2014年4月10日(木)

平野神社の桜花祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
平野神社の周囲はかつて、辺り一面が長閑な農地だったそうです。
住宅地&西大路通&そこを通る立命の●●学生に囲まれる現在からは想像が困難ですが、
佐野藤右衛門の分厚い桜本によると、実に昭和初期に至るまで農村の雰囲気は残ってたとか。
へ~、という話ではあります。ただ 「元農村」 が全く想像つかないかといえば、そうでもありません。
すぐ隣の北野天満宮には、道真以前から五穀豊穣を祈願する雷神信仰が存在したというし、
秋のずいき祭に登場するずいき神輿などは、正しくこの地の旧来の風土性を現在へ伝えるものです。
で、そんな 「農」 or 「土」 なこの地の歴史と性質を感じさせてくれるもう一つのエレメントこそ、
当の平野神社の名物 or アイデンティティ or レゾンデートルとして有名な、桜ではないでしょうか。
「平凡苗字神社」 と、当サイトで阿呆なタグをつけてるほど平凡な苗字の如きその名に反し、
桓武天皇によって平安遷都と同時に奈良から勧請された、極めてロイヤルな由緒を誇る、平野神社。
名物の桜もまた、花山天皇による手植えに始まるという、ロイヤルな由緒を誇るものであります。
応仁の乱の際には、西軍の拠点に近いため一度は社殿や領地ごとズタボロと化しましたが、
江戸期に至ると、宮司として社の再興を果たした西洞院時慶が、現在のベースとなる桜苑を整備。
さらに近くの西陣が織物で隆盛を誇り始めると、西陣に密着した桜の名所として、発展を果たしました。
故にというか何というか、私にはいかにも京都的な 「街中の桜」 に見える平野の桜ですが、
戦後すぐの頃は桜樹を取っ払って芋が植えられたというくらい、元来この土地は肥沃なのであり、
桜も芋も育んだその肥沃さは、農地に囲まれてたかつての時代に醸成されたものかも知れません。
そんな平野神社、桜シーズンの真っ只中に、祭を開催してます。その名もずばり、桜花祭。
花山天皇の時代に始まったとも言われてる祭礼を、大正期に復活させる形で開始されたこの祭は、
恐らく明治の上知以前の神領地だったエリアを、古式に則った祭礼列が回るというもの。
都市化された元の農地を、まるで桜を育んでくれた礼をするように、神が巡幸するわけです。
そんな桜花祭、ユルく追尾すると共に、桜苑もユルく鑑賞してきました。
続きはこちら »
2014年4月7日(月)

早朝の嵐山へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
2011年に早朝の嵐山の桜を見に行った際、
「朝の嵐山が好きだ。仕事の匂いがするのが好きだ」 みたいなことを、書きました。
かつて丹波より保津川を下りやって来た木材の集積場&湊町として栄えた時代の残り香と、
あちこちの宿や飲食店が放つ何とも言えない昭和テイストな出汁の仕込み香が漂う、朝の嵐山。
そういった 「仕事」 の顔が感じられるタイムだから好きだ、というようなことを書いたわけです。
しかし、言うまでもないですが、嵐山がそもそも貴族の遊興地であったこともまた、確かであります。
そして、この嵐山の春を彩る桜が、雅なルーツを持つものであることも、確かであります。
この地に亀山御殿を築造した後嵯峨上皇が、吉野の桜を移植したことに始まるという、嵐山の桜。
本家である吉野には比ぶべくも無いですが、程良くコンパクトにまとまったそのサイズ感と、
それでも京都の街中と比べたら圧倒的なスケール感&スペクタクル感を誇りまくるそのビジュアルは、
貴族の庭的な雅さ&ダイナミズムを併せ持つ 「王朝時代から続く観光地」 としての面目躍如、
嵐山の 「仕事」 あるいは 「本業」 の魅力が、明確に具現化されたものと言えるのではないでしょうか。
そんな嵐山の 「本業」 の匂いを改めて吸い込んでみたくなった、というのは半分くらい嘘で、
残り半分は単に思いつき一発ではありますが、とにかくまた嵐山朝行をやってみることにしました。
前回は右岸をウロウロしましたが、今回は中之島から左岸、そして亀山の展望台へ行く感じ。
うちのサイトの趣旨からすると、人の少ない時間帯に出かけるというのは反則に当たるわけですが、
「本業」 の顔を見るなら、こちらも 「人間観察が趣味です」 みたいな冷やかし根性は捨て、
「私だけの嵐山を見つける」 とか言いそうな 「本業」 阿呆観光客の如き気持ちで赴くべきと考え、
でもそんな気持ちでガチ混雑時に出かけるのはガチで辛いので、朝に行ったわけです。
かくも情けない独男に、嵐山は 「本業」 の桜を見せてくれるでしょうか。
続きはこちら »
2014年4月5日(土)

山科疏水へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都および大阪において淀川水系の恩恵を受け生きている人民が、
滋賀県民から事ある毎に 「調子乗ると、止めるぞ」 と脅され続けている、琵琶湖の水。
その琵琶湖の水を、こっそりひっそり山越えて京都へ引いてるのが琵琶湖疏水なわけですが、
しかしこの疏水、元々は水をこっそりひっそりパクるために敷設されたわけではありません。
あ、いや、これはいくら何でも、言い過ぎでした。水欲しいの点についても、パクるの点のついても。
もちろん、水自体も欲しかったでしょう。特に、水力発電が疏水計画に組み込まれて以降は。
ただ、その水力発電の原動力となる琵琶湖と京都の高低差って、実に42mもあるんですよね。
「工事中に事故ると、京都が水没するんじゃないか」 という心配も、されてたそうなんですよね。
そんな水没の心配を押しても疏水が作られた最大の目的は、京津間に於ける輸送路の確保でした。
京都近代化にあたり、東海道&北陸道からの物資輸送を重視した当時の府知事・北垣国道は、
交通の最大のネックとなっている逢坂山をブチ抜き、運河として使える水路を引くと決定。
当時まだ21歳だった田辺何ちゃらに何ちゃらを何ちゃらして、何ちゃらが何ちゃらされ何ちゃらし、
何ちゃらにて何ちゃらされ、何ちゃらから何ちゃらした結果、琵琶湖疏水はめでたく開通したのでした。
経緯を若干過剰に端折りましたが、とにかく明治期に運輸を主たる目的で作られた琵琶湖疏水、
運輸目的という点で共通するのか何なのか、やはり明治期に数多く建設された鉄道と同様、
陸上に水が顔を出すあちこちのスポットには、まるで防風林のような按配で桜が植えられてます。
ベタな知名度を誇るのは哲学の道 or 岡崎辺りでしょうが、他にも名所とされる場所は存在し、
中でも近年評判になってるのが、逢坂山と東山の間に位置する山科一帯における、桜。
そのビジュアルは、沿岸に並ぶソメイヨシノが水路を覆うという、ベタといえばベタなものですが、
地元の方が植えた菜の花との相乗効果で、郊外エリアらしい穏やかな美を誇ってます。
そんな疏水の桜、出くわした船に水運の残り香を感じつつ、眺めてきました。
続きはこちら »
2014年3月16日(日)

