あらし山 遊月で鱧しゃぶコースと冷奴を楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

2018年8月29日(水)


あらし山 遊月で鱧しゃぶコースを楽しんで来ました。もちろん、ひとりで。

は、秋口にしゃぶしゃぶとかで食った方が、本当は美味い魚ではないだろうか。
そうしみじみ思ったのは、 『ひとりで食べる鱧』 にて、ひとり池田屋事件に臨んだ際のことです。
晩夏に敢行した、完全なネタモードの特攻。実際に落としは、ネタな期待に応えてくれるものでした。
しかし、鱧の小鍋は、違いました。あれは正直、美味かった。汁は辛過ぎたけど、鱧は美味かった。
鱧そのものの質は落としと同じはずなのに、茹でて温かい状態で食うと、段違いに美味かった。
で、しみじみ思ったのです。鱧は、夏らしく冷やして食うより、温食こそが相応しい魚ではないかと。
氷などを添えた落としよりも、鱧しゃぶといった鍋物の方が合う、晩夏以降に向いた魚ではないかと。
もちろん、秋鱧の美味さそのものは、広く知られています。夏ものよりも脂が乗って美味い、的な。
晩夏以降のもの、でなければ梅雨の水を吸った7月前半のものこそ、本当に美味い鱧というわけです。
実に食いたいところですが、当サイトは生憎、本当の美味さを求めるグルメサイトでは、ありません。
求めてるのは、常に京都の表象であり、その表象と現実の間に立ち現れる何かなのです。
ゆえに、鱧はあくまで 「夏の風物詩」 として重要なのであり、味などは二次的な問題に過ぎません。
いくら美味かろうが、鱧を秋に食うわけには、いかんのです。味ばかりを追及してては、いかんのです。
が、それでもやはり、食いたい。川床でもない限り空調はあるんだから、熱い鱧しゃぶ、食いたい。
秋に食ってはいけないのなら、せめて夏の終わりに、特攻とかでなくて落ち着いた感じで、食いたい。
などと思い、3000円台でひとりで鱧しゃぶ食える落ち着いた店を探してたら、ありました。遊月です。
遊月。あらし山 遊月。その名の通り、嵐山・中之島にあって、90年続くという料理店であります。
そう、あの如何にも高価そうな顔して中之島・大堰川右岸沿いに並ぶ料理店の、ひとつであります。
私も店の前は何度も通ってますが、金銭的にもひとり的にも縁なしと、意識野から消してたのでした。
が、ひとりでも予約出来たんですよ。で、鱧しゃぶコースは、税抜なら3000円台だったんですよ。
で、「夏の風物詩」 の別の味わいを楽しむべく、晩夏の嵐山へ出かけたのでした。

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花園・妙心寺北門前の京料理・萬長で、鱧づくし御膳を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2018年8月10日(金)


京料理・萬長で、鱧づくし御膳を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

禅宗と、。関係がないと言われたら、あまりにも関係がない組み合わせです。
かたや、食さえも厳格に修行化すべく、殺生の一切を排す精進料理を生み出した、仏教思想。
かたや、遠海からでも運搬可能な生命力の塊をザクザクと骨を切って食らう、京都の夏の風物詩
禅の思想をそのままレシピ化した精進料理が、名に反して精を削ぐストイックさを誇るのに対し、
生命力溢れる鱧は、食えば食うほど精つきまくりの夏バテ防止策と、違うにも程があるという話です。
しかし私は、禅宗と鱧の間には何か近いものがある、と感じてます。関係がある、と思ってます。
厳密に言うなら、鱧の調理法には精進料理からの影響が感じられる、と言った方が正確でしょうか。
本当に美味しい鱧の落としを食した時などに感じる、 「技術によって、生魚が作られてる」 という印象。
あの、食材そのものよりも技術こそが 「生」 を生む感じは、精進料理の何かに近いのではないか。
鯰を瓢で得ようと無理を通す禅の心と、夏の京都に 「生魚」 を現出させることは、近いのではないか。
禅と鱧を巡るそんな思念を深めるべく、私は今回、妙心寺北門前の萬長へ赴いたのです。
妙心寺。言うまでもなく、臨済宗妙心寺派の大本山であり、禅寺の中の禅寺と言える大寺であります。
京都・花園の広い境内は、全域が禅テイストでまとめられ、質実&ストイックな精神世界を具現化。
数多の塔頭も擁し、その中の東林院が精進料理を供してるのは、うちの小豆粥記事でも触れた通り。
萬長は、そんな妙心寺の北門のすぐ前にあって、妙心寺と同様に質実な雰囲気を持つ料理店です。
夏は鱧も扱ってて、昼には 「鱧づくし御膳」 も提供。で、今回、これを食べに行ったのであります。
魚肉を食せぬ環境に於いて、それでも何とか肉食の満足を得んとして大きな発達を見た、精進料理。
そんな精進料理の影響を受けて発達した京料理の中で、夏の 「生魚」 を現出させた、鱧料理。
この両者の関係を、大禅刹の目前で 「鱧づくし御膳」 を食いながら哲学的に考えてみたのでした。
断じて、 『ひとりで食べる鱧』 の予算枠・3000円台に合致する店を検索してたら萬長を見つけ、
「鱧づくし御膳」 が税別ジャスト3000円なので行っただけ、なのではありません。

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総本家にしんそば・松葉で、鱧そうめんと鱧天せいろを楽しみました。もちろん、ひとりで。

2018年7月31日(火)


