2019年6月1日(土)

平安神宮へ京都薪能を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
平安神宮には、普段は有料の神苑に無料で入れる日が、年に2日設定されてきました。
ひとつは、6月の4日頃。もうひとつは、9月の17日頃。共に、神苑の入苑料がタダになるわけです。
タダになる理由は、言うまでもないでしょう。6月も、9月も、観光客が少なくなるシーズンだから。
6月は、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。9月も、行事があまりなくて、蒸し暑いだけの季節。
通振りたい観光客に青もみじを押し売りしても、生理的苦痛を忘れさせるまでには至らないのか、
あるいはやはり単に雨が多いからなのか、とにかく今ひとつ盛り上がりに欠ける時期ではあります。
ので、タダ日があると。修学旅行生が6月に多いのも、その辺の事情が関係してるんでしょうか。
では、毎年6月に行われる薪能が、タダ日と同じ目的で始まったのかといえば、それはわかりません。
元ネタたる奈良・興福寺の薪能と同じく、宗教的理由とかを持つ可能性も、充分あるとは思います。
が、地味な6月の京都にて最大の規模を誇る催事となってるのは、紛れもない事実ではあるでしょう。
薪能。正式名称、京都薪能。昭和25年より開始された、平安神宮にて開催される能公演です。
だだっ広い境内に特設舞台と客席を設け、日暮れ頃から薪を焚きながら展開されるのが、この公演。
1日&2日に開くことで梅雨の雨を避け、また雨天でも隣の京都会館が会場化出来ることがあって、
祇園祭がまだまだ遠い6月に彩を添える催事としてすっかり定着し、現在に至るまで継続されてます。
つまりこの薪能、明らかに大メジャーな行事です。が、当サイトでは今までスルーしてきました。
理由は、私が能に興味がないから。加えて、興味がない者にはチケットが高価過ぎると思えるから。
無論、興味がなくてもメジャー案件であれば、うちでは特攻をやってきました。をどりや、川床とか。
でも、少なくともをどりには、舞妓さんがいる。川床では、料理が食える。でも薪能には、どっちもない。
あるのは、眠い声と鼓の音。あとは、普段よく行く岡崎の雑音。行く気、しません。避けてました。
が、当サイトの趣旨はあくまでメジャーどころの単独特攻。これ以上、逃げることは許されません。
ので、行ってきました。高い金払って興味のないものを、夜どころか昼から観てきました。
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2019年5月30日(木)

大山崎山荘美術館へ睡蓮を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
『蘆刈』 で谷崎は、新京阪で大山崎まで来て、巨椋池の話をする男に出会います。
いや、厳密に言えば男は巨椋池の話でなく、池の畔に住む 「お遊さん」 の話をするんですが。
モダニズム華やかなりし頃の阪神間に住み、 「山城と摂津のくにざかい」 へお出かけした谷崎に、
池畔の別荘で夢のように暮らす女の話を語り、男は夢のように淀川の中州から消えたわけです。
巨椋池は、大山崎・天王山と八幡・男山の間をボトルネックにして出来たような、淀川水系の遊水池。
谷崎の友人である和辻哲郎も書いてる通り、蓮見物で有名であり、多くの遊覧客も呼んでました。
が、戦時の食糧増産+湿地ゆえの超激烈な蚊害対策として、昭和8年からの干拓で姿を消してます。
『蘆刈』 が発表されたのは、昭和7年。谷崎が池の干拓を知ってた可能性は、充分あるでしょう。
開通直後の電車で楽に行ける場所にて、恐慌と軍靴に蹴散らされる吞気な時代の残り香と、出会う。
当時生じてたかも知れない、そんな時代の 「くにざかい」 も、 『蘆刈』 は描いてるのかも知れません。
吞気な時代の残り香、実は現代の 「くにざかい」 にはまだ、残ってます。大山崎山荘です。
大山崎山荘。今の正式名称は、大山崎山荘美術館。もとい、アサヒビール大山崎山荘美術館。長い。
元は、大阪・船場のぼんである加賀正太郎が約30年かけて昭和初期に完成させた別荘であります。
正太郎は、渡欧経験を活かして自ら設計を行い、広大な庭園付き英国風山荘を作り上げました。
が、正太郎の死後は人手に渡りまくり、新たな時代の境界であるバブル時には解体の危機にも直面。
その危機を、うんこビルを建ててた頃のアサヒビールと行政に救われ、現在は美術館なわけです。
美術館としては、正太郎と交流があったアサヒビール創業者・山本為三郎のコレクションが軸であり、
バブルの残り香で仕込んだらしきモネ 『睡蓮』 も売りですが、建物自体や庭園もしっかりと見所。
巨椋池跡&その周辺は今でも蓮&睡蓮の咲き加減が良いんですが、此処もまた睡蓮が良く咲き、
夏前の睡蓮シーズンには、モネ 『睡蓮』 と庭園の生睡蓮との競演も大きな目玉となってます。
で、巨椋池の名残にも見えなくもないその睡蓮を、大量の蚊と共に拝んだのでした。
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2019年4月28日(日)

