★★★ | ひとりでうろつく京都 (β版)

御食事処明日香で、鱧落としと鱧天麩羅定食を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

2017年8月3日(木)


御食事処明日香で、鱧落としと鱧天麩羅定食を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

夜に、安く鱧を味わうには、果たして何処へ行って、どうすればいいのか。
夏企画 『ひとりで食べる鱧』 復活に際し、私はこんなミッションを己に課そうと考えました。
理由は、過去の特攻が全て昼特攻だったので。あと、単に安い店もこれまでは避けていたので。
値が張ってこそ、鱧。貧乏なりに、出費による緊張感込みで夏の味覚を楽しんできたわけです。
が、復活後の 『ひとり鱧』 は、予算枠が更に緊縮。緊張感がどうとかなんて、もう言ってられません。
というわけで今回、夜の激安鱧ミッションであります。果たして何処へ行って、どうすればいいのか。
このミッション達成に当たり、まず候補へ挙げるべきなのは、居酒屋ということになるんでしょう。
京都にも、居酒屋はあります。沢山、あります。で、多くの店は夏になれば、鱧メニューを扱います。
値は当然ながらピンキリですが、無理矢理に平均を出せば、落とし単品が1000円強程度でしょうか。
予算枠的に考えれば、悪くありません。が、そもそも私、酒の場が好きじゃないんですよね。
食事をする店で、夜に安く鱧が食いたい。酒ではなく飯がメインの店で、夜に安く鱧が食いたい。
と思い、そんな条件を満たす店を探しました。 「あるわけない」 とも思いながら、探しました。
すると、すぐ見つかりました。それも、普段通る道で、見つかりました。御食事処明日香が、そうです。
こちらの明日香が建つのは、平安神宮参道・神宮道三条通の交差点という、かなりな観光地。
実際、この交差点から平安神宮までは、それこそ観光地テイストな店が林立してるわけですが、
しかし明日香は、リーズナブルなメニューが多い御食事処であり、夏にはリーズナブルに鱧も提供。
3000円どころか、2000円でもお釣りが来る形で鱧が楽しめてしまう、何とも有難い店なのであります。
私は、図書館への道中で何度も前を通りながらも、ここが鱧を出してることを知りませんでした。
が、夜の激安鱧ミッション達成を前にして、目に鱧センサーみたいなもんが宿ったのか何なのか、
店前の看板に堂々掲げられてた 「鱧」 の字に、今年になって初めて気付いた次第です。
というわけで、8月の夜、見慣れた暖簾を新たな気持ちで潜ったのでした。

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夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めての宇治徘徊、前篇に続いて後篇です。

宇治のイメージといえば、平等院や、それこそ宇治十帖が、一般的なものなんでしょう。
しかし、私にとって宇治のイメージは、 「住宅地」 の方がよりしっくり感じるものだったりします。
地場の生活者ゆえのイメージ、という奴です。が、家が建築をやってたという事情もまた、理由です。
京都へのアクセスの良さが目を付けられた宇治は、昭和中期頃より住宅地の開発が進みました。
ユニチカの前身・日本レイヨンなどの企業が、巨大工場を進出させると共に近場で社宅を建て始め、
それを端緒として一般住宅地の開発も進行し、山削りまくり&名物の筈の茶畑潰しまくりが、多発。
結果として、宇治市の人口は数倍に増え、京都府下では京都市に次ぐ規模を誇るまでに膨張し、
また、宅地増殖と共に増殖した主婦の手を借りる形で、アニメ下請会社が生まれたりもしたわけです。
私が育った頃の宇治は、既に主たる 「商圏」 ではありませんでしたが、その名はよく聞きました。
山削りまくり&茶畑潰しまくりな類の開発、その恩恵を私が享受したのは、恐らく間違いないでしょう。
なので、荒っぽく開発された宇治の姿を目にすると、私は、何とも言えない気分になります。
そして、その開発自体さえ既に老い始めてる様を目にすると、更に、何とも言えない気分になります。
「何だ、そのローカルかつ余りに極私的な感慨は」 と言われると、それまでの話だったりしますが、
しかし、このちっぽけなブルース = 憂鬱は、ある意味で、宇治に相応しいものと思えなくもありません。
格落ちな演者が型落ちな愛欲に悩み、浄土リセットも出来ず、ただ消えていくだけの、宇治十帖。
その 「憂じ」 な世界は、剥き出しで現代的&凡庸な事象と共鳴するとは、考えられないでしょうか。
「生温かい憂鬱がどうにも晴れてくれない煉獄」 という点で共通してるとは、考えられないでしょうか。
私が本気でそう思い、自分語りも交えてその思いを記してるのかといえば、そんなことは全然なく、
観光エリアで全く茅の輪がくぐれず、宅地をめぐることにしたのを、理屈付けてみただけなんですが。
というわけで、2017夏越@宇治、後半です。後半は、飯食ってがっつり回って行こうと思います。
茅の輪が持つ魂リセットのパワーなら、この生温かい憂鬱だって吹き飛ばせる筈です。

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夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年6月30日(金)


夏越祓の茅の輪を求めて宇治をうろつきました。もちろん、ひとりで。

宇治を舞台として、尻切れトンボとも思える結末を迎える、 『源氏物語』 宇治十帖
愛したくとも愛せず、死にたくとも死ねず、悟りたくとも悟れずに、煩悩の煉獄を揺蕩うその世界。
まるで地名の由来 「憂じ」 を空間化したかのように、陳腐で緩慢な憂鬱が惰性と共に続くその世界。
ブルージーとも言い得るその文学空間は、1000年の時を越えてポストモダンなる現在にも直結し、
安い愛&性への拘泥が市民権となったネバーランドの如き現代日本の煉獄にも通底するものです。
何も始まらず、何処にも行けず、終わる時は突然終わる、そんな世界。実に、今っぽいですね。
が、貴族の別業地として栄えた此地は、そんな超時空な知性ばかり溢れてたわけではありません。
ごく真っ当に浄土を希求した煩悩丸出しな輩も多数存在し、そうした連中が必死で建てた寺社も多し。
栄華を極めた藤原道長頼通により建立された世界遺産・平等院を筆頭に、多くの寺が立ち並び、
これまた世界遺産たる宇治上神社を始め、大小合わせてかなりな数の神社も林立しています。
で、2017年の茅の輪くぐりまくりは、この宇治の地に立つ社をめぐる形で、やってみました。
暑さ&疫病の脅威が本格化する直前のタイミングに、神社に設置された茅の輪をくぐることで、
正月からの半年で溜まった魂の穢れを祓い浄め、夏を乗り切らんとする古来よりの慣わし・夏越祓
当サイトでは、様々な腐った欲求を持て余す己が魂の大掃除 or スピリチュアル・デトックスに加えて、
普段の記事のネタ採取では訪れる機会がない、小さい or 地味な神社への訪問という目的も兼ね、
毎年あちこちの社に設置された茅の輪を探し求めてはくぐりまくり、穢れを祓い倒してきました
しかし乙訓エリアを徘徊した2016年の前回は、思いつきで雨上がりの天王山を登って酷い目に遭い、
おまけに飯抜きで徘徊した割に輪はひとつしかくぐれなかったので、今回は、気分&方針を一新。
宇治のベタベタな観光ゾーンをそぞろ歩きし、甘味に気を取られながら名社で簡単に茅の輪をくぐり、
また風情溢れる店で飯も食って、彷徨自体をしっかり楽しもうと考え、彼地へ向かったのでした。
が、ブルージーなる 「憂じ」 はやはり、そんなポップな考えを、許さなかったのです。