総本家にしんそば・松葉で、鱧そうめんと鱧天せいろを楽しみました。もちろん、ひとりで。

3000円前後で、鱧を楽しむ。難しいようで、案外と楽で、でもやはり難しいことです。
食べるだけなら、難はありません。夏の京都では、値段を問わず多くの飲食店が鱧を扱います。
鱧天を出す蕎麦やうどん店も、多し。居酒屋なら、天婦羅のみならず落としを出す店も、多し。
値段だけ考え、そして 「夏の京都で鱧を食べた」 という既成事実を作るだけなら、簡単なわけです。
が、そんなブランド季節食としてだけ鱧を楽しむのは、どこか片手落ちではないかと、私は思います。
祇園祭の別名 「鱧祭」 が示すように、この魚が祭とシンクロした食材であることは、御存知の通り。
そして、防疫祭たる祇園祭と同様、鱧料理が京都の地理から生じた文化であることも、御存知の通り。
夏に京都で鱧を食すのであれば、こうしたバックグラウンドも共に味わう形で、食すべきではないか。
「海が遠い」 「暑過ぎ」 「平安時代から人多過ぎ」 といった地理を、舌で体感すべきではないか。
またこの体感を、ある種の祝祭性の中で実現して初めて、人は鱧を食したことになるのではないか。
『ひとりで食べる鱧』 を予算3000円台で再開した後、私はそんなことを考えるようになりました。
もちろん、こうした要素と共に鱧を食す際、3000円台という枠は、足枷になると言わざるを得ません。
それでも 『ひとりで食べる鱧』 再開後の当サイトでは、この困難なミッションに正面から取り組み、
山鉾巡行当日に於ける回転寿司鱧づくしや、晩夏のひとり池田屋事件などを、やらかしてきました。
しかし、足りない。何よりも、 「海が遠い」 という京都の地理をダイレクトに表現する要素が、足りない。
こうした要素も含め3000円台に収まるメジャー店、ないかな。と思ってたら、ありました。松葉です。
松葉。かの南座と共に祇園の入口に屹立する、にしんそば総本家として知られる蕎麦店であります。
北の大地より届く、身欠きニシン。その干物のニシンを戻して煮込み、蕎麦と共に食す、にしんそば
実に 「海の遠さ」 を表す料理です。また松葉は、夏には鱧そうめんなどの鱧メニューを展開。
なので今回、祇園祭ラス日に松葉で鱧を食し、夏と海と京都の関係を舌で考えてみたのでした。
なので当然、にしんそばも、食うのです。食わなければ、趣旨的におかしいのです。

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夏越祓の茅の輪を石清水八幡宮だけでくぐってきました。もちろん、ひとりで。

2018年6月30日(土)


夏越祓の茅の輪を石清水八幡宮だけでくぐってきました。もちろん、ひとりで。

夏越の日に茅の輪を求めて神社を彷徨い歩き、浅ましく祓力を貪り倒すという、愚行
のみならず、その祓い倒れ徘徊を 「マイナー神社紹介」 として己の内で正当化するという、悪行。
そもそも、本当の祓というのは、一回だけするものです。一回だけするからこそ、意味があるのです。
なのに、何度もくぐる。まるで、食べ歩きの如く、くぐる。そしてその所業を、善きことのように思い込む。
神の尊厳を踏みにじり、その神を奉る方々の信仰をも冒涜しかねないこうした行為については、
当サイトでもその犯罪性を重々に認識&反省し、禊として天王山登山などの荒行も決行してきました。
翌年にはその反省を完全に忘れ去り、茅の輪さえくぐらない宇治めぐり in 夏越なんかもしましたが、
それでも、常に信仰と伝統を重要視する形で、毎年の茅の輪くぐりまくりを展開してきたつもりです。
が、そんな偽罪悪感 or 偽反省よりも重要なことを、夏越ネタで忘れていたことに、私は気づきました。
地元である石清水八幡宮での夏越の茅の輪くぐりを、今まで一度たりともちゃんとやってない、と。
石清水八幡宮。言うまでもなく、二所宗廟のひとつであり、国家級の神社であります。
やんごとなき方々の崇敬も篤く、三勅祭のひとつ・石清水祭については当サイトでも触れてる通り
国家的除災行事 or 宮中祭祀である大祓にルーツを持つ夏越祓でも、当然、茅の輪が設置されます。
なので、近所の私はくぐろうと思えば、すぐにくぐれるのです。歩いて行って、すぐにくぐれるのです。
が、この簡単さこそゆえに私は、本来は絶対外せないはずの大社を、スルーし続けていたのでした。
これは、いかん。そう思った私は、有り余る時間・金・やる気を脇に置き、2018年の夏越を八幡で決行。
しかも、めぐり一切なしのワンショット・一発勝負で。大本命だけに、浮気も寄道も許されません。
一回だからこそ意味がある祓を、神事タイムも外した穏やかな時間帯に、しっとり行ってみたのでした。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトであるために必要な挑戦なのです。
決して、時間も金もやる気もいい加減ないので、近所でちゃちゃっと済ませたのでは、ありません。
断じて、この日が激暑+夕方から激雨のため、めぐりを日和ったのでも、ありません。

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当尾・岩船寺へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年6月21日(木)


当尾・岩船寺へあじさいを観に行ってきました。もちろん、ひとりで。

「京都の端」 というのは、本当に単なる 「京都の端」 であるとは限りません。
実際にかなりな山が聳え、人界がその彼方にしかないような鯖街道 or 口丹波エリアであれば、
確かに 「端」 感 or 「どんつき」 感みたいなものを、多くの人が体感的に感じることでしょう。
しかし、 「端」 といっても隣府県とほぼ地続きな山城エリア南部では、この事情も変わってきます。
ざっくり言えば、お隣の文化的影響を色濃く受けた風土みたいなのが、形成されるわけですね。
正月や七五三などの行事がある度に、石清水八幡宮の駐車場へ大阪ナンバーの車が停まりまくり、
住民の大半の最寄駅が大阪府枚方市・樟葉駅だったりする我がホーム・八幡などは、その典型。
また、淀川を挟んでその八幡と向き合う山崎などは、大阪との境界線さえ何となく曖昧であり、
ランドマークのはずの山崎蒸留所まで大阪府島本町にあるくらい、 「端」 ならぬ 「端」 だったりします。
単なる 「京都の端」 ではない、もう少し変わった何かが、こうしたエリアには生まれるわけですね。
京都府最南端にあり、隣接する奈良とほぼ同然な当尾も、そんな 「京都の端」 です。
平城京の外郭浄土とされ、平安遷都前より南都仏教の影響を受け続けてきた、遠野ならぬ当尾。
世俗化を厭い、官寺では果たせぬ悟りの境地を求める奈良の僧侶は、こぞってこの地に草庵を結び、
やがて舎利塔が尾根を成すほど並んだことから、 「塔尾」 「当尾」 の名が付いたといいます。
鎌倉期に入ると、東大寺を再興すべく来日した南宋の石工・伊行末らによって多くの石仏も作られ、
現代まで残ったそれらの仏像は、当尾磨崖仏文化財環境保全地区 aka 「当尾の石仏の里」 も形成。
「端」 と呼ぶには、余りにゴージャスな文化遺産を持ち、そして徹底的に奈良な地なわけですね。
そんな当尾、通常ならもちろん仏像ハイキングと行きたいわけですが、近年はあじさいも割と有名。
浄瑠璃寺と並ぶ石仏の宝庫として、阿弥陀如来坐像や普賢菩薩騎象像を持つ岩船寺が、
昭和初期から栽培されてるというあじさいで評判を呼び、名所として京都・奈良で知られてます。
で、そんな 「端」 ならぬ 「端」 の地のあじさいを、今回観に行ってみました。

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まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

2018年5月27日(日)