稲荷祭、 【1】 【2】 に続き、いよいよラストの 【3】 でございます。
中世までの稲荷祭は、それこそ祇園祭とも並ぶような、華美で絢爛な祭だったようです。
平安末期の 『明衝往来』 によると、貴賤の人々は七条大路に桟敷を設けて祭の行列を見物し、
行列の先頭を行く馬長もその見物に足るべく、家十軒分に相当する派手な衣装を纏ったといいます。
この華美を支えたのは無論、東市から続く七条の富裕商人。13世紀頃も、羽振りは良かったとか。
また 『新猿楽記』 によると、御旅所では呪師・傀儡子・唐術・輪鼓・独相撲といった芸が繰り広げられ、
さらに室町時代の 『東寺執行日記』 によれば、数十の山鉾まで出現し、巡行も行ったそうです。
正に、中世の祇園祭について言われるような風流の世界が、稲荷祭でも展開されてたわけですね。
しかしそんな風流な稲荷祭も、応仁の乱で一旦ストップ。再開は、実に300年も後の江戸中期。
江戸期はそれでもまだ山車などが出てたそうですが、現代に入るとそうした風流要素も概ねストップ。
現在の稲荷祭は多分、かつての稲荷祭とはかなり違う祭として、再構築&継続されてるのでしょう。
が、私はそんな現在の稲荷祭が、良い雰囲気の祭に思えます。好きな雰囲気の祭に思えます。
隣の松尾祭のように、アーシーなノリと神々しさが同時に爆裂するようなテイストではありませんが、
擦れた街の空気&景観と、農耕神・稲荷を来訪神として招くアーシーさが同時にある辺が、好きです。
何より、両方の要素のバランスが絶妙であり、その絶妙さに京都らしさを感じなくもありません。
何度も書いてますが、私は丹波人の親を持つ都合で、京都の最古の記憶が京都駅だったりします。
で、数十年前の京都駅周辺を見て感じた何かを、稲荷祭を観ると今でも感じたりするんですよ。
単に昭和な景観が残り気味という話かも知れませんが、そんな景観もこの8年でかなり変わりました。
しかし、祭の雰囲気は変わりません。この雰囲気は、土地の匂い的なものかも、と思ったりします。
そして、風流爆裂だった時代の人々も案外、この祭に同じ匂いを感じてたのかも、と思ったりします。
『明衝往来』 も、稲荷祭では神の立派さと心情の愉快さを同時に得れた、とか言ってるらしいし。
そんな稲荷祭を8年観続けた記事、ラストはいよいよ、宮入です。ひたすらに、宮入です。
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2019年4月28日(日)

稲荷祭の氏子祭、 【1】 に続き、氏子域巡幸の 【2】 でございます。
【1】 では 「知らん」 とか言ってましたが、でも伏見稲荷の氏子域、本当は気になります。
伏見稲荷大社から、割と遠いという。また、遠いだけでなく、何となく不思議な感じもするという。
御旅所は、神社から離れた地へ神が訪れるための場所。なので、遠いこと自体は別にいいのです。
氏子域が伏見稲荷と接してる松尾大社の御旅所も、いい加減、遠いし。何なら、伏見稲荷より遠いし。
しかし伏見稲荷の場合、本社所在地が何故か藤森神社の氏子域だったりします。何とも、不思議。
それに、御旅所が東寺に近いのも、謎。差し上げなども、東寺の神輿に見えたりしたりして、謎。
「つまり稲荷祭は、東寺の祭だ。全ては、空海の計略だ」 みたいな思念が、沸かないでもありません。
東寺は、遷都すぐの平安京を守護する官営の寺院として、西側の西寺とペアで建立されました。
現在の地勢で見れば、東寺の位置は京都の西南。しかし、元来あった太極殿から見れば、東南。
巽の守護を担った感じでしょう。ゆえに空海は東寺を得た際、同じ巽に建つ伏見稲荷をフィーチャー。
「稲荷神が東寺に来た」 とか言って、平安京東南部の民と稲荷とのマッチングを図ります。
元からあった藤森神をどかせて稲荷神を稲荷山麓へ召喚すると共に、東寺近くに御旅所をオープン。
また、下京の民の懐たる官営マーケット・東市の経済力を活用し、大祭・稲荷祭も大々的に展開。
これらの計略により空海は、めでたく叡山の牽制に成功しましたとさ。愉快、空海、イエズス会。
とか言ってると楽しいんですが、しかし平安京東南部の稲荷信仰は、空海以前にも既にあったとか。
それこそ、 『今昔物語集』 にある 「七条辺にて産れたりければ」 稲荷が産神、みたいな感じで。
ひょっとすると空海は、東寺運営に際してこの 「七条辺」 の信仰を、利用したのかも知れません。
逆に、空海が民間利用されてる可能性もあるけど。とにかく、何とも不思議な伏見稲荷の氏子域です。
というわけで、稲荷祭の 【2】 は、そんな伝説が息づく平安京東南部が舞台の神輿巡幸であります。
北は京都駅の北側や五条を越えた中堂寺、南は千本十条や高速が借景の河原町十条まで。
神輿や五重塔と共に、稲荷祭を千年以上担い続けてきた街の姿を、見つめていきます。
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2019年4月28日(日)

稲荷祭の氏子祭を、8年にわたって観続けました。もちろん、ひとりで。
稲荷祭。ゴールデンウィークを挟む頃合で行われる、名前の通り、稲荷の祭です。
そして無論、京都で稲荷といえば伏見稲荷ですから、つまりは伏見稲荷大社の祭であります。
この稲荷祭、当サイトは実は、クライマックスともいえる氏子祭を8年にわたって追い続けてきました。
京都を考えるにあたり、この祭が極めて重要な祭であると思ったから追った、わけではありません。
多くの祭に於いて核となる御旅所システムを考える上では、確かにこの祭は重要となるはずですが、
しかしそんな難しいことは、純然たるチンピラサイトである当サイトには、あまり関係ありません。
追った理由は、雰囲気が何か好きなのと、数年追えば祭の全貌がコンプできる気がしたからです。
伏見稲荷の氏子域は、よく知られるように、本社から割と離れた京都駅周辺に広がってます。
そして伏見稲荷大社・稲荷祭の氏子祭では、この京都駅周辺の氏子域を、5基の神輿が巡幸します。
稲荷神が、神幸した東寺駅近くの御旅所を出発し、各々の地域を回って御旅所へ戻るわけです。
で、この巡幸エリアの距離感が、何年かかけて追うのに丁度良い感じに思えたんですよね。
巡幸の東北端は、きっと河原町通の五条を下った辺。東南端は、竹田街道を十条まで下った辺。
西北端は、丹波口駅を超えて中堂寺の辺。そして西南端は、旧千本通をこれまた十条まで下った辺。
曖昧な表現で恐縮ですが、多分こんな感じです。こんな範囲を、5基の神輿が回るわけです。
範囲が広過ぎて、絶対に追いきれない祭というのも、京都には存在します。松尾祭が典型でしょう。
早朝からとんでもない範囲を巡幸しまくり、とんでもない回数の差し上げをやりまくる、みたいな。
しかし稲荷祭は、そんな感じではありません。1年では無理でも、何年かだとコンプできそうなのです。
おまけに、氏子域の中心に京都駅があるから、それなりに、街。同時に、雰囲気も割と、アーシー。
そんな便利さ&都合の良さと、雰囲気の良さに釣られる感じで、何年も何年も観続けてしまいました。
で、追尾の記録を、式次第は概ね順守+時空はシャッフルで組んだのが、当記事であります。
伏見稲荷の本社は最後まで出て来ませんが、しかしこれが、伏見稲荷の祭です。
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2019年4月5日(金)