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イタリア割烹スコルピオーネ吉右で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2017年5月26日(金)


スコルピオーネ吉右で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。 

当サイトでは、ある種の隠れテーマとして、 「境界」 と向き合い続けてきました。
「境界祭」 と再定義したクリスマスに 「境界」 的なるスポットにて宿泊を敢行する企画を筆頭に、
ヤラレ芸の如き表の顔の下で、アカデミックとさえ言い得る崇高な探求を続けてきたのでした。
そんな当サイトが、新たな特攻先と見込んだ 「境界」 があります。それが、際コーポレーションです。
際コーポレーション。知ってる方は、御存知でしょう。でも知らない方は、御存知ではないでしょう。
東京・福生の韮菜饅頭店から事業を始め、わかりやすくお洒落なプロデュースによって人気を獲得し、
21世紀以降は料理ジャンルを問わず大量出店を行って大成長を果たした、飲食店グループです。
京都に於いても、 『柚子屋旅館』 『祇をん豆寅』 など、有名店となった店舗を立て続けに出店。
何なら 「これこそが京都の象徴」 と思い込むトンチキな輩が発生しかねない勢いを誇ると同時に、
ある意味、わかりやすい表象の乱開発が続く現代の京都を象徴し得る存在にもなってるわけです。
この際コーポレーションを、新たな 「境界」 と見込んだ理由は、 「際」 なる名前そのもの。
不思議なインパクトを放つこの 「際」 という一文字、東洋と西洋の 「際」 を示してるんだとか。
「東洋と西洋の両方が出会う文化が、東京にある」 という考えから、命名されたんだとか。
実に 「境界」 的です。 「京都に全然関係ないだろ」 という言いがかりを越え、実に 「境界」 的です。
と、高踏にして深遠なるこうした判断に基づき、当サイトは今回、 「象徴」 への特攻を決めました。
赴いたのは、イタリアと日本の 「際」 な店名を誇る、イタリア割烹スコルピオーネ吉右の、昼床。
鴨川の 「際」 の、わかりやすく 「象徴」 な店のわかりやすく 「象徴」 な床に、忍び込んだわけです。
無論この特攻は、 「こんなの京都じゃない」 といった稚拙極まる揚げ足取りなどでは、あり得ません。
氾濫した表象がミノフスキー粒子と化し、ポスト・トゥルースが残念な天然のテーゼとなり果てた今、
表象と実体の 「際」 にこそ立ち現れる 「真実」 を見極めるべく、有視界戦闘に臨んだのであります。
そう、これは新たな挑戦なのです。当サイトが、当サイトであるために必要な、挑戦なのです。
決して、椅子床の記事に客が本当によく来るので、またダメ押しで行ったわけではありません。
断じて、実は単に一度は行ってみたくて、単に行ってみたわけでもありません。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつり、福知山城を見物した前篇からの続きです。

「商都」 としての福知山を認識したのは、出口なおについて調べてた時のことです。
大本開祖であるなおは、福知山生まれ。広小路の上紺屋町の辺に、生家があったといいます。
で、当時の広小路は、 「福知千軒」 と呼ばれ、藩経済を支えるほどの商業的繁栄を見せてたとか。
節分大祭の記事を作る中、それを知り、私は驚きました。福知山を 「軍都」 と思い込んでたので。
城下町として成立し、廃城後は駐屯地の街となった、福知山。印象的には、かなり 「武」 です。
が、福知山城に防衛上の地の利を齎した由良川は、物流の面にて商人にも大きな恩恵を齎しました。
「塩船」 から始まったという由良川の水運は、朽木氏が入封した17世紀後半から急激に発展。
福知山は、重要な河港にして三丹・北国・京阪を結ぶ結節点となり、屈指の物産集積地へ化けます。
火隙地を作るべく町人屋敷の中央に開設された広小路では、舟渡が新設され、貨客も多数往来。
旅客相手の茶店や旅籠を営むべく有力商人も進出して、名実共に 「山陰の商都」 の顔となりました。 
また、通りの近くの御霊神社では、税制緩和などで慕われていた光秀を 「商売の神」 として合祀。
出口なおの頃には飢饉が続いてたそうですが、とにかく 「ブイブイいわしてる」 な街だったわけです。
しかしこの水運、明治中期以降は、衰退。製糸・養蚕などを展開した後、福知山は軍を迎えます。
「かごの鳥」歩兵第20連隊駐屯により、広小路は大正&昭和初期も繁華街・歓楽街として繁栄。
戦後に入っても陸上自衛隊鉄道管理局を誘致し、やはり繁華街・歓楽街として繁栄を続けたとか。
「軍都」 として生まれた街が、 「商都」 の性格を強め、その維持の為に 「軍都」 の仮面を被る。
そんな感じでしょうか。そう考えると、福知山はやはりしたたかでタフな 「商都」 なのかも知れません。
そして、城を支えた広小路がお城まつりのメイン会場であることも、当然なのかも知れません。
というわけで、お城まつり、後半です。後半は、城一切なしで、広小路周辺の祭徘徊がメインです。
地元との共生を図るべく奮闘する陸自の姿や、誘致された異形のゆるキャラ集団が放射する狂気、
魑魅魍魎が躍るパレード、そして街に漂う独特の雰囲気と若干のグルメを、楽しんで行きます。
「商都」 のしたたかさと、そのしたたかさが生むカオス加減、じっくりと御堪能下さい。

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福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年4月2日(日)