まいづる細川幽斎田辺城まつりへ行ってきました。もちろん、ひとりで。

京都には、城らしい城が、ありません。全くなくもないですが、あまり、ありません。
二条城淀城跡伏見桃山城。いずれも、城といえば城です。立派に城です。が、何か違う。
二条城は、離宮感が強過ぎて、城に全然見えない。淀城跡は、本当に単なる廃城跡でしかない。
伏見桃山城に至っては、昭和元禄の張りボテ遺産で、現在は入城さえ不可能。お粗末です。
「いやいや、日本各地の城だって、大半は昭和元禄の産物だよ」 とか思われるかも知れませんが、
再建にかけられた想いや、今もなお続く城への想いでは、かなり差があるんじゃないでしょうか。
端的に言うと、京都は城への関心が低いという。偽京都人である私の中でさえ、正直、低いという。
しかし、城を巡る京都のこうした微妙な温度感も、視野を府に拡げると、事情は変わってきます。
亀岡園部の城下町感、福知山のお城まつりに於ける盛況ぶりは、当サイトでもお伝えしてる通り。
そして、京都府のさらに北にあって、福知山と同じように 「城の街」 たり得てるのが、舞鶴でしょう。
舞鶴。日本海に面し、食・名所・産業などのあらゆる面で 「海の京都」 を体現してる街です。
この街に於いて最も高い知名度を誇ってるのは、現在に至るまで活躍し続けてる軍港の、舞鶴港
共に発展した街・東舞鶴も、正に軍都な趣を持ってます。が、これが 「城の街」 なのではありません。
「城の街」 は、反対の西舞鶴の方。 「城の街」 と呼ぶのは、ここが田辺城の城下町だったから。
肥後細川家の礎&御所伝授で知られる細川幽斎が、信長から南丹後を任され建てた城、田辺城。
プレ関ヶ原の籠城戦 「田辺城の戦い」 の舞台となり、別名 「舞鶴城」 は街の名にもなりました。
明治維新であえなく消滅しましたが、昭和初期から再建が始められ、平成には立派な城門も完成
この城門完成の頃より、毎年5月末には 『まいづる細川幽斎田辺城まつり』 も開催されてます。
実に、 「城の街」 です。ので今回、京都と城の関係をより精査すべく、祭りに遠征してみたのです。
城を中心に一体化してる街を見よう、とか思って。城を大事に思う心に触れよう、とか思って。
しかし、現地で見た 「城の街」 の姿や雰囲気は、何か独特のものだったのでした。

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湯の花温泉・すみや亀峰菴でぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

2018年2月27日(火)


湯の花温泉・すみや亀峰菴でぼたん鍋を堪能してきました。もちろん、ひとりで。

湯の花温泉。一般的、というか全国的な知名度は、一体どれくらいあるんでしょうか。
「京都といえば、湯の花温泉」 的な物言いを聞いたことがないので、ちょっと見当がつきません。
一応地元にあたる京都の人間にとっても、ここが馴染みの温泉として認識されてるかは、微妙。
「ほんなら、湯の花温泉行こか」 というような局面、なくはないでしょうが、少ないようにも思います。
『大林浩二のきょうの夜』 のスポンサーとして、松園荘・保津川亭のCMを観ることはありますが、
それ以前に 『大林浩二のきょうの夜』 を観てる人間がどれくらいいるかが、微妙以前にまず、不明。
説明しようとしても、どの辺からどれくらい詳細な説明が必要なのか、判断がつきかねるわけです。
というか、そもそも説明しようと試みてる私自身さえ、ここには左程馴染みがなかったりするわけです。
湯の花温泉、そんな感じの温泉であります。そんな感じとはどんな感じだな温泉であります。
場所は、亀岡佐伯燈籠がある薭田野の西で、 「死なないで」 のR477で大阪へ直結する山間地。
京都から見ると半端に不便ですが、大阪から見ると隠れ家 or 秘境感がある所、なわけですね。
戦国時代の伝承も持ちますが、開発はあくまでも戦後。万博 or バブルの頃が、ピークでしょうか。
その頃の残り香漂う大バコ宿も点在してたりする、不思議といえば不思議な温泉であります。
では、ディープスポット巡りな気分で今回そんな不思議な温泉へ出かけたのかといえば、さにあらず。
亀岡は、丹波の最南端。そこの山間地ということは、丹波でありながらも割と温暖であるということ。
つまり、猪がいるわけです。実際、湯の花温泉の冬は、猪を食らうぼたん鍋が最大の売りなのです。
となれば、温泉入湯を必須とする 『ひとりで温もるぼたん鍋』 で、行かないわけには行きません。
ので今回は、猪と湯をがっつり堪能すべく、湯の花温泉・すみや亀峰菴へ日帰りで行ってみました。
団体がメイン層なのか何なのか、ひとりでぼたん鍋を食える宿が全然ない湯の花温泉ですが、
最もおしゃれな感じに見えるすみや亀峰菴が、何故か日帰りプランをおひとりさま客にも提供中。
値段こそしっかり高価めではありますが、これ幸いと思い、亀岡へと向かったのです。

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節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】 元伊勢神宮内宮・外宮・天岩戸神社

2018年2月3日(土)


節分の日に鬼を求めて出かけた大江山の徘徊、前篇の続きです。

「七つまでは神のうち」 あるいは 「七つ前は神の子」 といった表現が示すように、
子供は、 「境界」 的な存在であるゆえに、その立ち位置が神の領域に近いと考えられてます。
子供と限りませんが、 「童子」 と呼ばれるもまた、しかり。神との共通項は、割と多い存在です。
最大の共通点は、 「おぬ」 ことでしょうか。不可視性によって、その存在が認識されるという。
時を経て人々の意識が変化する中、ビジュアライズ化やノベライズ化やコミカライズ化が進みまくり、
疱瘡患者だの鉱山労働者だの赤ワインが好きな外人だのと、その 「実体」 比定もされてる鬼ですが、
そもそもは 「キ」 違いの 「気」 みたいな存在であり、妖しき気配こそが 「鬼」 と呼称されてたとか。
また神の方は神の方で、顕在化せず常に 「おぬ」 ままかといえば、これも案外、そうでもありません。
というか、鬼が具現化する一方で神は、むしろその 「おぬ」 こと自体を喧宣するようになります。
最初はやんごとなき方々のみ参拝する社だった伊勢神宮が、やがて庶民の信仰に活路を見出し、
近世に至れば旅行代理店の原型・御師によりお蔭参りのムーブメントまで生み出したように。
神への信仰と 「異界」 への恐怖、そして物見遊山の誘惑は、常に近い場所にあるのではないか。
むしろ、 「異界」 への物見遊山欲を駆り立てる場所でこそ、強い信仰は生まれるのではないか。
「鬼の里」 の近くに建つ元伊勢内宮外宮天岩戸神社を巡ってる際に、そんなことを考えてました。
丹後の超古代、いや日本そのものの根源にも到達しかねないロマンを駆り立てる、元伊勢三社。
実際の三社は、そんな妄想を裏切らないシチュエーションを誇ります。が、ある意味、裏切らなさ過ぎ。
何か、見えやすいんですよね。神が見えやすいのではなく、見えないことが見えやすいんですよね。
有体に言うと、雰囲気がバッチリ過ぎるという。余りに、出来過ぎてるように見えてしまうという。
で、そんな神々の裏切らなさ加減が、私には、鬼オブジェと同様の過剰な顕在化に見えたのです。
と同時にその顕在化は、単なる人為でなく、この地の磁力が誘発するものにも見えたのです。
大江山の節分、後篇は、神巡りであります。 「おぬ」 ことを、見つめていきます。