京都・東山花灯路2014へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
人は何故、光を求めるのか。何故、闇の中に光を求めるのか。
「暗いから」 「暗いと何も見えへんから」 「何も見えへんと不便やから」 と答える輩には、
「暗くなったら寝え。日照時間だけ起きとけ」 としか返し様のない、深淵なる問いであります。
本能の名残なのか何なのかは知りませんが、人は実用的な理由が無くとも光を求めるものです。
震災以降も多発するライトアップ or イルミネーションの人気は、その証明に違いありません。
「いや、それは交尾へのステップという極めて実用的な理由があるんだよ」 という下衆の輩には、
交尾へ全く繋がらないのに、こうして2014年も花灯路へ特攻する私の動機を説明できないでしょう。
正直、私は東山花灯路に、ある種、大きな声では言えない類の魅力を感じ始めてます。
光を求める人間の根源的なオブセッションと、それを垂れ流しで露出する快感を感じ始めてます。
そんなことを、震災関係の展示が激減した今回の春の花灯路で、自覚させられたのです。
閑散期における純然たる電飾客寄せイベントとして始まり、今やすっかり定着した、京都花灯路。
勝手ながら私にとっては、初めてまともに特攻したのが震災直後の2011年春であったため、
「光とは何か」 or 「灯とは何か」 みたいなことを、考えさせられるイベントだったりします。
同時に、 「その影に生じる闇とは何か」 みたいなこともまた、考えさせられるイベントだったりします。
電力不足による終了フラグをひりひりと感じさせられた前回・前々回・前々々回とは異なり、
震災の事を忘れたかの如く展開された今回の東山花灯路でも、その印象は特に変わりません。
いや、むしろそれ故に、光へのオブセッション&その影に生じる闇を、強く感じさせられたのでした。
人は何故、闇の中に光を求めるのか。正確に言えば、何故、わざわざ闇の中で求めるのか。
凡庸な客寄せイベントだからこそ、そんな問いを丸出しで転がしてる東山花灯路2014、
例年よりやや暗めの写真で、影&闇の魔力と共にお楽しみ下さい。
続きはこちら »
春も、ひとり,
東山区,
夜も、ひとり,
★,
ひとりで目眩むライトアップ,
舞妓はん芸妓はん,
拝観無料,
超メジャー級,
イベント | tags:
東山花灯路,
祇園,
花灯路,
大混雑 |
2014年2月3日(月)

2014年度の節分めぐり、後篇です。
『ウルトラマン』 の仮タイトルが 『ベムラー』 だったのは、有名な話です。
ベムラーとは、 『マン』 第1話で登場した怪獣の名前。ボツの後、転用されたわけですね。
企画初期の 『マン』 は、名前のみならずビジュアルも実にベムラー的というか、怪獣的であり、
シュルレアリストにより生み出された、極めて抽象度が高い 「正義」 の造形に慣れた我々の眼には、
そのビジュアルは、およそヒーローらしくない、あるいははっきりと 「悪」 に見えなくもありません。
『マン』 が現代的なヒーロー像を確立する以前の、 「悪より怖い神」 としてのヒーローの残滓、
それこそ 『ゴジラ』 の如き 「荒ぶる自然の神」 としてのヒーローの残滓、みたいな感じなんでしょうか。
しかしこの 「悪より怖い神」 、後年には人類を液状化させた 『エヴァ』 にて見事復活 (?) し、
やはり 「ヤヴァい神」 こそが日本の原初的ヒーロー像なのだと思ったもんですが、それはともかく。
「ヤヴァい神」 「悪より怖い神」 を守護神として祀るのは、寺社では現在でも普通のことです。
京都に話を限っても、祇園祭における荒ぶる神・牛頭天王の重要性など、枚挙に暇はありません。
季節の変わり目に生じた境界領域へ鬼が侵入するのを防ぐ節分においても、事情は全然同じ。
吉田の追儺式に現れる、鬼より怖い方相氏。あるいは平安神宮に現れる、鬼より不気味な方相氏。
いずれも、不気味です。 「悪より怖い何かを神として崇拝する」 信仰を感じさせるものです。
真に節分の厄や邪気を祓いたいなら、より強く、より怖い神に祈るのが、道理ということなのでしょう。
というわけで2014年の節分めぐり、後半は厄除けを徹底するべく、怖い寺社ばかり回ります。
回るのは、京都最強&最凶の怨霊系神社×2と、大量のダルマがギョロ目で睨みを利かせる達磨寺。
バキバキに効く、でも怒らせるとバキバキに怖い、そんな寺社を念入りにお参りすることで、
邪気を完全封鎖しようと思ったのかといえば、無論本当は思いつきでフラフラ動いただけですが、
とにかく一歩間違えるとこっちが邪気認定されそうなところばかり、何となくめぐってみました。
ユルくて怖い、ある意味で京都的とも言えるそんな節分めぐり、お楽しみ下さい。
続きはこちら »
2014年2月3日(月)