醍醐寺へ桜を観に行ってきました。もちろん、ひとりで。
当サイト 『ひとりでうろつく京都』 にはこれまで、醍醐寺の桜記事が存在しませんでした。
メジャースポットへの単独特攻を身上とする、当サイト。醍醐寺スルーなど、基本、ありえません。
なのにスルーし続けてきた理由は、ただひとつ。豊太閤花見行列の時に、特攻したかったからです。
秀吉が己の命の散り際に華々しく催し、醍醐寺を名実共に桜の名所としたともいえる、醍醐の花見。
そして、単なるコスプレ祭にも見えるものの、その醍醐の花見を現代に復活させた、豊太閤花見行列。
醍醐寺の桜を観るなら、この行列と共に観るのが、筋だろう。そう思い、機会を窺ってたわけですね。
で、サイトを始めた頃から2019年に至るまで、その機会がことごとく振られ続けてきたわけですね。
豊太閤花見行列が行われるのは、4月中旬。京都の桜は、散り際 or 完散のタイミングとなります。
「花見客を少しでも残そうとして、散り際にやってるんだろ」 と、思わず勘繰りたくなる間の悪さですが、
とにかくタイミングが合わないまま時は過ぎ、結果として何年もスルーし続けてしまってたのでした。
しかし、醍醐寺はやはり、醍醐寺。そんな理由で延々スルーなど、やはり許されないのです。
醍醐寺。真言宗醍醐派総本山、醍醐寺。秀吉が花見をするために建てた寺、では無論ありません。
平安時代初期に京都東南の醍醐山を丸ごと境内として創建されて以来、修験霊場として信仰を集め、
醍醐天皇を筆頭に皇室の庇護も厚く受けた、極めてロイヤルかつスピリチュアルな寺であります。
が、応仁の乱を食らって、醍醐天皇の冥福を祈る五重塔以外、壊滅。が、その後に秀吉が、出現。
秀吉からの帰依を得た醍醐寺は、伽藍の造営・改修と共に、醍醐の花見に向けた桜の植樹も実現。
この醍醐の花見により何とか盛り返し、以後も色々あるのもの、世界遺産として現在に至るわけです。
で、桜の方もまた、京都随一の桜メジャースポットと呼ばれるに相応しい威容を誇ってるわけです。
五重塔周囲に加えて、三宝院に博物館、タダ観ゾーンの桜馬場など、実に見所が多い醍醐寺の桜。
当然、シーズン中は平日だろうが何だろうが、大混雑。となれば、スルーはやはり、許されません。
そう思い今回、特攻したのでした。行事も何もない単なる普通の日に、特攻したのでした。
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2019年3月8日(金)

城南宮へ梅を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。
城南宮は狭い、と感じることがあります。概ね、何かの催しで行った際のことです。
実際の城南宮は、特に狭い神社ではありません。広大でもないですが、狭小でもありません。
名神南インターの眼前にあるその境内は外から見ても、巨大でこそないものの、それなりに広大。
また、現代の名物となってる自動車祈祷ゾーンは、当然のように車に対応できる敷地もしっかり確保。
少なくとも、普通の日に本殿周辺へお参りに行って 「狭いな」 と感じる人は、あまりいないでしょう。
近代には神領を上知され、現代には経済難で土地を売り、境内カツカツの社が多い京都にあっては、
城南宮は決して狭くはなく、どちらかといえば広めな境内を持つ神社、ということになるはずです。
が、狭く感じるんですよね。厳密にいえば、境内の中でも神苑が、何とも狭く感じるんですよね。
端的にこの気分を感じるのは、曲水の宴の時。狭過ぎの参観場所に死の混雑が生じる、あの感じ。
イレギュラーといえばイレギュラーなあの混み方こそが、何故か城南宮の本質に思えるんですよね。
この気分、曲水の宴の他にも感じる催しが、城南宮にはあります。しだれ梅と椿まつりです。
城南宮の神苑・楽水苑では、 『源氏物語』 に描かれた草木が植栽されており、花も季節ごとに開花。
梅もばっちり栽培され、洛南ゆえ少し早く咲く150本のしだれ梅が、春の訪れを京都へ告げてます。
で、このしだれ梅の観梅祭が、混むんですよね。それも何か、何とも昭和的に混むんですよね。
平安京すなわち宮城の南 = 城南にあって、 「方除の大社」 として幅広い崇敬を集める、城南宮。
もちろん平安時代より存在する古社ですが、現代の境内の佇まいが成立したのは、あくまでも現代。
車祈祷で儲かったからか何なのか、とにかく昭和以降、中根金作の作庭で神苑も整備されました。
で、この神苑が、昭和的というか。敷地が広い割に歩行スペースはやたら狭い辺が、昭和的というか。
「広いけどトイレは狭くて不便」 的な、ある種の昭和っぽい身体性が感じられる場所になってます。
この昭和感は、しだれ梅と椿まつりでも実に発揮され、客数の割に濃厚な混雑を現場へ召喚。
で、昭和の動態保存ともいえそうなそんな混雑の中で今回、梅を観てきたのです。
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2019年2月14日(木)