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節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】 鬼瓦公園・日本の鬼の交流博物館

2018年2月3日(土)


節分の大江山へ行ってきました。もちろん、ひとりで。

「異界」 は、それを希求する度合に応じて、物理的な距離を生じさせるものです。
有体に言うと、近過ぎては、いけない。といって、出かけるのが面倒なほど遠過ぎても、いけない。
「家に霊が出る」 とか 「地元で●●●●●を売ったり打ったりしてる」 とかいうのは、やはり困るし、
といって 「1か月かけて登頂した山で、遂にイエティに会えた」 みたいなのは、余りにしんど過ぎる。
ゲスな興味と、適度なお出かけ感。これらを上手く満たす場所こそが、 「異界」 になり得るのでしょう。
ので逆に、交通の発達などで人々の側の意識が変化すると、 「異界」 の適格地もまた移動します。
節分の日に 「異界」 を持ち込み、豆を以て外界へ再び追いやられるもまた、事情は同じです。
「むかし丹波の大江山」 なる歌で、京都のみならず全国的に知られる酒呑童子の棲処、 「鬼の里」 。
この 「鬼の里」 と比定される場所に関し、 「老ノ坂から大江山へシフトした」 という見方があります。
前者は、京都&丹波の境界・大枝にある坂。後者は、その先、丹波&丹後の境界に聳える山。
京都洛中にて鬼の恐怖が薄らぐのに連れ、 「異界」 性を仮託できる場所には距離が必要となり、
徒歩で日帰りも可能な老ノ坂から、遥かに遠い大江山へ 「鬼の里」 が移った、というわけです。
京都中心の、勝手な見方ではあります。が、勝手さを等閑視すれば、しっくり来る見方でもあります。
京都府南部の八幡に生まれ育ち、家庭の事情で幼少期に老ノ坂を日常的に通過してた私にとっても、
老ノ坂は渋滞を生む単にウザい坂であり、大江山こそが 「鬼の里」 を夢想し得る地、となります。
ので、一度は本物の 「鬼の里」 に、出かけてみたい。出来ることなら節分の日に、出かけてみたい。
そして、 「異界」 への興味をゲスく満たしてみたい。そんなお出かけを、私も実は夢想し続けてました。
で、2018年に至り、遂に時間と予算の確保が実現。で、今回、丸一日かけ出かけてみたわけです。
赴いたのは、鬼瓦公園日本の鬼の交流博物館元伊勢三社という、いわば大江山鉄板コース。
「おぬ」 がゆえに鬼が視界へ現前するような逆相の 「異界」 を期待し、雪中を徘徊したのでした。
で、実際の大江山は、そんな期待を不思議な形で受け止める場所だったのです。

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京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2017年12月24日(日)


京町家 『鈴 紫野』 を借り切って過ごす聖夜、後篇です。

GHQ指導に因る財産税法制定まで、京都の町家は大半が借家だったといいます。
借家の大家を務めたのは、大きな商家など。住人の多くは、店子として町家に住んでたわけです。
祇園祭の運営に関する話とかで、よく耳にすることですね。 「店子は祭に参加出来ない」 的な。
そんなある種の階層社会の維持に励むと共に大家は、資産である町家の美観維持にも励んだとか。
資産というか、収入源ですし。こうした辺りからも、昔の町家の美しさは保たれてたそうであります。
が、財産税法制定の後、町家は、課税対象化。やがて大家の多くは、町家の借家維持が、困難化。
結果として、大家が店子に対して住んでる町家の購入を持ち掛けるケースが頻出したそうです。
恐らくは戦後に 「持ち家」 化し、家主により出鱈目な改装が施されたのであろう、昭和の町家の姿。
今なお街のあちこちで 「リアルな京都」 を感じさせてくれる、あの無秩序な看板建築町家の姿は、
実は、社会の激変に因るオーナー変更から生じた一過性の姿、と言い得るものなのかも知れません。
そう考えると、町家はそもそもが、流動性あるいは 「境界」 性を持つ建物とも思えてきます。
「継ぐべきもの」 として屹立し、愛着と共に疲労や悲しみを生むこともままある 「マイホーム」 ではなく、
大家は次の過客を呼び込むべく美観を整え、店子もまた各々の季節に伴って通り過ぎるという、
流動的でゆるやかで、ある種 「境界」 的である居住空間としての町家が、イメージ出来るというか。
いかにもな外観と単に暮らし易い中身を持つリノベ町家宿が、それらの直系とは言いませんが、
少なくとも、昭和後期に大量発生した生活感出し過ぎ改装の町家と同程度には高い一過性を持ち、
また、時代を生きる人々の 「何か」 も同程度に反映されたもの、とは言えるのではないでしょうか。
というわけで、そんな過剰なリノベによって何とも過ごし易い町家宿 『鈴 紫野』 での聖夜、後篇です。
後篇は、完備されたキッチンを駆使して京野菜を調理する晩餐、欠かせないクリスマスケーキ、
夜の精神戦を経て翌朝に不思議な音を耳にするまで、雪だるま君と一緒に一気に突っ走ります。
『鈴』 に相応しいジングルベルの音色は、果たして、鳴り響いてくれるのでしょうか。

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京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2017年12月24日(日)