福知山お城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

平均的な日本人にとって、いわゆるは、いったいどんな意味を持ってるのでしょう。
戦国末期より江戸前期にかけての100年の間に大半が作られた、いわゆる近世の、いわゆる城。
少なくとも私には、城がそれなりに大事なものとして、日本全国で認識されてるように見えます。
いや、 「それなりに」 どころの話ではありません。城は大抵、その街のシンボル or ランドマークです。
オリジナルが残ってるなら保存に励み、壊れてるなら再建に努める。そうなるのが、普通でしょう。
しかし、京都は違います。 「京都」 と見なされるエリアに、まともな城と呼べそうなものはありません。
あるのは、 「跡」 以外の存在感を見出すことが困難な淀城跡、離宮感が余りに濃過ぎる二条城
そして遊園地の人寄せパンダとして再建された挙句に会社から捨てられた伏見桃山城くらい。
徹底的に武士が嫌いなのか、あるいは 「江戸期なんか最近。保存する必要なし」 と思ってるのか、
「威容を誇ると共にその威容に相応しき敬意を集める城」 というのは、とにかく京都にはありません。
しかし、こんな京都の城事情というのも、視野を府域にまで広げた場合、話は変わってきます。
かつて城があった亀岡や園部では、城こそ残らずとも城下町的な雰囲気が今なお濃厚に漂うことは、
当サイトの大本七草粥記事@亀岡や、栗餅買い食いまくり記事@園部でも、お伝えしている通り。
そして、更に北の福知山市は、恐らく京都府では唯一、現在も城らしい城を持つ街と言えるでしょう。
信長より丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波山地の開けた盆地にて築いた、福知山城
光秀が本能寺の変をやらかした後も、税制緩和など善政を敷いた光秀を慕う民によって支えられ、
間違いなく福知山のシンボルというか、福知山という街そのものを生み出す基礎たる城となりました。
時代が明治に入ると、止むなく廃城となり、長らく本丸跡&天守台を残すのみだったといいますが、
昭和末期に至ると、市民などの寄付により総工費の内の5億円を賄う形で、大天守閣の再建を敢行。
「それなりに」 どころではない情熱により、現在もシンボル or ランドマークたり得てるわけです。
そんな福知山城とその城下町、毎年4月上旬にはお城まつりとして街を挙げてのイベントも開催。
で、そのお城まつりに、城見物と祭見物と街見物を一度にすべく、出かけてみました。

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青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2017年3月12日(日)


青谷梅林へ梅を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

青谷。 「赤坂」 が赤い坂ではないのと同様、特に青い谷というわけではありません。
どちらかといえば、小高い場所に立地し、春先には青ではなく白い梅が咲き乱れる所であります。
場所は、京都と奈良の中間に位置する、城陽市。農地がベッドタウン化した典型例みたいな街です。
宅地化しなかった場所で咲く青谷の梅は、宅地化が進む遥か以前より栽培が行われてきたもの。
江戸期に染料の需要が高まると、ここで作られる鳥梅は、紅花染の色素定着材として高騰しました。
鳥梅とは、青い梅、ではなくて黒い梅です。焼き梅や黒梅とも呼ばれた、燻製状の加工された梅。
無論、青谷ではこの鳥梅を作りまくり、現在を遥かに凌ぐ規模で梅林が形成されたんだとか。

京都ヲ距ル南數里ニシテ、梅林アリ靑谿ト云フ、延袤二里斗リ、衆山回環蹲スル如ク伏スル如ク、
靑松ノ瀟漉、梅花ノ皓潔、之ガ衣トナリ之ガ裳トナル、而シテ市ノ邊、中村ノ二村家、其間ニ隱見シ、
宛然一仙郷ヲ爲ス、且京都ヨリ寧樂ノ舊都ニ通ズル鐡路ハ西麓ヲ過ギ、南北各半里弱ニシテ、
玉水長池ノ停車驛アリ、頗ル便利ノ地トス、予事ニ因テ屢此地ニ往來シ、其淸秀ヲ愛スルコト久シ、
到ル處恒ニ花時ノ風光ヲ說キ、且誇テ日和州月瀬ハ天下ノ勝ナリ、今試ニ靑谿ヲ以テ比スルニ
山水攅聚ノ奇、或ハ讓ル所アリト雖モ、遼廓眇忽規摸雄大、而シテ梅花ノ饒多ハ逈カニ之ニ過グ、
之ヲ本邦ノ羅浮ト稱スルモ我其溢れる溢美ニ非ルヲ信ズ
(山中青谿 『靑谿絶賞』 )

明治以降は、化学染料の登場によって、鳥梅の需要が衰退。青谷梅林もまた、衰退したとか。
梅林の荒廃を憂慮した地元は、観光化を企図して、保勝会を結成&上記の 『靑谿絶賞』 も出版。
すぐ傍で奈良鉄道 = 現在のJR奈良線が開通したことも追い風となり、この誘客戦略は当たりました。
明治中頃には観梅スポットとして認知され、変遷を経ながらも、その名声は今なお確固たるもの。
「天下ノ勝」 たる 「月瀬」 に 「讓ル所」 あれど、京都からの利便性では勝てる名所となったわけです。
で、今回、そんな青谷にて梅を観るべく、空だけは真っ青な小春日和に出かけたわけであります。
もちろん、梅グルメだって、堪能しまくり。観梅だけで満足出来るわけ、ありません。

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節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2017年2月3日(金)


節分の吉田神社で、大元宮を見て年越し蕎麦を食べてきました。もちろん、ひとりで。

2月3日の節分は、日本の現行法に於いて、いわゆる祝日と定められていません。
「現行法でなければ休みだったのか」 とか訊かれると困りますが、とにかく祝日ではありません。
節分が正月を凌ぐほどの盛り上がりを見せる京都であっても、この事情はもちろん同じです。
旧暦の年越しを喜ぶように盛り上がりつつも、現行の祝日法には従い、休みにはならないわけです。
なので、節分の京都を一日徘徊するというのは、土日でもない限り、割と、いやかなり、難しいと。
当サイトではこれまで、この難しさを無理矢理に超克する形で、節分の京都徘徊を続けてきました。
毎年毎年、一日中寺社を回りまくり、2016年は綾部の大本へ泊まりで出かけたりさえしました。
頑張ってたのであります。通すべき義理も通さず、切るべき仁義も切らず、頑張ってたのであります。
冷静に考えると、何を頑張ってきたのかよくわかりませんが、とにかく頑張ってきたのであります。
しかし今回は、遂に時間の都合が付かなくなったのです。暇丸出しの徘徊が、出来なくなったのです。
昼に2時間ほどの空きは何とか確保しましたが、それ以上はどうにも時間が取れなくなったのです。
どうしよう。2時間で、何処をどう巡ろうかな。というか、2時間で徘徊なんか、出来るかな。
「徘徊より何処か1ヵ所に絞った方がいいかも」 と考えていて、頭に浮かんだのが、吉田神社です。
吉田神社。都の鬼門・吉田山に立ち、ゆえに節分が 「京都の節分」 の代名詞たる盛況を誇る社です。
無論、当サイトでも既訪であり、露店の混雑や火炉祭の凄さは、お伝えしている通りであります。
サウスの八幡人ゆえ感じるであろう独特の異様さにも言及する形で、お伝えしている通りであります。
が、夜の吉田の凄まじさは見てても、昼間の吉田の節分は、私、見たことがありませんでした。
あと、参道の年越し蕎麦の露店も、新暦で動く偽京都人として、気になりながらもスルーしてました。
これは、いかんと。 「京都の節分」 の代名詞、全時間帯で見とくべきだと。蕎麦も、食うべきだと。
そう考えて2017年の節分めぐりは、真昼間の吉田神社を短時間で巡回し、済ますことにしたのです。
また、年越し蕎麦もしっかり食い、京都の 「本当の年越し」 を真に面白がることにしたのです。
更には、夜の訪問時には混雑で日和った吉田のコア・大元宮への参拝も、今回は忘れてません。
所要時間、1時間。しかし、 「京都の節分」 最深層は、垣間見えたかも知れません。

