ひとりでうろつく京都 (β版) - Page 5

割烹たん義で、はも丼と鴨万寿を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2017年7月6日(木)


割烹たん義で、はも丼と鴨万寿を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

『ひとりでうろつく京都』 の夏の企画 『ひとりで食べる鱧』 、めでたく復活です。
京都ベタスポットへの特攻をサイトの趣旨とするなら、ベタグルメもまた取り組むべきだと考え、
サイト開設当初は、身銭を切った積極的かつ果敢な特攻を繰り広げていた、 『ひとりで食べる鱧』 。
しかし、いくらその意図が崇高であっても、鱧を食うにはやはりそれなりに元手が掛かるのであり、
それを見越してリーズナブルな店・時期・時間を狙っても、それでもやはりそれなりに掛かるのであり、
開始早々に予算爆発で撤退を決定し、以後は川床特攻などの際に嗜む程度となってたのでした。
いや、何というか、鱧ネタといえども正直に言えば、単発の出費自体は、それほど痛くはありません。
「5000円」 と枠も設定してたし。当サイトには、宿泊や鍋など、より身銭を切るネタもありますし。
ただ、鱧ネタみたいに 「美味いもんを食う」 ことに特化したネタって、食の連鎖反応を生むんですよね。
ネタ採取の時以外でも、高価くて美味いものを思わず連鎖的に食いたくなってしまうんですよね。
我慢も出来なくはないですが、我慢したらしたで、何か凄く、淋しい気持ちになってしまうんですよね。
見てる側からすると 「知るか」 という話ですが、こういう事情もあり、鱧ネタを長く日和ってました。
しかし、やはりこれでは、いけない。サイトの趣旨的に、いけない。何より、アクセス数的に、いけない。
というわけで 『ひとりで食べる鱧』 、復活です。しばらく、連続的にやる予定です。よろしくです。
ただ、もちろん予算の方は依然として緊縮財政が続いてるので、以前の 「5000円」 枠を更に、緊縮。
「3000円プラマイ500円」 程度で、何とか鱧に辿り着き、そして京都の夏を味わおうかと思います。
で、今回赴いたのは、祇園北の割烹たん義です。祇園とは、あの祇園です。割烹とは、あの割烹です。
巽橋を始め祇園なる風情がこれでもかと溢れまくる祇園新橋、そのすぐ北にあるのが、たん義。
そんな店行ったら、3000円どころかその十倍以上掛かりそうな気がしますが、これが違うんですよ。
こちらのお店、夏の昼間は、鱧をたっぷり載せたはも丼を2000円台で出してくれるんですよね。
なので、出掛けてみました。で、名物という鴨万寿も一緒に、食べてみました。

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夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めての宇治徘徊、前篇に続いて後篇です。

宇治のイメージといえば、平等院や、それこそ宇治十帖が、一般的なものなんでしょう。
しかし、私にとって宇治のイメージは、 「住宅地」 の方がよりしっくり感じるものだったりします。
地場の生活者ゆえのイメージ、という奴です。が、家が建築をやってたという事情もまた、理由です。
京都へのアクセスの良さが目を付けられた宇治は、昭和中期頃より住宅地の開発が進みました。
ユニチカの前身・日本レイヨンなどの企業が、巨大工場を進出させると共に近場で社宅を建て始め、
それを端緒として一般住宅地の開発も進行し、山削りまくり&名物の筈の茶畑潰しまくりが、多発。
結果として、宇治市の人口は数倍に増え、京都府下では京都市に次ぐ規模を誇るまでに膨張し、
また、宅地増殖と共に増殖した主婦の手を借りる形で、アニメ下請会社が生まれたりもしたわけです。
私が育った頃の宇治は、既に主たる 「商圏」 ではありませんでしたが、その名はよく聞きました。
山削りまくり&茶畑潰しまくりな類の開発、その恩恵を私が享受したのは、恐らく間違いないでしょう。
なので、荒っぽく開発された宇治の姿を目にすると、私は、何とも言えない気分になります。
そして、その開発自体さえ既に老い始めてる様を目にすると、更に、何とも言えない気分になります。
「何だ、そのローカルかつ余りに極私的な感慨は」 と言われると、それまでの話だったりしますが、
しかし、このちっぽけなブルース = 憂鬱は、ある意味で、宇治に相応しいものと思えなくもありません。
格落ちな演者が型落ちな愛欲に悩み、浄土リセットも出来ず、ただ消えていくだけの、宇治十帖。
その 「憂じ」 な世界は、剥き出しで現代的&凡庸な事象と共鳴するとは、考えられないでしょうか。
「生温かい憂鬱がどうにも晴れてくれない煉獄」 という点で共通してるとは、考えられないでしょうか。
私が本気でそう思い、自分語りも交えてその思いを記してるのかといえば、そんなことは全然なく、
観光エリアで全く茅の輪がくぐれず、宅地をめぐることにしたのを、理屈付けてみただけなんですが。
というわけで、2017夏越@宇治、後半です。後半は、飯食ってがっつり回って行こうと思います。
茅の輪が持つ魂リセットのパワーなら、この生温かい憂鬱だって吹き飛ばせる筈です。

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夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。