京町家 『鈴 紫野』 を借り切って聖夜を過ごしました。もちろん、ひとりで。

メリー・クリスマス!! 恒例のクリスマスひとりお泊まり企画、2017年度版でございます。
独への精神的外圧が最高潮となる夜、世間の馬鹿騒ぎへ背を向け独男として投宿することで、
異教宗主生誕を姦淫&浪費で祝う日本のクリスマスを批判し続けてきた、当サイトの聖夜企画。
しかし激戦を重ねる内、クリスマスが内包する太陽祭というルーツから 「境界」 なるテーマが浮上し、
そのテーマを追求すべく、平安京のスピリチュアル・ゲート 「四堺」 を押さえる形へと企画が変容。
で、郊外&僻地の宿ばかり転戦してたら、今度はインバウンド激増で街中の宿泊状況が激変した為、
「四堺」 コンプ後はこの新たな 「境界」 とも対峙すべく、都心へと戦線を回帰させ、市街戦を開始。
前回となる2016年は、正に京都の真ん中である柳馬場三条下ルの簡易宿所・三条右近橘へ泊まり
京都と全然関係ない小津の映画を観たりもしながら、新たな 「境界」 との激戦を繰り広げたのでした。
というわけで、今回2017年度のネタは、その新たな 「境界」 を見据えるシリーズ、第2弾であります。
出向いたのは、京町家 『鈴 紫野』株式会社レアルが運営する、一棟貸しの町家宿です。
そう、町家です。町家宿は2012年聖夜も泊まってるので、いわば町家ネタとしても第2弾であります。
2010年代後半に入っても京都のインバウンド増加は全く止まらず、宿泊施設は圧倒的に不足し始め、
一時的なヤミ民泊の隆盛&衰退に続き、合法の簡易宿所や町家宿が大増殖するようになりました。
特に 「町家に泊まった」 というコト消費&リノベしまくりの利便性を併せ持つ町家宿の勢いは凄く、
町家の保存&簡便な室数確保が両立出来ることもあって、とにかく雨後の筍の如く増えまくってます。
中でも増えてるのが、 『鈴』 『Gest House Rinn』 などのブランドで展開されてる、レアルの町家宿
物件買い取りの為かKBS京都に企業CMも打ってたので、地元の知名度もあるんじゃないでしょうか。
で、その 『鈴』 群の中で、2017年12月24日に一番安く予約出来たのが、今回泊まった 『鈴 紫野』 。
名が示す通り、 西陣の端とも言える紫野の、極めて庶民的な街の中に立地する宿であります。
そんな 『鈴』 、2012年以来の雪だるま君と共に、ジングルベルな気分で借りてみました。

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永楽屋本店・喫茶室で、栗ぜんざいと和の芋栗パフェを食べました。もちろん、ひとりで。

2017年11月9日(木)


永楽屋本店・喫茶室で、栗ぜんざいと和の芋栗パフェを食べました。もちろん、ひとりで。

ニュースとかで 「京都で最も地価が高い所」 と出てくるのは、概ね、四条河原町です。
実際、華やかな店が並び阪急の地下ターミナルもあり、文字通り繁華街である、四条河原町
のみならず、祇園祭・山鉾巡行の辻回しコーナーとしてもその存在を誇ってきた、四条河原町。
おけいはんの民たる私にとっても、電車を降りて最初に 「街」 を体感するのは間違いなくここですし、
一般的な都市と比べたら大したことがないとはいえ、当然ながらビルもバカスカと建ってます。
ではこの四条河原町、地価を反映して高層ビルだらけの所かといえば、案外、そうでもありません。
低層な建物の店も、割と残ってます。小じんまりとした和菓子店が、妙に目についたりします。
もちろん、周囲がビルだらけだからこそ、この低層&和菓子は目立つというだけな話なんですが、
しかし、街中でこうした景観を目にして、ある種の癒やし or ほっこり感を感じてる人は、多いでしょう。
そんな和菓子屋の店先に、季節の甘味の看板でも出てたら、誰もが立ち寄りたくなるものです。
で、こうしたほっこり感、この界隈でより強く放ってるのが、永楽屋本店ではないでしょうか。
四条河原町交差点を少し北上した東側にあり、 「京のあまからや」 として親しまれる、永楽屋。
綽名が示す通り、佃煮 「一と口椎茸」 と和菓子 「琥珀」 を名物とする、両刀 or 両党な店であります。
その建物は、ビルの真隣にありながら、和風2階建て。で、2階には、甘味に絞った喫茶室もあり。
で、その喫茶室は11月になると、秋冬季限定メニューとして栗ぜんざいを出し始めるんですよ。
栗の形らしき可愛い陶器の中に、ほくほくの栗餡が入り、その中で小餅が浮いている、栗ぜんざい。
秋口にその看板を見る度、私は強いほっこり感を覚え、そして食いたいと思ってたんですよね。
なので今回、その栗ぜんざいを食べに行ってみました。で、ついでに、芋栗パフェも食べてみました。
さらについでに、秋の四条河原町を散策し、全然ほっこりしてない雰囲気も堪能してみました。
さらにさらについでに、栗に因んで、栗色 = マルーンが売りの阪急地下も、うろついてみました。
風情があるようなないような、ないようなあるような、 「街」 の秋を感じてみて下さい。

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五山送り火の船形万燈籠を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年8月16日(水)


五山送り火の船形万燈籠を拝みに行って来ました。もちろん、ひとりで。

『京都人は日本一薄情か 落第小僧の京都案内 (倉部きよたか・著) 』 という、
死ぬほどしょうもない書名の割に案外面白い本では、 「賀茂人」 なる概念が提示されてます。
賀茂族」 ではなく、 「賀茂人」 。 「上京人」 「下京人」 と共に 「三京人」 を構成する、 「賀茂人」 。
上賀茂から西賀茂にかけての洛北・賀茂エリアに住むネイティブな人を、そう呼ぶというわけですね。
この賀茂の地はそもそも、上賀茂神社神領として平安遷都の以前から賀茂族が統べていた地。
中世以降は色々ごちゃごちゃしますが、とにかく上京や下京とは異なる歴史的経緯を持つエリアです。
で、倉部氏が同書で言うには、こうした経緯が 「賀茂人」 の気風を独特なものにしてるんだとか。
「適当な思いつき」 と、思われるかも知れません。が、私には、結構当たってる所もあると思えます。
賀茂、特に御薗橋以西の西賀茂の雰囲気は、確かに京都のどのエリアとも違い、何か独特です。
長閑な田畑が残る辺と、ゆえに開発が進んだ宅地の景観が入り混じる辺は、いかにも郊外的ですが、
そこに、他の京郊にはない雰囲気、何かしらどよ~んとした雰囲気が、立ち込めてるというか。
京郊にして元神領の八幡に住む私は、その辺に、強い親近感と違和感を同時に感じたりするのです。
で、船形を拝みに行ったこの日の西賀茂もやはり、何とも独特な雰囲気が立ち込めてたのでした。
自転車珍走などの阿呆な手段で幾度も五山のコンプリートへ挑むも、それらの全てが失敗に終わり
猛省の後に 「5年かけて、1年に一山ずつ見る」 と発動された、当サイトの五山送り火5ヵ年計画
初年度の2015年はまず本丸である大文字を、2016年は超豪雨の中で妙法を拝んできたわけですが、
3年目の今回訪れたのは、西賀茂・西方寺の檀家さんが点火を担うという、船形万燈籠であります。
西方寺を開いた慈覚大師・円仁が、留学先・唐からの帰国時に阿弥陀如来を召喚した船を表すとも、
精霊 aka おしょらいさんが現世からあの世へ帰る際に乗る燈籠流しの舟を表すともされる、船形。
西方寺での六斎念仏と、そして 「賀茂人」 が愛するサカイの冷麺と共に拝んだその送り火は、
やはり西賀茂独特の雰囲気と温度感の中で、独特な輝きを放ってたのでした。