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スプリングスひよしへ行って丹波ぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2017年1月15日(日)


スプリングスひよしへ行って丹波ぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

私は、京都府南丹市園部町の船岡というところに、本籍地を置きっ放しにしてます。
「船岡」 という地名は、字がそのまんま示す通り、船と縁が深い土地ゆえ付けられたものです。
南丹は山に囲まれた丹波のど真ん中にあるので、この 「船」 が指すのは無論、川の上を走る船。
丹波の木材を京都へ運び続けた大堰川 aka 保津川 aka 桂川の、小さな浜のひとつが、船岡でした。
命名は、明治初頭と割に遅め。船運の活況が、その頃まで続いてたことを想起させられる話です。
私の何代か前の先祖も恐らくは、何らかの形で船や木に係わり、日々の糧を得てたんでしょう。
そんな船岡、現在はもちろん、川船は走ってません。これから走ることも、きっとありません。
鉄道の登場以降、物流が陸上へ移ったからです。そして、すぐ上流の日吉にダムも出来たからです。
明治後期に開通した山陰線は、角倉了以の開削以来続いた高瀬船の船運に、止めを刺しました。
また、1951年完成の世木ダム1997年完成の日吉ダムは、筏の通行も物理的に不可能にしました。
私のルーツの地は、いわばその名の根拠を失ったわけです。恐らく、永遠に失ったわけです。
このことが、本気で悲しいわけでは、もちろんありません。正直言って、どうでもいい話ではあります。
家が潰れてる為、船岡へまともに行ったこともないし。関係ないといえば、関係ありません。
が、心の底では、少し気になってました。いや、むしろ単なる興味という形で、少し気になってました。
特に、船運の死を具象として示す日吉のダムは、機会があれば拝んでみたいと思ってました。
そんなところへ降ってわいたのが、当サイトの冬期限定企画 「ひとりで食べる京都のぼたん鍋」 です。
「ぼたん鍋を食い、温泉にも必ず入り、冬を満喫する」 という無茶なルールで開始されたこの企画、
その無茶さゆえに行ける場所が極端に限られてるんですが、日吉ダムはこの縛りが、ばっちり合致。
ダムの付帯施設・スプリングスひよしでは、掘削された日帰り温泉・ひよし温泉が、営業中。
施設にはレストランもあり、そこでは上手い具合にぼたん鍋まで提供中。これは、いい機会です。
自身のルーツ探求と開発の問題、そして京都に於ける河川交通の歴史と、ベタな冬グルメ&温泉。
これらを上手く融合させ、俗にして学究的であり、それでいて魂の芯にも触れる記事を作ってみよう。
また、雪が降ってる日を選んで出掛けることで、ビジュアルを強化し、冬満喫感も演出してみよう。
そんな下心を抱き、私は日吉へ出掛けたのでした。大雪が降る日を選び、出掛けたのでした。
しかしこの日の日吉は、そんな下心など踏み潰す、怒涛の雪国状態だったのです。

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2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。

2017年1月1日(日)


2017年への年越しを、永観堂で写経だけをして迎えました。もちろん、ひとりで。

当サイトではこれまで毎年の年越しに際し、様々な寺で除夜の鐘を撞いてきました。
徘徊の挙句に撞けなかった年もありますが、とにかく他所者としてネイティブな場へ紛れ込み、
本来は近所の人が顔を合わせて撞く鐘を、気後れと気まずさを感じながら、撞いてきたわけです。
この気後れと気まずさ、地元・八幡でさえ 「移民の子」 という自覚ゆえ逃れられなかった私は、
やがて払拭を求めるようになり、2016年には本籍地の隣・南丹市船枝に立つ京都帝釈天へ遠征
ルーツとも言える地にて、参道に並ぶ108個の鐘を遠慮なく&思う存分撞きまくったんですが、
この撞きまくりにより、私の中にあった鐘への欲求は何か、昇華されてしまいました。
鐘は、もういい。撞く必要性を、感じない。そもそも、年越しだから鐘を撞くなんて、もう古いですよ。
むしろ、鐘に捉われないことにより、今まで見ることが出来なかった年越しの相貌を見てみたい。
欲求の昇華により、魂が次のステージに入ったのか、私はそう考えるようになったのでした。
とはいえ、単に除夜の鐘をやってない寺を訪れ、何らかの祈願をするだけでは、流石に味気ない。
鐘は撞かず、でも多少は年越し感のある行事をやってる寺へ、行きたい。でも、そんな寺、あるかな。
という疑問を速攻で抱きましたが、その答えはやはり速攻で見つかりました。永観堂です。
永観堂。正式名称 「秋はもみじの永観堂」 。というのはもちろん嘘で、聖衆来迎山無量寿院禅林寺。
浄土宗西山禅林寺派総本山なわけですが、一般的には無論、紅葉の名所として有名であります。
ゆえに、紅葉以外には幼稚園の園児募集ポスターぐらいしかイメージがない寺なんですが、
年越しでは 「聖衆来迎」 の名に相応しく、無量ならぬ無料で鐘楼を開放して、除夜の鐘を実施。
のみならず、名物 「みかえり阿弥陀」 を祀る阿弥陀堂では、写経も行われるのです。これですよ。
というわけで今回の年越しは、写経の為だけに、永観堂を訪寺。鐘は、撞きません。
「にらみ鯛」 ならぬ 「にらみ鐘」 とでも呼ぶべき新たな年越しスタイルを提案したいと思います。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、鐘を待って並んだり突っ立ったりするのが、単純にしんどくなったのでは、ありません。
断じて、年越しネタ自体がいい加減ネタ切れ+飽きが来てるわけでも、ありません。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて過ごす聖夜、前篇の続きです。
 
