 と言いたくなるこのフレーズが、
JR東海による新幹線の広告キャンペーンに使われるようになり、もう20年もの時間が経ちました。
東京から2時間というタイム感を、 「そうだ」 という無礼千万な一言を用いて表現したことで、
より京都旅行をカジュアルに、そして気軽にリピートさせることにも成功した、「そうだ 京都、行こう」 。
古典的なパックツアーを、行き先だけちょこっと目先を変えて 「上質」 なるものに化けさせ、
おかげで狭い寺に大量動員をかけ、無茶苦茶な混雑を生んだりもしてる、「そうだ 京都、行こう」 。
自分で勉強したり調べたりするのは面倒だけど、 「私だけのお気に入り」 の京都は欲しい。
知性を圧迫してエゴだけが膨張した消費者の、そんな勝手極まるニーズにもしっかりと応え続け、
京都もまた奥が深いがゆえに、無茶な注文に対応が出来てたキャンペーンなわけです。
しかし、さすがに20年もやってるとネタ切れとなったのか、「そうだ 京都、行こう」 、
遂に私の地元である石清水八幡宮にまで、その魔の手を伸ばしてきました。
「まあ神社自体はそれなりに大きいけど、それ以外は特に目ぼしいスポットは、ないぞ」
「女子供に受けがいいメシ屋やスイーツなんか、全然ないぞ」 「夜なんかもう、ゴーストタウンだぞ」
と、地元民としては思うことしきりだったりするんですが、そんなのは全て、杞憂でした。
石清水八幡宮、従来は石清水灯燎華で3日間しか行われなかったライトアップを、
キャンペーンと提携した 「夏の夜間特別拝観」 として、7月中旬から8月末まで、1ヶ月半も開催。
地元商工会も、これを機に観光客を呼び込もうと、特設ステージやイベントを用意。
「私のお気に入り」 になることを、目指すというわけです。鳩が、鷹になろうというわけです。
そんな地元の奮闘、 「絶対無理じゃ」 と思いながらも、観に行ってきました。
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2013年7月20日(土)

八幡駅近観光をやってみました。もちろん、ひとりで。
「八幡って、石清水八幡宮の他に何があるの?」
よく訊かれる質問、ではありません。そもそも大抵の人は、八幡にあまり興味がないので。
しかし2013年の夏は、石清水八幡宮がかの 「そうだ 京都、行こう」 の提携先に選ばれました。
捏造された京都幻想を抱えた幾ばくかの人が、捏造されたCMと全然違う八幡さんに落胆したのち、
懲りずに 「私のお気に入り」 を捜し求め、物欲しげに八幡市内をうろつくことが予想されます。
その中には、背景ボカシの彼方やフレーム外へ抹殺された真実を愛せる心を持ちながらも、
一時の気の迷いで 「そうだ」 の導きに乗っかってしまった、独な同志の方もいるかも知れません。
消費者ボケした享楽乞食のレミングなど、ポンコツ街道でスクラップにされてしまえばいいのですが、
同志の方が、ケーブル乗って、八幡さんをお参りして、何なら松花堂弁当も食って、
「ふーん」 という感慨だけ抱いて帰ってしまうというのも、それはそれで、残念ではあります。
というわけで、石清水八幡宮参拝のついでに小さめの観光スポットを回るコース、設定してみました。
八幡には、流れ橋や松花堂など結構いろんなスポットがあるんですが、生憎、いずれも遠い。
流れ橋は、アクセスも、よろしくない。レンタサイクルは無料ですが、今の時期、暑い。
なので、駅から徒歩10分程度の範囲内にあるスポットだけで、コースを設定。
駅近で一番スペクタクルで面白いのは、神応寺の記事でも紹介した駅前渓谷なんですが、
ここは本当にスペクタクル過ぎて、雨が降った後とかだと怖過ぎるのでパスし、
平地の穏やかな門前町をめぐり、最後はおやつのかき氷で締める仕様としています。
幼少期の私の行動圏である、静かでのんびりした八幡を、お楽しみ下さい。
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2013年6月16日(日)