宇治を舞台として、尻切れトンボとも思える結末を迎える、 『源氏物語』 宇治十帖
愛したくとも愛せず、死にたくとも死ねず、悟りたくとも悟れずに、煩悩の煉獄を揺蕩うその世界。
まるで地名の由来 「憂じ」 を空間化したかのように、陳腐で緩慢な憂鬱が惰性と共に続くその世界。
ブルージーとも言い得るその文学空間は、1000年の時を越えてポストモダンなる現在にも直結し、
安い愛&性への拘泥が市民権となったネバーランドの如き現代日本の煉獄にも通底するものです。
何も始まらず、何処にも行けず、終わる時は突然終わる、そんな世界。実に、今っぽいですね。
が、貴族の別業地として栄えた此地は、そんな超時空な知性ばかり溢れてたわけではありません。
ごく真っ当に浄土を希求した煩悩丸出しな輩も多数存在し、そうした連中が必死で建てた寺社も多し。
栄華を極めた藤原道長頼通により建立された世界遺産・平等院を筆頭に、多くの寺が立ち並び、
これまた世界遺産たる宇治上神社を始め、大小合わせてかなりな数の神社も林立しています。
で、2017年の茅の輪くぐりまくりは、この宇治の地に立つ社をめぐる形で、やってみました。
暑さ&疫病の脅威が本格化する直前のタイミングに、神社に設置された茅の輪をくぐることで、
正月からの半年で溜まった魂の穢れを祓い浄め、夏を乗り切らんとする古来よりの慣わし・夏越祓
当サイトでは、様々な腐った欲求を持て余す己が魂の大掃除 or スピリチュアル・デトックスに加えて、
普段の記事のネタ採取では訪れる機会がない、小さい or 地味な神社への訪問という目的も兼ね、
毎年あちこちの社に設置された茅の輪を探し求めてはくぐりまくり、穢れを祓い倒してきました
しかし乙訓エリアを徘徊した2016年の前回は、思いつきで雨上がりの天王山を登って酷い目に遭い、
おまけに飯抜きで徘徊した割に輪はひとつしかくぐれなかったので、今回は、気分&方針を一新。
宇治のベタベタな観光ゾーンをそぞろ歩きし、甘味に気を取られながら名社で簡単に茅の輪をくぐり、
また風情溢れる店で飯も食って、彷徨自体をしっかり楽しもうと考え、彼地へ向かったのでした。
が、ブルージーなる 「憂じ」 はやはり、そんなポップな考えを、許さなかったのです。

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イタリア割烹スコルピオーネ吉右で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2017年5月26日(金)


スコルピオーネ吉右で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。 

当サイトでは、ある種の隠れテーマとして、 「境界」 と向き合い続けてきました。
「境界祭」 と再定義したクリスマスに 「境界」 的なるスポットにて宿泊を敢行する企画を筆頭に、
ヤラレ芸の如き表の顔の下で、アカデミックとさえ言い得る崇高な探求を続けてきたのでした。
そんな当サイトが、新たな特攻先と見込んだ 「境界」 があります。それが、際コーポレーションです。
際コーポレーション。知ってる方は、御存知でしょう。でも知らない方は、御存知ではないでしょう。
東京・福生の韮菜饅頭店から事業を始め、わかりやすくお洒落なプロデュースによって人気を獲得し、
21世紀以降は料理ジャンルを問わず大量出店を行って大成長を果たした、飲食店グループです。
京都に於いても、 『柚子屋旅館』 『祇をん豆寅』 など、有名店となった店舗を立て続けに出店。
何なら 「これこそが京都の象徴」 と思い込むトンチキな輩が発生しかねない勢いを誇ると同時に、
ある意味、わかりやすい表象の乱開発が続く現代の京都を象徴し得る存在にもなってるわけです。
この際コーポレーションを、新たな 「境界」 と見込んだ理由は、 「際」 なる名前そのもの。
不思議なインパクトを放つこの 「際」 という一文字、東洋と西洋の 「際」 を示してるんだとか。
「東洋と西洋の両方が出会う文化が、東京にある」 という考えから、命名されたんだとか。
実に 「境界」 的です。 「京都に全然関係ないだろ」 という言いがかりを越え、実に 「境界」 的です。
と、高踏にして深遠なるこうした判断に基づき、当サイトは今回、 「象徴」 への特攻を決めました。
赴いたのは、イタリアと日本の 「際」 な店名を誇る、イタリア割烹スコルピオーネ吉右の、昼床。
鴨川の 「際」 の、わかりやすく 「象徴」 な店のわかりやすく 「象徴」 な床に、忍び込んだわけです。
無論この特攻は、 「こんなの京都じゃない」 といった稚拙極まる揚げ足取りなどでは、あり得ません。
氾濫した表象がミノフスキー粒子と化し、ポスト・トゥルースが残念な天然のテーゼとなり果てた今、
表象と実体の 「際」 にこそ立ち現れる 「真実」 を見極めるべく、有視界戦闘に臨んだのであります。
そう、これは新たな挑戦なのです。当サイトが、当サイトであるために必要な、挑戦なのです。
決して、椅子床の記事に客が本当によく来るので、またダメ押しで行ったわけではありません。
断じて、実は単に一度は行ってみたくて、単に行ってみたわけでもありません。

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イカリヤ食堂で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2017年5月19日(金)


イカリヤ食堂で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

洛中洛外図・舟木本には、今まさに五条大橋を潜ろうとする川船が描かれています。
花見帰りらしき乱痴気集団が、踊り狂いながら橋を渡るその下を、薪を満載して進む、高瀬船。
当時の民衆の姿により焦点を合わせたと考えられている舟木本の、ハイライトとも言える描写です。
大仏殿再建の為に角倉了以鴨川疏通を行ったのは、この絵の製作期と推定される慶長期なので、
こういった光景は、時事トピック的な表現の格好のネタとして認識されていたのかも知れません。
もちろん、鴨川は白河帝も手を焼く暴れ川ゆえ、疏通で設置された河川施設をあっという間に粉砕。
了以はすぐ、より安全で確実に運行出来る運河・高瀬川の開削を、鴨川の真横にて開始します。
で、開削後の安全&確実な高瀬川が、京阪間交易の最重要ルートとなったのは、周知の通りです。
では、 「鴨川を川船が行き交う」 という舟木本の光景は、慶長期にのみ見られたものなのでしょうか。
そんなことも、ないでしょう。暴れ川も、暴れてなければ便利な川。船が通ることも、あったでしょう。
夏になれば、 「川床の前を川船が進む」 みたいな風雅な光景も、生じなかったとは限りません。
「春の陽気に誘われた民が、船を眺めながら河原で飲食」 なんてことも、なかったとは限りません。
河川交通によって都市が機能していた時代の京都とは、即ち、真に 「都」 であった時代の京都。
真の 「都」 としての京都について考えるなら、より立体的かつ体感的に 「都」 について考えるなら、
船に纏わるこうした風雅へ想いを巡らせることもまた、アプローチとして有効なのではないでしょうか。
そう考えた私は今回、この風雅を主として舌で体感すべく、イカリヤ食堂の床へ出かけてみました。
イカリヤ食堂。鴨川西岸の下木屋町エリアにあって、錨をシンボルとする川床付きの洋食店です。
出来た頃は確か夜営業しかやってなかったと思いますが、近年は昼床シーズンにランチ床を展開。
で、そのランチ床へ忍び込み、初夏の光に輝く鴨川を眺めながらスペシャルコースを食いまくり、
錨のロゴを見たりもしながら、錨があったかどうかは不明の川船へ想いを巡らせてみたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。 「都」 の風雅を体感的に捉え直す為の挑戦なのです。
決して、椅子席床の記事に客がよく来るので、ダメ押しで洋食店へ行ったのでは、ありません。
断じて、そもそも美味い店なので、単に美味いもんを食いに行ったわけでも、ありません。