2014年の節分をめぐってきました。もちろん、ひとりで。
毎年恒例の節分めぐり、2014年度版でございます。
深層意識で今なお旧暦のタイムテーブルが稼働し続けているせいなのか何なのか、
「本来の年越し」 的な感じで、ある意味では正月以上の盛り上がりを見せる、京都の節分。
市内の多くの寺社で2月3日を中心に各種祭典が行われ、大きな賑わいを呼んでいるのであり、
メジャーどころの単独正面突破を旨とするうちでも、毎年、めぐり特攻を繰り返してきました。
2011年は、本丸たる吉田神社の節分祭・追儺式に特攻して鬼が全然見えない玉砕から始め、
各地で鬼が暴れる様を追いかけ回した末、火炉祭を観に戻った吉田で今度は閉め出し食らったり。
2012年は、舞踊奉納や節分狂言、追儺狂言といった芸能を、あちこちでタダ見しまくった後、
須賀神社で独男に無縁な懸想文を購入し、悲願の吉田神社・火炉祭の炎では顔面を焼かれたり。
そして2013年は手抜きをしたくなったので、東山周辺の寺社の節分祭を極めて適当に巡り、
鬼の写真が全然撮れなかったので、 「無形の鬼を追い求める」 とか適当な屁理屈をこねてみたり。
といった感じで、熱狂と混雑の巷へ飛び込んでは、無意味な疲労を積み重ねて来たわけですが、
では今回の2014年度版はどうしたかといえば、2013年に引き続き、何というか、適当です。
今まで回れてないスポットを、ユル目のスケジュールでダラっと回り、すぐ帰った。そんな感じです。
2月って、寒いですしね。出歩くと、疲れますしね。それにこの時期、色々と金無いですしね。
いや、 「体も懐も寒いからこそ、景気良く盛り上がりたい」 という気持ちは、ないでもありません。
が、でもやっぱり2月って、寒いですしね。疲れますしね。この時期、色々と金無いですしね。
というわけで、前年以上に少ないスポット数を日和り気味で回る、今回の節分めぐりであります。
逆に言えば、堅気の人も実行可能であろう普通の街めぐり+寺社めぐり的なその様、
やはり適当に降りた京阪電車・三条駅から、スタートです。
続きはこちら »
2014年1月11日(土)

金札宮の寶恵駕籠巡行を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
伏見城築城以前の伏見は、決して何も無かったわけではありません。
巨椋池に面した月見スポットとして、伏見殿など貴族の別荘が数多く建ってたのであり、
いわゆる城下町としてのイメージは、当然ながら伏見城が建った織豊期以降の代物であります。
また、寺田屋を始めとする河川交通のターミナルとしての顔は、伏見城廃城後の産物であり、
恐らく最もポピュラーなイメージである酒蔵に至っては、河川交通が駄目になった明治以降の産物。
京都の中心部と風土が異なる伏見ですが、伝統と刷新の歴史を持つことは変わらないわけです。
もちろん伏見城築城による 「刷新」 は、その影響が現在に残るほど大規模&決定的ですが、
「伏見城以前」 の痕跡もまた伏見には多く残ってるのであり、御香宮神社などはその代表格でしょう。
そして、その御香宮神社とミステリアスな関係があるとかないとか言われる金札宮もまた、
そんな1000年以上前から続く 「伏見城以前」 の伝統を、現在に伝えてくれる神社だったりします。
金札宮。きんさつぐう。観阿弥の 『金札』 、あるいは金絡みのパワスポとしても、有名かも知れません。
750年に天照大神が天太玉命を遣わせたとか、貞観年間に橘良基が阿波国から勧請したとか、
創建について幾つか説はあるものの、結局 「昔過ぎて詳細不明」 となってしまうほどの古社・金札宮。
そんな金札宮で年明けに行われるのが、末社である恵比須社絡みの寶恵駕籠巡行です。
寶恵駕籠。新字だと、宝恵駕籠。いわゆる 「えべっさん」 です。 「えべっさんのほえかご」 です。
近くに巨大な大手筋商店街があるためか、その賑わいは実にネイティブな 「笹持て来い」 感に溢れ、
同時に、長きにわたりこの社が集め続けるネイティブな信仰も感じさせるものになってます。
金札宮に恵比須社が遷座したのは明治以降らしいので、比較的新しい行事なのかも知れませんが、
ある意味、伝統と刷新を繰り返した歴史を持つこの町らしい催しとも言えるのではないでしょうか。
というわけで、そんな金札宮の寶恵駕籠巡行、伏見の町をうろつくように見物してみました。
明治以降に始まった行事かも知れないのなら、明治以降の酒蔵にも敬意を表すべきだろうと考え、
というのは完全に嘘ですが、とにかく寒かったので、酒粕スープの麺類もおまけで連食。
寒くて、でも熱い新春の伏見を、一緒にうろついてみませんか。
続きはこちら »
2014年1月1日(水)