久美浜へこのしろ寿司を食べに行ってきました。もちろん、ひとりで。
久美浜。京都の 「端」 の中でも、最も 「端」 な佇まいを持つ町といえるでしょう。
立地するのは、京都府の最北である京丹後市の、最北西。伊根や経が岬がある辺の、さらに西。
最北ゆえ、すぐ北にあるのは日本海です。が、町が直で面するのは、外海から隔てられた潟湖。
真青な空と真青な海が穏やかな美しさを誇るその景観は、 「タンゴブルー」 と呼ばれ、高い定評あり。
また当然ながら海の幸も豊富であり、王道のカニに加えて牡蠣の美味さも有名だったりします。
となれば、どんどん出かけて観たり食ったりしたいところなんですが、そうするには久美浜、遠い。
私が住む南部の八幡からだと、公共交通機関で行ける京都府の町としては、恐らく一番遠いです。
ほとんど南の端から北の端へ行くようなものなので、遠い。なのでもちろん、かかる交通費も高価い。
鉄道がない伊根より、高価い。多分、延々とバスに乗らなければいけない美山よりも、遠くて高価い。
ので、京都の 「端」 や 「境界」 を裏テーマとする当サイトも、ずっと行けずじまいだったのでした。
しかし、それでもなお出かけたくなる理由が、冬の久美浜にはあります。このしろ寿司です。
このしろ寿司。いわゆるコハダが少し大きくなった魚・このしろを用いた寿司ということになります。
であれば、それこそコハダの握りみたいなのを想像するんですが、これが全く違うらしいんですよね。
ベースになるのは、シャリでなく、おから。また作りも、江戸前の握りとも上方の箱寿司とも違うという。
おから寿司そのものは、日本の各地に割とあるものですが、少なくとも京都ではあまりありません。
また、コハダ自体が京都 or 関西ではマイナー。このしろも同様です。なのでこれは、実に珍しい。
「端」 や 「境界」 ならではの食文化に触れられるのではないかと、興味をそそられたのでした。
おまけに、カニみたいに高価くない。牡蠣ほどの値段さえしない。一本、500円もしない。いい感じです。
ので今回、時間・金・興味のバランスを何とか整えて、遠路はるばる出かけて見たのであります。
で、実際に食したこのしろ寿司によって、斜め上どころではない凄まじい衝撃を、受けたのでした。
そしてその衝撃は、久美浜の印象さえ、大きく変えてくれるものだったのでした。
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2019年2月3日(日)

節分の八瀬へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
京都の鬼は、大江山に住むと考えられてます。いや、全国的にも、そう考えられてます。
老ノ坂・大枝か丹波・大江かで議論は分かれますが、とにかく 「おおえ」 に住むとされるわけです。
が、この鬼 aka 酒呑童子、生まれも育ちも大江山という設定なわけではありません。出身地は、別。
越後に生まれ全国を放浪した後、京の近くの比叡山へ居着き、それから大江へ引っ越したとか。
酒好きの酒呑童子ゆえ、丹波名物のどぶろくに惹かれて引っ越したのかといえば、これもさにあらず。
引っ越さされたのです。最澄 aka 伝教大師が叡山に延暦寺を建てる際、追い出されたのです。
鬼は、叡山に未練たらたらだったとか。伝・世阿弥作の謡曲 『大江山』 でも、かなり愚痴ってます。
我れ比叡山を重代の住家とし 年月を送りしに 大師坊というえせ人 嶺には根本中堂を
建て 麓に七社の霊神を斉ひし無念さに 一夜に三十余丈の楠となって 奇瑞を見せし所
に 大師坊 一首の歌に 「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち 我が立つ杣に冥加あらせ給え」
とありしかば 仏たちも大師坊にかたらはされ 出でよ出でよと責め給えば 力なきして 重
代の比叡のお山を出でしなり (謡曲 『大江山』 )
当サイトでは2018年の節分、長年の念願が叶い、鬼の里たる丹波・大江山の訪問を果たしました。
が、この訪問を経て私は、プレ大江山たる叡山を訪問する必要性も感じるようになったのです。
そもそも、京都の東北に聳える比叡山は、京都という都市を考える際には避けることが許されない山。
これはもう、登るしかない。そう考えて今回、鬼の日・節分を選んで登山を決行したのであります。
ので、この記事タイトルは、おかしいのです。八瀬でなく叡山へ行ったでなければ、おかしいのです。
写真も、おかしいのです。叡山山麓の八瀬で叡山とは関係ない鯖寿司を食うわけが、ないのです。
悪天+時間がないので、ちょこっと八瀬行って節分ネタを済ませたわけが、ないのです。
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2019年1月1日(火)

2019年への年越しを、妙心寺で除夜の鐘を聴くだけで迎えました。もちろん、ひとりで。
聴くということ。耳を澄ませること、と言い換えても構いません。とにかく、聴くということ。
難しいことです。ネットの普及以降、視覚ばかり偏重される昨今では、なかなか難しいことです。
「見る暴力」 を行使する自由&権利が、ゼロ年代をまんま引き摺るような形で延々とデフレを続け、
愚鈍な視線が溢れ返ると共に、内省能力を喪失したイワシの如き民を大量発生させた、10年代。
イワシを見て 「やっとネットが漁場化した」 と考えた代理店は、社員を殺しながら民の家畜化を進め、
民は民で小さな画面の中へ認識を収束し、外部を負の感情の便所と見做すようになった、10年代。
見るということは、果てしなく安くなりました。大きな代償を支払うことで、果てしなく安くなりました。
この腐ったディケイドの最終年を迎えるに際し、私は、視覚偏重の風潮に異を唱えたくなったのです。
野蛮に見つめるのではなく、黙って聴くということ。むしろ、音 or 静寂から見つめ返されるということ。
聴覚の復権です。それはつまり、内省の復権です。この復権が今、必要であると思えるのです。
そう考えた私は、2019年の年越しを、妙心寺にて除夜の鐘を聴いて迎えることにしました。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺です。
京都・花園の巨大な境内は全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
また、国宝の梵鐘も持ち、そのレプリカで除夜の鐘も実施。で、この鐘が、参拝者は撞けないのです。
見るだけの無力さを痛感する前に偽りの主体性を得んと、鐘撞き体験へ走るイワシの愚さを排し、
耳を澄ませることで真の内省を促し、真のイニシエーションとしての年越しも成立させる、この姿勢。
正に、禅です。正に、己の内面と向き合う、禅ならではのスタンスです。正に、禅寺の中の禅寺です。
なので私も、真夜中の妙心寺で鐘の音に耳を澄ませ、聴くということに向き合ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な挑戦なのです。
決して、並んだりせずに簡単に年越しネタを成立させたい一心で出かけたのでは、ありません。
断じて、単に写真が殆ど真暗になったから聴覚がどうとかゴネてるのでも、ありません。
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2018年12月24日(月)