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亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつり、福知山城を見物した前篇からの続きです。

「商都」 としての福知山を認識したのは、出口なおについて調べてた時のことです。
大本開祖であるなおは、福知山生まれ。広小路の上紺屋町の辺に、生家があったといいます。
で、当時の広小路は、 「福知千軒」 と呼ばれ、藩経済を支えるほどの商業的繁栄を見せてたとか。
節分大祭の記事を作る中、それを知り、私は驚きました。福知山を 「軍都」 と思い込んでたので。
城下町として成立し、廃城後は駐屯地の街となった、福知山。印象的には、かなり 「武」 です。
が、福知山城に防衛上の地の利を齎した由良川は、物流の面にて商人にも大きな恩恵を齎しました。
「塩船」 から始まったという由良川の水運は、朽木氏が入封した17世紀後半から急激に発展。
福知山は、重要な河港にして三丹・北国・京阪を結ぶ結節点となり、屈指の物産集積地へ化けます。
火隙地を作るべく町人屋敷の中央に開設された広小路では、舟渡が新設され、貨客も多数往来。
旅客相手の茶店や旅籠を営むべく有力商人も進出して、名実共に 「山陰の商都」 の顔となりました。 
また、通りの近くの御霊神社では、税制緩和などで慕われていた光秀を 「商売の神」 として合祀。
出口なおの頃には飢饉が続いてたそうですが、とにかく 「ブイブイいわしてる」 な街だったわけです。
しかしこの水運、明治中期以降は、衰退。製糸・養蚕などを展開した後、福知山は軍を迎えます。
「かごの鳥」歩兵第20連隊駐屯により、広小路は大正&昭和初期も繁華街・歓楽街として繁栄。
戦後に入っても陸上自衛隊鉄道管理局を誘致し、やはり繁華街・歓楽街として繁栄を続けたとか。
「軍都」 として生まれた街が、 「商都」 の性格を強め、その維持の為に 「軍都」 の仮面を被る。
そんな感じでしょうか。そう考えると、福知山はやはりしたたかでタフな 「商都」 なのかも知れません。
そして、城を支えた広小路がお城まつりのメイン会場であることも、当然なのかも知れません。
というわけで、お城まつり、後半です。後半は、城一切なしで、広小路周辺の祭徘徊がメインです。
地元との共生を図るべく奮闘する陸自の姿や、誘致された異形のゆるキャラ集団が放射する狂気、
魑魅魍魎が躍るパレード、そして街に漂う独特の雰囲気と若干のグルメを、楽しんで行きます。
「商都」 のしたたかさと、そのしたたかさが生むカオス加減、じっくりと御堪能下さい。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月12日(日)


青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

青谷。 「赤坂」 が赤い坂ではないのと同様、特に青い谷というわけではありません。
どちらかといえば、小高い場所に立地し、春先には青ではなく白い梅が咲き乱れる所であります。
場所は、京都と奈良の中間に位置する、城陽市。農地がベッドタウン化した典型例みたいな街です。
宅地化しなかった場所で咲く青谷の梅は、宅地化が進む遥か以前より栽培が行われてきたもの。
江戸期に染料の需要が高まると、ここで作られる鳥梅は、紅花染の色素定着材として高騰しました。
鳥梅とは、青い梅、ではなくて黒い梅です。焼き梅や黒梅とも呼ばれた、燻製状の加工された梅。
無論、青谷ではこの鳥梅を作りまくり、現在を遥かに凌ぐ規模で梅林が形成されたんだとか。

京都ヲ距ル南數里ニシテ、梅林アリ靑谿ト云フ、延袤二里斗リ、衆山回環蹲スル如ク伏スル如ク、
靑松ノ瀟漉、梅花ノ皓潔、之ガ衣トナリ之ガ裳トナル、而シテ市ノ邊、中村ノ二村家、其間ニ隱見シ、
宛然一仙郷ヲ爲ス、且京都ヨリ寧樂ノ舊都ニ通ズル鐡路ハ西麓ヲ過ギ、南北各半里弱ニシテ、
玉水長池ノ停車驛アリ、頗ル便利ノ地トス、予事ニ因テ屢此地ニ往來シ、其淸秀ヲ愛スルコト久シ、
到ル處恒ニ花時ノ風光ヲ說キ、且誇テ日和州月瀬ハ天下ノ勝ナリ、今試ニ靑谿ヲ以テ比スルニ
山水攅聚ノ奇、或ハ讓ル所アリト雖モ、遼廓眇忽規摸雄大、而シテ梅花ノ饒多ハ逈カニ之ニ過グ、
之ヲ本邦ノ羅浮ト稱スルモ我其溢れる溢美ニ非ルヲ信ズ
(山中青谿 『靑谿絶賞』 )