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割烹たん義で、はも丼と鴨万寿を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2017年7月6日(木)


割烹たん義で、はも丼と鴨万寿を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

『ひとりでうろつく京都』 の夏の企画 『ひとりで食べる鱧』 、めでたく復活です。
京都ベタスポットへの特攻をサイトの趣旨とするなら、ベタグルメもまた取り組むべきだと考え、
サイト開設当初は、身銭を切った積極的かつ果敢な特攻を繰り広げていた、 『ひとりで食べる鱧』 。
しかし、いくらその意図が崇高であっても、鱧を食うにはやはりそれなりに元手が掛かるのであり、
それを見越してリーズナブルな店・時期・時間を狙っても、それでもやはりそれなりに掛かるのであり、
開始早々に予算爆発で撤退を決定し、以後は川床特攻などの際に嗜む程度となってたのでした。
いや、何というか、鱧ネタといえども正直に言えば、単発の出費自体は、それほど痛くはありません。
「5000円」 と枠も設定してたし。当サイトには、宿泊や鍋など、より身銭を切るネタもありますし。
ただ、鱧ネタみたいに 「美味いもんを食う」 ことに特化したネタって、食の連鎖反応を生むんですよね。
ネタ採取の時以外でも、高価くて美味いものを思わず連鎖的に食いたくなってしまうんですよね。
我慢も出来なくはないですが、我慢したらしたで、何か凄く、淋しい気持ちになってしまうんですよね。
見てる側からすると 「知るか」 という話ですが、こういう事情もあり、鱧ネタを長く日和ってました。
しかし、やはりこれでは、いけない。サイトの趣旨的に、いけない。何より、アクセス数的に、いけない。
というわけで 『ひとりで食べる鱧』 、復活です。しばらく、連続的にやる予定です。よろしくです。
ただ、もちろん予算の方は依然として緊縮財政が続いてるので、以前の 「5000円」 枠を更に、緊縮。
「3000円プラマイ500円」 程度で、何とか鱧に辿り着き、そして京都の夏を味わおうかと思います。
で、今回赴いたのは、祇園北の割烹たん義です。祇園とは、あの祇園です。割烹とは、あの割烹です。
巽橋を始め祇園なる風情がこれでもかと溢れまくる祇園新橋、そのすぐ北にあるのが、たん義。
そんな店行ったら、3000円どころかその十倍以上掛かりそうな気がしますが、これが違うんですよ。
こちらのお店、夏の昼間は、鱧をたっぷり載せたはも丼を2000円台で出してくれるんですよね。
なので、出掛けてみました。で、名物という鴨万寿も一緒に、食べてみました。

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イカリヤ食堂で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

2017年5月19日(金)


イカリヤ食堂で、昼床を楽しんできました。もちろん、ひとりで。

洛中洛外図・舟木本には、今まさに五条大橋を潜ろうとする川船が描かれています。
花見帰りらしき乱痴気集団が、踊り狂いながら橋を渡るその下を、薪を満載して進む、高瀬船。
当時の民衆の姿により焦点を合わせたと考えられている舟木本の、ハイライトとも言える描写です。
大仏殿再建の為に角倉了以鴨川疏通を行ったのは、この絵の製作期と推定される慶長期なので、
こういった光景は、時事トピック的な表現の格好のネタとして認識されていたのかも知れません。
もちろん、鴨川は白河帝も手を焼く暴れ川ゆえ、疏通で設置された河川施設をあっという間に粉砕。
了以はすぐ、より安全で確実に運行出来る運河・高瀬川の開削を、鴨川の真横にて開始します。
で、開削後の安全&確実な高瀬川が、京阪間交易の最重要ルートとなったのは、周知の通りです。
では、 「鴨川を川船が行き交う」 という舟木本の光景は、慶長期にのみ見られたものなのでしょうか。
そんなことも、ないでしょう。暴れ川も、暴れてなければ便利な川。船が通ることも、あったでしょう。
夏になれば、 「川床の前を川船が進む」 みたいな風雅な光景も、生じなかったとは限りません。
「春の陽気に誘われた民が、船を眺めながら河原で飲食」 なんてことも、なかったとは限りません。
河川交通によって都市が機能していた時代の京都とは、即ち、真に 「都」 であった時代の京都。
真の 「都」 としての京都について考えるなら、より立体的かつ体感的に 「都」 について考えるなら、
船に纏わるこうした風雅へ想いを巡らせることもまた、アプローチとして有効なのではないでしょうか。
そう考えた私は今回、この風雅を主として舌で体感すべく、イカリヤ食堂の床へ出かけてみました。
イカリヤ食堂。鴨川西岸の下木屋町エリアにあって、錨をシンボルとする川床付きの洋食店です。
出来た頃は確か夜営業しかやってなかったと思いますが、近年は昼床シーズンにランチ床を展開。
で、そのランチ床へ忍び込み、初夏の光に輝く鴨川を眺めながらスペシャルコースを食いまくり、
錨のロゴを見たりもしながら、錨があったかどうかは不明の川船へ想いを巡らせてみたのであります。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。 「都」 の風雅を体感的に捉え直す為の挑戦なのです。
決して、椅子席床の記事に客がよく来るので、ダメ押しで洋食店へ行ったのでは、ありません。
断じて、そもそも美味い店なので、単に美味いもんを食いに行ったわけでも、ありません。

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亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

2017年4月14日(金)


亀岡の七谷川へ桜を観に行って来ました。もちろん、ひとりで。

桜の名所は、かつて荒れ狂った川の堤防であることが多かったりします。
堤防の強度の維持にとって、桜の植樹が良いことなのかどうかは、私にはよくわかりませんが、
とにかく日本全国で見られる光景であり、京都では府下の桜の名所でよく見られるものです。
当サイトでも訪れた井手の玉川とか、我がホームたる八幡の背割堤とかは、正にその典型でしょう。
井手も八幡も共に、ひとたび洪水が起これば一帯が死の湖と化す、京都ディープサウスの街。
「死」 を孕む花である桜は、あるいは 「死」 に近い場所でこそ、狂い咲くものなのかも知れません。
いや無論、荒れ川の前科を持つ桜の名所は、サウスのみならず京都市&北部の府域にも多し。
「かつて保津峡を栓とする湖だった」 という神話を持つ口丹・亀岡にも、桜が咲き狂う川があります。
大堰川 aka 保津川 aka 桂川のことでは、ありません。その東を流れる、七谷川という川です。