ゲストハウスイン清水三年坂で過ごす聖夜、前篇に続き後篇です。
「坂」 が、ある種の 「境界」 的な性質を孕む領域であることは、広く知られています。
物理的に外界との 「堺」 を築く山、そこへと向かう 「坂」 。自ずと、 「境界」 的になるわけですね。
山に囲まれた街・京都では、この傾向がより顕著です。清水・産寧坂も無論、例外ではありません。
そもそも産寧坂の別称・三年坂は、 「転ぶと三年以内に死ぬ」 という伝説から付いたとされるもの。
また、大日堂などの清水寺・境外塔頭は、かつてこの辺まで広がってた葬地・鳥辺野の名残とか。
「死」 が周囲に転がる、彼岸ゲートたる 「境界」 。その 「境界」 が引き寄せる、ある種のアジール性。
そんな産寧坂の 「境界」 性、水上勉に拠ると、昭和初期の頃までは残ってたようです。
産寧坂は、どうして、あんなに急で、人通りもまばらだったのだろう。両側は二階建てのしもた屋がな
らんでいた。急石段をのぼりながら、家々の戸口を見ると、どこも格子戸を固くしめて、提灯をつるして
いるのだった。いまは、この右側は、竹細工屋、餅屋、喫茶店など、とびとびにあって、観光客の男女
も、手をつないで出入りし、坂を登ってゆくが、昔は、ここの石段にへたりこんで、頭をさげては布施を
乞う乞食が大ぜいいた。 (水上勉 『私版京都図絵』 「東山二条 産寧坂」 )
では現在、この坂の 「境界」 性が全て脱臭されたのかといえば、そうでもありません。
国籍人種問わずベタな観光客が集う現在の産寧坂の様は、正にアジール or 魔界そのものでしょう。
それにそもそも 「産」 もまた、ある種の 「境界」 。無から有へと転じる、紛れもない 「境界」 です。
「死」 と 「生」 の 「境界」 としての、清水。生命がスクラップ・アンド・ビルドされる場としての、清水。
ベタに塗れるほど聖性を増す清水のタフな魅力の根源は、案外そんな所にあるのかも知れません。
というわけで、そんな清水に建つ 「境界」 宿・ゲストハウスイン清水三年坂での聖夜、後篇です。
後篇は、嘘と本当、現実と妄想、そして夜と朝の 「境界」 などを、見つめていきます。
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2018年12月24日(月)

ゲストハウスイン清水三年坂で聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。
メリークリスマス!! 『ひとりでうろつく京都』 恒例の聖夜企画、2018年度版です。
独男にとって精神的外圧が最も高まるクリスマスに決行されてきた、当サイトのひとり宿泊企画。
初期こそネタ全開で激安宿や寺の宿坊に投宿するも、やがて 「境界」 性がテーマとして浮上し、
長屋宿や遊廓転業旅館、元ラブホや街道の温泉と、平安京の 「四堺」 を押さえる形で転戦を展開。
さらに2016年以降は、インバウンド爆増で一気に魔界化した都心部の 「境界」 にも向き合うべく、
増殖しまくってる民泊の宿や、増殖しまくってる町家一棟貸しの宿でも、市街戦を繰り広げてきました。
で、そんな激戦を経る中で私は、やはりゲストハウスを押さえるべき、と思うようになったのです。
ゲストハウス。 「単なる家+雑魚寝」 というスタイルで安価を実現し、一気に爆増した、ゲストハウス。
爆増し過ぎて、最近は減少さえ始まった、ゲストハウス。正に、都心の 「境界」 宿の本丸でしょう。
しかし、当サイトでは正直、避けてました。何故なら、私はドミトリーが嫌だから。雑魚寝が嫌だから。
でも、押さえねば。と思ってたら、そんな私に最適な宿が現われました。ゲストハウスインです。
ゲストハウスの簡易さと、イン = 宿のホスピタリティを併せ持つという、宿ブランド・ゲストハウスイン。
公式サイトの写真でさえ部屋は単なるマンション全開状態なくらい、簡易さ加減は爆裂してますが、
でも、京都の宿泊状況のリアルを、個を尊びつつ体験するには、ぴったりとしか言いようがありません。
で、今回泊まってみたのです。しかも、数ある施設の中で、清水三年坂に泊まってみたのです。
ゲストハウスイン清水三年坂は、京都観光の本丸中の本丸である清水・産寧坂の、すぐ近くにある宿。
にも関わらず、施設はしっかり、マンション丸出し。というか、マンション以外の何物でもない状態。
パソコンまであるため、自部屋感あり過ぎ+旅情なさ過ぎではありますが、便利なのは間違いなし。
色んな意味で、京都の宿泊の 「今」 を、そして 「境界」 の 「今」 を、表す宿とは言えるでしょう。
そんな宿へ、 「境界」 性が高まる聖夜に泊まり、京都観光の新たな 「境界」 を見つめてみました。
日常と非日常の 「境界」 加減も濃い場所で、私はどんな 「今」 を見るのでしょうか。
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2018年11月18日(日)