明治以降は、化学染料の登場によって、鳥梅の需要が衰退。青谷梅林もまた、衰退したとか。
梅林の荒廃を憂慮した地元は、観光化を企図して、保勝会を結成&上記の 『靑谿絶賞』 も出版。
すぐ傍で奈良鉄道 = 現在のJR奈良線が開通したことも追い風となり、この誘客戦略は当たりました。
明治中頃には観梅スポットとして認知され、変遷を経ながらも、その名声は今なお確固たるもの。
「天下ノ勝」 たる 「月瀬」 に 「讓ル所」 あれど、京都からの利便性では勝てる名所となったわけです。
で、今回、そんな青谷にて梅を観るべく、空だけは真っ青な小春日和に出かけたわけであります。
もちろん、梅グルメだって、堪能しまくり。観梅だけで満足出来るわけ、ありません。

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京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月9日(木)


京都・東山花灯路2017へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

人はどうして、美しい景色をひとり占めしたい、と考えてしまうのでしょう。
自分で作ったわけでもない景色。人に見せない理由は、ないはずです。なのに、見せたくない。
恥ずべき願望や性癖を具現化した景色であれば話は別ですが、そうでもないのに、見せたくない。
無論、そんなケチくさいことを考えず、美を多くの人と分かち合いたいと考える人もいるでしょう。
しかし、私も含め大抵の人々は、美しい景色に遭遇した時、その場に他人がいないことを望みます。
そして多くの場合、その願望の余りの理不尽さを自覚し、己の理不尽さに腹を立てたりもします。
この気持ちは一体、何なんでしょうか。何に因って生まれ、そして、何に因ってこじれるのでしょうか。
答えは、色々と想定し得るかも知れません。何なら、人の数だけ答えがあるのかも知れません。
もし私が答えを求められたとしたら、私はきっと 「恥ずかしさ」 こそがその理由だと答えるでしょう。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか。こんなことしてるのを、人に見られたくない。
私は、景色を 「ひとり占めしたい」 と思う時、常にこんな 「恥ずかしさ」 を同時に感じています。
この 「恥ずかしさ」 ゆえ、他人に対し何らかの攻撃的な感情を抱くことも、珍しくありません。
「邪魔、消えやがれ」 みたいなことも、思ってしまうのであります。実に、悲しいことであります。
こんな時に、こんな所で、こんなことをしてて、いいのか、的な気分が溢れる京都のイベントといえば、
何といっても3月初旬の閑散期対策として行われる、電飾使いまくりの集客イベント・東山花灯路
当サイトではこの東山花灯路、これまで一貫して 「恥ずかしさ」 を全身で感じる荒行日と定義し、
「こんなことしてる」 のを見られるべく、常に人が多いタイミングで単独特攻を敢行し続けてきました
が、もういい加減、疲れました。 「恥ずかしさ」 を感じ過ぎて、心の芯の方が何だか、疲れました。
あと、一度くらい 「邪魔、消えやがれ」 とか思わずに花灯路を観てみたい気持ちも、涌いてきました。
電飾が本当の意味で美しいかどうかはともかく、人の心を蛾に変えるこの灯りの魔力の正体を、
落ち着いた形で見据えるのも、それはそれで意義があるのではないか、と思うようになったのです。
というわけで、2017年の東山花灯路特攻は、人が少ないであろう平日の雨の日を選んで敢行。
「恥ずかしさ」 を大幅削減した目で、改めて花灯路を観てみたのでした。

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節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2017年2月3日(金)


節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2月3日の節分は、日本の現行法に於いて、いわゆる祝日と定められていません。
「現行法でなければ休みだったのか」 とか訊かれると困りますが、とにかく祝日ではありません。
節分が正月を凌ぐほどの盛り上がりを見せる京都であっても、この事情はもちろん同じです。
旧暦の年越しを喜ぶように盛り上がりつつも、現行の祝日法には従い、休みにはならないわけです。
なので、節分の京都を一日徘徊するというのは、土日でもない限り、割と、いやかなり、難しいと。
当サイトではこれまで、この難しさを無理矢理に超克する形で、節分の京都徘徊を続けてきました。
毎年毎年、一日中寺社を回りまくり、2016年は綾部の大本へ泊まりで出かけたりさえしました。
頑張ってたのであります。通すべき義理も通さず、切るべき仁義も切らず、頑張ってたのであります。
冷静に考えると、何を頑張ってきたのかよくわかりませんが、とにかく頑張ってきたのであります。
しかし今回は、遂に時間の都合が付かなくなったのです。暇丸出しの徘徊が、出来なくなったのです。
昼に2時間ほどの空きは何とか確保しましたが、それ以上はどうにも時間が取れなくなったのです。
どうしよう。2時間で、何処をどう巡ろうかな。というか、2時間で徘徊なんか、出来るかな。
「徘徊より何処か1ヵ所に絞った方がいいかも」 と考えていて、頭に浮かんだのが、吉田神社です。
吉田神社。都の鬼門・吉田山に立ち、ゆえに節分が 「京都の節分」 の代名詞たる盛況を誇る社です。
無論、当サイトでも既訪であり、露店の混雑や火炉祭の凄さは、お伝えしている通りであります。
サウスの八幡人ゆえ感じるであろう独特の異様さにも言及する形で、お伝えしている通りであります。
が、夜の吉田の凄まじさは見てても、昼間の吉田の節分は、私、見たことがありませんでした。
あと、参道の年越し蕎麦の露店も、新暦で動く偽京都人として、気になりながらもスルーしてました。
これは、いかんと。 「京都の節分」 の代名詞、全時間帯で見とくべきだと。蕎麦も、食うべきだと。
そう考えて2017年の節分めぐりは、真昼間の吉田神社を短時間で巡回し、済ますことにしたのです。
また、年越し蕎麦もしっかり食い、京都の 「本当の年越し」 を真に面白がることにしたのです。
更には、夜の訪問時には混雑で日和った吉田のコア・大元宮への参拝も、今回は忘れてません。
所要時間、1時間。しかし、 「京都の節分」 最深層は、垣間見えたかも知れません。

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スプリングスひよしへ行って丹波ぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2017年1月15日(日)