八幡市文化センターで映画 『レ・ミゼラブル』 を観てきました。もちろん、ひとりで。
八幡市文化センター。
私の地元・八幡が、かつて熱かった時代の遺産であります。
などという書き方をすると、今は冷めてしまってるのかという話になってしまいますが、
少なくとも30年前、人口が増えまくり市制に移行した前後の八幡は、今よりも熱かったはずです。
石清水八幡宮の門前にあって、長らく静かな町であり続けていた、京都府綴喜郡八幡町。
しかし、多くの参拝者が精進落としに励んだ橋本遊郭が、昭和33年の売春防止法を受けて、全廃。
税収の実に3分の1を失った八幡は、男山の大阪側に団地を誘致します。男山団地の誕生です。
団地以外の宅地化も進め、2万人だった人口はその3倍以上の7万人にまで、爆発的に増加。
「このまま行ったら、10万越え、確定」 と踏んだ当時の行政は、文化施設の建設も景気良く断行し、
1983年、市役所の向かいに巨大なる八幡市文化センターを、勢いに任せて完成させました。
収容人員1220人&残響可変装置完備の大ホールは、現在に至るも音響面の評判は上々ですが、
地の利の悪さ&身の丈に合わない箱モノの宿命が相まって、コンテンツは圧倒的に、不足気味。
アーティストやオーケストラのコンサート、学生の演奏会など、それなりに活用はされつつも、
人口減少中の八幡にあって、廃墟、もといお荷物、もとい遺産な存在感を、日々強めつつあります。
そんな文化センター、たまに映画もやってて、この日上映されたのが、かの 『レ・ミゼラブル』 。
「最初から最後まで歌いっぱなし」 という無茶苦茶なつくりで、大ヒットしたミュージカル映画です。
音響が売りのホールで見るには、実に相応しい。なので、市民の義務として出かけてみました。
ついでに、八幡市駅からホールまでの、府道22号線とは違うルートも、御紹介。
のんびりとした本当の八幡を、感じてもらいましょう。
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2012年10月25日(木)

亀岡祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
山鉾巡行は、祇園祭だけの専売特許というわけではありません。
「山車」 でも、「屋台」 でも、あるいは 「だんじり」 でも、名前は何でもいいですが、
「曳山を曳いて盛り上がる」 祭礼というのは、日本全国に数え切れないくらい存在するわけです。
もちろん当の京都でも、近郊には多くの祭があり、その内のいくつかは曳山祭だったりします。
そして、近郊であるがゆえに、祇園祭から強い影響を受けた曳山祭も、存在したりします。
中でも、極めて似てて、極めて規模が大きく、そして極めて魅力的なビジュアルを持つ祭といえば、
京都府亀岡市の城下町を舞台に繰り広げられる、鍬山神社例祭・亀岡祭でしょう。
京都から出雲へ続く山陰道の要衝として、古くより軍事的に重要視されてきた亀岡 = 亀山は、
信長にブチ切れる前の明智光秀が亀山城を建てたことで、城下町として一気に発展。
この地を開拓したという伝説を持つ地元の氏神・鍬山神社も、手厚い保護を受けるようになり、
長く途絶していた例祭もまた江戸前期に復興、城主の援助もあり、規模が拡大します。
江戸中期になると町衆達も多彩な練り物を出すようになり、その流れで、山鉾もまた、出現。
近郊というか、実際の交流も盛んであるがゆえに、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾が、
西陣織や海外から取り入れた豪華な織物で懸装し、城下を練り歩くようにまでなりました。
「口丹波の祇園祭」 としてその名を轟かせた亀岡祭でしたが、城が消滅した明治以降は、衰退。
昭和期は大半の山鉾が巡行を休んでたそうですが、平成に入ると、祭復興の気運が上昇。
山鉾が次々復活し、最近は全ての鉾が勢ぞろいしての城下町巡行も開始されてます。
現在もかなり天然で残る亀岡の城下町ビジュアルの中、本家によく似た山鉾が進む様は、
ある意味、本家以上のマジなタイムスリップ感が堪能できること、請け合い。
で、知名度はもうひとつゆえに、そんな醍醐味が至近距離で楽しめるわけです。
そんな亀岡祭、早朝から夕方まで、潜りこんでみました。
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2012年9月15日(土)