笠置山もみじ公園のもみじライトアップへ行ってきました。もちろん、ひとりで。
笠置といえば、何といってもまず、笠置山です。そして、そこに建つ笠置寺です。
大友皇子が再訪時の目印として巨岩に笠を置いたことから、その名が付いたという、笠置山。
標高こそ289mながら、至る所に巨岩が露出するその姿から、古より信仰を集めてきた霊峰であり、
また無論、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した元弘の乱に於いて、挙兵地となった山でもあります。
で、そんな笠置山に鎮座するのが、大友皇子が掘らせたという磨崖仏を本尊とする、笠置寺。
平安期は天皇や藤原氏からの信仰を獲得し、鎌倉期は戒律の復興者たる貞慶を得て隆盛を誇り、
また仏教伝来前の巨石&山岳信仰も含め、生々しい信仰の息吹を今に伝える名刹であります。
共に、笠置へ訪れた際は、必ず出向かわなければならない地です。スルーは、断じて許されません。
が、この3か月前に花火を観に笠置を訪れた際、私は笠置山登頂&笠置寺参拝を、忌避しました。
理由は、登るのが面倒臭かったから。徒歩で登るには、参道の坂がとんでもなくきつかったから。
当日は真夏+激暑で、絶対に汗だくになると思ったから。車がないと絶対に無理と思ったから。
いや、仮に車があって登れても、あの日は花火の超大混雑で、笠置から多分出れなかったから。
といったわけで、結局は花火の反響音に山の存在を感じただけで、この地をトンズラしたのでした。
いけません。歴史の重みと浅薄な享楽を常に体感的に併せ飲む当サイトが、これでは、いけません。
何より、山が私を呼んでるのが、聞こえる。笠置山が、私を呼んでる。笠置寺が、私を呼んでる。
あの背後霊みたいな磨崖仏が、南の彼方から 「挨拶はないのか」 と私を呼んでるのが、聞こえる。
と、霊が高まったので、気温が下がった秋、私は笠置山へ改めて挨拶しに行くことにしました。
笠置山、霊峰としても名高いですが、春は桜、そして秋は紅葉の名所として有名だったりします。
おまけに、紅葉が集結する山中のもみじ公園は、11月の夜間にライトアップも実施。いい感じです。
ので、霊気が高まる夜に、紅葉が色づく笠置山へ赴いてみました。今度は、自力で登山して。
磨崖仏だって、拝んだに決まってるのです。拝んでなければ、おかしいのです。
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2018年11月15日(木)

リプトン三条本店で、丹波栗のロイヤルミルクティを楽しんできました。もちろん、ひとりで。
明治維新後の京都に於ける近代化で、三条通という道は、大きな役割を担いました。
江戸時代から、東方の江戸へ続く東海道のターミナルとして、既に人荷が行き交ってた、三条通。
維新後は、文明開化の都となった東京に直結する通として、賑わいと重要性を増して行きます。
東から、夜明けの光の如く入ってくる、新しい文化。東京を経由し、世界から入ってくる、新しい文化。
そんな文化のゲートに、三条通はなったわけです。牛肉も、近江から入洛したのは、この通だとか。
現在の市域東部に残る疏水&発電所、そして最中心部の烏丸通に至るまで展開される旧洋館群は、
東方より入った近代文化の種子が、古来の文化を滋養として開花した跡なのかも知れません。
が、この三条通、実は西側でも近代の京都に貢献しました。いわば、丹波のゲートとして。
嵐山から三条通の西・千本三条へと丹波材を流す運河・西高瀬川は、幕末に至って拡幅を実現。
元治の大火で焦土と化した京都は切実に建材を求めていた為、千本三条は材木業で一気に活況化。
後に物流は鉄道・山陰線にシフトするも、二条駅が千本三条の目前に建ち、活況はさらに加速。
荒い輩も集まるこの地で木材運送業をシメてた千本組は、加速する活況を受けて、どんどん巨大化。
後には、丹波をルーツに持つマキノ一族との縁で、近代文化の極たる映画制作にも関与しました。
洋風文化と丹波。東と西の両軸にて、三条通は近代の京都を彩ってたというわけですね。
この彩りを、秋の味覚として楽しめる店が、現代の三条通にはあります。リプトン三条本店です。
王室御用達・英国リプトン本社が直轄する喫茶部、その極東支店として生まれた、リプトン三条本店。
現在もロイヤルミルクティが名物のティーハウスとして人気の高い店であり、季節メニューも多彩。
で、この季節メニューとして、秋には、丹波栗を載せた丹波栗ロイヤルミルクティが出るんですよね。
英国紅茶という洋風文化と、丹波名物の代表・栗の、融合。実に、三条通です。実に、近代です。
丹波系の牧野省三が、近代の光で新たな歴史表現を生んだかのようです。飲まねばなりません。
というわけで、飲みに出かけました。ついでに、栗のパスタも勢いで食べてみました。
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2018年11月11日(日)

長岡京ガラシャ祭へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
細川ガラシャ。京都府下に於いては、色々と町おこしのネタになってる人物です。
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興へ嫁ぎ、キリシタンとなって最後は爆死した、ガラシャ。
京都府には、ガラシャが嫁入りした頃の細川家が領地としていた乙訓・長岡&丹後・宮津があり、
長岡は勝竜寺城での輿入れ、丹後は本能寺後の幽閉も行われてる為、ネタ化もまあ当然でしょう。
ただ、ガラシャが受洗を経ていわゆるガラシャとなったのは、御存知の通り、あくまで大坂での話。
幽閉経験が受洗に繋がった可能性はありますが、所詮はプレ話。爆死のインパクトには適いません。
というか、より率直に言えば、そんなに盛り上がるもんか、と。君ら、そんなにガラシャ好きか、と。
不埒とも言えるこの疑念、輿入れというハッピーな逸話だけが残る長岡では、より強くなります。
長岡時代は、忠興から 「靡くなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」 と歌われた、ガラシャ。
性欲山・秀吉の淫風が心配になる、花のような新妻のガラシャ。ハッピーであります。が、好きか、と。
と、思うのです。で、この疑念に色んな意味で応えてくれるのが、長岡京ガラシャ祭なのです。
江戸初期の勝竜寺城廃城後、長らく単なる農村だった長岡は、現代・高度成長期に入り発展を開始。
京都&大阪の良きベッドタウンとなったことで人口が爆増し、1972年には長岡京市として市制導入。
良水が要る大手電子企業も続々進出したことで、拡大は続き、その勢いはバブル期まで継続。
その勢いの余波を受ける形で90年代、勝竜寺城の復活と、長岡京ガラシャ祭は開始されました。
この長岡京ガラシャ祭は、勝竜寺城でのガラシャの輿入れを再現し、華麗な時代行列を展開する祭。
といっても、歴史蘊蓄などは希薄で、基本はコスプレ&露店。で、これが盛り上がってるんですよ。
「ガラシャ+結婚」 というネタが、旧市民も新市民も利害なく等距離で関われる点がマッチしたのか、
まとまる材料皆無の急造ベッドタウンにあって、観光客よりもむしろ地元住民の盛り上がりを獲得。
長岡京市という街を凝縮すると共に、歴史系町おこしのひとつの在り方も示す祭となってます。
そんなガラシャ祭、男山山麓に住む八幡人として、風な気分で出かけてみました。
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2018年10月24日(水)