スプリングスひよしへ行って丹波ぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

私は、京都府南丹市園部町の船岡というところに、本籍地を置きっ放しにしてます。
「船岡」 という地名は、字がそのまんま示す通り、船と縁が深い土地ゆえ付けられたものです。
南丹は山に囲まれた丹波のど真ん中にあるので、この 「船」 が指すのは無論、川の上を走る船。
丹波の木材を京都へ運び続けた大堰川 aka 保津川 aka 桂川の、小さな浜のひとつが、船岡でした。
命名は、明治初頭と割に遅め。船運の活況が、その頃まで続いてたことを想起させられる話です。
私の何代か前の先祖も恐らくは、何らかの形で船や木に係わり、日々の糧を得てたんでしょう。
そんな船岡、現在はもちろん、川船は走ってません。これから走ることも、きっとありません。
鉄道の登場以降、物流が陸上へ移ったからです。そして、すぐ上流の日吉にダムも出来たからです。
明治後期に開通した山陰線は、角倉了以の開削以来続いた高瀬船の船運に、止めを刺しました。
また、1951年完成の世木ダム1997年完成の日吉ダムは、筏の通行も物理的に不可能にしました。
私のルーツの地は、いわばその名の根拠を失ったわけです。恐らく、永遠に失ったわけです。
このことが、本気で悲しいわけでは、もちろんありません。正直言って、どうでもいい話ではあります。
家が潰れてる為、船岡へまともに行ったこともないし。関係ないといえば、関係ありません。
が、心の底では、少し気になってました。いや、むしろ単なる興味という形で、少し気になってました。
特に、船運の死を具象として示す日吉のダムは、機会があれば拝んでみたいと思ってました。
そんなところへ降ってわいたのが、当サイトの冬期限定企画 「ひとりで食べる京都のぼたん鍋」 です。
「ぼたん鍋を食い、温泉にも必ず入り、冬を満喫する」 という無茶なルールで開始されたこの企画、
その無茶さゆえに行ける場所が極端に限られてるんですが、日吉ダムはこの縛りが、ばっちり合致。
ダムの付帯施設・スプリングスひよしでは、掘削された日帰り温泉・ひよし温泉が、営業中。
施設にはレストランもあり、そこでは上手い具合にぼたん鍋まで提供中。これは、いい機会です。
自身のルーツ探求と開発の問題、そして京都に於ける河川交通の歴史と、ベタな冬グルメ&温泉。
これらを上手く融合させ、俗にして学究的であり、それでいて魂の芯にも触れる記事を作ってみよう。
また、雪が降ってる日を選んで出掛けることで、ビジュアルを強化し、冬満喫感も演出してみよう。
そんな下心を抱き、私は日吉へ出掛けたのでした。大雪が降る日を選び、出掛けたのでした。
しかしこの日の日吉は、そんな下心など踏み潰す、怒涛の雪国状態だったのです。

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2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。

2017年1月1日(日)


2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。

当サイトではこれまで毎年の年越しに際し、様々な寺で除夜の鐘を撞いてきました。
徘徊の挙句に撞けなかった年もありますが、とにかく他所者としてネイティブな場へ紛れ込み、
本来は近所の人が顔を合わせて撞く鐘を、気後れと気まずさを感じながら、撞いてきたわけです。
この気後れと気まずさ、地元・八幡でさえ 「移民の子」 という自覚ゆえ逃れられなかった私は、
やがて払拭を求めるようになり、2016年には本籍地の隣・南丹市船枝に立つ京都帝釈天へ遠征
ルーツとも言える地にて、参道に並ぶ108個の鐘を遠慮なく&思う存分撞きまくったんですが、
この撞きまくりにより、私の中にあった鐘への欲求は何か、昇華されてしまいました。
鐘は、もういい。撞く必要性を、感じない。そもそも、年越しだから鐘を撞くなんて、もう古いですよ。
むしろ、鐘に捉われないことにより、今まで見ることが出来なかった年越しの相貌を見てみたい。
欲求の昇華により、魂が次のステージに入ったのか、私はそう考えるようになったのでした。
とはいえ、単に除夜の鐘をやってない寺を訪れ、何らかの祈願をするだけでは、流石に味気ない。
鐘は撞かず、でも多少は年越し感のある行事をやってる寺へ、行きたい。でも、そんな寺、あるかな。
という疑問を速攻で抱きましたが、その答えはやはり速攻で見つかりました。永観堂です。
永観堂。正式名称 「秋はもみじの永観堂」 。というのはもちろん嘘で、聖衆来迎山無量寿院禅林寺。
浄土宗西山禅林寺派総本山なわけですが、一般的には無論、紅葉の名所として有名であります。
ゆえに、紅葉以外には幼稚園の園児募集ポスターぐらいしかイメージがない寺なんですが、
年越しでは 「聖衆来迎」 の名に相応しく、無量ならぬ無料で鐘楼を開放して、除夜の鐘を実施。
のみならず、名物 「みかえり阿弥陀」 を祀る阿弥陀堂では、写経も行われるのです。これですよ。
というわけで今回の年越しは、写経の為だけに、永観堂を訪寺。鐘は、撞きません。
「にらみ鯛」 ならぬ 「にらみ鐘」 とでも呼ぶべき新たな年越しスタイルを提案したいと思います。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、鐘を待って並んだり突っ立ったりするのが、単純にしんどくなったのでは、ありません。
断じて、年越しネタ自体がいい加減ネタ切れ+飽きが来てるわけでも、ありません。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて過ごす聖夜、前篇の続きです。
 