2012年度の石清水祭、御花神饌からラストまでの後篇です。
石清水祭の旧名は、石清水放生会。
もちろん、八幡神の元宮である宇佐神宮の祭儀・放生会が、そのルーツです。
8世紀初め、律令制の徹底を目指した朝廷に対し、南九州の隼人が起こした叛乱を、
「おれが行く」 と、自分から言い出して戦場へ殴りこみ、殺戮の果てに鎮圧した、宇佐の八幡神。
しかし、殺された隼人の祟りは凶作を招き、八幡神は 「放生会で霊を慰めろ」 と、託宣。
「仏教の戒律に基づいた法会を神社で行う」 という八幡宮独自の祭儀は、ここに始まりました。
贖罪テイストが濃い端緒であります。が、別の見方をすれば、叛乱完全鎮圧の宣言とも言えます。
国的には結構、めでたい儀式になるわけです。律令制完成の、めでたい儀式になるわけです。
おまけに当時の朝廷は国を統一するため、土俗的な信仰を超越する仏教をゴリ推してましたから、
統一祝賀+仏教全開の放生会は、やがて国家的事業の性質も帯びるようになりました。
「おれが行く」 と、また自分から言い出して移座した石清水でも、放生会のそんな傾向は変わらず。
というか、都へ接近したことで神仏習合も鎮護国家もさらにブーストされる形となり、
皇室からは供花にしか見えない御花神饌なるものまで、お供え物として届くようになります。
古代染めの和紙で作られた造花による特殊神饌、御花神饌。別名、 供花神饌。
極めて珍しいこの神饌、実に戦前に至るまで御所から届いてたそうですが、戦後は途絶。
しかし近年、三笠宮彬子女王殿下が代表を務める団体・心游舎が 「御花神饌プロジェクト」 として、
一般から参加を募った子供たちと共に、神饌作りへ関わられるようになりました。
言ってみれば、ほんのちょっと旧儀に返ったような感じなのであります。
石清水祭2012後篇、その御花神饌から、スタートです。
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2012年9月15日(土)

2012年の石清水八幡宮・石清水祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
勅祭・石清水祭。
京都の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮に於いて、9月に行われる例大祭です。
二所宗廟の一つとして朝廷から崇敬された経緯ゆえ、現在も旧儀に則って勅使が派遣され、
知名度は今イチながら、賀茂祭や春日祭と共に 「三勅祭」 と呼ばれる、ロイヤルな祭であります。
以前も書きましたが、私はこの祭の舞台となる頓宮のすぐ近所で、生まれ育ちました。
しかし、貧乏な流れ者の子だったためか、石清水祭についてほとんど何も知らないままでした。
その欠落を埋めるべく、2011年は5000円のロイヤルな参列料を払って祭に参列し、
朝の2時からオール&ノンストップで続く祭儀を、食うものも食わず&寝るものも寝ずに見続け、
その全てを全5回の超冗長な記事にまとめたんですが、しかし、勅祭はやはり、甘くない。
倒れかけながら全てを見尽くしたつもりでも、実際にはいくつか見落としがありました。
まずは、石清水祭独特のものと言われる、御花神饌。そして、放生会終了後の、舞楽奉納。
どちらも、前回見ようと思えば見れたものです。でも、見なかった。だって、死ぬほど眠かったから。
腹も死ぬほど減ってた。1秒でも早く、帰りたかった。なので、スルーしました。見落としです。
御花神饌はともかく、舞楽はさほど興味が無いんですが、でも見落としは見落としです。
というわけで、2012年度はこれらのフォローに終始。で、その他は思いっきり、適当。
参列料を払う金もないので、タダ見できるところばかりを、ひたすらダラダラウロウロしています。
なので、祭儀の詳細の方は前年の記事を御覧いただくとして、今回は空気のようなもの、
一般的な神輿大騒ぎな祭とは少し違う、石清水祭の雰囲気みたいなものを、
適当な写真&文から感じとってもらえると、幸いです。
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2012年8月10日(金)