「京都で暮らす」 ということ。それは、つまり、 「自分らしく暮らす」 ということ。
「自分らしく暮らす」 ということは、 「自分である」 ということであり、 「自分がある」 ということ。
歴史や伝統の尻尾を追いかけて、一代や二代ではなれるわけがない 「京都人」 になり切る努力は、
意味がないし、何より 「自分以外の誰かになれる」 と思い込める若さが、この街には似合わない。
必要なのは、 「自分」 を立ち上げること。そして、その上で、 「京都」 へ無駄にこだわらないこと。
「京都」 への無駄なこだわりは、この街のカルチャーを本当の意味で背負うには、邪魔になる。
都市の原動力は、いつだって、様々な文化の吸収。その駆動原理は、千年の都・京都だって、同じ。
人も文化も、外部からこの街へ入ってくるエレメントは、健全な血流の為には常に必要なもの。
「受け入れる」 という姿勢では、足りない。自ら積極的に取り入れるタフさを、持たなくてはならない。
外来のエレメントと蓄積された歴史を組み合わせて、立体的な創造を行う知力も、重要になる。
「京都」 への無駄なこだわりは、このタフさと知力の飛躍を阻む、壁。壊さなければならない、壁。
都市の駆動原理ゆえ、どんな子供でも簡単に皮肉ることができるほど混沌とした京都の真ん中で、
自分自身を保つ力を授け、新たな未来を創り出す力になってくれるのは、壁ではなく、 「自分らしさ」 。
誰もが 「自分らしい」 暮らしをしなやかに持ち、それぞれの 「らしさ」 がゆるやかに響き合う。
その共振だけが、柔軟な知性と未来への眼差しを生み、この街を更新していく――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
―――と、京都ブランドに乗って勝手&凡庸&無秩序な欲望を 「自分らしく」 発露しまくり、
その発露をポエミーな寝言で美化&正当化したくもなる魔力に満ちた新たな魔界たる洛中にて、
魔界ゆえ増殖している境界的簡易宿所のひとつ・三条右近橘に投宿し過ごしてる、2016年の聖夜。
私もまたその魔力に侵食され、 「自分らしさ」 全開で普段通りに文博行って小津の映画観たりと、
京都にもクリスマスにも全く関係ない挙動に好き勝手に励んでるわけですが、後篇はいよいよ、飯。
「隠れ家の食事処」 での夕食や、チキン&ケーキ爆食など、食の流れを一気に観てもらいます。
これこそが、新たに生まれた魔界で嗜む私にとっての 「自分らしい」 「京都の暮らし」 です。

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三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年12月24日(土)


三条右近橘にて聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

太陽神の生誕祭をルーツに持つクリスマスが、その内に孕んだ境界性を追求すべく、
当サイトでは、京都郊外にある境界 「四堺」 へと赴き、聖夜お泊まりを敢行し続けて来ました。
しかし、そんな崇高にしてアカデミックな荒行を、温泉浸ったり猪肉食ったりしながら続けてる内に、
辺境の真逆たる京都市中心部では、宿泊施設を巡り、事態が極めて激しく変化していたのです。
2011年には50万人強だった京都市の年間外国人宿泊者数は、2015年には300万人まで増加
宿泊施設が絶望的なまでに不足し始め、その不足によって生じる隙を狙った所謂ヤミ民泊も急増
行政は、ヤミ民泊を取り締まる一方で、グレーな施設に対しては旅館業法の許可取得を奨励
結果として、マンションや町家丸出しながら一応合法の簡易宿所が、激増することとなったのでした。
そう、極めて境界的なる性格を持つタイプの宿所が、都心にこそ溢れるようになってるわけです。
「本当の京都」 と有り難がられている洛中のど真ん中こそが、他所者が蠢く境界と化してるわけです。
「金余りの割にコンテンツ供給が足りてないバブル期に於けるセックス祭」 としての面が後退化し、
属性問わず人を消費へ誘う契機としてだけひたすら活用されてるようになったクリスマスを、
「教会祭」 ならぬ 「境界祭」 として認識し直し、その魔力との対峙を続けてきた当サイトとしては、
街中に新たな境界が出現し、氾濫&増殖しているこのカオスな状況、見過ごすわけにはいきません。
というわけで2016年の聖夜お泊まり企画は、これまでの辺境巡礼から一転して都心へと回帰し、
着物姿の某国人がマンションから団体で出て来る様をしょっちゅう見る洛中にて、敢行してみました。
泊まったのは、三条右近橘。怪しい宿では、ありません。日昇別荘が運営する、簡易宿所です。
では、宿代が安いだけの普通な宿かといえば、エントランスはトップ画像のような超ハードコアぶり。
マンション以外の何物でもありません。正に、民泊。相手にとって不足なし、と言うべきでしょう。
この宿にて聖夜を過ごすことで、新たな境界と向き合い、その素性を見極めんとしたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、翌日に用事がある為、移動時間が読み難い郊外特攻を日和ったのでは、ありません。
断じて、そもそも郊外特攻そのものがいい加減面倒になってきたのでも、ありません。

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鷺森神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2016年11月25日(金)


鷺森神社へ紅葉を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

紅葉の季節が終わる度に、何故か持ち金が減ってることに、気が付いたりします。
よくよく考えると、不思議なことはありません。金が減るのは、当然、その分を使ったからです。
紅葉を観に入った寺の拝観料とか、そこへの移動費とか、多少の飲食費とかで、使ったからです。
一件ごとに見れば、小銭の範疇でしょう。実際、紅葉徘徊の最中も、散財の自覚はありません。
が、使ってる、確実に。で、減っていく、確実に。この 「使」 と 「減」 が10件とかになれば、どうなるか。
ここ数年の当サイトに於ける紅葉記事は、年3~4本というしょぼいペースのアップになってますが、
実は記事化してない訪問も結構あって、結局は毎年毎年10件近くは紅葉を拝みに行ってたりします。
なので、トータルの出費は、そこそこの額になるわけですね。で、毎年、財布を見て驚くわけですね。
ただ、さらによくよく考えるとこうした出費、旅行者の方はもっとエグい形で味わってるわけですよ。
私が1~2週間で使う額を、下手すると1日で使う場合も、充分想定できます。これは確かに、キツい。
拝観受付とかで 「また金か」 とボヤく観光客を見る度に、私は 「小銭だろ」 とか思ってしまうんですが、
そこへ至るまでに同様の小銭を何度も払って来たなら、ボヤきたくなるのも人情としては普通です。
さらにさらによくよく考えれば、ひとり客であるがゆえに、連れ相手にボヤきを漏らすことも出来ず、
キツさを噛み殺して、じっと出費に耐えてる同志の方も、かなりの規模で存在するのかも知れません。
大変です。さらにさらにさらによくよく考えると、何が大変かよくわからなくなりますが、でも大変です。
なので、そんな出費疲れを癒やしてくれる紅葉も紹介すべく、今回、鷺森神社へ出かけてみました。
鷺森神社修学院離宮の近くにあって、修学院&山端エリアの氏神として信仰されてる社であります。
と同時に、現・修学院離宮の地から移転する為、霊元天皇より現社地を下賜された社でもあります。
アーシーなる信仰とロイヤルなる由緒を併せ持つ、実に市井の京都らしい社とも言える神社でしょう。
そんな鷺森神社、ロイヤルな社地ゆえか参道が大きく、道沿いの樹々は秋になれば実に紅化。
参道自体はコンクリ丸出しの殺風景な代物である為か、所謂 「穴場」 化は今も左程してませんが、
写真の写りは妙に良く、無料で拝める紅葉としては破格のクオリティを誇るものだと思います。
そんな鷺森神社の紅葉、拝観料のみならず交通費もケチって観に行ってみました。