「京都で暮らす」 ということ。それは、つまり、 「自分らしく暮らす」 ということ。
「自分らしく暮らす」 ということは、 「自分である」 ということであり、 「自分がある」 ということ。
歴史や伝統の尻尾を追いかけて、一代や二代ではなれるわけがない 「京都人」 になり切る努力は、
意味がないし、何より 「自分以外の誰かになれる」 と思い込める若さが、この街には似合わない。
必要なのは、 「自分」 を立ち上げること。そして、その上で、 「京都」 へ無駄にこだわらないこと。
「京都」 への無駄なこだわりは、この街のカルチャーを本当の意味で背負うには、邪魔になる。
都市の原動力は、いつだって、様々な文化の吸収。その駆動原理は、千年の都・京都だって、同じ。
人も文化も、外部からこの街へ入ってくるエレメントは、健全な血流の為には常に必要なもの。
「受け入れる」 という姿勢では、足りない。自ら積極的に取り入れるタフさを、持たなくてはならない。
外来のエレメントと蓄積された歴史を組み合わせて、立体的な創造を行う知力も、重要になる。
「京都」 への無駄なこだわりは、このタフさと知力の飛躍を阻む、壁。壊さなければならない、壁。
都市の駆動原理ゆえ、どんな子供でも簡単に皮肉ることができるほど混沌とした京都の真ん中で、
自分自身を保つ力を授け、新たな未来を創り出す力になってくれるのは、壁ではなく、 「自分らしさ」 。
誰もが 「自分らしい」 暮らしをしなやかに持ち、それぞれの 「らしさ」 がゆるやかに響き合う。
その共振だけが、柔軟な知性と未来への眼差しを生み、この街を更新していく――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
―――と、京都ブランドに乗って勝手&凡庸&無秩序な欲望を 「自分らしく」 発露しまくり、
その発露をポエミーな寝言で美化&正当化したくもなる魔力に満ちた新たな魔界たる洛中にて、
魔界ゆえ増殖している境界的簡易宿所のひとつ・三条右近橘に投宿し過ごしてる、2016年の聖夜。
私もまたその魔力に侵食され、 「自分らしさ」 全開で普段通りに文博行って小津の映画観たりと、
京都にもクリスマスにも全く関係ない挙動に好き勝手に励んでるわけですが、後篇はいよいよ、飯。
「隠れ家の食事処」 での夕食や、チキン&ケーキ爆食など、食の流れを一気に観てもらいます。
これこそが、新たに生まれた魔界で嗜む私にとっての 「自分らしい」 「京都の暮らし」 です。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

太陽神の生誕祭をルーツに持つクリスマスが、その内に孕んだ境界性を追求すべく、
当サイトでは、京都郊外にある境界 「四堺」 へと赴き、聖夜お泊まりを敢行し続けて来ました。
しかし、そんな崇高にしてアカデミックな荒行を、温泉浸ったり猪肉食ったりしながら続けてる内に、
辺境の真逆たる京都市中心部では、宿泊施設を巡り、事態が極めて激しく変化していたのです。
2011年には50万人強だった京都市の年間外国人宿泊者数は、2015年には300万人まで増加
宿泊施設が絶望的なまでに不足し始め、その不足によって生じる隙を狙った所謂ヤミ民泊も急増
行政は、ヤミ民泊を取り締まる一方で、グレーな施設に対しては旅館業法の許可取得を奨励
結果として、マンションや町家丸出しながら一応合法の簡易宿所が、激増することとなったのでした。
そう、極めて境界的なる性格を持つタイプの宿所が、都心にこそ溢れるようになってるわけです。
「本当の京都」 と有り難がられている洛中のど真ん中こそが、他所者が蠢く境界と化してるわけです。
「金余りの割にコンテンツ供給が足りてないバブル期に於けるセックス祭」 としての面が後退化し、
属性問わず人を消費へ誘う契機としてだけひたすら活用されてるようになったクリスマスを、
「教会祭」 ならぬ 「境界祭」 として認識し直し、その魔力との対峙を続けてきた当サイトとしては、
街中に新たな境界が出現し、氾濫&増殖しているこのカオスな状況、見過ごすわけにはいきません。
というわけで2016年の聖夜お泊まり企画は、これまでの辺境巡礼から一転して都心へと回帰し、
着物姿の某国人がマンションから団体で出て来る様をしょっちゅう見る洛中にて、敢行してみました。
泊まったのは、三条右近橘。怪しい宿では、ありません。日昇別荘が運営する、簡易宿所です。
では、宿代が安いだけの普通な宿かといえば、エントランスはトップ画像のような超ハードコアぶり。
マンション以外の何物でもありません。正に、民泊。相手にとって不足なし、と言うべきでしょう。
この宿にて聖夜を過ごすことで、新たな境界と向き合い、その素性を見極めんとしたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、翌日に用事がある為、移動時間が読み難い郊外特攻を日和ったのでは、ありません。
断じて、そもそも郊外特攻そのものがいい加減面倒になってきたのでも、ありません。

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梅小路公園の紅葉まつりライトアップを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年11月25日(金)


梅小路公園の紅葉まつりライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

幼い頃、山陰本線の車窓から梅小路貨物駅を眺めた記憶が、かすかにあります。
私の親は丹波出身なので、帰省で山陰線へ乗ることが珠にあり、その際に見たわけですね。
完全な幼児の疎覚えなので、本当に自分の目で見た記憶なのかどうかも現在では怪しいですが、
ただ、私鉄しか走ってない地元では見たことがなかった超大規模なる 「鉄」 の世界を垣間見て、
「これから遠くへ行くんだ」 という旅情 or 寂寞感のようなものを感じたことは、確かに記憶してます。
平安期は平清盛の西八条第が建ち、江戸期は土御門家の本拠地であった京都南部・梅小路が、
広大なる貨物駅を擁する一大 「鉄」 ゾーンと化したのは、もちろん、日本に鉄道ができた明治以降。
洛中の繁華街は線路が通し難い為に、京都の玄関口たる京都駅は南部にて作られることとなり、
それに伴って貨物扱いもその近所・梅小路で行われることとなり、梅小路貨物駅は誕生したのでした。
以後、近代&現代を通じて長く活躍した梅小路駅でしたが、1990年に設備が移転し、空き地化。
やがて空き地はJRから京都市へ売られ、買った京都市は何ちゃら記念として空き地を公園に整備。
かくして梅小路貨物駅は、庭園やビオトープなどで構成された都市公園・梅小路公園へ再生し、
長じた私が便所へ寄った際には、個室の壁を登ったその筋の方と目が合ったりもしたわけであります。
梅小路公園、近年は敷地内に京都水族館ができ、旅客新駅も開設予定と活性化が著しいですが、
庭園 「朱雀の庭」 もまた、より集客を図るべく晩秋には「紅葉まつり」 を開催し、ライトアップも実施。
京都駅からギリ歩いて行ける夜の紅葉スポットとして、ジワジワ認知と人気を高めつつあります。
と、幼少の頃に抱いた 「鉄」 な印象からすると、私的には隔世の感を感じまくる今の梅小路ですが、
しかし千年単位で物を考える京都では、100年ほどブイブイ言わせた 「鉄」 こそ過客に過ぎず、
紅葉の映える庭園へと姿を変える方が、ある意味、この街らしい流れと言えるのかも知れません。
そんなことを思いながら、私もまた便利さに釣られて、夜の梅小路公園へ出かけてみました。
庭の名物という 「逆さ紅葉」 は、私の心を 「遠く」 へ連れて行ってくれるでしょうか。