2014年への年越しを、京都で迎えました。もちろん、ひとりで。
あなたは知ってるでしょうか。元旦の深夜は寒いということを。
元旦というのは、あの元旦のことです。1月1日とも呼ばれたりする、あの日のことです。
で、深夜というのは、遅い夜のことです。具体的には、22時から翌5時ぐらいの時間のことです。
元日のこの時間帯って、寒いんですよね。寒いって言葉では全然足りないくらい、寒いんですよね。
特に京都は、夏の頃は 「俺を殺す気か!!いやもういっそ殺せ!!」 って思うくらい暑いのに、
冬は死ぬほどというか、比喩ではなく明確かつ具体的に死の恐怖を感じるくらい、寒いんですよね。
あ、そんなことは知ってますか。百も承知ですか。それはまあ、そうですよね、安心しました。
じゃあ、いきなり本題に入りますが、京都で年越しなんてもう、やってられないんですよ。
2011年の時みたいに、時ならぬ大雪が降る大晦日の昼に円山公園&清水寺へ特攻かけたり、
高台寺行って除夜の鐘撞き損ねたりとか、翌日も寝ずにうろついたりとか、やってられないんですよ。
また2012年の時みたいに、年始早々伏見稲荷の山を巡ったりとか、やってられないんですよ。
さらには2013年の時みたいに、真っ暗な嵯峨野で除夜の鐘難民化とか、やってられないんですよ。
と、こうやって過去の年越しネタを並べると、明らかにうろつくボリュームが年々減ってますが、
それくらいこのネタ、帰ってしばらくは頭痛や脚痛で動けなくなるくらい、体がガタガタになるんですよ。
というわけで2014年度の年越しネタ、前後編に分けることなく、1本の手抜きな内容です。
いや、誰に頼まれてやってるわけでもないので、そもそも手抜きもひったくれもない話なんですが、
とにかく己の体をいたわるべく、ゆっくりと、そしてのんびりと、浅~く浅~く、うろつきました。
うろついたのは、岡崎→黒谷→蹴上といったエリア。この選択にも、特に大した理由はありません
単なる気まぐれ+私がおけいはんの民ゆえ、不調の際は電車ですぐ帰れるよう、日和っただけです。
ただ、徒歩圏を適当な彷徨う仕様である分、気まぐれにうろつく 「普通の年越し」 的内容に、
真人間も参考に出来る 「普通の年越し」 的内容に、あるいはなってると言えるかも知れません。
「なるわけがない」 とも思いますが、とにかく孤独な年越し、行ってみましょう。
続きはこちら »
東山区,
★★★,
夜も、ひとり,
冬も、ひとり,
左京区,
山科区,
拝観無料,
ひとりで京都でゆく年くる年 | tags:
粟田神社,
真如堂,
岡崎神社,
金戒光明寺,
知恩院,
日向大神宮,
年越し蕎麦,
除夜の鐘,
平安神宮 |
2013年12月14日(土)

京都・嵐山花灯路2013へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
2013年の嵐山は、大変でした。
何が大変だったかといえば、言うまでもなく9月にやって来た台風18号です。
愛知に上陸した18号は、近畿にも甚大な被害を齎しましたが、京都もまた集中豪雨を食らい、
嵐山では大堰川が溢れかえって、周辺観光地一帯で未曾有の冠水被害が発生しました。
とはいえ、橋が毎年流れるような八幡の人間としては、結構どうってことない洪水に見えたんですが、
濁流に呑みこまれる渡月橋のビジュアルは、全国区的にはなかなかインパクトを与えたようで、
嵐山の店舗や寺社のホームページなどでは、台風から数ヶ月経った現在でもなお、
「既に復旧しました」 とか 「被害はありませんでした」 みたいな告知を、よく見かけたりします。
そう、嵐山は全然、大丈夫なのです。あの渡月橋だって全然、大丈夫なのです。
そもそも渡月橋はバリバリの鉄筋コンクリート製なので、あんな大水ではびくともしないのです。
そして、大丈夫だからこそ、今年も嵐山花灯路は例年通り、ごく普通に行われるのです。
東山は桜シーズンの開始直前、そしてこちらの嵐山は紅葉シーズンの終了直後と、
本来は観光客の入りがガタ減りになる閑散期に、観光地一帯を電飾で無理矢理飾り立て、
光と見れば蛾の如く寄ってくるカップルを中心に浮ついた客層を多く集客してきた、京都・花灯路。
独男にとっては、もはや笑うしかないくらいアウェー極まる客層&内容を誇るイベントであり、
2010年&2012年と特攻済みであることもあって、2013年はスルーと思ってたんですが、しかし。
私も一応、人間の心を持ってます。嵐山の復活を応援したい気持ちも、あったりします。
というわけで、応援どころか邪魔なだけかも知れませんが、ノコノコと初日に出かけてみました。
御馴染の山照らし、御馴染の青光り竹林、そして御馴染の無駄に元気な客層と、
御馴染の光景がしっかり展開されてる様、御覧下さい。
続きはこちら »
2013年11月29日(金)

善法律寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
善法寺家といえば、石清水八幡宮の社家であります。
世間的には某アニメキャラの姓としての知名度の方が高いのかも知れませんが、
少なくとも八幡人的に善法寺家といえば、石清水八幡宮社家たる善法寺家のことであります。
善法寺家。鎌倉期の頃から嫡流の田中家と共に、石清水の別当 = トップを担った家です。
のみならず、室町期には同家の紀良子が2代将軍・足利義詮の側室となり3代将軍・義満を出産、
その縁ゆえか何なのか、義満は石清水をたびたび参拝し、石清水と幕府との関係を強化。
また、良子の母である智泉聖通は四辻宮善統親王の孫 = 順徳天皇の曾孫ともいわれたため、
義満の皇胤説が生まれる要因になったりと、様々な形で歴史に関連する由緒を持つ家でもあります。
あ、神社のトップが 「宮司」 ではなく 「別当」 となってるのが、妙に思われるかも知れませんが、
日本は明治維新に至るまで、神と仏が入り交じり習合しているのがそもそも基本的な信仰スタイル。
特に石清水八幡宮は、かつては 「石清水八幡宮寺」 と呼ばれるほど、その傾向が顕著でした。
山上の本殿には僧形八幡像がどっしりと安座し、その前では祝詞の声と読経の声が日々入り乱れ、
山内には 「男山四十八坊」 とOTK48的な呼称が生まれるほど、宿坊が林立してたわけです。
善法寺家もまた、社務を務める一方で山麓に寺院も建立しました。それが、善法律寺。
律の字が入ってるのは、律宗寺院だから。創建時に招いたのは、東大寺の僧だそうですが。
善法寺家の私邸を寺化して創建された善法律寺には、のちに玉の輿に乗った良子が紅葉を寄進。
ずっと時代が下って明治の神仏分離の際は、山上本殿の僧形八幡像が運び込まれました。
善法寺家は明治に還俗して名前を変え、以降どうなったか私は全然知らないんですが、
善法律寺は現存し、僧形八幡像と、そして良子由来の紅葉を護り続けています。
「紅葉寺」 という別名の由来ともなったその紅葉、観てきました。
続きはこちら »
2013年11月23日(土)