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宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月15日(土)


宇治田楽まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

宇治田楽まつり。宇治名物・茶団子に田楽味噌を付けて食いまくる祭、ではありません。
また、いわゆる田植舞などの農耕色が濃い民俗芸能が披露される祭、というわけでもありません。
平安後期から鎌倉期にかけて宇治の地で隆盛を誇ったという 「幻の芸能」 である 「田楽」 を、
現代らしい的な形で復活させようと宇治の人々が考え、1998年より開催されてるイベントであります。
宇治は無論、世界遺産・平等院をコアに擁し、『源氏物語』 宇治十帖の舞台としても名高い地。
これら栄華の源泉たる藤原氏摂関期以前から、貴族達は別荘で宇治の風光を愛でていたものの、
摂関期以後はセレブ化が更に進み、そのセレブ化進行が近隣住民の生活や祭礼にも強く影響。
元来は郷民が競馬などで盛り上がってたという氏神・離宮八幡宮の祭礼・離宮祭も、華美化が進み、
禁令が出るほどの煌びやかな衣装と共に、カオスな 「躍り」 系芸能としての 「田楽」 が、隆盛化。
この 「田楽」 は、編木 (ビンザサラ) や腰鼓などを奏でつつ躍動的に踊るという渡来的なフォームで、
高足など散楽の曲芸に加え、後には猿楽の要素さえ取り込んだという、風流の魁のようなもの。
どこが 「田」 だという感じのカオスの中では、農耕と全然関係ないプロ芸能者・田楽法師 が活躍し、
更にはそのプロを模倣した 「やってみた」 系のアマチュア下級武士まで混入するなど、中々にカオス。
洛中では、末法カオスの真最中に 「永長の大田楽」 なる風流パンデミック状態まで発生しますが、
宇治では、白川金色院周辺にプロ集団・本座が勃興し、先述の離宮祭を中心に派手な活動を展開。
本座は、京都や奈良の寺社でも芸を披露し、遂には春日若宮おん祭へも参勤するに至りますが、
やがて新興のプレ能たる猿楽に圧され始め、幕府の庇護が猿楽へ向かった室町以後は一気に衰退。
「田楽」 そのものも歴史の彼方へ姿を消し、芸態も詳細不明な 「幻の芸能」 となったのでした。
で、この 「幻の芸能」 を、宇治市民自ら躍って復活させるという公演が、宇治田楽まつりであります。
詳細不明ゆえ、その内容は基本的によさこい的な創作系で、カオスな高揚をこそ目指す感じ。
しかし、その開かれた感じと、市民自らが躍る楽しさが相まって、人気は年々上がってるようです。
そんな宇治田楽、茶団子も田楽味噌も食わずに、ひたすらカオスな舞踊を観てきました。

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細見美術館の琳派展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年9月27日(火)


細見美術館の琳派展へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

琳派。 『琳として派閥』 という名前のバンドの略称です。というのは、もちろん、嘘です。
琳派。近世京都の町衆文化を象徴する様に誕生した、装飾性豊かなアートの流派であります。
光悦村を作った本阿弥光悦を創始者&ディレクターとし、 『風神雷神図』俵屋宗達を経て、
呉服屋の放蕩息子にしてデザイン性が高い図案を量産した尾形光琳で、琳として爆発した、琳派。
その強い魅力は、時空を超えて私淑のフォロワーを生み続け、近世後期には江戸でも隆盛化。
更に近代では海外で大きな評価も集め、評価が逆輸入された国内では 「琳派」 の呼称が定着化。
そして現代に入ると、 「かわいいは正義」 という狂った世風と過剰なまでの親和性&共鳴力を発揮し、
ヘッドロックを決める犬口半開きの鹿などが女子供の人気を集めてるのは、御存知の通りです。
で、そんな琳派の作品を集中的にコレクションしてるのが、今回訪れた細見美術館であります。
昭和初期の大阪・泉大津にて毛織物で財を成した初代・細見古香庵が、その成功後に収集を始め、
二代・古香庵が、琳派を始めとする江戸期の作品を大幅に加える形で拡大させた、細見コレクション。
そのコレクションを公開する場として、1998年に岡崎の地にて開館したのがこの美術館であり、
「琳派美術館」 という別名に相応しく、様々な観点から作品を紹介する 「琳派展」 も、定期的に開催。
京都発祥ながら、近世後期からの経済没落の為か何なのか、あちこち散逸している琳派の作品に、
京都の人間も気軽に、かつ集約された形で、接することが出来るようになった、というわけです。
そんな細見美術館、私、館前こそしょっちゅう通ってるんですが、そもそも芸術にあまり縁がない為、
若冲展や春画展で行列が出来てる際も、 「混んどるなあ」 とか思いながら、通り過ぎてばかりでした。
が、京都の 「ベタ」 を追い求めるのが、このサイトの趣旨。琳派もまた、看過は許されないでしょう。
というわけで、琳派をより琳として探求すべく、琳派誕生401年という記念すべき年を敢えて選び、
「琳派展」 の第18弾、その名もずばり 「京の琳派」 と銘打たれた展覧会へ、出かけたのであります。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
断じて、9月のネタ採集が全く出来てないのを月末になって思い出し、でも床特攻も飽きたので、
何か目新しいことをしようと思い、冷やかし半分でフラフラ出かけたのでは、ありません。

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亀岡平和祭・保津川市民花火大会へ花火を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年8月7日(日)