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鷺森神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2016年11月25日(金)


鷺森神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

紅葉の季節が終わる度に、何故か持ち金が減ってることに、気が付いたりします。
よくよく考えると、不思議なことはありません。金が減るのは、当然、その分を使ったからです。
紅葉を観に入った寺の拝観料とか、そこへの移動費とか、多少の飲食費とかで、使ったからです。
一件ごとに見れば、小銭の範疇でしょう。実際、紅葉徘徊の最中も、散財の自覚はありません。
が、使ってる、確実に。で、減っていく、確実に。この 「使」 と 「減」 が10件とかになれば、どうなるか。
ここ数年の当サイトに於ける紅葉記事は、年3~4本というしょぼいペースのアップになってますが、
実は記事化してない訪問も結構あって、結局は毎年毎年10件近くは紅葉を拝みに行ってたりします。
なので、トータルの出費は、そこそこの額になるわけですね。で、毎年、財布を見て驚くわけですね。
ただ、さらによくよく考えるとこうした出費、旅行者の方はもっとエグい形で味わってるわけですよ。
私が1~2週間で使う額を、下手すると1日で使う場合も、充分想定できます。これは確かに、キツい。
拝観受付とかで 「また金か」 とボヤく観光客を見る度に、私は 「小銭だろ」 とか思ってしまうんですが、
そこへ至るまでに同様の小銭を何度も払って来たなら、ボヤきたくなるのも人情としては普通です。
さらにさらによくよく考えれば、ひとり客であるがゆえに、連れ相手にボヤきを漏らすことも出来ず、
キツさを噛み殺して、じっと出費に耐えてる同志の方も、かなりの規模で存在するのかも知れません。
大変です。さらにさらにさらによくよく考えると、何が大変かよくわからなくなりますが、でも大変です。
なので、そんな出費疲れを癒やしてくれる紅葉も紹介すべく、今回、鷺森神社へ出かけてみました。
鷺森神社修学院離宮の近くにあって、修学院&山端エリアの氏神として信仰されてる社であります。
と同時に、現・修学院離宮の地から移転する為、霊元天皇より現社地を下賜された社でもあります。
アーシーなる信仰とロイヤルなる由緒を併せ持つ、実に市井の京都らしい社とも言える神社でしょう。
そんな鷺森神社、ロイヤルな社地ゆえか参道が大きく、道沿いの樹々は秋になれば実に紅化。
参道自体はコンクリ丸出しの殺風景な代物である為か、所謂 「穴場」 化は今も左程してませんが、
写真の写りは妙に良く、無料で拝める紅葉としては破格のクオリティを誇るものだと思います。
そんな鷺森神社の紅葉、拝観料のみならず交通費もケチって観に行ってみました。

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広隆寺へ紅葉と聖徳太子御火焚祭と宝冠弥勒を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年11月22日(火)


広隆寺へ紅葉と聖徳太子御火焚祭と宝冠弥勒を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「作りましょう。1日も早く、この仏像たちの町を (怪奇大作戦 『京都買います』 )」 と、
『京都買います』 のヒロイン・美弥子のように秦河勝が切々と語ったかどうかはわかりませんが、
とにかくその河勝が、聖徳太子より美しき仏像を得たことで、太秦・広隆寺の歴史は始まりました。
土木や養蚕などの技術を日本へ持ち込み、平安遷都以前の京都も開発した、渡来氏族・秦氏
その族長的存在であり、現在の太秦の辺を本拠地としながら、聖徳太子にも仕えて活躍した、河勝
側近としての活躍が評価されたのか、太子からは仏像も授かり、それを祀るべく河勝は寺を建立。
それが、広隆寺であります。創建の経緯については諸説ありますが、とにかく広隆寺であります。
太子より授かったとされる弥勒菩薩半跏思惟像 aka 宝冠弥勒は、国宝第1号として無論有名であり、
また本尊・聖徳太子立像は、天皇より贈られた黄櫨染御袍を着せる習わしが、現在に至るも継続。
実に、ロイヤルな寺なのです。由緒もロイヤル、寺宝もロイヤル、古習もロイヤルな寺なのです。
が、実際に行って受ける印象は、そうでもないんですよね。何か、アーシーな感じもあるんですよね。
広隆寺は、先述の 『京都買います』 のOPに登場します。で、割とアイロニカルに描かれてます。
「交通ラッシュ&観光客に晒され、仏像が安心して暮らせない街」 となった京都の象徴、みたいに。
現在も、広隆寺の前はまあ、あんな感じです。実に、 「誰も京都なんか愛してない証拠」 な感じです。
ではそのアーシーさ加減が、ひたすらに興醒めかといえば、これがまたそうでもないんですよね。
ロイヤルさと入り混じることで、他の寺にはあまりない、独特な魅力を生んでたりもするんですよね。
聖徳太子御火焚祭に合わせて、紅葉&仏像&護摩火を一度に見るべく出かけたこの日の広隆寺も、
狂気すら誘う超越的な美を誇る宝冠弥勒と、聖徳太子への信仰を守るアーシーな信者の人達、
そして太子への祈りの火と燃え上がるような紅葉が入り混じる、実に独特な魅力が溢れてました。
「京都」 への 「愛」 とは、何なのか。それ以前にそもそも 「京都」 とは、何処の、誰の、何なのか。
よろしければ、その辺のことも考えたりしながら、秋の日の広隆寺、お楽しみください。