七谷川ノ源ハ地蔵山ヲ発シ流程十三粁桂川ニ注グ流域荒廃洪水ノ際流出スル土砂ニヨリ被害甚大
ナルタメ治水ノ根本策トシテ砂防大堰堤建設ノ議起リ時ノ村長島津庫太氏関係者ヲ代表シ当局ニ
陳情昭和十六年国庫補助府直営工事トシテ起工一部施行セラレタルモ偶戦争苛烈トナリ工事中止
トナル戦後時局安定セルニヨリ村長広瀬富之助氏ガ復活ヲ強ク要望二十三年ヨリ継続施工セラレ
二十六年三月完成ヲ見ルニ至ル
( 「七谷川統水堰堤碑文」 『ふるさと千歳』 より)

愛宕山系の水を宿す七谷川は、亀岡盆地東山麓から千歳町を西へ流れ、大堰川へ入る川。
本流・臼木谷・桃原谷・馬路山谷・野々熊谷・畑谷・上谷が合流することから、その名が付いたとか。
名前だけ聞くと、虹でも架かりそうな優美な印象の川ですが、実際は古代より氾濫を起こしまくり。
上で引いた 「七谷川統水堰堤碑文」 が記すように、近現代に入ってようやく、治水が為されました。
昭和3年には、御大典記念として100本の桜を植樹。昭和48年にも、追加で100本をまた植樹。
昭和57年に入ると、沿岸に七谷川野外活動センターが創設されるのと共に、またまた500本を植樹。
これらの樹々が順調に育ちまくったことで、現在の七谷川は春が来る度、桜の一大名所化。
前科を反省してるのか、あるいは 「死」 に感応してるのか、物凄い狂い咲きぶりを見せてます。
そんな七谷川の桜、玉川や背割堤と同様に、浴びるが如く観て来ました。

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中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

2016年10月21日(金)


中村軒で、栗を食べまくってきました。もちろん、ひとりで。

稲作が伝来する以前の縄文時代、日本人は、を主食として食ってたそうです。
収穫が比較的容易な場所に生え、イガを除けば採集も比較的容易な形で落ちてくれる、栗。
生で食え、火を通せば抜群に美味く、粉にすれば調理の幅も拡がり、更には保存も出来る、栗。
最大の魅力たる甘味が弱味になる可能性こそありますが、主食たる条件は充分にクリアしており、
ゆえに縄文期の遺跡からは人工的な栽培の痕跡さえ見つかってしまう、 「樹穀」 なわけであります。
この栗食の記憶、実は、現代人にも継承されてるんだとか。無意識の底で、息づいてるんだとか。
栗食の潜在記憶が、トロイの木馬の如く発動する為、我々は秋になると、栗を食いたくなるんだとか。
与太な話、と思われるでしょうか。しかし私は、何かしら納得出来るものを、感じなくもありません。
確かに栗は、妙です。特に現在の主食・米との関係性に於いて、他の果物と比べ圧倒的に、妙です。
この世に数多ある果物の中で、栗だけがほぼ唯一、米飯に対するがっつりとした侵入に成功し、
「栗ごはん」 or 「栗赤飯」 として、晩飯のメニューにも登板が可能な認知度を誇ってるという、謎。
同じ秋の果物仲間でありながら、梨ごはんも、柿ごはんも、葡萄ごはんも、そして蜜柑ごはんも、
決して到達することが出来ないマジョリティの地平に、栗ごはんだけが立っているという、謎。
豆を無理にでも果物扱いしない限り、栗が誇るこのぶっちぎりの独走状態は、説明がつきません。
栗には、何かがあるのではないか。今は 「果物」 のふりをしてるが、何かがあるのではないか。
何なら、 「御厨」 の読み仮名が示す様に日本の食の根幹にさえ繋がった、何かがあるのではないか。
日本人と食の問題を真摯に考え続けてきた当サイトとしては、この問題を看過出来ないと判断し、
米を依代とする手法を用いて栗の神秘にアプローチしようと考え、今回、桂の中村軒へ出かけました。
中村軒世界の名勝・桂離宮の畔にあって、かつら饅頭&麦代餅が名代として知られる名店です。
餅そのものの美味さで知られる中村軒ですが、秋になれば栗ぜんざいなど栗アイテムも多数、登場。
で、これら栗と餅の合体メニューを食いまくることで、 「主食の国譲り」 の謎へ迫ったのであります。
そう、これはあくまでも、新たなる挑戦なのです。当サイトが当サイトである為の、挑戦なのです。
断じて、秋になると栗記事2本のアクセス数が不穏なまでに良いので、3本目の泥鰌を狙い、
また同時に、秋口の餅の美味さも堪能しようと思って出かけたのは、ありません。

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夏越祓の茅の輪を求めて乙訓をうろつきました。もちろん、ひとりで。

2016年6月30日(木)