宇治川花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の中心部では、あまり花火大会は行われません。
木津川花火大会の記事でも書いてることですが、行われるのは大抵、近郊 or 遠郊。
大規模な花火に適した河川敷がないためか、あるいは引火したらマズい木造建築が多いためか、
理由は知りませんが、とにかく花火を見ようと思えば街中から離れる必要があるわけです。
一番人気は、いきなり他県ですが、JRで10分&地下鉄も直通する大津での、琵琶湖花火大会。
他には、狭い場所でデカい花火をぶっ放す八木町花火大会なんてのも、穴場的な人気を誇ります。
そして、洛南のディープサウスな民から半世紀以上に渡り圧倒的な支持を集めているのが、
源氏ロマン溢れる宇治橋のすぐそばで開催される、宇治川花火大会です。
平等院&宇治上神社の世界遺産と源氏物語、そして宇治茶と、雅なアイテムをいくつも持ちながら、
独特で濃厚なるDQNテイストと、縣祭なる奇祭の伝統も、何故か併せ持つ地、宇治。
そんな宇治の地に於いて、7000発もの 「源氏花火」 が打ち上げられる宇治川花火大会は、
雅な名前に反して、地元および近隣のやんちゃな方々が大集合する、一大イベントとなります。
比較的近隣に居住し、その名を幼少の頃から聞いてきた私としては、正直、行きたくない。
興味本位であっても、冷やかしであっても、ネタのためであっても、正直、行きたくない。
心からそう思うのであり、実際、今まで見物に出かけたことは一度もありません。
しかし、このサイトの趣旨は、メジャースポットの単独正面突破。行かねばならぬのです。
いやだなあ。どれくらい 「いや」 かを確認するために行くんだけど、それにしても、いやだなあ。
およそ花火見物に似つかわしくないそんな陰鬱な気持ちを抱えながら、
花火と混雑が爆発する宇治橋へ向ったのでした。
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2012年7月18日(水)

高良神社の太鼓まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
高良神社。
石清水八幡宮が鎮座する男山、その麓にある同宮の摂社です。
創建は、石清水とほぼ同時期。創建したのは、石清水を宇佐より勧請した、行教。
かつては、石清水祭の舞台となる頓宮や極楽寺などと共に、壮麗な山麓下院を構成し、
そのゴージャスさは、『徒然草』 に登場したかの仁和寺の法師でさえ、石清水本殿と間違えるほど。
「何事にも先達はあらまほしきもの」 という教訓を生んだ場所としても、名高い社であります。
時が幕末に至ると、鳥羽伏見の戦い+神仏分離の波乱で壊滅的なダメージを受け、
何をどう見ても石清水と間違えようのない小さな建物にはなりましたが、神社そのものは、存続。
皇族や武家などが御用達の、いわゆる 「お上の神さん」 である石清水八幡宮とは別に、
地元の住民たちを護る氏神として、現在もなお篤い崇敬を集め続けています。
太鼓まつりは、そんな高良神社で盛夏が始まる頃に行われる、例祭。
「男山の麓で、太鼓まつり」 と聞くと、ある種の性癖を持つ方は、ある種の連想をするのでしょう。
「褌一丁の男が荒々しいバチさばきを見せる」 みたいな。別方面の視線が熱い、みたいな。
しかし八幡の太鼓まつりは、そういった「太鼓の技を競う」 といったテイストの祭りではありません。
打ち鳴らすのは、いわゆる触れ太鼓のフレーズである 「ドンドンドドドン」 のみ。
この 「ドンドンドドドン」 を本当に延々と叩き続け、そのトランス的高揚で盛り上がる祭りです。
勅祭である石清水祭が 「お上の祭」 なら、こちらは正に地元の祭という感じでしょうか。
ゆえに、幼少の頃は確かにこの山麓下院で遊びまわっていたものの、
貧乏な移住者の子であった私には、正直今ひとつ馴染みがなかったりするんですが、
疎遠な母校の同窓会へ向うような気分で、とにかく行ってきました。
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2012年6月5日(火)