亀岡祭の宵山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
祇園祭・宵山には、独特の気配、はっきり言えば 「死」 の気配が漂ってると感じます。
『京都思想逍遥』 では 「滅び」 と表現してましたが、私が感じるのは寧ろギラついた 「死」 です。
無論そんな 「死」 は、露店&大混雑で覆い隠されてます。が、ちょっとした隅とかに、すぐ現れます。
比較的人が少なめとなる後祭・宵山が復活した後は、さらにあちこちで感じられるようになりました。
「単に辺りが暗いから、そう思うだけだ」 と思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。
「祭は元来、そういうものだ。カーニバルだ」 とも思われるかもしれませんが、ちょっと違うんですよね。
街が背負う祭の重責が、異様な気配を生んでるというか。しかも、それが千年分重なってるというか。
千年分重なった愛着・憎悪・恐怖・徒労などが、濃厚に混ざり、ギラつく暗黒色を生じてるというか。
で、そんな暗黒色から沸き立つ 「死」 の気配こそが、チャラい混雑も引き寄せてる気がするというか。
妄想や思い込みが甚だしい上、全く誰も得しない話で恐縮ではありますが、あなたどう思いますか。
祇園祭・宵山へのこの印象、実は、逆説的に裏付けてくれた祭があります。亀岡祭です。
丹波の最南端にある亀岡の地を、巨大な鍬を以て切り開いたという伝説を持つ鍬山神社の例祭が、
明智光秀による亀山城築城を経て、江戸期には城下町の祭として規模を拡大するに至った、亀岡祭。
城下町の町衆達は多彩な練り物を出し始め、祇園祭の影響を受けまくった10数基の山鉾も出現。
リアル京都に至近なこともあって、本物顔負けの豪華な山鉾が城下を練り歩くようにまでなりました。
城が消滅した明治以降は衰退しますが、平成に入ると復興の気運が上昇し、山鉾も立て続けに復活。
最近では全鉾による山鉾巡行も行われ、 「口丹波の祇園祭」 の名を確固たるものにしてます。
そんな亀岡祭、巡行前夜には宵山も開催。で、この宵山が、本家と似てるようで、違うんですよね。
残りまくる城下町が、祇園祭以上に祇園祭的に映える一方、全く違う何かも見せてくれるんですよね。
「死」 や暗黒が渦巻くことなく、ひたすら大らかに、そして美しく、山鉾が寿がれてるんですよね。
そんな亀岡祭の宵山、夢コスモス園でコスモスを見た帰り、のんびり歩いてみました。
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2018年10月24日(水)

亀岡夢コスモス園へ行ってきました。もちろん、ひとりで。
巖谷國士は、宇野亜喜良の美しい挿画に彩られた本の中で、コスモスに触れてます。
曰く、旅先のメキシコにてコスモスに出会ったと。そして、コスモス本来の姿を見た気がしたと。
「乙女の真心」 なる花言葉を持ち、可憐な姿からヨーロッパの花と思われることも多い、コスモス。
しかし、原産地はメキシコであり、その原産地で見たコスモスは、乾いた荒地に伸び広がっていたと。
南米の青空の下で咲く姿は、竜舌蘭やサボテンにさえ負けない野生を潜ませてるようであったと。
日本では、想像もつかない世界であります。が、全く想像不能かといえば、そうでもなかったりします。
よく考えると、何もない所に観光スポットを急拵えする際、コスモスを活用する地域は多いものです。
休耕地や遊休地でも、平気で咲く、コスモス。日本でも、タフな可憐さを結構、発揮してるわけですね。
野蛮なタフさと表裏一体の、可憐さ。魅力的です。何なら、可憐さの本質に見えなくもありません。
強奪したシトロエン2CVを駆って、コスモスが咲く欧州の野道を爆走した、あの9月の花嫁のように。
そんなコスモスの可憐さと野蛮さを感じられる場所が、京都府にもあります。亀岡です。
明智かめまるではなく明智光秀によって築城された、亀山城。その城下町として形成された、亀岡。
しかし、市制導入と同時に行われた合併で、市域は爆発的に拡大し、現状はその大半が、農地。
京野菜の多くを出荷するほどそれら農地の生産力はパワフルですが、でも余る土地は余るのであり、
そんな土地を利用したスポットとして、亀岡夢コスモス園が20年程前から開かれるようになりました。
秋だけ開かれるこの夢コスモス園では、約4.2haの敷地に、様々な種類のコスモス約800万本が開花。
また、丹波の味覚が集まる 「丹波味わい市」 や、農地らしい創作かかしコンテストも、同時開催。
特に創作かかしコンテストでは、某夜更かしでグランプリに選出された某デラックスな方のかかしが、
可憐なコスモスの海の中で特異な存在感を放つという、野蛮といえば野蛮な奇観も現出してます。
そんな可憐で野蛮な夢コスモス園、深まる秋風に誘われるように、何となく出かけて見ました。
ひょっとしたら、私も野蛮に爆走する 「乙女の真心」 に、出会えたりするのでしょうか。
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2018年9月27日(木)