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中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月21日(金)


中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

稲作が伝来する以前の縄文時代、日本人は、を主食として食ってたそうです。
収穫が比較的容易な場所に生え、イガを除けば採集も比較的容易な形で落ちてくれる、栗。
生で食え、火を通せば抜群に美味く、粉にすれば調理の幅も拡がり、更には保存も出来る、栗。
最大の魅力たる甘味が弱味になる可能性こそありますが、主食たる条件は充分にクリアしており、
ゆえに縄文期の遺跡からは人工的な栽培の痕跡さえ見つかってしまう、 「樹穀」 なわけであります。
この栗食の記憶、実は、現代人にも継承されてるんだとか。無意識の底で、息づいてるんだとか。
栗食の潜在記憶が、トロイの木馬の如く発動する為、我々は秋になると、栗を食いたくなるんだとか。
与太な話、と思われるでしょうか。しかし私は、何かしら納得出来るものを、感じなくもありません。
確かに栗は、妙です。特に現在の主食・米との関係性に於いて、他の果物と比べ圧倒的に、妙です。
この世に数多ある果物の中で、栗だけがほぼ唯一、米飯に対するがっつりとした侵入に成功し、
「栗ごはん」 or 「栗赤飯」 として、晩飯のメニューにも登板が可能な認知度を誇ってるという、謎。
同じ秋の果物仲間でありながら、梨ごはんも、柿ごはんも、葡萄ごはんも、そして蜜柑ごはんも、
決して到達することが出来ないマジョリティの地平に、栗ごはんだけが立っているという、謎。
豆を無理にでも果物扱いしない限り、栗が誇るこのぶっちぎりの独走状態は、説明がつきません。
栗には、何かがあるのではないか。今は 「果物」 のふりをしてるが、何かがあるのではないか。
何なら、 「御厨」 の読み仮名が示す様に日本の食の根幹にさえ繋がった、何かがあるのではないか。
日本人と食の問題を真摯に考え続けてきた当サイトとしては、この問題を看過出来ないと判断し、
米を依代とする手法を用いて栗の神秘にアプローチしようと考え、今回、桂の中村軒へ出かけました。
中村軒世界の名勝・桂離宮の畔にあって、かつら饅頭&麦代餅が名代として知られる名店です。
餅そのものの美味さで知られる中村軒ですが、秋になれば栗ぜんざいなど栗アイテムも多数、登場。
で、これら栗と餅の合体メニューを食いまくることで、 「主食の国譲り」 の謎へ迫ったのであります。
そう、これはあくまでも、新たなる挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
断じて、秋になると栗記事2本のアクセス数が不穏なまでに良いので、3本目の泥鰌を狙い、
また同時に、秋口の餅の美味さも堪能しようと思って出かけたのは、ありません。

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宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月15日(土)


宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宇治田楽まつり。宇治名物・茶団子に田楽味噌を付けて食いまくる祭、ではありません。
また、いわゆる田植舞などの農耕色が濃い民俗芸能が披露される祭、というわけでもありません。
平安後期から鎌倉期にかけて宇治の地で隆盛を誇ったという 「幻の芸能」 である 「田楽」 を、
現代らしい的な形で復活させようと宇治の人々が考え、1998年より開催されてるイベントであります。
宇治は無論、世界遺産・平等院をコアに擁し、『源氏物語』 宇治十帖の舞台としても名高い地。
これら栄華の源泉たる藤原氏摂関期以前から、貴族達は別荘で宇治の風光を愛でていたものの、
摂関期以後はセレブ化が更に進み、そのセレブ化進行が近隣住民の生活や祭礼にも強く影響。
元来は郷民が競馬などで盛り上がってたという氏神・離宮八幡宮の祭礼・離宮祭も、華美化が進み、
禁令が出るほどの煌びやかな衣装と共に、カオスな 「躍り」 系芸能としての 「田楽」 が、隆盛化。
この 「田楽」 は、編木 (ビンザサラ) や腰鼓などを奏でつつ躍動的に踊るという渡来的なフォームで、
高足など散楽の曲芸に加え、後には猿楽の要素さえ取り込んだという、風流の魁のようなもの。
どこが 「田」 だという感じのカオスの中では、農耕と全然関係ないプロ芸能者・田楽法師 が活躍し、
更にはそのプロを模倣した 「やってみた」 系のアマチュア下級武士まで混入するなど、中々にカオス。
洛中では、末法カオスの真最中に 「永長の大田楽」 なる風流パンデミック状態まで発生しますが、
宇治では、白川金色院周辺にプロ集団・本座が勃興し、先述の離宮祭を中心に派手な活動を展開。
本座は、京都や奈良の寺社でも芸を披露し、遂には春日若宮おん祭へも参勤するに至りますが、
やがて新興のプレ能たる猿楽に圧され始め、幕府の庇護が猿楽へ向かった室町以後は一気に衰退。
「田楽」 そのものも歴史の彼方へ姿を消し、芸態も詳細不明な 「幻の芸能」 となったのでした。
で、この 「幻の芸能」 を、宇治市民自ら躍って復活させるという公演が、宇治田楽まつりであります。
詳細不明ゆえ、その内容は基本的によさこい的な創作系で、カオスな高揚をこそ目指す感じ。
しかし、その開かれた感じと、市民自らが躍る楽しさが相まって、人気は年々上がってるようです。
そんな宇治田楽、茶団子も田楽味噌も食わずに、ひたすらカオスな舞踊を観てきました。

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