夏越祓の茅の輪を求めて乙訓をうろつきました。もちろん、ひとりで。

茅の輪、よくよく考えてみると、いや考えてみるまでもなく、用意って大変なんですよね。
第一に、お金がかかるし。自分達で作っても、手間はかかるし、それにやっぱりお金もかかるし。
用意されてる神社は、費用と労力の調達に際して、しんどい思いをされてるかも知れないわけです。
そして、用意されない神社もまた、それはそれでしんどい思いをされてるかも知れないわけです。
なので、その辺の事情を考慮も配慮もしない奴が、夏越の恒例企画とか言ってあちこちの社を徘徊し、
茅の輪があったとかなかったとか書き散らすのは、あまり感心できる行いとは言えないでしょう。
のみならず、何なら 「あまり紹介できない小社をめぐる、良い機会」 などと思い上がった考えを抱き、
ある種の使命感さえ持ちながら徘徊を継続するに至っては、欺瞞極まる行為と断じるを得ません。
それでは、人の苦労を掠め取って娯楽化することに励む、消費者ボケの愚民と同じではないか。
娯楽化した挙句、 「楽しませてくれてありがとう」 などと捨て台詞を吐く、享楽乞食と同じではないか。
もっと、身を削らねばならない。この愚行を続けるのなら、せめてもっと、身を削らねばならない。
「参加型」 といった捏造された当事者性ではなく、身を削って 「他者」 としての真の当事者性を獲得し、
真の 「めぐりびと」 たる身体を以て、別の 「他者」 の祭祀に於ける祓いに望まねばならない。
その当事者性は、例えばそう、修行の如きプチ登山も交えたハードな方法で獲得すべきではないか。
それが、不埒なる 「めぐりびと」 が祓いに際して払うべき、最低限の礼儀というものではないか。
私は、そう考えました。そして、2016年の茅の輪くぐりまくりを、乙訓エリアにて行うことに、決めました。
乙訓。京都府の南西部にあって、 「おとくに」 という、中々な難読度を誇る名前の地であります。
その高難読度な地名が示す通り、このエリアは京都・山背のすぐ隣に立地する 「弟国」 として栄え、
プレ平安京たる長岡京を始めとして、やはりプレ平安まで遡るルーツを持つ寺社や旧跡も多数存在。
中世以後も、山崎の合戦に於ける 「天下分け目の天王山」 など、多くの名所を生んでる地です。
で、今回の茅の輪めぐりは、その乙訓にてまずは天王山の山越えを決行し、その先へ進む形で敢行。
めぐりの原罪を殺ぐべく、己の足・背筋・山師根性を削りながら、全行程を徒歩でやり抜きました。
そう、これはあくまでも新たな挑戦なのです。当サイトが当サイトである為に必要な、挑戦なのです。
決して、行先のネタが尽き、地元・八幡の川向・山崎から適当に歩き始めたのでは、ありません。
断じて、適当に山も登ったら地獄を食らい、その地獄を正当化してるのでも、ありません。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【後篇】

2016年5月18日(水)


御霊祭の5年連続追尾シャッフル記事、前篇の続きでございます。

御霊祭を見てて毎年感じていたのは、アーシーな祭だな、ということです。
怨霊化こそしてるものの皇族を祭神とし、京都御所からは氏神として崇敬された、御霊神社
その御霊神社の大祭であり、祇園祭など御霊会形式の祭祀のプロトタイプとも目される、御霊祭。
神幸エリアも正に都の中心たる上京がその大半であり、果ては御所でも神輿を差し上げまくり。
そんなロイヤルかつ都会的な祭に、アーシーさを感じるというのは、何だかお門違いとも思えます。
が、アーシーなんですよ。氏神祭的に、アーシーなんですよ。で、その感じが、独特なんですよ。
確かに御霊神社は、殺した弟の怨霊に苦しむ桓武帝により創建されたというロイヤルな伝承も持ち、
怨霊を防衛する都市 = 怨霊を恐怖する都市である平安京に、極めてマッチした社ではあります。
が、同時にこの社は、平安遷都以前より存在した出雲寺の鎮守という見方もあるらしいんですよね。
出雲寺は、出雲郷という所にあった寺。出雲郷は、現在の出雲路の辺 = 御霊神社の氏子圏内。
出雲郷では、その名が示す通り出雲国より移住してきた出雲氏が 「出雲臣」 としてエリアを形成し、
氏寺として出雲寺を、氏神としてその鎮守たる御霊神社の前身の社を、それぞれ祀ってたんだとか。
御霊神社の境内では、平安期の時点でもう荒廃した出雲寺の瓦が、出土したりするようですよ。
いや無論、だからといって 「この祭のOSは千年の時を越えた出雲郷だ」 と言うのは無理過ぎますし、
また御霊神社は現在でも実際に氏神である為、氏神祭の雰囲気が出るのは全く当然の話です。
が、あちこちの祭を追尾した私の目には、御霊祭のアーシーさは、確実に独特なものに見えます。
街の祭の感じとしてアーシーな、あの感じ。やっぱり、出雲郷と何か、関係があるんでしょうか。
本多健一 『中近世京都の祭礼と空間構造』 では、御霊会を起源に持つ主要祭礼の中で御霊祭が、
「唯一官祭的性格を持たなかった祭礼」 としていますが、その辺も何か、関係あるんでしょうか。
というわけで、そんな独特のアーシーさの伝達を主軸にシャッフル構成とした今回の御霊祭記事、
後篇は、ロイヤルにしてアーシーな差し上げ@御所から宮入までを、御覧いただきましょう。
「だからちゃんとルート教えろ」 という方は、やっぱり自力で調べて下さい。

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御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。 【前篇】

2016年5月18日(水)


上御霊神社の御霊祭へ5年連続で行ってきました。もちろん、ひとりで。

当サイトは、取材した全てのネタを、記事化してるわけではありません。
写真もメモもあるけど、記事にしてない。そんなケースが、全取材数の2割はあるでしょうか。
写真が今イチだとか、作る時間がないだとか、様々な理由でまあ、ペンディングしてるわけですね。
中には、 「毎年のように追尾していながら、今もって未記事化」 なんて祭も、なくはありません。
そのひとつが、御霊祭だったりします。それも、未記事化のまま、実に5年連続で追尾してたりします。
御霊祭。その名の通り、御霊神社の祭です。上と下がある御霊神社の内、上御霊神社の祭です。
最初にこの祭を追いかけたのは、2012年でした。で、上京を進む神幸列に、強い感銘を受けました。
また今出川口・小山郷・末廣会の神輿3基にも、強い感銘を受けました。が、写真が今イチでした。
なので、翌2013年も追尾しました。すると、神幸列も神輿も、前年とは全く違うルートを巡幸しました。
街中を進むあの感じを再び見たいと思い、2014年も追尾すると、巡幸ルートはまた全く別でした。
「なるほど、神輿が3基あるから氏子域も3つ存在し、ゆえに巡幸ルートもまた3通りあるのだ」 と考え、
ゆえに2015年は2012年と同ルートと踏み、四度追尾に挑むと、ルートはまたまた全く違いました。
で、2016年にはもう逆に、新ルートを楽しみに追尾へ出かけたら、今度は2012年と同じルートでした。
で、ああ4年周期かと納得し、ある程度の概観を得たとも考えて、今回の記事化に至ったわけです。
これだけ御霊祭の追尾を続けたのは、祭が持つ独特の雰囲気が一番の理由ではありますが、
5月18日に固定された開催日程と、巡幸範囲の手頃なサイジングもまた、理由の一部ではあります。
日程が固定だと、平日開催の年が当然多く、時間の都合がつかずに見落としが出るんですよね。
あと巡幸範囲は、かなり広いものの基本は街中であり、無理をすれば完全追尾も可能なんですよね。
そんなこんなで、追尾を5年もやってしまいました。で、記録も山のように溜まってしまいました。
というわけで当記事は、山のように溜まったその記録をフル活用すべく、時空を超えてシャッフルし、
ルートに拘らず、祭の大体の流れ+独特の空気感を伝えることを主軸に、まとめてみました。
「空気感とかいいから、ルート教えろ」 という方は、自力で調べて下さい。

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