宇治の縣祭りへ行って来ました。もちろん、ひとりで。
「暗闇の中で、見知らぬ男女が乱交を繰り広げる、奇祭」 。
「日本の奇祭」 的な企画が雑誌やネットである度、こんなアオリで名が挙がるのが、
茶処・宇治にて新茶の季節に開かれる、縣 (あがた) 祭り、通称 「くらやみ祭り」 であります。
平等院の鎮守だった縣神社の例祭が、江戸中期の信徒圏拡大と共に膨大な客を集めるようになり、
宇治神社御旅所から行われる男根ライクな梵天渡御、祭神・木花開耶姫の安産&良縁の霊験、
そしてその両神が 「逢引」 してるかのように見えることなどもあって、祭は、何というか、無法地帯化。
無料開放された真夜中の周辺民家で、男女が文字通りの何でもありとなるこの至福の祝祭は、
「暗闇の奇祭」 「くらやみ祭り」 の名で愛され、明治維新以降も、さらには昭和以降も、継続しました。
しかし、戦後社会でそんな祭が許されるわけもなく、高度成長期あたりから乱交は、後景化。
現在では、近隣DQNこそ多く集結するものの、路上で見境無く交尾るということも特になく、
威勢の良い梵天渡御&大量の屋台がメインの、健康優良&地元密着路線の祭りとなってます。
が、縣祭りが 「奇祭」 の名に全く相応しくなくなったかといえば、案外そうでもありません。
21世紀に入り、それまで梵天渡御を担ってきた奉賛会側と、縣神社側が、決裂。
昔から両者の関係は 「神」 をめぐって裁判さえ発生するほどややこしいものだったようですが、
2003年に奉賛会が梵天を縣神社へ還す神事をすっ飛ばしたことで、対立が一気に悪化。
「神の拉致だ」 とブチ切れた縣神社側が、独自に梵天を製作&渡御を始めたため、
現在の縣祭りは、まるで 「本家」 と 「元祖」 のように、二つの梵天が存在することとなりました。
信仰が根強く息づくゆえの事態とも言えますが、根強過ぎるとも言える、ややこしき事態。
かつてとは別の意味で 「奇祭」 化しつつある、そんな縣祭りの今の姿を、
近隣ゆえ終電お構いなし、DQNまみれの中で見てきました。
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2012年5月5日(土)

石清水八幡宮の石清水灯燎華へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
石清水八幡宮と 「灯り」 は、様々な縁を持っています。
中世において油の独占的販売権を握り、その名と財力を轟かせた大山崎油座は、
そもそもは淀川を挟んで鎮座する石清水八幡宮に、灯油を納めるのを本務とした神人でした。
「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
また時代を下ると、かの発明王エジソンは電球開発の際にフィラメントの寿命で苦心、
世界中の竹を試した末、石清水八幡宮の竹が最適であることを発見、実用化にこぎつけました。
これも 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
さらに言うと、二股ソケットで日本中の家庭の電灯を消さずに済ませた松下幸之助は、
熱烈な石清水八幡宮崇敬者であり、初期松下の商標 「M矢」 は八幡御神矢がモチーフになってます。
これまた 「だから何だ」 と言われると返す言葉がありませんが、そんな由緒もあるという話です。
こんな感じで、どことなく希薄感は漂うものの、それなりに縁がある八幡と 「灯り」 。
その縁をより深きものにしようと、GWの夜に重文・本殿を始めとして境内一円をライトアップ、
期間限定の神札などパワスポ商品も用意して、観光客との縁もついでに深めてしまおうというのが、
石清水八幡宮、春の最大集客イベントである、石清水灯燎華でございます。
灯燎華の期間は3日間。しかし、私は地元民ゆえ二夜出かけ、見所を拾いまくってみました。
荘厳なビジュアルから、妙味溢れるアイテムまで、夜の 「八幡さん」 、たっぷりとご堪能ください。
あ、ちなみにTOP画像は、エジソン記念碑のフィラメント型ライトアップです。
ドクロベエでは、ありません。ウォーズマンでも、ありません。
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2012年3月18日(日)