京・旬野菜料理 直會撰で、松茸と地鶏のすき焼き膳を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。
松茸を有難がる気持ちが、私にはよくわかりません。両親が、丹波の出だからです。
といっても、美味い松茸を食い慣れてるから、有難味がわからないのではありません。逆です。
かつての我が家には、林業か何かに関わる親戚から、秋になる度に松茸が送られて来ました。
無論、身内から無料で送られて来る松茸ですから、商品にならない残骸のような代物となります。
ひょっとすると案外美味かったのかも知れませんが、しかし当時の私の舌には完全に、単なる菌類。
丹波の出身ながら、貧しくて食の教養がない私の親にとっても、この松茸はやはり、単なる菌類。
京都の年配の方は、 「昔は松茸なんかフライで揚げてソースかけて食ってた」 的な話をよくしますが、
正しくそのようなノリで、我が家ではもらいもんの菌類を極めて適当かつ雑に、食ってたのでした。
なので、私にとって松茸の原風景は、 「ちょっと変な匂いが付いたキノコの残骸」 でしかありません。
匂いが付いてるだけで、何が嬉しい。あんなもんに高い金を払って、何が楽しい。というわけです。
とはいえ、秋といえばやはり、松茸。京都に於いても当然、秋といえばやはり、松茸。
特に、丹波なる一大生産地をすぐ近くに擁するこの街では、松茸はより大きな意味を持ってます。
死ぬほど暑いか死ぬほど寒いか以外、実は体感レベルでの季節感は希薄な人口過密都市、京都。
それゆえに、行事や食の季節ものには病的なまでの執着を見せるわけですが、松茸もまた然り。
初松茸が届けばニュースとして報道され、和食店でも当たり前のように松茸の土瓶蒸しが供されます。
つまり、メジャー案件ということです。となれば、当サイトとしては、特攻をかけねばならんのです。
そう考えた私は、松茸特攻の行先を物色するようになりました。無論、なるべくなら安価に済む形で。
で、今回出かけたのが、寺町三条の直會撰。京都の四季特産を扱うとり市老舗の、料理店です。
とり市老舗は、初松茸ニュースによく登場する店。なので直會撰も、秋は松茸メニューを展開。
しかも、最安の松茸御飯食べ放題は、千円強。行き易くて、食い易くて、値段も安い。最高です。
というわけで、丹波ではなく街のど真ん中へと、秋の香りを嗅ぎに出かけたのでした。
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2018年8月29日(水)

あらし山 遊月で鱧しゃぶコースを楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。
鱧は、秋口にしゃぶしゃぶとかで食った方が、本当は美味い魚ではないだろうか。
そうしみじみ思ったのは、 『ひとりで食べる鱧』 にて、ひとり池田屋事件に臨んだ際のことです。
晩夏に敢行した、完全なネタモードの特攻。実際に落としは、ネタな期待に応えてくれるものでした。
しかし、鱧の小鍋は、違いました。あれは正直、美味かった。汁は辛過ぎたけど、鱧は美味かった。
鱧そのものの質は落としと同じはずなのに、茹でて温かい状態で食うと、段違いに美味かった。
で、しみじみ思ったのです。鱧は、夏らしく冷やして食うより、温食こそが相応しい魚ではないかと。
氷などを添えた落としよりも、鱧しゃぶといった鍋物の方が合う、晩夏以降に向いた魚ではないかと。
もちろん、秋鱧の美味さそのものは、広く知られています。夏ものよりも脂が乗って美味い、的な。
晩夏以降のもの、でなければ梅雨の水を吸った7月前半のものこそ、本当に美味い鱧というわけです。
実に食いたいところですが、当サイトは生憎、本当の美味さを求めるグルメサイトでは、ありません。
求めてるのは、常に京都の表象であり、その表象と現実の間に立ち現れる何かなのです。
ゆえに、鱧はあくまで 「夏の風物詩」 として重要なのであり、味などは二次的な問題に過ぎません。
いくら美味かろうが、鱧を秋に食うわけには、いかんのです。味ばかりを追及してては、いかんのです。
が、それでもやはり、食いたい。川床でもない限り空調はあるんだから、熱い鱧しゃぶ、食いたい。
秋に食ってはいけないのなら、せめて夏の終わりに、特攻とかでなくて落ち着いた感じで、食いたい。
などと思い、3000円台でひとりで鱧しゃぶ食える落ち着いた店を探してたら、ありました。遊月です。
遊月。あらし山 遊月。その名の通り、嵐山・中之島にあって、90年続くという料理店であります。
そう、あの如何にも高価そうな顔して中之島・大堰川右岸沿いに並ぶ料理店の、ひとつであります。
私も店の前は何度も通ってますが、金銭的にもひとり的にも縁なしと、意識野から消してたのでした。
が、ひとりでも予約出来たんですよ。で、鱧しゃぶコースは、税抜なら3000円台だったんですよ。
で、「夏の風物詩」 の別の味わいを楽しむべく、晩夏の嵐山へ出かけたのでした。
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2018年8月16日(木)

五山送り火の左大文字を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。
五山送り火の火というのは、通常は、火元から割と離れた場所で眺めるもんです。
一般的には、大文字山のあの感じこそが、送り火で連想される距離感、ではないでしょうか。
北大路の辺から大文字を観る、あの感じ。闇の中に 「大」 の字が浮かぶ、あの感じ。みたいな。
確かに、あの風情 or 美は、火元から距離をとらないと、得られません。離れるわけですね。
風情 or 美の濫獲に走らず、真摯に信仰行事として五山送り火を考える場合も、事情は割と同じ。
お盆に現世へ里帰りした精霊 aka おしょらいさんを、あの世へ送り返すのが、あの火の本来の役目。
精霊は、火に近付いて祈れば祈るほどスムーズに帰れるわけでもないでしょう。離れるわけですね。
そんなこんなで、多くの人は通常、火元から割と離れた場所で、送り火を眺めるわけであります。
しかし、風情も美もおしょらいさんも関係なく送り火を追ってる当サイトとしては、事情はまた、別です。
「一晩で五山コンプ」 という愚行に何度も何度も挑むも、それら全てが失敗に終わり猛省した後、
「5年かけ、1年に一山ずつ観る」 と決め2015年より発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画。
初年度は大文字を、2016年は妙法を、そして2017年は船形万燈籠を、それぞれ拝んできました。
が、そうやって何度も何度も火を観るうちに私は、もっと近くで火を観たい、と思うようになったのです。
送り火当日に於ける送り火実施山への部外者の入山 or 侵入は、無論、固く禁止されています。
何せ基本は、宗教行事。 「大」 を 「犬」 にするような類の輩の闖入は、厳に戒められるべきでしょう。
けど、近くで観たい。で、この欲求を満たせる場所は、実はなくもありません。それが、左大文字です。
その名の通り、送り火のキービジュアル 「大」 を、大文字山の逆側で浮き上がらせる、左大文字。
金閣寺に近いため、駐車場から 「大」 のベースを目にした方も、多いんじゃないでしょうか。
あのベースの距離感が示すように、ここの送り火は、近い。望遠なら、焚く人が見える程、近い。
つまり、火そのものを、熟視出来るのです。想いが託される火の真実を、熟視出来るのです。
で、5ヵ年計画4年目の今回は、そんな左大文字で、火ばかりを見つめてみました。
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