赤山禅院へ紅葉を見に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都御所から比叡山までを結ぶ、猿ライン。
「魔界としての京都」 が流行った頃によく聞いた言葉です。今も言うんでしょうか。
御所鬼門の猿ヶ辻から幸神社、そして赤山禅院から叡山へ、幾重にも設置された猿像たち。
猿は魔物を退治する力を持つため、これらの猿象は怨霊防衛線として配置されたのだと。
これが、猿ライン。身内の呪いに怯えまくる桓武帝が作った風水都市・京都らしい話ではあります。
「目ぼしいポイントを適当に線で結んだら、何でもかんでもレイラインになるんちゃうんか」 と、
大人の対応をしたくなる話ではありますが、しかし子供の夢を踏み潰さないのもまた、大人のマナー。
それに、猿ラインの中間点に立つ赤山禅院の、不思議かつ魅力的な雰囲気に触れたら、
「大人」 な方であっても、猿や鬼門や怨霊といった話に多少の信憑性を感じてしまうかも知れません。
赤山禅院。比叡山延暦寺別院ながら、様々な神が入り交じる、魅惑の宗教施設であります。
平安期、遣唐使として中国へ渡った第三世天台座主・慈覚大師円仁は、帰国時に海難に遭遇。
その時に円仁を守護したのが、道教や陰陽道の神であり、閻魔大王とも見なされるという、泰山府君。
円仁はこの神を日本へ勧進しようと決意しましたが、生きてるうちにはその願いが叶わず、
第四世天台座主・安慧が遺命を果たす形で、泰山府君を赤山大明神として888年に創建しました。
平安期は無論マジの鬼門守護を務め、現在も様々な神が様々なネイティブ信仰を篤く集め、
また 「失敗したら、自決」 で知られる叡山・千日回峰行の通過ポイントとしても有名な、赤山禅院。
しかし、 「赤山」 の名は紅葉の赤に由来すると言われるくらい、紅葉の名所としても著名です。
実際、その紅葉の色の素晴らしさと、神が入り交じる魅惑的な伽藍とのマッチングは、
「確かにここには、ただならぬ霊気が漂っている」 と、霊気の門外漢にも感じさせてくれます。
あと、拝観が無料だし。実はここが一番の人気を呼んでるポイントかも知れないけど。
そんな赤山禅院の紅葉、数珠供養の日に観に行ってみました。
続きはこちら »
2013年11月21日(木)

金戒光明寺へ紅葉を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
「黒谷って、谷というより丘という感じなのに、どうして谷と呼ぶんだろう」
「会津小鉄って、京都の●●●なのに、どうして会津という地名が入ってるんだろう」
この2つの疑問に答えてくれるのが、「黒谷さん」 の呼称で知られる岡崎の金戒光明寺です。
金戒光明寺。知恩院・知恩寺・清浄華院と共に、浄土宗京都四箇本山を構成する寺であります。
浄土宗の開祖である法然は、若かりし頃に比叡山にて天台宗の教学を学んだことで知られますが、
その上人が叡山の黒谷を下り草庵を結んだ地 = 浄土宗初の寺院を建てた地こそ、ここ白川。
最初は 「新黒谷」 と呼ばれたそうですが、やがて 「新」 が取れ 「黒谷」 が呼称として定着。
というわけで、黒谷は黒谷であり、また黒谷さんなのであります。よろしいでしょうか。
第5世・恵顗の時、法然が見た光明に因んで正式名称を 「紫雲山光明寺」 と決めた黒谷さんは、
第8世・運空の時には後光厳天皇に円頓戒を授け、そのおかげで 「金戒」 の2字をゲット。
寺運はどんどん隆盛し、多くの塔頭が立ち並ぶようになり、江戸期に入ると知恩院と同じく城郭化。
幕末に至ると、京都守護職としてやってきた会津藩士約1000名の本陣にもなりました。
その際、会津藩中間部屋頭の片腕として迎えられた男こそ、侠客・上坂仙吉、通称・小鉄です。
小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の遺体を、本陣を置いたこの寺に埋葬。
後に小鉄自身もこの寺に葬られましたが、それから色んなことがふにょふにょもごもごとなり、
さらに色んなことがふにょふにょもごもごとなり、結果、ふにょふにょもごもごということになりました。
というわけで、会津小鉄は会津でも京都の●●●なのであります。よろしいでしょうか。
「何ら答えにも説明にもなってない」 という話ではありますが、しかしそんな疑念も吹っ飛ぶほど、
金戒光明寺の紅葉は、独特のロケーションも相まって実に素晴らしいものとなってます。
寺側は庭園の有料拝観を推してますが、タダで観れる境内の紅葉も極めて、ナイス。
貧乏+吝嗇+美に正直な私は、無論タダの紅葉を堪能させてもらいました。
続きはこちら »
2013年11月15日(金)

法住寺の身代不動尊大祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
まつろわぬ者としての、鬼。
そんな鬼認識が生まれたのは、一説では平安末期からとも言われてます。
元来は、闇や異界といった不可視なる 「おぬ」 の世界を体現する存在だったという鬼は、
末法の世に入り、武家の台頭や盗賊の跋扈などで 「外部」 の都への侵入が常態化し始めると、
「可視化されたアウトサイダー」 ともいうべき新たな相貌が付加されるようになったそうです。
彼岸へ出かけて退治する存在から、此岸へ恐怖をデリバリーする存在と化した、鬼。
平安末期にそんな変貌を遂げた鬼が、同時代の帝である後白河上皇の法住寺陵を参拝するのは、
実に奇妙なことのようであると同時に、ある意味で実にもっともなことと言えるかも知れません。
法住寺陵があるのは、その名の通り、法住寺。三十三間堂のすぐ傍にある寺であります。
藤原為光創建の元祖・法住寺の跡地に、後白河院は院政の舞台として広大な法住寺殿を築き、
熊野狂いを反映した新熊野神社や頭痛を具現化した三十三間堂など、多くの伽藍もばんばか建立。
それらは、三十三間堂を除いて大半が消失し、後にいずれも小じんまりと再興されましたが、
法住寺も木曾義仲に焼討された後に小じんまりと再興、以来、後白河院の御陵を守り続けてます。
そんな法住寺で11月15日に行われるのが、身代不動尊大祭。身代、すなわち身代わり。
この寺の不動明王像が、義仲の焼討の際に後白河院の身代わりになった伝説に由来するこの大祭、
狭い境内が視界ゼロとなる護摩や、狭い境内が炊き出し場化するうどん&ぜんざい奉仕など、
ネイティブ色濃い催しですが、何よりの目玉は鬼たちによる後白河院御陵参拝と鬼法楽でしょう。
ここだけ宮内庁管轄である御陵へ、金棒片手で堂々と入り参拝する、 「まつろわぬ者」 たち。
その姿は確かに奇観であり、ある種のアイロニカルなユーモアを感じさせるものですが、
同時に、鬼を遥かに凌ぐ 「アウトサイダー」 的な 「闇」 をその心の中に抱えていたかも知れず、
また実際に 「アウトサイダー」 の歌ばかりで歌集を編纂したりもした後白河院の御霊に、
鬼たちが鬼なりの流儀で真なるリスペクトを捧げてるように見えたりもします。
そんな妙なる法住寺の鬼法楽と墓参り、見に行ってきました。
続きはこちら »
2013年10月22日(火)