東一口・安養寺の双盤念仏を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。
巨椋池。おぐらいけ。
伏見の南にあって、平安京の四神相応では朱雀にも見なされた遊水池です。
周囲16km+約800haという、「池」 と呼ぶのがかなり相応しくない巨大なサイズを誇り、
桂川+宇治川+木津川のオリジナル合流点として、その下流である淀川の水量をコントロール。
しかし周辺地域で発生する水害は、デカ過ぎるゆえに半端なく、おまけに発生頻度も高し。
昭和に入って全域が干拓され、現在はその大半が農地化。京都随一の青果生産地となってます。
干拓直前の巨椋池は水が澱み、そのためかえって蓮の名所として名を売ったそうですが、
元々は魚類が豊富に生息する環境であり、池畔には淡水漁で生計を立てる漁民が多く居住。
京都の難読地名ブッちぎりの首位を誇る東一口は、その代表的な集落でした。
後鳥羽上皇から独占的な漁業権を賜った彼らは、池の西端で干拓完了まで漁民として生活を続け、
漁業から離れざるを得なくなった現在も、昔からの風習を根強く守り続けています。
「荒くれ漁師がお告げに従い、淀川から観音像を引き上た」 という弥陀次郎伝説に基づいて、
その引上日= 3月18日に近い土日に開催される安養寺の春祭りも、そのひとつ。
祭りでは、南山城唯一の伝承念仏という 「双盤念仏 or 六字詰念仏」 も披露。
六斎念仏ファンとして、近所の久御山に念仏があるとなっては、行かないわけにはいきません。
そう、私の住む八幡と久御山は、隣同士。巨椋池があった頃は、船で往来もできたはず。
現在は何か、異常に公共アクセスが悪いけど。それはまあ、どうでもいいんだけど。
とにかく、双盤念仏を見に行ってきました。東一口へ、行ってきました。
「東ひとくち」 ではありません。東一口へ、行ってきました。
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2012年1月29日(日)

石清水八幡宮の鬼やらい神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
鬼やらい。いわゆる節分の追灘というものです。
今なお深層意識の中では旧暦のタイムテーブルがしぶとく生き続けているためか、
「本来の年越し」みたいな感じで、ある意味正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
京都市内の多くの寺社が2月3日を中心に各種祭典を行ない、大きな賑わいを呼んでいますが、
我が地元である石清水八幡宮は、節分に一番近くて早い日曜日に、鬼やらい神事を開催。
ちょっと、フライングです。何故かといえば、まあ多分、客を呼ぶためじゃないかと。
この神事、始まったのは割と最近。最近といっても、もう25年くらいはやってるそうですが。
京都市内の節分行事も、実は結構歴史が浅い復活系のものが多かったりしますが、
八幡の鬼やらいはそれらに増して新しく、イベントテイストがより濃厚です。
本気というよりはお遊びであり、開催日を厳密に2月3日とする必要がないタイプの行事であり、
ついでに鬼のクオリティも若干の手作り感が否めないものだったりするのであります。
しかし、いやむしろそれゆえに、ある種の大らかさみたいなのは、炸裂。
出てる方にも、そして見てる方にも、率直な笑顔が溢れる鬼退治と言えるんじゃないでしょうか。
この数週間前には、某大河ドラマで清盛の舞の舞台となってた、石清水八幡宮。
初詣+厄除大祭と続くボロ儲け月間を締めくくるのに相応しい混雑の中、
一足早い節分を楽しんできました。
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2012年1月19日(木)