亀岡平和祭・保津川市民花火大会へ花火を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

爆発を、 「美」 として描く or 堪能すること。それは、平和な状況でのみ可能な行為です。
いや無論、戦時下でも爆発の描写そのものは決して珍しくはなく、むしろ盛んに行われるでしょう。
しかしそれらは概ね、 「勝利」 「成果」 or 「悲劇」 「非人道性」 などを表象する為のものであり、
爆発によって四散する命をもエレメントとして取り入れるような 「美」 の表現には、まずなり得ません。
殺される側にとって爆発の惨状は、当然ながら 「美」 とは懸離れた地獄として現前するのであり、
また殺す側にとっても爆殺の美化は、どれだけ正当化のロジックを駆使してもなお困難を極めます。
死者に祈りを捧げると同時に、こっそりと死者の死の瞬間を審美する脳天気な 「美」 の享楽は、
脳天気な平和状況に於いてのみ成立するものであり、ある意味で、平和の証とも言えるわけです。
8月の日本に於いて、爆撃の再現としか思えない花火大会が平和祈願の名目で開かれるのは、
送り火の風習を持つ盂蘭盆会終戦記念日のタイミングが重なったという我が国固有の事情に加え、
爆発が享楽し得るほど我々は平和であると、死者を含む世界へ宣言する為なのかも知れません。
「亀岡平和祭」 と堂々銘打たれたイベントの一環として行われる京都府亀岡市の花火もまた、
平和ゆえに可能な爆発の享楽を、夜空に舞い踊る魂火の審美を、存分に楽しめる催しです。
口丹波の中核都市・亀岡市は、1955年に 「世界連邦平和都市宣言」 を発し、 「平和祭」 を開始。
同時に、市の真ん中を流れる保津川 = 大堰川 = 桂川にて、約5000発を爆発させる花火大会も開始。
南丹・八木の凄まじさに隠れてる印象がなくもないですが、その規模はなかなかに爆発的であり、
花火貧民たる京都市民にとっても、JRに乗って爆発の飢えを満たしに行く貴重な機会となってます。
そんな亀岡の花火、当サイトとしては夏の定番行事を押えるべく今回の特攻に挑んだんですが、
写真の方は、花火の爆発が持つ 「美」 、それこそ死すらも孕む 「美」 に、焦点を合わせてみました。
長時間露光で光を叙情的に描くのではなく、飛び散り弾け飛ぶ瞬間の光こそを動的に描くことで、
「美」 の真只中で四散した命へ脳天気にシンパサイズし、共に夜空を舞おうと考えたわけであります。
そう、これはあくまでも、新たな挑戦なのです。脳天気な平和を手放さない為の、挑戦なのです。
断じて、単に人が少ない遠方まで離れて望遠で撮ってみたら、妙な絵になったのではありません。
決して、手持ちゆえシャッター速度を上げ、妙な絵がもっと妙になったのでもありません。

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貴船べにやで、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2016年5月13日(金)


貴船べにやで、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

何度も書いてることですが、当サイトで最もアクセスが多いのは、貴船の川床記事です。
鴨川の川床記事では、ありません。貴船の川床記事です。それも、カフェをめぐった記事です。
ひろ文の床へ行ったついでに、川床カフェ2軒へ寄っただけの記事が、昔も今も一番人気なのです。
この過酷な現実に直面した私は、 「何だ、結局は安いのがいいのか。ああそうかそうか」 とグれ、
アクセスが遙かに楽な鴨川エリアでコーヒーを飲み倒す川床カフェめぐりなんてのをやらかしたり、
更には和食の枠を超えてタイ料理川床なんてのも推してみたりもしましたが、状況は変わらず。
カフェ、そしてひろ文の貴船2記事は、今なお全鴨川記事を凌駕し、最大の稼ぎ頭であり続けてます。
この状態はつまり、貴船には高い人気があるということを、実にストレートに示してるんでしょう。
そして同時に、恐らくはその人気の割に、貴船に関する情報が少ないということでもあるんでしょう。
これは、やらねばならぬ。出費が痛くとも、やらねばならぬ。夏本番の到来など、待ってられぬ。
そう考えた私は、久しぶりに 「ゆか」 ではない 「どこ」 を求めて、5月の貴船へ向かったのでした。
今回赴いたのは、貴船の料理店が立ち並ぶゾーンのいわば入口に店を構える、貴船べにや
こちらのべにや、 「べにや」 という検索ワードで当サイトに流入して来る方が、妙に多いんですよ。
うちにはこれまで、べにやの記事は存在しませんでした。にも関わらず、飛んでくる人が多い。
ひろ文の記事で店前を通る程度のことは書いてますが、まあ、それだけです。にも関わらず、多い。
この状態はつまり、べにやには高い人気があるということを、実にストレートに示してるんでしょう。
そしてまた、恐らくはその人気の割に、べにやに関する情報が少ないということも示してるんでしょう。
これは、やらねばならぬ。出費が痛くとも、やらねばならぬ。夏本番の到来など、待ってられぬ。
そうも考えた私は、久しぶりに 「ゆか」 ではない 「どこ」 を求めて、5月の貴船へ向かったのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。客数の基礎票を固めるという、新たな挑戦なのです。
固めた基礎票の層に、偶発的にでも当サイトのスピリットへ触れてもらう為の、新たな挑戦なのです。
決して、少し小金が出来て天気も良かったので、何となく貴船へ出かけたわけではありません。
断じて、行ったら店探しが面倒になり、一番駅近のべにやへ入ったわけでもありません。

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十輪寺へなりひら櫻を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2016年3月31日(木)