2013年の時代祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
時代祭。言うまでもなく、京都三大祭のひとつであります。
しかしこの祭、他の二祭と比べると始まったのが明治の中頃と、割に最近です。
東京遷都で衰退した京都は、振興策として明治28年に 『平安遷都千百年紀念祭』 を開催。
紀念殿として、5/8サイズの平安京大内裏レプリカを、当時田んぼだらけの岡崎に建設しました。
首都の座を実質失っていた江戸時代でも、かろうじてプライドは担保してくれていた天皇を遂に失い、
思わずアイデンティティを平安時代に求めてしまった京都人は、その小さいレプリカを、神社化。
祭神は、平安遷都を成した桓武天皇と、京都最後の天皇である孝明天皇。氏子は、京都市民全員。
例大祭の日は、平安遷都の日・10月22日と決められました。平安神宮&時代祭の始まりです。
延暦時代から明治維新までの各時代の装束で都大路を練り歩く時代祭名物・時代行列も、
初回こそ完全なる客寄せコスプレイベントでしたが、恒例化して回を重ねる内にラインナップも拡充。
市域の拡大につれて徴員される人が増えたり、花街から芸妓さん呼んで婦人列を新設したり、
「逆賊」 扱いの足利将軍が開催100年目にしてようやく参加を許されたりながら、現在に至ってます。
と、まともにイントロ書くのが面倒臭くなったので、思わず2011年度分をリライトしましたが、
とにかく京都市が誇る一大コスプレ・ヒストリカル・パレードである時代祭の追尾、2013年度版です。
2011年も全行程4.5キロを追っかけたのに、何故もう一度追尾することにしたかといえば、
伝統を死守してるようで実は日々刻々と変化し続ける京都の 「今」 を捉えるため、ではありません。
2011年度が、雨天順延&写真が酷かったので、22日でリトライしたかっただけであります。
当然ながら今回も、行列の全行程4.5キロを、追尾。行列から少しずつ遅れながら徒歩で、追尾。
「動く歴史絵巻」 が凡庸な地方都市を進む絵面ばっかりで、また全時代を網羅してみました。
ビルや車や通行人などを背景ボカシの彼方へ抹殺して偽造した 「雅」 さではなく、
「雅」 さが普通の街中に転がる京都のストレンジさ、改めて御堪能下さい。
続きはこちら »
東山区,
ひとりで京都の三大祭,
昼も、ひとり,
★★★,
秋も、ひとり,
中京区,
上京区,
左京区,
拝観無料,
超メジャー級 | tags:
平安神宮,
時代祭,
京都御所 |
2013年10月13日(日)

八瀬の赦免地踊りを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
赦免地踊りは、断じて斜面地踊りではありません。
この踊りを受け継ぐ洛北・八瀬の地が、山の斜面に囲まれた狭隘な谷間にあり、
斜面ゆえに生まれた高野川の急瀬の多さが地名の由来でも、斜面地踊りではありません。
また、その多くが斜面地であろう林業地を巡る争論が、この踊りの生まれたきっかけであっても、
赦免地踊りは赦免地の踊りゆえに赦免地踊りなのであり、断じて斜面地踊りではありません。
よろしいでしょうか。言ってる私が一番よろしくない感じがしますが、よろしいでしょうか。
赦免地とは、お上から何かを赦免された地。八瀬で何が赦免されてたかといえば、租税です。
後醍醐天皇の叡山潜幸の際、 「山のプロフェッショナル」 として山中における帝の輿丁役を担い、
その功績により地租課役の赦免を保証する 「綸旨」 を賜った、八瀬の住人・八瀬童子。
皇室との関係は近世以降も継続され、明治以降は東京での宮中勤務まで担いながら、赦免を継続。
猪瀬直樹 『天皇の影法師』 で描かれた 「天皇の輿丁」 としての姿は、多くの方が御存知でしょう。
その一方で八瀬は、比叡山麓という立地ゆえ、延暦寺との縁も平安の頃から続いていました。
「叡山門跡が閻魔王宮から帰る際、その輿を担いだ鬼の子孫」 という伝説的な存在として、
高僧の輿を担ぐ力者 = 童子の役を担い、 「綸旨」 以前から雑役が免除されていたともいいます。
そんな八瀬童子と延暦寺がトラブり、赦免地踊り誕生の契機となる事件が起こったのは、江戸中期。
叡山の一方的寺領改めにより、その多くが斜面地であろう林業地の入会権を失った八瀬童子は、
生活の糧が他に無いゆえ死活問題として、幕府、特に時の老中・秋元但馬守喬知へ愁訴。
「綸旨」 の威光もあり、八瀬は宝永7年、赦免地としての特権を明確に認める裁決を獲得しました。
赦免地踊りは、この時の喜びと秋元但馬守への感謝を後世へ伝えるべく始められた踊りです。
登場する切子灯籠は、室町期にルーツを持つと思われる汎洛北的な風流灯籠ですが、
そんな風流灯籠の伝統と、八瀬独自の由緒と文化が交錯する、魅力的な祭なのであります。
というわけで、赦免地踊りは赦免地踊りなのであり、断じて斜面地踊りではありません。
「そんなこと誰も言ってない」 という話ですが、断じて斜面地踊りではありません。
とにかくそんな赦免地踊り、八瀬まで観に行ってみました。
続きはこちら »
2013年9月29日(日)