石清水八幡宮の厄除大祭・焼納神事へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
石清水八幡宮はその創建時から、明確に王城守護を目的としています。
平安京が陰陽道に基づいて展開した怨霊防衛線構築の最終ステージにおいて、
裏鬼門守護の責を担うべく、パワフルで雄弁な神・八幡神を勧請して建てられた、国策神社。
そう、石清水は紛れもなく「国のための神社」であり、地元の言い方だと「お上の神さん」なわけです。
それゆえ明治維新の際に神仏分離令が出ると、「お上」からのお達しと慌てふためき、
山中の仏教施設を片っ端からブッ壊したり売り飛ばしたりもするわけですが、それはともかく。
しかし、そんな「お上」第一な石清水八幡宮にも、民衆と切り結ぶ接点は存在します。
それが、厄除。いわゆる厄年とか、厄ばらいとかの、厄除です。
こちらも元々は、京への疫神侵入を阻止する朝廷の祭祀「畿内十処堺疫神祭」が由来であり、
疫神社 = 現在の山麓頓宮に道祖神を招き、国家安泰を祈願する「お上」なものでしたが、
やがて民衆からの厄除信仰の方が強くなり、1月15日~19日の祭儀は「法会」という名でお祭り化。
京都や大阪から大挙して参拝客が押しかけ、それを目当てにした土産店なども多数立ち、
田楽・舞楽・相撲の奉納も行われるなど、それは大層な賑わいだったといわれてます。
神仏分離で石清水がズタボロ化したのちも、民衆ベースである厄除信仰は根強く持続したようで、
敗戦で戦勝の神としての名声を失ってもなお、「法会」だけはしばらく隆盛を保ったそうです。
現在は「厄除大祭」と呼ばれるこの祭儀、古代祭祀のルーツは18日に斎行される 「青山祭」 に残り、
「お祭り」テイストの方は期間最後の日に行われるこの焼納神事が担ってる感じでしょうか。
焼納神事は要するに左義長 or どんど焼きであり、規模もそこそこなもんですが、
厄除開運餅がタダでもらえるということもあり、結構人気があります。
そんな焼納神事へ、「法会」の残り香を嗅ぎに行ってきました。
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2012年1月18日(水)

石清水八幡宮の青山祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
青山祭。もちろん、青山学院大学の学園祭ではありません。
呪術都市・平安京が構築した悪霊・疫病・厄神防衛線の名残を、現代にまで伝える神事です。
「悪しきものは、人と同じく道を歩いて都へ入る」という当時のセキュリティ思想に基づき、
平安京の国境には、怨霊の水際対策として霊的城壁を築くべく、強力な寺社が建立されました。
鬼門封じの猿ラインは言うに及ばず、四方を固める大将軍各社や逢坂山の蝉丸神社、
あるいはパワーが強過ぎていまや心霊スポットとしか思われてない老ノ坂の首塚大明神などなど。
中でも、裏鬼門であることに加え、都と瀬戸内海と直結する水路のゲートでもあり、
さらには魔の国・大阪と山を介さず接している数少ないポイントに鎮座する石清水八幡宮には、
より強い霊的パワーが求められ、そのニーズは古代祭祀が消滅した後世も継続。
厄神防衛線の各社で斎行されたという祭儀「畿内十処堺疫神祭」は、
石清水では道餐祭として残り、斎場を囲む青柴垣に由来して「青山祭」と名称を変化。
八幡の厄除としての評判が民間にも広まるに連れ、正月以上に人を集めるお祭りへ変貌しました。
と、青山祭についてざっと調べると、こんな感じの話がいろいろと出てきます。
が、実際の内容についての情報が、妙に少ない。現在、何をどうやってるのかの情報が、少ない。
秘儀なんでしょうか。現在もこっそり、呪術とか、魔界とか、やってるんでしょうか。
私、子供の頃は近所に住んでましたが、そんな話、聞いたことありません。
やはり、秘儀か。そのあたりを確認すべく、日の暮れかかる山麓下院へと出かけてみました。
そして、そこで目にした「真実」は、実に驚くべきものでした。
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