十輪寺へなりひら櫻を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

阪急バスは、京都に於いて、何とも不思議な存在感を放ってると感じます。
何が不思議かといえば、まず、色が不思議です。吐瀉物を思わせるあの色が、不思議です。
電車の方の阪急はかの 「阪急マルーン」 で彩られ、車体からもハイブランド感を醸成してますが、
阪急バスの方は、そんな高級感をとことん排除したゲロの如きカラーリングを、徹底して死守。
ゲロとは無関係なはずのスカイブルーが妙にゲロ感をブーストしてる辺も含め、実に不思議です。
阪神圏のように運行範囲が広ければ目も慣れるでしょうが、京都は狭いので全然慣れないというか。
で、その運行範囲の狭さと、運行している経路そのものもまた、何だか不思議に思えたりします。
大半の路線は、阪急の乗客が住む住宅地、それこそ不思議も何も無い住宅地を走ってるんですが、
ほとんど山岳路線化する善峯寺行きなんてのも中には混じっており、ギャップ、半端ありません。
阪急京都線は元々京阪が造ったものですが、京都に於ける阪急バスもまた元々は京阪系列でおり、
更にその京阪統括成立以前は、淀川右岸の各地にて零細業者が各々バスを運行してたとか。
こうした時代の名残が、ある種の不思議さを生んでるのかなと思うんですが、あなたどう思いますか。
そんな阪急バス@京都、西山エリアでは唯一の公共アクセスになってる名勝が幾つか存在し、
その内のひとつが、当サイトでも訪れた善峯寺であり、その手前にあるのが今回行った十輪寺です。
十輪寺。正式名称は、小塩山十輪寺。通称は、かの在原業平との縁に因んで、 「なりひら寺」 。
藤原明子 aka 染殿后の安産を祈願すべく、延命地蔵尊を本尊として円仁の弟子・恵亮が開創し、
応仁の乱で衰退するも江戸期に花山院家が再興、現在まで続いている天台宗の古刹であります。
屋根が鳳輦の形をした本堂や、寛文期に作られた鐘楼など、貴重な文化財を擁する十輪寺ですが、
最大の見所は、推定樹齢150~200歳におよぶという、やはり業平の名を借りた 「なりひら櫻」 。
その美しさから某 「そうだ」 に推され、一時は 「見つけた」 感を貪る輩が押し寄せたらしいですが、
ゲロ色のバスの他に公共アクセスが無い為か、現在はほど良く侘を保ってる様に見えます。
そんな十輪寺の 「なりひら櫻」 、無論阪急バスに乗って、観に行きました。

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福知山市三和町の三和荘でぼたん小鍋セットを堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2016年2月4日(木)


福知山市三和町の三和荘へ行ってぼたん小鍋セットを堪能してきました。もちろん、ひとりで。

京都で一番安い値段でぼたん鍋を食えるところは、一体、何処になるんだろう。
大原の里、そしてくらま温泉と、猪肉を食い求め出費が嵩んだ私は、そんなことを考えました。
単に安く猪肉を食うというだけなら、改進亭で猪肉買ってきて自分で鍋をやってもいいわけですが、
これでも肉自体は結構な値段がするし、出汁や野菜も用意するとなれば、そこそこかかります。
それに自分の家で食うのでは、当然ながら温泉が付いてきません。露店風呂さえ、付いてきません。
温泉入湯を必須とする企画 「ひとりで食べる京都のぼたん鍋」 のルールに、そぐわないのです。
「だから、何で温泉が必須なんだ」 という話ではありますが、しかし、冬に暖を取るべく食うのが、猪。
猪が走り回ってた山の冷気を感じつつ、食前食後に湯の風情を楽しむのも、自然の流れでしょう。
というわけで、猪肉食って風呂入って2000円前後の店って京都にあるかな、と探してみたんですよ。
脳内の正気が 「絶対あるわけない」 と叫ぶのを必死で黙らせながら調べると、これが、ありました。
その店の名は、三和荘京都府は福知山市三和町にある、NPO運営の宿泊&日帰り入浴施設です。
福知山市三和町と聞いて、あなたは何か連想出来るでしょうか。私は、出来ません。すんません。
何も連想することが出来ないどころか、それ以前にどの辺にあるのかも、わかりません。すんません。
元々単独の自治体だった三和町は、山陰道の宿場町・菟原を中心とする町、だと思います、多分。
そんな三和町の三和荘は、調べる限り 「ハコもの」 以外の言葉が思いつかない風味の施設ですが、
しかしここ、単品だと1080円でぼたん小鍋を出すレストラン 「とどろき」 が併設されてるんですよ。
更に、温泉でこそないものの、大自然を眺めながら湯を楽しめる浴場 「香明の湯」 もあるんですよ。
これは、行くべきでしょう。たとえ、食費+湯費の合計額より交通費が高くなっても、行くべきでしょう。
というわけで、当サイト的には未踏の地である福知山市まで、遠路はるばる出かけてみました。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。府北部も視野へ入れる為の、新たな挑戦なのです。
決して、綾部・大本の節分へ泊まりで行ったから、翌日におまけで寄ったのでは、ありません。
断じて、綾部駅から200円で行ける市バスがあったから行ったのでも、ありません。

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綾部の大本本部・梅松苑へ節分大祭を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年2月3日(水)


綾部の大本本部の節分大祭、前篇の続きです。

大本開祖・出口なおの写真を見ると、随分前に死んだ祖母のことを思い出します。
恐らく、誰にとっても 「厳格なる祖母」 のアーキタイプたり得るであろう風貌を持つなおですが、
人生の大半を 「丹波の貧しい寡婦」 として生きた祖母を持つ私には、その印象がより強いのです。
『大地の母』 などで描かれる、帰神前後のなおの生き様。そんななおに対する、周囲の反応。
そして、他の地方の人よりは生々しいアクセントで読解が出来ているであろう、丹波の言葉の数々。
読んでいると、まるで親戚の昔話を聞いてるようなリアリティと、不思議な温もりを感じるのです。
それゆえに私は、大本二大聖地の内、綾部・梅松苑を 「なお = 土着的な信仰の場」 と勝手に捉え、
「王仁三郎 = 開明的 = 普遍的」 である亀岡・天恩郷と対を成す場だ、と思い込んでたのでした。
で、教義はわからなくとも、丹波的な何かで感覚的にわかる部分があるのでは、と思ってたのでした。
しかし、綾部へ実際に行ってみたら、違うんですよね。やっぱり何か、わからないんですよね。
綾部は、確かに近代以前は農業メインの集散地でしたが、明治以後は産業化&商業化が進行。
後にグンゼへと結実する蚕糸業の成功こそが逆に、糸引きを生活の糧とするなお達を直撃します。
発狂者が続出する極貧の中、なおは帰神へ至りました。 「いり豆に花が咲く」 という言葉と共に。
なおの貧苦は、農民の貧苦ではなかったわけですね。もっと近代的な貧苦だったわけですね。
「煎られた豆に花が咲く」 という、農民の願いというよりは都市細民の小さな祈りを感じさせる、何か。
と同時に、単なる時代状況に於ける怒りを越えて、より根源的な価値の転倒を希求する、何か。
その何かは、王仁三郎による教団拡大の際にもOS or セントラルドグマとして脈動し続けると共に、
苦しい現代 or もっと苦しい未来にさえ直結する普遍性をも、獲得してるのではないでしょうか。
そして、この夜の綾部で私が感じた不思議な雰囲気、何なら疲れるほどに不思議な雰囲気もまた、
超越的な普遍性とローカリティーが融合 or 衝突することで、生まれているのではないでしょうか。
いや無論、こんな思いつきの片言もやはり、わからなさを無理矢理言語化しただけに過ぎませんが。
というわけで、何もわからんまま紛れ込み続けてる大本・梅松苑の節分大祭、後篇であります。
祭の最後、奇蹟の種子がまかれる様を見て、私は何かを理解できるのでしょうか。

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