瀧尾神社の神幸祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
明治初頭に行われた荒っぽい神道国教化政策により、
平安期から日本で親しまれてきた神仏習合の信仰スタイルは、一掃されました。
ビッグネームな寺や神社が林立する京都も、この神仏分離政策は無論、しっかり適用範囲内。
ビッグゆえに 「お上」 と縁が深く、ゆえに 「お上」 の意向 or 顔色を窺う必要があったのか、
「祇園感神院→八坂神社」 を始め、多くの神社が改名したり、神宮寺が破却されたりしたわけです。
私の地元の石清水八幡宮などは、 「お上」 と縁深いのに神仏習合度が強かったため、
慌てた挙句、山中にあった数十の寺を全て破却する事態に至ったりしてますが、それはともかく。
そんな感じで、建物レベルや運営レベルではかなり徹底的に行われた神仏分離ですが、
しかし京都は一方で 「東京遷都以降は基本、全否定」 の精神がこっそりひっそり息づいてもいる街。
粟田祭における青蓮院への神輿突入や、新日吉祭における妙法院僧侶による神輿前読経など、
祭儀レベルでは、神と仏が入り交じるスタイルの儀式を持つ祭も、結構残存してたりします。
で、そんな神仏習合の残り香を、よりダイナミックかつエンターテイメント的に楽しめる祭といえば、
JR&京阪電車東福寺駅すぐそば、伏見街道沿いにある神社・瀧尾神社の神幸祭ではないでしょうか。
大丸の創業者・下村彦右衛門が、下積み時代の行商の道中に熱心な祈りを捧げたことで知られ、
後には同家&大丸の完全バックアップにより贅を尽くした社殿が建立された、瀧尾神社。
今は大丸がどう関わってるのか知りませんが、秋祭は神社の規模以上に賑やかなものであり、
神輿の差し上げは無論、京都独特の剣鉾の剣差し、さらには龍舞なども登場して、見所は実に多し。
中でも一番インパクトがあるのは、「御寺」 の呼称を持つ泉涌寺への神輿乱入でしょう。
皇室の菩提寺たる泉涌寺に、神輿が入り、のみならず坊さんが読経まで行ってしまうわけです。
神輿は近年復活したものだそうですが、祭儀が放つ香りは確かに古の祭の香り。
そんな古の祭の香り、東山南部へ嗅ぎに行ってきました。
続きはこちら »
2013年9月19日(木)

下鴨神社の名月管絃祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「美」 を追い求める人間は、とどのつまり、夜空の月へとたどり着く。
花をねぶり回し、鳥を追いかけ回し、風流に狂い回った 「美」 のプリズナーたちも、
最終的には夜空に浮かび静かな光を発する月に、究極の 「美」 を見い出す境地へと到達する。
と、こんな風に 「花鳥風月」 の意味が語られることがあります。 「ゆえに、最後が月」 的な。
この 「月 = 上がり」 説、実は全然ガセだそうですが、ただ、妙な説得力を感じる人は多いはずです。
月が体現している、 「美」 の究極。または、 「美」 のデッドエンド。あるいは、 「美」 の最終解脱。
時に人を狂気へ誘いかねない、逝ってしまった 「美」 の魔力を、明らかに、月は持ってます。
そして、そんな 「美」 が最も露になる時こそ、十五夜お月さん aka 仲秋の名月ではないでしょうか。
「月々に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月 (詠み人知らず) 」 などという、
「ああ松島や」 級のトートロジー炸裂短歌が詠まれるほど、デッドエンドな 「美」 を誇る、初秋の満月。
石を投げたら 「美」 の最終解脱者に当たるくらい、市井のそこら中で濃い口の好事家が蠢き、
「チャーミングチャーハン」 なるトートロジー or 狂気が滲む屋号を生むクレージータウン・京都でも、
この逝けてる名月は 「月が月で月だから」 という勢いで、大いに鑑賞され、愛でられます。
大覚寺の観月の夕べをはじめとして、ロイヤルな趣向の月見イベントを催すロイヤルな寺社も多く、
今回特攻をかけた下鴨神社の名月管絃祭もまた、そんなロイヤルな月見イベントのひとつ。
平安期の神事 「御戸代会 (みとしろえ) 」 を、昭和38年に再現再開したというこちらの名月管絃祭、
秋の稔りを前に、天下泰平と五穀豊穣を祈願し、雅なる伝統芸能を奉納するというものです。
実にロイヤル。誠にロイヤル。で、お代もロイヤル。とか思いそうですが、しかし入場は基本、無料。
「観月茶席」 なる茶席こそ有料ですが、筝曲や尺八など芸能は無料で拝めるため、
街中の 「美」 の最終解脱者が大挙して押しかけ、雅ならざる混雑を呼ぶ催しとなってます。
そんな名月管絃祭、私も 「美」 を最終解脱すべく、行ってきました。
続きはこちら »
2013年8月20日(火)

干菜寺へ小山郷六斎念仏奉納を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の六斎念仏は、二つの系統に分類できると言われてます。
一方は、元来の念仏フォーマットを遵守して、鉦と太鼓のみで演奏される、念仏六斎。
もう一方は、「花の都」 ゆえに溢れる芸能を導入しまくって、極度にエンタメ化した、芸能六斎。
どちらの系統にも、京都 or 京都外に点在する講中へ免許を授ける総括寺院が存在し、
念仏六斎の 「干菜寺系」 、芸能六斎の 「空也堂系」 なる呼称は、その寺名から出来たわけです。
総括寺院が分かれてるからといって、両系統がバトルしてるということはもちろんなく、
時代の流れの中で転向した講も多数存在し、特に念仏六斎から芸能六斎への転向組は、多し。
念仏と言えどやはり楽しいのが一番なのか、空也堂系は江戸期以降、大いに勢力を伸ばし、
遂には京都の大半の六斎講中が芸能化、その状態は現在に至るも続いてたります。
しかし一方では逆に、芸能六斎から念仏六斎へ転向した上鳥羽橋上鉦講中のようなケースも存在し、
両系統の交錯ぶりはなかなかに面白かったり、あるいはミステリアスだったりするんですが、
そんな交錯ぶりがより顕著に表われてるのが、干菜寺での小山郷六斎念仏奉納ではないでしょうか。
干菜寺。正式名称、干菜山光福寺。言うまでもなく、干菜寺系念仏六斎の総本寺です。
秀吉が訪れた際に干菜を献じたことから、現在の通称を授けられたという由緒を持つ、干菜寺。
授けられたのは通称だけでなく、六斎念仏の講を統括する免状もまたもらったようで、
干菜寺は 「六斎念仏総本寺」 として、以後広範に伝播する六斎の宗教的支柱となっていきます。
が、先述の通り、時代を下ると干菜寺系はどんどんと空也堂系にシェアを食われまくり、
地元の田中六斎も途絶状態、盆の奉納は近所の空也堂系・小山郷六斎が行うようになりました。
そう、つまり念仏六斎の 「総本寺」 において、空也堂系の芸能六斎が奉納されるわけです。
不思議といえば不思議、奇遇といえば奇遇、時代の流れといえば時代の流れですが、
とにかくそんな干菜寺での芸能全開な六斎奉納、観てきました。
続きはこちら »
2013年8月14日(水)

南丹市やぎの花火大会へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
軍人の墓を初めて見たのは、母の実家がある八木の墓地でした。
父方の墓地でも、近所の墓地でも、何故か軍人の墓を見たことがなかった幼い私は、
母方の祖父の墓参りへ出かけた際、初めて目にした形状の墓を指さして、母に尋ねたのでした。
「なんであのお墓、先っちょが尖ってるのん」 「あれは戦争で死なはった人のお墓やから」 。
あ、別に祖父が戦死した軍人だったというわけではありませんよ。全然、全く、違います。
祖父は、酒に狂い、 「俺はマッカーサーの通訳やった」 と妄言を吐き、DV三昧の末、野垂れ死。
母が 「死んで、嬉しかった」 と語るような人なんですが、ゆえに里帰りの際も墓参りはあまり行かず、
ゆえに数少ない墓参りで目にした 「戦争」 の痕跡が、私には妙に強く印象に残ったのでした。
八木町が、他の地域と比べて特に戦没者が多いところなのかどうかは、よくわかりません。
が、恐らく戦後すぐの頃には日本の至るところで開催されていたであろう戦没者慰霊の花火大会が、
失礼ながら決して大きいとは言えないこの町で、形を変えながらも盛大に継続されているのは、
私には、どうでもいい個人的記憶とも結びついて、妙にしっくり来ることだったりします。
2005年の大合併で南丹市の一部になりましたが、それ以前は独立した町だった、京都府八木町。
またまた失礼ながら、農業と男前豆腐以外にはこれといった産業も、観光資源も無い町ですが、
それゆえなのか何なのか、戦後すぐに戦没者慰霊で始めたお盆の花火大会は、徹底死守。
死守のみならず花火の規模はどんどん巨大化し、超至近距離で5000発の花火が炸裂する様は、
戦没者慰霊というより、もはや爆撃そのものの再現としか思えないほどの迫力を、現出。
そのあまりの凄まじさゆえ、近隣住民&私の家族みたいなお盆で里帰りする連中は無論のこと、
京都市 or 関西圏全域からも客を集める、メジャーな花火大会へと成長しています。
もちろん私にとっても、正気だった子供の頃に何度も見た、思い出のある花火大会です。
そんな思い出のある花火大会、狂気の独り身で再訪してみました。
続きはこちら »
2013年8月11日(日)

下鴨神社・糺の森の納涼古本まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
「納涼」 と冠されたものの多くは、実際、大して涼しくありません。
「納涼花火大会」 「納涼ビアガーデン」 「納涼盆踊り」 「納涼船」 など色々ありますが、
そのいずれもが実際はさほど涼しくないという 「真実」 を、知らない人は今やいないでしょう。
現代の夏において、最も効率良く涼が得られるのは、言うまでもなく、冷房が効いた部屋。
震災以降、様々な節電の動きが起こり、様々な 「冷房以外」 の納涼方法が模索されてますが、
画期的な手段は現れず、 「クーラーやっぱり最高」 と文明の利器を再認識しがちなのが現状です。
盆地性の性悪な暑気が充満しまくる京都の夏においても、この辺の事情は全く変わりません。
川からの熱風を感じながら 「風流だ風流だ風流だ」 と自己暗示をかけて飯を食う鴨川川床を筆頭に、
京都の野外で行われる様々な 「納涼」 イベントは、その大半が名に反し、暑苦しかったりします。
世界遺産・下鴨神社の糺の森において、8月中旬、お盆の頃に開催される 「納涼古本まつり」 もまた、
「納涼」 と冠しながら全く涼しくない、逆に暑苦しさが極限域でバーストする、恐怖のイベントです。
都会の真ん中ながら原生林に近い状態を誇る糺の森、そこに聳える大樹の陰を利用する形で、
葵祭・流鏑馬神事会場である馬場に大量の古書店&数十万の古書が並ぶ、 「納涼古本まつり」 。
「自然の恵みたる木陰の涼を感じながらの本探し」 と、文字にすると優雅かつ知的な感じがしますが、
世界遺産の木陰であろうが何であろうが、実際の現場は当然のように死ぬほど暑いのであり
そしてあまり人のことは言えませんが、古書市ゆえに集まるのは暑苦しい独男ばっかりなのであり、
そんな独男たちが汗だくになって本を探し、ゲットした大量の本を汗だくになって運ぶという、
体育会系の阿呆学生でさえ逃げ出しそうな、完全に体力勝負の世界が展開されるのであります。
暑さと共に、ネイティブ京都の妙な過剰さ、バースト感にも溢れてる気がする 「古本まつり」 、
私は単に本を探しに出かけてるんですが、2013年は特に面白いくらい暑かったので、
本を漁る最中にちょこちょこと写真を撮って、ざっくりと記事に仕立ててみました。
熱中死と背中合わせで古書を漁るバースト感、お楽しみ下さい。
続きはこちら »